≡☆ 善福寺公園から妙正寺公園界隈のお散歩 ☆≡
前回のお散歩では善福寺川緑地から和田堀公園界隈を歩いてみましたが、今回のお散歩では善福寺川の源流・善福寺池のある善福寺公園から妙正寺川の源流となる妙正寺公園( 妙正寺池 )周辺を歩いてみたの。掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。
善福寺公園〜井草八幡宮〜観泉寺〜妙正寺〜妙正寺公園
1. 善福寺BS
ぜんぷくじばすてい
10:08着発
Map : 杉並区善福寺3-2
善福寺BS
善福寺川の名称由来となっている寺院の善福寺が善福寺公園の近くにあると云うので、今回の散策では最初にその善福寺を訪ねてみることにしたの。そのアプローチですが、西武新宿線の上井草駅や上石神井駅辺りから歩いても良かったのですが、道が不案内なこともあり、今回はJR荻窪駅からバスを利用してみたの。追体験される際には、荻窪駅北口にある関東バス0番乗場からの荻32・武蔵関行 or 荻34・北裏行にご乗車下さいね。道路の混み具合にも依りますが、乗車時間10分ほどで到着よ。
2. 江戸向き地蔵
えどむきじぞう
10:09着 10:10発
Map : 杉並区善福寺4-1-1
3. 善福寺
ぜんぷくじ
10:14着 10:21発
Map : 杉並区善福寺4-3-6
子育地蔵
双体道祖神
シラー
シラー
- ・子育地蔵
- 境内の左手には大小4体のお地蔵さまが並び立ちますが、気になったのがこちらのお地蔵さまで、幼児を抱きかかえているところからすると子育地蔵みたいね。とても優しい表情をしているの。
- ・双体道祖神
- 替わって境内右手の植え込みの中に双体道祖神を見つけたの。長野県の安曇野辺りではよく見掛ける双体道祖神ですが、都内では珍しいわよね。年代的にはそう古くはなさそうだけど、ここに祀られるようになった背景が気になるわね。
- ・シラー
- 境内の一角でシラーが艶やかな青紫色の花を咲かせていましたが、同じシラーでもこれはシラー・ペルビアナ Scilla Peruviana と云う種類みたいね。
拝観を終えて善福寺の本堂左手に続く外塀を車道伝いに辿ると、今にも倒壊しそうな木造の小堂に御覧の石塔二基が祀られていたの。善福寺の敷地に申し訳程度の地を得て佇む風情にあるのですが、整備された善福寺の伽藍に比べると余りにも貧弱で、ちょっと違和感を覚えてしまうわね。
愛宕大権現( 将軍地蔵 )と勢至菩薩−だと思うの。
延享2年(1745)の銘を持ち、「 奉造立愛宕大権現 武яス摩郡遅野井村善福寺十二人 念佛講中 新甼十二人 」と刻まれているの。
元文5年(1740)の造立で、「 奉造立廿三夜 浄本地 武яス摩郡遅野井村 念佛講中 善福寺 」と刻まれているの。
それはさておき、最初に目にした際には二基とも青面金剛を陽刻した庚申塔かしらと思ったのですが、よく見ると左手の石像には「 奉造立愛宕大権現・・・将軍地蔵菩薩 」とあり、右手の石仏には「 奉造立廿三夜 」の文字が刻まれることから彫られているのは二十三夜講の主尊・勢至菩薩じゃないかしら。因みに、将軍地蔵は愛宕権現の本地仏ともされることから、当地域でも一時期愛宕修験が隆盛したことが窺えるの。石仏には新しい花が手向けられているところからすると、近在の方が今でも大切に守り続けていらっしゃるようね。
4. 大和市神社
おおわしじんじゃ
10:24着 10:27発
Map : 杉並区善福寺4-14-2
事件は、実際には人間に危害を加えることがなくとも、自分達の生活圏に強い捕食動物が存在することを許さない人間の性がなせる業ね。少し感傷的になってしまいましたが、考えようによっては、この大和市神社は撃たれた大鷲の鎮魂のためのお社と云えなくもないわね。
散弾銃で撃たれたと云うことは、村の中に散弾銃を持つ人がいたと云うことよね。
普段はその散弾銃で何の狩をしていたのかしら。
散弾銃にも色々あるみたいだけど。
5. 善福寺公園
ぜんぷくじこうえん
10:30着 11:28発
Map : 杉並区善福寺3-9-10
離れて見ると、確かに滝のように見えるわね。
〔 遅野井の由来 〕この滝は往時の湧水の湧き出し口・遅野井を滝の形で復元したものであるが、遅野井については、次のような伝説がある。その昔、源頼朝が奥州征伐のため、この地に軍を率いて宿った。氏神八幡宮に誓願し無事征討を終え、この地に戻った際、折からの旱魃で軍勢は渇きに苦しんだ。頼朝は弁財天に祈り、自ら弓で地面を七ヶ所掘った。軍勢は渇きのあまり水が湧き出るのが遅い、遅の井と云った。その時、忽然として七ヶ所に水が湧き出し、軍勢は渇きを癒やした。その後江の島弁財天をこの地に勧請して善福寺弁財天を創建したと云う。
「 遅野井湧水の碑 」とあるけど、実際には善福寺風致協会の活動終了記念碑になるの。
復元された遅野井の隣に立てられていたのが「 遅野井湧水の碑 」で、背面には文字がびっしりと刻まれていたので、遅野井の由来が丁寧に案内されているのかしら−と思いきや、善福寺風致協会の設立&活動経過と併せて、解散に至った経緯が記されていたの。時代の流れとは云え、今目にする景観も善福寺風致協会のそれまでの活動があればこそのものだと知ったの。碑文に目を留める方も無く、皆素通りされていきますが、折角ですのでその全文を引いておきましたので、お読み頂ける方は こちら を御参照下さいね。
市杵嶋姫命( 弁才天 )が祀られているの。
その「 遅野井湧水の碑 」と対面してあるのが市杵嶋神社で、現在は説明にもあるように市杵嶋姫命( いちきしまひめのみこと )が祭神とされますが、それは明治期の神仏分離令を受けて変身(!)させられてからのもので、元々は弁才天が祀られていたの。弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。saras は水を指し、sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。河の流れの妙なる水音は人々を心豊かにすることから福徳を齎す女神となり、穀物の豊作を齎す豊穣の女神ともなるの。
善福寺池( 上池 )
やがてそのサラスバティーが同じ女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、河のせせらぎが弁舌にも繋がるの。そのサラスバティーが仏教に取り入れられて弁才天となり、そこでは川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。と云うことで、弁才天は元々は水の神さま、雨乞いではその霊験が大いに期待されたというわけね。
〔 市杵嶋神社 〕この島に鎮座する社は、市杵嶋神社と云い、祭神は市杵嶋姫命です。当社は江戸時代、善福寺池の弁才天と云われ、【新編武蔵風土記稿】には「 池の南に弁天の祠あり 一尺( 約30cm )四方にて南に向ふ 本尊は石の坐像にて 長八寸( 約24cm )許り」とあります。また、寛永年間(1624-1644)には、それまで祀られていた右手奥の島から現在地へ移されたと云われ、それ以降、その島を「 元弁天 」と云うようになりました。【善福弁才天略縁起】に依れば、この地域の旧名「 遅の井 」の地名譚( 源頼朝が奥州征伐の途時、この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所を穿ちましたが水の出が遅く、弁才天を祈り、やっと水を得た )に倣い、建久8年(1197)に江ノ島弁才天を勧請したのが当社の始まりとあります。このことから甘水に霊験ありとして、旱魃の折には、区内はもとより、練馬・中野の村々からも雨乞い祈願に参りました。雨乞い行事は、池水を入れた青竹の筒二本を竹竿につるして担ぎ、その後に村人達が菅笠を被り、太鼓をたたいて「 ホーホィ、ナンボェ/\ 」と唱えながら村境を巡りました。また、氏神の前に井戸水と池水をはった四斗樽4個を据え、四方に散水しながら祈ったとも云われています。このように、旱魃の年毎に行われてきた雨乞いの行事も、昭和24年(1949)を最後に見られなくなりました。例祭日は4月8日です。平成22年(2010)3月 杉並区教育委員会
上池の畔を歩いていたときに、周囲の木々に護られるようにして立つ銅像に目が留まったの。それがこの内田秀五郎翁像で、杉並発展の礎を築いた郷土の偉人であることを知ったの。先程紹介した「 遅野井湧水の碑 」でも、功労者として内田秀五郎翁の名が挙げられていましたが、翁は明治40年(1907)30歳にして日本最年少首長の井荻村村長となると、村内を走る道路の改修や財政の確立に奔走したの。その道路改修は後の土地区画整理事業へと発展していくのですが、翁は道路のみならず水道や電気などのインフラ整備も進め、銀行の設立や工場、更には学校や駅舎の誘致までをも進めているの。云うなれば杉並版渋沢栄一と云ったところかしら。今は銅像となって池面を見やる翁ですが、視線の先には何が見えているのかしらね。
内田秀五郎翁像が立つ場所から少し手前になりますが、東京都水道局杉並浄水所の取水井をフェンス越しに見ることができるので忘れずにね。残念ながら現在は取水を停止しているみたいだけど、この辺りでは豊富な地下水に恵まれ、その地下水を上水道として利用していたの。荒川や江戸川、多摩川などの河川から取水している他区に比べ、杉並区の人達はおいしい水を飲んでいたという訳ね。気になるのが取水停止の理由ですが、宅地開発などの影響から水脈が弱まってしまったのかしら、それとも・・・
どこに鳥が隠れていてもおかしくはないシチュエーションよね。
水面を埋め尽くすようにしてスイレンが咲き乱れていたの。
替わってこちらは下池の景観ですが、ヨシなどの植物が群生していて沼池の装いね。畔には大きなレンズを水面に向ける方も多く、バードウォッチャーには人気のスポットとなっているみたいね。水辺の宝石と呼ばれるカワセミも見ることができるようよ。残念ながらスズメとカラス位しか識別が出来ないξ^_^ξですので、気になる方は現地に掲示される案内板を御確認下さいね。園内で見ることが出来る野鳥が一覧されています。
訪ねたときにはその下池でスイレンが咲き乱れていたの。
カワセミが清流の女王なら、さしずめこちらのスイレンは善福寺池の女王と云ったところかしら。
下池を上池側に向かい返り見たところよ。
左掲は下池を上池側に向かい返り見たところですが、画面右手方向に堰が設けられていて、そこから池の水が流れ落ちているの。それが善福寺川の源流になるの。説明には「 善福寺池が善福寺川の水源となっています。嘗ては所々で湧水が見られるなど、満々とした清水を湛えていました。しかし、昭和30年代に入ると武蔵野台地は各所で井戸水が枯渇し、善福寺池も地下水の湧出が止まるなど、水源として十分な機能を果たせない時期もありました。現在は地下水のポンプアップや千川上水からの導水により、平常時の水量が確保されています 」とありましたが、豊かに見える水の流れも、それなりのコストが掛けられていると云うことね。かといってこの環境を維持するためには今更止めるわけにもいかず・・・
6. 浅間神社
せんげんじんじゃ
11:36着 11:38発
Map : 杉並区善福寺3-1-17
説明にある「 (を)講 」の(を)ですが、実際は丸い円の中に「 を 」が入っているの。
表示不能ですので、代替文字で御容赦下さいね。
富士塚は、その名の如く、富士山を模したもので、富士山を霊地として崇める富士信仰に由来するの。キリスト教やユダヤ教のエルサレム巡礼ではないけれど、実際の富士登山が本来の姿なのですが、健康上の理由や経済的な事由などで誰もが簡単に出来る訳ではないわよね。そこで代理登山や、富士塚に代参することで信仰の証としたの。勿論、実際に登山する場合もあり、富士塚に建てられた石碑には富士山詣を記念して献納されたものも多くあるの。その富士信仰の総本山が富士山本宮浅間大社( 静岡県富士宮市 )で、御神体は云うまでもなく富士山よね。
7. 井草八幡宮
いぐさはちまんぐう
11:40着 12:00発
Map : 杉並区善福寺1-33-1
仁王尊ならぬ櫛磐間戸神( くしいわまどのかみ )と豊磐間戸神( とよいわまどのかみ )が祀られるの。
因みに【風土記稿】多摩郡野方領・上井草村の条には「 八幡社 青梅街道の南にあり 本社は五間四方 拜殿五間に二間半南向 鳥居二基をたつ 本地彌陀の坐像長七寸なるを安す 社領御朱印6石を附せらる 別當は勝鬼山金胎寺林光坊と云 本山派の修驗にて同郡府中宿門善坊の配下なり 鎭守年代詳ならず 當村及井草村の鎭守 例祭8月15日 」とあるの。当時は神仏習合状態にあったこともさることながら、別当寺が本山派修験だったとすると、往時には山伏装束を身に纏った修験者達が境内を闊歩していたのかも知れないわね。
初代頼朝公御手植の松の切株
社殿を廻る回廊の一角に大きな円卓のようなものが展示されていましたが、初代頼朝公御手植の松の切株でつくられた衝立( ついたて )だったの。説明には「 この大木の衝立は、先年まで神門前に聳え、天然記念物に指定されていた源頼朝公手植の松の樹根の一部です。松は目通り5m、高さ40mもあって、遙か遠くからも見て望まれる日本一の黒松でした 」とありましたが、まさに巨木で、八幡神が降臨するに相応しい佇まいだったのかも知れないわね。初代のクロマツは別にもう一本あり、そちらは明治初年(1868)に枯れてしまったとのことですが、2本共枯れずにいたらどんな景観を見せてくれたかしらね。
神楽殿の傍らには御覧の力石が並べ置かれていたの。
中央の石が最も重い60貫目( 約225Kg )の力石じゃないかしら。
〔 力石 〕昔、この辺り一帯は井草村と呼ばれ、長閑な田園地帯で、近郷の人々はその殆どが農業に携わっていました。日頃、米俵などの重い物を持つことも珍しくなかった当時の成年男子は自然に鍛えられ、その勇力を競い合いました。当神社では、嘗て毎年例祭( 10月1日 )に近郷の力自慢の若者が集まり、社頭で「 石担ぎ 」を演じ、力石を奉納する慣わしがありました。現在、ここにある16個の力石は、主に嘉永2年(1849)と大正7年(1918)に奉納されたもので、最も重いもので60貫目( 約225Kg )もあります。
紹介の最後になりましたが、境内には井荻ウドの案内板が立てられていたの。酢味噌和えやサラダの他にはこれといったレシピを思いつかず、個人的には余り馴染みのない食材なのですが、日本で栽培されているものだとしても、ウドが日本原産だとは知らずにいたの。
井荻ウドは春を告げてくれる野菜でもあったみたいね。
〔 井荻ウド 〕井草八幡宮を中心とする地域は、武州多摩郡遅野井村として古くより開けました。江戸時代に入ってからは、青梅街道を通じて野菜の生産や薪で生計をたてる農村として発展しました。ウドは数少ない日本原産野菜で、古代より自生のものが利用されていました。元来、強健な野菜で武蔵野にもよく適しましたが、この地で栽培されたのは江戸時代後期で、記録に依れば文政年間(1818-1830)旧武州多摩郡上井草村寺分( 現在の杉並区西荻北 )の古谷岩右衛門が尾張( 現・愛知県 )で栽培法を習い、試した結果、立派なウドができたので付近一帯に広まっていきました。当時は野菜の種類も少なく、特に早春の香りとシャキッとした歯触りで、ウドは庶民の待望の野菜でした。
ウド生産は明治・大正・昭和にかけて、多くの篤農家による創意と努力で、地下で日光に当てずモヤシ状に作る栽培技術を確立しましたが、昭和30年代に入り都市化の進展により、この地の栽培量は大幅に減少しました。その後、北多摩方面に移った産地は、「 特産東京ウド 」として、全国にその名声を博しましたが、井荻ウドはその発展に大きく貢献致しました。平成9年(1997)度JA東京グループ 農業協同組合法施行50周年記念事業 東京中央農業協同組合
8. 観泉寺
かんせんじ
12:27着 12:49発
Map : 杉並区今川2-16-1
【京都御使道中行列帳】( 井口家所蔵 )には、文化14年(1817)に今川義彰が江戸幕府第11代将軍・徳川家斉と世継となる家慶の名代として仁孝天皇即位祝賀のために京都に赴くことになり、100人以上の供を従えて出立したことが記されているの。義彰に直属の家臣が何人いたのかは分かりませんが、供の多くが徴発された農民だったのではないかしら。馬や駕籠代、宿泊費に衣装代やら何やかんやと多額の経費が必要だったでしょうに、公費・自己負担分を合わせて一体全体幾ら位かかったのかしらね。それにしても井草村をはじめとした今川氏の知行地の農民達は皆よく我慢したわね。高家の今川氏ではその背後には強権発動する幕府の威光が見え隠れしていて、農民達にしたら抗い難い状況にあったのかも知れないけど。
門前の境内飛び地には近在にあった諸仏が集められていたの。
紹介が逆順になってしまいましたが、門前には飛び地境内地があり、お地蔵さまや庚申供養塔などの諸仏が祀られていたの。元々は近在各所に祀られていたもので、宅地造成や道路拡張などの事由から移転を余儀なくされ、ここに集められて来たようね。一角には供養塔由来碑が建てられ、どこから移されてきたのか、その経緯が記されていましたが、実際には記載される数よりもかなり多い数の石仏や供養塔が立ち並んでいるの。由来碑が立てられてからもここに移設されてくる諸仏が現在進行形で増え続けていて、観泉寺が行き場を失った諸仏の受け皿になってくれているのかも知れないわね。
折鶴が新しいところからすると、今でも信仰を寄せる方がいらっしゃると云うことよね。
- 〔 供養塔由来碑 〕
-
- 原北向地蔵尊並右側六石仏
- 杉並区西荻北4-37より移し、昭和53年(1978)当境内地に安置す
- 地蔵菩薩念佛講女中
-
- 舊境内西南角地村道沿より昭和3年(1928)当境内地に移し安置す
- 日本廻国供養塔
- 左記二体は舊観泉寺山門参道( 120間 )南端より移し、
- 南無馬頭観世音
- 昭和9年(1934)当境内地に安置す
- 三谷北向地蔵尊
- 杉並区桃井4-16より移し、昭和56年(1981)当境内地に安置す
9. 妙正寺
みょうしょうじ
13:09着 13:32発
Map : 杉並区清水3-5-10
瘡守稲荷社
境内の一角には瘡守稲荷社が祀られていましたが、【風土記稿】が「 稲荷祠 客殿より北の方にあり 小祠 神体は陀幾尼天 木の立像にて長三寸五分 境内の鎮守なり 」と記すところの稲荷祠がこの瘡守稲荷社になるのかしら。荼枳尼天は元々はヒンズー教で自在の神通力を持つと云われたダーキニ神 Dakini がそのルーツ。人間の生死を半年前に見抜き、その心臓を喰らう鬼女だったのですが、大黒天に敗れた後は眷属となり、仏教の守護神になったの。その荼吉尼天ですが、仏教に習合されると稲荷神とも習合していくの。両者共に狐の背に跨がる像容から同一視されるようになってしまったみたいね。
10. 妙正寺公園
みょうしょうじこうえん
13:35着 13:40発
Map : 杉並区清水3-21-21
この妙正寺池を中心にして公園が整備されているの。
水鳥達にとってもここは都会のオアシスといったことろね。
見慣れない色合いのツツジよね。
【風土記稿】多摩郡野方領・下井草村の条には「 妙正寺池 妙正寺より二町許北の方にあり 廣さ二段許 中に三間四方許の島あり 辧天の祠九尺四方なるを立つ南向 神體白幣 此池より流れ出る水あり 妙正寺流と云 川の幅二間餘 村内を經事25町餘にして東の方下鷲ノ宮村へ逹せり 」とあるのですが、現在はその妙正寺池を中心にして公園が整備されているの。残念ながら湧水は枯渇してしまい、現在はポンプで地下水を汲み上げて放流しているみたいね。園内では変わった色合いのツツジが咲いていましたが、「 〔 花の名所づくり 〕〜杉並区を花いっぱいに〜地域のみなさんが、花とみどりを身近に感じ、親しむことができるように、みなさんとともに「 つつじの名所 」をつくり、育てていきます」と案内されていたの。素敵な取り組みね。
この妙正寺公園に隣接して落合橋が架かりますが、その橋の下の流れこそが妙正寺川の源流になるの。その先には御覧のように川沿いに「 科学と自然の散歩みち 」と名付けられた小径が設けられていたの。因みに「 散歩みち 」はメインルートとして約7Km、サブルートとして約3Kmが整備され、下掲の「 夢のタマゴ 」は五ヶ所に設置されているみたいよ。説明にある井草川遊歩道ですが、嘗て上井草4丁目にある切通し公園内の湧水を水源として妙正寺公園内で妙正寺川に合流する井草川と呼ばれる川があったのですが、現在は暗渠化され、替わって遊歩道が整備されているの。
夢のタマゴ
〔 科学と自然の散歩みち 〕「 科学と自然の散歩みち 」は、小柴昌俊博士のノーベル賞受賞と名誉区民称号贈呈の記念事業として行いました。地域の貴重な資源( 井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館など )をつなぎ、誰もが楽しく周遊できる「 散歩みち 」です。「 散歩みち 」には、草花を植え育てる花壇やビオトープ、子ども達の創作品の展示など、住民参加や学校の学習の場づくりとして、地域の方々が交流を深められる場所があります。小柴博士は「 何かやりたいことを見つけ、目標になるいくつかの夢のタマゴを自分の中に持ち続けて欲しい 」とメッセージを送っています。その「 夢のタマゴ 」をイメージしたロゴマークやモニュメントに「 散歩みち 」を歩いていると出会うことができます。

〔 井草川 〕足元の遊歩道は、昔は井草川と呼ばれる川の流路となっていました。井草川は、上井草4丁目付近を谷頭とし、流路の北限となる井草4丁目の矢頭公園付近まで北東へ向かい、そこから東南へと流れを変え、清水3丁目で妙正寺川に注いでいました。水源から妙正寺川との合流地点まで、約3.5Kmの小河川でしたが、地域の生活を支える河川でもありました。宝永4年(1707)下井草村名主半兵衛らの尽力により、千川上水( 用水 )を分水して青梅街道沿いに用水が開削されました( 星野家文書・区指定文化財 )。其の水を谷頭口から取り入れた井草川は田方用水として積極的に利用され、明治期まで両岸には水田が広がっていました。左の写真は昭和30年代の様子です。井草川は現代に至るまで、魚を捕るなど子どもたちの恰好の遊び場ともなっていました。このような井草川ですが、周辺の宅地化に伴い暗渠化が進み、昭和56年(1981)には全ての流路が暗渠となりました。井草川には更に古い歴もあります。井草川流域には旧石器時代や縄文時代など、26ヶ所もの遺跡があり、往時から人々に利用されていたことが分かっています。この中で、井草川上流から中流部にかけては、これまでに7遺跡で発掘調査が実施されています。調査では、旧石器時代( 15,000年前頃〜32,000年前頃 )から縄文時代草創期・早期( 8,000年前頃〜15,000年前頃 )の資料が多く発見され、特に古い時代の遺跡が集中していることは、この地域の特色と云えます。このように、井草川は先史時代から現代に至るまで、生活の舞台となっており、地域に恵みをもたらす川として多くの人々に受け継がれてきました。台地に刻まれた井草川の流れは、地域に刻んだ歴史と共に、現在は公園や遊歩道として親しまれています。平成25年(2013)3月 杉並区教育委員会
11. 中瀬天祖神社
なかせてんそじんじゃ
13:45着 13:48発
Map : 杉並区清水3-19-10
-
天祖神社
末社の稲荷神社
-
〔 中瀬天祖神社 〕当社は、【新編武蔵風土記稿】多摩郡下井草村の条に「 十羅刹堂 」とあり、「 妙正寺より三町程北の方小名神戸にあり 妙正寺御朱印地の内なり 則此の寺の持 」と記されています。十羅刹とは、もと人を食う悪鬼でしたが、後に法華経を守る守護神となった10人の羅刹女と云われています。このことから、日蓮宗の妙正寺がここに十羅刹を祀ったものと思われます。明治以前は十羅刹様、神明様などと称していましたが、維新後の神仏分離令〔 明治元年(1868) 〕によって天祖神社と改称されました。祭神は大日霎貴神( おおひるめむちのかみ・天照大神の別の尊称 )・市杵嶋姫命( いちきしまひめのみこと・天照大神の姫神 )・保食神( うけもちのかみ・穀物や食物の神 )の三神です。また、この他に市杵嶋神社・稲荷神社合殿の境内社が一社あります。【神社明細帳】の由緒には「 当社は井草八幡宮の境外神社で井草川の西岸神戸坂の上に在り、極めて古き社にして、神体は一大石剣なり 」とあります。この神体を霊石とする伝説があり、昭和20年(1945)頃までは例祭日には社前で餅をつき”下ベロ餅”と云う丸餅を参拝者に配りました。この餅を食べると子宝が授かると云われ、遠方からも多数の参拝者があり、「 神戸の鎮守様 」として昔から親しまれてきました。天祖・稲荷それぞれに講中があり、100余名の氏子が熱心に維持管理に当たっています。例祭日は10月15日です。平成元年(1989)3月 杉並区教育委員会
この中瀬天祖神社の御神体とされる石剣には不思議なお話が伝えられているの。
昔話風にアレンジした上で紹介してみますね。
とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。昔はこの辺りも鬱蒼とした杉林が広がっておってのお、昼なお暗い薄気味悪いところじゃったそうな。そんなある日のことじゃった。馬の背に米を載せた馬子が手綱を引き引き歩いておったときのことじゃった。ふと珍しい形をした石を見つけてのお、それを持ち帰ろうと馬の背にその石を載せて再び歩き出したそうじゃ。ところがじゃ、しばらくすると馬が突然汗を流すとぐったりとしてその場に蹲ってしまったそうじゃ。その馬の様子に馬子はこの石はただの石ではないのかも知れん、馬が動けなくなったのは石が元の場所に戻せと云っているのかも知れねえな。そう思うた馬子が石を拾った場所まで戻り元の位置へ戻すと、不思議なことに馬は再び元気を取り戻し、何事も無かったように歩き始めたそうじゃ。その話を聞いた村人達は、その石を十羅刹堂の十羅刹さまと一緒に堂内にお祀りするようにしたそうじゃ。それからと云うもの、誰云うことなく子宝に霊験灼かな霊石と信仰を集めるようになったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども。
十羅刹堂と称していた頃は木造十羅刹像が本尊として祀られていたのですが、神社となってからは「 石 」が御神体になったのだとか。元々安置されていた十羅刹像は妙正寺に返されたのかも知れないわね。ところで「 石 」の正体ですが、単なる「 石 」としてみたり、石剣だ、否、石棒だとするものもあるの。残念ながら未確認ですのでどういう形をした石なのかは分かりませんが、珍しい形の石を見つけると石が生まれたと考え、次は成長するものと考えた生石信仰で、自然界のあらゆるものに精霊が宿るというアニミズムがベースになっているの。当社でも石が「 生石大明神 」として子宝や子育ての守護神として祀られるようになったみたいね。因みに、嘗て妙正寺池の弁天島に祀られていたと云う弁財天ですが、像の方こそ妙正寺に帰座したものの、分祀されて現在は末社の稲荷社に合殿になっているみたいね。五穀豊穣や商売繁盛などの威徳を持つお稲荷さんと金銀財宝を与えて下さる福徳の女神・弁財天が同居しているのですから、忘れずにお参り下さいね。
12. 等正寺
とうしょうじ
13:58着 14:00発
Map : 杉並区本天沼3-41-7
〔 等正寺 〕当寺は応供山と号する浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は江戸時代初期の作と云われる阿弥陀如来立像です。【御府内備考続編】及び寺伝によれば、元和8年(1622)江戸湯島( 現・文京区本郷一丁目 )に開創されました。開山は不退院玄証で、玄証は足利義満の家臣であった浅野民部大輔永慶の九代の末裔と伝えられています。元禄16年(1703)類焼にあい、ついで翌17年2月には寺地が御用地となったため、同年3月同所興安寺の隣( 現・文京区本郷二丁目 )に寺地を拝領して移転しました。創建当初は東本願寺に属しましたが、宝暦9年(1759)八世敬胆律師の代に西本願寺に帰山しました。現在の本尊はこの時に本山から下附されたものです。天保11年(1840)の再度の火災によって、それまでの記録類や宝物などの大半を失いました。大正12年(1923)関東大震災で罹災、その後本郷地区の区画整理のため、昭和4年(1929)井荻町中瀬( 現・清水3-23 )へ移り、同16年(1941)4月、現在の地に再移転しました。現在の本堂は、昭和46年(1971)の建立です。墓地には狂歌師・三陀羅法師〔 文化11年(1814)没 〕、三代目都々逸坊扇歌〔 明治13年(1880)没 〕の墓碑があります。
平成27年(2015)11月 杉並区教育委員会
13. 大鷲神社
おおとりじんじゃ
14:12着 14:15発
Map : 杉並区下井草1-31-1
二羽は大鷲故に仕留められてしまいましたが、きっと、当時のこの辺りには他にもいたのかも知れないわね。それにしても村に祟りでもあると大変だから−と剥製にしてお祀りしたとは、ここでも鎮魂が理由なのね。農家の人達にとっては鷲や鷹は畑の作物を食い荒らしたりする小動物を捕食してくれる益鳥だったのではなかったのかしら。現在なら街なかに大鷲が住み着いてくれたら、はた迷惑なカラスも寄りつかなくなってくれるんじゃないかしらね。
14. 銀杏稲荷神社
いちょういなりじんじゃ
14:23着 14:24発
Map : 杉並区下井草2-15-8
銀杏稲荷神社
〔 銀杏稲荷神社 〕当社は旧下井草村の鎮守で、社名は神社の裏山にあった銀杏の大木に由来しています。井草村井口家二代の井口外記によって元和2年(1616)に創建されたとされ、棟札に「 抑当社勧請者元和二歳比、先祖外記造営( 下略 )」とあります。井口家は相州( 現・神奈川県 )の三浦氏の末裔と云われ、天正年間(1573-1592)に当地に移り住んだもので、その一族の多くは名主・年寄役などを勤めました。村の鎮守として祀られた当社は、嘗ては境内も200坪ほどあり、江戸時代には下井草村の妙正寺が別当として管理していましたが、現在は井口家を中心として地元の人々に信仰されています。現在も残されている、文政12年(1829)2月に下井草村氏子中が奉納した「 正一位銀杏稲荷大明神 」の大幟は、当時から稲荷信仰が盛んだったことを窺わせる貴重な資料です。毎年2月初午の例祭日には世話役の頭を中心にして、この大幟と各講中持ち回りの幟を立て、井草八幡宮より御幣を戴き、御神酒や赤飯及び種々の御供物をして、五穀豊穣・講中安全・子孫繁栄を祈願しています。令和4年(2022)3月 杉並区教育委員会
散策の最後に訪ねてみたのがこちらの銀杏稲荷神社ですが、車道に面して鳥居が建てられていると思うので直ぐに分かるハズと思いきや、脇道の奥まった処にちょこんと鎮座していたの。なので一度通り過ぎてしまい、後戻りしてようやく見つけたの。追体験される場合には脇道の奥を注意しながら歩いて下さいね。申し訳程度の敷地を得て鎮座している現状からすると、嘗て200坪もの境内を有していたとは俄には信じ難いのですが、時代の流れの中で人々の信仰心も薄れゆき、維持していくのが難しくなってしまったのでしょうね。因みに、嘗て裏山にあったと云う銀杏の大木ですが、理由は分かりませんが、明治の末に伐採されてしまったのだとか。
15. 下井草駅
しもいぐさえき
14:35着
Map : 杉並区下井草2-44

善福寺川緑地のお散歩 に出掛けた際に、善福寺公園内にある善福寺池が善福寺川の水源となっていることを知り、併せて川の名称由来となっている寺院の善福寺にも興味を覚えて足を向けて見た今回のお散歩ですが、この辺りは嘗て多摩川が旧東京湾に流れ込んでいたことで出来た扇状地であることなど、そのスケール感に驚かされましたが、そのお蔭で豊富な湧水にも恵まれていたようね。水は生命を繋ぐ源でもあり、その水に支えられて古くから人々の営みがあり、そこかしこに歴史が刻み込まれていたの。丁寧にたどれば、新たな発見があるかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.comまで御連絡下さいね。
【 参考文献 】
塙書房社刊 速水侑著 観音信仰
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
角川書店刊 鈴木棠三・朝倉治彦校註新版・江戸名所図会
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々ー日本の神霊たちのプロフィール
新紀元社刊 戸部民夫著 多彩な民俗神たち
杉並区発行 杉並区企画部広聴課編 杉並区の名勝・旧跡
杉並区編集・発行 新修杉並区史(上)(中)(下)& 資料編
杉並区立郷土博物館 編集・発行 企画展「 今川氏と杉並の観泉寺 」図録
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など
Copyright by myluxurynight.com 2002-2023 All rights reserved.