≡☆ 善福寺川緑地周辺のお散歩 ☆≡
2022/10/01 & 2023/04/01 & 2023/05/03

かなり前のお話ですが、朝日新聞に折り込まれてくる「 定年時代 」の平成28年(2016)7月下旬号掲載のさわやか散歩道コーナーで、杉並の寺社めぐりが紹介されていたの。折をみて歩いてみたいわね−と思いつつ、徒らに月日が流れてしまいましたが、俄に思い立ち、足を向けてみたの。いざ出掛けてみれば、途中で迷子になったり、帰宅後に見残した事蹟があることに気づいてみたりと、結局、三度にわたり、足を向けることになってしまったの。なので、掲載する画像は季節が入り乱れていますが、御容赦下さいね。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

1. JR荻窪駅 おぎくぼえき 9:05発 関東バス 荻51系統・シャレール荻窪行
Map : 杉並区上荻1-7-1

「 さわやか散歩道 」では西永福駅を起点に歩みを進めていますが、下調べをしている際に、善福寺川緑地公園の西側にも気になる寺社を見つけたの。そこで、今回の散策では西田端橋を起点にしてみましたので、必ずしも同一コースと云うわけではありませんので、予め御了承下さいね。荻窪駅の南口からは関東バスの荻51系統・シャレール荻窪行に乗車しましたが、バス停の傍らにはフェンス越しにツクシが芽を出していたの。こんな街中でも僅かな生育地を得て春の訪れを告げてくれているなんて、ちょっと驚きね。

2. 西田端橋BS にしたばたばしばすてい 9:13着発
Map : 杉並区荻窪1-42

バス停から程なくしてあるのがこの西田端橋。右端は後程紹介する杉並区立郷土博物館で見つけた西田端橋の昭和37年(1962)頃の様子を撮した景観写真。因みに、橋を渡り切った直ぐのところに地元では知られたパン屋さんの「 ツェルマット Zermatt 」があるの。残念ながらいつも開店前の時間帯での到着なので未体験で終えていますが、時間が合えばお好みのパンを買い求めた上で公園内のベンチで早めのランチタイム( or 遅めの朝食 )もいいかも知れないわね。パン好きなξ^_^ξとしては、いつも後ろ髪を引かれつつお店を後にしているの。


最初の目的地、田端神社へは天神橋公園内の桜並木を歩きましたが、春先に訪ねたときには桜は既に見頃を終えていて、代わりに素敵なミニ・ガーデンを見つけたの。公園の一部と云うよりも、個人宅のお庭のような気もするのですが、色々な草花が咲き、春爛漫の装いに彩られていたの。折角ですので、みなさんにも。

3. 田端神社 たばたじんじゃ 9:25着 9:39発
Map : 杉並区荻窪1-56-10

神明社
除地 四畝二十四歩 小名關口にあり 此所の鎭守なり 本社は二尺五寸に四尺 覆屋二間に三間東向 前に鳥居をたつ 例祭は九月十九日 村内天桂寺のもちなり
神明社
除地 一畝 是も關口にあり わづかなる祠にて覆屋あり 南向 前に鳥居をたつ 村民の持なり
天滿宮
除地 六畝 十八歩 小名田端にあり 此所の鎭守なり 本社三尺四方にて一間半に二間の上屋を設 前に鳥居をたつ 例祭九月廿五日 天桂寺の持なり
子權現社
除地 三畝十歩 小名高野ヶ谷戸にあり 此所の鎭守なり 本社は二尺五寸に四尺 上屋一間半に二間南向 前に鳥居をたつ 例祭九月十五日 是も天桂寺の持なり

山神社
除地 四畝十五歩 小名大ヶ谷戸にあり 此所の鎭守なり 末社は二尺五寸に三尺 上屋七尺に九尺南向にて鳥居をたつ 例祭九月の内にて定日なし 村民の持なり
稻荷社
除地 六畝 小名日性寺にあり 纔なる社 神體は厨子に入 白狐に乘たる木像にて長五寸餘 覆屋は二間に二間二尺 鳥居あり 例祭九月の内にて定れる日なし 村内全福寺の持なり

各社の別当をつとめていた天桂寺と全福寺の記述も併せて引いておきますね。
But 記述には忠吉とあるのですが、忠吉の子・吉正の誤りみたいね。

〔 天桂寺 〕除地 九畝十三歩 小名關口にあり 月光山と號す 禪宗曹洞派にて郡中野方領本郷村成願寺末 寺傳に云 開山は越前國永平寺世代の僧鐡叟と云 寛永12年(1635)9月示寂 當寺は寛永の比までは境内も狹く菴室の如くなりしが 此地を岡部外記忠吉※へ賜ひしにより 忠吉※願をおこし新に境内の地を寄附し 開山鐡叟と力をあはせ大に堂宇を造立し 己が菩提所とす 此人元和3年(1617)正月9日卒せり 月叟道心と諡す 今の堂宇は岡部小右衞門が寛文中(1661-1673)建立せしなり 其かみは堂宇も頗る美を盡せしならん 今は修造のことも踈になりゆきて 堂塔破壞せり 廣さは九間に七間西向なり 本尊正觀音長二尺一寸なるを安す 開基忠吉が位牌を置

記述にある岡部氏ですが、元は武蔵国榛沢郡岡部( 現・埼玉県深谷市 )を本貫地とする武蔵七党の一族で、岡部忠右衛門尉吉正は寛永2年(1625)に徳川幕府二代将軍・秀忠から中野成宗郷が安堵されているの。それを機に田端村に菩提寺を建立し、中野・成願寺の鐡叟を開山として迎えたのが当寺の開創縁起みたいね。開基にしても氏祖の岡部六弥太忠澄と父・忠吉を勧請開基としたようね。By the way 新たに成宗と田端村両村の領主となった吉正が領地の境界の目印として青梅街道沿いに杉を植え、そこから「 杉並 」の地名が起こったとする説があるようよ。But 本当に植えたのかどうかは定かではないみたいだけど。

〔 全福寺 〕  除地 三畝二十八歩 小名日性寺にあり 壽量山と號す 禪宗曹洞派にて本寺前にをなじ 本堂四間に三間南向 本尊は正觀音の坐像にて長一尺 廚子の内にあり 外に地藏を安せり 長二尺七寸 開山を宗鐡と云 天正17年(1589)10月19日示寂す 古き寺なれども 寺記なければ詳なることを傳へず  補:全福寺は現・松林寺と合併

社殿の左手には末社の稲荷社が建ちますが、更にその左手に2基の庚申塔が祀られていたの。右側の庚申塔は、日月・二鶏・鬼・三猿に合掌六臂の青面金剛を陽刻したもので、「 享保三戊戌閏十月吉日 奉供養庚申 」と刻み、願主・武井小蔵を筆頭に、田端村と成宗村の庚申講の人達16人で建立したことが記されているの。替わって左手の庚申塔は、「 延宝五丁巳年二月廿九日 」の銘を持ち、日月・三猿と合掌六臂の青面金剛が陽刻されているの。ところで、庚申塔?何それ、そんなの知らないわ。見た目はただの墓石じゃん−と云う方は 庚申塔ってなあに? の頁を御笑覧下さいね、CMでした。

〔 力石並びに板絵着色力石持上図 〕杉並区指定有形民俗文化財 平成18年(2006)3月22日指定
力石は、若者達が日常の遊びや、神社の祭礼の時などに担いでその力を競い合い、力試しをするために使った石です。田端神社の力石は28貫目( 約105Kg )から55貫目( 約206Kg )と刻まれている11個があり、大正6年(1917)11月に奉納された9個には一部朱が塗られていた痕跡が残っています。板絵着色力石持上図は、中型の絵馬で、社殿・鳥居及び3個の力石と、力石を持ち上げる若者の様子が描かれています。全国的にも珍しい画題で、力石を担ぎ上げる方法の一つが分かる貴重な資料です。杉並区教育委員会

稲荷社の右手には力石が並んでいましたが、左掲画像の右端が一番重い石だと思うの。持ち上げることは出来なくても、少しぐらいだったら動かせるかも知れないわ−と、トライしてみたのですが、微動だにしないの。こんなに重たい石を本当に持ち上げられたのかしらと俄には信じがたい気もするのですが、それはさておき、説明にある板絵着色力石持上図がどんな絵なのか知りたい方は 江戸散策 by CLEANUP を御参照下さいね。それにしてもシステムキッチンを中心にして暮らしの質の向上を提案するクリナップがこんなコンテンツも発信しているなんて、ちょっと意外ね。

田端神社を後に善福寺川沿いの道を歩いて次の尾崎熊野神社へと向かいましたが、川の両側には散らずに頑張ってくれている桜の木が。緑道には桜並木が続きますので、満開の頃には素敵な散歩道になるわね、きっと。

4. 尾崎熊野神社 おざきくまのじんじゃ 10:01着 10:08発
Map : 杉並区成田西3-9-5

〔 尾崎熊野神社のクロマツ 〕杉並区指定天然記念物 昭和62年(1987)3月30日指定
このクロマツは、幹周囲( 目通り )3.27m、根元幹周囲5.5m、樹高32m、樹齢は400年以上と推定されます。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大型で葉は大きく、樹幹も太く、樹皮が黒褐色をおびています。近年、クロマツは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきています。このクロマツは、御神木として古くから氏子によって手厚い保護を受けており、樹冠面積は十分な広がりを持ち、樹勢も優れ、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものです。杉並区教育委員会

クロマツはその幹を南側に32度ほど傾けているの。
間近に見ると、その姿はまるで天に昇る龍の趣で、御神木にふさわしい佇まいよ。

5. 宝昌寺 ほうしょうじ 10:14着 10:20発
Map : 杉並区成田西3-3-30

【新編武蔵風土記稿】多摩郡野方領・成宗村
〔 寳昌寺 〕境内年貢地 千坪 村の中央より少しく西に寄てあり 白龍山と號す 禅宗曹洞派にて郡中野方領本郷村成願寺末 客殿七間半に四間半東向 本尊は正観音にて長一尺七寸五分の坐像なり 春日慶文の作と云 開山兼山宗翔※天正9年(1581)6月17日示寂 開基詳ならず 境内に古碑三基あり 二基は文字摩滅してよみがたし 一基は正和3年(1314)6月とあり 位牌堂 本堂より巽の方にあり 四間に三間北向

参考までに【風土記稿】の記述も引いておきましたが、
兼山宗翔とあるのは、葉山宗朔の間違いのようね。

〔 宝昌寺民間信仰石造物 〕杉並区指定有形民俗文化財 昭和61年(1986)3月31日指定
当寺の境内にある6基の石造物は、寛文3年(1663)から正徳3年(1713)にかけて造立され、境内或いは近隣の辻や塚にあったものです。4基の庚申供養塔は尊像が地蔵であったり、4臂や坐像の青面金剛であったものから、典型的な6臂立像の青面金剛へと変わって行く経過を示しており、また、6基の各々には、村の旧家や、中世の地名を残す表記、或いは願主が女性であることを示す「 内方 」と云う銘が刻まれ、当時の当地域に於ける信仰・習俗・社会構造を知る上で貴重な資料です。杉並教育委員会

〔 木造大日如来坐像 〕杉並区指定有形文化財 平成11年(1999)1月27日指定
本像は頭に五智宝冠を頂き、智挙印を結ぶ、金剛界の大日如来をあらわした像高18cm、寄木造りの菩薩形像です。製作は室町時代と考えられ、豊満な肉付け、膝前を広くした体躯の表現に、平安前期のわが国密教像の古様を再現した痕が窺えます。小像ながら技法は精巧で、格調ある作柄を示しています。禅寺宝昌寺は戦国時代末頃までは真言宗の寺院であったと伝えられており、現在位牌堂に安置されているこの像は、美術的のみならず、そうした寺の古い来歴を物語る貴重な遺品です。杉並区教育委員会

6. 成宗白山神社 なりむねはくさんじんじゃ 10:42着 10:47発
Map : 杉並区成田東2-2-2

【新編武蔵風土記稿】多摩郡野方領・成宗村
〔 小名 白幡 〕村の東の方にあり 和田村八幡の縁起に云 往古人王70代後冷泉院の御宇 奥州の夷賊蜂起しければ 源頼義公勅を蒙り追討せんとて進発し給ひ 此所に向ひ給ふとき 林中より奇雲たなびき 恰も白幡の如く見えけるにぞ 是八幡来降し給ふならんとて 一社を勧請し 遂に賊徒を追伏したまふ かゝるゆへをもて此ほとりをすべて白幡と名付しと云ふ さればもと和田村の内なりしが 今は当村に属せり 此縁起天正19年(1591)に記せしものとはいへど 其後丙丁の災にかゝりて烏有せしを 臆説にまかせて書集めしよしなればうけかいがたきものなり

改めて白幡の地名由来について【風土記稿】の記述も引いておきましたが、
「 うけかいがたきものなり 」と、つれないの(笑)。

7. 松ノ木遺跡復原住居 まつのきいせきふくげんじゅうきょ 10:54着 10:58発
Map : 杉並区松ノ木1-3

「 ウインドー前のボタンを押すと、解説が流れます 」とあるのですが、残念ながら装置が故障中と云うことで、解説を聞くことは出来なかったの。再訪時には初回から半年ほど経過していたので装置も修理されて解説が聞けるのでは−と期待したのですが、相変わらず故障中のままで。ウインドウの中では、貫頭衣を纏ったお人形さんが倒れたままになっていたりと、ちょっと残念な結果で終わっているの。

〔 古代住居跡 〕昭和29年(1954)4月、杉並区遺跡保存会により発掘された古墳時代( 約1,400年前 )の竪穴住居跡です。東西約5.3m、南北約3.9mの長方形で、南側の入口脇に「 かまど 」があるのが珍しく、また、柱穴の位置が普通と違うので、建築史学上貴重な資料とされました。昭和43年(1968)12月、補修工事の際、廻りの壁・出入口・かまどなどを復元しました。杉並区教育委員会

因みに、昭和54年(1979)に行われた発掘調査では、一辺が8mを超える弥生時代の住居址が見つかっているの。弥生期の住居址としては区内最大級のもので、当時の松ノ木台地上に広がりを見せていた集落の首長クラスのものであった可能性が指摘されているの。後程訪ねる大宮遺跡から発見された方形周溝墓は、その首長の墓と考えられていて、善福寺川を挟んで一つの文化圏が形成されていたことになり、今でこそ公園の木々に覆われて周囲の景観を望むことは出来ませんが、台地の端からは飲料に適した湧水もあったでしょうし、善福寺川の流れと豊かな緑に囲まれて食料を得るにも好適な環境にあったのでしょうね。流域で稲作が始められるようになると、稔りの秋ともなれば黄金色した稲穂が秋風に揺れていたのかも知れないわね。

8. 和田堀池 わだぼりいけ 11:02着 11:04発
Map : 杉並区大宮2-23

この辺りは大宮台地と松ノ木台地に挟まれた低地で、善福寺川が氾濫した際には溢れた水で自然の溜池が出来てしまうような地理的要因を抱えていたの。その洪水&氾濫による被害を回避すべく行われたのが昭和30年代からの善福寺川の河川改修で、その際にこの和田堀池も人工池として整備されたの。現在はこの和田堀池を中心に和田堀公園が広がっていて、園内には洪水や氾濫に備えて調節池も造られていますが、調節池とはなってはいないものの、この和田堀池もまたその役割を担っているのかも知れないわね。ところで、この和田堀池のある辺り、和田堀館・和田堀の内跡として和田義盛の館跡だとする伝承があるのだとか。

和田義盛と云えば三浦氏一族にあたり、その本貫地と云えば三浦半島よね。その義盛がこの地に屋敷を構えていたとはちょっと考えにくいのですが、気になり調べてみたものの分からず終い。どうやら地名から呼応された風評と云うか、単なる噂話の感がしないでもないわね。But 面白いことが分かったの。【大宮八幡宮史】に依ると、万葉集や古今和歌集が編まれた頃は海のことを「 わた 」と呼んでいて、【大言海】にも「 渡る意と云ふ 百済語 ホタイ 朝鮮語 ( Patta ) ウミ( 海 )に同じ 渡るに就きて云ふ 」とあるように「 和田 」は海のことではあるけれど、後に湊の意にも使われるようになったのだとか。

和田義盛の出身地は三浦郡初声村大字和田と云うことで、この「 和田 」もまた同じく海・湊の意に由来する地名となっているの。同著ではまた、縄文海進期には古東京湾の海水が神田川を経てこの辺りまで遡ってきていたのでは−としているの。更に、この地の定着者となったのが、東京湾から神田川を遡り来た玄界( 九州西北部 )由来の海人族で、彼らの奉じた海神・綿津見神を守護神としたのが、この後に紹介する大宮八幡宮の原初の姿ではなかったと推考しているの。詳しくは同著をお読み下さいね。因みに、綿津見神の「 綿( ワタ ) 」もまた海に通じているみたいね。

9. 大宮八幡宮 おおみやはちまんぐう 11:14着 11:52発
map : 杉並区大宮2-3-1

やたら縁起の引用が長くなりましたが、ものは序で。参考までに
 武蔵風土記稿  江戸名所図会 の記述も引いておきましたので、気になる方はリンクを御参照下さいね。

嘗て大宮八幡宮の別当をつとめていたと云う大宮寺ですが、大宮1-7辺( 和田堀公園野球場の東側 )に存在していた寺院で、【風土記稿】には「 別當大宮寺 降幡山妙雲院と號せり 新義真言宗にて中野村寶仙寺の末なり 〔 中略 〕八幡の進退元寶仙寺の預る所なりしが 社地隔りて不便なれば永享元年(1429)當寺を起立してうつれりと云 〔 以下省略 〕」と記され、元々は阿佐ヶ谷に創建され、現在は中野区中央2-33-3にある明王山宝仙寺が別当を務めていたのですが、両者の距離が離れていて不便だからと大宮寺が創建されたの。But その大宮寺も明治期の廃仏毀釈の嵐の中で廃寺となってしまったみたいね。

これは全くの余談ですが、【風土記稿】には大宮寺に関して更に面白いお話が記されているの。それによると「 古碑一基大門の通り北側堤の上にあり 文字磨滅してみへず 刀瘢の痕あり 傳へ云 先年この碑夜中恠異をなして しばしば人を惱せしにより 或旅人變化のものなりとて 誤て刀をぬき切りかけし其迹なりと云 信じがたきことなり 何人の造立せしや 其年歴を傳へず 古きものなることはうたがひなし 長さ二尺八寸許にして臺石あり 五輪の形に似たるもなり 」とあるの。

前段には「 古き記録もありしが 前にもいふごとく長尾景虎の亂により 兵火にかかり烏有せりとて 今は開山の名さへ傳えず 」とあるので、戦乱の際に手許がくるった刀先で受けた疵のような気がしないでもないわね。それでも、そんな逸話が付与されるあたり、それなりの背景がやはりあったのかしら。その古碑ですが、現在は「 旧大宮寺宝篋印塔 」として区の有形文化財( 建造物 )に指定されているの。石材は相州六ヶ村、真鶴付近の堅石と云われているのだとか。それなら小松石かも知れないわね。残念ながら、現物は未確認だけど。

閑話休題、来歴が何とな〜く(^^;御理解頂けたところで、改めて境内の御案内へ進みますね。一の鳥居を過ぎて神門へと続く参道は鬱蒼とした木立に覆われていて、一足毎に喧騒が遠のいていくような雰囲気にあるの。それもそのハズ、社叢は都の天然記念物に指定されているの。

〔 大宮八幡社叢 〕東京都指定天然記念物 昭和8年(1933)10月指定
大宮八幡宮の参道や社殿を取り囲む社叢です。昭和8年(1933)10月に指定されたもので、指定当所は、マツ( クロマツと思われる )やスギの見事な社叢が見られたとされます。現在は、ヒノキが最も多く、ヒノキは本殿裏の樹林地に集中しています。全体としてはクスノキやシラカシなどの常緑広葉樹、ソメイヨシノなどの落葉広葉樹の広葉樹の社叢へ変わってきています。しかし、隣接する和田堀公園と一体となった樹林帯は貴重な空間となっています。平成23年(2011)3月 東京都教育委員会

樹叢が途切れたところで神門前の広場に出ますが、右手には多摩清水社が鎮座するの。

〔 御神水 〕「 広き野に霊の清水のあるところ 」青畝
当八幡宮は「 多摩乃大宮 」と称され、その武蔵野の昔を想望して右の句がつくられ、入口の右側に句碑があります。嘗ては真清水が渾々と湧き出ておりましたが、今では周辺の宅地化により水脈が細り、汲み上げております。多くの方々に御利用頂くためにもポリタンク等大型容器による多量の汲み取りは水涸れの原因となりますので厳禁とし、給水時間も左記の通りと致します。皆様の御協力が得られない場合は、水涸れにより休止となるおそれがありますので、ご理解を願い上げます。どうぞ感謝を込めて御神水をお汲み取り下さい。尚、御神水を御希望なさる多くの方々にお応えして「 多摩乃大宮水 」と名付け、特別に調整しご祈願致しました延命祈祷水を社頭でも授与致しておりますのでお申し出下さい。令和元年(2019)6月吉日 大宮八幡宮

一、多摩清水社例祭( 水神祭 )
一、給水時間制限
一、延命祈祷水「多摩乃大宮水」社頭授与時間
毎年8月1日( 水の日 )午前11時30分
毎日 午前6時〜午後6時( 夏期 ) 午前6時〜午後5時( 冬期 )
午前9時〜午後6時( 夏期 ) 午前9時〜午後5時( 冬期 )

広き野に霊の清水のあるところ 青畝

当大宮八幡宮は附近から祭祀遺跡が発掘されるなど、神代より聖地に相応しいところで、古くは多摩の大宮と称されました。その武蔵野の昔を想望して作られた句。平成元年(1989)作。阿波野青畝( あわのせいほ )明治32年(1899)生。俳誌「かつらぎ」主宰者

多摩清水社に引き続き、お茶室の通仙庵と神泉亭がありますが、こちらは催事などで利用される施設のようで、一般公開はしていないので素通りして、手水舎に向かいましょうね。お清めを済ませたところで、いざ神域への入場ですが、その前に神門の右手には文化財の案内標柱が三本ほど立てられていましたので先ずはそちらから。ここでは二本を紹介しておきますが、残りの一本は大宮遺跡の方形周溝墓から出土した遺物に関するものなので、後述する大宮遺跡の項で御案内しますね。But いずれにしても、貴重な文化財と云うことで、宝物館に厳重保管(笑)されているようで、実物との御対面は無理みたいだけど。

〔 木造随身坐像 〕杉並区指定有形文化財 平成8年(1996)12月25日指定
江戸時代中期の大仏師「 左近 」の作であるこの木造随身坐像は、元々拝殿の階段脇に安置されていましたが、現在は当宮の宝物殿に保管されています。本像は若者像と老人像とで対をなし、共に全体的に厚く着色が施され、白色の顔料に朱の唇を描く顔面や衣服の絵柄文様も良く残り、保存も良好と云えます。また、若者像の体内からは製作年、作者・願主を記した銘板が発見され、本像を製作した背景も良く分かります。美術・技術的にも優れ、神社関係の彫像としても貴重な資料です。杉並区教育委員会

〔 木村常陸介・前田孫四郎 制札 〕 杉並区指定有形文化財 昭和59年(1984)3月31日指定
豊臣秀吉は天下統一に際し、小田原北条氏を包囲中、その支配下にあった八王子城を攻撃し、天正18年(1590)6月23日に落城させました。当宮の宝物殿に納められている制札は、その翌24日、豊臣家臣木村常陸介・前田孫四郎利長の両部将名で当宮に発給されたもので、境内での殺生、人馬の通行、竹木伐採を堅く禁じています。本制札は、豊臣軍によって当宮の保安がはかられたことを示すものとして、また、区内に残る江戸時代以前の唯一の制札として、貴重なものです。杉並区教育委員会

ここでちょっと寄り道よ。神門の左手には車祓所に引き続き結婚式場の清涼殿が建ちますが、清涼殿前の一角に「 幸福撫でがえる石 」が祀られ、背後には「 幸福むかえる路 」が廻らされていますので忘れずにお立ち寄り下さいね。

〔 菩提樹 〕松平秀康(1574-1607)は、徳川家康の次男として生まれ、始め豊臣秀吉の養子となり、結城の姓を授かる。後に、関ヶ原の戦功により越前藩主に封ぜられ、松平秀康と名のる時に清涼院を側室に迎える。清涼院は当宮を崇敬し、ご参拝の折に、この菩提樹を植樹されたと伝えられている。

〔 源義家公お手植松跡 〕ここは、源義家公お手植松の遺跡であります。寛治元年(1087)、後三年の役にて、奥州平定の帰途、義家公は戦捷報賽のため当宮を参拝され、千本の若松を御神域に植樹されました。享保年間(1716-1736)、新井白石は「 大宮の松の如くに長大に見事なるものにて、しかも数多きは見及ばぬ事 」と感嘆したが、当時の巨松( 目通り周囲5.45m )も今は枯損し、その遺株に往昔を偲ぶ若木の松が植えられています。

義家は後三年の役の帰途に常陸の鹿島宮に参詣、境内に生えていた小松を千本集め携えてきたの。源義家公お手植松はこの大宮八幡宮に移植された千本の松の内の一つだと云われているのですが、本当に千本も携えてきたのかしらね。ちょっと誇張の感が無きにしも非ずですが、相当数であったことは間違い無さそうね。先程紹介した松ノ木遺跡の「 松ノ木 」と云う地名もこの逸話に由来するみたいよ。

〔 神輿庫 〕ここに陳列されている神輿は、当宮の秋の例祭( 9月15日 )の折に、氏子内14ケ所の神幸所に奉安されて町を巡行する町内神輿です。子ども神輿も含めてその数29基、この中各地区を代表する神輿7基は例祭当日夜、壮観な合同宮入りを行います。

〔 若宮八幡神社・白幡宮・御嶽榛名神社 〕若宮八幡神社は八幡神( 応神天皇 )の御子神の仁徳天皇がお祀りされていますが、若宮は別宮( わけみや )でもあり、八幡大神の荒神魂( あらみたま )をお祀りしているとも云われます。白幡宮( しらはたぐう )は当宮を創建された源頼義公とその子の八幡太郎義家公の御神霊がお祀りされております。御嶽榛名神社は当宮氏子内の御嶽榛名講の人々によって崇敬されてきたお社です。

その社殿前に置かれているのがこちらの狛犬で、ユーモラスな表情をしているの。

〔 明和8年銘石造狛犬 〕杉並区指定有形文化財 平成25年(2013)2月13日指定
この狛犬一対は【江戸名所図会】にも描かれており、元は本殿前に安置されていたが、昭和40年(1965)に現在地に移された。台石は三段から成り、阿・吽両像とも上段正面に「 奉献 」、裏面に「 明和八辛卯年冬十一月吉日 願主岩崎所左衛門 」と銘が刻まれており、奉納年(1771)と願主名が確認出来る。また、屋外に安置されている狛犬では、区内で最も古いものである。豊かな体躯と温和な表現が、近世中期の狛犬の特色を示すものであると同時に、この地域の文化・社会組織などを物語る資料として貴重である。

〔 大宮稲荷神社・大宮三宝荒神社・白山神社 〕大宮稲荷神社は、衣食住の神として信仰され、特に当宮と姉妹友好神社の宮城県竹駒神社が合祀されています。毎年、初午祭に氏子・崇敬者より朱幟が奉納されます。大宮三宝荒神社( おおみやさんぽうこうじんのやしろ )は竈の神、私どもの生活守護の神として崇敬も篤く、歳末には「 大宮三宝荒神 」様の神札を多くの方々にお受け頂いております。白山神社の御祭神は白山比咩( 菊理媛 )で、五穀豊穣・生業繁栄・開運招福のご神徳があります。

〔 共生( ともいき )の木 〕榧( かや )の木に犬櫻が寄生しています。古代よりの武蔵野の社叢( 都指定天然記念物 )の中で、異なる二つの木が一本の幹で結ばれ、扶け合い生きづいている姿は、将に共生( 国際協調・宗教協力・相互扶助・夫婦和合等 )を示唆しているご神木です。

替わって、本殿の右手の御案内よ。

〔 大宮天満宮・東照宮・三崎神社・山神社 〕大宮天満宮は菅原道真公をお祀りし、受験合格・学業成就の神として信仰が篤く、1月25日は■天神、特に7月25日の納涼天神祭には、凡そ200基の書画行燈が点灯され、「 時間をはずした日の祭事 」として、和太鼓の奉納演奏もあり、近年多くの参拝者で賑わい、夏の風物詩となっています。東照神君徳川家康公を祀る東照宮は、徳川幕府や武門の崇敬篤く、別格の末社とされてきました。天祖神社は”お伊勢さま”をお祀りし、室町時代以降の当宮と伊勢の神宮との強いつながりを示す神社です。また、三崎神社と山神社は、この大宮台地の地主神をお祀りする神社で、境内社の中では最も古い社です。

〔 大宮八幡神社沿革碑 〕公爵徳川家達篆額( 徳川家第16代当主 )
武蔵の國、豊多摩郡和田堀内村に祠有り。曰く、大宮八幡。境域は廣潤に而て、老杉の森は、雲霄を列勢す。相傳るは、源頼義が東征の次、武蔵阿佐谷に雲氣起ち、其の上に白幡の如きが揺れ曳けり。頼義謂く、是れ八幡の神の示す吉兆也と。進軍を遂げ、賊を平し、乃に祠を創る。此の時、康平六年(1063)也。後に義家、祠を更修し、封戸を定め、寶仙寺を建つる。別當と為し、僧坊12を置き、鹿島より松の苗、千株を移植す。鎌倉幕府の賽を以て、建増し之を修す。輪奐を窮むを以て、永享元年(1429)に、寶仙寺を中野郷に移し、一宇を営む。祠の旁に大宮寺と名し、以て別當に充てる。永禄中に、上杉・北條の二氏、干戈を交へ、此祠・僧坊盡く兵燹に罹る。天正2年(1574)に有た、大石信濃守は、重ねて之を建つる。徳川氏は、初たに、社領30石と定め、朱印状を付す。且つ、躑躅を御手洗川の上に多く栽す。是より歴世尊崇し、大将軍は必ず親しく参拝す。頃者、村の有志の者、胥に謀りて、社殿の繕ひ、歩道を修し、櫻樹・数百章を列楦す。老杉と相錯りて、幽遂浄潔にして、人に益々崇敬の心を起さしむ。因って碑を樹て、以って沿革を記せんと欲して、人を介し余文余謂を請うは、此の擧なり。以て人心を淳し、流俗を振し、国家に崇神の旨を深め合いて、其れ、世に教ふるに功有ること、大なる矣。乃ち喜びて、詞を繋ぎて曰く。
斯に屹す古祠は 源氏が創に自る 鎌倉江戸と 世に歴り禋祀す
廟貌は茲す新にして 神威は顯に赫く 碑は樹て銘を勒み 以て因革を記す
大正8年(1919)9月 池田四郎次郎撰 齋藤政徳書

神楽殿の前にある植え込みには「 山照らしつつじ 」が。

〔 山照らしつつじ 〕このつつじは、社伝に依りますと、三代将軍家光公の命により植樹されたものと伝えられております。江戸時代の境内の様子を、新井白石はその書簡の中で「 私宅( 新宿 )より一里余西北の方に大宮と申候で此辺の名社有之候 是は衆人群集し候て花を賞し候処に候故春某も罷越し見候・・・」と述べております。このつつじの満開の頃の様が、さながら山を照らすような壮観から、いつしか「 山照らしつつじ 」と称されるようになったと云われております。この由緒から、つつじの見頃の5月1日から5日まで執り行われる春の大祭をつつじ祭りとも云います。

当初は10株程に過ぎなかったツツジも「 其樹維新の頃まで多く、善福寺池流一帯の流域に存し、春夏の候、紅花緑樹と相映発して壮観を極めたる 」程になったのですが、「 維新後一時社規緩みて多く盗み去られ、今僅かに十数株を余すのみ 」【豊多摩郡神社誌】の状態になってしまい、その後、嘗ての景観を甦えさせるべく、昭和9年(1934)に13,000株ものツツジが増植されたのだとか。But ξ^_^ξが見た限りでは、そんなに植勢があるようには見えなかったのですが、開花時期ではなかったために、単に気づかなかっただけかしら。

境内の散策も最後になりましたが、北神門の手前には大きな力石がゴロゴロ (^^;しているの。

〔 力石 〕力石は、江戸時代の頃より、氏子や近村の若者達が当宮に集い力競べの神事をする為に奉納されるもので「 担( かつぎ )石 」、又は「 磐持( いわもち )石 」とも呼ばれています。この力石は明治・大正時代に奉納されたもので、現在、重さ27貫( 101Kg )から最大50貫( 187Kg )までの力石14個があります。

10. 大宮遺跡 おおみやいせき 11:53着 11:56発
Map : 杉並区大宮2-24-6

〔 大宮遺跡 〕東京都指定史跡 昭和54年(1979)3月31日指定
昭和44年(1969)7月から8月にかけて杉並区教育委員会が実施した発掘調査によって、弥生時代終末期の方形周溝墓三基が近接して発見されました。西側から第一号墓、第三号墓、第二号墓と名付けられました。第一号墓の主体部から軟玉製の勾玉一個とガラス小玉12個、周溝中から底部穿孔の弥生式土器10個体、第三号墓の周溝中からは弥生式土器2個体がそれぞれ出土しました。本遺跡で発掘調査された方形周溝墓群は、都区内で初めての発見の事例であり、方形周溝墓の主体部から豊富な玉類が出土したこと、主体部上に封土が認められたことは、同時代の墓制を研究する上でも極めて学術的価値が高いものとして注目されています。平成18年(2006)3月1日 東京都教育委員会

ちょうど大宮八幡宮の北神門のある北参道を出た辺りにこの大宮遺跡があるのですが、発掘調査後には全て埋め戻されていて、見た目にはどこが遺跡なのか分からないの。掲載した画像の画面奥に紹介した案内板が建てられていたのですが、周辺の土中に貴重な遺跡が眠っていることを示す唯一の証しでもあり、無ければ所在場所不明のままに終えていたかも知れないわね。何を隠そう、一度目の来訪時には辿り着けずに断念した経緯があるの。(^^; 分かってしまえば何のことはないのですが。遺跡にしても、地元の方に場所と道を訊ねたときには「 案内板が立っているだけで、行ってみても何も無いよ 」と云われてはいたの。それはさておき、大宮八幡宮の境内林側にもう一つ、案内板が建てられていましたので、そちらも紹介しておきますね。But 掲載される大宮遺跡&方形周溝墓発掘図は省略させて頂きましたので現地にて御確認下さいね。

〔 和田堀公園大宮遺跡 方形周溝墓出土遺物 〕杉並区指定有形文化財 昭和57年(1982)11月1日指定
現在、大宮八幡宮清涼殿並びに杉並区立郷土博物館に保管・展示されている遺物は、方形周溝墓( 弥生時代の首長クラスの人の墓 )内から出土したもので、壺形土器5点、台付土器1点、勾玉1点、ガラス小玉12点に上ります。土器類は弥生時代後期のもので、彩色・精緻な文様が施文され、区内唯一の出土例である玉類は、墓の主体部付近で発見されたこともあり、被葬者が生前装着したまま埋葬されたことを物語っています。杉並区教育委員会

11. 杉並区立郷土博物館 すぎなみくりつきょうどはくぶつかん 12:12着 13:16発
Map : 杉並区大宮1-20-8

〔 旧井口家住宅長屋門 〕杉並区指定有形文化財( 建造物 )
この建物は、もと宮前5丁目、井口桂策家の表門でしたが、昭和49年(1974)に杉並区へ寄贈されたものです。この門は長屋門と云い、中央を通路、右手を土間の納屋とし、左手の藏屋には年貢米を収納していました。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、大宮前新田を開発し、代々名主を務めた井口家の格式の高さが窺えます。建築年代は江戸時代の文化・文政年間(1804-1829)頃と推定されています。尚、屋根はもと茅葺きでしたが、防火上、茅葺き屋根の形に銅板で葺かれています。

次に足を向けてみたのがこちらの郷土博物館で、重厚な長屋門が出迎えてくれたの。案内板には建築当初と解体時の平面図が示されていましたが、この長屋門がその姿を大きく変えた時期がもう一つあるの。それが明治31年(1898)頃に行われた蚕室への改築と増築で、それまで土間であった納屋を板張りにし、蔵屋側には部屋をもう一つ増築して皆蚕室にしたの。ここ杉並でも明治10年代頃から農家の副業として養蚕が行われるようになり、農家の間でも蚕室とすべく母屋の改築や増築が盛んに行われるようになったのだとか。井口家でもご多分に漏れず、養蚕を始めたという訳。

蔵屋側の蚕部屋には養蚕&製糸に使用された道具類が展示されていましたが、杉並と云えば嘗て養蚕試験場があった場所でもあるわね。こちらでは日本の製糸業の変遷と併せて養蚕試験場のことも解説されていたの。気になる方は こちら を御参照下さいね。

長屋門の納屋脇には区内各所から集められてきた庚申塔などが立てられていましたが、気になったのが左掲の石橋供養塔なの。説明には「 石橋を架けたときに、その永続を願って建てられたものです。当村念仏女講中と記され、女性と橋( 水 )との関係を窺わせ 云々 」とあるの。解説は女性と橋との関係を深入りせずに終えていますが、昔は架橋しても洪水などで流されてしまうことが多く、水神の怒りを鎮めるために若い女性を人柱にたて、その上で橋脚を架設していたことも嘗てはあったような話を耳にしたことがあるの。各地に遺される人柱伝説の全てが必ずしも史実と云うわけではないのですが、哀しい歴史でもあるわね。

〔 旧嵯峨家侯爵邸庭石 〕郷土博物館の敷地は、もと嵯峨公勝( さがきんかつ )侯爵の邸宅でした。公勝の孫娘・浩( ひろ )は、「 満州国皇帝 」溥儀( ふぎ )の弟・溥傑( ふけつ )に嫁ぐことになり、昭和12年(1937)4月3日、この祖父の住まいから、沿道の住民に見送られ、結婚式場へと出立しました。当時を偲ぶものはもう何も残っていませんが、唯一この庭石だけが、ほぼ元位置を保って往時を伝えています。この石は微生物の殻が深海で堆積してできたチャート( Chart )と呼ばれる石で、硬いことから石器や火打ち石としても使われました。紀州青石と呼ばれる名石です。杉並区郷土博物館

本館入口前の一角に置かれていたのが上掲の庭石ですが、当時の嵯峨侯爵家の敷地は博物館の背後に広がる「 和田堀公園観察の森 」を含めた広さを有していたみたいね。博物館の建つ場所はあくまでも邸宅跡。羨ましいわね。But 持たざる身のξ^_^ξが心配する必要はないのですが、固定資産税の方が気になってしまうわね。(^^;

常設展示室では杉並の歴史がパネルや資料を交えてコンパクトに展示・解説されていましたが、杉並と云えば左端の井草式土器よね。中央は松ノ木遺跡復原住居内炊飯模型−の写真よ。松ノ木遺跡を訪ねたときにはガラス面に光が反射して様子が良く分からなかったので、これで納得できたの(^^;。右端は大宮遺跡からの出土品みたいね。弥生時代後期のもので、区の指定文化財。展示品はガラスケースに入れられているのでホンモノみたいだけど。

〔 井草式土器 〕本資料は、昭和56年(1981)に地蔵坂遺跡及び平成28年(2008)に井草遺跡に於いて行われた発掘調査で出土した土器である。井草遺跡の初めての発掘調査は、昭和12年(1937)に現在の上井草4丁目12番付近で矢島清作によって行われ、そこで出土した縄文土器が井草式土器と命名された。井草式土器は、口縁部が外にそった丸底の深鉢形土器である。土器の外面には撚った紐を巻き付けた棒状の道具を使い、転がし押し付けた撚糸文( よりいともん )が前面についているのが大きな特徴である。このような特徴を持つ井草式土器は、縄文時代早期前半( 約9,000年前 )を代表する土器形式として広く知られるようになった。杉並区郷土博物館

井草遺跡は、上井草4丁目を中心に広がり、井草川( 現在は暗渠 )流域の台地上に位置している、旧石器時代から江戸時代までの複合遺跡です。昭和15年(1940)、初めての発掘調査が行われました。この時、後に地名を冠し「 井草式土器 」と命名された縄文土器群や石鏃( せきぞく )・石斧( せきふ )が発見されました。この土器群は関東ローム層( 赤土 )と上層( 黒土 )との境目付近で発見され、当時は最古の土器※として注目されました。井草式土器は、口縁部が外に反った丸底の深鉢土器です。撚った紐を巻き付けた棒状の道具を使い、転がし押し付けた「 撚糸文 」を、土器の縁( ふち )から全面に付けるのが大きな特徴です。このような特徴を持つ井草式土器は、縄文時代早期前半( 約9,000年前 )を代表する土器型式として広く知られるようになりました。土器型式命名の契機となった遺跡を考古学では「 標式遺跡 」と呼びますが、井草遺跡は、考古学史に残る区内で唯一の標式遺跡です。平成30年(2018)8月 杉並区教育委員会
※現在、日本最古の土器は青森県東津軽郡外ヶ浜町の大平山元遺跡から出土したもので、放射性炭素年代測定の結果から15,000年前後から、古いものでは16,500年前のものと推定されているの。旧石器時代終末期に極めて近い時期のもので、土器の出現=縄文時代とする従来の考え方には一石を投じる結果になったみたいね。

常設展の中で、もう一つ、ξ^_^ξが気になったものを紹介しておきますね。

〔 高井戸宿 〕高井戸宿は、全国に整備された五街道の一つである甲州道中の一番目の宿場で、下高井戸宿と上高井戸宿の二つの宿場が半月交代でその勤めを果たしていました。甲州道中は、他に比べて通行量が大変少なく、更に、内藤新宿が再興されると、高井戸宿を素通りする旅人も多くなり、宿としての役割が減少していきました。また、高井戸宿は半宿半農であったため、外便所を街道に面して建て、旅人に利用して貰うことによって下肥を集め、農業に利用していました。杉並区立郷土博物館

どこが気になったかと云えば、外便所を敢えて街道に面して建て旅人に利用して貰ったことなの。人糞を肥料に使うだなんて、およそ現代人にしたら衛生面からして信じられないような行為ですが、当時は極普通に行われていたことで、そのこと自体に改めての驚きはないのですが、旅人の置き土産 (^^;も有効活用する仕組みになっていたとは想像を超えていたの。でも、これって高井戸宿に限ったことではないのかしら?

ここではξ^_^ξが気に留めたものを常設展から二つばかり紹介しましたが、訪ねた時には更に区制施行90周年記念特別展として杉並激動の昭和戦前史展が行われていたの。テーマは

二・二六事件と渡邊錠太郎
青年将校の凶弾に倒れた「学者将軍」の非戦への信念
荻外荘と近衛文麿
「荻外荘」を愛し、首相官邸のように用いた政治家の決断
愛新覚羅溥傑と嵯峨浩
ラストエンペラーの実弟に嫁いだ日本人女性の愛と苦悩

の三つからなり、ここではξ^_^ξの個人的な興味から「 愛新覚羅溥傑と嵯峨浩 」について触れておきますね。と云うのも、以前、愛新覚羅浩さんが書いた「流転の王妃の昭和史 」を読んでいたこともあり、とても興味を覚えたの。

〔 愛新覚羅溥傑と嵯峨浩 〕満州を発祥地とする清は、明治45年(1912)宣統帝( 愛新覚羅溥儀 )が退位し滅亡する。その後、復権のために溥儀が軍事力を重視したことから、その実弟の溥傑は日本に留学し、杉並に住んでいた。一方、嵯峨浩は天皇家の縁戚となる嵯峨侯爵家の令嬢として生まれ、画塾などに通い、青春を謳歌していた。その浩の身に持ち上がったのが溥傑との見合い話だった。このことについて友人に不安と覚悟などが入り混じった「 真情 」を吐露した手紙を送っている。溥傑に嫁ぐことが決まった浩は、昭和12年(1937)4月3日に祖父・公勝( きんかつ )の邸宅( 現・杉並区郷土博物館 )より多くの区民が見送る中、軍人会館( 現・九段会館テラス )へ向かい、結婚式を挙げた。この結婚は、政略結婚と云われていたが、二人は満州へ渡り、仲睦まじく暮らした。終戦後、浩は帰国まで流転の日々を送ることになる。杉並区郷土博物館

〔 浩の書簡 〕当館には昭和11年(1936)から翌12年にかけて、浩が当時通っていた岡田三郎助の画塾の友人に宛てた書簡が全21通所蔵されている。この内の3通には不本意な政略結婚への苦悩や、諦め、平凡な結婚を望む本音など、浩の揺れ動く真情が綴られている。昭和12年(1937)1月12日に、溥傑の配偶者を浩とすることが内定し、1月18日に見合い、2月6日に結納式、4月3日には軍人会館にて結婚式が行われた。封筒の消印から一通目と二通目は溥傑との見合いをした直後、三通目は結納式の直後の書簡と考えられる。

とりわけ感情移入してしまったのが浩さんの書簡なの。軍部の威光を傘に関東軍が押し切る形で進められた二人の結婚は、縁談が持ち上がる前までは極々普通の生活を送っていた浩さんに過酷な運命を強いることになるの。特別展では浩さんが友達に宛てた三通の書簡が紹介されていましたが、中でも二通目の書簡には当時の浩さんの心模様が正直に記されていて、心打たれるの。その一部を抜粋して紹介しておきますね。

本人が私以外の日本人はもらわないとがんばつてゐるので軍部が運き出して、どうしても私情をすてなければならなくなりました。・・・・・ 中略 ・・・・・ 本当ハもっとゝ平凡な結婚がしたうございました。好きな人と氣楽に送れる生活を望んで居たのですけれど ・・・・・。もうこうなってからハ仕方がないと、すべて運を天にまかせてしまひましたの。泣かないで置うと思つても、涙の方が先に出て来てしまひます。

But 結婚した後の二人ですが、意外にも互いに相手を思いやり、仲睦まじく幸せな人生を送るの。そこには夫の溥傑氏が卓越した人格者であったことが幸いしたの。満州国皇帝の弟にしてこの性格はありなの?と思える程よ。とは云え、二人を取り巻く環境は戦争の真っ只中にあって辛酸を極めたものとなり、戦後は戦後で夫・溥傑氏のシベリア抑留や愛娘・慧生の心中事件などもあり、容赦のない試練が二人に襲いかかりますが、遠く離れていても互いに信頼を寄せる姿には感動させられるの。皆さんも是非「 流転の王妃の昭和史 」を一読されることをお勧めしますね。浩さんが息を引き取った際には夫の溥傑氏がその遺体にすがりつき「 浩さん、浩さん 」と声を上げて号泣したという逸話も聞き及ぶにつけ、二人の愛情の深さが思い知らされるの。展示内容の紹介からは離れてしまいますが、最後に文庫本発刊に寄せた夫・溥傑氏の一文を抜粋して紹介しておきますね。

離れ離れになった悲しみも、ともに暮らした歓びも、すべて彼女あってのことであった。かつて愛情ある夫婦として生き、ともに老いて行くはずだったのに、私は独りきりになった。手を胸に当て過ぎ去ったことを思えば、哀痛のみが残っており、生と死の別れのために独りで涙を流す。〔 原文は漢文 〕

本館2Fでは嘗ての杉並を撮した景観写真と共に、「 昭和のくらし展 」が行われていたの。昭和と云っても昭和30年代後半から昭和40年代頃にかけてのものかしらね。都心に通う当時の杉並区の一般的なサラリーマン家庭を想定したものだそうですが、三種の神器を備え、レコードプレーヤーがさりげなく置かれているあたりは、一般的とは云うものの、やはり杉並区民は少しばかりリッチな生活をしていたようね。(^^; 円卓には朝食かしら、食事が用意されていて、一家全員で食卓を囲む様子などが窺え、そこには温かな団欒があったような気がするわね。

〔 旧篠崎家住宅主屋 〕杉並区指定有形文化財( 建造物 )
この建物は、もと下井草5丁目、篠崎義治家の住まいで、昭和48年(1973)に杉並区へ寄贈されました。間取りは、三間取り広間型と呼ばれるもので、大黒柱には区内に多く植林されていた杉が用いられています。建物の建築年代は江戸時代の寛政年間(1789-1801)と推定され、武蔵野台地に於ける江戸時代の農家の特徴を良く残し、当時の農民の暮らしを窺うことが出来る貴重な文化財です。屋根は茅葺きでしたが、現在は防火のため銅板で覆っています。
( 解体時及び復原時の平面図は省略 )

大黒柱に限らず、柱材には全て杉が用いられているみたいよ。江戸時代、杉並の杉丸太は特産物で、高井戸丸太と呼ばれるほどで、近在のみならず、大消費地の江戸市中にも出荷していて主要産業の一つにもなっていたみたいね。篠崎家の柱材の杉も、屋敷林の杉を利用したのでは−と考えられているようよ。

古民家の見学を終えて本館に戻る際に、出入り口の傍らに二つの水槽が置かれているのを見つけたの。
それが、コウホネの栽培水槽と杉並メダカの飼育水槽だったの。
先ずは、そのコウホネ栽培水槽から紹介しますね。

杉並の絶滅危惧種を救え!コウホネ( 河骨 )再生プロジェクト
都立和田堀公園の和田堀池( 通称・ひょうたん池 )には、在来種である水生植物『 コウホネ( 絶滅危惧種II類 ) 』の大群落が形成されていました。ところが、2018年大発生した外来種アメリカザリガニの食害により、絶滅してしまったのです。しかし、池底の土の中にはコウホネの種子が休眠状態で残されています。種子が含まれている池の泥を採取し、発芽させ、コウホネの再生を目指すプロジェクトです。

説明に依ると、コウホネは「 スイレン科 浅い池や沼に自生する水生植物。多年草。地下茎は太く、地中を横に這う。夏に小さな黄色い花を咲かせる。諸説あるが、白い地下茎が白骨のように見えることから、「 河の骨 」の意で此の名が付いたとされている 」とありましたが、葉もなければ勿論花も咲いていなくて。他力本願で恐縮ですが、コウホネの詳しいことは他のサイトを御参照下さいね。

コウホネの栽培水槽の隣には「 杉並メダカを飼育しています 」の貼り紙があるのを見つけて水面を覗き込んでみたのですが、残念ながらその姿は水草の影に隠れてしまっているようで。何で、ここにそんなものが?と気になりましたが、令和元年(2019)に開催された「 杉並の生き物と外来生物 」展の際に譲り受けたものを、その後も展示しているのだとか。「 杉並 」を冠するところからすると、同じメダカでも他とはちょっと違うと云うことよね−程度には思いはしたのですが、説明書きを読んでみると超貴重種と分かったの。

§杉並メダカとは・・・? 純粋に東京に古くから住んでいたメダカの遺伝子を受け継いだメダカです。現在、東京の公園や小川で見られるメダカは、ペットショップなどで売られていたメダカが放流されたことで、純粋な東京の遺伝子を持つメダカはいなくなってしまったと考えられていました。2007年、荻窪に住んでいた須田孫七さんが、60年以上前に善福寺川や井の頭池などで捕まえて、他のメダカと交えることなく育ててきたメダカは、DNA検査によって純粋な東京のメダカだと確認され、地域の名前を採って「 杉並メダカ 」と名付けられました。※ここでは須田家から特別に分けて頂いたものを飼育しています。
水草
コガマ( 善福寺池産 )・ミツガシワ( 三宝寺池産 )・トチカガミ( 井の頭池産 )
 
タヌキモ( 神奈川県相模湖町産 )・ミズキンバイ( 千葉県茂原市産 )

須田孫七さんが飼われていたメダカが、平成19年(2007)に東京都野生生物保全センターの手に依り行われた遺伝子情報解析の結果、東日本型のミナミメダカであり、ここ杉並では既に絶滅したかに思われていた純血種で、とても貴重なメダカであることが分かったの。現在では種の系統保存のために都内の研究施設で飼育されているとのことですが、杉並メダカの生存発見もさることながら、60年以上にわたり、飼育を続けて来られた須田孫七さんの存在こそが奇跡なのかも知れないわね。調べてみると「 日本のファーブル 」と称されるほどの方で、その方面には多大な功績を残されたと知りましたが、その須田さんも平成30年(2018)に亡くなられてしまったとのこと。改めてご冥福をお祈り申し上げます。

杉並メダカのことが気になった方は YouTube 杉並区公式チャンネル 時を超える杉並メダカ を御参照下さいね。須田さんの生前のお姿と共に、杉並メダカを始め、自然や生物保護に対する熱い思いが語られているの。難しい命題なのに、須田さんの語り口がとても優しいの。お薦めよ。

12. 鞍掛けの松 くらかけのまつ 13:23着 13:24発
Map : 杉並区大宮1-2-11

〔 鞍掛けの松 〕この前の道は、大宮八幡宮の参道です。参道に面して「 鞍掛けの松 」があります。この松の名称は、平安時代の武将・源義家(1039-1106)が、奥州遠征の折、この松の枝に馬の鞍を掛けたと云う伝承に由来します。この伝承は【江戸名所図会】( 江戸時代の地誌 )にも紹介されています。松そのものは代替りしていますが、こうした伝承が地元に長く語り伝えられてきたことは、この地の歴史の古さを物語るものといえます。平成14年(2002)3月 杉並区教育委員会

【江戸名所図会】鞍懸松は大宮八幡宮の馬場先の大路、民家構の外にあり。鬱蒼として繁茂せり。根より一丈ばかり上に至りて屈曲せる故に、土人和田の曲がり松と称し、或は腰懸松とも呼べり。相伝ふ、八幡太郎義家朝臣奥州の逆徒征伐の頃、此松枝に鞍をかけられしより、しかいふと。又此所より二三町東、道の傍に古松一株あり。土人一本松と唱ふ。昔八幡宮の一の鳥井( 居 )ありし旧地なりといふ。

因みに、紹介した【江戸名所図会】は天保7年(1836)に刊行を終えていて、天保12年(1841)刊の【玉川祈願日記】には「 老朽に過しとしにたへたりといへり 」とあることから推して、初代の「 鞍掛の松 」はその間の台風等の強風により倒木したのでは−と考えられているみたいよ。

13. 大圓寺 だいえんじ 13:29着 13:39発
Map : 杉並区和泉3-52-18

山門を入った左手の塀際にはこの地蔵堂が建てられていますが、堂内には江戸時代の寛永2年(1625)に芝浦の海中より出現したと云う石像の潮見地蔵尊( 約2m )が祀られているの。この潮見地蔵には次のような逸話が伝えられているの。面白いので昔話風にアレンジ( 俗にデッチ上げとも云う )してお届けしてみますね。

とんと、むか〜し、昔のお話しじゃけんども。寛文年間と云うから江戸時代のお話しじゃけんども、ある日のことじゃったそうな。この寺の第三世住持をしておった雲高秀呑和尚の夢枕にお地蔵さまが現れてのお、「 和尚、そなたを見込んで一つ頼みがあるのじゃが聞いて貰えぬか。我が身は今芝浦の海中に沈んだままとなっておるのじゃが、どうかその手で引き揚げて貰えまいか 」そう告げられたそうじゃ。これぞ他ならぬ御仏のお導き、そう思うた和尚は夜が明けると共に芝浦の海岸へと向こうたそうじゃ。そうして和尚自らお告げのあった海へと潜ってみたそうじゃ。果たしてそこには柔和なお顔をされたお地蔵さまが横たわっておられたそうじゃ。和尚はそのお地蔵さまを引き揚げると鄭重にお寺へと運び、新たにお堂を建てるとそこに安置したと云うことじゃ。ところで、潮見地蔵と云う名のいわれじゃが、このお地蔵さま、海中から出現したとあって、上げ潮の時刻になると身体が海水でぐっしょりと濡れたようになり、引き潮の時刻になると乾いてくるそうじゃで、そんなことからいつしか潮見地蔵と呼ばれるようになったそうじゃ。この寺がまだ江戸市中にあった頃は万病に霊験灼かと評判になり、門前には市が立つほどの賑わいを見せたそうじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話しじゃけんども。

収蔵される板碑は、大宮八幡宮の旧境内地( 現在は高千穂大学の敷地内 )から出土したもので、記年銘は延文2年(1357)から応永10年代(1403-1412)にかけての50年間と云う短い期間に集中していて、その特異性が注目されているの。更に、その内の3基については同一の年月日が刻まれていると云うのですから、当該地域の特殊な状況が背景にあったのは間違いないわね。大宮八幡宮の旧境内地から出土したと云うこともあり、どのような状況にあったのかしら、ちょっと気になるわね。

14. 和泉貴船神社 いずみきふねじんじゃ 13:50着 13:56発
Map : 杉並区和泉3-22-22

〔 貴船神社 〕當社は文永年間(1264-1275)の創祀と傳えられ、祭神は京都府鞍馬村貴船神社高鉇神を奉齋す。境内の泉池は水質清冽にして涸渇する事がなく、旧村名の和泉はこれに起因すると云われる。古来雨神として旱天には村民相集り雨乞を斎行し、一段の尊崇するところであった。今回社殿の再建に當り、旧家相寄り、これを記念して、燈籠一対賽銭箱を奉納す。昭和36年(1961)5月吉日

15. 和泉熊野神社 いずみくまのじんじゃ 13:58着 14:09発
Map : 杉並区和泉3-21-29

〔 和泉熊野神社のクロマツ 〕杉並区指定天然記念物 平成2年(1990)11月14日指定
社殿横の本クロマツは、幹周( 目通り )3.1m、根元周囲 6.3m、樹高( 目測 )は 17m あり、樹齢は350年以上と推定されています。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大形で葉は大きく、樹皮が黒褐色を帯びています。近年クロマツは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきています。このクロマツには、徳川家光お手植えとの伝承があり、御神木として古くから氏子の人々によって、手厚い保護を受け、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものです。杉並区教育委員会

16. 龍光寺 りゅうこうじ 14:10着 14:34発
Map : 杉並区和泉3-8-39

【新編武蔵風土記稿】多摩郡野方領・和泉村
〔 龍光寺 〕  除地 一萬坪 村の北の方によれり 新義眞言宗 郡中中野村寶仙寺の末 泉涌山醫王院と稱す 客殿8間に6間半巽向なり 本尊薬師 木の坐像にて長4尺 開山開基を傳ず 鐘樓 9尺四方の棲なり 鐘の大さ徑2尺3寸 寛保2年(1742)の銘刻せり 阿彌陀堂 客殿より南の方にあり 4間に3間東向 彌陀は木の立像にて長4尺許 辧天祠 境内の入口にあり 二間に一間半なり

昭和29年(1954)に再鋳されたと云う区内最大級の梵鐘ですが すぎなみ学倶楽部 に依ると、口径:127cm、重量:約1.5t もあり、鋳造に際しては全国各地の有名寺院の梵鐘を撞いて廻り、それを参考にしたと云う念の入れようよ。普段は容易には撞かせて貰えない梵鐘ですが、大晦日の「 除夜の鐘 」の際にはどんな音色を響かせてくれるのかしらね。煩悩の塊みたいなξ^_^ξにも、超弩級の響が御利益をもたらしてくれるかも知れないわね。ゴォ〜〜〜〜〜ン。(笑)

本堂の左手には、四国八十八ヶ所を写した「 新四国八十八ヶ所和泉霊場 」がつくられているの。

春先にこの龍口寺を訪ねたときには、境内には色々な花々が咲き乱れていたの。
最後にそれを紹介して今回の散策の余韻としますね。

17. 永福町駅( 京王井の頭線 ) えいふくちょうえき 14:44着
Map : 杉並区永福2-60-31






















善福寺川 善福寺川の川辺には緑豊かな景観が広がり、休日ともなれば親子連れや散策を楽しむ人の姿を多く見掛けるようになりますが、遙か遠い昔にも畔には魚や動物などの獲物を追い求めて集まり来る縄文人達の姿があったの。流域で稲作が始まり、人々が定住を始めると台地上には集落が造られ、対岸には首長の埋葬地も造られ、そこでは宗教的な儀式も行われたのでしょうね、そこから発展的に大宮八幡宮が祀られたと考えられていることを知るにつけ、ここ善福寺川の畔の大地には古代人の熱い思いが今も地中深く眠っていることに気付かされたの。流れゆく川面を眺めていると、水飛沫を上げて魚を追い求める縄文人の姿がいきなり目の前を横切っていったりして。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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【 参考文献 】
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
角川書店刊 鈴木棠三・朝倉治彦校註新版・江戸名所図会
岩波書店刊 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注 日本古典文学大系 日本書紀( 上 )
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々ー日本の神霊たちのプロフィール
大宮八幡宮史編纂刊行委員会発行 岡田米夫著 大宮八幡宮史
杉並区発行 杉並区企画部広聴課編 杉並区内の名勝・旧跡
杉並区編集・発行 新修杉並区史(上)(中)(下)& 資料編
杉並区立郷土博物館 編集・発行 杉並区立郷土博物館常設展示図録
杉並区立郷土博物館 発行 区制施行90周年記念特別展「 杉並激動の昭和戦前史展 」展示図録
新潮社刊 愛新覚羅浩著 流転の王妃の昭和史
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など






どこにもいけないわ
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