関東近県でアジサイ寺と云えば、鎌倉の明月院や長谷寺が広く知られていますが、日野市にある高幡不動尊でも季節には色とりどりの紫陽花が咲き競い、多くの参詣客を集めると知り、出掛けてみたの。
梅雨時とはいえ、当日は梅雨時の晴れ間を期待して待ち望んでいたのですが、ξ^_^ξの気持ちなど何処吹く風の空模様で、生憎の雨。それでも、雲は切れないまでも午前中には雨も止むでしょう−とのお天気予報に、気持ちを奮い立たせて出掛けてみたの。紫陽花には雨がお似合いよ−とはいうものの、やはり、青空の下で鑑賞したいわよね。と云うことで、色彩的には今ひとつの写真ばかりで恐縮ですが、高幡不動尊の境内に咲いていた紫陽花を紹介しますね。尚、高幡不動尊に関しては 高幡不動尊金剛寺 を始め、他のサイトに多くの情報が掲載されていますので、そちらを御参照下さいね。
ここでは撮りためてきたものをスライドに纏めてみましたので御笑覧下さいね。
御覧になるには、それぞれの画像をクリックしてみて下さいね、別窓を開きます。
紫陽花からは離れますが、大日堂左手に「ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わり物語 勝五郎の前世 藤蔵の墓」の案内を見つけ、気になり足を延ばしてみたので紹介しておきますね。ξ^_^ξは訪ねる前までは知らずにいたのですが、調べてみると、かなり有名なお話のようね。詳しいことは他のサイトを御参照頂くとして、ここでは現地案内板の説明を転載して御案内に代えますね。
ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わり物語 勝五郎の前世 藤蔵(とうぞう)の墓(法名:頓悟童子)
中野村(現・八王子市東中野)で生まれた小谷田勝五郎(こやたかつごろう)が8歳になった文政5年(1822)秋、自分の前世は程久保村(現・日野市程久保)の藤蔵であると語りました。勝五郎が話したことが本当である事が分かると、この噂は地元だけではなく、いち早く江戸でも大評判になりました。勝五郎生まれ変わりの話を、当時の大名・松平(池田)冠山や国学者・平田篤胤が、勝五郎本人並びに家族から聞き書きし書物に著しました。平田篤胤が仁孝天皇に自分の著書を献上したことにより、御所でも評判になったそうです。
明治時代に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が英文で西洋に紹介したことにより、海外でも知られるようになりました。勝五郎生まれ変わりの物語には、現在も写本を含め多くの書物が存在します。藤蔵は疱瘡にかかり、文化7年(1810)2月4日に6歳で亡くなりました。お墓は家の近くの山の中に在りましたが、その場所も昭和40年代に宅地造成された為、昭和47年(1972)に当地へ改葬されました。当時、藤蔵の家は須崎姓でしたが、幕末の頃に小宮彌平の次男・鏡治郎が家督継承時に実家の小宮姓を名乗り、以来代々小宮姓を名乗っています。平成22年(2010)2月4日 藤蔵没後200年を記念して 小宮 豊 誌之 高幡山金剛寺・日野市郷土資料館・勝五郎生まれ変わりの物語探究調査団
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