≡☆ 菖蒲の散策 Part.3 ☆≡
 

幾度か訪ね歩いたことのある菖蒲町ですが、その時の散策記を載せようと調べ事をしている際に 久喜市HP に掲載されていた菖蒲4時間コースの観光ウォーキング・マップを見つけたの。訪ねたことがあるとはいえ、合併以前のことなので、この際だからと改めて出掛けてみることにしたの。But 今までの経験からするとξ^_^ξが歩くと標準的な所要時間の倍以上掛かることが多く、4時間とあるからには少なくとも8時間は必要かも知れないわ−と、覚悟を決めたの。掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

小林神社〜妙福寺〜正眼寺〜柴山伏越〜幸福寺〜善宗寺〜正法院〜天王山塚古墳〜神明神社

1. JR桶川駅 おけがわえき 6:43着 6:51発

Printing 推奨コースでは菖蒲城趾あやめ園や八束緑地グラウンドを見処として挙げているのですが、アヤメやラベンダーが咲く時期なら必見ポイントも時季を外してしまうと見るべきものは何も無いの。一方でコースからは外されたポイントもあり、推奨コースを基本にアレンジを加えて歩いてみることにしたの。なので本来の菖蒲4時間コースではなくなってしまいましたが、実際の所要時間が予想出来ないことには変わりなく、意を決して陽の昇らぬ内に電車に飛び乗り、朝日バス の桶川駅東口6:51発菖蒲車庫行に乗車したの。標準所要時間:15分 ¥330

結果的には見学時間を含めて7時間程で散策することが出来たので、早起きしなくても構わなかったのですが。参考までに各ポイント毎の実時間を載せておきますね。多分、これ以上はゆっくりと観ることも、歩くことも出来ないと思うわ。

2. 野々宮BS ののみやばすてい 7:08着発

バス停

バスの下車後はそのまま進行方向に歩くと小林交差点があるので、それを左折した後は道なりに進んで下さいね。因みに、小林は「おばやし」と読んで下さいね。「こばやし」だと地元の方に道を訊ねても「オラの町にそげなとこはねえけんども」と会話が成り立たないの。なので、菖蒲町では「おばやし」と読まないと町を歩けないわよ。ちょっと茶化してしまいましたが、何でも室町時代の長禄元年(1457)に江戸城を築いた上杉家の家宰・太田道灌の家臣・太田修理がこの地を開いた後、小林と姓を改めて小林周防守(おばやしすおうのかみ)と称したことに由来するのだとか。

3. 小林神社 おばやしじんじゃ 7:23着 7:39発

【新編武蔵国風土記稿】には「客人明神社 元白山を勸請せしが いつの頃よりか 客人神に祀りかへしと云、是も妙福寺の持なり」とあるように、元々は白山社として祀られていたのですが、大正2年(1913)に境内摂社を含めた村内の18社を合祀して小林神社と改称し、小林地区の総鎮守としたの。現在は菊理姫神(くくりひめのかみ)を始めとした16柱が祀られていますが、この菊理姫神は石川県の霊峰・白山を御神体とする白山比咩神社の祭神で、春になると白山の雪解けの水が麓の田畑を潤し、稲や穀物を稔らせてくれることから人々に恵みを齎す豊穣の神さまとなったの。

〔 神社合祀碑 〕 武藏國南埼玉郡小林村々社小林神社は 字本村に鎭座せし村社三上神社をはじめ10あまり 三の字内なる無格社12社 其境地の末社6社を合せ祀り 産土大神と齋ひ奉れるなり 此里竒しくも石上ふるき御代より神を敬ふ風習のいと厚かりしかば 小字内處々に社殿を建てて齋きまつりしかど 新玉の年經るまま小社殿の修理祭事の式も欽ることの出來ぬるをいと畏きことに思ひ居たりしに 遇公の御さとしもありければ 去にし大正2年(1913)2月20日御ゆるしを得て これの京手なる白山社に合祀し 社名を小林神社と改稱し 境地を擴め 本殿拜殿及び神樂殿社務所をも新に築き 資金1,500餘圓をさへ得て 基礎もいよいよ確立しぬることは 全たく氏子の人々の神を敬う志のあつきによれる事にして 大神達の御めでもまた淺からざるべし あはれ氏子の人々の かく一致和合して斯の盛擧をなししことよ 誠に皇國の風儀にも叶ひ 此村内の榮えもしのはれてゆかしくなん 茲に事のゆえよしを碑石に彫りて後世に傳へむとて 其文をおのれに乞はるるままに いなびがたくて斯くはしるしぬ 大正6年(1917)12月 官幣大社氷川神社宮司正六位勳六等額大直 篆額 正八位東角井福臣 撰書

4. 観音堂 かんのんどう 7:48着 8:11発

次の妙福寺へ向かう途中、栢間小学校前の交差点を左に折れて道なりに歩いていると、道路脇に忘れられたかのように佇ずむ御堂を見つけたの。右手には新しくて小綺麗な集会所が建てられているのですが、片やこちらの堂宇は捨て置かれた雰囲気にあるの。建物の左脇には何やら案内板らしきものが立てられていたので近付いてみたのですが、風雨に晒されたせいで文字が掠れていて読めないの。それでも行頭に菖蒲町指定有形文化財と見えたので、その正体(笑)が気になり、文字の痕跡を頼りに筆録して来ましたので紹介してみますね。

ここでの所要時間が異常に長いのはそのためなの。状況からすると堂内にはその聖観音菩薩像と厨子が安置されていると思うわよね。でも、そんな大事なものを今にも雨漏りしそうな佇まいの建物に収めていて大丈夫なのかしら。鍵も頼りなげで簡単に壊されてしまいそうよ。もっとも目の前が駐在所なので盗難の心配は無いのかも知れないけど。

菖蒲町指定有形文化財 聖観音菩薩坐像及び厨子
指定年月日:昭和60年(1985)6月4日 所在地:菖蒲町大字小林(現:久喜市菖蒲町小林)
観音菩薩は正しくは観世音菩薩あるいは観自在菩薩と云い、衆生の救いの声を観じて自在にこれを救う菩薩であると云われている。聖観音は変化観音(如意輪・十一面・千手観音等)に対する普通の観音である。本来は阿弥陀如来の左脇侍となり、宝冠に阿弥陀如来の化仏を戴くが、単独像としての信仰も厚い。飛鳥時代から江戸時代にかけて造られるが平安時代の作が最も多い。本観音像は鎌倉時代(13世紀後半)の木造の単独像である。輪光背を配し、左手に蓮華を持つ。ケヤキの寄木作りで玉眼を嵌入し、像底部を浅く内刳りしている。頭部耳前で前後二材、体幹部背面寄りで前後二木をそれぞれ寄せる。頭部は差首と思われる。作風は運慶様式を基調に当時影響の強かった宋風を加味している。時代及び作風の知れる仏像として菖蒲町にとって貴重なものである。この仏像は60年に一度御開帳する秘仏として古くより人々に崇拝されて来た。厨子は年代が明らかではないが、豪壮で巧緻極まる彫刻が特徴的である。寸法 像高 50.4cm 光背高 54cm 台座高 21.5cm 昭和61年(1986)3月 菖蒲町教育委員会

この観音堂は、次に訪ねる妙福寺とは敷地を接して建てられていたので、妙福寺の境外堂かしらと思ったのですが、そうではないみたいね。久喜市HP には聖観音菩薩像と厨子の管理者は池元院とあるの。じゃあ、その池元院(ちげんいん)はどこにあるのかと云うと、埼玉県鴻巣市加美2-7-76 に建つ池元院がそうみたいね。管理者だからと云って地権者とは限らないので断言は出来ないけど、妙福寺とは無関係のようね。だとしたら、同じ日蓮宗寺院なのに余計分からないわね。何かそうしなくてはならない特段の理由でもあるのかしら。脳天気な旅人の感想を云わせて貰えば、宗派が同じなのですから折り合いを付けられないのかしらね。妙福寺には新しくて綺麗な堂宇がいっぱいあるわよ。

次に訪ねる妙福寺には嘗て多くの塔頭があり、その中に地現坊の名があるの。地現と池元の違いはあるものの、何かしらの関係がありそうよね。これはξ^_^ξの想像ですが、僧坊を残したまま鴻巣に転出し、今に至っているのかも。

5. 妙福寺 みょうふくじ 8:12着 8:19発

現在は日蓮宗を宗旨とする妙福寺ですが、嘗ては延命山金剛院を山号院号とする真言宗寺院だったの。それが南北朝期の応安元年(1368)、住持の玄海法印和尚が中山法華経寺の法宣日英上人と法論を戦わせたところ、論破されてしまったの。それを機に改宗し、寺号も妙福寺と改称。応安3年(1370)には改めて中山法華経寺第3世日祐上人を招いて開眼供養を営み、日英上人を開山に迎えて、先程小林の地名由来で触れた太田修理が開基したの。当初は七堂伽藍が建ち並び、6坊6社を治め、名刹として知られていたの。But その後は大分受難を経たみたいね。

ざっと見ても天正4年(1576) 本堂・客殿等を焼失、慶長12年(1607) 全焼、天保6年(1835) 全焼−の三度も大きな火災があり、慶長12年(1607)の出火時には第8世住持の日陽上人が火中に飛び込み自害してしまったと云うの。傷ましい限りね。それでも、被災を経ながら都度再建され、天保8年(1837)に配下6社の立木を伐採して再建してからは火災に遭うこともなく今日に至っているそうなの。とは云え、現在建つ堂宇は更に新しく見えることから近年に再建されたものみたいね。

妙福寺 所在地:南埼玉郡菖蒲町大字小林(現:久喜市菖蒲町小林)
妙福寺の創立は応安年間(1368-1374)と伝えられ、法宣院日英の開山で、本尊は三宝祖師である。当初は5,000余坪の境内を有し、近在の名刹であった。元は真言宗延命山金剛院と称したが、千葉県中山の法華経寺僧日英の教化で改宗し、日蓮宗延命山妙福寺と改める。慶安2年(1649)には三代将軍家光から寺領21石6斗の御朱印を賜っている。天正4年(1576)に本堂、客殿を焼失したのを始めとして、再三に亘り火災にあったが、現在の本堂や庫裏は天保8年(1837)に再建されたものである。その後は火災に遭うことはなく、大正7年(1918)と昭和44年(1969)に本堂屋根の葺き替え、昭和8年(1933)に山門が再建された。毎年11月12日の夜に行われる「御会式」は、日蓮上人に報恩の信心を捧げる会式であって、現在も存続して行われている。昭和58年(1983)3月 菖蒲町教育委員会

6. 正眼寺 しょうげんじ 8:40着 8:53発

次のしょうぶの梨100年祈念碑に向かう途中で訪ねたのが正眼寺。妙福寺の参詣を終えたら小林交差点迄戻りますが、今度はそのまま県道R12を横断して下さいね。直ぐに道が二手に分かれますが、右側を辿るとやがて野通川(やどりがわ)の対岸に建つ伽藍が見えてくるの。川の流れに沿って墓苑があるので、いかにも墓地の中に堂宇が建つかのような印象を受けますが、大丈夫よ。墓地と諸堂が建つ寺域とは完全に分けられているので御安心下さいね。訪ねてみれば、新しさの中にも落ち着いた佇まいがあるの。現在は医王山正眼寺を正式な山号寺号とする曹洞宗寺院。

当山は医王山正眼寺と称し、慶長2年(1597)幸手市波寄の宝持寺第6世豊山東雪禅師を迎えて開山。開基は柴崎家一門の総本家・現柴崎美男家の初祖・道慶泰應麟宗座元と伝えられる。慶安2年(1649)三代将軍家光公より10石2斗の朱印状を受けており、 禅寺として近隣にも名を知られ連綿と法燈を護持してきた。然るに弘化3年(1846)火災により本堂・禅堂・庫裏外殆どの堂宇を焼失。時の住職19世本光泰然大和尚は責を負って退任、20世大道王林大和尚を経て21世大嶠広学大和尚を大宮市(現:さいたま市)西福寺より迎えて寺檀一丸となり復興に全力を挙げ、嘉永5年(1852)実に7年がかりで本堂と仮庫裏が再建された。本堂は明治36年(1893)22世戒学宗孝大和尚代に屋根を茅葺きから瓦に葺き替えるなどかなりの補修を施したようであるが、長年の風雨に晒されて年毎に損傷が目につくようになり、そこで総代世話人会に計り、昭和61年(1986)開山四百年祭実行委員会を結成し、本堂・山門の改修、開山堂新築が記念事業として計画された。補:平成7年(1995)銘の山内諸堂落慶記念碑より一部抜粋の上修正加筆す。

縁起にその名がある柴崎家初代の泰應麟宗と云う方ですが、柴崎与五右衛門が本名みたいね。でも【新編武蔵国風土記稿】には「開基は名主七兵衛が先祖柴崎与五右衛門にて 明暦三年二月廿五日終り泰休常安と諡す〔 中略 〕本尊薬師を安ず」と異なる名を挙げているの。どちらが正しいのかはξ^_^ξには分からないけど。

山号に医王山とあるのはこの薬師如来の別称に由来するものね。薬師如来は正式には薬師瑠璃光如来で、別名・大医王仏とも呼ばれるの。とは云え、現在は釈迦如来を本尊にして薬師如来と千手観音が脇侍する形を採っているの。替わって左掲の山門ですが、弘化3年(1846)の出火時には他の堂宇が悉く灰燼に帰す中で唯一焼失を免れたもので、大正12年(1923)の関東大震災では支柱が礎石から飛び出してしまったものの、大槌で打ち据えたところ、スポンと元の位置に収まったのだとか。屋根瓦は近年に葺き替えられたみたいですが、重厚な佇まいが趣を添えているの。

山門を潜った右手には白山妙理大権現を祀る小堂が建てられていたの。ここでは白山妙理大権現と名を変えてはいますが、小林神社で紹介した菊理姫神(くくりひめのかみ)のことなの。説明には「白山宮祠 宝永4年(1707)4世天易代造立 昭和58年(1983)25世道雄代再建〔 中略 〕宗祖道元禅師の入宋(中国)修行中影随して禅師を守護 渡航の危難を救うなどの霊験を伝えられ、為に本宗では白山妙理大権現と尊称 寺院の守護神として崇め祀っている。又、白(ハク)を歯苦に転じて古来歯痛を除く宮祠として信仰されてきた」とあるの。

鐘楼には嘗て元文5年(1740)に鋳造された梵鐘が掛けられていたのですが、第二次世界大戦の際に戦時供出させられてしまい、現在の釣鐘は昭和25年(1950)に新たに鋳造されたものなの。二度とあっては欲しくはないし、また、あってはならないことだけど、この吊鐘が再び戦時供出させられるようなことがおきないようにと、切に思う次第よ。その願いを込めて、ゴ〜〜〜ン。

7. こんぴらさま 8:54着発

庫裏に続く通用門を抜けて南に少しだけ歩くとこんぴらさまがあるの。こちらも忘れ去られたかのような佇まいの小堂(金毘羅堂)ですが、一応は正眼寺の境内社みたいよ。堂内には金毘羅像が安置され、毎年旧正月に当たる2/10に行われる金毘羅祭ではダルマ市が開かれるとのこと。But 嘗ては正眼寺の境内を埋める程の賑わいを見せたと云うダルマ市も、近年では出店も一軒のみになってしまったのだとか。知る人ぞ知るダルマ市−の感があり、縁起を担ぐ人もめっきり少なくなってしまったきょうこの頃ですので、ダルマ市もまた金毘羅堂と同じ運命にあると云うことのようね。

金毘羅はサンスクリット語の Kumbhira の音訳で、元々はインドのガンジス川に棲む鰐を神格化したものと云われているの。日本各地に鎮座する金毘羅社の総社とされるのが讃岐国(現:香川県)の金刀比羅宮(琴平神社)で、海上安全の守護神なの。現在は大物主命を祭神としますが、明治期の神仏分離令発布以前は象頭山金刀比羅大権現を祭神としていたの。琴平神社の背後にある象頭山は古来より瀬戸内海を航行する漁民達の信仰を集め、航海の無事を祈願していたの。後に仏教が伝えられ、現在の琴平神社が建つ地に松尾寺が創建されると、象頭山の海上守護神が金毘羅神に習合されて寺院の守護神にされたの。象頭山の名にしても、元々は金毘羅神の宮殿があるとされた山の名前なの。その金毘羅神に対する信仰が広がりを見せたのは室町時代以降のことで、海運業の隆盛に併せて各地に祀られるようになったの。嘗ては正眼寺の傍らを流れる野通川にも荷を載せて行き交う船が多くあったのかも知れないわね。

8. しょうぶの梨百年記念碑 しょうぶのなしひゃくねんきねんひ 9:02着 9:07発

こんぴらさまで折り返して北へ200m程歩くと、車道と見沼代用水路遊歩道に挟まれるようにして御覧の石柱が建てられているの。碑には「彩の国さいたま しょうぶの梨百年記念園」とあるように、左手には小さな梨園が造られていたのですが、既に収穫期を終えていて実の一つさえ見つけることが出来ずに終えてしまったの。それはさておき、最初ξ^_^ξはしょうぶの梨百年記念碑とはこの石柱のことかしら?と思ったのですが、そうでは無かったの。右手に休憩処が造られていたので一息つこうかしらと足を向けたのですが、記念碑はそこに建てられていたの。併せて俳句の碑と短歌の碑も並び立てられていたの。先ずはそのしょうぶの梨記念碑から紹介してみますね。

菖蒲町は梨の栽培が普及して百年が経過しました。現在、本町には350戸程の梨栽培農家があり、埼玉梨の産地としてその名を博しています。本町に梨栽培を普及させたのは「埼玉梨の元祖」として知られる五十嵐八五郎さんです。八五郎さんは安政元年(1854)に現在の菖蒲町大字台字向野の大久保家の次男として生まれました。八五郎さんは明治4年(1871)に剣道修行という大志を抱いて生家をたち、しかし偶然、群馬県において梨の栽培に関心を持ちました。その後千葉を始め各地で梨の栽培技術を習得した後、大里郡武川村(現:川本町)の五十嵐家に縁付いて姓を変えました。梨の栽培は収益も多く、農家の有望な事業となることに着目した八五郎さんは、親類縁者を通し明治17年(1884)に旧三箇村へ、同23年(1890)には旧栢間村へと梨の栽培技術を伝えました。そして今から百年前に当たる明治26,7年頃には、埼玉梨の代表種「長十郎」が発見されたこともあり、それ以降、本町においても柴山枝郷を中心に有力な農業経営の副業となっていきました。梨の栽培が町内全域で広く普及するようになったのは明治末期からで、同43年(1910)の大水害の際に、田畑の被害に比べ、梨の被害が少なかったことから急速に広まっていったと云われています。このように、本町において梨の歴史は農業の歴史でもあります。今、私たちは百年の歳月を振り返り、梨とのめぐりあいを感謝し、五十嵐八五郎翁の偉業をここに刻し、これを末永く伝えようとするものであります。平成6年(1994)8月15日 埼玉県・菖蒲町

左掲が俳句の碑で「わが里の梨の畠は花盛り 遠く白雲澱むがごとし これは、本町在住の歌人小澤朝一さんの作品です。このほかにも多くの人が梨に関する俳句や短歌を詠まれています。菖蒲町では梨百年を記念し、俳句や短歌の大会を毎年行い、その中から選ばれたものを石碑に刻み、ご供覧をいただき、よってこれが五十嵐八五郎さんの偉業を偲ぶよすがとなることを念願するものです」とあるのですが、平成11年(1999)までの各々二首を刻んだところで初志貫徹できずに挫折してしまったみたいね。合併して久喜市となったとあっては復活はちょっと難しそうね。

9. 見沼代用水路遊歩道 みぬまだいようすいろゆうほどう 9:08着発

しょうぶの梨百年記念碑からは見沼代用水路に沿って設けられた遊歩道を歩きますが、桜並木が続くので春先にはお花見をしながらの散策が楽しめそうね。左掲は八束橋から上流方向を撮したものですが、画面右手奥に見える建物が嘗ての菖蒲町町役場で、現在は久喜市菖蒲総合支所になるの。ところで、この見沼代用水路ですが、その名からお分かりのように人工的なものなの。それも現在は北は利根川の利根大堰から、南は東京都足立区に至る総延長約84Kmにも及ぶ水路で、最初に造られたのは280年以上も前の江戸時代のことなの。

当時、見沼と呼ばれ、現在のさいたま市・川口市に跨る巨大な沼があったの。その見沼に対して享保12年(1727)、幕府の財政再建を掲げた第8代将軍徳川吉宗が「水を抜いて田圃にせい!」と新田開発の大号令を発したの。その見沼ですが、既に大規模な土木工事を経て溜井として利用されていたの。その溜井を田圃にしてしまったら既存の田圃への給水もさることながら、新田(見沼たんぼ)への農業用水が必要になるわよね。だったら水量がたっぷりとある利根川から引き込めば良かろうて。何を心配しておる、爺−(笑)と始められたのが利根川からの取水工事なの。

But 云うは易し、行うは難し−で、工事費用約20,000両に、延べ90万人もの労働者が投入された巨大事業で、まさに国家的プロジェクトだったの。と云うことで、見沼(溜井)の水の代わりの用水路−の意から見沼代用水路と呼ばれるようになったの。

水資源機構の案内板には「今までに何度か水路や水門などを作り直しながら来ましたが、最近では水の使い方が変わり、田んぼ用の農業用水の利用が少なくなってきて、その代わり住宅が増え飲み水などの水道用水が増えるようになってきました。このことから農業用水と水道用水を利用できるように、昭和54年(1979)から水路や水の取り入れ口などの作り直しが行われ、平成7年(1995)3月に出来上がり、今の見沼代用水路になっています」とあるの。その案内板には併せて見沼代用水の使用量について記されているの。ここでは会話風にアレンジして転載してみますね。

ねえねえ、水田ではどのくらいの水が使われているの? 最大で37.51m²/sよ。一年間に使う水の量は東京ドーム(124万m³)の約300杯分にもなるの。この見沼代用水路の水を使う水田の面積は15,400haで、東京ドーム(28,000m²)の広さの5,500倍もの広さがあるの。 じゃあ、水道で使われる水はどれくらいなの? 水道用水は約4.26m²/sよ。一日当たり100万人が使う量で、学校の25mプールだとおよそ1,000杯分になるの。4人家族のお家に例えると、一人当たりが使う水の量は約360Lで、バスタブ2杯分にもなるの。

推奨される菖蒲4時間コースでは神ノ木橋からは小学校跡地記念碑やフラワーガーデン実野里を経て八雲神社へ向かうことになっているのですが、ここで菖蒲3時間コースで立ち寄りポンイントに挙げられている柴山伏越に足を伸ばしてみたの。見学を終えたところでもう一度神ノ木迄戻り、菖蒲4時間コースに復帰しましたが、今にして思えばそのまま元荒川沿いを歩いて一本木橋へ向かっても良かったかも知れないわね。この時は未だ小学校跡地記念碑や八坂神社のことを知らずにいたので気になり、訪ねてみたの。それはさておき、しょうぶの梨100年記念碑から常福寺までは45分程歩かなくてはならないの。今回の散策では一番のロング・アプローチですが、頑張って下さいね。尚、途中の通過タイムは 神ノ木橋 9:31着発 稲荷神社 9:35着発よ。

10. 常福寺 じょうふくじ 9:51着 9:55発

道を挟んで柴山堰の反対側には常福寺があるの。現在は聚光山常福寺を正式な山号寺号とする曹洞宗寺院ですが、境内には紹介した見沼代用水路を設計監督した開削者・井澤弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)のお墓があると知り、訪ねてみたいと思っていたの。為永のお墓は墓苑とは独立してあり、道路際に面しているので境内を通らなくても平気なの。門前を過ぎた右手に案内板があるので直ぐに分かるわよ。冒頭には「見沼代用水路開削者 井澤弥惣兵衛為永の墓 見沼代用水路普請奉行 幕府勘定吟味役 紀州流土木技術者」とあり、次のように記されているの。

紀州溝口村(和歌山県海南市)に生まれました。はじめ紀州徳川家に仕えましたが、藩主吉宗が8代将軍となった時、招かれて旗本となる。全国各地の河川改修や新田開発に著しい活躍をし、勘定吟味役に昇進しました。為永の行った最大かつ代表的な紀州流土木事業が見沼の開発であり、享保12-13年(1727-28)奉行として自ら測量設計監督に当たり見沼の干拓、代用水路の開削、沿線の新田開発を行った。

重要な施設の中でも、この地の柴山伏越は用水と河川の立体交差で、瓦葺掛渡井(かわらぶきかけどい:現在瓦葺伏越)と共に為永の優れた技術を知ることが出来ます。元文3年(1738)3月1日逝去 享年76歳 江戸麹町(現:東京都千代田区麹町)心法寺に葬られました。法名 崇岳院殿隆誉賢厳英翁居士 明和4年(1767)水路沿線村民は為永の遺徳を偲び、ここ常福寺に分骨して墓石を建てました。平成11年(1999)見沼土地改良区

11. 柴山堰 しばやまぜき 9:55着 10:20発

柴山伏越 所在地:南埼玉郡白岡町大字柴山
見沼代用水路は、享保12年(1727)徳川吉宗が勘定吟味役格井沢弥惣兵衛に命じ、県南東部(大宮台地の東南端)にあった見沼溜井を干拓させたとき、代りに水源を利根川に求めて掘った用水路であり、元の見沼に代わる用水路と云うことで見沼代用水路と命名された。水路延長は約60kmで、受益面積約17,000haにも及ぶ大用水路である。井沢弥惣兵衛は紀州(現:和歌山県)の人で、土木技術に優れ、この用水路の工事は、着工から完成まで

約6ヶ月で完工している。当初の設計には殆ど狂いがなかったといわれた程で、いかに優れた土木技術を駆使して進められた工事であったかが分かる。同用水路が元荒川と交差するこの場所では、元荒川の川床を木製の樋管を使用してサイフォンで通すと云う大工事を行った。これが柴山伏越(しばやまふせこし)である。現在は河川の改修が行われ、以前より川幅も1/3と狭くなったが、これまで、修繕や伏替工事などが20数回行われ、現在見られるような構造になった。昭和59年(1984)3月 埼玉県

対岸にある伏越の出口側も訪ねてみたので、気になる方は上の画像をクリックよ。
画像毎にコメントを付けてアップしておきましたので御参照下さいね。

12. 柴山観音堂 しばやまかんのんどう 10:21着 10:26発

常福寺の門前に架かる宮野橋を渡り100m程歩くと左手に柴山観音堂があるの。観音堂と云っても村の集会所を更に小さくしたような建物で、緋い幟が無ければそれとは分からなかったと思うわ。最初にこの景観を目にしたξ^_^ξは案内板には観音堂とあるも既に廃寺となり、観音堂跡だと思ってしまったくらいよ。尤も、ある意味では観音堂跡には違いないのですが。参道の左手には同じく小堂が建てられていましたが、薬師如来を祀る薬師堂なの。案内板にある瑠璃山観音寺の山号瑠璃山は薬師如来の正式名称・薬師瑠璃光如来に由来すると云うわけよね。

柴山観音堂 白岡町大字柴山字宮野 柴山観音堂の由緒については明らかでないが、江戸時代末期の【新編武蔵国風土記稿】の柴山村の項には「観音堂玉蔵院持」という記載がある。またその「玉蔵院」の山号が「瑠璃山観音寺」とも述べられているので、柴山観音堂は元来この「玉蔵院」に属するものであったと思われる。尚、玉蔵院とは菖蒲町の吉祥院の末寺であったが、明治4年(1871)に廃された。伝承では、同院は尼寺で、ここより南東の畑の中にあったという。また、現観音堂の境内にある薬師堂は、玉蔵院跡から移したものであるという。現在は焼失してしまったが、旧本堂の正面には、戦国時代の菖蒲城主だった佐々木氏が、当地に移り住み墓所を守るために観音堂を建てたと記された額が掲げられていた。また、町内では二番目に古い、享保11年(1726)銘の半鐘も伝わっている。その他、筆子塔など江戸時代前期の奉納物が数多く残されており、町の貴重な歴史を伝えている。平成11年(1999)1月 白岡町教育委員会

13. 柴山諏訪八幡神社 しばやますわはちまんじんじゃ 10:27着 10:38発

柴山観音堂と敷地を接して柴山諏訪八幡神社があるの。祭神は諏訪神こと建御名方神と、八幡神の誉田別尊(=応神天皇)ですが、元々は二神とも武神・軍神として絶大なパワーの持ち主なの。普通は単独で祀られることが多いのですが、ここではその二柱が合祀されているのですからこれに優る神威は無いわね。But 庶民には武神としてのパワーよりも日々の暮らしに霊験灼かな神さまの方が望まれていたみたいね。鳥居の両脇には大王様社と天神宮が鎮座し、本社を取り囲むようにして愛宕社、三峰社、稲荷社などの境内摂社が並び建てられているの。

諏訪八幡神社 所在地:南埼玉郡白岡町大字柴山 諏訪八幡神社は、大字柴山のほぼ中央に位置し、古来、地域住民の信仰の対象として、中心的役割をなしてきた神社である。当神社は、昭和19年(1944)に大山神社と改名されているが、現在でも諏訪八幡神社として親しまれている。祭神は、応神天皇と建御名方命である。寛文12年(1672)に藤原氏天野康寛(あまのやすひろ)が書いた【諏訪八幡神社之神記】に依れば「霊験の記は紛失して証拠となるものはないが、伝説に依ると宇多源氏の後胤佐々木四郎秀綱がこの地を領していたとき、霊験があり、諏訪社と八幡社の両社を合祀した」とある。当社には、地域の信仰を物語る各種の絵馬が多く奉納され、よく保存されている。また、祭礼時には大太鼓、小太鼓、鉦による囃子が奉納される。昭和58年(1983)3月 白岡町

中でもξ^_^ξが気になったのが鳥居の左手に建つ大王様社なの。普通、大王と云えば京都祇園社(現:八坂神社)の祭神とされる牛頭大王のことよね。明治期に神仏習合を解かれた後は牛頭大王に替えて素戔鳴尊を祀ることが多いのですが、ここではそのまま今日に伝え来ているみたいね。境内にはちょっと年季が入ってはいるけど神楽殿もあるの。また、社殿前の案内標には「白岡町指定文化財第34号 柴山諏訪八幡神社の奉納絵馬」とあるのですが、残念ながら扉が閉ざされていて見ることは出来ないの。その案内標の傍らには力石と思われる石も置かれていたの。

14. 見沼代用水路遊歩道 みぬまだいようすいろゆうほどう 10:42着発

柴山諏訪八幡神社の拝観を終えて、菖蒲4時間コースに復帰すべく元来た道を戻りますが、歩き出す前にこちらのお手洗いで忘れずにトイレ休憩して下さいね。ここを逃してしまうと次は幸福寺まで無いの。さて、次の小学校跡地記念碑までの道順ですが、見沼代用水路を柴山橋まで戻ったところで少し近道をしてみました。と云っても、遊歩道から離れて車道を歩いただけですのでそう極端に変わる訳ではないのですが。途中の景観を辿りながら道案内をしますので、御希望の方は左掲の画像をクリックして下さいね。

15. 小学校跡地記念碑 しょうがっこうあとちきねんひ 11:03着 11:05発

記念碑

訪ねる前までは、昨今話題の少子化に伴う統廃合で廃校になったものかしら−と思っていたのですが、そうではなくて小学校は小学校でも尋常小学校のお話しだったの。碑には「学校跡の碑について」と題して「この碑は、郷土の人材育成に輝かしい実績を遺した旧栢間村柴山枝郷尋常小学校及び栢間小学校分教場の校歴を、永久に記識する為、柴山枝郷地区住民並びに関係者の熱意と強力により、建設されたものである」とあり、引き続き、その沿革が記されていたの。ゆかりの無い方には取り立てて興味を覚える代物でもないわね−と云うのが正直な感想だけど・・・

縁りある方に或いは御覧頂いているかも知れませんので、参考までに転載しておきますね。
But 掲載に際しては一部修正加筆&体裁変更していますので御了承下さいね。

一. 沿革の大要
(1) 独立校建設以前に当地区子弟の通学した学校
  1. 柴山学校−柴山正泉寺 明治6年(1873)−同12年(1879)
  2. 潤身学校−字神の木1463番地 稲荷社東南域 元農家空屋を戸長森田賢一郎氏が買収して設営
    明治12年(1879)−同18年(1885)
  3. 尋常小学下栢間学校−大字上栢間正法院 明治19年(1886)−同21年(1888)
  4. 尋常小学栢間学校−同じく正法院 明治22年(1889)−同23年(1890)1月
  5. 栢間尋常小学校柴山枝郷分教場−旧潤身学校校舎使用 明治23年(1890)2月−同32年(1899)9月
  6. 柴山枝郷尋常小学校−私立 利用校舎は5.と同じ 明治32年(1899)10月−同35年(1902)9月
  7. 栢間尋常小学校柴山枝郷分教場−利用校舎は5.と同じ 明治35年(1902)10月−同41年(1908)3月
(2) 栢間村柴山枝郷尋常小学校(独立校)の建設
  1. 所在−字神の木(1530の1 及び 2、1521の2番地)
  2. 敷地−約454坪 森田七郎・森田政右衛門・小山琴の三氏より寄贈
  3. 建物−校舎使丁室各々一棟 木造瓦葺平家建 総建坪約72.75坪
  4. 経費−大部分地区民負担 用材は丸谷稲荷社 神の木稲荷社 同常勧堂の杉(両社小塚一本木の杉寄贈)
  5. 学校規模−複式二学級 後に三学級
  6. 設置期間−同41年(1908)4月−大正12年(1923)3月
(3) 栢間尋常高等小学校分教場(仮校舎)の設置
  1. 設置期間−大正12年(1923)4月−昭和47年(1972)3月末
  2. 通学区−大字柴山枝郷の内字丸谷・神の木
  3. 規模−複式一学級(小学一二年児童)
二. 教職員二十同(と読めるのですが、意味は不明。普通なら教職員一同よね)
(1) 独立校時代−校長五代(内野清太郎 田口良一 福島春吉 丹下要次郎 大山利三郎)教職員21氏
(2) 分教場時代−校長(栢間小学校長)12代・教職員18氏

昭和47年(1972)3月末日をもって、明治6年(1873)以来約百年にわたる当地区の教育振興、特にこの地での65年に及ぶ育英の歴史は、旧栢間村、及び菖蒲町の村づくり町づくりに、多大の薫績を遺し、ついに有終の時を持った。私たちはこれら先人の尊い足跡を碑に刻み、もって永く後代に伝えんとするものである。
昭和54年(1979)11月23日 菖蒲町柴山枝郷学校跡の碑建設委員会

16. 八雲神社 やくもじんじゃ 11:17着 11:20発

菖蒲町指定有形民俗文化財 八雲神社の山車 一基 指定年月日:平成6年(1994)3月31日
所在地:菖蒲町大字柴山枝郷(現:久喜市菖蒲町柴山枝郷) 所有者:八雲神社

八雲神社は【武蔵国郡村誌】に依ると「平社々地東西四間南北十二間六寸面積四十八坪 村の西南にあり 素戔鳴尊を祭る 祭日陰暦六月十五日」とあります。村の古老の話に、八雲神社は「江戸時代新田開発の成功を記念し、素戔鳴尊を祭神として祭り、山車もこの頃に作られた」とあります。

ふるさと会館 山車 この山車は、四つ車で囃子座と人形座からなり、唐破風屋根の上に人形座をのせる形式です。囃子座は床上高欄付で本体より左右に広く作られており、人形座との境は鞍馬山の牛若丸を彫刻した四枚の羽目板で仕切られています。左右の脇障子は昇り龍・降り龍の彫刻で飾られています。正面の鬼板は奇稲田姫・素戔鳴尊・酒甕、懸魚と妻飾・向拝柱は昇・降の龍などが配され、八雲神社の祭神である素戔鳴尊の故事に倣った彫刻で飾られています。これらの彫刻は篠津(白岡町)の彫工立川音芳氏の手になるものです。

裏面は鬼板が鶴・懸魚が亀の瑞兆彫刻で、立川氏をして「良いものだ」と云わしめたという話が残っており、当初からあった彫刻と思われます。腰水引の幕は流水とアヤメを白抜きにあしらった図柄で、本藍染めの作品です。人形座は唐破風屋根に穴を穿ち、一本柱を立て先端に床上高欄を設け、烏帽子を被った楠木正成の人形が見下ろす形に設定されています。人形座下の三重幕は緋色で、正面には御祭壇と云う文字、左右には巴模様が描かれています。二重幕は左右・後ろの三方を囲むように装着され、文様は緋色の羅紗地に刺繍で、竹林に虎が配されたものです。山車の梁には明治12年(1879)の年号があり、また二重幕の裏には「明治13年辰年6月15日小塚氏子中」の墨書が見られることから、山車の製作年代はこの頃と考えられます。腰水引の幕は、平成6年(1994)3月、山車の町指定記念に新調されました。製作は埼玉県指定無形文化財・武州藍染の伝統技術保持者である中島安夫氏です。平成9年(1997)3月15日 菖蒲町教育委員会

17. 太鼓阪旧跡碑 たいこざかきゅうせきひ 11:46着 11:48発

幸福寺の少し手前の道端には「往昔辨財天影向之地や云々」と記す太鼓阪舊跡碑があるの。平坦な道も以前は坂道で、道行く者が足を踏むと地中からは太い鼓のような音が響いて来たことから太鼓阪と呼ばれていたのだとか。逸話では、その昔、弁財天が降り立ち、この地を踏んだところ、地中からは鼓の音が響いて来たので弁財天は手にした琵琶を弾いてしばらく唱和を楽しむと、やがて空に消えたと云うの。碑にはその後当地に立ち寄った西行法師がその話しを耳にして詠んだと云う「天姫のたるるしるべは玉鉾の みちにつづみの音は残れる」の一首も併せて刻まれているの。

正徳5年(1715)、その不思議が気になった幸福寺第11世住持の中和和尚が地中を深く掘り返してみたものの、これと云って変わったところは無かったそうよ。太鼓はいつの頃からか幸福寺の大御堂に棲む龍がどこからか銜えてきて地中に埋めたものであると信じられるようになったの。その大御堂も昭和6年(1931)に焼けているのですが、その際には雲に乗った龍が東の空に飛び去るのを見たと云う古老の話もあるのだとか。謎めいた逸話を遺す太鼓阪ですが、地勢を変えた今では音もしなくなってしまったの。

18. 弁天社 べんてんしゃ 11:49着 11:52発

太鼓阪旧跡碑から差程離れずして弁天社があるの。祭神は狭依毘売命(=市杵島比売神)で、神仏分離以前は弁財天と習合させられていたの。But ここでは神仏混淆状態のままですが、実はこの弁天社、幸福寺の境外堂になっているの。創立年代は不詳ですが、前述の弁財天の逸話は建久8年(1197)のことなので、或いはその頃に勧請されたものかも知れないわね(勝手推論モード)。何でも鼻と口を結んでこの弁天社の廻りを七周半すると龍が現れると云われていたのだとか。龍は弁財天の使いでもあるわよね、それが出来た暁には弁財天に遇えるかも知れないわね。

19. 幸福寺 こうふくじ 11:52着 12:18発

幸福寺は正式な山号寺号を光明山幸福寺とする曹洞宗の寺院ですが、嘗ては天台宗を宗旨としていたの。寺史を紐解くと、幸福寺は建久6年(1195)に源頼朝が仏法修行の道場として開基したもので、頼朝没後に正室の政子が追福のために境内に堀河山大御堂妙法寺を建立して阿弥陀如来を安置したの。盛時には多くの堂宇を有する大伽藍となり、末寺を抱えて隆盛を極めたと云うの。それが延徳元年(1489)、背景が分からないのですが、最乗寺(神奈川県小田原市)系の茂林寺(群馬県)から漱桂正香和尚を招いたのを機に現在の曹洞宗へと改宗しているの。

境内に足を踏み入れると最初に大御堂があるの。現在はコンクリート造ですが【風土記稿】には「彌陀を安ず 此堂を堀河山妙法寺と號す 是往昔當寺の塔頭なりしが 何の頃よりか境内の一堂となれり 此堂は大同元年(806)造立のままなりと云」と記されているの。【風土記稿】が編纂されたのは文化文政期(1804-29)のことですから、口伝が云うように大同元年(806)が正しいとすると既に1,000年もの時を経ていることになり、無理があるわね。尤も、その大御堂も昭和5年(1930)には焼失してしまい、現在の建物は昭和52年(1977)に再建されたものなの。

【風土記稿】の幸福寺境内之図には「東照宮比企郡三保野谷の養竹院より 移し植させ給ふ所」の御前桜が一際大きく描かれているのですが、家康が鷹狩りの際に立ち寄ったのを機に歴代将軍家の宿膳所として利用されたことから後盾を得て隆盛したみたいね。その御前桜も、理由は不明ですが現在は跡形もないの。それはさておき、手入れの行き届いた境内には禅宗系寺院であるが故に張りつめた空気が流れ、敷石を辿りながら境内を巡ると参禅せずとも心洗われる気がしてくるの。菖蒲町を訪ねたら是非お立ち寄り下さいね。ξ^_^ξ一押しのお薦めスポットよ。

境内の景観写真を何枚かアップしておきましたので、御覧になりたい方は上の画像をクリックしてみて下さいね。 但し、スライドは完全マニュアル・モードですので御協力下さいね。

大御堂橋

ところで、地名の栢間ですが、【風土記稿】には「元より栢間の名は上古より聞えし地名にて 當國七黨の内野與黨の系圖に 野與小太郎行基の三男を 萱間六郎弘光と云 其子季平其男太郎季重を始とし 萱間氏の者數輩見えたり 今栢間と書て 唱にはかやまと呼べり されば文字は違へど 同く此地名に依て唱へしにや 又【吾妻鏡】にも萱間左衞門次郎季忠或は栢間左衞門次郎行泰と云人見ゆ 世を以て推に正嘉(1257-59)頃の人なり 其内左衞門次郎行泰は 既に七黨系圖にも見えたれば 栢間の名古きこと疑なし云々」とあり、そこから栢間の地名が生まれたと伝えられているの。

20. 善宗寺 ぜんそうじ 12:26着 12:41発

善宗寺の入口ですが、御覧のように民家の塀の佇まいで、門柱がある訳でもないので普通に歩いていたら気付かずに通り過ぎてしまうかも知れないわ。何を隠そう、最初に訪ねた時のξ^_^ξがそうだったの。反対側に建つ立派なお家に目を奪われながら歩いていたら、知らない内に通り過ぎていたの。一向にそれらしき建物も入口も見えて来ないので不安になり、地元の方に訊ねて初めて通り過ぎてしまったことを知ったの。同じ間違いをしないために、善宗寺の入口の写真を載せておきますので参考にして下さいね。尚、この入口から山門までは100m位あるの。

【風土記稿】には「淨土宗 京都知恩院末 寺領50石は慶安2年(1649)10月17日御朱印を賜ふ 國豐山天龍院と號す 開基は地頭四郎左衞門正成が草創にて 今に菩提所となせり 正成法名は天龍院殿源譽善宗居士と稱す 開山は了蓮社覺譽なり 本尊阿彌陀を安ず」と記されているのですが、寺領50石と云うのは破格よね。それもそのハズ、開基の内藤四郎左衛門正成は江戸幕府の草創期を支えた功臣として「徳川家康十六将」の一人にも数えられ、その正成が病に伏せて危篤状態に陥ったと知ると徳川幕府二代将軍の秀忠は侍医を正成の許へ遣わした程なの。

お気付きのように院号寺号は正成の法名に由来するの。天正18年(1590)の創建の後、延宝元年(1673)には内藤外記藤原正重が中興、文化文政期(1804-29)には阿弥陀堂や観音堂などが境内に建ち並び、嘉永4年(1851)には本堂や客殿が再建されるなど寺勢を得ていたみたいね。それが明治4年(1871)の罹災で伽藍を失い、明治22年(1889)にようやく本堂や鐘楼などの再建がかない、今日に至っているの。この、明治4年(1871)の罹災と云うのは気になるわね。廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていた時代と重なり、或いは−と考えてしまうのは穿ちすぎかしら?

次に訪ねる内藤氏陣屋跡へは善宗寺参道の途中にある近道(抜け道とも)を利用しました。
歩行者や自転車以外は通れない細い道ですが、陣屋跡案内板の目の前に出ることが出来るの。

21. 内藤氏陣屋跡 ないとうしじんやあと 12:43着 12:44発

栢間小学校 陣屋とは、江戸時代に代官、その他の役人などが各任地に所有していた屋敷・役舎のことである。内藤氏の陣屋は、栢間小学校の敷地(約35,000m²)に当たり、当時は二重の堀を構えており、江戸時代後期とみられる栢間村の絵図面からもその立派な造りが窺える。また、内藤氏の江戸時代初期の知行地は、現在の菖蒲町の菖蒲・新堀・小林・栢間・三箇の五か所にわたって5,000石あり、幕末に於ける菖蒲町全体の石高が約9,000石であることからも、内藤氏が菖蒲町の大半の土地を支配していたことが分かる。

御陣屋橋 現在の地に陣屋を置いたのは、天正18年(1590)、内藤四郎左衛門正成の時である。寛永8年(1631)、その孫内藤新五郎忠俊の代に改易(武士の籍を除き、領地や家屋敷を取り上げる罰則)を受け、以後、正成の外孫に当たる内藤外記正重がその後を継ぎ明治まで続いた。尚、内藤氏の累代の墓石は南隣りの地にある善宗寺にある。
昭和58年(1983)3月 菖蒲町教育委員会

22. 正法院 しょうぼういん 12:49着 13:05発

内藤氏陣屋跡から県道R12へと歩くと下栢間の交差点に出ますが、少し離れて正法院があるの。「菖蒲4時間コース」では立ち寄りポイントに含まれてはいませんが、訪ねてみたので紹介しますね。正法院は康正元年(1455)円俊和尚を開山に領主の鳩井三郎が開基したもので、鳩井家累代の菩提寺でもあったの。江戸時代になると領主も内藤正成へと変わりますが、正成もまた正法院を保護したの。慶安2年(1649)には3代将軍家光から10石8斗の朱印状を得るなど、嘗ては京都智積院末として境内地6,000坪に堂塔10数棟が建ち並ぶ近隣稀な大伽藍を有していたと云うの。

承応3年(1654)には第16世尊雄が中興開山し興隆したとあるのですが、時を経て明治期の廃仏毀釈や戦後の農地解放を受けて境内も縮小されてしまったの。大正5年(1916)には末寺の正福寺と薬師堂を併合し、現在は慈眼山観音寺正法院を正式な山号寺号とする真言宗智山派の寺院。

菖蒲町指定有形文化財 木造十一面観音立像 一躯
指定年月日:平成10年(1998)2月20日
所在地:菖蒲町大字上栢間(現:久喜市菖蒲町上栢間) 所有者:正法院

真言宗智山派の名刹であるこの寺は、山号を慈眼山観音寺正法院と云います。本尊は不動明王で、慶安2年(1649)に高10石8斗の御朱印を賜っています。正法院の過去帳には、康正元年(1455)僧円俊によって草創されたとあります。

十一面観音像 【新編武蔵国風土記稿】は、「僧円俊文明年中(1469-1486)草創す」と載せ、【武蔵国郡村誌】では「慶長7年(1602)長深の創立にして開山は尊雄なり」とあります。【風土記稿】栢間村古城蹟の項に、「村の東の方小名沼尻にあり −中略− 古くは鳩井将監と云者 此所に住せしと云」、また「村内正法院の熊野社に蔵する永禄13年(1570)の棟札に 大檀那鳩井殿息女鍋殿と載たれば」とあり、更に他の文献を引用して鳩井氏が古くより栢間(沼尻)に住み、正法院と密接な関係にあった事を伝えています。この十一面観音像は、正法院観音堂の本尊として伝わっています。【風土記稿】には「長三尺許 立像の正観音を安ず 行基菩薩の作と伝ふ」とあります。 十一面観音像の形状は、菩薩形で、頭頂に上下二段に10個の仏面(変化面)を配し、宝冠台正面に弥陀の化仏を置いています。胸には瓔珞(宝石の付いた首飾り)を着け、通肩風に法衣を纏い右腕を下げ、左手に華瓶(けびょう)を持っています。スギ材の一木で造られ、眼を彫り、彩色が施されています。この彩色は、白岡町に住んでいた仏師立川金禄氏に依頼して、昭和41年(1966)に行ったものです。菩薩形ながら、衲衣(のうい:僧の法衣)に偏衫(へんさん:僧衣で上半身を覆う法衣)を通肩風に纏う姿は、鎌倉時代末頃から普及し始める宋風の菩薩像の影響を受けています。地味で堅実温和な仕上げやスギ材の一木造りと云う技法から、在地仏師の製作したものであろうと考えられます。制作年代は室町時代、特に文明(1469-86)の頃と考えられ、菖蒲町の中世彫刻を代表する仏像です。平成12年(2000)3月15日 菖蒲町教育委員会

本堂の左手には木の香も漂う真新しい堂宇が建てられ、文殊菩薩像が安置されていたの。案内板には「彩の国武州路十二支本尊霊場 文殊菩薩 知恵の仏様〔 前略 〕正法院の文殊菩薩は、住職が平成3年より、百観音巡礼、関東八十八ヵ所霊場を8年の歳月をかけて壇信徒の皆様と巡礼し無魔成満できたことは、仏恩であり、この尊い足跡を後世に伝えたい報恩感謝の念から仏像の制作を発願、平成12年彩の国武州路十二支本尊霊場会が結成され、卯年文殊菩薩の寺となる。そこで仏像制作を彫刻家島田恭宏師に依頼し、十数年の歳月をかけ心血を注ぎ完成した菩薩です。

大ささは、高さ台寸含め四米を越えるもので、木像の一木造りです。丈殊菩薩は「知恵の仏」「学問の仏」として、入学祈願、学業成就、所願成就、心願成就の願いをかなえ、丈殊の「知恵の泉」にお導きたもう菩薩です」とあるの。御案内が前後しますが、山門左手には八尊仏が並んでいるの。人は生まれた年の干支により守護してくれる仏さまが決まっているのですが、それが守り本尊で、厄災を取り除き、無病息災や家内安全などの御利益をあなたに齎してくれるの。変ね、十二支は12種類あるので八尊仏じゃなくて十二尊仏の間違いじゃないの?


千手観音菩薩
勢至菩薩
丑・寅
未・申
虚空蔵菩薩
大日如来

文殊菩薩
不動明王
辰・巳
戌・亥
普賢菩薩
阿弥陀如来

抑々正法院は、中興開山より数えて550年、当山歴代先住の寺門興隆と檀信徒の信仰に支えられて、益々充実し仏法興隆して今日に至る。平成7年(1995)には関東八十八カ所弘法大師霊場が開創となり、当山は第八十一番札所となる。茲に、世界平和・国家安穏・万民豊楽・五穀豊穣・檀信徒の安寧・所願成就を願い、全国百観音(秩父三十四観音・板東三十三観音・西国三十三観音)霊場巡拝を発願し、御本尊、弘法大師の御加護のもと、無碍なく円成する。この尊い仏縁仏恩に報謝し、檀信徒の教化と報恩行に徹し、聖業を後世に伝えるため、巡礼者役員の尊い浄財を飢饉として八尊仏(人一代の守本尊)を建立する。ここに、仏像制作者工事関係者の尽力と優れた技法で見事に完成する。その崇高な仏心に深甚の敬意を表し、その名を刻すと共に巡礼者一人一人の心に美しい思い出として生き続けることを願い、記念の碑文とする。合掌。維時平成9年(1997)11月吉祥日 真言宗智山派 慈眼山観音寺正法院住職第39世 中僧正 行全

23. 天王山塚古墳 てんのうやまづかこふん 13:12着 13:23発

所在地:南埼玉郡菖蒲町大字栢間(現:久喜市菖蒲町上栢間)天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、巾は20mほどである。主体部は不明であるが、墳形の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものである。栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の一基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。昭和58年(1983)3月 菖蒲町教育委員会

その後、平成15年(2003)の下水道工事に伴う発掘調査では、全長が従来より2m長い109mと判明し、現在は稲荷山古墳と並んで埼玉県でも5番目の大きさを誇る前方後円墳になっているの。一方、周溝の方は説明には巾20mとあるのですが、現在は北側に8m程が残るだけとなり、いずれ無くなる運命かも知れないわね。それはさておき、肝心の古墳ですが、天皇陵と違って立ち入り自由よ。と云っても門外漢のξ^_^ξには単なる小山にしか見えないけど。先ずは後円部の頂上を見極めたところで前方部に向かいましたが、その前方部には薬師堂が建てられているの。

最初に薬師堂を目にしたξ^_^ξは、何故こんなに立派な建物が余り人目に触れることもないようなこんな場所に建てられているのかしら?と思ったの。加えて、堂内には薬師如来に日光・月光両菩薩が脇侍し、左右には薬師如来の眷属・十二神将が祀られると云うフルセット状態だと云うの。そこまで揃っていながら拝観出来ないのは残念ね。この薬師堂は正福寺が大正5年(1916)に正法院に併合されるまでは、その正福寺持ちだったそうなの。古墳北側の造出部にも道が作られ、下ると卵塔や宝篋印塔が並んでいたのですが、墓塔は正福寺があった頃のものかしら。

道路際にテスコ梱包(株)と云う会社があるのですが、駐車場の路面には「参道入口」と書かれていたの。そのまま白線に従って突き進むと薬師堂への石段下に出ることが出来、そこからは薬師堂の屋根が見えると云う至近距離なの。まさか、無関係の会社の敷地内に参道があるとは思わないわよね。ξ^_^ξも薬師堂に辿り着いてから初めて知ったの。でも、そのルートでは天王山塚古墳の案内板を目にすることは出来ないので御注意下さいね。

天王山塚古墳の西側に続く道を辿ると右手に御覧の横道が見えてくるの。右側は鎮守の森公園が続くので直ぐに分かると思うわ。道奥左手に神明神社の参道入口があるの。そうそう、その入口の反対側辺りになるのですが、公園内にお手洗いがあるので御利用下さいね。ここを過ぎるとゴールの農協直売センターまでトイレ休憩出来そうな場所が無いの。この鎮守の森公園ですが、人口密度の割りには立派な公園よ。But 公園内に人がいるのをξ^_^ξは一度も見たことがないけど(笑)。避難場所の案内があるので或いは災害時を想定した公園なのかも知れないわね。

24. 神明神社 しんめいじんじゃ 13:29着 13:49発

神明神社の名を広く知らしめているのが樹叢の存在なの。何と社殿前まで木々に覆われた参道が500m以上も続くの。道理で鳥居から奥を覗き込んでも何も見えないハズよね。この「神明神社の社叢」は昭和52年(1977)に埼玉県の天然記念物に指定されているの。

神明神社は、古くから住民の信仰を集めてきた由緒ある社である。社叢は、長さが550mを超す参道林と境内林とから成り、面積は約1.74haに及ぶ。参道の両側にはアカマツ・クロマツの並木が続いている。境内林は高木にアカシデが多く、部分的に杉が点在する。

これより低い木としてはヒサカキ・シロダモ・エゴノキ・アズマネザサ等が多い。草木類では、チヂミザサ、ジャノヒゲ等が比較的多い。この社叢は、現在はアカシデを主体とした不安定な状態を示しているが、潜在的にはヒサカキ・サカキを主体とするシラカシ群を、自然植生とみることが出来る。境内にあるアカマツの大木は、樹状が笠状を呈するので「笠松」として知られている。埼玉県東部低地には、潜在自然植生をよく示す広域的な林は少なく、貴重である。昭和54年(1979)11月3日 埼玉県教育委員会 菖蒲町教育委員会

神明神社の創立は、社伝に景行天皇の時と云われる。祭神は、古くは天照皇大神、豊宇気毘売神、大宮売神の三神であったが、現在は天照皇大神、豊宇気毘売神の二神を祭っており、伊勢神宮の分霊のため、近年まで神明両社と呼んでいた。江戸時代、徳川家譜代の家臣内藤四郎左衛門正成が、栢間及び新堀、三箇、戸ヶ崎、小林の旧五か村を領してから、五か村の総鎮守として以来、歴代の領主が厚く崇敬した。明治6年(1873)に村社となり、昭和16年(1941)郷社に昇格し「神明神社」と改称、更に昭和20年(1945)に県社となった。

本殿は、天保8年(1835)に建てられたもので、昭和38年(1963)に屋根を改修している。毎年1月15日には、火防除(ひぶせよけ)と呼ばれる鎮火祭と、その火で粥を煮てその年の作物の豊凶を占う筒粥の神事が行われる。筒粥の神事は、大鍋に米3合水6升を入れ、葦の節のないところを長さ7寸位に切り、18本を簀状にし麻で結ぶ。一本一本の葦に米粒が入る数によって占い、多くの米粒が入ったものほど豊作とされている。昭和58年(1983)3月 埼玉県

神明神社の主祭神は天照大神と豊受大神(とようけのおおみかみ)の二柱ですが、太陽のエネルギーは全ての生き物にとってかけがえのないものよね、その太陽を象徴する神さまが天照大神。伊勢神宮の内宮に祀られるのがその天照大神なら、一方の豊受大神は伊勢神宮の外宮に祀られる穀物の神さまで、元々は天照大神の食事(=御饌(みけ))を調達する役目を担うことから、転じて全ての人々の食物を司る神さまとなったの。稲や穀物の豊作を願う栢間の人達が他の神さまをさしおいて祀ったのも頷けるわよね。

とは云うものの、明治35年(1902)に八幡社を合祀したのを機に神明神社には近在の各社が合祀されているの。専用の社殿こそありませんが、ざっとその名を挙げると大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)、天神さま(=菅原道真)、猿田彦命、保食命(うけもちのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと=神仏習合時は弁財天)、素戔嗚尊(すさのおのみこと=同じく神仏習合時は牛頭大王)、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、別雷命(わけいかづちのみこと)が祀られているの。天照大神が「この指と〜まれ」と集合させたのかどうかは分からないけど、他にも社殿左手に広がる薄暗い(笑)森の中には三峰社等々も鎮座していて、神さまの見本市会場状態よ。

〔編集余話〕筒粥神事ですが、説明には18本の葦で占うとある一方で、菖蒲町教育委員会編『菖蒲町の歴史と文化財』では17本と記されているの。じゃあ、どんなものを占うのかと云うと、大麦・小麦・早稲・中稲・晩稲・粟・稗・きび・大豆・小豆・大角豆・木綿・麻・芋・菜種・蚕・桑の17種類だそうよ。中にはもう作付けされていないんじゃないの−というような作物もあり、今でもお蚕さんや桑が占いの対象になっていると云うのは、裏を返せば神事が連綿として行われて来た証でもあるわね。

その神明神社からは一度左手に抜けて社殿の背後に広がる樹叢を大きく回り込むようにして歩きますが、森下橋を渡った先に左掲の赤堀改修碑があるの。この石碑は傍らを流れる栢間赤堀の改修工事を記念して昭和9年(1934)に建てられたものなの。題字には嘉福成基と篆刻されているのですが、嘉福(かふく)基(もとい)を成(な)すと読み、幸福こそがものごとの基本となる−の意だそうよ。その碑文ですが、漢文で記されていることから解読を断念。気になる方は現地にお出掛け下さいね。(参考:通過タイム 14:00着発)

次の弁天沼の少し手前に「しみん農園」があるのですが、その生け垣に歴史の森ウォーキングコースのイラスト・マップを見つけたの。案内には「ここ栢間地区は天王山塚古墳を代表とする「栢間古墳群」をはじめ、神明神社、旗本内藤氏陣屋跡・墓所など数多くの文化財が点在する歴史豊かな地域です。道端にたたずむ庚申塔や道標をながめながらのウォーキングをお楽しみ下さい」とあり、分かり易い案内図よ。参考までにアップしておきますので御参照下さいね。But 既に廃止された菖蒲町内巡回バスのバス停がそのまま表示されていますので御注意下さいね。

25. 弁天沼 べんてんぬま 14:08着 14:15発

弁天沼は「田んぼ」や「畑」の、稲や野菜を育てるための農業用の「ため池」です。弁天沼に溜められた水は、27.5haの農地を潤します。この沼は、昭和41年(1966)から同47年(1972)にかけて行われた「ほ場整備事業」で、この地域にあったクリークと呼ばれる沼や水路などを農業用の水源にするために一つにまとめてつくられました。そして、崩れて危険になった護岸を、平成9年(1997)度から15年(2003)度にかけて、農村環境整備事業として、みなさんの憩いの場となるように整備したものです。

26. 農協直売センター食堂前BS のうきょうちょくばいせんたーしょうくどうまえばすてい 14:18着

バス停 意を決して早起きして出掛けて来たこともあって時間としては余裕のゴールでしたが、それでも7時間は歩き回っていたことになるわね。ここからは桶川駅東口行のバスに乗車して帰途に就きました。と云っても他の行き先のバスがあるわけではないのですが。運行本数も多くは無いので、先に時刻表を確かめてから直売センター(正式名称:JA南彩菖蒲グリーンセンター)へ向かいましょうね。手打ちのお蕎麦やうどんが食べられるJA南彩食堂、通称農協食堂も別棟に併設されているの。詳しくは JA南彩 を御参照下さいね。

















あやめ・ラベンダーのブルーフェスティバルを機に幾度か訪ねた菖蒲町ですが、花の時季を過ぎると元の静かな町になるの。今回の散策ではいつものように寺社めぐりが中心になっていますが、史蹟を訪ね歩けば、東京から遠く離れたこの地が嘗ては武蔵国の中心圏内にあったことを教えてくれるの。代用水路遊歩道では散策する地元の方の姿もあり、挨拶を交わしたり、話しかけられたりもしましたが、季節を外せば落ち着いた時間が流れて、心優しい地元の方と出会うことも出来るの。あなたもアヤメやラベンダーの競演を愛でた後は日にちを違(たが)えてのんびりと散策してみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
菖蒲町教育委員会編 菖蒲町の歴史と文化財 通史編
菖蒲町教育委員会編 菖蒲町の歴史と文化財 資料編






どこにもいけないわ