≡☆ 志木市内のぶらり史蹟めぐり ☆≡
2016/07/18

以前、世界に一本しか無いという長勝院旗桜に惹かれて訪ねてみた志木市ですが、いざ足を向けてみると、旗桜の他にも気になる事蹟が数多くあることを知ったの。梅雨の晴れ間の一日、その志木市内をぶらり史蹟めぐりをしてみましたので紹介しますね。掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

郷土資料館〜いろは橋〜敷島神社〜寳幢寺〜舘氷川神社〜城山貝塚〜長勝院跡

1. 宗岡小学校BS むねおかしょうがっこうばすてい 9:33着発

今回の散策コースは 河童のつづら に掲載されていた「志木ぶらり散歩マップ」を参考にして歩いてみたの。その散策マップを広げてどんな史蹟があるのか眺めていたら、郷土資料館が宗岡にあることを知ったの。散策するなら前以て情報収集してからの方が良さそうね−と思い、最初に訪ねてみることにしたの。かと云って、はなから資料館のある宗岡まで歩くのは大変よね。そこで路線バスの出番よ。志木駅東口3番乗場から国際興業バスが多発してくれているの。志木駅からの所要時間は8分余で、運賃も ¥210 と、お財布にも優しいのでお薦めよ。バス乗り場の案内や、どこ行のバスに乗車したら良いのかなど、詳しいことは 国際興業バス を御参照下さいね。

2. 志木市立郷土資料館 しきしりつきょうどしりょうかん 9:34着 10:32発

入口の門構えからして旧家のそれを思わせる佇まいですが、この資料館の建物は宗岡の内田家から寄贈された「離れ」を改築したもので、江戸末期に築造された建物であることからその歴史的価値を踏まえ、保存を兼ねたものになっているの。開館は昭和54年(1979)とのことですが、市内の各遺跡から出土した土器や石器をはじめとした考古資料に、宗岡地区の稲作に多大な貢献をした野火止用水や「いろは樋」関連の歴史資料に加え、江戸時代後期から昭和にかけて市内で使われた民俗資料などが展示されているの。入館料:無料よ、無料!

とりわけξ^_^ξのお薦めは、市の指定文化財が写真と共に解説されているコーナーがあることね。所在先に足を運んだからと云って、実物だけで何の説明も無い場合があったりするものよね。それが、この資料館に事前に立ち寄ることで解決出来てしまうの。それに、どこにどういったものがあるのかも一目瞭然よ。うれしいことに写真撮影もOKなの。

建物の玄関口には懐かしい赤い郵便ポストが置かれていたの。今では見掛ける郵便ポストはみな〒マークをそのまま形にしたようなものに替わってしまいましたが、丸い形の郵便ポストからは手紙を投函する人達の心の通い合いが感じられるような気がするわね。残念ながら投函口は塞がれていましたが、「一号丸形郵便差出箱( 郵便ポスト )昭和41年(1966)製 このポストは向かいにあったものですが、昭和60年(1985)に箱形に交換されたので、志木郵便局から寄贈されました」と案内されていたの。そう云えば、最後に手紙をしたためてポストに投函したのはいつのことだったかしら、最近はポストにお世話になるのは専ら年賀状を投函するときだけだし。

展示品の個々についてはお出掛けの際にご自身の目で確認して頂くことにして、幾つかξ^_^ξが興味を覚えたものを紹介してみますが、最初に挙げるのは長勝院の神鏡と版鐘なの。今回の散策では長勝院跡も訪ねますが、同寺は既に廃寺となっていることから遺物がこの資料館に収蔵展示されているの。今となっては長勝院旗桜と共に、長勝院が嘗てこの地に存在していたことを物語る貴重な歴史遺産でもあるの。

〔 長勝院の神鏡 〕  柏町にあった長勝院がまだ神仏混淆の時代に神霊として安置されていたものと思われます。素材は銅合金で、裏面には5羽の鶴が戯れる吉祥図が描かれています。また、江戸期の鏡師は「天下−出雲」などと国名を刻みましたが、この神鏡にも「天下−津田薩摩守家重(つださつまのかみいえしげ)」の銘が彫られており、おそらく江戸期の作と思われます。志木市立郷土資料館

〔 長勝院の版鐘 〕  元禄5年(1692)・志木市指定文化財
この版鐘は、昭和60年(1985)に解体された長勝院の本堂の廊下に懸けられていたもので、小型ながら注目されているのは、施主9人の居住地として「大塚村」の地名が記されているためです。江戸中期以降は舘村の小字と化し、また、今では辛うじて町内会の名称に名を留めるに過ぎなくなっている「大塚」が、嘗ては「村」であったことが分かるからです。志木市立郷土資料館

PHOTO-A PHOTO-B PHOTO-C

PHOTO-A:
ジューサーと昭和25年(1950)頃から使われていたと云う氷かきよ。
でも、その頃は未だ一般家庭に冷凍冷蔵庫なんて無かったハズよね。
PHOTO-B:
栓付きの牛乳ビンがあっただなんて、知らなかったわ。
説明は無かったけれど、いつ頃使われていたものなのかしらね。
PHOTO-C:
昭和37年(1962)に発売された、かまぼこ形の電気こたつだそうよ。
どうやって使うのかしらね。足を載せて、その上にお布団を掛けるのかしら。

館内の見学を終えて外に出てみると、敷地の一角に何やら屋外展示されているものがあるのを見つけたの。
最初は織機か何かの機械で、産業遺産かしら−と思い、近づいてみたのですが、いろは樋関連の遺構だったの。

それから、もう一つ。バスを降りてこの資料館に訪ね来るときに、道路脇に見えていた「 8.195m - 明治43年の洪水の最高水位 」の表示板ですが、敷地内に解説があったの。文末には「大水害の不安は解消されました」とはあるものの、自然はいつまた牙をむくとも限らず、災害に供えた心積もりだけは忘れてはいけないわね。徒らに恐怖心を煽る積もりは毛頭ありませんが。

〔 明治43年の洪水 〕  明治43年(1910)8月1日から16日にかけて、2つの台風と低気圧の停滞による大風・大雨は、県下に、死者行方不明324人、流失倒壊家屋2,227戸、破損家屋15,920戸、浸水家屋84,538戸と云う甚大な被害をもたらしました。志木市(当時は、志木町・宗岡村)に於いても、河川の氾濫などにより、大水害に見舞われました。古老の話や云い伝えに依ると、宗岡村全戸が水没してしまったと云われています。ここに表示している最高水位は、昭和61年(1986)〜62年(1987)に水害と人々の暮らしについての調査を実施し、宗岡地区の洪水の爪痕が残された建物から水位を確認したものです。現在では、堤防の整備などの河川改修が進み、大水害の不安は解消されました。

3. 一里塚 いちりづか 10:35着発

〔 一里塚 〕  宗岡小学校の北側の市道は、嘗ては奥州街道(甲州道とも云う)と呼ばれ、甲州と関東・奥州を繋ぐ重要な道でした。一里塚とは、街道の両側に一里(約4Km)毎に設けられた塚のことで、多くはその上に榎を植えて旅人の目印とされていました。この一里塚は、奥州街道沿いに設置されたもので、現在は榎の老樹と石塔があるだけで、塚としての姿は全く見られなくなっていますが、文化・文政年間(1804-30)に編纂された【新編武蔵国風土記稿】( 以降【風土記稿】と略す )には「ここに少しく堆き塚あり 上に榎一株立てり」と記されることから、その頃までは未だ塚があったことが分かります。尚、この一里塚の前後の塚では、埼玉大学門前よりやや羽根倉橋寄りの地点にあった下大久保の塚や、清瀬市との境界近くの新座市愛宕の桜株と呼ばれる場所にあった塚などが知られています。平成6年(1994)3月30日 志木市教育委員会

一里塚

志木市指定文化財と案内されていたので、往時の姿そのものとは云えなくても、形あるものが残されているのでは−と期待して訪ねてみたのですが、これでは一里塚と云うよりも一里塚跡ね。案内板でも触れていますが、【風土記稿】の宗岡村の項には「此所は鎌倉より奥州への古街道なりし由 今も民戸多く立並べり 爰に少しく堆き塚あり 上に榎一株立り 是則一里塚なれば 彼古街道の證とすと云」とあるの。左掲は志木市教育委員会発行「しきし歴史まっぷ〜宗岡編〜」に掲載されている昭和50年(1975)頃の一里塚の様子を示した景観写真ですが、往時には馬を休め、榎の木陰で涼をとる旅人の姿があったのかも知れないわね。

4. 実蔵院 じつぞういん 10:40着 10:46発

正式には蓮華山無量寿寺実蔵院と称し、行者澄平が沼で投網をした際に、網に掛かってきた銅製の阿弥陀如来像を本尊として、元和3年(1617)に創建した草庵がその始まりと伝えられています。澄平はその後信州に赴いたため、草庵はしばらく無住となっていましたが、明暦3年(1657)3月に沙門宥啓が再興して、実蔵院と号したと伝えられています。この寺を大きくしたのは、三世の伝英〔 寛保2年(1742)正月13日示寂 〕で、当寺の中興開山とされています。その後、宝暦12年(1762)10月に寳幢寺の末寺となり、現在に至っています。尚、学制の施行により、明治7年(1874)に宗岡学校(小学校)が設立された時には、当寺が校舎として利用されました。平成7年(1995)1月30日 志木市教育委員会

次に訪ねたのがこの実蔵院ですが、文末に「当寺が校舎として利用されました」とあるように、先程バスを降りたところにある宗岡小学校の設立当初の仮校舎が、実はこの実蔵院だったの。明治5年(1872)、明治政府は「自今以後 一般の人民 必ず邑に不學の戸無く 家に不學の人無からしめん事を期す 人の父兄たるもの宜しく此意を體認し 其愛育の情を厚くし 其子弟をして必ず學に從事せしめざるべからざるものなり」の教育理念の下に全国を8大学区に分け、それぞれに大中小学校を設ける学制を公布したの。何と、そこでは53,760校!!もの小学校が必要とされたの。

当時の就学年齢の人口からすると、約600人に一校の割合だったの。But 幾ら何でもそんなに多くの校舎を直ぐには用意出来ないわよね。そこで寺院の講堂などが仮校舎として利用されたの。ここ宗岡地区ではこの実蔵院を仮校舎として明治7年(1874)7月に宗岡小学校が設立されているのですが、「字なんぞ読めんでも米ば作れっぺ」と声を荒げていた村人達にしたら、「子弟をして必ず學に從事せしめざるべからざるものなり」の太政官布は、まさに明治維新だったかも知れないわね。それとも宣戦布告(笑)に思えたかしら。

参道を進むと、左手に何やらいわれのあるらん石柱が立てられているのに目が留まったの。
墓塔で無ければ供養塔でも無さそうで、何かしらと思い、近づいてみたところ、鷹場を示す境杭だったの。

〔 御鷹場の境杭 〕  天正18年(1590)徳川家康は関東に入国まもなく江戸を中心に五里四方が幕府の御鷹場と定められました。寛永10年(1633)には家光は鷹場の外五里の地域を水戸・紀伊・尾張御三家のお鷹場と定められました。尾張家の鷹場は多摩川・新座・入間の三郡に跨る広大な地域で、天保13年(1842)に上宗岡村他185ヶ村が含まれ、その地域を示す杭は84本建てられました。現在30余本確認出来ます。此の杭は享保15年(1730)に造られ、羽根倉(上宗岡)に存在したものです。左側面には一時他に転用された痕跡が認められます。鷹場内には鷹場法度があり、その内

一、鷹の餌となる小鳥を追い立てたり捕獲すること
一、鳥の巣を採取すること
一、田畑へ案山子を立てる時は届け出をすること
一、社寺境内での祭りの時は届け出をすること
一、新しい家造りの時は届け出をすること
など、いろいろ厳しい規制があり、日々農民は苦しめられましたが、鷹場は慶應3年(1867)に廃止されました。 文化財として大切に保存するものです。実蔵院

「左側面には一時他に転用された痕跡が認められます」とありますが、痕跡どころか大きな加工細工跡があるの。何に使われていたのかしらね。これが江戸時代のことだったら大変なことになっていたハズよね。「おのれ、お上を恐れぬ所業、直ちに引っ捕らえて打ち首獄門にいたせ!」と、なっていたかも知れないわね。

5. 天神社 てんじんしゃ 10:56着 11:04発

〔 天神社 〕  祭神は菅原道真公、配祀神として春日大神と八幡大神がそれぞれ祀られています。創立年代は不詳ですが、一説では江戸の湯島天神を分祠したものと云われており、一方では近世初期にこの地を支配し、後に代々名主役を務めていた木下氏の先祖に当たる山口大膳が山口(現・所沢市)から来住した際に出身地の氏神を分祀してきたと云う説もあって、定説はありません。この神社は、昔から字北美町(現在の中宗岡1〜2丁目付近)と字南界駅(現在の中宗岡4〜5丁目付近)の鎮守社として崇敬されてきました。平成7年(1995)1月30日 志木市教育委員会

一、所在地
二、祭神
三、沿革
 
四、本殿形式
五、祭事
志木市中宗岡1-4-36
菅原道真  配祀神:春日大神・八幡大神
流造(覆屋中にあり)
寛永3年(1626)江戸湯島天神を分祠したと伝えられている。
明治5年(1872)村社に列せられ、昭和3年(1928)社殿新築
昭和37年(1962)拝殿・幣殿・覆殿改築。社務所 昭和46年(1971)新築
元旦祭(1/1)、祈念祭(2月)、例大祭(4/25)、祇園祭(7月)

 
六、その他
 
新穀感謝祭・七五三合同祈願(11月)大祓(12/31-1/1)
氏 子:150戸
摂 社:伊都岐島神社・稲荷神社・八坂神社・阿夫利神社・水神社・大杉神社
保存資料:絵馬
 
ξ^_^ξが訪ねたときには、社務所に「祝 天神社創建390周年」と併せて「祝 志木市無形民俗文化財 宿組の囃子」と書かれた横断幕が掲げられていましたが、気になるのが後者ね。

調べてみると、明治初期に奉納されたことに始まる「宿組(しゅくぐみ)の囃子」が平成28年(2016)2月1日に無形民俗文化財に指定されたのを受けての横断幕だったの。囃子とあるので、対象はお囃子だけかと思いきや、芝居仕立てで演舞される里神楽も対象になっているの。保存活動の中心となる宿組囃子連保存会では、この天神社で定期的に練習を行い、次世代への継承も積極的に行っているみたいね。4/末に行われる例大祭では、日頃の練習の成果が披露されると云うことですので、興味のある方はお出掛けになってみて下さいね。それまで待てないわ−と云う方は、演舞の様子が YouTube に up されていますので By your self でお願いしますね。

6. いろは樋の跡 いろはどいのあと 11:08着 11:14発

〔 いろは樋の跡 〕明暦元年(1655)春に完成した野火止用水は、開通後暫くは、その流末が新河岸川に空しく落ちていましたが、当時、対岸の宗岡地区を領有していた旗本・岡部氏の家臣・白井武左衛門は、水に困っていた宗岡地区のこの用水の余水を灌漑用水として導くことにより、生産力の増大を図ろうとして、宗岡地区の一部を領有していた川越藩主・松平信綱の許しを得て、寛文2年(1662)に新河岸川の上に長さ約260m、幅と深さ各42cm余、水面からの高さ約4.4mの巨大な木樋を架設することになりました。懸け樋は48個の樋を繋いであったために、48文字からなる伊呂波仮名に因んで「いろは樋」とも、また、長さが百間以上もあると云うことから百間樋とも呼ばれました。この懸け樋が架設されたお陰で、宗岡地区の水田は十分潤うようになり、収穫量も大幅に増加するようになりました。

しかし、木製の懸け樋は洪水の度毎に被害を受け、その修理にはかなりの出費を強いられました。更に、長さ約7.2m、幅約60cmにも及ぶ材木を入手することが時代を追うごとに難しくなってきたため、明治31年(1898)から36年(1903)にかけ、総工費17,000余円で、鉄管を272m余地下に埋設して、それまでの木製のいろは樋に代えました。その後、大正末からの新河岸川の改修工事に伴い、いろは樋も再改修を余儀なくされ、全長109m余の潜管に代えられました。尤も、この潜管は在来の鉄管を主に使用してあり、不足分は鉄筋コンクリート管で補足、コンクリート製マンホールも二ヶ所増設されました。竣工は昭和5年(1930)3月31日、総工費は3,560余円でした。

架設後に幾度か改修・改造されながら、宗岡地区に多大の恩恵を与えてくれた「いろは樋」も、昭和40年(1965)に市場地内の野火止用水(伊豆殿堀)が下水路として暗渠に改造されたために、その機能と歴史的な役割に終止符が打たれました。尚、このいろは樋に使用された樋の一部が現在も市立郷土資料館に展示されています。平成10年(1998)3月1日 志木市教育委員会

交番を過ぎて、いろは橋に差し掛かる道路脇に小さな広場があり、鉄管がゴロンと(笑)置かれていたので、これも先程資料館で屋外展示されていたいろは樋に使われていた鉄管かしら−と思ったのですが、やはり、その鉄管だったの。でも、いろは樋に最初から鉄管が使われていた訳ではないわよね。ちょっと冗長になりますが、資料館の解説を紹介しておきますね。

いろは樋

上、下宗岡の地頭、旗本・岡部佐兵衛忠直の家臣であった白井武左衛門※は、引又河岸に空しく落ちていた野火止用水の末水を、低地でありながら潅漑用水に乏しい宗岡地区に引くことを主君・岡部氏を通じて川越城主・松平伊豆守信綱に懇願し受け入れられた。寛文2年(1662)〔 一説には万時2年(1659) 〕、主君・岡部氏からこの掛樋の架設を委任された白井氏は、引又河岸から宗岡精進場まで新河岸川の上に樋をかけて水を引いた。樋の幅は、一尺四寸( 約40cm )で、深さも40cmであった。その数48の樋を繋ぎ合わせ、柱で下から支え、全長約280m( 358mの説もある )もの大きな樋が架設された。48個の樋の数がいろはの文字数と同じであることからいろは樋と云われた。志木市立郷土資料館

※白井武左衛門は、正保元年(1644)から元禄7年(1694)まで上宗岡地区と下宗岡地区を三代にわたって知行した旗本・岡部氏の家老で、その頃は、多分江戸の屋敷に在住していたはずの主君に代わり、宗岡地区に常在して村内の管理にあたったものと思われる。武左衛門の最大の功績は、灌漑用水に恵まれていなかった宗岡地区に、新河岸川に空しく落ちていた野火止用水を「いろは樋(どい)」と云う巨樋(きょひ)を寛文2年(1662)に架設することによって導いたことである。その他、北に接する南畑(現・富士見市)との間に670余間の佃堤(つくだづつみ)を築設して宗岡地区への洪水の流入を防いだり、大水が出た時に逆流する荒川の水から同地区の最南端部に158間の新田場堤(しんでんばつつみ)を設けるなどして、村民の生活を守るために最大限の努力を惜しまなかった。武左衛門によって大きな恩恵を受けた村民の感謝の念はその後も長く続き、文化10年(1813)には今は廃寺になっている観音寺境内に供養塔が建てられた。下宗岡の氷川神社境内に建立されている頌徳碑と治水碑も、村民が感謝の気持ちを表すため、明治末期に相次いで建てたものである。志木市立郷土資料館

文末にある、旧観音寺境内( 下宗岡2-12 )に建つ白井武左衛門、並びに下ノ氷川神社( 下宗岡4-7 )に建つ頌徳碑と治水碑の見学は、今回の散策コースから外れることから未体験で終えていますので、御了承下さいね。

〔 野火止用水を流した鉄管 〕  野火止用水を本町側の大桝から中宗岡側の大桝に流すために、新河岸川の川底に敷設してあった鋳物製の鉄管である。太い2本の管の内の〔 明治二六 〕と刻まれた管は、日本で初めて設立された日本鋳鉄合資会社が初期に製作した鉄管であり、〔 明治三一CIE GLE LIEGE 〕と刻まれたもう1本の管は、ベルギーからの輸入品で、リエージ市水道鉄管会社が製作したもの。内径は50cm、1本の長さは約4mあるが、展示するために短く切ってある。管を繋いだ部分は、麻の繊維を詰め、鉛を打ち込んで締め付けを行い、水が漏れないようにしてある。

細い方の管〔 明治三〇 〕は内径25cmで、太い管の中を水が流れる時に溜まる空気を抜くためのものである。その他、東京市( 現在の東京都 )や横浜市が水道事業を始めた際に使用されたものと同種と思われる〔 〕〔 YWW横水 〕といった、東京や横浜水道の記号を刻んだ管も発見されている。志木市教育委員会  ですが、正しい記号は現地にて御確認下さいね。

〔 宗岡側のいろは樋の大桝 〕  地上に架けられた木製の樋は、洪水の度毎に破壊されたため、川底に鉄管を埋設して大桝も木製から煉瓦に作り替えられたが、この工事は、明治31年(1898)から同36年(1903)に至って完成した。用水が流れ込む志木側の大桝に取り付けた管と、流れ出る宗岡側の大桝の管の落差は約2.8mあり、この差を利用して、志木側から取り入れた用水を川底にもぐらせた管に勢いよく流し、その勢いで吹き上げた用水をこの桝に満たした。260m余り離れた桝から桝へ送水し、灌漑用水として宗岡の多くの水田を潤したのである。効率よく送水するため潜管には、空気管を設けたり内径を変えるなど工夫がされており、この方式は、「伏越( ふせこし ) 工法」と呼び、現在も河川を横断する用水や下水を流すために多くの場所で活躍している。桝の内径は1.5mの正方形で、深さは5.3mあったが、昔は道路が急坂だったので、大桝が地面から2m位飛び出ていた。志木市教育委員会

〔 新河岸川改修記念碑 〕  大正期に河川改修工事が行われるまで、新河岸川沿岸地域は長い間水害に悩まされ続けた。この沿岸住民の救済のため、明治30年代から懸命に活動したのが飯田新田( 現・さいたま市 )在住の斎藤祐美だった。新河岸川治水会を組織するなど、祐美の懸命な努力はやがて県を動かし、堀内秀太郎が知事だった大正9年(1920)に県は着工、11年かけて昭和6年(1931)に遂に完工した。改修の内容は、上流南古谷村( 現・川越市 )から内間木村( 現・朝霞市 )の荒川への合流地点までの、九十九曲がりと云われたほどの屈曲を直線化して9kmも短縮し、両岸に延べ28kmもの堤防を築き、内間木村から下流岩淵水門下までの9kmの新川を開削して、満潮時の荒川からの逆流を防ぐことだった。この改修工事により水災を受けることが、大幅に減った沿岸住民の斎藤祐美に対する感謝の念は強く、治水翁の名でその功績を讃えた。志木市教育委員会

7. いろは橋 いろはばし 11:15着 11:16発

水門 〔 宗岡閘門と洗堰(通称・いろは水門)〕  大正10年(1921)から、水害対策を主眼として新河岸川の改修が行われ、舟連の便を図るために昭和4年(1929)に宗岡閘門と洗堰が完成した。「埼玉のパナマ運河」と云われ、閘門は通舟幅6m、閘室の長さ26mで、前後に各2枚の閘扉があり人力で開閉し、1回の通舟操作時間は約20分であった。水遊びや魚釣りなど人々の憩いの場所としても親しまれた。昭和初期には、輸送の中心は鉄道に移り、その役割を終え、水流の妨げとなることから、昭和55年(1980)に撤去された。埼玉県朝霞県土整備事務所
※写真は昭和28年(1953)頃の現在のいろは橋付近にあった宗岡閘門(左)と洗堰(右)の様子

8. 旧村山快哉堂 きゅうむらやまかいさいどう 11:18着 12:12発

〔 伝統的建造物・旧村山快哉堂 〕  旧村山快哉堂は、明治10年(1877)に建築された木造二階建て土蔵造りの店蔵(みせぐら)で、本町通り( 本町三丁目 )に面して屋敷を構え、「中風根切薬(ちゅうふうねぎりやく)」・「分利膏(ぶんりこう)」・「正齋湯(しょうさいとう)」などの各種家傳薬を製造、販売する薬店でした。村山家は、創業以来、平成5年(1993)まで七代にわたって薬屋業を営んでいました。平成6年(1994)に村山家が建物を取り壊すことになったため、市教育委員会では、所有者(当主・村山源博氏)から寄贈を受け、平成7年(1995)に解体後、4年の保存期間を経て、いろは親水公園中州ゾーンに約2年間の歳月をかけ、移築復元したものです。

この店蔵の建築年代は、欅の通し柱に墨書されていた「明治十年丑十一月十二日建之」と云う文字の発見により確認されました。当初は、白漆喰の壁でしたが、明治後期頃黒漆喰仕上げに改修されています。建造物としては、店蔵が座売り形式の商形態を残している点や、1階部分の中央に吹き抜けがあること、また、鉢巻の二段構成やムシコ窓及び開口部の枠回りなど、川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成が見られることからも貴重な文化財と云えます。平成13年(2001)3月27日 志木市教育委員会

ごめんないさいね。この旧村山快哉堂を訪ねたときにはボランティア職員の方がいらっしゃって、「暑い中、ごくろうさま。今、冷たいお茶でも入れますから、急がないようでしたら、ゆっくりしていって下さい」と、お誘いを受けてしまったの。それを機に、志木市の裏話を含めての世間話に花を咲かせてしまい、ふと気付いたときには時計の針は一時間近く経っていて。と云うことで、店蔵内の見学はせずに慌ててその場を辞しましたので、詳しい御案内が出来ないの。見学時間にしても、お茶(笑)さえしなければ10分程度で済むハズですので、追体験される場合には調整願いますね。But ξ^_^ξとしては地元の方との交流もお薦めよ。

9. 栄橋 さかえばし 12:13着 12:14発

〔 新河岸川舟連と引又河岸 〕  大正時代前の新河岸川は、九十九曲がりと云われるほど蛇行しており、豊かな水量を常に保つことが出来たため、江戸時代から明治時代にかけて、舟運に利用され、交通の大動脈として重要な役割を果たした。新河岸川舟運の起源は、寛永15年(1638)に川越の大火で燃えた東照宮・喜多院を再建するため、江戸城紅葉山御殿を運んだことに始まると云われているが、それ以前からも本河岸( 現・富士見市 )や古市場( 現・川越市 )までの舟運が行われていたようである。正保2年(1645)に川越藩主・松平信綱が川筋を整備し、舟運が本格化した。引又河岸( 明治7年からは志木河岸と云われる )は、新河岸川の河岸場の中でも、取引の範囲が群を抜いて広大であり、所沢・立川・八王子・青梅、更には甲府まで荷主が分布していた。

これは、府中から大宮を経て奥州に達する奥州街道と交差する交通の要衝であり、また、江戸時代初期から六斎市( 月に6回行われる定期市 )が立てられていたことによると考えられる。舟運に使われた舟は、80石〜100石( 1石は、1人が1年間に消費する米量 )位の規模だったが、速さによって分けられ、飛切( 引又を夕方出て翌日の夜明けに花川戸( 現・浅草 )に着く )、早舟( 下りに15時間 )、並舟( 不定期 )の三種類があった。取り扱われた貨物は、江戸からの上りものでは綿糸・太物・小間物・雑貨・糠・〆粕・塩・藁・石材など、江戸への下りものでは酒・米・大麦・小麦・壁土などであり、多岐に亘っていた。乗客を扱うようになったのは、天保の頃(1830-40)からで、主に飛切が使用された。

引又河岸には、いつの時代にも二軒乃至それ以上の舟問屋が営業していたが、新河岸川の改修により、昭和6年(1931)には廃業に至った。県では、平成23年(2011)に新河岸川舟運の復活のシンボルとして、水辺再生100プラン推進事業でいろは橋下流に船着場を建設し、栄橋下流に引又河岸を復元した。埼玉県朝霞県土整備事務所

10. 下の水車跡 しものすいしゃあと 12:17着発

〔 下の水車跡 〕  水車が精穀用に考案されて、造られたのは近世初期とされ、全国的に普及したのは、享保年間(1716-36)とみられており、この頃から特に城下町を中心として白米の需要が増大してきたため、全国各地で水車が造られはじめました。江戸と云うわが国最大の白米消費地の玉川上水本支流沿岸地域でも、宝暦11年(1761)に下小金井に第一号の水車が造られ始めてから、たった27年間で33台もの水車が開設されると云うスピードぶりでした。引又宿にもこの間に3つの水車が開設されましたが、この中で最も古い水車が嘗てこの場所にあった下の水車( 河岸の水車 )です。下の水車は、玉川上水筋としては、二番目に古い水車でしたが、野火止用水筋としては、一番古い水車でした。

この水車は、かなり大規模な水車であったらしく、杵の数が14本もあり、玉川上水筋では最も大きい水車でした。尚、この水車は文政12年(1829)に焼失するまでは、この辺りにありましたが、弘化4年(1847)の再建以後は、台地下の駐車場の最も奥の場所で操業されていました。平成7年(1995)10月20日 志木市教育委員会

水路

〔 市場通り 〕  寛文年間(1661-73)頃に始まり、月に6回、3と8のつく日( 明治維新後は2・7 )に立てられた引又の市は、近在近郷の人々が米穀・太物・小間物・荒物・野菜などを売買するための場であった。昭和40年(1965)に暗渠となるまで、この通りの中央を貫流していた野火止用水の両側の道路の内、東側のものは元来は道路ではなく、市を立てるための場所であったと云う。市の発展と河岸場の隆盛により、やがて、米穀・肥料・荒物・呉服などの各商店が軒を連ねるようになったが、特に、明治中期以降、盛んに建てられた土蔵造り・塗屋造りの商家が、この通りに重厚な感じを与えていた。昭和58年(1983)12月1日 志木市教育委員会 ※写真は市教育委員会発行「しきし歴史まっぷ〜志木編〜」より

11. 朝日屋原薬局 あさひやはらやっきょく 12:19着 12:20発

川越の蔵造りの商家を思わせる佇まいに文化財としての保存がなされていることが窺えたのですが、辺りを見廻しても何の説明も無く、代わりに「登録有形文化財 第11-0049〜0055号 この建造物は貴重な国民的財産です。文化庁」と小さく案内されていたの。国の登録有形文化財になる位なんだもの、何か特別な建物なのよね、きっと−と気になり、帰宅後に調べてみたの。文化庁の 国指定文化財等DB に依ると、通りからは店舗(主屋)しか見えませんが、店舗のみならず、土蔵・物置・洋館・離れに加え、門や塀までもが、それぞれ登録有形文化財になっていたの。

更に、東雲不動尊祠なんて建物までもが登録有形文化財になっているの。不動尊とあるのでお不動さま( 不動明王 )を祀る祠堂よね。 同DB には、それぞれの建物の文化財としての意義が、写真と共に掲載されていますので、御参照下さいね。因みに、店蔵の左手に建てられていた石標には「與野町へ貮里六町壱間壱尺 大和田町へ三拾五町拾八間 浦和町へ二里拾三町六間 志木町」などとあるの。志木町とあることから明治22年(1889)以降に建てられたものね。

建物の前に駐車してある車との新旧のギャップが面白いわね。
But 不思議と違和感が無いの。と思うのは、ξ^_^ξだけ?

12. 敷島神社 しきしまじんじゃ 12:26着 13:36発

最初から知っていた訳では無くて、境内にいらっしゃった田子山富士保存会の方に登山を勧められて初めて知ったの。お話をお伺いしたところでは、埼玉県指定有形民俗文化財にはなっているものの、築山してから大分年月を経ていて、先般の東日本大震災の影響もあり、崩落や石造物の倒潰も多く、危険なことから長らく入山禁止となっていたのですが、貴重な文化遺産を後世に伝え残すべく、保存修理が行われることになり、埼玉県や志木市からの修復費用の補助と、商工会をはじめとして地元の市民からの寄附を受けて2年掛かりで工事が行われ、平成28年(2016)の7/2にようやく山開きが出来るようになったそうなの。

胎内道の整備など、未着手のものもありますが、これから徐々に修築する予定にあることも話されていましたが、保存会を始め、関係者の方々の尽力と奉仕があればこその富士塚なの。その田子山富士への登山ですが、いつでも登れると云うわけではないので注意が必要よ。基本的には、大安と友引の日には入山が可能となっているのですが、 田子山富士保存会 の頁に入山日予定表が掲載されているので、追体験される場合には事前に御確認の上でお出掛け下さいね。勿論、サイト上には田子山富士に関することもいっぱい掲載されていますので、お出掛け前には要チェックよ。

田子山富士塚の諸元
高さ:約9m(標高23.4m)
円周:約125m(麓)
面積:990m²
斜度:39°

田子山富士は全体的に丸みを帯びているので円形に見えるけど、実際には方形の築山なの。ここまでの規模のものではなくても、神社の境内で富士塚を見掛けることがありますが、何でそんなもの(笑)が造られているのか、余り気にせずに済ませてしまっている方も多いと思うの。そんな方のために少しお話させて下さいね。富士塚は、その名の如く、富士山を模したもので、富士山を霊地として崇める富士信仰に由来するの。キリスト教やユダヤ教のエルサレム巡礼ではないけれど、実際の富士登山が本来の姿なのですが、健康上の理由や経済的な事由などで誰もが簡単に出来る訳ではないわよね。そこで代理登山や、富士塚に代参することで信仰の証としたの。勿論、実際に登山する場合もあり、富士塚にある石碑には富士山詣を記念して献納されたものも多くあるの。その富士山信仰の総本山が富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)で、御神体は云うまでもなく富士山よね。

〔 田子山富士塚 〕  この富士塚は、古墳と云われてきた田子山塚の上に盛り土をして築造されたものです。富士塚とは、富士山を模して築かれた人造の小山で、主に江戸時代から明治時代にかけて築造され、県内だけでも約100基の富士塚が現存し、市内では、この他に一基羽根倉の浅間神社にあります。田子山富士築造の発起人は、後に富士講の先達( せんだつ )となった高須庄吉で、富士山を大変崇敬していました。庄吉は、この地を散策中に富士山に入定したと云われる十瀧房承海( じゅうりゅうぼうじょうかい )の暦応3年(1338)の逆修板碑を発見し、大いに感激して同志を募って築造に着手しました。工事は、明治2年(1869)10月から5年6月にかけて行われました。

塚は、高さ12m、樹木や岩石の配置に工夫が施されており、富士山に模して登山道・人穴・胎内・烏帽子岩・釈迦割石や富士山から運んだ溶岩などが置かれ、頂上の祠の中には木花咲耶姫命が祀られています。また、塚の麓には浅間神社の祠があり、承海の逆修板碑が祀られています。平成2年(1990)3月30日 志木市教育委員会

〔 田子山富士塚の築造 〕  田子山富士が造られるきっかけとなったのは、引又宿(志本市本町地区に含まれる)で醤油醸造業を営む高須庄吉が田子山塚で、14世紀中頃の泥に埋もれた古い板碑を発見したことによります。この場所には、以前から今より低い古墳のような塚があり、これを田子山塚と呼んでいたようです。また、明治41年(1908)に近隣の神社を合祀して敷島神社が創設される以前、ここには富士を祭る浅間神社がありました。もしかすると、その呼び名はともあれ、田子山塚は富士塚的なものだったのかも知れません。田子山富士塚は、なんら必然性のないところに突然造られたわけではないのです。

富士塚築造の決意を固めた高須庄吉は、富士登拝の経験豊な宮岡夘八・夘之助の助けを借り、資金的には志木市域・近隣地域の商人や職人、近隣の富士講関係者、高須庄吉が従事する醸造業界、更には歌舞伎や遊里の人々にも呼びかけて、寄進を募ったのです。そうした奮闘の結果、明治2年(1869)10月に開始された築造工事は、2年8ヶ月の歳月を要して、明治5年(1872)6月には一応の完成を見ました。塚の外面には富士山の土と2,000を超す黒ぼく(溶岩)を戴き、頂上には木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭って浅間社としました。そして、高須庄吉が発見した板碑は、富士山の北口登山道を摸した麓の祠に収め、これを下浅間社として現在も祀ってあります。志木市立郷土資料館

〔 田子山富士築造発端の板碑 〕  敷島神社境内にある田子山富士は、醤油醸造業を営む高須庄吉らの発起に依り明治5年(1872)に造られたものですが、その切っ掛けとなったのが、この石碑です。ある日、富士山を崇敬していた高須氏が田子山塚(以前から今より低い古墳のような塚でした)に登ったところ、この板碑を発見しました。青苔を洗って読んだところ、富士山に入って死去するのに先だって、14世紀中頃にこの地に立ち寄った十瀧坊承海と云う45歳の修行僧が逆修(生前に自分の死後の冥福を祈ること)のために建てた碑でした。富士山に深い関係があると知った高須氏は感激し、多くの人々に呼びかけて、田子山富士を築いたと云います。志木市立郷土資料館

現在は浅間下社の御神体として祀られる板碑ですが、碑面には梵字で記された光明真言に挟まれて「瀧山千日富士峯前途入壇阿闍 暦応三年庚辰十一月日 梨耶承海十瀧房四十五才逆修」と刻まれているの。富士峯前途入壇とあることから入定を決意しての富士登山であることが分かるのですが、信仰心以上に、強靱な意志が無ければ成し得ない行為よね。生きながら極楽浄土への到達を希求した修行者達が小舟に揺られて、海の彼方にあると云う理想郷・補陀洛山を目指した補陀洛渡海と云うのがありますが、海と山と云う対象の違いはあれど、どこか相通じる宗教観よね。無信心にして、甚だ精神脆弱なξ^_^ξには、両者共に、およそ想像出来ない世界のお話しだけど。

その光明真言ですが、漢字への音訳版(文献等に依り異なる漢字が宛てられている場合あり)を紹介しますね。エッ、そんなことより、その意味を教えろ−ですか?それは訊く相手を間違えているわ。But それではあんまりよね。そこで少しだけ補足しておきますね。真言の中にある尾盧左曩 ( vairocana ) と云うのが毘盧遮那仏こと、大日如来のことで、光明真言の中では一番のキーワードになるの。それを元に、意訳を通り越して暴力的に光明真言を訳すと「至上の仏たる大日如来よ、その遍く燦然と輝く五色の智慧の光で我が身を照らせよ」と云ったところかしら。ちゃんとした光明真言の意味が知りたい方は Google で検索してみて下さいね。但し、知恵熱を出さないように、気をつけて下さいね。
唵阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麼抳 鉢曇摩 忸娑羅 波羅波利多耶 吽
おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん
※ この光明真言を唱えることで罪障消滅・福楽長寿・極楽往生が出来るとされるの。

逆修塔の主・十瀧房承海(じゅうりゅうぼうじょうかい)ですが、【敷島神社縁起】には具体的なことが記されているの。敷島神社自体の創立が、実は比較的新しい明治期のことで、あくまでも「伝に曰く」の断り書き付きなので、記されていることが必ずしも史実と云うわけではないのですが、ちょっと面白いの。時代は南北朝期のことで、世はうち続く戦乱で疲弊し、万民は困窮の極みに達していたの。そんな中「大和国笠置山の僧梨耶承海十瀧房深く之を慨き、心願を起し、天下大平国家安穏を神仏に祈願の為、本邦名山駿河国富嶽に参じ、白糸滝に専心苦行を重ぬる事壱千日、願満ちて、尚諸国の霊山に詣らんと廻国の途次此地に来れり。天台宗鈴甕山東光寺の庵室に宿し、淹留中偶々病魔の襲ふ所となり、病を養う事旬日、病癒ゆるを以て地を卜し、逆修の石碑を建立し、後幾何もなく庵室を辞し、再び廻国の途に上れりと云ふ」とあるの。因みに、承海が仮寓したと云う東光寺ですが、現在は既に廃寺となっているの。後程訪ねる寳幢寺ですが、当初はその東光寺跡に建てられていたみたいね。承海は寳幢寺の僧侶だったとする説もあるのですが、その辺りがごちゃ混ぜになっているみたいね。

〔 木花開耶姫( このはなさくやひめ ) 〕  富士山を祭る神社は浅間神社で、その祭神は木花開耶姫命です。尤も、木花開耶姫命が富士の祭神として固定されてきたのは18世紀末期のことで、それ以前は大日如来など、男性イメージの神仏が主流でした。木花開耶姫命については、次のよう話が【古事記】に書かれています。木花開耶姫命は、天から下って来た二二ギノミコトに見初められ、一夜にして妊娠し、やがて出産を迎えました。早すぎる妊娠に二二ギノミコトは、生まれてくる子が本当に自分の子であるかと疑いを持ったのです。すると姫は云いました。それなら火の中で子どもを生みましょう。もし、あなたの子でしたら、立派に生まれるでしょう、と。

その結果、ホスセリノミコト(海幸彦)、ホアカリノミコト(火明命)、アマツヒコホホデミノミコト(山幸彦)の3人の男子が生まれました。このように、木花開耶姫命は命を賭けて身の潔白を晴らした女性として崇敬され、また、安産の神、蚕の神とされてきましたが、富士の祭神としての根拠が、はっきりしないところがあります。しかし、わが身は死したとはいえ、火の中で無事お産をなし遂げたのは、火を制する力をもったからです。そんなところから、嘗て火山であった富士の火の力を押さえるための神とされたのかも知れません。秀麗優美な富士の姿が、美しい花を咲かせる女性の姿にふさわしく、それが神話の木花開耶姫命と結びついたものと考えられます。志木市立郷土資料館

〔 経ヶ嶽玉垣の屋根棟と門扉 〕  元は経ヶ嶽玉垣の入口部分にあった屋根棟と門扉です。日蓮宗の寺紋である「井桁に橘( いげたにたちばな )」がついています。門扉に描かれている睡蓮は、流水の中に、蕾・開花したもの・花が終わったもの−が描かれ、全ては移ろいゆくことを表現しています。

登山道入口

富士塚の景観を含め、麓にある浅間下社などを紹介してきましたが、ここからは愈々富士(塚)登山よ。登山道の道すがら、ξ^_^ξが気に留めた石仏石塔の内の幾つかを写真に収めてきたので御覧下さいね。But 実際の田子山富士には正体の分からない岩や、聞いたことも無い神名を刻む石碑などが目白押しなの。基本は富士信仰なのですが、仏教由来のものがあるかと思えば、聖徳太子や日本建命(日本武尊)が祀られ、烏天狗などの修験道由来の石像も数多く建てられているの。全てと云うわけにはいきませんが、景観を含めてスライドに纏めてみましたので御笑覧下さいね。御覧になりたい方は左掲の画像をクリックよ。
富士塚体験登山
Time 00:03.09

13. 旧西川家潜り門 きゅうにしかわけくぐりもん 13:52着 13:53発

14. いろは樋のモニュメント いろはどいのもにゅめんと 13:54着 13:58発

市場坂上交差点にはもう一つ、いろは樋の実物大の模型が屋外展示されていたの。加えて、当時の様子を示したジオラマ模型も展示ケースに収められ、自由に見ることが出来るの。文字だけの説明だと今ひとつスケール感がつかめないところがあるけど、これなら一目瞭然ね。

〔 小桝と大桝 〕  いろは樋は、寛文2年(1662)( 一説に万治2年(1659) )の完成当初、桝も含めて全てが杉材を主体とした木製のもので造られました。現在新河岸川の両岸にレンガと切石で残されている大桝は、明治31年(1898)から36年(1903)にかけて鉄管埋設による伏せ越し工法により河川が改修された際に築造されたものです。( 現在、本町側の大桝が市指定文化財に指定されています )  完成当初の木製の小桝は三尺五寸四方( 約105cm四方 )、高さ七尺( 約210cm )と記されており、地上部の高さは約1m余と推測されています。また、大桝の大きさは一辺が五尺四方( 約150cm四方 )、高さ一丈三尺( 約390cm )と記されており、広場の模型はほぼ原寸で作られています。

※模型は縦組ですが、実際には横組であったと推定されます。
※埋樋については、本来、地中に埋設される形であったと推測されますが、
模型では桝との関係や通水の情景を想像できるよう天端部分を露出させています。
志木市教育委員会・埼玉県浦和土木事務所

〔 いろは樋の仕組み 〕  いろは樋の構造は、市場坂上に木箱の小桝を設け、その小桝に一度溜めた野火止用水を地下に埋めた木製の樋( 埋樋:うめどい )によって引又河岸そばの木箱・大桝に送っていました。埋桶から送られた水は、坂を落下する水勢によって大桝の底部の口から流れ込み、大桝を満たすと、満たされた水が大桝の反対側上部の口に繋がれていた掛樋( かけひ:水道専用橋 )を流れて、川の上を渡り、対岸の宗岡側の精進場( 現・いろは橋交番付近 )に送られていました。このような掛樋は、近隣では神田上水を神田川の上に通すために設けられていた掛樋( 現・東京都文京区本郷周辺にあった水道橋の語源となった掛樋 )などがありましたが、水を掛樋で渡すと云う土木技術は、江戸時代に地域の発展を導いた先人の偉業として注目されています。尚、当時のいろは樋の様子は、天保15年(1844)に作成された【いろは樋絵図】( 市指定文化財 )などにより窺い知ることが出来ます。
※展示ケース内のジオラマ模型は、天保15年(1844)の「いろは樋絵図」( 内田太郎家所蔵 )に基づいて周辺の引又河岸の様子などを含めていろは樋の全長を縮尺約1/75で再現したものです。志木市教育委員会・埼玉県浦和土木事務所

15. 東明寺 とうみょうじ 14:04着 14:12発

【風土記稿】には「新義眞言宗 村内寳幢寺末 阿彌陀山と號す 本堂四間四方にして庫裏の方に立つゞけたり 本尊阿彌陀如來を安す 創建の年代等詳ならず 境内光海上人の墓石に 寛文三癸卯年示寂と刻したるは 當寺の世代なるべければ 此以前に開けたる事は勿論なり 其餘年代等考ふべきものなし」とあるのですが、【舘村旧記】に依ると、元々は天台宗系の行屋であったものを寳幢寺の門徒化、慶長2年(1597)に光海上人が開山したと伝えているの。正式名称、阿弥陀山安養院東明寺を名乗るレッキとした寺院だったのですが、現在は無住に加え、本堂と云っても御覧のような簡素なものですので、実態としては、この後訪ねる寳幢寺の境外堂の扱いになっているみたいね。

〔 東明寺の庚申供養地蔵 〕  寛文7年(1667)2月に造立された地蔵像の像塔で、光背に「庚申供養也 武刕新倉郡蟇俣村」と刻まれています。引又村( 現在の本町地区付近 )にこの「蟇俣(ひきまた)」の字が使われたのは、当時の新河岸川と柳瀬川の合流地点付近の地形が、蟇蛙(ひきがえる)のはいつくばった形に似ていたところからきているとも云われています。この庚申供養像は「蟇俣」の字が使われている市内唯一の石造遺物であり、大変史料的価値の高いものです。平成4年(1992)3月30日 志木市教育委員会

本堂の右手に無縫塔や石仏が並び立つ一角がありますが、一番背丈があるのが志木市指定文化財〔 平成3年(1991)3月29日指定 〕の「東明寺の庚申供養地蔵」なの。更に右手には六地蔵が立ちますが、愛らしい表情のお地蔵さま達よ。お地蔵さまと云うと、普通は赤い帽子によだれ掛けが定番ですが、夏の到来を受けて涼しげな装いに衣替えしていたの。近隣に住んでいらっしゃる有縁の方に依るものでしょうね、きっと。何気ない光景に、心がほっこりとさせられたの。

16. 寳幢寺 ほうどうじ 14:17着 14:41発

〔 寳幢寺 〕  正式には地王山地蔵院寳幢寺(じおうざんじぞういんほうどうじ)と称し、江戸期には醍醐三宝院を本山としていましたが、明治27年(1894)から京都智積院を本山とする新義真言宗智山派となりました。その創建年代については、建武元年(1334)4月に祐円上人が開山したと云う説や、現在の寺の門外の西方にあった墓場の中の地蔵堂を基に、天正年中(1573-92)に新寺として開山したと云う説、元々現在の敷島神社付近にあったものが、柏の城が落城した後、中世末期から近世初頭頃、柏の城の城主・大石信濃守の子息・大石四郎の屋敷跡と云われる現在の地へ移転してきたと云う説などがあり、未だ定説はありません。

しかし、いずれの説をとるにせよ、柏の城落城後に現在の地に建立、または移転されたのではないかと推測されています。【風土記稿】に依れば、三代将軍・家光が鷹狩りの際休息したのが機縁となって、慶安元年(1648)に御朱印地10石を賜り、また、境内が狭いと云って門前に一町歩加増してくれたとの記述がみえます。更に「此辺にての大寺にて、末寺も三ヶ寺あり」とあり、当時よりこの辺でも大きな寺院であったと云うことが分かります。尚、この寺には「お地蔵さんとカッパ」と云う伝説や、「ほっぺたの黒いお地蔵さん」と云う伝説などが伝わっています。平成7年(1995)10月20日 志木市教育委員会

ここで、その【風土記稿】の記述を引いておきますね。

寳幢寺 除地 二町四方 村の西の方にあり 新義眞言宗 山城國醍醐三寳院末山なり 開闢の年代は詳ならざれども 古き寺なりと云傳ふ 寺領10石を賜ふ 境内に立る先住の石碑に 権大僧都法印承永は 寛文10年(1670)3月24日示寂の由を刻し 其餘ふるき五輪の石塔あまたあり みな承永より先の住持の碑と見ゆれども 文字なければ年代を考るによしなし 昔大猷院殿此邊へ御鷹狩の時は かならず當寺へわたらせ玉ひければ 時の住僧謁し奉れり 其後しばしば拜し奉りける かくてぞ村内10石の地御寄附の御朱印を賜ひしとなん 又ある日御遊歴ありしに 境内せはきよし仰ありて 門前の地一町を加へ賜はりし 今に至りて大門の前に 又木戸を設けたる所 これのちに賜はりし地の界なりと寺僧いへり かゝりければ當時は 寺院もことにゝぎはひしと見えしが 今はをとろへはてゝ堂宇の再建だに果すことを得ず 寂莫たる野寺なり されど此邊にての大寺にて 末寺も三ヶ寺あり

表門
裏門
本堂
 
鐘楼
 
入口より大門の間一町餘 南に向ひてたつ
表門の並にありて 東の方によれり
天明6年(1786)火災にかゝりて後 いまだ再興の事に及ばず 纔の假殿を建て 本尊地藏尊を安す
本堂の礎石は假殿の西の方に殘れり
本堂礎石の前にあり 古鐘は慶安辛酉※法印承秀住職の時鋳たるよしを刻したれば
今の鐘は後に改め鋳しことは勿論なれど 年月を勒せざれば 何の頃成しや知るべからず

※西暦表示の補完をすべく年代表を確認したところ、慶安年中に辛酉の干支の年は無いの。思うに酉は卯の間違いじゃないかしら。仮に、卯が正しいとすると辛卯で慶安4年(1651)になるの。逆に、辛酉が正しいとなると一番近いところでは元和7年(1621)ね。どちらをとっても体勢に影響はないのですが、西暦表示が無いのはそんな理由からよ。要は弁解で〜す。

〔 御鷹場の境杭 〕  天正18年(1590)徳川家康は関東に入国翌年10月には忍領(行田市)付近で初の鷹狩が行われ、ほどなく江戸を中心に五里四方が幕府のお鷹場(拳場:こぶしば)と定められました。寛永10年(1633)家光は拳場の外五里の地域を水戸・紀伊・尾張御三家のお鷹場と定められました。志木市は尾張家の地(多摩・入間・新座郡185ヶ村)に含まれています。当山は【新編武蔵風土記稿】に「昔大猷院殿(三代将軍家光)此邊へ御鷹狩の時はかならず當寺へわたらせ玉ひければ‥」と記されており、それが縁で、村内10石の土地の御朱印を賜り、その後更に門前の土地一町歩を追加されました。お鷹場の周囲には境界を示す境杭が建てられ、その数84ヶ所、現在30余本確認出来ますが、その一本がこの杭です。文化財として大切に保存するものです。地王山寳幢寺

〔 奉納 〕  この河童の像は、文化6年(1809)に今から約200年前に刊行されました【寓意草】に最初に紹介され、更に、大正6年(1917)には、日本民族学の創始者・柳田国男氏の【山島民譚集】の中にもその概略が紹介され、全国的に有名になった中野村宝幢寺の伝説【河童と和尚】のお話を永く後世に伝えるため、中野の有志が浄財を出し合い、河童像を製作して文殊堂前に設立し、文殊菩薩の使者としてこの伝説に基づき、子供の健康と学業に知恵を授け賜る事を願い、参詣者皆様の家内安全・交通安全、及び、もろゝの願いを賜る事を祈り、伝説の河童の像によって永遠の生命と願を保つ事を念願するものである。平成4年(1992)7月17日 中野大門会会員一同 会長・三枝春雄

【河童と和尚】のお話は♪坊やよい子だ、ねんねしな♪の歌詞でお馴染みの「まんが日本昔ばなし」でも紹介されていたような気がするの(未確認モード)ですが、実は、そのお話の舞台が志木だとは知らずにいたの。その【河童と和尚】のお話とは別に、地元では【お地蔵さんとカッパ】のお話も語り継がれているの。和尚さんがお地蔵さんに替わり、お話の展開に異なる部分もあるのですが、ひとづてに語り継がれていくうちに少しずつ形を変えていったものでしょうね。 長勝院旗桜 の頁でも紹介していますので、ご記憶の方もいらっしゃるかも知れませんが、再掲しますのでお楽しみ下さいね。

むか〜し、昔のお話じゃけんども、寳幢寺にはお地蔵さんがまつられておったんじゃが、雨模様のある日のことじゃったそうな。雨風の音に混じって、かすかに馬の啼き声がどこからか聞こえて来たそうじゃ。尋常な啼き声とも思えず、一向に啼き止む様子もないので気になったお地蔵さんは、馬の啼き声を辿ってみたそうじゃ。果たして柳瀬川の畔まで来ると、川の流れの中で一頭の馬が脚を踏ん張って啼いておったそうじゃ。さては泥にでもはまってしまったものか−と思うたお地蔵さんが馬に近づいてみると、何と、こどもの河童が馬の尻尾を引っ張りながら馬を川の中へ引きずり込もうとしておったそうじゃ。それを見とがめたお地蔵さんは河童の悪戯をきつく諫めて、人間の、日々の暮らしの中で馬がどれほど大事にされているかをこんこんと説いてやったそうじゃ。お地蔵さんのことばにすっかり改心した河童は許されて川の流れの中に消えていったそうじゃが、その後、寳幢寺の厨房には獲ったばかりの鯉や鮒などの川魚が時々置かれるようになってのお、誰が届けてくれたものか、その姿を見た者も誰一人おらんでのお、きっとお地蔵さんに諫められて改心した河童が届けてくれておるんじゃろう−と云われるようになったそうじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども。

紹介したお話の他にも地元では【ほっぺたの黒いお地蔵さん】のお話も語り継がれているの。
勿論、そのお地蔵さんは寳幢寺の本尊とされる地蔵菩薩のことですが、面白いので、お話の序でに紹介してみますね。

この寳幢寺には今でもお地蔵さんがまつられておるんじゃが、今から話すのは、そのお地蔵さんに纏わるお話じゃ。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども、宮戸村(みやどむら)※に住む若い者のところに、たいそうきれいな嫁さんが嫁いできたと評判になってのお、近隣の村のことじゃで、この辺りでも噂されるようになってのお。そんなある日のことじゃった。村人達が噂するのを黙って聞いておったお地蔵さんじゃったが、そんなにきれいな嫁さんなら、自分もこの目で一度見てみたいものじゃな−と思うようになったそうじゃ。そして、とうとう我慢出来なくなったお地蔵さんは宮戸村へと出掛けていったそうじゃ。果たしてその嫁さんの家を訪ねてみると、お歯黒を塗っている最中じゃった。しばらくは庭先からその様子を眺めておったお地蔵さんじゃったが、元々悪戯好きじゃったものだから、こっそりと家に上がり込むと、嫁さんをからかう積もりで、手を伸ばしてちょっと小突いてみたそうじゃ。

びっくりした嫁さんは、とっさに手にしていた房楊子(ふさようじ)でその手を払いのけたんじゃが、それがちょうどお地蔵さんのほっぺたに当たってしまってのお、お地蔵さんは唖然とする嫁さんを尻目に一目散にその場を逃げ出したそうじゃ。そうして痛むほっぺたを押さえながら寺に逃げ還ったお地蔵さんじゃったが、右のほっぺたにはお歯黒の墨がべったりとついておってのお、お地蔵さんも墨を消そうとしてみたんじゃが仲々消えずに、そのまま墨跡になって残ってしまったそうじゃ。そんなことがあってからと云うもの、この寳幢寺のお地蔵さんは厨子に閉じこもったまま、村人の前にも姿を見せることはなくなってしまったと云うことじゃ。お地蔵さんも恥ずかしくて顔を見せられなくなってしまったんじゃろうのお、きっと。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども。
※宮戸村:現在の朝霞市宮戸

いかがでしたか、お楽しみ頂けたかしら? But お地蔵さんのお話で良かったわね。
これが和尚さんのお話だと、ちょっと困ったお話になるわよね(笑)。

17. 馬頭観音文字塔 ばとうかんのんもじとう 14:42着 14:43発

〔 寳幢寺前の馬頭観音文字塔 〕  文政3年(1820)正月に造立され、正面には「馬頭観世音」、左側面には世話人として館村高野萬治郎、引又□三上彌惣治、館村高野三之烝、同村同勘五郎と云う名が刻まれており、館村の高野氏と引又の三上氏とで造立されたことが分かります。この馬頭観音は、引又宿から大和田へ向かう街道沿いに建てられており、当時、荷物の運搬に使われた馬の供養のために建てられたものと思われます。石仏の規模は、台座も含めると、高さが2.04mもあり、市内では最大のものです。平成3年(1991)3月30日 志木市教育委員会

民家の庭先の一角を間借りするかのようにしてあるのがこの馬頭観音文字塔で、馬の供養塔として建てられたものなの。馬頭観音はその名の如く、馬頭を戴き忿怒の形相をするのですが、その強面な像容は余り日本人には好まれなかったみたいね。加えて、古代インド神話の中で、天輪王が宝馬に跨がり須弥山を疾駆するかのような勢いで衆生摂化するさまを現したものだと云ってみたところで、庶民にすれば何のこっちゃ?−よね。But その馬頭観音の馬と農耕馬が単純に結びつけられて、馬の守り神・農耕の神として庶民の間で崇められるようになるの。今とは違い、当時はトラクターなどの耕作機械があったわけではないので、馬は大事な働き手。飼馬が丈夫でいてくれることが貧しい日々の暮らしの支えだったの。人々は、この供養塔の前で飼馬の働きに感謝&合掌していたのでしょうね、きっと。

18. 舘氷川神社 たてひかわじんじゃ 14:48着 14:55発

〔 氷川神社由来記 〕  当氷川神社は素戔鳴尊を祭神として祀る。貞観年中(859-877)、時の郡司・藤原長勝が武蔵一の宮氷川神社より分祠創立せるものと伝え、長勝の館跡は長勝院として現存する。当地は古くより奥州街道や鎌倉街道に沿うことから旅人の往来繁く、宿場を形造り、上宿・中宿・下宿の名称を現在に伝える。戦国時代に柏城が築かれ、神域は大手門に当たり、守護神として崇敬厚く、毎年秋二日間に亙り大祭が行われ、付近の舘村・引又村・中野村・針ケ谷村・北野村の総鎮守として氏子の尊崇厚く、「舘の郷」の名は之に始まる。御神体木像二体を安置する。社殿は慶安5年(1652)萱葺きより板葺きに改築。享保14年(1729)に拝殿の増築を行い、形態を整備した。

〔 御神体と鳥居 〕
 
素戔鳴尊
− 養老元年(717)作 及び 供人行者一体
真鍮板金の御幣
− 慶安5年(1652)作
大鳥居は欅作り
− 寛政4年(1792)5月建立

嘉永6年(1853)社殿の大改築が行われ、神殿は総欅にて舘村名工・高野満寿五郎苦心の作と云う。記念に「総鎮守氷川大明神」の碑を建立し、この時に社務所も建設した。次いで明治43年(1910)10月、氏子中の小社を合祀した。例大祭期日を4月11日に改定。大戦後神社法人として国家の庇護から離れた。昭和51年(1976)4月二級社に昇格したのを機に、損傷著しくなった社殿等改築の意見ミまり、氏子を中心に昇格記念事業奉賛会を結成するに至った。昭和51年(1976)9月12日発足、同時に氏子信者各町内会を中心に運動を展開した。昭和52年(1977)8月8日社殿工事起工を皮切りに、改築事業が開始された。氏子地域住民の協力により、浄財約5,890万円(寄付者870名)が集められ、社殿・会館・鳥居等全般的事業が完成。昭和53年(1978)10月29日竣工祝典を行い、現在に至る。昭和53年(1978)12月吉日 氷川神社奉賛会 〔 一部修正&加筆す 〕

ξ^_^ξが訪ねたときには境内に「危険樹木の伐採及び枝下ろしについて」の貼紙があり、隣接する公園で遊ぶ児童を始め、近隣住宅の屋根や駐車場に枯れ枝が落下して危険なことから樹叢の伐採が決定されたことが告げられていたの。ネット上では樹叢に覆われた参道や社殿の景観写真を散見することが出来たので、訪ねてみれば、古社が故の厳かな雰囲気が味わえるのでは−と期待してはいたのですが。風を遮ってくれる木々が取り払われたことで、今度は土埃が酷くて洗濯物が干せないわ−と周辺住民から苦情が出るかも知れないわね。次回訪ねる際には玉砂利どころか、アスファルト舗装されて駐車場になっているかも。神さまも大分肩身の狭い思いをしなければならない時代になってきたようね。

この舘氷川神社の創立ですが、【風土記稿】にも「氷川社 村の中央にあり 本社は宮作にて上屋あり 三間に二間半 前に拜殿あり二間に三間 禮拜殿の三字を扁す 拜殿の前を距こと三十間許にして鳥居を建つ 鎭座の年代は知らざれども 古き社なりと云 村内寳幢寺持」とあるだけで、委細不明のようね。それを良いことに(笑)、紹介した由来記を更に遡る逸話も残されているの。それが【舘氷川神社と椋(むく)の木】のお話で、当社は蝦夷征伐の際に当地に立ち寄った坂上田村麻呂が創建したものだと伝えられているの。伝説の域を出ないものですが、知らぬ土地の咄しの面白さ−と云うことで紹介してみますのでお楽しみ下さいね。

とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども、延暦年間(782-806)と云うから、平安時代初め頃のことじゃな。坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が天皇の命を受けて蝦夷征伐に向かう際に、この武蔵野に差し掛かったときのことじゃった。地元の賊徒に襲われ合戦になってしまってのお、地理も地勢も不慣れなことから田村麻呂の軍勢は劣勢となり、遂には敵勢に囲まれてしまったそうじゃ。食料もつき始め、苦戦を強いられることになった田村麻呂じゃったが、思い立って武蔵国一ノ宮として知られる大宮氷川神社に詣でて戦勝祈願をしたそうじゃ。その帰り道のことじゃった。実が鈴なりになった椋(むく)の木を見つけたそうじゃ。果たして、その椋の木の実を兵士に食べさせたところ皆して勇気百倍、見事、賊を退散させることが出来たそうじゃ。これは、他ならぬ氷川神社の加護の賜物−と、その神威に感謝した田村麻呂は椋の木の傍らに祠を建てて神霊をお祀りしたそうじゃ。それがこの舘氷川神社の始まりだと云うことじゃ。今では伐採されて無くなってしもうたが、境内にあった椋の木もそのときのものだと云うことじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども。

この他にも、奉賛会の方が建てた由来記にもあるように、藤原長勝が貞観年間(859-877)に勧請したとする説や、久安5年(1149)に新座郡々司の高野大膳亮師之(たかのたいぜんのすけもろゆき)が分祠&勧請したと云う説が伝えられているの。また、この舘氷川神社は「柏の城」の南東に位置することから、室町期には「柏の城」の守護神としての役割も担っていたみたいね。為政者の意を受けて神さまもその姿を変えざるを得なかったと云うことのようですが、明治40年(1907)に神社統合政策を受けて近隣15社が合祀され、現在は地域の総鎮守になっているの。

郷土資料館で境内に建つ「舘氷川神社の図像板碑」の写真を見ていたこともあり、敷地内のどこかに建てられているハズと信じ込んでいたξ^_^ξはその板碑を探してウロウロしていたのですが、社殿の左手に大きな石柱が立てられているのに目が留まったの。残念ながら「志木市指定文化財 舘氷川神社修復記念碑 平成7年(1995)1月5日指定 志木市教育委員会」とあり、目的の図像板碑ではなかったのですが、実は、この石碑にはとんでもない事実の証拠が刻まれていることが分かったの。説明には、確かに「現在の志木及びその周辺では」の断り書きがあるのですが、「江戸時代でも殆どの一般庶民が名字を持っていたらしいと云うことが分かります」と云う衝撃の事実。それまでのξ^_^ξの脳味噌と云えば、江戸時代は一般庶民の名字帯刀が許されない時代−として完璧なまでに洗脳されていたの。でも、何故、志木では一般庶民までもが名字を持つことが出来たのかしらね。

〔 舘氷川神社修復記念碑 〕  この修復記念碑は嘉永6年(1853)に舘氷川神社の社殿が棟梁・高野満寿五郎によって大改築されたとき、その記念に造立されたもので、碑面には寄進者の氏名と金額が刻まれており、当時の氏子区域である舘本村・中野・引又(以上、現・志木市)、北野村・野火止村の中の東屋敷(以上、現・新座市)や針ヶ谷村(現・富士見市)などの住民達の寄進によって、この大改築が行われたことが推測出来ます。また、引又宿の場合だけ商人が多かったため、名字があっても屋号を使っている人が多くみられますが、この碑に記されている寄進者の多くは名字を持っており、現在の志木及びその周辺では、江戸時代でも殆どの一般庶民が名字を持っていたらしいと云うことが分かります。このように、この碑は、江戸時代の一般庶民は名字を持たなかったと云う通説に、大きな打撃を与えるものとして大変貴重な文化財です。平成7年(1995)1月30日 志木市教育委員会

板碑 〔 舘氷川神社の図像板碑 〕  市内唯一の図像板碑で、輝く光背を負い、雲に乗った蓮台上の阿弥陀如来が来迎する姿が刻まれている。蓮台の下には三具足(祭壇に布を掛け、中央に香炉、向かって右に燭台、左に花瓶を配す)が刻まれ、その下には、この板碑が造立された文明18年(1486)10月23日の日付が見える。三具足の上には、夜念仏供養の文字が僅かに読めるが、その周りの農民の名と思われる文字は磨滅して読むことが出来ない。おそらく後世になって、図像の上部に「正八幡大神」の文字を刻んだ時に、意図的に削り取ったものと思われる。この板碑は、元は志木第三小学校の校地内にあった城山八幡社の御神体として祀られていたものですが、城山八幡社が廃社されたことにより、氷川神社に移されたものである。平成元年(1989)9月30日 志木市教育委員会

実は、この舘氷川神社でのξ^_^ξの一番の目的がこの図像板碑との接近遭遇だったの。残念ながら見つけられずに終えてしまいましたので、現在は、社殿内に収蔵されるようになったのかも知れないわね。その図像板碑ですが、鮮明な画像が気になる方は akisinogawa さんの 板碑探訪記 に掲載されていますので、御参照下さいね。

【風土記稿】には「八幡社 城山にある故に土人は城山八幡と云 神体とてひをくものは念仏供養の石碑にて 地蔵の立像を彫り 其の下に文明十八年二十三日と刻し 左右に供養せしものゝの名を記せり 地蔵の像いかにも古雅にして殊勝なるゆへに 領主より勧請して八幡に祝ひ 小祠をたてゝ此山の鎮護とす 村内長勝院持」とあるの。記述では地蔵を主尊とするとありますが、阿弥陀如来の間違いで、23日の日付があることから、二十三夜講と夜念仏講が習合された夜念仏結衆板碑になるの。二十三夜講は月待ちの一つで、月齢23日の夜に仏堂などに集まり、共に飲食しながら月の出を待ち、月を拝む宗教行事なの。その二十三夜講では勢至菩薩を主尊として祀るのが一般的なのですが、夜念仏講との兼ね合いから阿弥陀如来が彫像されたのかも知れないわね。

ここで、ちょっと気になったのが【風土記稿】の「領主より勧請して八幡に祝ひ」の記述なの。領主より勧請するなんて何か変よね、何かの誤りじゃないのかしら−と思ったの。But 調べてみると決して誤りじゃなかったの。その訳はこの城山八幡の開創縁起に由来するのですが、元和年中(1615-24)、当時この辺りの地頭を務めていた山中与五兵衛の夢枕に八幡神が現れると、社殿を建立するようにとのお告げがあり、その意を受けて正保2年(1645)に八幡社が創建されたの。そんなことから以後は修築などの費用は全て領主の負担で行われる習わしになっていたのだとか。と云う訳で、歴代領主が管掌&崇敬する八幡社から移譲・遷座されたので、領主より勧請云々の表現になったのでしょうね、きっと。若し、異なる理由からだとしたらゴメンナサイ。m(_ _)m

19. 行屋稲荷神社 ぎょうやいなりじんじゃ 15:05着 15:10発

舘氷川神社の次に足を向けたのがこの行屋稲荷神社ですが、一面の芝生に囲まれてある社殿なんて珍しいわよね。加えて、鳥居の前に建てられている石柱の文様に御注目下さいね、龍が彫り込まれているのですが、精巧な細工で、他ではあまり見掛けないものね。社殿にしても、小さいながらも拝殿と本殿が分かれてあるなど、ちょっと変わったお稲荷さんよ。その社殿右手には鉄製の不動明王像を祀る不動堂が建てられていたの。その不動明王像には「汗かき不動尊」のお話が伝えられているの。

とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども、天正年間(1573-92)と云うんじゃから、今から400年以上も前のことになるかのお。この行屋稲荷の東側に不動坂があるんじゃが、その不動坂の途中で木造のお不動さまが土中から見つかったことがあってのお、その頃村の長を務めておった宮原弥七郎がそのお不動さまを祀るべくお堂を建てて安置したそうじゃ。そうしてそのお不動さまは宮原家の守り本尊となったわけじゃが、代替わりして曾孫の源右衛門のときのことじゃった。あろうことか、お不動さまが盗まれてしまってのお、仕方なく源右衛門は鉄製のお不動さまを造り、改めて不動堂に安置したそうじゃ。

そうして宮原家では益々信仰を深めていったと云うことじゃが、その鉄製のお不動さまには不思議なことが起こるようになってのお、源右衛門の子・與左衛門が名主を辞めさせられたときも、また、その子供の延勝が病に臥したときも、全身に汗をかいておったそうじゃ。それからと云うもの、このお不動さまは「汗かき不動」と呼ばれるようになってのお、その後もお不動さまが汗をかくと決まって宮原家では悪い事が起きるので、延勝の子・仲右衛門はとうとうお不動さまを厨子の中に封じ込めてしまったそうじゃ。それからと云うもの、宮原家では何事も起こらなくなったと云うことじゃ。鉄製のお不動さまが不吉の相を現すと思われてしまったようじゃが、鉄で造られていることから季節の変わり目などで水滴がつくことがあったようじゃのお。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども。

それにしても鉄製の不動明王像とは。源右衛門さんは鉄製なら容易に盗まれる心配も無いだろうと考えたのかしらね。この行屋稲荷神社の敷地に接して宮原家の墓地がありましたが、科学的な知識の乏しかった当時のことですので、仲右衛門さんの行動を一概に責めるわけにもいきませんが、今は納得の上で草葉の陰から信仰を寄せてくれているかも知れないわね。その鉄製の不動明王像が安置される不動堂の背後には志木市の文化財に指定される「行屋稲荷の庚申塔」があるの。

〔 行屋稲荷の庚申塔 〕  この庚申塔は、庚申講と云う庚申待を行う信仰集団によって建てられたものである。庚申待とは、庚申(かのえさる)の晩に限り人が眠るのを待って体から抜け出し、天帝にその人が犯した罪を告げると云う三尸( さんし:三種類の虫 )が体から逃げ出さないように、夜を徹して身を慎むといった行事。行屋稲荷の庚申塔は、正保5年(1648)に造立されたもので、近世の石仏・石神の中では、市内で最も古く、六面に六地蔵を配しており、地蔵信仰と庚申信仰が一緒になった珍しい六面単制石幢である。平成元年(1989)9月30日 志木市教育委員会

庚申塔や庚申待のことが気になる方は 庚申信仰 の頁を御覧下さいね。
少しだけど、分かりやすく解説してみましたので御笑覧下さいね。CMでした。

20. 城山貝塚 しろやまかいづか 15:19着 15:21発

縄文早期末葉は内海としての奥東京湾が形成され始めた時期であり、志木市域でも海水侵入が進み、この城山貝塚が形成された頃(縄文時代前期中葉)が縄文海進の最盛期で、温暖化が進み海水面が上昇、現在よりも5mも高かったと推定されているの。当時は、志木市域のみならず、荒川や旧荒川流域の低地部の殆どが奥東京湾と化していたみたいね。その奥東京湾で主として獲れていた貝がヤマトシジミだそうよ。城山貝塚のものではないのですが、埼玉県富士見市にある水子貝塚の資料館&展示館を訪ねたときに、貝塚から発掘されたと云うヤマトシジミの貝殻を頂いて来たのですが、ξ^_^ξ達が普段目にするシジミの大きさと同じだと思ったら大間違いよ。

大きい方を実測してみると4cmもあるの。河川から流れ込む栄養分を得て生育環境にも恵まれ、乱獲されずにいたこともあり、大形化していたのかも知れないわね。その縄文海進も縄文時代前期終末頃から後退に転じるの。奥東京湾の海水面が低下し、河川が流出する土砂が低湿地帯を形成するようになるとヤマトシジミも獲れなくなり、それを補完すべく動植物の狩猟&採集が行われるようになるの。But 必要は発明の母ね、そのために新たな石器や土器、木器や骨角器などがつくられるようになるの。海からの恵みを失うことになってしまった反面、新たな道具を得て行動半径も広がり、志木市域ではこの縄文中期が縄文時代としては最も繁栄するの。

その縄文中期に始まる気候変動は縄文時代後期末から晩期にかけてが最も寒冷化が進み、志木市域を流れる河川流域では土砂の堆積が更に増し、湖沼を埋めたために淡水系の魚介類を採取することも出来なくなり、縄文人達は生活に適さなくなった土地から皆離れていってしまったようね。そうして縄文人達の姿の消えてしまった志木市域ですが、一方で、低湿地と化した河川流域は稲作には最適の土地になるの。勿論、そのためには更なる時の流れが必要とされるのですが。

21. 柏の城跡 かしわのしろあと 15:24着 15:25発

〔 史跡・柏の城跡 〕  この辺り一帯を遺跡とする柏の城は、木曽義仲の子孫で武蔵屈指の豪族・大石氏が室町中期に造った居館である。そして、京都聖護院の門跡・道興准后( どうこうじゅごう )が文明18年(1486)から翌年にかけて関東各地を巡歴した際の紀行歌文集【廻国雑記】に見える「大石信濃守といへる武士の館」とされている。ここで云う大石信濃守とは大石顕重( あきしげ )のことで、本城は現・八王子市の高月城であった。顕重以後の城主は定かではないが、大永年中(1521-25)に修築が行なわれ、本丸( 運動場のほぼ中央 )、西の丸( 長勝院境域 )、二の丸( 脇道に沿った校地の一角 )、三の丸( 前の市道を背にする一帯の宅地 )を備えるに至ったと伝えられる。

その後、大石氏は北条氏康に服属したが、天正の頃は大石越後守直久が城主だった。直久は顕重の曽孫・大石定仲の長男で、天正9年(1581)から北条氏の指令に基づき、駿河国獅子浜城の城代となっていた。柏の城が豊臣勢に攻められて落城したのは、武蔵国の他の諸城と同じ時期の天正18年(1590)。徳川家康が江戸へ入府すると、家臣・福山月斎が新しい地頭として、この城地に居住した。昭和54年(1979)10月1日 志木市教育委員会

史跡「柏の城跡」と云っても、本丸跡には志木市立第三小学校が建てられていて、上掲の案内板も校地を囲むフェンス脇に申し訳なさそうに立っていたの。気がつかなければ、そのまま通り過ぎてしまうかも知れないわね。それはさておき、参考までに郷土資料館にあった解説も転載しておきますね。

〔 柏の城 〕  現在の志木第三小学校の場所には、保元元年(1156)に田面長者藤原長勝(たのものちょうじゃふじわらながかつ)と云う豪族が館を築いて以降、荏柄平太胤長(えがらへいたたねなが)等の武将がいたとも云われている。柏の城は文明年間(1469-87)に大石信濃守顕重(おおいししなののかみあきしげ)によって築かれたものと思われる。この城は2回落城しており、一回目は、永禄4年(1561)に上杉謙信が北条氏の小田原城を攻めた時、柏の城も攻略されたようである。二回目は、豊臣秀吉が小田原攻めの時で、秀吉軍は天正18年(1590)小田原に殺到し、このため3月から6月にかけ北条方の武蔵の多くの城は次々に落城したが、柏の城が落城した正確な時期は分かっていない。昭和55年(1980)に志木第三小学校の向い側の場所で発掘が行われ、幅12.5m、深さ4.7mの大堀が発見され、その一角が城郭であったことが実証された。志木市立郷土資料館

【風土記稿】の舘村の條には「古蹟 舘迹 長勝院の東の方にありて、同寺の境内へも少くかゝかれり 今は畑となりしかど 廢堀のあと土手の状などわづかに殘りて 當時のさま彷髴として見るべし 土人云 遠からず世までも土手堀など全く存せり 其後林をひらき 畑をおこせし時、こぼてりしにより 古の状更に變ぜり 今八幡祠のある所舘のありし所なりとぞ いかさま北の方に崖ありて 廣さ二町に二町半ばかりの要害の地なり 昔大石越後守こゝに居れり 此人は小田原北條家の家人なりしが 天正18年(1590)太閤秀吉の爲に亡びしと 按に大石越後守は多摩郡瀧山城主大石信濃守が一族なるべし 天正9年(1581)北條武田兩家の間和議破れける時 駿河國分國境目の押へとして 同國獅子濱の城に越後守を籠をきしこと小田原記に載せたり 同10年(1582)上方の大軍小田原の城を攻し時も この人同じ城にありて 終に寄手のために城を明渡しけるよし【北條五代記】等の書に見えたり されば此時をのが舘も敵の爲にうち亡されしならん」とあるの。舘=柏の城と云うことなのですが、「舘」は中世に於ける武士の館(やかた)を意味する語だそうよ。

その舘と館の違いですが、【舘村旧記】の田面長者以來年數荒間敷之亊の段に「當村をたて村と云ふに付きて、舘と館との二字これあり。或人の云はく、館の字は高官の御方の旅行へ御出でありて、お泊まりなどの旅館の時に館(たびや)の字を書する也。又、舘と云ふ字は高官の御方のその所に御殿など建ちて御住居ありたる所を舘といふ也と。故に村里の村名に舘の字付きたる所は、必ず位高き御方の御舘(みたち)ありし故に舘(たて)云ふ也。然れば當所は 柏城の西の丸に侍り、殊に亭(ちん)の建ちたる所などこれあり、則ちその下の田所を今に亭の下と字を呼ぶ也。さればこそ舘村と名づけたるも尤もにて理(ことわり)也」とあるの。どちらにしても高官であることが絶対条件のようですので、仮にξ^_^ξがジャンボ宝くじで5億円を当て、豪邸を建ててみたところで、その痕跡を地名に残すことには決してならないようね。

22. 長勝院跡 ちょうしょういんあと 15:27着 15:32発

今回の散策の切っ掛けとなったのが、この長勝院跡に咲く 長勝院旗桜 ですが、残念ながら観ることが出来るのは一年の内でも限られた期間だけなのは仕方の無いことね。それはさておき、【風土記稿】には「村の中央よりは西によりてあり 新義眞言宗 豊嶋郡石神井村三寳寺末 清瀧山藥王寺と號す 客殿八間に五間半 本尊藥師如來を安置す 開闢の年代及開山開基も何の頃の人なりや詳ならず されど境内に古碑あるによれば 古き寺なることしるべし 古碑三 一は觀應3年(1352)11月4日沙彌尼本觀と刻し 一は觀應3年(1352)壬辰11月8日宋阿逆修と刻し 一は元弘3年(1333)癸酉7月と刻す 三基ともに上に彌陀觀音勢至の種字を彫る」と誌される長勝院ですが、現在は僅かに残される石仏に痕跡が見て取れるのみなの。

〔 柏の城西の曲輪跡 〕  柏の城は、関東管領・山内上杉家の重臣・大石氏一族の戦国初期からの居館と云われていますが、その築城年代などは一切不明です。江戸時代の享保12年(1727)から同14年(1729)にかけて舘村( 現在の志木市柏町・幸町・館地区付近 )の名主・宮ヶ原仲右衛門仲恒により執筆された【舘村旧記(たてむらきゅうき)】に依ると、志木第三小学校地に本城が、その東側に二の曲輪、市道を挟んだ南側に三の曲輪が、そしてこの辺りには西の曲輪があったとされています。この辺りは嘗て亭の台(ちんのだい)とも呼ばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であると云う伝説も伝わっており、古来よりこの地域を統括するような有力な人物に関係する何等かの施設があったらしいことが推測できます。また、舘村八景の一つに「亭の下の夕照(ちんのしたのゆうしょう)」とあるように、この付近は秩父連山から富士山まで眺望できる景勝の地としても有名な所でした。平成6年(1994)2月25日 志木市教育委員会

先程紹介した【舘村旧記】の田面長者以來年數荒間敷之亊の段の冒頭には「當村は田面郡司長勝殿の頃より享保年中に及んで凡そ年數九百餘年に及びけれども、夫より以來當所に百姓町人等住居せし亊又は守護人誰人といふことなど云い傳へ侍らざる也。然れども古昔は人家多くこれありと聞こへて、所々に墓所の跡多くこれある也。さて亦當所柏城、文明年中の頃田面長者の住居ありし跡を城に築きて大石信濃守殿居城となれり。而も相州小田原北條家の幕下にして、小田原附十一ヶ城の内也」とあるの。その田面郡司長勝ですが、地元では平安末期の郡司と伝えられてはいるのですが、史実としての実在性は疑わしいようで、伝説上の人物と見做すのが順当のようね。決して歴史浪漫に水を差す積もりは無いのですが。But 結果的には水を差しちゃったわね。

23. 小橋の石橋供養塔 こばしのいしばしくようとう 15:38着 15:39発

〔 小橋の石橋供養塔 〕  この石橋供養塔は、嘗て川越街道の裏街道の役割を果たしていた江戸道が江川堀( 現在の志木市民体育館の場所にあった大堰溜を水源とし、周辺の水田の落ち水を合わせた大排水 )を横断する地点に架けられた小橋と云う名の石橋の供養のために、宝暦9年(1759)5月に造立されたものです。造立にあたっては舘村宮原弥吉・中野村三枝定八・引又宿三上幸助他30人が願主となり、舘村・中野村・引又宿・宗岡三組(以上、志木市)を始め、現在の富士見・ふじみ野・三芳・川越・新座・朝霞の各市町域にあたる44ヶ村からの助成を得ていることが碑文から分かります。これ程多くの村々が関与したのは、この石橋がこれらの村人の生活にいかに大きな意味を持っていたかを端的に示すものであると云うことが云えます。尚、昔は橋には霊魂が宿ると信じられており、新設や修復に際し、その橋が長く破損や危険から免れるように供養塔を造立する風習がありました。この供養塔は、志木ロータリークラブより志木市に寄贈されたものです。平成23年(2011)12月 志木市教育委員会

散策の最後に柳瀬川の畔を歩きながら柳瀬川駅へと向かいましたが、富士見橋の少し手前に「小橋の石橋供養塔」が建てられていたの。今では辺りを見渡してみたところで、富士見橋の他には、橋の「は」の字も見えませんが、写真に写る排水機場の辺りに架けられていたのかも知れないわね。今では堰堤も整備され、柳瀬川の畔をめぐる遊歩道は地元の方には絶好のお散歩コースになっているの。歩道脇には桜の木が植樹されていることから、季節にはお花見の名所にもなるの。次に訪ね来るときは満開の桜を愛でながらのお散歩にしたいわね。

24. 柳瀬川駅( 東武東上線 ) やなせがわえき 15:46着

最初は、世界に一本しか無いと云う長勝院旗桜に惹かれて訪ねた志木市ですが、帰宅後に調べてみると、他にも見るべきものが多くあることを知ったの。そこから今回のぶらり歴史散策となった訳ですが、いざ足を向けてみれば、新たな知見と情報を得て、再び再訪の必要性を感じてしまうと云う悪循環(笑)。加えて、地元志木市の皆さんがとってもフレンドリーなの。脳天気な旅人の、どうでも良いような質問に時間を割いてまで資料を調べて下さった郷土資料館の方や、すっかりお茶してしまった旧村山快哉堂のボランティア職員の方、遠くから良く来てくれましたね、是非登山していって下さい−と田子山富士を案内して下さった保存会の方など、決して多くの方々に接した訳ではないのですが、サービス精神溢れる方々ばかりだったの。それはきっと、志木市が住む方々にとって誇りある街だと云うことよね。そんな志木市を、あなたも一度、訪ね歩いてみてはいかがですか。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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〔 参考文献 〕
吉川弘文館刊 佐和隆研編 仏像案内
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
角川書店刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版江戸名所図会
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々- 日本の神霊たちのプロフィール
田子山富士保存会発行 田子山富士のナゾ【歴史編】
志木市教育委員会発行 しきし歴史まっぷ〜志木編〜
志木市教育委員会発行 しきし歴史まっぷ〜宗岡編〜
志木市教育委員会発行 文化財まっぷ 伝説編I
志木市教育委員会発行 文化財まっぷ 伝説編II
志木市編集発行 「志木市史」通史編上 原始・古代・中世・近世
志木市編集発行 「志木市史」中世資料編
その他、現地にて頂いてきたパンフ&栞など






どこにもいけないわ