≡☆ 坂戸の史蹟めぐり ☆≡
2017/06/17 & 2018/11/03 & 2022/06/17

坂戸市の北東部を流れる飯盛川の右岸側にはなだらかな坂戸台地が広がり、そこでは早くから大規模集落が営まれていたことが窺え、大型の古墳や武蔵国分寺に先だって創建された古代寺院跡などの事蹟が今に残されているの。近年の発掘調査では南北を縦走する東山道武蔵路の道路遺構が発見されるなど、特異な歴史を秘めた地域でもあるの。その坂戸を塚越&勝呂地区を中心に、ぶらり歴史散策。補:掲載する画像は幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

東光寺・雷電塚古墳・西光寺・大宮住吉神社・勝呂神社・宗福寺・勝呂廃寺跡・歴史民俗資料館

1. 若葉駅( 東武東上線 ) わかばえき 8:27着 8:45発 さかっちワゴン みよしの線 ¥200
Map : 坂戸市関間4-13

実は、当初の目的は花菖蒲の観賞だったの。以前( 2017.03.12 )「 すみよし桜の里 」を訪ねた際に隣り合わせにして「 すみよし花菖蒲園 」があることを知り、花菖蒲の開花を待って再訪してみたのですが、あるハズの菖蒲園は跡形も無くなっていて、代わりに稲が植えられた水田にすっかり姿を変えていたの。事前の下調べでは菖蒲園の紹介記事を載せたサイトも複数あり、まさか、そういうことになっているとは夢にも思っていなかったの。ただ、坂戸市観光協会のサイトには記載が無かったので、その時点で何かおかしいわね−と気づけば良かったのだけど、After the carnival (^^;

因みに「 すみよし花菖蒲園 」は、「 すみよし桜の里 」と同じく、すみよし花卉愛好会の方々が地元の休耕田を利用して平成15年(2003)に花菖蒲を植えたのが始まりなの。道端で農作業をする方がいらっしゃったので菖蒲園のことを訊ねてみたところ、休耕田であることが問題になったみたいね。花菖蒲を植えて観賞に供しているので休耕田と見做すわけにはいかず、雑種地として宅地並みの課税をする−と云う行政側の主張にやむなく廃園とせざるを得なくなってしまったみたいなの。じゃあ、桜の里の河津桜はどうなのよ−となるのですが、こちらは道路の端っこに植えているからいいみたいだよ−とのお話でしたが、河津桜の方は街路樹として扱うことで無罪放免のようね。すみよし花卉愛好会の方々のこれまでの努力と丹精を思うと心が痛みますが、行政側ももう少し知恵を絞って何か良い方策を見出すことは出来なかったのかしら。来園者の楽しみだけでなく、菖蒲まつりの開催期間中は模擬店なども出ていたようなので、地元に対する経済的な波及効果も多少なりともあったのではと思うのですが。ブツブツ・・・(笑)

2. 小沼BS おぬまばすてい 9:17着発
Map : 坂戸市大字小沼364

と云うことで、稲田を前に茫然自失のξ^_^ξでしたが、無くなってしまったものは仕方がないわね、でも、折角出掛けて来たんだもの、少しその辺をぶらぶらしてみようかしら−と考えたの。改めて手許の地図を眺め見ると、近距離圏内に幾つか寺社が点在し、加えて雷電塚古墳の名も見えて、適当に歩き始めてみたと云うわけ。But そのときは事前に調べていたわけではないので、見逃してしまったものも多く、歴史民俗資料館に至っては平日のみの開館と、すげなく終わっていたの。5年と云う歳月を経て (^^; 当時を思い出し、平日に休みをとることが出来ましたので、今回改めて出掛けてみたと云う次第なの。

残念ながら天候は快晴ではなかったので、ここでは以前訪ねたときの画像を多用していますが、当時と現在で景観が大きく異なるわけでもないので、御容赦下さいね。

3. 小沼氷川神社 おぬまひかわじんじゃ 9:21着 9:31発
Map : 坂戸市大字小沼840

小沼は越辺川右岸の低地から台地に位置する。地内には弥生後期の集落跡小沼新井遺跡、古墳後期の雷電山古墳群、雷電塚古墳( 県文化財 )があり、更に元暦・正和・文和・貞和・永徳などの年号を刻む板碑が各所に点在し、古くから住居地になっていたことが知られる。口碑に「 当地は慶長年間(1596-1615)以前は二つの集落に分かれていて、越辺川の付近に18戸が居住し八幡神社を産土の神と祀り、高台に30数戸が居住し氷川神社を産土の神と祀る。常に両鎮守と称して崇敬されてきたが、越辺川は毎年水害を被り困難を来したために、寛永(1624-44)の頃高台の集落に全戸移転し、八幡神社はそのまま堤外に残した 」という。八幡神社と氷川神社の別当は、それぞれ真言宗薬王院東光寺・同宗氷川山宝蔵寺が務めていた。明治5年(1872)の社格制定にあたり、往時から住民は両社を鎮守としてきたところから、氏子一同話し合いの上、両社に氏子が分かれ、別々に村社に申し立てたが、同40年(1907)に八幡神社が氷川神社へ合祀され、同時に字西廊の八坂神社も合祀された。そのため、一間社流造りの本殿には、氷川大明神像と共に騎上の八幡大明神像を安置している。

余談になりますが、【埼玉の神社】には上記に加えておもしろい( と云っても当時はそれなりに真剣味を以て語られていたのかも知れないけど )逸話が紹介されていたの。

それに依ると、嘗てこの辺りでは越辺川沿いにある島田の天神社( 坂戸市島田722 )の末社・諏訪神社と小沼の氷川神社は仲が悪いため、島田と小沼の間では縁組をしてはいけないと云われていたみたいなの。両地域は共に越辺川を抱えることから越水や洪水などの水害を被ることが頻繁にあり、ひとたび島田側で決壊が起こると、引き続いてこの小沼でも決壊して大きな被害が出たことに由来するのだとか。自然災害を相手にして、土木技術も資金的な余裕も無かった当時としては、せめてそういった禁忌を通して自然災害から逃れようとしたのかも知れないわね。

社殿の左手には大きな石碑が建てられていましたので、最初は由来記が誌されているのでは−と期待したのですが、残念ながらそうではなかったの。碑には昭和初期に行われた耕地整理の顕彰文がしたためられていたの。それもまた当地域の歴史の一コマと云うことで、参考までに転載しておきますね。

〔 開墾記念碑 〕農林大臣従三位勲二等町田忠治題額
本耕地整理地域は入間郡三芳野村大字小沼に屬し舊川越領小沼村萩野と稱す 相傳ふ 慶安以後四十餘年の間 其四町二反有竒は宮地にして 其一町四反有竒は小川半右衛門他十二名の所有なりしか 元祿七年宮地は小沼村の有となり 明治維新に及へり 維新前一部を開墾せしか 此年登らす永く不毛の地となれり 明治八年地租改正に際し復宮有を以て立證し無代下付の允を得て再ひ小沼の有に歸し 次て氷川神社の所有となりて今日に至れり 此地越邊川に沿ひ陰澤沮洳 只菰萩の繁茂に委ね蕪穢甚しく満目荒涼の状ありしか 昭和四年區長神田九重等之を憂へ 胥議して耕地整理法及開墾助成法に頼り 之を開墾し永く農耕の利を収めむことを圖り 乃ち接續地を合せ七町四反歩を以て一區となし 委員を選みて企畫し 五年二月宮の允を得 四月に至りて竣功せり 費す所金八千八百餘圓 其の一半は官の補助を受け 他は神社財産より之を支出せりと云ふ 道路溝澮茲に通し 搬運水利共に其の便を得て 生産新に興り 収益累年増加し 全く其の面目を一新せり 若し夫れ區民此機に乗し深耕力作益利用厚生の實を擧くるに至らむか 所謂進て公益を廣め世務を開くものと謂ふへし 頃者區民胥議り碑を建てて事功を久遠に傳へむと欲し文を余に嘱す 余此事に興ること深し誼辞すへからす 乃ち其大要を撰次し 後人をして永く其事績を諼るるなからしむ 銘に曰く
小沼之地 墾闢成功 遺利斯擧 福祉無窮 神明之徳 家給人足 禾穀豐饒 改風易俗
昭和五季九月 農林省耕地課長正四位勲三等農学博士 有働良夫 撰併書

4. 少林寺 しょうりんじ 9:35着 9:43発
Map : 坂戸市大字小沼521

地図上にその名を見つけて足を向けてみたのがこちらの少林寺。少林寺拳法のイメージに引きずられて、同じ寺号を持つお寺だもの、それなりの伽藍が建てられているのではないかしらと勝手に期待してしまったのがいけなかったわね。いざ、辿り着いてみれば、墓地の他には六地蔵と、この後紹介する魚籃観音が祀られる観音堂のみといった寂しい風情だったの。

【風土記稿】には「 少林寺 禪宗曹洞派 同郡坂戸村永源寺末 鳳雲山聖諦院と號す 開基道斎宗現沙彌永禄2年(1559)に草創し 元龜3年(1572)7月15日寂せり 此僧は小嶋氏にて此村の農民なりしが 今其家絶たれば詳ならず 其後本寺六代の僧徳高天暁 延寶元年(1673)に寺格を進めし故 此僧を法流開山とす 本尊釋迦の坐像一尺一寸 僧惠隠の作なりといふ 東照宮 白山社 稲荷社 観音堂 魚籃観音なり 」と記されているのですが、気になるのが、開基した道斎宗現沙彌のことを「 此僧は小嶋氏にて此村の農民なりしが 」としている点ね。当時の感覚として普通の農民が姓を名乗ることなど無かったでしょうし、ましてや仏教に傾倒して仏門に入ることなど、あり得なかったお話ではないかしら。

この小嶋氏ですが、後程訪ねる西光寺にも関係しているの。西光寺の現地案内板には「 越後の大名・上杉氏に仕えた小島豊後が屋敷内に庵を建て西光庵と称したことに始まります。その子越後に依って、天文年間(1532-55)に庵が再興され、西光寺と呼ばれるようになりました。小島氏は当地に帰農して境内を寄付し、開基となっています。」とあり、小嶋越後と道斎宗現沙彌は同一人物とまでは云えないまでも、非常に近い関係にあるように思えるのですが。道斎宗現沙彌もまた元々は武士で、戦に伴い従軍してこの地に遠征、戦が終わるとそのまま当地に留まり帰農した−と云うのはどうかしら。武士は神仏の加護を求めて髻に小さな仏像を忍ばせて参戦することもあり、道斎宗現は無事に生き延びられたことを感謝してその仏像を小堂を建てて祀ったのではないかしら。以上はξ^_^ξの勝手な想像ですが、少林寺も当初のそれはその守り本尊を祀る持仏堂のようなものだったのではないかしらね。

5. 東光寺 とうこうじ 9:58着 10:10発
Map : 坂戸市大字小沼266

〔 東光寺 〕東光寺は、薬王山浄水院東光寺と称し、新義真言宗智山派大智寺の末寺であり、本尊の木造不動明王坐像は享保18年(1733)に法橋幸慶が作ったものと云われている。当寺に関する古記録は散逸して現存しないが、明治の末に編纂された【三芳野村郷土誌稿】に依れば、「往古より一小池あり、幅五間、長さ八間にして、中に小島あり、池水心の字の形をなす。老樹森立して之を続け、世塵を隔絶し静閑の地なり」と記され、承安元年(1171)この清浄池に薬師如来の翠影彷彿として出現し、里人畏れて深く信仰し、以来、薬師如来を本尊として日光、月光菩薩、十二神将を配し、且つ、傍らに愛宕権現を奉祀したと伝えられている。しかし、一説では、元弘3年(1333)新田義貞鎌倉攻めの折、鎌倉街道を通り、別所山で休息していたところ、東と西に光を放つところがあり、その所に寺を建てて東光、西光の両寺としたとの伝承もあるが、幾れにしても、鎌倉街道を挟む両寺は、往古の領主青木氏の菩提寺として、この地の信仰の中心となっていたものであろう。昭和56年(1981)3月 坂戸市

寺伝では、鎌倉時代初期に丹党の青木氏が創立したと伝えられるものの、詳しいことは分からず、頼りとする【風土記稿】も「 東光寺 新義眞言宗 大智寺末 藥王山と號す 開山詳ならず 本尊不動を安ず 藥師堂 」と誌すのみなの。創建のことはさておき、【風土記稿】の入間郡河越領・青木村の項には「 屋敷蹟 」として次の記述があり、薬師堂のことにも触れられているので紹介しておきますね。

村の北小名別所にあり 爰は小沼・塚越の二村に挾れる所にて 徃昔武士の居住せし跡とのみ傳へて姓名も知らず 構へし内西北の廻りに小土手今に殘れり 其外皆畑となる 此畑の中より甲冑・刀鎗の類の朽たる者を穿出せしことありと 想ふに當國七黨の内丹の黨に青木氏なる者あり 其人の居住せし所なるも知べからず 又土人の話に 徃古爰に藥師堂あり 其堂の東西に寺あり 東光寺・西光寺と云ふ 今小沼村の東光寺 塚越村の西光寺は即是なり 堂のありし時は此兩寺より指揮せしが 何なる故にや其堂を破却し 本尊藥師を西光寺へ持行 又十二神をば東光寺へ持行て 今二寺にありと云 土人も其年代は詳ならず
薬師堂

やはり気になるのは【風土記稿】が云うところの「 何なる故にや 」の内容よね。十二神将と云えば薬師如来の眷属で、その役割は薬師如来を補佐することと、薬師如来を信仰する人々を護ることにあり、薬師如来と十二神将は一心同体の関係にあるの。それを敢えて分かちて二寺に安置するには、それなりの理由があって然るべきよね。とは云え、現在は東光寺、西光寺の双方に薬師堂が建てられていて、それぞれの堂内には薬師如来と十二神将が祀られているみたいよ。実際に確認してみた訳ではないのですが、恐らくは欠落を補うべく新たに後世に造立されたのでしょうね、やはりどちらかが欠けてもまずいものね。
雷電塚三号墳

客殿から庫裏へと向かう小径の傍らには可愛らしい小僧さん達が並んでいたの。
その表情に心がほっこりとしてくるの。ちょっとした癒やしの空間ね。

6. 雷電塚古墳 らいでんづかこふん 10:11着 10:21発
Map : 坂戸市大字小沼269

7. 寶珠寺 ほうじゅじ 10:35着 10:38発
Map : 坂戸市青木830

こちらも地図上にその名を見つけて訪ねてみたのですが、本堂こそ近年新たに建て替えられてはいるものの、普段は無住のようね。境内には縁起を語ってくれるものもなく、頼りとする【風土記稿】にも「 寶珠寺 新義眞言宗 勝呂大智寺末 愛宕山正護院と號す 古は法勝寺と唱へたりと云 法流開山慧辨寛政2年(1790)9月21日寂す 此僧の時寺格を進めしとぞ 本尊不動を安ぜり 愛宕社 諏訪稻荷合社 」とあるのみなの。

改めて調べてみたところ、【坂戸市史】に「 初め川越市下広谷 ※ に創建され、隆勝寺と号したが、いつの時代か現在地に移って法勝寺と称し、江戸時代中頃に現在の寺名に改めたと云われる。開山存岸は文明6年(1474)の没と【武蔵国郡村誌】にあり、墓地には「文明四年壬辰九月三日 権律師紹範」と刻した板碑がある」との記述を見つけたの。状況証拠からすると、開創年代は明かではないものの、室町時代のとある時期に紹範を開基として存岸が開山したと考えるのが至当のようね。※ 現在地からだと直線距離にして南南西に2Km位いったところよ。

But 本堂前に建てられている本堂落慶記念碑には更に時代を遡って「 鎌倉時代の宝治2年(1248)の開山と伝えられています 」と誌されているの。残念ながら記念碑には寺史についてのそれ以上の記述が無くて。どちらにしても開創時期には諸説があり、来歴については不詳のようね。

8. 西光寺 さいこうじ 10:47着 11:06発
Map : 坂戸市大字塚越567

〔 西光寺 〕西光寺は、江戸時代に建立された曹洞宗のお寺です。周辺には大宮住吉神楽が伝わる大宮住吉神社や源義家の云い伝えが残る義家塚などの史跡が残っています。西光寺は、越後の大名・上杉氏に仕えた小島豊後が屋敷内に庵を建て西光庵と称したことに始まります。その子越後に依って、天文年間(1532-55)に庵が再興され、西光寺と呼ばれるようになりました。小島氏は当地に帰農して境内を寄付し、開基となっています。江戸時代になると龍穏寺( 越生町 )20世撫州春道大和尚が開山となって、今日の基礎を築きました。

山門の前に立つ二体の仁王像は、本堂裏の墓地に祀られている金子稲荷観音ゆかりのもので、元禄12年(1699)に制作されました。石造りの仁王像は数が少なく、近隣に例を見ません。正面本堂には、ご本尊の釈迦如来、脇仏として阿弥陀如来、弥勒菩薩の三尊が祀られています。

境内左手の薬師堂には、薬師如来、日光・月光菩薩の薬師三尊に加え、十二神将、不動明王などが祀られ、中武蔵七十二薬師尊の二十二番札所として、古くから当地方の人々の信仰を集めています。本堂裏の墓地には、中世( 南北朝期 )に勝呂地区一帯を本拠地とした在地領主・勝すぐろ氏ゆかりの宝篋印塔が、塚越の五輪山から移されました。貞治5年(1366)の元号と勝次郎左衛門入道頼阿の銘が刻まれています。平成27年(2015)2月 坂戸市教育委員会

因みに、【風土記稿】には 西光寺 禅宗曹洞派 龍ヶ谷龍穏寺末 寶福山と號す 開山は本寺20世撫州春道 正保3年(1646)7月25日示寂す 開基は小嶋豊後とて 管領上杉氏の士なりしが 居屋敷の内へ初て庵室を建て西光庵と號す 其子越後は天文年中(1532-55)河越夜軍の後上杉を去て北條氏に屬し 舊によりて土着せしが 後宅をすて庵を再興して西光寺と號す 天正2年(1574)10月13日卒す 法謚して寶福院天空玄理上座と號す 其後初て春道住職して 全の一寺となせしにより 此僧を以て開山とすと云へり 今村民兵右衛門は越後が子孫なりと云傳ふ

本尊は彌陀の立像長三尺許り 定朝の作なり 鍾樓 鐘は安永6年(1777)に鑄造せり 薬師堂 薬師は定朝の作 坐像にて一尺二寸 白山社 秋葉社 とあるの。山号の寶福山は越後の諡・寶福院天空玄理上座に由来すると云うことね。

【坂戸市史】に気になる記述を見つけたの。そこには「 古社大宮住吉神社の東方には南北朝時代から室町時代にかけて、西光寺とは異なる禅宗寺院があったことが推察される」とあるの。文面からだけでは西光寺の前身となる寺院なのか、それとも全くの独立した寺院なのかまでは分からないけど。

金子稲荷 金子稲荷 宝篋印塔 宝篋印塔

9. 大宮住吉神社 おおみやすみよしじんじゃ 11:07着 11:32発
Map : 坂戸市大字塚越254-1

〔 大宮住吉神社 〕社伝に依ると当社は、平安時代〔 天徳3年(959) 〕に、長門国豊浦郡( 現在の山口県下関市 )の住吉神社の御分霊を山田長慶 やまだながよし と云う人が勧請したことに始まると云われ、祭神として住吉三神( 海・航海の神 )、神功皇后、応神天皇を祀っています。当社は、室町時代中期〔 永享元年(1429) 〕に、鎌倉公方の足利持氏に依って社殿が再建されたと云われており、永亨元年銘の棟札が現存しています。後に、江戸入府を果たした徳川家康からは、寺社の所領を確定させた公的文書の御朱印状賜り、以後代々の将軍に社領を認められ、将軍家光の代には朱印高六石を賜ったと云います。当社は、嘗ては北武蔵十二郡( 入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉 )の総社であり、宮司家・勝呂氏は触頭 ふれがしら として、配下の神職を纏めており、江戸時代には武蔵国の総社である府中市の大國魂神社の祭事に出席し、神楽を奉納した記録があります。近代には、近隣で唯一の郷社となり、氏子を中心に広く信仰を集めてきました。

主な祭りは、祈年祭( 2月23日 )、例大祭( 4月第一日曜日 )、新嘗祭( 11月23日 )であり、中でも例大祭は最も盛大で、多くの神楽が奉納され、午後に行われる天下祭では、天狗( 猿田彦命 )を先頭に行列が参道を歩み、神話の天孫降臨になぞらえて五穀豊穣・家内安全を祈願します。境内には、本社とは別に、複数の神社が合祀されている境内社があり、合わせて17社が祀られています。道を挟んで境内の南側にある神泉と云われる池には、中央に島があり、市杵島比売命 いちきしまひめのみこと を祀る厳島神社が鎮座しています。厳島神社の石祠には水の神とも云われる弁財天の文字が刻まれており、嘗ては旱魃が続くと、氏子が桶を持ち寄り雨乞いをしたと云います。平成29年(2017)3月 坂戸市教育委員会

説明には17社が祀られるとある境内社ですが、貼り出されていた案内を見る限りではそんなには無かったわよ。参考までに標示案内を掲載しておきますね。中には、エッ、それってその神さまの御神徳( 御利益 )とするにはちょっと違うんじゃないの−と云うものもあるけど。

天満天神社
稲荷神社
八重垣神社
簸川神社
八坂稲荷神社
八幡神社
菅原道真公
宇迦之御魂神
須佐之男命
須佐之男命
須佐之男命・宇迦之御魂神
誉田別命
学業成就・合格祈願・五穀豊穣
商売繁盛・五穀豊穣
縁結び
縁結び・仕事運
厄除け・縁結び・商売繁盛
厄除け・商売繁盛・家内安全

因みに、【風土記稿】には主祭神と併せるとちょうど17柱( or 社 )の記載があるの。末社の中には、どんな神さまが祀られるのか、分からない社名もあるので、あるいは複数の神さまが祀られるのかも知れず、必ずしも17柱とはならないかも知れないけど。どうせなら−と云うことで、参考までに大宮神社に関する全項目を載せておきますね。

住吉社 村の鎭守なり 慶安2年(1649)社領八石の御朱印を賜ふ 祭神は表筒男中筒男底筒男三神にて 村上天皇の御宇天徳3年己未(959)2月23日長門國山田邑より爰に遷し祟り 其後永享元年己酉(1429)9月15日關東管領左兵衞督持氏再興ありし時 底通日女明日登日止の神を配祀す 此和歌三神は普通に祀ると異なりといへども 當社神祕にて斯の如しと云 社内に永享元年(1429)の棟札及び慶長15年(1610)地頭村越與惣左衞門と記せし棟札あり 永享の棟札は左之如し〔 棟札略す 〕とありて文字を彫刻す 板は古く見ゆれど永享年中の物とは見えず 尤文字を彫たる樣は新しけれど 是は其剥落せしことを恐て後世彫刻せし物なるべし 此社は古へ勝呂郷の惣鎭守にて勝呂大宮と唱へしと云傳ふ 前にも出せし如く【北條役帳】に入西郡勝之内大宮分と有は當社の事なるべし

本社 中央に住吉明神 右に和歌三神 左に東照宮鎭座あり 幤殿 拜殿 神樂殿 末社 荒掃除神 荒神社 山王權現社 若宮明神社 木造神社 杉本神社 八重垣神社 子安神社 稻荷社 天滿宮 疱瘡神社 國分明神社 此祭神は明徳3年(1392)安房國舘山の住人佐原太郎同次郎と云二人の兄弟相從ふ者五人共に此地に來りて死せしを 後かく祀りたるとなり
社寶 千葉介常胤筆色紙一枚 此色紙實に治承の物とは思はれざれど 古色に見ゆれば左にのす( 省略す )
治承4年(1180)の菊月末の□武藏國勝呂の郷といへる處の住吉社に 神拜しけるとてよみて奉り侍る 千葉介平□胤
あとたれていく世やふりぬすみよしの 宮ゐはさらに神さひにけり
陣鉦一 形ち普通の銅盥の如くにて蕨手なき許なり 至て薄し圓徑一尺二寸 是は永享年間(1429-41)持氏再建のとき納めしといひ傳へたれど 古色にも見えず覺束なし
神職勝雅樂 吉田家の配下にて 貞和年中(1345-1350)より神職を勤めりと 口碑に傳ふるのみ 但慶長年中(1596-1615)の舊記を藏せり 其記に式部少輔重胤・主□□胤次・主水正盛晶・因幡守重直・因幡守盛直・主水正盛陽・筑後守正盛・土佐守斎盛・筑後守正直・筑後守正吉・筑後守吉直・伊勢守吉次とあり 是其家歴代の姓名にして慶長18年(1613)記す所なり されど唯其姓名を記せしのみにて卒年等を載せず 其内因幡守重直は當社に藏する永享の棟札に記せし人なり されば舊き神主なること論なし 想ふに當國七黨の内 野與黨に須黒を稱する者あり 是雅樂が祖先なるも知るべからず 家に公より賜はりし物とて所藏の品あり 左のごとし( 省略す )
御茶碗一 棗の茶入一 共に葵御紋あり 此二品は大猷院殿初て日光御社參の時 御祈祷を勤行せし故賜りしと云
銚子 是も葵の御紋あり 嚴有院殿の御代 多摩郡府中六所神社修補の時 遷宮のことに預りしに因て賜りしと云
八幡社 神主勝雅樂が持

六合堅固翁の座 倉稲魂命種蒔の座 海神魚寄の座 国譲の座

〔 坂戸の大宮住吉神楽 〕国選択無形民俗文化財・埼玉県指定無形民俗文化財
大宮住吉神楽は、江戸里神楽の影響を色濃く残した神楽で、物語を身振り手振りで表現する無言の劇のようなところがあり、演劇性の高い神楽です。神楽の持つ豊かな物語性に依って、永く土地に根付き、人々に伝承されてきたものと考えられます。坂戸の大宮住吉神楽は、埼玉県指定無形民俗文化財〔 昭和52年(1977)3月指定 〕であると共に、平成22年(2010)3月11日には国により「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」として選択を受けた大変貴重な神楽です。大宮住吉神楽は、天照大神までの神話を題材にした十二神楽と、その他の神話や茶番狂言のような十座の座外神楽 ざがいかぐら の演目で構成されています。古い記録に依ると、県内の児玉郡神川町の金鑚神社を中心とした金鑚神楽 かなさなかぐら が宝暦年間(1751-64)に大宮住吉神楽から古代神楽を伝授されたと伝わっており、大宮住吉神楽の成立は少なくともそれ以前に遡るものと考えられます。当初は神主に依って神楽が奉納されていましたが、明治以降、氏子男子の有志によって引き継がれ、現在は大宮住吉神楽保存会が組織されて、氏子を始めとした神楽師によって、神楽の保存・継承が図られています。神楽の奉納は、祈年祭( 2月23日 )、例大祭( 4月第一日曜日 )、新嘗祭( 11月23日 )で行われ、中でも4月の例大祭は最も盛大で、午前中から夕方まで様々な神楽の座( 演目 )が色とりどりの面と衣装を身に付けた神楽師により奉納されます。平成29年(2017)3月 坂戸市教育委員会

鳥居を抜けると道を隔ててあるのがこちらの弁天池。説明では市杵島比売命を祀る厳島神社が鎮座するとあるのですが、それは明治期の神仏分離令で習合を解かれてからのお話で、元々は弁才天が祀られていたみたいね。弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。saras は水を指し、sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。河の流れの妙なる水音は人々を心豊かにすることから福徳を齎す女神となり、穀物の豊作を齎す豊穣の女神ともなるの。

やがてそのサラスバティーが同じ女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、河のせせらぎが弁舌にも繋がるの。そのサラスバティーが仏教に取り入れられて弁才天となり、そこでは川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。と云うことで、旱魃時に村人達がこぞって雨乞いをした理由がお分かり頂けたかしら。


ここで、ちょっと悲しくなるようなお知らせよ。池の畔に鯉の餌の無人販売があるのですが、残念な内容の貼り紙がしてあったの。管理人の方も善意から設置して下さっているのですから、利用する方も良識ある行動をお願いよ。餌代をけちって池の鯉に餌をあげても、弁財天は決してあなたに福運をもたらしてはくれないと思うわ。

鯉のエサ 一袋100円です。鯉の健康を守るためエサ以外は与えないでください。
皆様へお願い このエサは、皆様の善意によって成り立っています。しかし、最近百円を払わないケースが増えており、とても悲しく残念です。日によっては、代金が一割もありません。このままでは、この方式を続けることが出来なくなります。どうかきちんと代金を払って下さい。お願いします。管理人

神池から少し離れて大宮住吉神社の神主を務めた勝呂氏一族( 但し、第21代〜23代 )の奥津城があるの。傍らに建てられていた墓誌には「 第21代神主・勝呂美胤の長男・宰治は昭和20年(1945)1月25日戦死 行年23歳 」との記述もありましたが、ここにもつらい歴史の記録が残されているの。因みに、埼玉県神社庁刊【埼玉の神社】には「 口碑によると当家の墓地は当社一の鳥居に向かって右に神道墓地、左に仏教墓地があり、神道墓地が神職である当主の墓、仏教墓地が当主の妻及び家族の墓であると云う 」と記されているのですが、確認出来ずに終えているの。

10. 義家塚( =塚越神社 ) よしいえづか 11:41着 11:44発
Map : 坂戸市大字塚越

〔 塚越神社 〕塚越神社は義家塚とも云い、文治3年(1187)9月、鎌倉将軍源頼朝の命によって、源義家の忠魂を勧請したものである。この地域は、義家が奥州の逆賊追討の際に、越辺川等の諸河川が満水し、進軍がままならなかったので、当地に宿陣し、大宮住吉神社に反徒鎮定・諸河川の減水を祈願したところ、霊験灼かにしてその目的を達成出来たと云う伝説があり、その時、義家が腰を掛けたのがこの塚で、塚の腰と名付け、現大字塚越の地名の発祥となったと伝えられている。昭和57年(1982)3月 坂戸市

神社と云っても社殿があるわけでもなくて、御覧のように塚の中央に小さな石祠がちょこんと鎮座しているだけで、塚越の地名由来にしても【風土記稿】は「 故に古へは文字を塚腰と書しが 何の頃よりか今のごとく書改めしと土人は云へど もとより信ずべきにあらず 」とつれないの。源義家に纏わる伝説はさておき、この塚は三基の円墳から成る塚越古墳群の一つで、塚越三号墳と呼ばれているみたいね。残念ながら二号墳は墳丘が削られて残存せず、一号墳は義家塚の少し手前にある民家の敷地内にあるの。案内板が建てられているわけでもないので、普通に歩いていたらそれと気付かずに通り過ぎてしまうかも知れないわね。

11. 勝呂神社 すぐろじんじゃ 12:02着 12:25発
Map : 坂戸市大字石井226

説明にあるように、勝呂神社の社殿は円墳の上に建てられているの。社名に因み、円墳は勝呂神社古墳、あるいは白山神社古墳とも呼ばれているのですが、円墳6基からなる勝呂古墳群の一つで、勝呂一号墳になるの。墳径50mは6基の中でもダントツの一位よ。因みに、参道の左手には玄室の一部と覚しき天井石が置かれていたので、勝呂神社古墳のものかと思いきや、そうではなくて、胴山古墳( 新町古墳群第一号墳:前方後円墳、坂戸市石井2037 在 )のものと伝えられているの。でも、何故、胴山古墳の天井石がここにあるのかしら。わざわざここに運んでくるにはそれなりの理由があってのことだと思うのですが。

〔 勝呂神社御由緒略記 〕
主祭神: 菊理姫命 きくりひめのみこと ・伊邪那岐命 いざなぎのみこと ・伊邪那美命 いざなみのみこと
配 神: 建渟河別命 たけぬなかわわけのみこと ・豊城入彦命 とよきいりひこのみこと
鎮座地: 埼玉県坂戸市大字石井226番地
交 通: 東武東上線若葉駅・坂戸駅・北坂戸駅から共に約4Km
摂末社: ・江戸時代からの末社
稲荷社・八幡社・春日社・天満宮・牛頭天王社
・明治40年(1907)に合祀された末社
並木神社・三社名神社・愛宕神社・鹿島神社・六所神社・熊野神社・厳島神社・天神社・稲荷神社
神明社4宇
例 祭: 3月15日( 現在は、3月15日付近の日曜日 )
御社紋: 加賀梅鉢( 幼剣梅鉢 )花芯に短小な剣を加えたもの。
社 宝: 社号額 従二位 権中納言 大原重徳卿揮毫
社号額 帝室技芸員・鈴木嘉幸作 日本赤十字社初代社長・佐野常民揮毫

〔 由 緒 〕社記に依ると、第10代崇神天皇の御代に四道将軍の一人、東海道将軍として派遣された建渟河別命は東夷平定にあたり、この地を本拠に活躍しました。その功を遂げると都へ戻りましたが、後年再び来住して村人達の文化を高めました。命が薨ずると、村人達は広大な陵墓を築き( 築造時期は今から凡そ1,500年前の6世紀と考えられます )、東海鎮護の神としてここに命を奉斎しました。これが今日の勝呂神社古墳です。寛和2年(986)、北陸鎮護の神として知られる加賀国一の宮の白山比咩神社の分霊を勧請し、一層郷人に厚く信仰されるようになっていきました。

その後、平安時代後期、鎮守府将軍として奥州の逆徒追討に向かった八幡太郎の通称でも知られる、武門の誉れ高き武将・源義家は、建渟河別命の故事に倣い、当社に参拝して戦勝を祈願したところ、霊験大いにあり、後三年の役終結(1087)の後、凱旋の折に報賽し、社領を定めました。鎌倉時代になると、武蔵七党の村山党に属した須黒(勝呂)氏は、【吾妻鏡】にその名を残すほどの勢力となっていました。とりわけ須黒太郎恒高は、当社を氏神として厚く信仰し、社領を加増するとともに、建保元年(1213)に社殿を再営して神仏習合の中にあっても強い神として尊崇し、社号を勝呂白山権現に改めました。

江戸時代に於いては、三代将軍家光公から慶安2年(1649)に五石の朱印状を受け、以後、代々の将軍家により社領を賜ると共に、古河領及び地頭から、それぞれ玄米一石永七五文供米一俵が毎年祭祀料として寄進されました。また、寛永19年(1642)には郷人全ての崇敬の志を集めて立派な御社殿( 現在の本殿 )が再建され、後に延宝9年(1681)に修復されています。明治時代に入ると社号を白山神社と改め、勝呂村の指定村社に列せられました。明治42年(1909)には地内の無格社15社を合祀したのを機に、社号も古来の地名を採り、勝呂神社とし、勝呂郷総鎮守として、現在に至っています。

〔 信 仰 〕白山比咩大神とも呼ばれ、はくさんさまの呼称で里人に親しまれている主祭神・菊理姫命 くくりひめのみこと は、縁結びの神・水利の神、更には病気平癒の神としての信仰を集めており、とりわけ歯痛には御利益があり、祈願をして痛みがとれると、萩箸と云う一尺に切った萩の枝数10本を束ねて神前に供え、神恩に感謝する風習がありました。また、配神・建渟河別命 たけぬなかわわけのみこと は、東海道将軍であり、強い神です。その大いなる霊験に依り、勝負の神としての信仰を集めています。これら、当社に祀る全ての神々を総称して勝呂大神と申しています。

八幡社 金守稲荷社

社殿 熊野・箭弓稲荷・氷川合社 三峯神社 社殿( 裏側 )

社殿の裏側に廻ると右端のように「 裏参り 」ができるようになっていて、ここでは神さまがあなたの愚痴を聞いて下さるそうよ。誰かに愚痴を聞いて貰うことで、意外に気持ちがすっきりしたりするものよね。ましてや、お相手が懐の大きな神さまなら、存分に聞いて頂けるかも知れないわよ。お出掛けの際には是非お立ち寄り下さいね。But お賽銭はうんとはずまないといけないかも。

勝呂神社古墳の主墳部 御神木の古株 勝運霊石

社殿の右手が勝呂神社古墳の主墳部にあたり、玄室の一部ではないかと思われる平板状の石が露出しているの。神社側では注連縄を張った一角を「 勝運気場 」として「 縦50cm、横100cmほどの平板状の青石は、勝運霊石と云われ、手やお札・お守りで撫でると、勝運に恵まれるとされています。この勝運霊石を撫でてみましょう」と、奨めていますので、こちらも忘れずにね。

社殿の周りをひと巡りし終えたところで知ったことですが、女性は反時計回りで一周しなければならなかったみたいなの。そうとは知らず、男性がするように、時計回りに一周してしまったξ^_^ξ。御利益の程はどうなのかしら。そのせいかどうかは分からないけど、「 開運クリスタル根付入・おみくじ 」をひいてみたところ、残念ながら小吉と出たの。「 旅行 得るものなし。控えよ 」とは、ちょっと辛いわね。それはさておき、六色の中でも望んだ透明なクリスタル根付けを引き当てることが出来たのは、御利益のお蔭かも知れないわね。ちゃんと、反時計回りに廻っていたら、大吉が出たかも。(笑) みなさんも、お出掛けの際には時計回りと、反時計回りにご注意下さいね。

12. 宗福寺 そうふくじ 12:36着 12:42発
Map : 坂戸市大字石井1905

現地には縁起を語る案内板の類が見つからず、仕方が無いので【風土記稿】の記述を引いておきましたが、正確な年代は不詳ですが、南北朝時代に教覚と云う僧が開創したものとされているの。後ほど改めて紹介しますが、境内にはその教覚の三回忌に併せて造立されたとする南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれた板碑が残されていることから、当初のそれは時宗系の寺院ではなかったかと推考されているの。寺号にしても、開創時には勝福寺と称していたみたいなの。寺域は勝呂氏の館跡とされる一角にあり、開基もまた勝呂氏のようね。その勝呂氏も後北条氏に与していたことから、後北条氏の滅亡と共に没落。後盾を失い、当寺もまた衰退。江戸時代になり、当地を領した神谷弥五助重勝が大室徹公和尚を迎えて改めて中興開山した−と云うのが、概略のようね。

勝呂氏は村山党山口氏をルーツとした一族で、鎌倉時代初期に勝呂地区に来住した山口六郎家俊の子・兵衛尉家恒が勝呂氏を名乗ったことが始まりとされるの。因みに、勝呂は古代朝鮮語の村主 すぐり に由来すると云われ、それが須久留 すぐる 、更に勝呂( or 須黒 ) すぐろ に転訛したものと考えられているの。

坂戸市指定考古資料〔 石井宗福寺の板石塔婆 〕
文和5年(1356)銘・開山教覚三回忌供養名号板碑 指定年月日:昭和55年(1980)3月13日
宗福寺の開山教覚の三回忌に造立されたこの名号板碑は、文和5年(1356)7月28日の紀年銘を持つ地上高280cm、幅67cmと云う巨大なもので、材質は緑泥片岩である。六字名号板碑の密集地としては、県下でも珍しい勝呂地区にあって、この板碑は大きさと云い、風格と云い、まさに代表的な逸品と云えよう。宗福寺は、平安末期以来この地を領した勝氏の館跡に隣接して建立されたが、地元豪族の庇護を受けた遊行の聖がこの地に留まり、鎌倉末から南北朝期に道場を設けて多くの民衆に念仏を広めたと考えられる。その意味でも、今後一遍上人の開いた時宗の発展を研究する上で、この板碑の持つ意味は極めて大と云えよう。昭和57年(1982)2月1日 坂戸市教育委員会

13. 観音寺跡 かんのんじあと 12:51着 12:52発
Map : 坂戸市大字石井1859

【風土記稿】に「 觀音寺 二寺※ともに大智寺門徒熊野山と號す 本尊正觀音を安ず 熊野社 當社は昔勝呂豐前守 當所に住せし時の屋舖の鎭守と云 天神社 稻荷社 」とあることから興味を覚えて足を向けてみたのですが、跡地と思われる場所には現在は石井下宿の集会所が建てられているのみで、残念ながら、それらしき痕跡は見当たらなかったの。

※直前に〔 宝林山と號す 本尊十一面観音を安ず 太子堂 〕とある真観寺を合わせて。

14. 勝呂廃寺跡 すぐろはいじあと 12:58着 13:05発
Map : 坂戸市大字石井354他

※注)相輪は雨仕舞い( 雨除け )と装飾を兼ねて仏塔の先端に取り付けられた金属製の装飾物のことで、上部から順に宝珠・竜車・水煙・宝輪( 九輪 )・伏鉢・露盤などから構成され、勝呂廃寺跡から発見された相輪は、水煙の一部と考えられているの。水煙は更に複数の火焔からなり、発見されたのはその中の一つみたいね。因みに、水煙の呼称は火焔の火を忌み嫌い、水煙としたのだとか。当時の仏塔は木造建築なのですから、火は絶対的なタブーよね。それにしても、発見されたのが相輪の一部だけとは不思議ね。他のパーツはどこへいってしまったのかしら?古墳の盗掘じゃないけど、よからぬ連中が倒壊した仏塔の青銅に目を付け、盗んで換金してしまったのかも知れないわね( ムセキニンモードですので、鵜呑みにしちゃダメよ )。

推定寺域 出土した軒丸瓦 建物の掘立柱跡 瓦の出土状況

それにしても、この勝呂廃寺の創建が奈良・薬師寺の創建とそう変わらない白鳳期に行われているとは、ちょっと驚きね。存立も出土した瓦などから判断して9世紀の後半頃までは存続していたのでは−と推考され、在地豪族などの有力者が創建・造営に関与したと考えられているの。時代が少し下った天平13年(741)には「 国分寺・国分尼寺建立の詔 」が発布され、各地に国分寺が建立されるようになりますが、実は、この勝呂廃寺でも武蔵国分寺の同笵瓦( 同じ文様の型を用いた瓦 )が、それも武蔵国分寺の創建期と再建期の両時期のものが出土しているのだとか。

と云うことは同じ窯で焼かれた可能性が大よね。それは勝呂廃寺の伽藍造営を行った在地豪族が、武蔵国分寺の造営に関しても多大な貢献をした証でもあるわね。残念ながら充分な発掘調査が出来ずに、寺域の確定には至っていないものの、古代寺院としては埼玉県内でも最大規模のものと考えられているようですが、広大な敷地に伽藍が建ち並び、多層塔がそびえる景観は、当時の勝呂郷の人々には正に畏敬の対象だったのかも知れないわね。

旅ならぬ 袖もやつれて 武蔵野や すぐろの薄 霜に朽ちにき
広大な武蔵野台地の北端に位置するこの地は、縄文時代の遺跡を始めとして、勝呂神社古墳などに代表される古墳群や、奈良時代創建の勝呂廃寺の存在で、早くから文化の開けた地域として知られている。また、平安時代の末には武蔵七党の村山党の一族が来住して勝氏を名乗って力があり、その勢力圏であった勝呂地区全域にわたり、県下では他に例を見ない多くの六字名号の板石塔婆を遺存させるなど、特異な文化を創っていた。武蔵野冬の風物を、霜枯れのすすきや、すぐろの地名を巧みに織り込みながら詠んだこの歌は、聖護院門跡道興准后が文明18年(1486)の暮れから翌年の正月にかけて武蔵国に滞在した折に、勝呂の地を訪れたときの作で、その時の紀行文【廻国雑記】に記されている。昭和59年(1984)3月20日 坂戸市教育委員会

一角には、聖護院門跡・道興准后の詠句を刻む石碑が建てられているの。【廻国雑記】には「 すぐろといへる所にいたりて名に聞し薄など尋てよめる 《 旅ならぬ 袖もやつれて 武蔵野や すくろの薄 霜に朽ちにき 》」とあるの。秋風にそよぐススキの穂が武蔵野の景観に風情を添えていたのでしょうが、訪ねた時期が悪かったようで、ススキは霜に打ちひしがれてしまったようね。それもまた武蔵野の景観の一つかも知れないけど。

それはさておき、【坂戸市史】に依ると、道興准后が訪ね来た当時、勝呂には門光( 香 )坊と云う修験がいて、「 すくろの一族 」が熊野詣をする際に、その先達を務めていたことが知られるので、そこを訪れたのでは−としているの。加えて、先程紹介した観音寺跡がその門光坊跡か−とも推考されているの。余談になりますが、聖護院と云えば、本山派修験の総本山。末寺の管理掌握が目的であったとしても、その聖護院の門跡である道興准后が直々に来訪したのですから、受ける側の門光坊もさぞかし大変だったのではないかしらね。それとも、これぞ名誉とばかりに「 すぐろの一族 」を総動員して歓待したのかしら。以上、戯れ言でした。ごめんなさい。

15. 坂戸市立歴史民俗資料館 さかどしりつれきしみんぞくしりょうかん 13:06着 14:21発
Map : 坂戸市大字石井1800-6

散策の最後に訪ねたのがこちらの歴史民俗資料館ですが、隣接して建つ勝呂小学校とは深〜い関係にあるの。レトロな装いの建物が遠い記憶を呼び覚ましてくれるような雰囲気にありますが、それもそのはず、当資料館は市制施行記念事業の一環として、昭和13年(1938)に建てられた旧勝呂小学校の校舎の一部を移築・改修した上で昭和55年(1980)に開設されたものだとか。なので、当時の生徒達が共に学び、遊んだ記憶が館内のあちらこちらに刻み込まれているの。それが柱の傷であったり、黒板への落書きだったりすると、展示品の観覧を忘れて、しばし過去へタイムトリップしている自分がいたりするの。

それはさておき、坂戸市及び周辺地域には古くから人々が定住・生活していたことが知られ、館内には発掘調査で得られた縄文土器や弥生式土器に始まり、古墳から出土した埴輪や、奈良・平安時代にかけての出土品なども展示されているの。勿論、勝呂廃寺の古代瓦や「 寺 」の字が書き込まれた墨書土器の実物も見ることができるの。また、当館では民俗資料の収集にも力を入れているようで、他では見かけないようなものも展示されていたの。ここでは、ξ^_^ξが気に留めたものを幾つか紹介しておきますが、他にも色々なものが展示されていますので、くれぐれも先入観に囚われずにお出掛け下さいね。

〔 板碑−坂戸に残された中世資料 〕板碑とは、鎌倉時代から戦国時代までを中心に全国で数多く造立された石碑の一種です。故人を弔う供養塔として造られるほか、生前に来世の冥福を祈る逆修の目的でも作られました。古文書などの文字資料が少ない坂戸にとって、中世の人々の信仰や宗教観を考える上で、重要な手掛かりとなる考古資料の一つです。関東地方では、秩父地方で産出される緑泥片岩を素材とし、上部を三角に象った板碑が数多く確認されており、これらは武蔵型板碑と呼ばれています。板碑には、信仰の対象となる仏の姿が刻まれており、多くは古代インドのサンスクリット語に起源を持つ梵字( 種子 )として表現されています。

民俗資料の展示では、農機具を始め、昔の生活用具の類も数多く紹介されていましたが、昭和11年(1936)に発行された「 三越 」のカタログなんてものまで展示されていたの。「 戦前の三越のカタログです。お手に取ってごらん下さい」とあるので、お出掛けの際には頁をめくってみて下さいね。丸が二つも三つも少なくて、仮に ¥10,000 あれば、掲載される商品の全てが買えてしまうかも知れないほどの安さよ。勿論、貨幣価値が同じとした場合のお話だけど。

そして、生活用具の展示品の中でも一番気になったのがこちらの「 たからおはち 」なの。食膳を載せる円卓の上に置かれていたのですが、単に「 おはち 」と案内されていたら左程気にすることも無かったのですが、「 たからおはち 」とあることから、どんな「 おはち 」なのかしら−と、つい、蓋を開けてしまったの。展示品には手を触れないで下さい−とは、書いてなかったような気がしますが、今思うと、やはり触れてはいけなかったかも知れないわね。資料館の方、ごめんなさい。

中には、説明書のようなものが入ってましたので、読んでみたのですがビックリ仰天。これって、今で云うところの電気炊飯器よね。にもかかわらず、底には電極が剥き出しじゃないの。ゼッタイ感電しそうで、恐すぎよ。これではとてもじゃないけど使う気にはならないわ−と云うのが正直な感想よ。そう云われると、御覧の方も、説明書の内容が気になりますよね。そこで、「 御愛用のしをり 」の一部を参考までに引いておきますが、確かに、これもまた経て来た道のりを知らしめてくれる歴史の生き証人なのかも知れないわね。

〔 炊飯 〕といだお米をおはちに移しましたら水加減は普通のお釜の場合と全く同じにして頂きます。蓋をしておはちにコードを取付け他端の差込プラグを電燈線に接續しスヰツチをいれます。同時に電氣は、おはちの水の中を流れてお米が炊けてまゐります。炊上つて、おはちの水がすつかりひけますと、電流は自然に切れますからスヰツチを切るのをお忘れになつてもお焦げなどの失敗は絶對にありません。炊上つたご飯は、保温的なおはちの中で充分むれて美味しい御飯になります。御飯を召上る際には必ずコードをおはちから取外して後食器におつけ下さい。玄米も麦もすべて同じ要領でお炊き願ひます。蒸し御飯となさる場合にはおはちの御飯に適量の水をさして電氣を通じます。なほセトモノ、竹等( 金物は必ずお避け願ひます )の台にスノコをのせて御飯を蒸して頂けば一層結構です。

〔 其他の御注意 〕

【イ】 炊飯中におはちを移動なさる場合、また炊上りの御飯を食器におつけになる場合とかは必ずプラグを外してからに願ひます。塩分を多量に含んだ材料やお酢などをお用ひになつた材料で直接に此のおはちで炊飯なさることは( たとへば茶めし、竹の子めし、酢の炊込み等 )絶對にお避け下さい。塩や酢などは過度に電流を多くするはたらきがありますので電氣の施設をいため勝で危険ですから絶對に使はないで下さい。
【ロ】 炊飯中のおはちの内部は電氣が流れてをります。金属性又は濡れた器具でかき廻したりなさることは絶對にお避け願ひます。やむを得ない場合には乾いた竹箸か陶器をお用ひ下されば安全です。
【ハ】 おはちをお洗ひの後はよく水を切って乾してお使ひ下さい。續いてお用ひになる場合など特に外側が濡れてゐないやうに御注意下さい。
【ニ】 おはちの底の電極板はいつもきれいにお掃除をしてお使ひ願ます。

資料館の御案内の最後に、気になったものをあと二つ紹介しておきますね。当時の教室が今は展示室として使われているものの、至るところに当時の面影が残されているの。そんな中で寺子屋を思い出させるような雰囲気の和室があったの。畳敷きに加えて床の間や違い棚などもあり、この造りだけは後から設えたものかしら−と思いきや、作法室と呼ばれる教室だったみたいで、名称からすると、行儀見習いなどの授業が行われていたのかも知れないわね。当時の小学校にそんな教室が作られていたことを初めて知りましたが、これは旧勝呂小学校に限ってのことなのかしら、それとも。これは、ちょっとした発見ね。

もう一つは、教室に残されていた黒板の落書きよ。注意書きには「 この黒板の落書きは、校舎が資料館として活用される前の最後の卒業生が書いたものです。当時の状態を、そのまま保存しています。どうか、書き込みや消す行為はご遠慮ください。」とあり、例によって黒板には相合い傘のマークが。そのマークの下には ♥♥♥♥♥ さんと ♠♠♠♠♠♠ 君の名が。校舎が解体されたのは昭和55年(1980)のことだと云うので、仮に前年の昭和54年(1979)の卒業生で当時12歳だったとすると、現在(2023)は56歳になっている計算になるわね。ひょっとして、二人は相合い傘ならぬ一つ屋根の下で今も仲良く暮らしていたりして。

坂戸市域の歴史や民俗について知るためには是非とも訪ねて頂きたい資料館ですが、困ったことが一つだけあるの。それが休館日で、年末年始は別にしても、土日に加えて祝日もお休みなの。つまり、平日のみの開館と云うわけ。平日にお休みを取るのが難しい身には最大の障壁で、最初に坂戸を訪ねてから遙かなる時を経ての来館に至った最大の理由がそこにあるの。追体験される場合には呉々もご注意下さいね。
開館時間:9:00-16:00 ( 入館料:無料 )

16. 勝呂小学校入口BS すぐろしょうがっこういりぐちばすてい 14:25着 14:31発
Map : 坂戸市大字石井






















石榴 すみよし花菖蒲園が廃園となってしまったことは残念なことだけど、腰越&勝呂地区の歴史に目を向ける切っ掛けになったの。最初は時間潰しの積もりで始めた史蹟めぐりも、歩みを進める毎に歴史の奥深さが感じられるようになり、回を重ねるようになったの。今ある景観からは凡そ想像できないのですが、嘗ては道幅11mにも及ぶ官道の東山道武蔵路が縦走し、古代寺院の中では県下最大規模に比定される勝呂廃寺の存在など、目を見張るものがあるの。遡れば、雷電塚古墳など多くの古墳も残されていて、縄文・弥生時代の古くから人々が定住して暮らしていたの。勝呂神社の社前に立てば、眺めやる景観の向こうに遠い昔の人々の営みも見えてくるの。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.comまで御連絡下さいね。

【 参考文献 】
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
埼玉県神社庁刊 埼玉県神社庁神社調査団編 埼玉の神社
続群書類従完成会発行 塙保己一編纂 群書類従・第十八輯 日記部・紀行部所収 道興准后著 廻国雑記
国分寺市教育委員会編集発行 勝呂廃寺の瓦と武蔵国分寺瓦でつながる古代の国分寺と坂
坂戸市教育委員会・国分寺市教育委員会編集発行 東山道武蔵路とともに生きる
坂戸市刊 坂戸市教育委員会編 坂戸市史−古代史料編
坂戸市刊 坂戸市教育委員会編 坂戸市史−通史編1
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など






どこにもいけないわ