TVのお天気コーナーでは都内の六義園の枝垂れ桜が開花して週末には見頃を迎えそうと告げていました。そう云えば今年はお花見にも出掛けてないわね、このままではお花見をしない内に桜が散ってしまうわ、たーいへん!−と強迫観念(笑)に駆られて慌てて出掛けてみたの。掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
訪ねたのは 2007/03/24 のことでしたが、六義園では 2007/03/16 - 2007/04/01 の期間にかけて「しだれ桜と大名庭園のライトアップ−心やすらぐ陽春のひととき 六義園のしだれ桜」と題したイベントが行われていたの。同園では枝垂れ桜の他にも植栽されている草木が季節毎に花を咲かせますが、おいしい旬な情報は 庭園へ行こう に随時掲載されますので、お出掛けの前に御参照下さいね。下調べもせずに飛び出したξ^_^ξは入園窓口で始めてライトアップがあることを知ったの。なので幻想的な夜桜を見ることなく終えていますが、来年は夜桜見物の選択肢の一つとしてトライしてみたいわね。入園料:¥300
元禄15年(1702)、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉からこの地を与えられた柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は自ら設計&指揮した上で、7年もの歳月を掛けて大規模な回遊式築山泉水庭園を完成させたの。作庭は吉保の和歌に対する造詣が深く反映されたもので、紀州(和歌山県)和歌の浦や【古今和歌集】などに詠み込まれた景勝地88景が園内各所に再現&配置されたの。残念ながら荒廃修復を経たことから造園当初の88景がそのまま残されている訳ではないのですが、それでも残る全てを見てやろうとすると深〜い知識と鋭い観察力が必要なの。
六義園の名称にしても【古今和歌集】とは深〜い繋がりがあり、撰者の一人として名を連ねる紀貫之が序文(仮名序)を寄せているのですが、それに由来するの。「やまと歌は人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける」の書き出しで始まる序文には貫之の和歌に対する見解が披露されているのですが、態様にしても「そもそも歌のさま六つなり」として、そへ歌・かぞへ歌・なずらへ歌・たとへ歌・ただごと歌・いはひ歌の六体があるとしているの。その六体にしても紀淑望が記す真名序に「倭歌有六義云々」とあるように、中国の【詩経】の分類法になぞらえているの。
この「倭歌(やまとうた)に六義有り」とする六義が名の由来となるのですが、ここでは「りくぎ」では無くて「むくさ」と読み、柳沢吉保も六義園を「むくさのその」と呼び、園内に設けた館の六義館を同じく「むくさのたち」と訓ませているの。
体裁分類 | 風(ふう) | 各地に伝えられる民謡の類 | |
雅(が) | 儀式のための詩−の意で、元々は中国の「周」時代の王室の詩のこと | ||
頌(しょう) | 帝位にある者の優れた徳を讃える詩 | ||
表現分類 | 賦(ふ) | 感じたことをありのままに述べたもの | |
比(ひ) | 物事に譬えて(=比喩)その情景を謡ったもの | ||
興(きょう) | 草木や石などの自然物にふれて感じたおもしろみをのべたもの |
嘗ては小石川後楽園と共に二大大名庭園と並び称された六義園ですが、柳沢吉保が没すると手入れもされずに荒廃するに任せた状態になってしまったようね。時を経た明治時代になると三菱グループの創始者となる岩崎弥太郎氏が周辺の武家屋敷と共に買い求め、改めて庭園として整備したの。昭和13年(1938)にはその岩崎家側から庭園を含めた30,000余坪が東京市に寄贈されたのを機に一般公開されるようになり、昭和28年(1953)には国の特別名勝にも指定されたの。
お目当ての枝垂れ桜ですがエドヒガン桜の変種なの。
枝垂れ桜を堪能したところで、引き続き園内の散策をしてみましたので紹介してみますね。
左掲は紹介した六義館(むくさのたち)が建てられていた場所なの。今となってはそれを物語る礎石のみが残されているだけなのですが。柳沢吉保は将軍・綱吉が薨去すると自身もまた幕政を退いてこの六義園に隠棲するのですが、邸内から季節の移ろいを眺め暮らす吉保の胸にはどんな思いが去来していたのかしら。TVの時代劇などでは専ら悪役のイメージをふりまく吉保ですが、漢詩や和歌に造詣を寄せる一級の教養人であり、権力の座にありながらも潔く身を引く一面をみせるなど、実際の人物像は違うところにあるような気がするのですが、どうなのかしら。
ちょっと分かり難いかと思いますが、左端の画像に写る松の木の背後に岩があるの。それが心泉跡(こころのいずみあと)で、作庭当初はこの辺りに泉が造られ、その湧水が池の中心部に注ぎ込まれていたので心の泉と名付けられたと云うの。
景観を愛でるビューポイントの一つがこの出汐の湊(でしおのみなと)で、池の右手に浮かぶ島が中の島で、妹山・背山が築山されているの。【万葉集】にも「妹背」のことばが良く出て来ますが、妹(いも)は女性のことで、背(せ)は男性のことね。なので、中の島は男女の間柄を表したものとされ、伊弉諾尊と伊弉冉尊の国産み神話に因み、「せきれい石」も置かれているの。
風情ある佇まいを見せて浮かぶ小島が蓬莱島で、中国では東の遙か海上に浮かぶ島には蓬莱山が聳え、そこには仙人が住み、不老不死の薬があるとされたの。中国の史書【史記】にはその幻の蓬莱山に不老不死の薬を求めて秦の始皇帝が大船団を繰り出したことが記されているの。真偽の程は不詳ですが、有り得ない話しではないわね。日本でも常世信仰や沖縄地方のニライカナイ伝説などの類似性故に蓬莱伝説は容易に受け入れられ、多くの人達が見たこともない島にすっかり魅せられてしまったの。
かぐや姫で知られる【竹取物語】にも「蓬莱の玉の枝」が登場するのですが、その入手と云う難題を突きつけられたのが庫持の皇子(くらもちのみこ)。かぐや姫は皇子を前にして「東の海に蓬莱と云ふ山あり 銀(しろがね)を根とし 黄金(こがね)を茎とし 白き珠を実として立てる木あり それ一枝折りて給わらむ」と告げるの。皇子はかぐや姫をめとりたい一心で、その蓬莱の珠の枝を探し求める旅に出るの。足かけ三年の苦難の末に蓬莱山へ辿り着いた皇子はようやく珠の枝を手にすることが出来、喜び勇んでかぐや姫の元に駆け戻ると、その蓬莱山の様子を次のように語るの。
その山 見るに更に登るべきやうにもなし
そばひらをめぐれば世の中に無き花の木々ども立てり
黄金(こがね)銀(しろがね)瑠璃色の水 山より流れ出でたり
それには色々の珠の橋渡せり その辺りに照り輝く木々ども立てり
ところが、御存知のように、皇子が持参した蓬莱の珠の枝は実はニセモノで、探索の旅にしても作り話だったの。それはそれとして、物語からは当時の人々が蓬莱山をどのように思い描いていたのかが分かりますよね。余談ですが、庫持の皇子が最初に蓬莱山で出逢ったのは仙人は仙人でも「うかんるり」と云う名の仙女で、天人の装いをした女性が山中から現れて銀椀を抱えて水を汲み歩いていたと云うの。竹取物語の作者が仙人ではなくて仙女を登場させたと云うのが味噌醤油味ね。
その蓬莱山を模したと云う蓬莱島では黒い鳥が何羽か戯れていましたので、最初は川鵜かしら?と思ったのですが、何とカラスなの。嘗ては白い珠を実らせた木々が立っていたと云う蓬莱山もここでは黒光りする羽のカラスの楽園になりつつあるみたいね。明治神宮がカラスのねぐらとなって久しいのですが、この六義園も同じ状態のようね。木々の梢にもカラスの姿が多く見受けられましたので、園内を散策する際には頭上にも御注意下さいね。
「滝見の茶屋」の四阿(あずまや)脇を渓流が走りますが、その最上流部にあるのが枕流洞(まくらながしのどう)と水分石。頂いた栞には枕流洞は「洞のある枕のような石なので中国の漱石枕流の故事により名付けられた」とあるの。単に「洞のある枕のような石」で解説を止めてくれれば良いものを、漱石枕流の故事に因む云々と続けるから気になってしまうわよね。
漱石と聞いて真先に思いついたのが夏目漱石の名ですが、この石と何か関係あるのかしら?状態のξ^_^ξでした。その漱石枕流にしても、漱石はまだしも、枕流を何と読んで良いやら見当もつかずにいたの。因みに、音読みでは「そうせきちんりゅう」、訓読みでは「石を漱(くちすす)ぎ 流れに枕す」となるの。あれ〜変よね、石で口をすすいでは大変なことになってしまうわ、流れに漱ぎ石に枕す−じゃないの?実は両方とも正しいの。と云ってもその意味合いが違うの。なに一人で分かんねえこと云ってんだよ〜!と怒られそうですが、今しばらく我慢してお付き合い下さいね。
その漱石枕流の故事ですが、お隣は中国の昔のお話しなの。唐の房玄齢、李延寿らが中心となり編纂した史書に【晋書】と云うのがあるのですが、晋とあるように、西晋・東晋の156年間の出来事を記したもので、その中に孫楚(そんそ)と云う人物のことが描かれているの。強情な人だったみたいで、ある日「枕石漱流−石に枕し 流れに漱ぐ−」とすべきところを「漱石枕流−石に漱ぎ 流れに枕す−」と云い間違えてしまったのですが、漱石とは歯を磨くことで、枕流は耳を洗うためと屁理屈をこねくり回してその非を認めなかったと云うの。その故事に因み、負け惜しみの強いことの譬えとして使われるようになったと云うわけ。
あるある、ξ^_^ξにも経験が。知ったかぶりして披露した知識が相手から間違いを指摘されてしどろもどろになりながらも強情をはったことが。深い積もりで浅いのが知識−と云うことで、間違いに気付いたら素直に謝りましょうね。<=ξ^_^ξ。因みに、夏目漱石の名前もこの逸話に由来するの。その作風からすると、強情と云うよりも天の邪鬼と云う方が近いのかも知れないけど。余談ですが、寺社にある手水舎の水盆には「漱石」の文字が刻まれますが、こちらは文字通りの、口を漱ぐためのお浄めの水を溜める石のことよ。
その枕流洞と寄り添うようにして置かれているのが水分石で、柳沢吉保が自ら著した【六義園記】には「水を三つに分けたる石なり 東山殿の図にも水分石と云へる石あり」とあるの。この東山殿と云うのは、室町幕府第8代将軍・足利義政が造営した山荘で、現在の慈照寺、通称、銀閣寺のことよね。銀閣寺を訪ねたときに頂いて来た栞の境内図には錦鏡池の最奥部に洗月泉と云う小滝が描かれているのですが、銀閣寺の水分石はその滝壺にあるみたい。残念ながら目にすることなく終えていますが、機会があれば両者を見比べてみるのも面白いかも知れないわね。
園内を半周したところで吹上浜にある吹上茶屋で小休止。ここでは抹茶( ¥500 )が頂けますので、緋い毛氈が敷かれた縁台に腰掛けて景観をめでながらの一服はいかがかしら。気分は大名家のお姫さまか、はたまた奥方さまかも知れないわね。
その吹上茶屋を後に白鴎橋を渡ると小高い山があるのですが、富士見山と呼ばれる築山で、その頂は藤代峠(ふじしろとうげ)と名付けられているの。その名にしても紀州( 現在の和歌山県 )の同名の峠に因んだもので、標高僅かに35mと云う小山なのですが、巧みな造園技法に支えられて素晴らしい眺めなの。木々の向こうに高層ビルが見え隠れするのは御愛嬌ですが、園内を見下ろす限りでは街中にいることを忘れてしまうの。
その富士見山には四方から橋が架けられているのですが、一番大きな橋が渡月橋で−和歌のうら 芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影そさひしき−の歌に因み、名付けられたものなの。ですが、一番大きな橋だからと云って京都の渡月橋を思い描いてはダメよ。大きな支石を中心にして二枚の岩を架け合わせただけのものですので、勿論、手摺りなんて無いの。渡る際には気をつけてお通り下さいね。尤も、その簡素な佇まい故に風情が醸し出されているのですが。残念ながら池に落ちまいと気を取られていたもので、肝心の景観を収めてくるのを忘れてしまいました。ごめんなさい。
その渡月橋を過ぎて程なくしてあるのがこの田鶴橋。最初に紹介した妹山・背山のある中の島に架けられた橋なのですが、一般の方の通行は禁止状態みたいね。見た目には庭園にある橋と云うよりも、野辺の道で、春先にはツクシが芽を出し、タンポポが黄色い花を咲かせてひなたぼっこする田圃の畦道のようにも見えるわね。安政年間に描かれた【江戸大絵図】に依ると、武蔵野台地の東端に位置するこの地には、他にも津藩藤堂家の下屋敷が建てられるなどしてはいたのですが、それでもまだまだ武蔵野の面影を残し、周辺には田園風景が広がっていたみたいね。
散策を終えて最後に休憩所兼売店に立ち寄り、暫時の休憩タイム。
小腹が空いたのでここではお餅の磯辺焼きに桜茶を頂きました。
その店先では絵はがきや栞などに加え、季節柄、桜に因む小品がおみやげ品として並んでいましたが、ξ^_^ξが気になったのが「江戸染井村 季節限定日本酒 染井櫻」のコピー。枝垂れ桜の開花に合わせた出張販売中で、「季節限定ですのでいかがですか?」と勧められてξ^_^ξも思わず衝動買い。同じ「染井櫻」でも三種類あり、にごり酒タイプはその色合いが桜の花びらを思わせる逸品ね。シャンパングラスに桜の花びらを浮かべてオシャレに楽しみたいあなたには発砲タイプがお勧めよ。勿論、辛党の貴兄には辛口タイプが用意されているので御安心下さいね。
この六義園の北に染井通りと名付けられた通りがあるのですが、江戸時代には多くの植木屋さん達が軒を連ね「種々の植木を造り 是を鉢に植て商ふ 此地は霧島つつじの名所にて 其紅艶を愛する輩ここに群遊す 花の頃は満庭紅を灌ぐがごとく 夕日に映じて錦編林をなすがごとし」の状態だったみたいね。加えて、奇石珍樹を並べて腕を競い合い、それを目当てに多くの人達が集まり賑わいをみせていたと云うの。そんな中で生まれ出てきたのが数ある桜の品種の中でも超有名なソメイヨシノ。と云っても当初のそれは桜の名所・吉野に因み、吉野桜と命名されていたみたいね。後に、吉野の山桜じゃあんめいし〜吉野桜じゃあんべえわりいわな、こちとら江戸っ子の桜よお−と染井村の地名を冠した染井吉野桜に改名され、後にソメイヨシノになったの。残念ながら、そのソメイヨシノの下での花見の宴席とはいきませんでしたが、発祥の地に因むお酒を手にすることが出来て気持ちだけはほろ酔い気分で帰途に就きました。後日その染井吉野のふるさとを訪ね歩いたときの散策記を ソメイヨシノの古里・染井 で紹介していますので、興味のある方は御笑覧下さいね。CMでした。
追記:ここでもう一つ、CMよ。新緑にツツジの花が彩りを添える春先と、都内にいることを忘れさせてくれる紅葉の模様を別頁に掲載してみました。併せて念願の夜桜ライトアップと、紅葉と大名庭園のライトアップも紹介。お出掛け時の参考にして下さいね。御覧になりたい方は こちら から。
柳沢吉保が自ら設計指揮したと云う六義園ですが、荒廃と修復を経て来たことから造園当初のものとは大分様相が異なるみたいね。それでも枝垂れ桜の開花は季節が間違いなく巡り来ている証よね。その前に立てば菅原道真ではないけれど、吉保もまた「主なしとて春な忘れそ」かも知れないわね。残念ながら桜の開花は一年中見られるわけではないので来春まで待たねばならないのですが、思い出した暁にはみなさんも一度お出掛けになってみてはいかがかしら。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥‥‥
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