≡☆ 嵐山町のお散歩 ☆≡
 

以前、東松山市の高坂を歩いた際に岩殿観音への参道脇に「唐子村ヲ経テ菅谷鬼鎮神社ニ至」と記す道標を見つけて以来、風変わりな名称の鬼鎮神社のことが気になっていたの。調べて見ると鬼鎮神社は嵐山町にあることが分かったのですが、畠山重忠や木曽義仲ゆかりの地でもあることから多くの史蹟が残されていると知り、興味を覚えて歩いてみることにしたの。一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

鬼鎮神社〜向徳寺〜安養寺〜大蔵館跡(大蔵神社)〜源義賢の墓

1. 武蔵嵐山駅(東武東上線) むさしらんざんえき

駅 武蔵嵐山の名は「日本の公園の父」とも呼ばれる本多静六博士が昭和3年(1928)に槻川沿いの渓谷を訪ねた際に、その景観が京都・嵐山に似ていることから名付けられたものと云われているの。当初はそれでも「むさしあらしやま」だったのですが、昭和10年(1935)に菅谷駅の名称が武蔵嵐山駅へと改称されたのを機に「むさしらんざん」に変わっていったみたいね。その後、昭和42年(1967)には町制施行に併せてそれまでの菅谷村から現在の嵐山町へと改称しているの。今回の散策ではその嵐山町をひとめぐり。

2. 鬼鎮神社 きじんじんじゃ or きちんじんじゃ

〔 御由緒 〕  埼玉県比企郡嵐山町に、畠山重忠公が御造営された菅谷館(菅谷城)があった。 当神社は、その鬼門除けの守護神として、鎌倉街道に沿って建立され、節分祭、勝負の神で有名である。約800年前、安徳天皇の御代、寿永元年(1182)に創建され、御祭神は衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)・八衢比古命(やちまたひことのみこと)・八衢比売命(やちまたひめのみこと)で、主神の衝立船戸神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国を訪れた後、筑紫日向の橋小門の阿波岐原で、禊祓いをして持っていた杖を投げ出した時、杖より生まれた神である。

それが幅広く解釈されて悪魔払いの神、家内安全商売繁昌の神、受験の神と、人生の指針を示し、強い力を授ける神として崇められている。節分祭は鬼鎮神社において一番大きなお祭りで、この日は何千何万の人々が「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼する、日本でここだけの鬼の祭であり、境内は大変な賑わいを見せる。遠く千年の昔から、勇名を馳せた坂東武者、明治以降の出征兵士の崇敬篤く、戦後は受験必勝の神様として参拝者は後を絶たず、社頭を賑わしている。このようなことから「鬼に金棒」と昔から云われている金棒のお守り、祈願成就の赤鬼青鬼の絵馬を授与される方が、非常に多い。平成4年(1992)11月吉日

紹介した由緒書では祭神は衝立船戸神・八衢比古命・八衢比売命の三柱としているのですが、それは明治期の宗教政策を受けてからのことで、それまではズバリ、鬼が祭られていたみたいよ。社名にしても鬼鎮神社ではなくて、鬼明神社とか鬼宮社などと呼ばれていたのですが、新政府の思惑なぞどこ吹く風の庶民にしたら、今も昔も鬼が祭られていることに変わりはなくて、お守りが金棒なら、絵馬もまた赤鬼青鬼よ。

山中笑著【影守雜記】には「武藏比企郡川嶋村郷社鬼鎭神社と云ふあり。祈願叶ふと鐵棒を納めるを例とす。社の傍らに、夫が爲に鍛冶屋ある位の神社にて、信仰者多き神社なり。此の御影、鬼鐵棒を持て岩上に立てる形にて、守り額として受來るものには、赤青二鬼雙ひ立てる形を畫けり。此の鬼神社の有る所より、六七丁に畠山重忠の城跡あり。丁度城の丑寅の方位に當るゆゑに、鬼門鎭の爲に此の社を建てたるのが、鬼鎭が鬼神となりしなり。此の社地の裏に藥師堂あり、板碑などありて古き地と思はる。これも元來は一ツのものならん」とあり、当時は奉納する金棒を鋳る鍛冶屋が門前にあったと云うのですから驚きよね。

その鍛冶屋をめぐり、地元ではちょっと切ない逸話が語り継がれているの。
ここでは昔話風にアレンジしてお届けしてみますのでお楽しみ下さいね。

むか〜し昔のお話しじゃけんども、この辺りに刀鍛冶がおってのお、トンカン、トンカンと朝から晩まで一日中槌音を響かせておったそうじゃ。腕が良かったんじゃろうのお、立派な刀が出来ると評判になってのお、近在のみならず、遠方からも大勢のお侍さんが求め来るようになったそうじゃ。そんなある日のことじゃった。その評判を伝え聞いた一人の若者が鍛冶屋のもとに訪ね来て、刀の作り方を是非とも教えて貰いたいと頼み込んで来たそうじゃ。鍛冶屋の方でも日頃一人で忙しくしておったで、弟子の一人でもいてくれたらちょっとは楽出来るかも知れん−と思うてのお、快く引き受けたそうじゃ。

いざ働かせてみると若者は殊の外熱心でのお、休み時間もそこそこに、夜もろくに寝ずに刀づくりに精を出すようになったそうじゃ。そうして何年か過ぎた頃にはもう立派な刀鍛冶になっておったそうじゃ。ところで、その鍛冶屋には一人娘がおったんじゃが、若者が一人前になる頃には美しい娘になっておってのお、ある日若者はその娘を嫁にくださいと鍛冶屋に頼みこんだそうじゃ。じゃがのお、きょうまで大事に育てて来た娘じゃ、弟子と雖もそう簡単に嫁にやる訳にはいかん、そう思うた鍛冶屋は少しばかり考えて、それでは刀を一晩に百本作ることが出来たら娘を嫁にやろう−と答えたそうじゃ。それを聞いた若者は喜び勇んで早速準備万端整え約束の夜を待ったそうじゃ。そうして陽が暮れたのを確かめると若者は重い槌を振り上げてトンカン、トンカンと勢いよく刀を打ち始めたそうじゃ。すると、みるみる内に刀が出来てきてのお。

そうしてすっかり夜も更けた頃のことじゃった。鍛冶屋は若者のことが気になり、そおっと刀をつくるところを覗いてみたそうじゃ。するとどうじゃ、トンカン、トンカンの槌音に合わせ、今打ったばかりの刀が次々に山と積まれておったそうじゃ。じゃが、槌を振り下ろす若者の姿を見ると、そこにはいつもの若者ではのおて、鬼が刀を打っておったそうじゃ。頭には角を生やし、血走った赤い鋭い目には焔がゆらぎ、トンカン、トンカンと打つたびに四方八方に火花が飛び散り、辺り一面まるで火の海じゃったそうな。これには鍛冶屋も腰を抜かさんばかりに驚いてその場から逃げ出したそうじゃ。このままではあの鬼に可愛い娘を取られてしまう、そうじゃ、それには刀が百本出来ぬ内に、鶏を鳴かせて夜が明けたことにしてしまえば済むことじゃ、そう考えた鍛冶屋は夜明けを待たずに大急ぎで鶏小屋へ駆け込んだそうじゃ。そうしてコケコッコーと鶏が一声鳴いたのを確かめると、また作業場を覗きに行ってみたそうじゃ。

鬼となった姿を見られているとは知らずに若者は一心不乱に刀を打っておってのお、鍛冶屋も夜が明けてくれるのを今か今かと気を揉んで待っておったんじゃが、ようやく東の空が明るくなって夜が明けたそうじゃ。すると鬼の姿をしておった若者は急に元の姿に戻ったかと思うと、槌を握りしめたままその場に倒れ込んでしまったそうじゃ。しばらくは様子を窺っておった鍛冶屋じゃったが、恐る恐る若者に近付いてみると既にこと切れておったそうじゃ。鍛冶屋はつくり終えておった刀の数が気になり数えてみたんじゃが、百本には残りあと一本だけじゃったそうじゃ。若者を哀れに思うた鍛冶屋はその亡骸を庭の隅に埋め、神主を頼むとそこに社を建てて鬼神さまとして祀ったと云うことじゃ。それがこの鬼神明神さまの始まりだと云うことじゃ。ほんに、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

社前にあった鍛冶屋では鍬や鎌などの農具を打つ傍らで神社に奉納する鉄棒を鋳る商いをしていて、一時は刃物を鋳るよりも鉄棒の方が売れて繁盛していたそうよ。紹介した逸話はその鍛冶屋さんと鬼神社の隆盛を絡めて創られたものでしょうね。伝え聞くところでは、昭和15年(1940)頃が神社の最盛期で、社前には鍛冶屋の他にもお菓子屋さんや料理茶屋までもがお店を構えていたと云うの。中でも川田屋さんは名の知れた料理屋で、元々は製材業を営んでいたのですが、財を得て新たに料理屋を開いたの。鬼明神さまの御利益がいかんなく発揮されたと云うわけね。

大正4年(1915)発行の【岩殿山案内】には二軒のお店の広告が載るの。一軒は紹介した川田屋さんのもので「比企郡菅谷村川島鬼鎮神社前 団体参拝者休憩所 旅館御料理 川田屋」とあり、もう一軒は岡島屋さんで「御菓子製造参拝土産調進 岡島屋浅吉 御料理御中食 岡島屋」とあるの。現在の様子からすると団体の参拝客があったとは俄には信じ難いのですが、その隆盛も戦争が勃発すると俄に翳りを見せ始め、戦時中は僅かに出征する兵士とその家族が戦勝祈願に訪れるのみになってしまい、軒を連ねていたお店も皆閉店を余儀なくされ、奉納されていた鉄棒も悉くが戦時供出を強いられてしまったの。哀しい所業ね。

3. 学校橋(都幾川) がっこうばし(ときがわ)

鬼鎮神社からはロングアプローチになりますが、源義賢に所縁ある大蔵地区を訪ねることにしたの。左掲は都幾川に架かる学校橋ですが、附近には学校らしきものも無く、名前の由来が気になり調べてみたのですが分からず終い。それはさておき、この道は嘗ての鎌倉街道上道にあたり、これから訪ねる大蔵を経て笛吹峠へと続くの。後程改めて紹介しますが、沿道には坂上田村麻呂に因む逸話が残されるなど、まさに古道なの。尤も、当時は橋など無かったでしょうから、川を渡るには舟を利用していたのかも知れないわね。エッ?浅瀬を見つけて歩いて渡っていた?確かに今の都幾川を見る限りでは河床も浅くは見えるけど。

4. 向徳寺 こうとくじ

開創は【新編武藏風土記稿】(以後、風土記稿と略す)にも「時宗 寺領十石 慶安2年(1649)の御朱印を賜へり 相模國藤澤清淨光寺の末 大福山無量院と號す 開山清阿寶治2年(1248)4月8日寂せり 後廢寺となりしに向阿徳音中興せりと云 此僧は天和2年(1682)12月15日寂せり 今の寺號は此僧の名を用ひたるに似たれど 中興の時改めしものなるべし 本尊三尊阿彌陀 惠心僧都の作なり 鐘樓 鐘に元文5年(1740)鑄造の銘あり 熊野社 稻荷社」とあるのみで、鎌倉時代に小代氏一族の一人が出家して延応元年(1239)に草庵を結んだことに始まり、一時期比企郡唐子郷(現:東松山市)にあったことなど、得られる情報が断片的なの。

町指定有形文化財 考古資料 向徳寺板碑(板石塔婆)群
指定:昭和34年(1959)11月20日 時代:鎌倉〜室町時代
向徳寺は、神奈川県藤沢市清浄光寺(遊行寺)の末で、鎌倉時代の創建と伝える時宗の古刹である。板碑は、墓地と本堂内に合わせて38基があり、年代は元号の読める資料によると鎌倉・南北朝・室町の各時代にわたっている。板碑は、板石塔婆或いは青石塔婆とも呼ばれるように、緑泥片岩の性質を利用して作られた偏平な石造供養塔婆である。戦乱の打ち続く中、人々の平安への願いを伝える中世の代表的な資料である。尚、町内には550余りの基数が確認されており、その内ここの板碑郡を含めて6件が指定文化財となっている。

国指定重要文化財 銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像
指定:昭和10年(1935)4月30日 時代:鎌倉時代 宝治3年(1249)
像高:中尊(阿弥陀如来)60cm(台座共)脇侍(観音・勢至菩薩)42cm(台座共)
この三尊像は、所謂善光寺式阿弥陀三尊像と呼ばれる型式である。光背は既に失われてしまっているが、近世のとれた優美な造形である。中尊の台座反花には次のように刻まれている。「武州小代奉冶鋳檀那父栄尊母西阿息西文宝治三己酉二月八日」小代とは武蔵七党の児玉党小代氏の根拠地、現在の東松山市高坂の正代である。この時代の地方文化の力強さ、特に高度な鋳造技術に裏付けられた仏教美術の水準の高さを窺わせる資料としても貴重なものである。平成8年(1996)3月 嵐山町教育委員会

5. 大行院 たいぎょういん

大行院

次の明光寺に向かう途中で見掛けたのがこの大行院。門前には六部供養塔や庚申塔が建ち、道を隔てた反対側にある鳥居の先にも諸仏が並び建つなど、神仏混淆状態にあるの。訪ねたときには大行院がどのような寺院なのか知らずにいたξ^_^ξは失礼して境内をウロウロと。気が付けば敷地内にはありとあらゆる種類の石仏・石碑が建てられていると云っても過言ではないの。そんな中で目に留まったのが「武蔵国西戸村 山本坊 開山千手院殿大先達栄円大和尚」と刻まれた石塔なの。山本坊と云えば嘗ては聖護院本山派修験二十七先達の一つで、大行院が修験系寺院であると分かれば諸仏が祀られる理由も納得出来るわね。

境内には武蔵国修験道場や武蔵国大峯山修験別格本山などと刻む石柱も建てられていましたが、正式には大行院神明殿と号する単立寺院なの。石碑石仏の多くが新しいものですが、【風土記稿】には「別当 大行院 本山修験 幸手不動院の配下なり 鎌形山真福寺と号す 開山栄長寂年を傳へざれと 御堂村淨蓮寺文明11年(1479)の鐘銘に 永運榮海などあるも 當院世代の内なりと云へば 舊きこと推て知るべし」とあるように、開創時期こそ分からないまでも寺歴としてはそれなりの年月を経て来てはいるみたいね。また、別当とあるように、嘗ては後程訪ねる鎌形八幡神社を主管していたこともあり、その際には同じ霞下の櫻井坊・石橋坊を配して協同でことを進めていたみたいね。実は、この大行院の名をこの後あちらこちらで目にすることになるの。

ξ^_^ξは知らずにいたのですが、境内は撮影禁止だったみたいなの。
なので、ここでは上掲のみの紹介としますので、御了承下さいね。

6. 縁切り橋 えんきりばし

征夷大将軍坂上田村麻呂が、軍勢を引き連れてこの地に滞在、岩殿の悪龍退治の準備に忙殺されていた。そこへ、将軍の奥方が京都から心配のあまり尋ねて来たと云う。しかし、坂上田村麻呂は「上の命令で、征夷大将軍として派遣されている我に、妻女が尋ねるとは何事だ逢わぬぞ」と大声で怒鳴った。それから家来がいくらとりなしてもお許しがなかった。翌朝、奥方は京へ帰る出発のためこの地へ来た。将軍は此の坂下まで来て「大命を受けて出陣しているのに追い来るとは何ごとだ。今より縁を切る。早々立ち去れ」と、宣言したと云う。それからこの橋は縁切り橋と云われている。婚礼の時、この地の人は縁起を担いで、今でも新郎新婦を通さぬことにしているそうである。埼玉県

大行院から程なくして歩道右手に紹介した案内板が立てられていたのですが、肝心の橋はと云えば、辺りを見回してもどこにも見当たらないの。案内板が立てられた頃は未だ橋が残されていたのかも知れないけど、見たところ舗装道も綺麗だし、道路改修の際に川を埋めた序でに橋も撤去してしまったのかも知れないわ−などと独りごちていたのですが、諦めて歩き出したところでふと前方に高欄のようなものが歩道際に立つのが見えたの。近付いてみれば、それが縁切り橋だったと云うわけ。その高欄も実は片側だけで、反対側は浪漫のひとかけらも感じられないガードレールになっているの。ともあれ、橋が残されているからには川もあるかも知れないわ−と探してみたのですが、暗渠化されていたの。一方のガードレール側では草叢の向こうに川の流れが再び姿を現わしていたのですが、撮影するまでのものでもなくて。今となっては too many many years ago の世界ね。

それはさておき、夫の身を案じて遙々都から東下して来てくれた妻を怒鳴りかえしてしまうなんて。ξ^_^ξなら反対にこちらから離婚よ(笑)。近代的な戦闘ならいざ知らず、戦陣に女性を伴うことは決して稀ではなかったハズよ。だからと云って行動を一緒にして−とは云わないけど、身の危険を説いて帰京させる位の余裕があっても良さそうなものよね。それを離縁まで一気に結びつけてしまうなんて。ここではあくまでも逸話の世界でのお話しなので虚実如何は分からないけど、そこには語られぬ特別な事情でもあったのかしら。とは云え、附近には不逢ヶ原(ふあわずがはら)や不添の森(そわずのもり)の名も残されているので、辺りを二人で一緒に歩くのは遠慮しておいた方が良さそうよ。

7. 日吉神社 ひよしじんじゃ

鳥居 鳥居の傍らに立つ石標には日吉神社とあるのですが、嘗ては大宮権現社と号していたの。【風土記稿】には「村内に利仁將軍の靈を祭りし 大宮權現の社あるをもて 將軍澤の名ありと云ふ」と記し、その大宮權現社と云えば「高さ三尺許りの塚上にあり 利仁將軍の靈を祭れり 相傳ふ昔藤原利仁此地を經歴して此塚に腰掛て息ひしことありし故かく號すと云ふ 明光寺の持」とあり、村名は鎮守府将軍藤原利仁の名に因むものだとしているのですが、異説では征夷大将軍坂上田村麻呂を以てその名の由来とするなど、伝承は両者がごちゃ混ぜ状態なの。

【風土記稿】は利仁将軍説の採用ですが、先程の縁切橋やこれからのこともあり、ξ^_^ξの個人的な好みを加えて以降は坂上田村麻呂を主人公にしますね。どうしても利仁じゃなきゃ嫌だ−と云う方は適宜読み替えを。

社殿

鎮座の背景など詳しいことは分からないのですが、【神社明細帳】に依れば、祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・軻遇突智命(かぐつちのみこと)の三神で、明治42年(1909)に境内社の神明社と愛宕社を合祀したとあるので、元々は大山咋命を祀るお社だったことになるわね。でも、ちょっと変なの。境内には本殿の他に末社として稲荷神社・神明神社・山ノ神社があるの。神明社と云えば祭神は天照大神だし、山ノ神と云えば普通は大山咋命のことなのですが、主祭神のハズの大山咋命が末社にも祀られ、合祀されたハズの天照大神もまた末社として鎮座すると云う摩訶不思議。

将軍神社

末社の中で唯一鳥居が設けられていたのがこの将軍神社で、同じく【神社明細帳】に依ると「當社古記録等傳ふる無く創立年紀詳かならす 唯古老の口碑に傳ふるは往古坂上田村麻呂将軍東夷征伐の際近傍岩殿山に毒龍ありて害を地方に加ふ 将軍之を退治して土人を安からしむ 其時夏六月一日なりしも不時降雪寒気強かりしより土人麦藁を将軍に焚きて暖を與へり 其后土人将軍の功徳を賞し之を祭祀崇敬せりと云ふ 現今年々六月一日土人麦藁を焚きて祭事をなすは古より例なり 当社古来本村旧字大宮と唱ふる地に鎮座ありて坂上田村麻呂将軍大宮権現と稱せり・・〔 中略 〕・・御一新に至り明治7年(1874)3月當所に奉遷し将軍社と改称せり」とあるの。

日吉神社の鳥居から少し離れて建てられていたのがこの将軍塚碑で、表には「入口 武蔵国将軍ノ澤村 坂上田村麻呂将軍塚」と刻まれ、背面には「平成天巳十三年十一月吉祥日 法印 大行院 山主 大澤霊明 光明 参道奉納」とあることから、石碑は大行院が平成13年(2001)に参道を改修したのを記念して建てたもので、将軍塚とあるのは先程紹介した【風土記稿】の「高さ三尺許りの塚上にあり 利仁將軍の靈を祭れり 相傳ふ昔藤原利仁此地を經歴して此塚に腰掛て息ひしことありし故かく號すと云ふ」の記述を踏まえてのものみたいね。

8. 明光寺 みょうこうじ

明光寺 「嵐山町観光まっぷ」にその名があるので、何かあるのかも知れないわ−と足を延ばしてみたのですが、残念ながらこれと云って見るべきものは無かったの。【風土記稿】にも「天臺宗 下青鳥村淨光寺末 堅横山醫王院と號す 本尊藥師を安す 開山明海寂年を傳へず」とあるのみで、詳しい縁起などは分からないの。But その【風土記稿】に依れば、当時の将軍澤村にはこの明光寺しかなくて、先程紹介した大宮権現社(現:住吉神社)を始めとして、諸社の全てが明光寺持となっているの。文字通り、別当寺として将軍澤村の仏事祭祀の類全てを主管していたことになるわね。

板碑 嵐山町指定 考古資料 阿弥陀三尊種子板石塔婆
指定:昭和60年(1985)12月1日 所在:嵐山町大字将軍沢明光寺 時代:鎌倉時代
この板石塔婆は、主尊に阿弥陀如来種子(キリーク)を置き、右下に観音菩薩種子(サ)、左下に勢至菩薩種子(サク)の両脇侍を配する阿弥陀三尊式の種子塔婆である。鎌倉期の所産で、下方に文応元年(1260)の紀年銘を有する。町内で最古の塔婆である。造立の趣旨、背景は明らかではないが、当地は13世紀半ば頃から世良田氏の領地となっていた。

世良田氏は上野国新田四分家の一つで、寛元2年(1244)長楽寺を創建した義季が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後、弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には、教氏と満義が寺に宛てた寄進状が現在も残されている。1260年と云う比較的早い年代に塔婆がこの地に出現するのも、このような環境が背景となっているのかも知れない。昭和60年(1985)3月 嵐山町教育委員会

9. 安養寺 あんようじ

明光寺を後にして再び大蔵へと戻り、最初に訪ねたのがこの安養寺。「観光まっぷ」には記載が無いのですが、山門の佇まいに目が留まり、訪ねてみたの。【風土記稿】には「山王社 村の鎮守なり 社領十石は慶安年中賜はれり 別當 安養寺 天臺宗 下青鳥村淨光寺の末 大乘山寂光院と稱す 本尊阿彌陀を置り 開山廣覺應永元年(1394)草創とのみ傳へり されど是等に據れば 山王社も舊きものなるべし 天神社 愛宕社 天王社 神明社 稻荷社 諏訪社 以上安養寺の持 神明社 村民の持」とあり、嘗ては山王社を始めとした諸社の別当を務めていたことが分かるわね。その諸社ですが、現在はこの後御案内する大蔵神社に遷座しているみたいね。

嵐山町指定 建造物 安養寺山門 指定:昭和60年(1985)12月1日 時代:江戸時代後期
当山門は、棟札から江戸時代後期天保10年(1839)の造営と知れる。天台の宗門にふさわしく、重厚で気品溢れる風格を備え、貴族的趣味を彷彿とさせる、一部籠彫りの唐獅子・龍・花鳥が配される。棟梁は棟札に「河原明戸村飯田和泉藤原金軌」とある。現在の熊谷市(旧大麻生村)の人で、当代北武蔵の名工と名高い。尚、東松山市八雲神社社殿、川越市氷川神社の彫刻など、天保期の造営となる建造物の棟札にも飯田姓を多く見ることが出来る。これら一連の工匠と彫工は、同族飯田一族と推察されるが、その卓越した技法は群を抜いている。昭和62年(1987)3月 嵐山町教育委員会

山門を潜り抜けた正面にある松の木の植え込みに石碑が建てられていたので、寺の縁起を記したものかしら−と近付いてみたのですが、由緒書ではなくて「埼玉育児院発祥之地」碑だったの。その碑文を転載しておきますが、歴史上には時として聖者のような人が現れるものなのね。

石碑 〔 埼玉育児院発祥之地 〕  大乗山安養寺住職小島乗真師(1878-1931)は、明治天皇の崩御に際し、その聖徳を偲び、兼ねてからの貧孤児救済の素意を実現するため、大正元年(1912)独力で寺内に積徳育児院を創立した。埼玉県における育児院の嚆矢である。翌2年11月、院児12名(内乳児6名)乳母2名使丁1名であった。然しながら院は全くの孤立無援であり、経営は困難を極めた。また麻疹の流行により、院児6名を失なう惨事にも遭遇した。4年1月社会への貢献が認められ、比企郡教育会により表彰され漸くにして愁眉を開くことが出来た。同年4月埼玉育児院と名称が改められた。5年11月、素封家入間学友会頭発智庄平氏の来院を契機に渋沢栄一子爵始め県内有力者の理解と協力を得るに至った。そして社団法人の設立が進められ、その認可は7年2月であった。この間、乗真師は自らの山林(八反三畝十四歩)畑(六畝四歩)を処分して創立以来の院の負債を清算し、6年12月東松山市に移転した。

社団法人埼玉育児院は渋沢子爵岡田知事を名誉顧問に県下九郡長や名望家を加えた堂々たる陣営であった。院長は発智庄平氏、小島乗真師は理事教養主任(院父)であった。院はその後、川越市笠幡の発智氏の長屋に、更に現在地に移り、埼玉最古の育児院として70余年の歴史と伝統を継承している。因みに乗真師は大正10年頃院を退き、昭和6年(1931)、東京に於て逝去された。まさに先駆者としの受難の生涯であった。この地に、この人を得て、崇高なる事業が創められたことに無限の感慨と、深い意義を覚えるのである。感懐一首 小夜更けて しばし捨て児の 泣きやむは 母が添ひ乳の 夢や見るらむ 〔 小島乗真 〕
昭和59年(1984)甲子5月24日 〔 中略 〕 撰文書 千手院住職 浅見覚堂

10. 大蔵館跡 おおくらやかたあと

車道の傍らに石碑が建てられ、南無馬頭観世音菩薩と陰刻されていたので最初は馬頭観音の供養塔だと思ったのですが、碑面には「久寿二年八月十六日 大蔵館 源氏一族一門 南無馬頭観世音大菩薩 平氏一族一門 平成二年天庚午八月十六日 当山山主行光院日世大澤霊明光良代」とあり、裏には「当所御所ヶ谷戸、御堀内に参し奉、当家久寿二年八月十六日大蔵館夜討愛馬一切霊の為に当地御堀に大行院社殿を建て帯刀先生源義賢御供養の為、参るなり」と記されることから、源氏及び平家一族の霊を弔う供養塔であり、大蔵館跡を示す石標でもあったの。

碑文にある行光院のことが気になり調べてみたのですが分からなくて、それとも単なる大行院の間違いかしら?取り敢えず、ここでは碑文のままを掲載しておきますが、記されている内容からすると、大行院は当地で源義賢の菩提供養のために一宇を建て、併せて戦闘で死んだ馬達の霊を弔ったことがその始まりとなるわね。残念ながらいつ来たのかまでは触れられてはいないの。因みに、久寿2年(1155)8/16とあるのは義賢の没年で、幾ら何でもその日に来たとは考えられないわよね。

古城蹟 村の西方にあり 方一町許 構の内に稻荷社あり 今は大抵陸田となれり から堀及び塘の蹟殘れり 此より西方に小名堀ノ内と云あり 昔は此邊までも構の内にて 帶刀先生義賢の館蹟なりと云 されど【東鑑】に義賢は久壽2年(1155)8月武藏國大倉館に於て 鎌倉惡源太義平が爲に 討亡ぼさるとあり 此事は【平治物語】【百練抄】等にも載たれど 事實の詳なることは記録なし 大藏と云地名は多磨郡にもあれど 當所義賢墳墓あり 又郡中に義賢につかへしものの子孫遺るときは 此所義賢が舊跡なること疑ふべからず【風土記稿】

ここで、三つほど大蔵館跡の案内板を紹介してみますが、内容が微妙に異なるの。建てられた年度順に並べておきましたので、その違いをお楽しみ下さいね。それにしても同じ大蔵館跡の案内板がこんなにあるとは思いもしなかったわ。

埼玉県指定史跡 大蔵館跡 指定:昭和9年(1934)3月31日 面積:東西170m 南北215m 時代:平安時代末期
大蔵館跡は平安時代の末期の頃、六条判官源為義の次男・義賢が仁平2年(1152)から久寿2年(1155)まで館を構えていたと伝わり、御所ヶ谷と堀ノ内にわたり土塁や空湟の一部が現存し、県下でも古い館跡と云う。義賢は近衛天皇東宮時代の侍従の長で、当時この職を帯刀先生と称した。久寿2年(1155)8月16日、義賢は兄義朝の長男義平に、この地にて討たれた。平治物語では、これを大蔵の戦と云い、今より約820年前も昔の事である。尚、義賢の遺児駒王丸は、畠山重能・斎藤実盛に助けられ、木曽の中原兼遠の許へ送られ、後年旭将軍木曽義仲として天下に名声を轟かした。昭和49年(1974)2月 嵐山町教育委員会

〔 大蔵館跡 〕  大蔵館は源氏の棟梁六条判官源為義の次子・東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川を臨む台地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は東西170m・南北200m余りであったと思われる。館のあった名残りか、館跡のある地名は御所ヶ谷戸及び堀之内と呼ばれる。現存遺構としては土塁・空堀などがあり、殊に東面100m地点の竹林内(大澤知助氏宅)には土塁の残存がはっきり認められる。また、嘗ては高見櫓の跡もあった。尚、館跡地内には伝城山稲荷と大蔵神社がある。源義賢は当地を拠点として武威を高めたが、久寿2年(1155)8月16日源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。義賢の次子で当時2歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛に依り木曽の中原兼遠に預けられた。これが後の旭将軍木曽義仲である。昭和50年(1975)3月 埼玉県

埼玉県指定史跡 大蔵館跡 昭和9年(1934)3月31日指定
大蔵館跡は平安時代の末期、帯刀先生源義賢に依って築かれたと伝えられている。館跡の四隅にそれぞれ土塁、空堀が残っており、これから推定される館の規模は東西170-200mm、南北220mである。また館跡の内外には「御所ヶ谷戸」「堀之内」「高御蔵(高見櫓)」など、館のあったことを示す小字名もある。館の東方100mには、鎌倉街道が南北に通過しており、館の入口は街道に面して東方に設けられている。館の中核は、南西の一画に一段高く土盛りされている現在の大蔵神社付近と考えられるが、現存する大蔵館跡の規模は、必ずしも義賢当時のままとは云えない。嵐山町周辺は、南北朝〜室町、戦国時代にかけて戦乱の絶えなかった地域であり、そうした時代にも軍事上の重要拠点として幾度となく造りかえられて利用されていたようである。〔大蔵館跡実測図略す〕昭和61年(1986)3月 埼玉県教育委員会 嵐山町教育委員会

因みに、帯刀先生は「たちはきせんじょう」と訓んで下さいね。But 読みとしては「たちわき」でOKよ。「こんにちは」と書いて「こんにちわ」と読むのと同じね。その帯刀ですが、帯刀舎人(たちはきとねり)の略称で、東宮御所を警護する職掌なの。その長官にあたるのが「帯刀の長(たちはきのおさ)」で、通称・帯刀先生と呼ばれたの。その帯刀になるには武芸に秀でていることが前提で、採用に際しては騎射などの実技試験もあったみたいよ。因みに、義賢は【尊卑分脈】では「帯刀の長 近衛院坊中 帯刀先生と号す」とあるの。黄門さまと云えば普通は水戸光圀の名前しか思い浮かばないのと同じで、帯刀先生と云えば源義賢のことだと思っても差し支えなさそうよ。

発掘調査では義賢の時代から更に100-200年を経た時代の井戸や建物跡が確認出来たものの、肝心の義賢が生きた時代の生活の痕跡は何も見つからなかったと云うの。But 幾ら整地造成を繰り返したからといって、現在のように建設残土を運び出したとは思えないので、素焼きの土器の欠片くらいは出土してもよさそうよね。にもかかわらず、何も見つからなかったなどと聞くと、本当に義賢の館があったのかしら−などと疑ってしまいたくなるわね。史跡の指定は昭和9年(1934)とあるので、充分な検証が無いままにことが進められ、一度指定してしまった以上、メンツに懸けて後戻り出来なかったりして(笑)。

ここで後々のこともあるので、ちょっと歴史のお勉強を(笑)。久寿2年(1155)相模国を本貫地とする源義朝と武蔵国比企郡大蔵の源義賢との間に不和が生じ、義朝は鎌倉に下向していた嫡男・義平に義賢の追討を命じるの。異母とは云え、義朝・義賢は兄弟、義平も義賢にすれば甥叔父の関係で、まさに同族戦なの。その義平は義賢の居館・大蔵館を襲撃すると義賢を討ち取ってしまうの。But 義賢の嫡男・駒王丸の所在が分からず、畠山重能に見つけ出してその首をはねるよう厳命して鎌倉へ帰還するの。重能は探索の末、義賢の側室・小枝御前と駒王丸、そして下郎の孫太郎の三人が潜むところを見つけ出したのですが、いざ駒王丸を目の前にしてみれば僅か二歳の子供、刃を向けるには余りにも幼すぎて、ましてや源家の棟梁・八幡太郎義家の血筋、このまま殺してしまうには口惜しい、いざ、助けまいらせん−と思ったの。かと云って重能が庇護する訳にもゆかず、頼りにしたのが斎藤別当実盛だったの。実盛も当初は義朝の麾下にいたのですが、義賢につき、その義賢を失うと再び義朝の麾下に戻るの。その中で二人の接点が出来ていたのかも知れないわね。それはさておき、駒王丸を預かってはみたものの、周りを見渡せば源氏の息の掛かった連中ばかり。いずれは事が露見して義朝の耳に入るやも知れず、そこで白羽の矢を立てたのが乳母夫の信濃権守中原兼遠なの。その兼遠の庇護の許で育てられた駒王丸こそが、後の木曽義仲なの。

11. 大蔵神社 おおくらじんじゃ

この大蔵神社ですが【神社明細帳】に依れば、大山咋神(おおやまくいのかみ)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・大日霎貴神(おおひるめむちのみこと=天照大神)・誉田別尊(ほむだわけのみこと=応神天皇=八幡神)を祭神とし、創立年代は分からないものの、明治42年(1909)それまで大蔵字宮ノ裡に鎮座していた日吉神社に境内社の三峰社・大神宮社・八幡社を合祀、この地に遷座したのを機に大蔵神社へと改称したの。同じく日吉神社の境内社だった八坂神社・雷電社・諏訪社の三社を八坂神社に合祀して現在地へ移したの。But 何故そんな面倒なことをしたのかしら?

氏子同士でもそれぞれに思惑があるのでしょうね。居候の身の上の八坂神社には主祭神の素戔鳴尊(すさのおのみこと)の他にも、大雷命(おおいかづちのみこと)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の二神が祀られる理由がそこにあるの。記述にある大蔵字宮ノ裡が現在のどの辺りに比定されるのかは分かりませんが、宮ノ裡には嘗て応永年中(1394-1428)に勧請された日枝神社があり、末社として諏訪社・八幡社・愛宕社・三峯社・神明社・雷電社・八坂社・菅原社・木ノ宮社の各社が鎮座していたと云うの。木ノ宮社の祭神はξ^_^ξには分かりませんが、現在はこの大蔵神社の境内地に全部遷座してきていると思って良さそうね。

八坂神社の社殿右手には神輿庫があるの。その神輿庫に収められる御神輿は勿論八坂神社のもので、居候と雖も御神輿があるなんて立派よね。ところで、八坂神社と云えば京都の祇園祭が有名よね。地方では八坂神社のお祭りのことを「大王さま」などと親しみを込めて呼ぶことも多いのですが、この大蔵では何と呼んでいるのかしらね。それはさておき、神輿庫に収められる御神輿を見ることは出来ませんでしたが、社殿には御神輿製作の由来を記した扁額が掛けられていたの。ちょっと長くなりますが紹介してみますね。実は、ここにも大行院の名が出てくるのですが、氏子の方達の協力があればこその御神輿新造ね。

大蔵八坂神社の御神輿の由来は、記録に依ると今から164年前の天保7年(1836)6月に氏子の皆さんから御寄付を頂き造られたと考える。その後、明治8年(1875)にも氏子から御寄付を頂いた記録がある。当時を日本史で見ると、天明3年(1783)7月に浅間山の大噴火があり、その後の天変地異に依り天明7年(1787)までを天明の大飢饉、天保4年(1833)から10年までを天保の大飢饉と云われた年代で、相当の病人死人が出たと記録されている。正に大飢饉の最中に五穀豊穣身体健全を願って御神輿を造られたことが想定される。また、御獅子2体は明治20年(1887)に造られた記録がある。以来、毎夏御神輿と御獅子の渡御が盛大に行われて来た。時代の変化に伴い昭和40年代には一時御神輿の渡御が中止されていたが、大蔵町南会が昭和52年(1977)に設立され、本会が中心になり、翌年から渡御が復活したことは大変喜ばしいことである。そして平成元年(1990)には青少年の健全育成を願って氏子総代の成澤勝治氏が子供神輿を御寄進され現在に至っている。

しかし、現在の御神輿は老朽化が著しく、平成元年(1990)から夏祭りの残金を将来の御神輿購入資金の一部として特別積立をしてきた。ここで大行院大澤霊明氏の発案でミレニアム2000年を記念して、御神輿を新装しようと云うことになり、平成11年(1999)の区民総会に諮り、28名からなる大蔵神輿製作実行委員会をつくり、毎戸月額2,000円18ヶ月の積立御寄付を賛同願って造ることに決定した。実行委員会では東京浅草、群馬県高崎市及び県内関係地まで出向き検討を重ねて来たが、高崎市内の神具専門問屋で現品を確認して完成品で購入した。尚、今回の御神輿の製作にあたり、大行院大澤霊明氏には御助言と過分なる御芳志を頂き区民一同感謝申し上げるものである。以上、大蔵八坂神社の御神輿製作の由来を記し、後世に伝えるものである。撰文 富岡 秀 平成12年(2000)7月吉日 大蔵神輿製作実行委員会

12. 源義賢の墓 みなもとのよしかたのはか

【風土記稿】には「古墳 巽の方村民丈右衞門が持の畑中にあり 相傳ふ帶刀先生義賢が墳墓なりと 高さ三尺許とおぼしき塔なれども 半は土中に埋り 且五輪も缺損し 其中わずかに梵字を彫りたる 五輪の内の一石のみ殘れり それに雨覆ひをなし注連を引き 土人は尼御前の碑なりといへど これも定かならず」とあるように、実は、源義賢のものと伝えられるお墓は個人(新藤さん宅)の敷地内にあるの。記述には古墳とあるのですが、今は五輪塔が覆屋に護られてあるだけなの。通りからはこの鳥居を目印に訪ねてみて下さいね。参道を進むと正面に覆屋が見えてくるの。



源義賢のものとされる五輪塔は家人の方が今でも大切に護り続けていらっしゃるの。
先ずは何代か前になるのでしょうが、家人の方が建てられた案内板から紹介してみますね。

〔 帶刀義賢史蹟保存之記 〕  武藏國比企郡大藏の地は往昔帶刀先生源義賢の居住の地なり 因て大正13年(1924)3月埼玉縣より義賢墳墓保存資金壹百圓を交付せられたり 抑も義賢は源家の後胤にして勇武絶倫 所謂關東武士の典型を發揮し 威を上武相の地に縱にせしことは 青史之を證して明なり 當時義賢當郷堀の内に本館を構へ 之を居城として附近鎌形に別業を設け この地に於て嗣子義仲を擧げしが 後故ありて其甥源太義平が爲に殺害せられ 遂に此に葬られたりと古老の口碑に傳ふる處なりしが 今や本縣史蹟調査會の審議に依り 其實績を證せられ 七百餘年後の今日 此恩典に浴したることは其靈も亦以て瞑すべし 茲に其由來を記して後世に傳ふと云爾 大正14年(1925)3月吉辰 保管主 新藤延平之を記す 原文起稿竝書 齋藤竹次

次は埼玉県と嵐山町教育委員会が建てた案内板の内容を転載しておきますね。

〔 源義賢の墓 〕  義賢は源為義の次子(長子は義朝)で、近衛天皇が東宮の時に仕え、帯刀の長となったので、帯刀先生と称され、その後東国に下り、上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町)を本拠地としてので、多胡先生とも称された。更にその後、この地(大蔵館)に移住し、武蔵国や上野国に勢力を振るったが、久寿2年(1155)8月16日、大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太(源)義平と合戦して討たれた。尚、木曽義仲は義賢の次子である。源義賢の墓と伝えられるこの五輪塔は、数度の火災にあったためか、やや赤く変色しているが、県内では最古の部類に属するものである。大正13年(1924)3月31日に県指定史跡に指定されている。昭和55年(1980)3月 埼玉県

埼玉県指定史跡 源義賢墓 指定:大正13年(1924)3月31日 所在地:嵐山町大字大蔵字大東66 時代:平安末期
この五輪塔は、火輪部と水輪部のみ残存しており、空輪部と地輪部は後から補われたもので、風輪部は欠損しています。材質は、凝灰岩製で、火災にあったためか変色の痕が見られ、損傷も激しかったため、昭和52年(1977)に東京国立文化財研究所により修理処理されました。この形は、いわゆる古式五輪塔と呼ばれ、県内に所在する五輪塔の中では最古の例です。尚、この墓は義賢ゆかりの人々が供養のために建立したものと考えられます。(源氏系図並びに五輪塔図省略す)五輪塔は本来供養のために建てられましたが、後には墓石として建てられるようになりました。密教の宇宙観より、上から空・風・火・水・地として、五大の考え方を表しています。平成4年(1992)9月 嵐山町教育委員会

家人の方は今でも義賢さまと呼んでいらっしゃるの。その五輪塔は個人の敷地内にあると云うこともあり、参道の整備や覆屋の建築維持管理なども皆個人負担で行っているそうよ。案内文には東京国立文化財研究所の手に依り修復されたことが記されていますが、その時も県の指定史跡となっていることからてっきり県からお金を出して貰えると思っていたのですが、一銭の援助もなくて、結局個人負担になってしまったのだとか。時間に任せて公私にわたる昔話を色々と聞かせて頂きましたが、引き継がれてきた新藤家のDNAがあればこその義賢墓ね。余談ですが、家人のお話しに依ると、鳥居の立つ脇に柿の木があるのですが、昔、その辺りに小さな庵があって、将軍沢の明光寺の庵主さまがそこに寝泊まりして義賢さまの霊を弔って下さっていたのですが、いつの頃からか姿が見えなくなってしまって、本山に帰られたのかも知れませんが、そんなこともあったんですよ−とも。

13. 源氏三代供養塔 げんじさんだいくようとう

道を隔てて源義賢墓の反対側には源氏三代供養塔が建てられていたの。同じ源氏でもここでの三代は義賢・義仲・義高のことで、供養塔は平成18年(2006)の建立と新しいものですが、それぞれ「久寿二年八月十六日 大蔵院殿本源義法印大居士 大蔵館主 東宮御所 帯刀先生 源義賢公」「寿永三年一月二十一日 征夷大将軍 義山宣公大居士 源義賢公嫡子 源義仲公 近江国粟津ヶ原没 行年三十一歳」「元暦元年四月二十六日 清水院殿神徳義高入間大居士 源義仲公嫡子源義高公 武蔵国入間河原没 行年十二歳」と刻まれているの。その三代供養塔を供奉するようにして家臣達の供養塔が立ち並ぶの。

ところで、義賢と並んで妙徳の法号を記す供養塔が建てられていたの。銘には「至徳元甲子年(1384)十一月 日 妙徳」とあるので、明らかに義賢とは生きた時代が異なるのですが、どんな方なのかしら、義賢との関係も気になるわね。

帯刀先生源義賢公は源氏の棟梁源為義の次男で木曽義仲公の父である。義賢公は河越重隆の養君となり、この地大蔵に館を構えていたが、久寿2年(1155)大蔵の合戦で兄である義朝の長男・悪源太義平に討たれ悲運の最期を遂げた。新藤家には義賢公の墓とされる五輪塔が祀られている。尚、この時、2歳の駒王丸(後の義仲公)は畠山重能・斎藤別当実盛らにより木曽の中原兼遠の許へ送り届けられた。大蔵で生まれ、木曽で成長した義仲公は平家追討の命旨を受け挙兵し、寿永2年(1183)には京都に入り、後白河法皇から朝日将軍の称号を賜った。しかし翌、元暦元年(1184)、源頼朝が派遣した源範頼・義経軍に敗れ、近江国粟津ヶ原で討ち死にし、波乱に満ちた31年の生涯を閉じた。

義仲公の長男である清水冠者義高公は、鎌倉へ人質として送られ、頼朝の長女大姫の許婚として日々を送っていたが、元暦元年(1184)父・義仲公の死を聞いた義高公は密かに鎌倉を出立し、父・祖父ゆかりの大蔵の地を目指し鎌倉街道を北上したが、同年4月、頼朝の追手により入間川で討ち取られた。僅か12年の生涯であった。この供養塔は、義賢公・義仲公・義高公ゆかりのこの大蔵の地に於いて、志半ばで倒れた悲運の武将・義仲公・義高公を祀り、新藤家の義賢公墓とあわせ、源氏三代の菩提を弔い、供養するものである。平成18年(2006)11月13日 大行院

14. 根岸の子育観音 ねぎしのこそだてかんのん

観音堂

歩いていたときに縁日の開催を報せる貼り紙を見つけ、縁日が開かれていたわけではないのですが、興味を覚えて足を延ばしてみたの。縁起となると【風土記稿】にも「観音堂 如意輪観音を安ず 同寺(安養寺)の持」とあるだけで、詳しいことは分からないのですが、扁額には「安養寺 根岸 観音堂」とあるので、現在でも境外堂の扱いにはなっているようね。建物は平成9年(1997)に再建されたもので、境内では2/20と10/20に縁日が開かれるの。後日その縁日の様子を見る機会がありましたが、露店も出ていて子供達の嬌声が飛び交うなど、ちょっとだけ元気でしたよ。名の知れた寺社の縁日と比べられたら可哀想だけど、どこか懐かしい情景に出逢えた気分よ。