以前、東松山市の高坂を歩いた際に岩殿観音への参道脇に「唐子村ヲ経テ菅谷鬼鎮神社ニ至」と記す道標を見つけて以来、風変わりな名称の鬼鎮神社のことが気になっていたの。調べて見ると鬼鎮神社は嵐山町にあることが分かったのですが、畠山重忠や木曽義仲ゆかりの地でもあることから多くの史蹟が残されていると知り、興味を覚えて歩いてみることにしたの。一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 武蔵嵐山駅(東武東上線) むさしらんざんえき
武蔵嵐山の名は「日本の公園の父」とも呼ばれる本多静六博士が昭和3年(1928)に槻川沿いの渓谷を訪ねた際に、その景観が京都・嵐山に似ていることから名付けられたものと云われているの。当初はそれでも「むさしあらしやま」だったのですが、昭和10年(1935)に菅谷駅の名称が武蔵嵐山駅へと改称されたのを機に「むさしらんざん」に変わっていったみたいね。その後、昭和42年(1967)には町制施行に併せてそれまでの菅谷村から現在の嵐山町へと改称しているの。今回の散策ではその嵐山町をひとめぐり。
2. 鬼鎮神社 きじんじんじゃ or きちんじんじゃ
〔 御由緒 〕 埼玉県比企郡嵐山町に、畠山重忠公が御造営された菅谷館(菅谷城)があった。 当神社は、その鬼門除けの守護神として、鎌倉街道に沿って建立され、節分祭、勝負の神で有名である。約800年前、安徳天皇の御代、寿永元年(1182)に創建され、御祭神は衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)・八衢比古命(やちまたひことのみこと)・八衢比売命(やちまたひめのみこと)で、主神の衝立船戸神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国を訪れた後、筑紫日向の橋小門の阿波岐原で、禊祓いをして持っていた杖を投げ出した時、杖より生まれた神である。
それが幅広く解釈されて悪魔払いの神、家内安全商売繁昌の神、受験の神と、人生の指針を示し、強い力を授ける神として崇められている。節分祭は鬼鎮神社において一番大きなお祭りで、この日は何千何万の人々が「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼する、日本でここだけの鬼の祭であり、境内は大変な賑わいを見せる。遠く千年の昔から、勇名を馳せた坂東武者、明治以降の出征兵士の崇敬篤く、戦後は受験必勝の神様として参拝者は後を絶たず、社頭を賑わしている。このようなことから「鬼に金棒」と昔から云われている金棒のお守り、祈願成就の赤鬼青鬼の絵馬を授与される方が、非常に多い。平成4年(1992)11月吉日
紹介した由緒書では祭神は衝立船戸神・八衢比古命・八衢比売命の三柱としているのですが、それは明治期の宗教政策を受けてからのことで、それまではズバリ、鬼が祭られていたみたいよ。社名にしても鬼鎮神社ではなくて、鬼明神社とか鬼宮社などと呼ばれていたのですが、新政府の思惑なぞどこ吹く風の庶民にしたら、今も昔も鬼が祭られていることに変わりはなくて、お守りが金棒なら、絵馬もまた赤鬼青鬼よ。
その鍛冶屋をめぐり、地元ではちょっと切ない逸話が語り継がれているの。
ここでは昔話風にアレンジしてお届けしてみますのでお楽しみ下さいね。
いざ働かせてみると若者は殊の外熱心でのお、休み時間もそこそこに、夜もろくに寝ずに刀づくりに精を出すようになったそうじゃ。そうして何年か過ぎた頃にはもう立派な刀鍛冶になっておったそうじゃ。ところで、その鍛冶屋には一人娘がおったんじゃが、若者が一人前になる頃には美しい娘になっておってのお、ある日若者はその娘を嫁にくださいと鍛冶屋に頼みこんだそうじゃ。じゃがのお、きょうまで大事に育てて来た娘じゃ、弟子と雖もそう簡単に嫁にやる訳にはいかん、そう思うた鍛冶屋は少しばかり考えて、それでは刀を一晩に百本作ることが出来たら娘を嫁にやろう−と答えたそうじゃ。それを聞いた若者は喜び勇んで早速準備万端整え約束の夜を待ったそうじゃ。そうして陽が暮れたのを確かめると若者は重い槌を振り上げてトンカン、トンカンと勢いよく刀を打ち始めたそうじゃ。すると、みるみる内に刀が出来てきてのお。
そうしてすっかり夜も更けた頃のことじゃった。鍛冶屋は若者のことが気になり、そおっと刀をつくるところを覗いてみたそうじゃ。するとどうじゃ、トンカン、トンカンの槌音に合わせ、今打ったばかりの刀が次々に山と積まれておったそうじゃ。じゃが、槌を振り下ろす若者の姿を見ると、そこにはいつもの若者ではのおて、鬼が刀を打っておったそうじゃ。頭には角を生やし、血走った赤い鋭い目には焔がゆらぎ、トンカン、トンカンと打つたびに四方八方に火花が飛び散り、辺り一面まるで火の海じゃったそうな。これには鍛冶屋も腰を抜かさんばかりに驚いてその場から逃げ出したそうじゃ。このままではあの鬼に可愛い娘を取られてしまう、そうじゃ、それには刀が百本出来ぬ内に、鶏を鳴かせて夜が明けたことにしてしまえば済むことじゃ、そう考えた鍛冶屋は夜明けを待たずに大急ぎで鶏小屋へ駆け込んだそうじゃ。そうしてコケコッコーと鶏が一声鳴いたのを確かめると、また作業場を覗きに行ってみたそうじゃ。
鬼となった姿を見られているとは知らずに若者は一心不乱に刀を打っておってのお、鍛冶屋も夜が明けてくれるのを今か今かと気を揉んで待っておったんじゃが、ようやく東の空が明るくなって夜が明けたそうじゃ。すると鬼の姿をしておった若者は急に元の姿に戻ったかと思うと、槌を握りしめたままその場に倒れ込んでしまったそうじゃ。しばらくは様子を窺っておった鍛冶屋じゃったが、恐る恐る若者に近付いてみると既にこと切れておったそうじゃ。鍛冶屋はつくり終えておった刀の数が気になり数えてみたんじゃが、百本には残りあと一本だけじゃったそうじゃ。若者を哀れに思うた鍛冶屋はその亡骸を庭の隅に埋め、神主を頼むとそこに社を建てて鬼神さまとして祀ったと云うことじゃ。それがこの鬼神明神さまの始まりだと云うことじゃ。ほんに、むか〜し昔のお話しじゃけんども。
大正4年(1915)発行の【岩殿山案内】には二軒のお店の広告が載るの。一軒は紹介した川田屋さんのもので「比企郡菅谷村川島鬼鎮神社前 団体参拝者休憩所 旅館御料理 川田屋」とあり、もう一軒は岡島屋さんで「御菓子製造参拝土産調進 岡島屋浅吉 御料理御中食 岡島屋」とあるの。現在の様子からすると団体の参拝客があったとは俄には信じ難いのですが、その隆盛も戦争が勃発すると俄に翳りを見せ始め、戦時中は僅かに出征する兵士とその家族が戦勝祈願に訪れるのみになってしまい、軒を連ねていたお店も皆閉店を余儀なくされ、奉納されていた鉄棒も悉くが戦時供出を強いられてしまったの。哀しい所業ね。
3. 学校橋(都幾川) がっこうばし(ときがわ)
4. 向徳寺 こうとくじ
5. 大行院 たいぎょういん
境内には武蔵国修験道場や武蔵国大峯山修験別格本山などと刻む石柱も建てられていましたが、正式には大行院神明殿と号する単立寺院なの。石碑石仏の多くが新しいものですが、【風土記稿】には「別当 大行院 本山修験 幸手不動院の配下なり 鎌形山真福寺と号す 開山栄長寂年を傳へざれと 御堂村淨蓮寺文明11年(1479)の鐘銘に 永運榮海などあるも 當院世代の内なりと云へば 舊きこと推て知るべし」とあるように、開創時期こそ分からないまでも寺歴としてはそれなりの年月を経て来てはいるみたいね。また、別当とあるように、嘗ては後程訪ねる鎌形八幡神社を主管していたこともあり、その際には同じ霞下の櫻井坊・石橋坊を配して協同でことを進めていたみたいね。実は、この大行院の名をこの後あちらこちらで目にすることになるの。
ξ^_^ξは知らずにいたのですが、境内は撮影禁止だったみたいなの。
なので、ここでは上掲のみの紹介としますので、御了承下さいね。
6. 縁切り橋 えんきりばし
大行院から程なくして歩道右手に紹介した案内板が立てられていたのですが、肝心の橋はと云えば、辺りを見回してもどこにも見当たらないの。案内板が立てられた頃は未だ橋が残されていたのかも知れないけど、見たところ舗装道も綺麗だし、道路改修の際に川を埋めた序でに橋も撤去してしまったのかも知れないわ−などと独りごちていたのですが、諦めて歩き出したところでふと前方に高欄のようなものが歩道際に立つのが見えたの。近付いてみれば、それが縁切り橋だったと云うわけ。その高欄も実は片側だけで、反対側は浪漫のひとかけらも感じられないガードレールになっているの。ともあれ、橋が残されているからには川もあるかも知れないわ−と探してみたのですが、暗渠化されていたの。一方のガードレール側では草叢の向こうに川の流れが再び姿を現わしていたのですが、撮影するまでのものでもなくて。今となっては too many many years ago の世界ね。
それはさておき、夫の身を案じて遙々都から東下して来てくれた妻を怒鳴りかえしてしまうなんて。ξ^_^ξなら反対にこちらから離婚よ(笑)。近代的な戦闘ならいざ知らず、戦陣に女性を伴うことは決して稀ではなかったハズよ。だからと云って行動を一緒にして−とは云わないけど、身の危険を説いて帰京させる位の余裕があっても良さそうなものよね。それを離縁まで一気に結びつけてしまうなんて。ここではあくまでも逸話の世界でのお話しなので虚実如何は分からないけど、そこには語られぬ特別な事情でもあったのかしら。とは云え、附近には不逢ヶ原(ふあわずがはら)や不添の森(そわずのもり)の名も残されているので、辺りを二人で一緒に歩くのは遠慮しておいた方が良さそうよ。
7. 日吉神社 ひよしじんじゃ
鳥居の傍らに立つ石標には日吉神社とあるのですが、嘗ては大宮権現社と号していたの。【風土記稿】には「村内に利仁將軍の靈を祭りし 大宮權現の社あるをもて 將軍澤の名ありと云ふ」と記し、その大宮權現社と云えば「高さ三尺許りの塚上にあり 利仁將軍の靈を祭れり 相傳ふ昔藤原利仁此地を經歴して此塚に腰掛て息ひしことありし故かく號すと云ふ 明光寺の持」とあり、村名は鎮守府将軍藤原利仁の名に因むものだとしているのですが、異説では征夷大将軍坂上田村麻呂を以てその名の由来とするなど、伝承は両者がごちゃ混ぜ状態なの。
【風土記稿】は利仁将軍説の採用ですが、先程の縁切橋やこれからのこともあり、ξ^_^ξの個人的な好みを加えて以降は坂上田村麻呂を主人公にしますね。どうしても利仁じゃなきゃ嫌だ−と云う方は適宜読み替えを。
日吉神社の鳥居から少し離れて建てられていたのがこの将軍塚碑で、表には「入口 武蔵国将軍ノ澤村 坂上田村麻呂将軍塚」と刻まれ、背面には「平成天巳十三年十一月吉祥日 法印 大行院 山主 大澤霊明 光明 参道奉納」とあることから、石碑は大行院が平成13年(2001)に参道を改修したのを記念して建てたもので、将軍塚とあるのは先程紹介した【風土記稿】の「高さ三尺許りの塚上にあり 利仁將軍の靈を祭れり 相傳ふ昔藤原利仁此地を經歴して此塚に腰掛て息ひしことありし故かく號すと云ふ」の記述を踏まえてのものみたいね。
8. 明光寺 みょうこうじ
「嵐山町観光まっぷ」にその名があるので、何かあるのかも知れないわ−と足を延ばしてみたのですが、残念ながらこれと云って見るべきものは無かったの。【風土記稿】にも「天臺宗 下青鳥村淨光寺末 堅横山醫王院と號す 本尊藥師を安す 開山明海寂年を傳へず」とあるのみで、詳しい縁起などは分からないの。But その【風土記稿】に依れば、当時の将軍澤村にはこの明光寺しかなくて、先程紹介した大宮権現社(現:住吉神社)を始めとして、諸社の全てが明光寺持となっているの。文字通り、別当寺として将軍澤村の仏事祭祀の類全てを主管していたことになるわね。
嵐山町指定 考古資料 阿弥陀三尊種子板石塔婆
指定:昭和60年(1985)12月1日 所在:嵐山町大字将軍沢明光寺 時代:鎌倉時代
この板石塔婆は、主尊に阿弥陀如来種子(キリーク)を置き、右下に観音菩薩種子(サ)、左下に勢至菩薩種子(サク)の両脇侍を配する阿弥陀三尊式の種子塔婆である。鎌倉期の所産で、下方に文応元年(1260)の紀年銘を有する。町内で最古の塔婆である。造立の趣旨、背景は明らかではないが、当地は13世紀半ば頃から世良田氏の領地となっていた。
世良田氏は上野国新田四分家の一つで、寛元2年(1244)長楽寺を創建した義季が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後、弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には、教氏と満義が寺に宛てた寄進状が現在も残されている。1260年と云う比較的早い年代に塔婆がこの地に出現するのも、このような環境が背景となっているのかも知れない。昭和60年(1985)3月 嵐山町教育委員会
9. 安養寺 あんようじ
山門を潜り抜けた正面にある松の木の植え込みに石碑が建てられていたので、寺の縁起を記したものかしら−と近付いてみたのですが、由緒書ではなくて「埼玉育児院発祥之地」碑だったの。その碑文を転載しておきますが、歴史上には時として聖者のような人が現れるものなのね。
〔 埼玉育児院発祥之地 〕 大乗山安養寺住職小島乗真師(1878-1931)は、明治天皇の崩御に際し、その聖徳を偲び、兼ねてからの貧孤児救済の素意を実現するため、大正元年(1912)独力で寺内に積徳育児院を創立した。埼玉県における育児院の嚆矢である。翌2年11月、院児12名(内乳児6名)乳母2名使丁1名であった。然しながら院は全くの孤立無援であり、経営は困難を極めた。また麻疹の流行により、院児6名を失なう惨事にも遭遇した。4年1月社会への貢献が認められ、比企郡教育会により表彰され漸くにして愁眉を開くことが出来た。同年4月埼玉育児院と名称が改められた。5年11月、素封家入間学友会頭発智庄平氏の来院を契機に渋沢栄一子爵始め県内有力者の理解と協力を得るに至った。そして社団法人の設立が進められ、その認可は7年2月であった。この間、乗真師は自らの山林(八反三畝十四歩)畑(六畝四歩)を処分して創立以来の院の負債を清算し、6年12月東松山市に移転した。
社団法人埼玉育児院は渋沢子爵岡田知事を名誉顧問に県下九郡長や名望家を加えた堂々たる陣営であった。院長は発智庄平氏、小島乗真師は理事教養主任(院父)であった。院はその後、川越市笠幡の発智氏の長屋に、更に現在地に移り、埼玉最古の育児院として70余年の歴史と伝統を継承している。因みに乗真師は大正10年頃院を退き、昭和6年(1931)、東京に於て逝去された。まさに先駆者としの受難の生涯であった。この地に、この人を得て、崇高なる事業が創められたことに無限の感慨と、深い意義を覚えるのである。感懐一首 小夜更けて しばし捨て児の 泣きやむは 母が添ひ乳の 夢や見るらむ 〔 小島乗真 〕
昭和59年(1984)甲子5月24日 〔 中略 〕 撰文書 千手院住職 浅見覚堂
10. 大蔵館跡 おおくらやかたあと
車道の傍らに石碑が建てられ、南無馬頭観世音菩薩と陰刻されていたので最初は馬頭観音の供養塔だと思ったのですが、碑面には「久寿二年八月十六日 大蔵館 源氏一族一門 南無馬頭観世音大菩薩 平氏一族一門 平成二年天庚午八月十六日 当山山主行光院日世大澤霊明光良代」とあり、裏には「当所御所ヶ谷戸、御堀内に参し奉、当家久寿二年八月十六日大蔵館夜討愛馬一切霊の為に当地御堀に大行院社殿を建て帯刀先生源義賢御供養の為、参るなり」と記されることから、源氏及び平家一族の霊を弔う供養塔であり、大蔵館跡を示す石標でもあったの。
碑文にある行光院のことが気になり調べてみたのですが分からなくて、それとも単なる大行院の間違いかしら?取り敢えず、ここでは碑文のままを掲載しておきますが、記されている内容からすると、大行院は当地で源義賢の菩提供養のために一宇を建て、併せて戦闘で死んだ馬達の霊を弔ったことがその始まりとなるわね。残念ながらいつ来たのかまでは触れられてはいないの。因みに、久寿2年(1155)8/16とあるのは義賢の没年で、幾ら何でもその日に来たとは考えられないわよね。
古城蹟 村の西方にあり 方一町許 構の内に稻荷社あり 今は大抵陸田となれり から堀及び塘の蹟殘れり 此より西方に小名堀ノ内と云あり 昔は此邊までも構の内にて 帶刀先生義賢の館蹟なりと云 されど【東鑑】に義賢は久壽2年(1155)8月武藏國大倉館に於て 鎌倉惡源太義平が爲に 討亡ぼさるとあり 此事は【平治物語】【百練抄】等にも載たれど 事實の詳なることは記録なし 大藏と云地名は多磨郡にもあれど 當所義賢墳墓あり 又郡中に義賢につかへしものの子孫遺るときは 此所義賢が舊跡なること疑ふべからず【風土記稿】
ここで、三つほど大蔵館跡の案内板を紹介してみますが、内容が微妙に異なるの。建てられた年度順に並べておきましたので、その違いをお楽しみ下さいね。それにしても同じ大蔵館跡の案内板がこんなにあるとは思いもしなかったわ。
埼玉県指定史跡 大蔵館跡 指定:昭和9年(1934)3月31日 面積:東西170m 南北215m 時代:平安時代末期
大蔵館跡は平安時代の末期の頃、六条判官源為義の次男・義賢が仁平2年(1152)から久寿2年(1155)まで館を構えていたと伝わり、御所ヶ谷と堀ノ内にわたり土塁や空湟の一部が現存し、県下でも古い館跡と云う。義賢は近衛天皇東宮時代の侍従の長で、当時この職を帯刀先生と称した。久寿2年(1155)8月16日、義賢は兄義朝の長男義平に、この地にて討たれた。平治物語では、これを大蔵の戦と云い、今より約820年前も昔の事である。尚、義賢の遺児駒王丸は、畠山重能・斎藤実盛に助けられ、木曽の中原兼遠の許へ送られ、後年旭将軍木曽義仲として天下に名声を轟かした。昭和49年(1974)2月 嵐山町教育委員会
〔 大蔵館跡 〕 大蔵館は源氏の棟梁六条判官源為義の次子・東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川を臨む台地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は東西170m・南北200m余りであったと思われる。館のあった名残りか、館跡のある地名は御所ヶ谷戸及び堀之内と呼ばれる。現存遺構としては土塁・空堀などがあり、殊に東面100m地点の竹林内(大澤知助氏宅)には土塁の残存がはっきり認められる。また、嘗ては高見櫓の跡もあった。尚、館跡地内には伝城山稲荷と大蔵神社がある。源義賢は当地を拠点として武威を高めたが、久寿2年(1155)8月16日源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。義賢の次子で当時2歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛に依り木曽の中原兼遠に預けられた。これが後の旭将軍木曽義仲である。昭和50年(1975)3月 埼玉県
埼玉県指定史跡 大蔵館跡 昭和9年(1934)3月31日指定
大蔵館跡は平安時代の末期、帯刀先生源義賢に依って築かれたと伝えられている。館跡の四隅にそれぞれ土塁、空堀が残っており、これから推定される館の規模は東西170-200mm、南北220mである。また館跡の内外には「御所ヶ谷戸」「堀之内」「高御蔵(高見櫓)」など、館のあったことを示す小字名もある。館の東方100mには、鎌倉街道が南北に通過しており、館の入口は街道に面して東方に設けられている。館の中核は、南西の一画に一段高く土盛りされている現在の大蔵神社付近と考えられるが、現存する大蔵館跡の規模は、必ずしも義賢当時のままとは云えない。嵐山町周辺は、南北朝〜室町、戦国時代にかけて戦乱の絶えなかった地域であり、そうした時代にも軍事上の重要拠点として幾度となく造りかえられて利用されていたようである。〔大蔵館跡実測図略す〕昭和61年(1986)3月 埼玉県教育委員会 嵐山町教育委員会
ここで後々のこともあるので、ちょっと歴史のお勉強を(笑)。久寿2年(1155)相模国を本貫地とする源義朝と武蔵国比企郡大蔵の源義賢との間に不和が生じ、義朝は鎌倉に下向していた嫡男・義平に義賢の追討を命じるの。異母とは云え、義朝・義賢は兄弟、義平も義賢にすれば甥叔父の関係で、まさに同族戦なの。その義平は義賢の居館・大蔵館を襲撃すると義賢を討ち取ってしまうの。But 義賢の嫡男・駒王丸の所在が分からず、畠山重能に見つけ出してその首をはねるよう厳命して鎌倉へ帰還するの。重能は探索の末、義賢の側室・小枝御前と駒王丸、そして下郎の孫太郎の三人が潜むところを見つけ出したのですが、いざ駒王丸を目の前にしてみれば僅か二歳の子供、刃を向けるには余りにも幼すぎて、ましてや源家の棟梁・八幡太郎義家の血筋、このまま殺してしまうには口惜しい、いざ、助けまいらせん−と思ったの。かと云って重能が庇護する訳にもゆかず、頼りにしたのが斎藤別当実盛だったの。実盛も当初は義朝の麾下にいたのですが、義賢につき、その義賢を失うと再び義朝の麾下に戻るの。その中で二人の接点が出来ていたのかも知れないわね。それはさておき、駒王丸を預かってはみたものの、周りを見渡せば源氏の息の掛かった連中ばかり。いずれは事が露見して義朝の耳に入るやも知れず、そこで白羽の矢を立てたのが乳母夫の信濃権守中原兼遠なの。その兼遠の庇護の許で育てられた駒王丸こそが、後の木曽義仲なの。
11. 大蔵神社 おおくらじんじゃ
大蔵八坂神社の御神輿の由来は、記録に依ると今から164年前の天保7年(1836)6月に氏子の皆さんから御寄付を頂き造られたと考える。その後、明治8年(1875)にも氏子から御寄付を頂いた記録がある。当時を日本史で見ると、天明3年(1783)7月に浅間山の大噴火があり、その後の天変地異に依り天明7年(1787)までを天明の大飢饉、天保4年(1833)から10年までを天保の大飢饉と云われた年代で、相当の病人死人が出たと記録されている。正に大飢饉の最中に五穀豊穣身体健全を願って御神輿を造られたことが想定される。また、御獅子2体は明治20年(1887)に造られた記録がある。以来、毎夏御神輿と御獅子の渡御が盛大に行われて来た。時代の変化に伴い昭和40年代には一時御神輿の渡御が中止されていたが、大蔵町南会が昭和52年(1977)に設立され、本会が中心になり、翌年から渡御が復活したことは大変喜ばしいことである。そして平成元年(1990)には青少年の健全育成を願って氏子総代の成澤勝治氏が子供神輿を御寄進され現在に至っている。
しかし、現在の御神輿は老朽化が著しく、平成元年(1990)から夏祭りの残金を将来の御神輿購入資金の一部として特別積立をしてきた。ここで大行院大澤霊明氏の発案でミレニアム2000年を記念して、御神輿を新装しようと云うことになり、平成11年(1999)の区民総会に諮り、28名からなる大蔵神輿製作実行委員会をつくり、毎戸月額2,000円18ヶ月の積立御寄付を賛同願って造ることに決定した。実行委員会では東京浅草、群馬県高崎市及び県内関係地まで出向き検討を重ねて来たが、高崎市内の神具専門問屋で現品を確認して完成品で購入した。尚、今回の御神輿の製作にあたり、大行院大澤霊明氏には御助言と過分なる御芳志を頂き区民一同感謝申し上げるものである。以上、大蔵八坂神社の御神輿製作の由来を記し、後世に伝えるものである。撰文 富岡 秀 平成12年(2000)7月吉日 大蔵神輿製作実行委員会
12. 源義賢の墓 みなもとのよしかたのはか
【風土記稿】には「古墳 巽の方村民丈右衞門が持の畑中にあり 相傳ふ帶刀先生義賢が墳墓なりと 高さ三尺許とおぼしき塔なれども 半は土中に埋り 且五輪も缺損し 其中わずかに梵字を彫りたる 五輪の内の一石のみ殘れり それに雨覆ひをなし注連を引き 土人は尼御前の碑なりといへど これも定かならず」とあるように、実は、源義賢のものと伝えられるお墓は個人(新藤さん宅)の敷地内にあるの。記述には古墳とあるのですが、今は五輪塔が覆屋に護られてあるだけなの。通りからはこの鳥居を目印に訪ねてみて下さいね。参道を進むと正面に覆屋が見えてくるの。
〔 帶刀義賢史蹟保存之記 〕 武藏國比企郡大藏の地は往昔帶刀先生源義賢の居住の地なり 因て大正13年(1924)3月埼玉縣より義賢墳墓保存資金壹百圓を交付せられたり 抑も義賢は源家の後胤にして勇武絶倫 所謂關東武士の典型を發揮し 威を上武相の地に縱にせしことは 青史之を證して明なり 當時義賢當郷堀の内に本館を構へ 之を居城として附近鎌形に別業を設け この地に於て嗣子義仲を擧げしが 後故ありて其甥源太義平が爲に殺害せられ 遂に此に葬られたりと古老の口碑に傳ふる處なりしが 今や本縣史蹟調査會の審議に依り 其實績を證せられ 七百餘年後の今日 此恩典に浴したることは其靈も亦以て瞑すべし 茲に其由來を記して後世に傳ふと云爾 大正14年(1925)3月吉辰 保管主 新藤延平之を記す 原文起稿竝書 齋藤竹次
次は埼玉県と嵐山町教育委員会が建てた案内板の内容を転載しておきますね。
埼玉県指定史跡 源義賢墓 指定:大正13年(1924)3月31日 所在地:嵐山町大字大蔵字大東66 時代:平安末期
この五輪塔は、火輪部と水輪部のみ残存しており、空輪部と地輪部は後から補われたもので、風輪部は欠損しています。材質は、凝灰岩製で、火災にあったためか変色の痕が見られ、損傷も激しかったため、昭和52年(1977)に東京国立文化財研究所により修理処理されました。この形は、いわゆる古式五輪塔と呼ばれ、県内に所在する五輪塔の中では最古の例です。尚、この墓は義賢ゆかりの人々が供養のために建立したものと考えられます。(源氏系図並びに五輪塔図省略す)五輪塔は本来供養のために建てられましたが、後には墓石として建てられるようになりました。密教の宇宙観より、上から空・風・火・水・地として、五大の考え方を表しています。平成4年(1992)9月 嵐山町教育委員会
家人の方は今でも義賢さまと呼んでいらっしゃるの。その五輪塔は個人の敷地内にあると云うこともあり、参道の整備や覆屋の建築維持管理なども皆個人負担で行っているそうよ。案内文には東京国立文化財研究所の手に依り修復されたことが記されていますが、その時も県の指定史跡となっていることからてっきり県からお金を出して貰えると思っていたのですが、一銭の援助もなくて、結局個人負担になってしまったのだとか。時間に任せて公私にわたる昔話を色々と聞かせて頂きましたが、引き継がれてきた新藤家のDNAがあればこその義賢墓ね。余談ですが、家人のお話しに依ると、鳥居の立つ脇に柿の木があるのですが、昔、その辺りに小さな庵があって、将軍沢の明光寺の庵主さまがそこに寝泊まりして義賢さまの霊を弔って下さっていたのですが、いつの頃からか姿が見えなくなってしまって、本山に帰られたのかも知れませんが、そんなこともあったんですよ−とも。
13. 源氏三代供養塔 げんじさんだいくようとう
道を隔てて源義賢墓の反対側には源氏三代供養塔が建てられていたの。同じ源氏でもここでの三代は義賢・義仲・義高のことで、供養塔は平成18年(2006)の建立と新しいものですが、それぞれ「久寿二年八月十六日 大蔵院殿本源義法印大居士 大蔵館主 東宮御所 帯刀先生 源義賢公」「寿永三年一月二十一日 征夷大将軍 義山宣公大居士 源義賢公嫡子 源義仲公 近江国粟津ヶ原没 行年三十一歳」「元暦元年四月二十六日 清水院殿神徳義高入間大居士 源義仲公嫡子源義高公 武蔵国入間河原没 行年十二歳」と刻まれているの。その三代供養塔を供奉するようにして家臣達の供養塔が立ち並ぶの。
ところで、義賢と並んで妙徳の法号を記す供養塔が建てられていたの。銘には「至徳元甲子年(1384)十一月 日 妙徳」とあるので、明らかに義賢とは生きた時代が異なるのですが、どんな方なのかしら、義賢との関係も気になるわね。
帯刀先生源義賢公は源氏の棟梁源為義の次男で木曽義仲公の父である。義賢公は河越重隆の養君となり、この地大蔵に館を構えていたが、久寿2年(1155)大蔵の合戦で兄である義朝の長男・悪源太義平に討たれ悲運の最期を遂げた。新藤家には義賢公の墓とされる五輪塔が祀られている。尚、この時、2歳の駒王丸(後の義仲公)は畠山重能・斎藤別当実盛らにより木曽の中原兼遠の許へ送り届けられた。大蔵で生まれ、木曽で成長した義仲公は平家追討の命旨を受け挙兵し、寿永2年(1183)には京都に入り、後白河法皇から朝日将軍の称号を賜った。しかし翌、元暦元年(1184)、源頼朝が派遣した源範頼・義経軍に敗れ、近江国粟津ヶ原で討ち死にし、波乱に満ちた31年の生涯を閉じた。
義仲公の長男である清水冠者義高公は、鎌倉へ人質として送られ、頼朝の長女大姫の許婚として日々を送っていたが、元暦元年(1184)父・義仲公の死を聞いた義高公は密かに鎌倉を出立し、父・祖父ゆかりの大蔵の地を目指し鎌倉街道を北上したが、同年4月、頼朝の追手により入間川で討ち取られた。僅か12年の生涯であった。この供養塔は、義賢公・義仲公・義高公ゆかりのこの大蔵の地に於いて、志半ばで倒れた悲運の武将・義仲公・義高公を祀り、新藤家の義賢公墓とあわせ、源氏三代の菩提を弔い、供養するものである。平成18年(2006)11月13日 大行院
14. 根岸の子育観音 ねぎしのこそだてかんのん
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