越生で名の知れた観光名所として挙げられるのが越生梅林と共に今回紹介する黒山三滝。訪ねるのであれば紅葉の頃がベストシーズンと知り、出掛けてみたのですが、既にピークを過ぎていたの。その後、季節を違えて出掛けてはいるのですが、紅葉期を捉えて訪ねる機会もなく終えているの。なので季節のごちゃ混ぜ状態での紹介になりますが御容赦下さいね。掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 越生駅(JR八高線・東武越生線) おごせえき
2. 黒山BS くろやまばすてい
首は官軍によって越生に晒されたが、胴体は村人の手により全洞院に葬られ、「ダッソ様」(脱走様)と呼ばれた。尚、岩の脇のグミは平九郎の血を吸ったため、その実は平九郎の血を宿すと云われ、「平九郎グミ」と呼ばれ、後年、一族の渋沢栄一、渋沢敬三らによって碑が建てられている。昭和58年(1983)3月 埼玉県
橋を渡った左手には格子窓の小堂が見えますが、実は「お手洗い」だったの。「おひまつぶし処 年中無休」と案内されていましたが、粋なネーミングね。加えて、近在の方が清掃をして下さっているようで、綺麗でしたよ。
嘗てこの地には聖護院本山派修験二十七先達の一つに数えられた山本坊があったの。開祖は(箱根山別当相馬掃部介時良入道山本大坊)栄円で、応永2年(1395)に箱根山別当を辞するとこの黒山に移り来て、応永5年(1398)に熊野神社の前身となる将門宮を創始したの。栄円は黒山三滝のそれぞれを紀州(現:和歌山県)熊野三山の本宮・那智・新宮に見たて、将門宮を関東に修験道を広めるための拠点としたの。早い話が熊野霊場のサブセット版を黒山の地に開創したと云う訳。社殿右手の平地には社務所が建ちますが、嘗ての山本坊の屋敷跡になるの。
ここで気になるのが将門宮の名称ね。実は、山本坊を開創した栄円は平将門の末裔であるとの伝承があるの。平将門自身は天慶2年(939)からの「平将門の乱」で討ち死するのですが、妾腹の子がこの地に逃れ来て隠れ住んだとされ、栄円はその13代目に当たるとされるの。残念ながら未確認で終えていますが、その栄円が最初に隠れ住んだ場所も、同じ黒山でも更に奥まった小字宗ヶ入(そうがいり)で、熊野社(=将門宮)にしても、【武蔵国郡村誌】には「甚嶮なり 絶頂に金毘羅の小祠あり 俗に嶽岩と稱す 一説に紀州熊野の宮を最初此嶽に移し 夫より熊野ヶ岡に轉せしと云ふ」とあるように、当初は獄岩(たけいわ=熊野ヶ嶽とも)と呼ばれる地に建てられたと云われているの。現在の熊野神社からすると2Km以上も西側に位置していたことになるわね。
熊野社が現在地に遷されて来たのはいつ頃のことなのかは分かりませんが、山本坊も江戸時代になると幕府の政策から定住を強いられるようになり、天正年間(1573-92)、第10世栄龍の代に西戸村(現:入間郡毛呂山町西戸)を開き、慶長8年(1603)に本坊を移しているの。盛時には傘下に150ヶ寺を治め、武蔵国の入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国及び常陸国六郡を支配し、京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられたの。旧山本坊ですが、本拠を西戸村に移した後も越生山本坊として残されていたみたいね。【新編武蔵風土記稿】の熊野社の項には神楽堂や薬師如来像を安置する本地堂の名も見えることから、それなりの陣容を構えていたみたいね。加えて、同じ黒山の地に山本坊配下の寺院として覚浄院・徳正院の二寺があったことも記されているの。
その山本坊も明治元年(1868)に発布された神仏分離令を受け、第25代徳栄はやむなく還俗して神主となり、相馬修理と改名したの。更に明治5年(1872)には追い打ちを掛けるようにして太政官布告第273号、通称・修験道廃止令が出されて息の根を止められてしまったの。相馬家は全ての権益を失い帰農し、山本坊は栄円の開創以来470余年にわたる長い歴史の幕を閉じたの。一方の越生山本坊ですが、地元の人達の支援があったのでしょうね、同じ明治5年(1872)に村社へ列格されているの。熊野神社へと改称したのはその時のことみたいね。
社殿右手には熊野神社社殿建設誌が建てられていますが、以前の社殿は昭和60年(1985)に不審火で焼失、氏子崇敬者の浄財、神社関係者復興資金並びに神社所有地山林の一部の売却代金を元に、総工費何と¥3,4300,000を以て昭和63年(1988)に再建されたことが記されているの。不審火に依る焼失とは哀し過ぎますが、村の鎮守様にも関わらず、高額な建築費用を短期間の内に集めて再建しているあたりは、地元の方々が当社に寄せる思いを象徴しているわね。
5. 黒山三滝入口 くろやまさんたきいりぐち
熊野神社からは100m足らずで黒山三滝入口の三叉路に辿り着きますが、傍らには越生町を流れる越辺川の起点を示す標識が建てられているの。標識には誰も気に留めることもなく、そのまま黒山三滝に足を向けてしまいますが、越生町の山間いに源を発した河川の全ては最終的にはこの越辺川に流れ込むの。「越生の散策・越生梅林梅まつり」の 道灌橋 の項でも御案内していますが、越辺川の語源をめぐっては、アイヌ語由来説や朝鮮語起源説があるの。アイヌ語では「ぺ」や「べ」は川を意味し、朝鮮語では「オッ」「ペッ」共に布などの織物を表すことばなのだとか。
ここでちょっと寄り道をしますね。
黒山三滝入口から少し足を延ばしたところに渋沢平九郎自刃地があるの。
6. 渋沢平九郎自刃地 しぶさわへいくろうじじんのち
飯能戦争は慶応4年(1868)彰義隊から別れた振武軍と追撃してきた討幕軍(官軍)との間に発生した維新戦乱の一つである。優勢な官軍の攻撃の前に飯能市能仁寺の本営は落ち、振武軍は奥武蔵山中に敗走した。副将として参加していた渋沢栄一の養子である渋沢平九郎は、顔振峠を経て黒山へ逃れてきたが、待ち構えていた官軍に包囲され、22歳の若さで自刃した。ここに平九郎グミと呼ばれるグミの木があり、平九郎の血を宿していると云う。環境庁・埼玉県
実は、先程訪ねた全洞院の墓苑にはその渋沢平九郎のお墓があるの。と云っても実際に納められたのは胴体のみなの。ちょっと生々しすぎて墓苑に立ち入るのが躊躇われて未体験で終えていますが、どうやら最初から渋沢平九郎の亡骸と知って葬られた訳ではないみたいね。越生叢書【おごせの文化財】に依ると、飯能戦争に敗れた振武軍隊士の一人が顔振峠を経てこの黒山へ逃れて来たのですが、不運にも討幕軍に出くわしてしまい、孤軍奮闘するも多勢に無勢、抗し難きを悟ると傍らの岩に座し、自刃して果てたと云うの。その首は越生今市宿に運ばれて梟首台に晒され、一方、捨て置かれたままの亡骸を哀れに思った村人達は胴体を全洞院に埋葬したの。位牌には「大道即了居士 俗名知らず 江戸のお方にて候 黒山村にて討死」と記され、その哀れな末期に黒山の村人達は「脱走(だっそ)さま」と呼んで同情を寄せたと云うの。
惜しまるる時 散りてこそ 世の中の 人も人なれ 花も花なれ
いたずらに 身はくださじな たらちねの 国のためにと 生きにしものを
晒されていた首も密かに法恩寺に埋葬されたのですが、その隊士が振武軍副頭取・尾高惇忠(おだかあつただ)の弟・平九郎と知れたのは事件後数年を経てからのことなの。姓が異なることから奇異に思われるかも知れませんが、平九郎は渋沢栄一が渡仏する際に見立養子となり、渋沢姓を名乗っていたの。見立養子とは家督を継ぐ者がいない当主が海外に赴く際には、事故などの不測の事態に備えて事前に養子を迎える制度で、平九郎は渋沢栄一の許に嫁いでいた千代の実の弟でもあったの。
後に平九郎の亡骸は首と共に東京・上野にある渋沢家の墓地に改葬(∴全洞院のそれはお墓と云うよりも胴塚ね)されているのですが、渋沢栄一・尾高惇忠の両氏は越生に訪ね来て村人達に謝意を伝えているの。時を経て昭和29年(1954)には自刃岩に渋沢平九郎自決之地碑が建立され、昭和39年(1964)には法恩寺にも渋沢平九郎埋首之碑が建てられたの。
7. 黒山三滝入口 くろやまさんたきいりぐち
右奉申上候 拙者所有地字風傳にて畑の内壱ヶ所の水溜りあり 彼の水中に湯の花に異ならさるものあり 其臭氣果して硫酸の質あり 是を汲み衆人浴するに疝氣・痔病等治する者多し 依て近傍の人民追々試みるに其效能有と雖も 全く其病時至て治するや 又 其能ありや 未た實決する事不能 雖然近傍の病者日増群集するに主は其質の可否を知らず 還て人身を暴害なさんも難計ければ 彼の水質一瓶を進呈す 何卒御檢査被成下良否得失被仰聞 醫員の補益とも相成に於ては 浴場の御許可被り度 此段奉願上候也
8. 大善寺跡 だいぜんじあと
越辺川の水源で藤原の出合い近くの秩父古成層の断層を流れ落ちる男滝、女滝、天狗滝を総称して黒山三滝と云う。この辺りは古くから修験の道場として栄え、江戸時代中頃からは、信仰と遊山を兼ねたレクリエーション場として賑わった。特に男滝、女滝は形の美しさから、江戸市民が多数訪れており、江戸吉原講中の道標が残されている。明治に入り、鉱泉が発見されると、新緑・納涼・紅葉狩りにと四季折々訪れる人が後を絶たない。昭和25年(1950)に日本観光地百選、瀑布の部で第9位に選ばれている。また、近くには暖地性植物の宝庫と云われる藤原入があり「アカネカズラ」の自生地は、北限の自生地として知られ、天然記念物に指定されている。その他、天狗滝奥の大平山には修験者栄円の墓や、役の行者像がある。昭和58年(1983)3月 埼玉県
天狗滝に接近遭遇してみたい方は上の画像をクリックよ。
全部で8枚程アップしてありますが、スライドは手動操作ですので御協力下さいね。
更に三滝川沿いの道を辿るとお土産屋さんの建物が見えてくるの。左手には赤い手摺りの小橋が架けられていますが、この小橋の先は先程触れた越生ハイキングコースへと続いていたの。そうと分かっていたら天狗滝の上からはこの小橋に向かって素直に下って来たものを、知らずにわざわざ天狗滝の入口まで戻り、再び坂道を上って遠回りして来た愚かなξ^_^ξでした。因みに、石段の左手にはお手洗いがあるの。三滝入口にも綺麗なお手洗いがありますが、景色を眺めながらだと往復するには優に一時間は必要なの。お手洗いがあることを覚えておくと安心出来るわよね。それはさておき、建物の右手に見える石段を上った先に今回の散策の最終目的地となる男滝と女滝があるの。
滝の手前には休憩所がありましたが、嘗ては元治元年(1864)に創建されたと云われる長命寺があり、休憩所がある場所には蔵王堂が建てられていたみたいね。その長命寺も天狗滝入口の新宮と同じく、明治43年(1910)の大洪水で倒潰流失してしまったの。蔵王堂にはその名の如く修験道の本尊とされる蔵王権現が祀られ、赤堂とも呼ばれていたと云うのですが、赤は閼伽からの転化ね。閼伽は功徳水を表すサンスクリット語の arghya の音訳で、神聖なる水を意味するの。修験者は滝水に打たれる荒行をする前に蔵王堂(赤堂)で禊ぎをしてから滝壺に向かったのでしょうね。建物の右手崖上には不動明王の象徴とされる大きな宝剣塔も建てられているの。
10. 男滝・女滝 おだき・めだき
最後に男滝と女滝の景観を7枚ほど纏めてアップしておきますね。左端が男滝で、中央は二つを一緒に撮してみたものですが、両方の滝を滝壺まで含めて一枚に収めようとすると崖をよじ登らない限り無理ね。続いて女滝になるのですが、いずれもξ^_^ξの拙い写真では迫力が伝えられず、ごめんなさい。みなさんもお出掛けの上で御自身の目と耳でお確かめ下さいね。
散策の最後を飾ってくれた男滝・女滝ですが、滝は二段からなり、上流側で落差11mを流れ落ちているのが男滝で、その流れを受けて落差5mの女滝があるの。男滝の方が落差があるだけに流れ落ちる姿は豪快なのですが、滝壺はむしろ女滝の方が水量が多くて轟音をあげていたの。最後までお付き合い下さったあなたにスペシャル・プレゼント。その男滝・女滝の流れ落ちる様子をちょこっと動画に収めて来ましたので御楽しみ下さいね。But 画質とカメラワークには目を瞑って下さいね(笑)。
11. 黒山BS くろやまばすてい
冒頭でも触れましたが、黒山三滝を訪ねるには紅葉シーズンがベストと聞いてはいたのですが、訪ねた時には既に見頃を過ぎてしまっていたの。その後も幾度か越生町を訪ねていながら、黒山三滝の紅葉をめでることなく終えているので、まともな紅葉の紹介が出来なくてごめんなさい。その黒山三滝が、嘗ては修行地として修験者や修行僧を多く集めていたことは帰宅後に調べて初めて知ったの。江戸時代になると越生の出身者だった吉原遊郭の副名主・尾張屋三平が男滝・女滝が寄り添いながら流れ落ちる姿を男女和合の象徴として紹介すると、江戸市中からは多くの物見遊山の行楽客が訪ね来るようになり、更に明治期になると鉱泉も発見され、観光名所の仲間入りを果たしたの。嘗ては佐々木信綱を始め、田山花袋や野口雨情らの文人も訪ね来た黒山ですが、時を経た今ではその名残りも僅かに石碑などに刻まれるだけになってしまい、盛時の賑わいは今いずこ?−が正直な感想ですが、鄙びた風情に身を任せながら三滝を辿れば、浄衣を纏う山伏が滝水に打たれて荒行する姿も瞼に浮かんでくるかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
東京堂出版社刊 神話伝説辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
越生町教育委員会編 越生叢書・おごせの文化財
越生町教育委員会編 越生の歴史 全巻
鳩山町発行 鳩山町史編集委員会編 鳩山の修験
山吹の会発行 尾崎孝著 道灌紀行
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