禅宗系寺院と云えば関東近県では鎌倉の円覚寺や建長寺が広く知られていますが、埼玉県の新座市にある平林寺も臨済宗妙心寺派の別格本山の格式を有し、幕府老中を務めた松平伊豆守信綱を筆頭に大河内松平家の菩提寺となるなど、由緒正しき古刹なの。国の天然記念物に指定される境内林も散策してみましたので併せて紹介しますね。尚、掲載する画像は幾れも拡大表示が可能ですので、気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。
1. 総門(惣門) そうもん 県指定有形文化財
ここで、境内の散策を始める前に、平林寺の略縁起を紹介しておきますね。【新編武蔵国風土記稿】(以降、風土記稿と略す)には「境内六萬坪餘、金鳳山と號し臨濟宗にて京師妙心寺の末山なり、寺領五十石を賜へり、境内のめぐり多磨川分水を引て限れりといへり、寺の後の方は喬木をひしけりて山野の如し、是を上山と唱ふ、當寺はもと埼玉郡平林寺村に在てことに古刹なりしが、寛文の頃此地へ移れり、寺傳云永和元年春桂菴主此寺を岩槻に草造し、石室和尚をこふて開山とす」とあるように、元々は武州岩槻平林寺村(現・さいたま市岩槻区)にあったもので、永和元年(1375)に岩槻城主・大田備中守春桂蘊沢が当時の鎌倉建長寺住持の 石室善玖 禅師を開山に迎えて創建した寺院なの。
それがどうして今はこの地にあるの?と思うわよね。【風土記稿】には引き続き「當寺始は堂舍も莊嚴なりしが、後次第に衰へゆき、ことに關東の地年を經てをだやかならずしばゝ戰爭の場となりしかば、僧侶もこれが為に所を失ひ、住持すべきものあらざれば、或は斷或は續て堂社子院もたゞ破滅の患をまぬかれしのみなり〔 中略 〕後つくべき者なかりしかば、東照宮の命により、駿河國臨濟寺の住僧鐵山和尚をまねき下し住職をつかしめ給ひ、御朱印をも賜ふべきよしなりしが、鐵山固く辭し奉れり、其心におもへりしは、もし寺料あまた賜はらば、 僧徒衣食の便を得て、勸業もをこたりなば卻て道も衰へゆかんと、其志はさることなれど、年歴て後寺領なくば衰廢せしことを、深くなげき思召、再び塔頭聨芳軒の住持謙叟和尚をめし、強て御朱印を賜ひしとなり、鐵山名鈍元和三年十月八日寂し、靈光佛眼禪師と諡せり、夫より世を經て寛文の初石院和尚住職たりしとき、松平伊豆守信綱此寺を今の地へ移すべきの企てありしかど、それも果さずして同き三年に至り、其子甲斐守輝綱、父の志を繼てやがてこゝに移し來り、父信綱を初め悉く改葬せり、此より寺領をも改めて村内西堀村にて賜へりて」とあるの。
寺勢が衰えつつある中で戦国時代を迎えた平林寺は戦禍を受けて堂宇の盡くを焼失してしまい、唯一事なきを得たのが塔頭の聯芳軒(れんぽうけん)だったの。その聯芳軒に鷹狩りの際に立ち寄ったのが徳川家康で、由緒ある寺院の荒廃を嘆いた家康は再興を支援、平林寺を中興すべく知己を得ていた駿河国臨濟寺の鉄山宗鈍禅師を招き入れ、朱印状も下賜しようとしたの。寺院の維持・経営には綺麗事じゃなくてお金が要るわよね。But 鉄山禅師は折角の家康の申し出でを拒否してしまうの。衣食住が事足りてしまうと仏道修行も疎かになり、求道精神が萎えてしまうと云うわけ。そうは云っても収入を得る手立てが無くてはいずれ衰退してしまうのは必定、禅師はああ云っておるが、何とか助けてやらねば−と思ったのでしょうね、家康は苦肉の策として塔頭・聨芳軒の住僧・謙叟和尚に朱印状を下賜することにしたの。家康と鉄山禅師、立場は違えど、互いの信頼関係があればこその逸話よね。
加えて、家康の家臣・大河内秀綱が平林寺の大檀那となり、大河内家の菩提寺として伽藍の整備を行うの。秀綱が大檀那となる経緯ですが、自分の母親が死去した際に平林寺に埋葬したことから繋がりが出来たみたいね。その秀綱の孫に当たる松平伊豆守信綱は川越藩主になったのを機に、菩提寺である平林寺を現在地に移転しようとするの。併せて江戸城登城時の宿坊として利用することも考えていたみたいね。残念ながら実現を見ずに寛文2年(1662)に67歳で死去してしまいますが、長男の輝綱がその遺命を引き継ぎ、この野火止に移転させたの。大河内松平家廟所のみならず、墓所には岩槻時代の年号を刻む墓塔も数多くあるので、建物だけじゃなく、一切合切を移してきたみたいね。
2. 山門(三門) さんもん 県指定有形文化財
一方は「あ」の形に口を開いていることから阿形像、もう片方は口をギュッと結ぶ「ん」の口許をしているので吽形像と呼ばれているの。巷で云われる「阿吽の呼吸」はここから生まれ出たことばで、元々は一体だったのですから当たり前と云えば当たり前なのですが、二体に分かれた今でも、それこそ阿吽の呼吸で寺院を守護していると云うわけ。やましい心を持つ人の拝観も拒絶する仁王さまですので、くれぐれも金剛杵が飛んで来ないように気をつけて下さいね。
残念ながら拝観することは出来ませんが、楼上に設けられた須弥壇には釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊仏が祀られ、十六羅漢が脇侍するの。像は幾れも岩槻時代の寛永15年(1638)に松平伊豆守信綱が奉納したもので、三門と共に旧平林寺を偲ばせる貴重な遺産となっているの。
3. さざれ石 さざれいし
〔 さざれ石 〕 島根県出雲仏教山産
4. 高野槇 こうやまき
ここからはξ^_^ξの勝手推論モードですので鵜呑みにされても困るのですが、高野槇の推定樹齢と、平林寺(岩槻)の創建が永和元年(1375)であることから推して、開創当初に植樹されたものと考えられなくもないわね。だとすると、開山の石室善玖禅師お手植えの可能性が出てくるの。もしそうであれば、平林寺の面子にかけて(笑)移植しなくてはならなくなるわね。以上、戯れ言でした。
5. 野火止用水 のびどめようすい (平林寺堀)
〔 野火止用水 〕 埼玉県指定史跡 昭和19年(1944)3月31日指定
野火止用水は、承応4年(1655)に、川越城主であった松平伊豆守信綱により、武蔵野開発の一環として野火止台地開発のために開削された用水路で、開拓農民が必要とする生活用水の確保を主目的としたものです。用水路は、多摩郡小川村(現在の東京都小平市)から野火止台地を経て新河岸川に至るまでの全長25kmに及びます。信綱は、川越に入府以来、領内の新田開発を推進する一方、原野のままで開発の遅れている台地の開発に着手し、承応2年(1653)野火止台地に農家55戸を入植させ開墾にあたらせました。しかし、関東ローム層の高燥な台地は飲料水さえ満足に得られない土地であったため、開拓農民の困窮は甚だしいものがありました。承応3年(1654)当時老中職にあった信綱は、玉川上水の開削の功により同上水路から三分の分水許可を幕府より得て、翌4年(1655)家臣の安松金右衛門に命じて、この地方の飲料水として野火止用水の開削にとりかかりました。開削工事は、承応4年(1655)2月10日から開始され、約40日後の3月20日頃に完成し、その後、平林寺堀などの幾つかの支流が開削されました。平成元年(1989)3月 新座市教育委員会・新座市文化財保護審議委員会
6. 戴渓堂 たいけいどう
高玄岱のことはさておき、調べてみると独立禅師はかなり異色の経歴の持ち主なの。元々は明(中国)の人で、儒学と医術を学び明朝の官吏となるの。一方で漢詩や書にも才能を発揮するなど、マルチ人間だったみたいね。ところが皮肉にも仕えていた明朝が清朝に滅ぼされてしまい、やむなく日本の長崎に遁れ来るの。永暦7年(1653)のことで、禅師(と云っても未だ僧侶ではなかったんだけど)は既に58歳の年齢を迎えていたの。その翌年、黄檗宗の開祖となる隠元隆g禅師が来朝し、興福寺(中国僧が創建した最初の唐寺)の住持となると、宗風大いに髏キするのを見た独立禅師は、隠元禅師の許で得度し独立性易と号するようになったの。万治元年(1658)には隠元禅師の徳川家綱謁見にも随行、その際に独立禅師の才能が高く評価され、噂を耳にしてこの平林寺に招いたのが松平伊豆守信綱だったと云うわけ。But 滞留を強く勧められながらも翌年には辞して長崎に帰り、後年は施薬医業を専らとして貧富の区別無く人々の救済にあたったそうよ。鎌倉極楽寺の忍性上人のことがふと頭をよぎりますが、独立禅師もまた希代の人物だったようね。
7. 鐘楼 しょうろう
下總國大寶寺村大寶寺、守護の八幡に掛し鐘銘に、大日本國武藏國崎西縣澁江郷金重村、金鳳山□□□寺云々、嘉慶元年丁卯歳、開山石室叟善玖謹書、大檀那藤原中務丞政行、慶雲禪寺比丘至光、小谷野三郎左衞門尉季公、奉行青木左近將監朝貫、染屋山城守修理助義次、逆井尾張守沙彌常宗とあり、是正しく當寺の古鐘にして、戰爭の比彼社へ移せしなるべし、是にても當寺創立の始は、殊に堂舎以下莊嚴なりしなといへる、寺傳の虚ならざる事證すべし
記述には「戰爭の比彼社へ移せしなるべし」とありますが、戦国時代を迎えて関東でも戦乱が続き、その際に略奪された釣鐘が行軍に携行され、銅鑼代わりに出撃時の号砲などに使用されることも多かったの。それでも戦乱後に所在が判明すれば幸運な方で、殆どは行方知れずのままとなっているの。そんな中で平林寺の開創当時の梵鐘が下總國大寶寺村大寶寺を守護する八幡神社(茨城県下妻市大宝にある大宝八幡宮)に残されていたと云うのは奇跡でもあるわね。残念ながら実地検証は出来ていませんが、現在は同八幡宮の宝物館に収蔵されているようね。【風土記稿】の記述とは異なりますが、参考までにその全文を紹介しておきますね。文字の欠損が数ヶ所ありますが、行軍時の邪険な扱いで文字が毀損してしまったみたいね。尚、転載にあたり、改行段落の類は一切無視していますので御容赦下さいね。
大日本國武藏州崎西縣澁江郷金重村金鳳山(三文字欠)寺 遍募衆檀縁 命工鑄大鐘 所集殊勲 上報四恩下資三有 法界群生倶霑利益者也 謹爲銘曰 乾竺模範 青石音聲 簨之則大 扣之則鳴 地雷殷(欠) 天樂鏗(欠) 覺長夜梦 警群類情 檀施増福 叢規大行 皇基永固 佛日彌明 嘉慶元年丁卯十一月十三日 開山石室善玖謹書 當代住持 禪璨 幹縁比丘 道選 大檀那沙彌薀沢 大工沙彌 道善
旧平林寺を開基したのは大田備中守春桂蘊沢のハズなのに、何故か【風土記稿】では大檀那として藤原中務丞政行の名を挙げていたりするの。列挙される功労者の名にしても違和感を覚えてしまうのですが、【風土記稿】は何を根拠に記したのかしら。それとも勘違いをしているのはξ^_^ξの方?
8. 仏殿(釈迦堂) ぶつでん 県指定有形文化財
9. 本堂 ほんどう
仏殿に続いてあるのが本堂への入口となる中門(県指定有形文化財)で、総門をそのまま小さくしたような造りは、遠目に見ても重量感があるわね。残念ながら本堂はこの中門と共に立入禁止区域にあり拝観は出来ないの。現在の本堂は旧本堂が火災で焼失してしまったことから明治13年(1880)に再建されたもので、昭和51年(1976)の改修時には萱の調達が困難なことから茅葺きから銅板葺きへの変更を余儀なくされてしまったのだとか。萱の調達が困難を極めつつある中で、文化遺産を維持していくのは大変なことよね。残念だけど、いずれ平林寺の伽藍も全てが銅板葺きになってしまうかも知れないわね。
本堂には本尊の釈迦如来坐像が安置されますが、元禄4年(1691)に川越藩主の松平信輝が寄進したものだそうよ。その釈迦如来像ですが、【風土記稿】には 相傳ふ昔甲斐守輝綱わかゝりしころ、三河國吉田川にて水練のことを學びけるとき、はからずも此釋迦の首を水中に得たりしかば、全體を修造し當寺に納めしなど寺僧はいへり−とあり、信輝と輝綱の違いがあるのですが、父の輝綱が水中で見つけたものを、後に信輝が平林寺に寄進したのかしら。それにしてもお釈迦さまの像の頭部だけが水中にあったというのも恐いものがあるわね(笑)。
10. 僧堂門 そうどうもん
11. 片割れ地蔵・経蔵・放生池・平和観音 かたわれじぞう・きょうぞう・ほうじょういけ・へいわかんのん
12. 下卵塔 しもらんとう
13.平林寺堀(野火止用水) へいりんじぼり
〔 野火止用水 〕 明暦元年(1655)川越城主・松平信綱は家臣の小畠助左衛門、安松金右衛門をして領地野火止に玉川上水より引水して、此の地の潤沢を期せしめたるが、寛文3年(1663)に至り、二代輝綱、遺命によりて騎西郡岩附(現・岩槻)に在りし祖先の菩提所なる金鳳山平林寺を野火止の地に移して諸堂宇を完備せしめ、先祖歴代の墳墓を寺後の丘上に営み、野火止用水を西堀より別に溝を穿ちて平林寺供養水として境内に引き至らしめた。用水路は最初30間位は岡地を穿ち、後の約10町は平地上に高さ6尺の土手を築き、その上を水流とせるものなり。寺の境内に入りて諸堂の後苑に至る。途中、墓地入口にて一流を分かち弁天池に至らしめ、後苑にて三支流を分かつ。
一流は本堂の後より書院の床下を廻り、庫裡の中を通り、前庭に至り、一流は後苑の築山を通り泉池に注ぎ、一流は築山の横を迂回して園内を廻流す。苑内にて三流合して一水となり、仏殿・山門の右側を流れて総門に至り、総門より大門通りを流れて川越街道に達せしむ。弁天池に注ぐ水路の溝は、地を穿ちて自然の趣を保ち、書院・庫裡等を廻流する部分は切石にて畳み、流水の浸蝕を防げり。平林寺は秩父連峰を背景に、南は駿河の富士山を望み、野趣閑雅なる所謂武蔵野の大平野の中にあり。裏山の楢、櫟等の自然林と共に、松・杉・梅・桜・楓等の鬱蒼なる大樹林に囲まれて塔堂伽藍聳え立ち、野火止用水の潺潺たる流水の音と両両相まって四季の風情は格別にして実に林泉の美を極めり。之れ唯だ関東のみならず我が国に於ける貴重なる存在なり。茲に審議の結果、史跡として地方的保存価値なるものなりと決定す。昭和19年(1944)2月 埼玉県
14.安松金右衛門と小畠助左衛門のお墓
大河内松平家の廟所の傍らにあるのが松平伊豆守信綱の重臣・安松金右衛門と小畠助左衛門のお墓なの。共に、松平伊豆守信綱の元で藩政の充実発展に努め、中でも玉川上水や野火止用水の開削には絶大な貢献をしたの。とりわけ安松金右衛門は算術や高度な土木技術を以て開削を陣頭指揮したの。元々は東京都新宿区にある菩提寺の大宗寺に葬られたのですが、昭和10年(1935)に改葬され、以後は野火止水利組合が供養することになったのだとか。死して尚、近習して主君に仕える忠臣の趣ですが、小畠助左衛門もまた野火止用水開削時の家老で、新田開発などにも功績があってのお話みたいね。
15.大河内松平家廟所 おおこうちまつだいらけびょうしょ
〔 松平伊豆守信綱公墓誌 〕 智恵伊豆と称された松平伊豆守信綱は、幕府の代官である大河内金兵衛久綱の長男として、慶長元年(1596)に生まれた。幼名を長四郎と云い、同6年(1601)久綱の弟で徳川家一門である長沢松平氏を相続していた松平正綱の養子となり、同9年(1604)7月に家光が誕生すると、信綱は召し出されて家光附きの小姓となった。元和6年(1620)養父である正綱に実子が生まれたので信綱は別家し、大河内松平を興した。同年500石、同9年(1623)小姓組番頭となり、加増されて800石を知行。同年7月、家光の上洛に供奉し、伏見において家光が三代将軍となると、信綱は従五位下伊豆守に叙任した。寛永元年(1624)信綱は二千石となり、同4年(1627)には一挙に八千石の加増を受けて一万石を領した。更に同7年(1630)には五千石を加増されている。この間、信綱の忠義な奉公ぶりと才智は、家光の絶大な信頼を得ていた。家光政権の確立の中で、同年11月に信綱は老中並となり、阿部忠秋・堀田正盛らと共に六人衆に任ぜられ、幕政に参画する。ついで10年(1633)5月信綱は一万五千石加増の上、武蔵忍城主となり三万石を領し、更に12年(1635)11月には信綱は忠秋・正盛と共に老中となった。こうして信綱は旗本から、幕閣且つ一国一城の主として出世を遂げたのである。
寛永14年(1637)10月九州島原の乱が起こり、信綱が将として派遣され、これを鎮定した。その功によって同16年(1639)川越城に転封され、三万石の加増を受けて六万石を領した。同20年(1643)侍従に進み、正保4年(1647)一万五千石を加増され、その所領は合せて七万五千石となった。信綱は三代将軍家光、四代家綱の老中として活躍し、幕府初期政治の基礎を固め、古今の名相とも謳われる一方、郷土の発展に尽くした功績も大きく、後の小江戸と称される川越の基礎をつくり、新河岸川の舟運を興したり、川越街道の整備なども行っている。また、承応4年(1655)には、玉川上水から野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し、荒野の開発を行った。信綱は、この野火止台地開発と共に所領の野火止村に、菩提寺である平林寺を岩槻から移転させることを切望したが果たせず、寛文2年(1662)3月16日に逝去した。享年67歳。法名は、松林院殿乾徳全梁大居士。初め岩槻の平林寺に埋葬されたが、この輝綱が父・信綱の遺命を守り、翌3年(1663)に平林寺の伽藍及び墓石に至るまで、現在地に移建したため、改葬されたものである。平成5年(1993)6月 新座市教育委員会・平林寺
川越城主・松平信綱公一族の墓所(現在、大河内家墓所)として埼玉県史跡にも指定される大河内松平家の廟所ですが、以前見学したことのある喜多院(川越)の松平大和守歴代藩主の廟所どころではないわね。それもそのハズ、何と3,000坪もの墓域に、宗家傍流を含めて、大河内家一族の墓石が170余基も建ち並んでいるの。因みに、信綱夫妻の墓塔にはそれぞれ「河越侍従松平伊豆守源信綱 松林院殿乾徳全梁大居士 寛文二壬寅年三月十六日」「源姓井上氏 隆光院殿太岳靜雲大姉 寛永十三丙子三月七日」と刻まれているの。奥様の方が先に亡くなられているようですが、信綱はちゃんと後添えを得ているみたいね(笑)。
16.平林寺境内林 へいりんじけいだいりん 国指定天然記念物
大河内松平家の廟所を過ぎて更に歩みを進めると、広大な雑木林が続くの。その雑木林を縫うようにして散策路が設けられていますが、街なかの喧騒が嘘のように、ここでは靜かな時間が流れているの。平林寺境内林は武蔵野雑木林の面影を残す貴重な文化遺産として昭和43年(1968)には国の天然記念物にも指定され、現在は東京ドーム9個分(43ha)もの広さになっているの。モミジも多く植栽されることから秋の紅葉シーズンは雑木林も赤や黄色に燃え上がり、多くの参詣客を迎えますが、この時期の境内林も緑がとっても色濃くて素敵よ。それに、所々で色付いた木々も見つけたの。紅葉と云うよりは木の種類なのでしょうが、深緑と紅葉が一度に楽しめた気分よ。
17.野火止塚 のびどめづか
九十九塚とも。この野火止塚は、和名抄に見る火田狩猟による野火を見張ったものか、焼畑耕法による火勢を見張ったものか定かでないが、野火の見張り台であったとする説が有力である。それは、この種の塚が古くからこの平野の名所にあって、その名残りを留めていた事でも判る。
お姫さまのお話は 長勝院旗桜 の頁で紹介済みなので、御覧頂いて既に御存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、冗長となるのを承知で再掲してみますね。次に訪ねる業平塚とも関連するのですが、時は平安時代の末頃のお話よ。この辺りを支配していた田面(たのもの)郡司藤原長勝(おさかつ or ちょうしょう)には、皐月前(さつきのまえ)と云う、それはそれは美しい娘がいたのですが、その娘に一目惚れしたのがかの有名なプレイボーイの在原業平で、東下して来た際に長勝の屋敷に滞在すると皐月前を見初めてしまったの。言葉巧みな誘惑と、業平の放つ都の香りに皐月前もすっかり惑わされてしまったのかも知れないわね。そうして恋におちた二人はとうとう駆け落ちしてしまったの。それを知った長勝は直ちに二人の探索を命ずるのですが、広〜い武蔵野のことゆえ、行方は杳として知れず、たまりかねた長勝は家来に野火を放つよう命じたの。やがてその猛火が二人の間近に迫り、もはやこれまでと観念した皐月前が「武蔵野は今日はなやきそ若草の つまもこもれり我もこもれり」と詠むと、不思議なことに、それまで燃えさかっていた野火が、いつの間にか消え失せていたの。そうして、見つかってしまった二人は長勝の家来の手により、館に連れ戻されてしまったの。後に、業平と皐月前の二人が隠れていた場所は業平塚と呼ばれるようになり、野火止の地名もこの故事に因んで名付けられたものだとか。
以上は、舘村(現在の志木市柏町三丁目を中心とした地域)の名主を務めていた宮原仲右衛門が享保12年(1727)から享保14年(1729)にかけて著した地誌【舘村旧記】に基づくお話ですが、【伊勢物語】にはちょっとニュアンスが違う形のお話が載るの。折角ですので紹介しておきますので、その違いをお楽しみ下さいね。意訳(でっち上げとも云う)も付記しましたので参考にして下さいね。
むかし、をとこありけり。人の娘を盗みて武蔵野へゐて行くほどに、盗人なりければ國の守にからめられにけり。女をば草叢の中にをきて逃げにけり。道来る人「この野は盗人あなり」とて火つけむとす。女、わびて「武蔵野はけふはな焼きそ 若草のつまもこもれり我もこもれり」とよみけるをききて、女をばとりて、ともにゐていにけり。【伊勢物語】
昔、一人の男がおってのお。とある娘を見初めた男は親元からその娘を盗むようにして駆け落ちしてしまったそうじゃ。そうして武蔵野まで逃げて来たんじゃが、好きおうた者同士の駆け落ちとは云え、人の娘を盗んだことには変わりなく、男は娘の親でもある国司に捕らえられてしまったのじゃ。男は最初は娘を草叢に隠して逃げようとしたんじゃが、追手の者が「どうやら盗人はこの野に逃げ込んだらしい」と野原に付け火するところじゃった。それを見た娘はすっかり困り果ててしまってのお、「武蔵野はけふはな焼きそ 若草のつまもこもれり我もこもれり( 武蔵野の、この野原をどうかきょうだけは焼かないで下さい。愛する夫と一緒に、私もこうして隠れているのですから)」と詠んだそうじゃ。そうして隠れ潜んでいた場所を知られた娘は捕らえられて荒縄で縛られ、別に捕らえられた男と共に国司が引き立てていったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。
時は流れ、【廻国雑記】の作者で、諸国を巡歴していた高僧・道興が当地に訪ね来てその悲恋物語を耳にするの。道興は業平塚を前にして「わか草の妻も籠らぬ冬されに やがてもかるる野火止の塚」と詠むなど、遠い昔の出来事に思いを馳せているの。 But お話の中では野火止塚も業平塚も同じものとして扱われているの。それじゃあ、次に訪ねる業平塚は何なのよ−と云うことになるのですが・・・
18.業平塚 なりひらづか
在原業平が京より東国への東くだりの折、武蔵野が原に駒を止めて休んだと云う伝えがある。江戸名所図会によると、野火止塚(九十九塚)と同じく、古へ野火を遮ぎり止むるために築きたりしものなるべきを、後世好事の人、伊勢物語によりて名付けしなるべし。塚上石碑を建てて和歌の一首をちりばめたり。その詠にいわく「むさし野にかたり伝えし在原のその名を忍ぶ露の古塚」とあるが、この歌碑は今はない。
説明にある【江戸名所図会】には 昔は火田といひて、原野に火を放ち草を焼きて肥とし種を下すを焼畑ともいひしなり。〔中略〕されど、その火の盛んなるに至りては、人家におよぼさん事の恐れあれば、堤又は塚などを築きて、その野火を遮り止むる料とする故に、野火止の名あるならん。今平林寺境内に九十九塚・業平塚など称するものあるも、同じたぐひなるべし。かかる号を唱ふるは【伊勢物語】に因りて後人のまうけたりしにやあらん と説かれているの。
九十九塚の呼称にしても、【風土記稿】には 固よりこの所は山野なれば、すくもなど掃き集め、かき上たる故、塚も一段高くなりけることなれば、すぐも塚なるを誤り唱へて、つくも塚といへりと、是は又當寺開けしより後のことゝいへば、尤近き世のことなれど、 野火留塚の名はもとよりありて、後すくもなど積あげしかば、別にすくも塚と唱へしといへば、さもありしにや と、その由来が記されているの。
と云うことで、野火止塚の方はかなり昔からあったものと思われるのですが、今ある業平塚となると、逸話を元に後世に造作されたものの感がしないでもないわね。大きさにしても、これでは本来の野火止の機能を果たさないと思うし。真偽如何は御覧頂いている皆さまの御賢察にお任せよ。
19.半僧坊感応殿 はんそうぼうかんのうでん
御案内が最後になりましたが、禅修行の専門道場の平林寺にあって、ちょっと毛色の違う堂宇があるの。それがこの半僧坊感応殿で、烏天狗の出で立ちに似た半俗半僧の半僧坊が祀られているの。御本家は静岡県浜松市にある方広寺の奥山半僧坊大権現で、鎌倉・建長寺と平林寺を以て日本三大半僧坊とされているのですが、何でそんなもの(笑)が祀られているのか気になりますよね。実は平林寺に半僧坊が勧請されたのはそんなに古いことではないの。
経緯を記すと、明治12年(1879)から一時期臨済宗建長寺派に籍を置き、鎌倉・報国寺の住職を務めていた玉圓楚璞禅師は半僧坊に加護を願い、山門の繁栄を日夜祈願祈祷していたの。年を経た明治26年(1893)、縁あってこの平林寺の住持となった玉圓楚璞禅師は、翌年の明治27年(1894)に半僧坊権現像を建立し、当時境内にあった土地堂に安置したの。この感応殿が建てられたのは明治41年(1908)のことなので、遷座したのはそれ以降のことだと思うの。因みに、鎌倉の建長寺に半僧坊を勧請したのは霄貫道禅師で、明治23年(1890)のことなの。二人の禅師の結びつきが双方の半僧坊の勧請に繋がっているのは間違い無さそうね。建長寺半僧坊のことが気になる方は、ちょっと出所が古いのですが、鎌倉歴史散策−北鎌倉編の 半僧坊 の項を御笑覧下さいね。半僧坊の出現譚についても触れています。
埼玉県の志木市に、世界に一本しかないと云う長勝院旗桜を見に出掛けたときに野火止塚(業平塚)のことを知り、語り継がれる物語に惹かれて、所縁の地を訪ねてみたいと思っていたの。調べてみると、新座市にある平林寺の境内に今尚残されていることが分かり、塚を前にして立てば、在原業平と皐月前の二人の恋物語の余韻にどっぷりと浸かれそうな気がしたの。最初は不純な(笑)動機で訪ねた平林寺ですが、茅葺き屋根の重厚な総門を目にして急遽襟を正したと云うわけ。凜とした空気感は禅宗寺院ならではのものね。格式と歴史の重みに支えられた伽藍も必見ですが、広大な境内林の散策も絶対のお薦めよ。
ここで、最後までお付き合い下さったあなたにスペシャル・プレゼントよ。未掲載画像を含め、撮りためてきたものをスライドに纏めてみましたので御笑覧下さいね。御覧になりたい方は上掲の画像をクリックして下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
岩波書店刊 日本古典文学大系 竹取物語 伊勢物語 大和物語
角川書店刊 鈴木棠三・朝倉治彦 校注 新版・江戸名所図会
平凡社刊 東洋文庫 十方庵敬順著 朝倉治彦校訂 遊歴雑記
新座市発行 新座市教育委員会市史編纂室編 新座市史
春秋社刊 玉村竹二著 平林寺史
平林寺の拝観時に頂いた栞
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