≡☆ 毛呂山町の史蹟散策 Part.1 ☆≡
 

越生町の黒山三滝を訪ねたときに山本坊のことを知り、移転先の毛呂山町西戸の地を訪ねてみたいと思っていたの。毛呂山町は幾度か訪ねているのですが、今回の散策では町立歴史民俗資料館でGetした文化財散策マップ(3)のコースを歩いてみたの。一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

歴史民俗資料館〜崇徳寺跡〜延慶の板碑〜川角八幡神社〜山本坊歴代の墓〜川角観音堂

1. 苦林BS にがばやしばすてい 9:57着発

バス停

今回の散策では歴史民俗資料館を起点にしていますが、悩ましいのはその資料館までのアプローチなの。出雲伊波比神社などはJR八高線や東武越生線の最寄り駅から近いのですが、資料館はかなり離れていて簡単に歩ける距離ではないの。公共の交通手段に頼らざるを得ない身としては何か良い手立てはないかしら−と試行錯誤した結果が坂戸駅発のバス利用なの。その坂戸駅(北口)からは 川越観光バス の大橋行に乗車しましたが、一時間に1,2本の運行と、お世辞にも便利だとは云えないので、事前に時刻表を御確認の上でお出掛け下さいね。所要時間:約10分 ¥250

平日にお出掛け出来る方なら毛呂山町が運行する町内循環バス「もろバス」が利用可能よ。
資料館前にもBSがあるので歩かなくて済むわよ。もろバスや歴史民俗資料館に関する情報は こちら から。

2. 歴史民俗資料館 れきしみんぞくしりょうかん 10:22着 10:32発

歴史民俗資料館は一押しのお薦めスポットよ。確かに規模では博物館にかなわないけど、内容的には密度の高い展示がされているの。今回のルートに限らず、散策を始める前に資料館で予備知識の習得をしておくと毛呂山町のお散歩が楽しくなること請け合いよ。加えて職員の方々がとても親切なの。幾度か手を煩わせてしまいましたが、皆さん誰もが丁寧な応対をして下さいました。今回の散策では館内に用意されていた中から毛呂山町文化財散策マップ(3)の「資料館から川角・西戸の文化財を訪ねて」と題されたコースを歩いてみることにしたの。入館料:無料よ、無料!

その文化財散策マップですが、コース別に全部で4種類が用意されているの。幾れもA2サイズと、かなり大きなイラストマップなので、御出掛けの上で入手して頂く以外に方法は無さそうね。But 実際に歩くときには普段お使いの地図も併せて持ち歩いた方がいいわよ。無くても歩けないことはないけど、道を確認するためにも手許にあった方が安心よ。それはさておき、過去に見学済みのこともあり、今回の散策では時間の関係から屋外展示を見回しただけで済ませているの。見学時間は興味のあるなしで個人差があり、所要時間は敢えて載せませんので各自で時間調整して下さいね。

3. 鎌倉街道 かまくらかいどう 10:37着発

資料館の裏門から道を西に辿ると鎌倉街道があるの。【新編武蔵風土記稿】(以降、風土記稿と略す)には「西方川角村の境を云 ここに鎌倉への古道あり 北の方苦林村より村内九町を過て 南方大久保・市場二村の間に通ぜり 今は尤小徑となれり 是は鎌倉治世の頃 上下野州より鎌倉への往來なり 今も此細徑を北へ往ば 越邊川を經て兒玉郡本庄宿へ通ぜり 南の方は市場・大久保の境を過 高麗川を渡りて森戸・四日市場村の間をつらぬけり」とあるの。左掲のT字路からは木立ちに覆われた無舗装の小径が続きますが、僅かに往時の面影を留めているの。

ところで、いざ鎌倉の道として知られる鎌倉街道ですが、実は、鎌倉時代にそう云う名称があった訳ではないの。鎌倉街道と云う呼び名は江戸時代以降のもので、鎌倉期の【吾妻鏡】では奥大道(おくだいどう)や下道(しもつみち)、室町期の【太平記】でも上道(かみつみち)や下道とあるように、上道・中道・下道と呼ばれていたの。加えて、支道を含めて呼ばれることも多くあり、必ずしも明確な定義があった訳ではないの。毛呂山町に限ると信濃や越後へと通じる上道になり、距離も2Km足らずなのですが、往時の面影を多く留めることから「歴史の道100選」の一つに数えられているの。

その鎌倉街道上道ですが、鎌倉幕府の成立を前にした平安時代の終わり頃から相模と上越方面を結ぶ幹線道路となったの。政治経済の中心地が鎌倉に移ると人や物資の流れも多くなり、それまでの杣道程度の道幅が徐々に拡幅されたの。その鎌倉街道を時代に名を馳せた強者共が馬の背に揺られながら、時には甲冑に身を固めて戦陣へと疾駆する姿があったかと思うと、この細い小径も感慨深いものに見えて来るわね。その鎌倉古道を新田義貞が鎌倉攻めの際に利用して鎌倉幕府の終焉をもたらしたと云うのも皮肉な歴史の悪戯よね。時を経て鎌倉が政治経済の中心地から外れると鎌倉街道もまた静かな交通路となるの。

4. 崇徳寺跡 すうとくじあと 10:45着 10:50発

毛呂山特別支援学校が見えて来たところで鎌倉街道を離れてフェンス沿いに歩くと御覧の道標が見えて来るの。案内に従い右折すると崇徳寺跡があるのですが、遺構が残されている訳でも無いので崇徳寺跡を示す棒標が立てられてなければそのまま通り過ぎてしまうわね。とは云うものの、昭和37年(1962)頃までは延慶の板碑(後述)が残されていて、崇徳寺跡を示す目印にもなっていたみたいね。その崇徳寺ですが、室町期の貞治年中(1362-1368)に罹災してからは再建されずに時を経ていたようね。But 【風土記稿】の川角村の條には興味を惹く記述があるの。

崇徳寺はすとくじと読みたいのが山々なのですが、棒標にはすうとくじとあるの。
ここでは棒標に準じてすうとくじにしておきますね。

小名 崇徳寺 村の艮の方にあり 往古鎌倉街道ありし時、崇徳寺と云へる寺ありし故小名となれり 彼寺蹟も殘りて そこに長さ九尺 横二尺五寸の古碑一基あり 碑面に延慶第三暦仲春仲旬 奉興立趣意者 爲大檀那沙彌竝朝妻氏女など見ゆ この外にも文字あれど漫滅して讀べからず 今按に郡内善能寺村 金毘羅縁起に 善能寺は昔崇徳院と號して 苦林村に建立せしを 貞治年中(1362-1368)鎌倉管領基氏 芳賀伊賀守と戰爭の時 兵火に罹りて烏有となりしかば 後年今の地に移せしとあり 是當所のことにして 其比は此邊なべて苦林野の内なりしなるべし ここに小徑一條あり 苦林村より入 大久保村へ通ず 是則鎌倉の古街道なり

善能寺の【金毘羅縁起】に依ると、昔は崇徳院と号していたが、苦林野の合戦で戦禍に遭い、堂宇の悉くが灰燼に帰してしまい、後年現在地に移転して来たと云うの。となると、今度は善能寺のことが気になってしまうわよね。そこは【風土記稿】、ちゃんと善能寺のことについても記してくれているの。善能寺村の善能寺(現在は廃寺)の項には次のようにあるの。

當寺にて管する所の金毘羅縁起を閲するに 當寺の院號を崇徳院と號し 延元2年(1337)郡中苦林村に建立せしを 貞治年中(1362-1368)に至りて鎌倉管領基氏 芳賀伊賀守と戰爭の時 當宇以下兵火に罹りて烏有となれり 其後夢窓國師當國へ飛錫の時 當所に憇息し宇を胥て 一宇を起して崇徳院となづけ 彼の絶るを繼しより 又若干の星霜を經て 今の宗旨に改む 夫より第三世の僧を秋月と云 此僧思らく當院崇徳と號すること 全く讃岐院の尊號に觸ること恐なきにあらずとて 彼の院の尊靈を祀り 金毘羅社と崇め奉れり 是享保年中(1716-1736)の事なりと云々 大意かくの如し 然れば善應入道が國師を開山として起立せしも全くの開闢にあらず 元苦林野の廢寺崇徳院を爰へ移して 國師を中興の初祖とせしなるか 〔 中略 〕 抑崇徳の院號の説疑なきにあらざれど 今川角村に崇徳寺跡と稱する所あり 彼村は苦林村に隣り 且彼村に屬せし玉林寺村には 苦林野の古戰場係りしことは 既にその村の條に辨せし如くなれば 川角村も元は苦林野の内なりしも知べからず 果してしからんには いわれなき傳へとも云ふべからず

その【金毘羅縁起】には更に面白い(笑)ことが書かれているの。保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐国(現:香川県)に配流され、苦渋の8年間を過ごすと46歳で生涯を終えているのですが、その上皇に与していた源為義が斬首されると一部の家臣が武蔵へ逃れ来てこの苦林野に隠れ住んだと云うの。後に上皇が憤懣の内に崩御したことを知った家臣はその恩顧を思い、一宇を建立すると上皇より預かっていた観音像を安置し、讃岐国より金毘羅権現を勧請すると崇徳院と号して祀ったと云うの。崇徳上皇は菅原道真、平将門と合わせて日本三大怨霊と称される程の実力者(笑)。

中でも崇徳上皇は日本史上最大の祟り神とも云われているの。時を経たにも関わらず、明治天皇もその鎮魂を願い、崇徳上皇の霊を祀ったと云う噂もあるくらいよ。【風土記稿】にその名がある秋月和尚にしても、【金毘羅縁起】が云うところの家臣にしても、その怨念を意識してのお話しであることには違いないわね。ちょっと脱線してしまいましたが、【風土記稿】が云うように「崇徳の院號の説疑なきにあらざれど」ですので、信じるか信じないかは皆さんの御賢察にお任せモードよ。

5. 延慶の板碑 えんきょうのいたび 10:53着 10:55発

崇徳寺跡の雑木林を抜けると車道に出ますが、左斜め方向に再び山中に伸びる脇道があるの。入口には「延慶の板碑」と記された道標があるので直ぐに分かると思うわ。But 冬場はいいけど、夏場はヘビでも出て来そうな雰囲気にあるので歩くには勇気が必要かも知れないわね。車道から歩くこと100m位かしら、杉林の中に大きな板碑(青石塔婆)が忽然と現れるの。それが延慶の板碑で、既にお分かりのように、元は崇徳寺跡に建てられていたものなの。それを、そんなに離れてもいないこんな場所にどうしてわざわざ移設しなければならなかったのかしら−と思うわよね。

実は、今しがた横断して来た車道は昭和35年(1960)に町道として山林を切り開いて開設されたものだけど、それまでは人目に付かずにひっそりと暮らしていた(笑)板碑がいきなり白日の下にさらされるようになると、あろうことか、板碑の碑面めがけて投石する輩(多分に子供達の悪戯だとは思うけど)が現れるようになったのだとか。加えて、柴刈りの邪魔だったのか、それとも板碑を墓石と思い薄気味悪がったのかは分からないけど、地権者側からの移設希望もあったみたいね。毛呂山町ではその保護の必要性から、昭和37年(1962)に町の文化財指定第一号として現在地(毛呂山町大字川角字吹上1098)を買い上げて移設したの。

〔 延慶板碑 〕  埼玉県指定文化財
上段四行は経典の偈文である。下段の中央は建立の時で、延慶第三暦庚戌仲春中旬敬白とある。左右の二行は建立の理由で次の文字である。右興立志趣者為大檀那沙門行真 并朝妻氏女現世□□□生善処也 碑面が剥落して読めぬ所には安楽後の三字があったと推定される。昭和57年(1982)10月 毛呂山町教育委員会

碑文は漢文で記されていることに加えて、文字も摩滅剥離していて読破は完全にギブアップ。ここでは先人達の労苦に甘えますね。先ず最初にその大きさですが、埋設部を含めると全長は364cmもあり、横幅は広いところでは73cmもあるの。上部には胎蔵界大日如来 アーンク を表す種子(しゅじ)が刻まれ、延慶第三暦庚戌の銘があることから鎌倉時代の延慶3年(1310)の造立と分かるの。因みに、説明にある4行の偈文ですが、【金剛頂瑜伽経】の「帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台 本来具足三身徳 三十七尊住心城」がそれよ。エッ、その意味を教えろ−ですか?それはダメよ、訊く相手を間違えているわ(笑)。

ここで気になるのが造立者のことよね。碑面には大檀那沙門行真と朝妻氏女の二人の名が刻まれていますが、沙門とは仏門に入って修行する者の意で、端的に云えば僧侶のことね。この板碑は嘗て崇徳寺跡に建てられていたことからすると、行真が崇徳寺の住持を勤めていた時期もあると考えられないこともないけど、大檀那ともあるので、仏教に深く帰依したお金持ちのスポンサーと云うところではないかしら。一方の朝妻氏女ですが、女は普通であれば娘の意よね。加えて、朝妻氏とあることから武士の娘と考えるのが順当ですが、そうなると二人の関係が余計気になるわよね。

充分週刊誌的な発想(笑)ですが、調べ事をしているときに我が意を得たり−の記述を見つけたの。毛呂山町教育委員会刊「毛呂山町川角崇徳寺跡延慶の板碑」には次のような推論が記載されているの。教育委員会発行ですからξ^_^ξと違い真面目な論考よ。その一部を紹介してみますが、都合の良いように端折っていますので、出来ましたら原著を御読み下さいね。

行真と朝妻氏の娘とは、この崇徳院の附近で普通の夫婦として生活したか、或は人目を避けて愛する者同士がひっそりと生活したか。後者のように思われる節がある。〔 中略 〕 武士の娘として、朝妻氏の娘の身の上には、幾多の苦難があり、一時は同棲したとしても、乱世の中で別々に死んだのではないだろうか。そして別々な所で死んだ両人を火葬にして改めて此処に埋葬し、この板碑を建てて供養したものと思われる。

移設時には板碑の下から二つの壺が発見されているのですが、古瀬戸の逸品と思われるような高価な壺の方は骨壺として使用されていて、もう片方の壺はと云えば、簡素な造りで中も空であったことから、「夫々の壺で近親者が二人の遺骨を持ち寄り、この所で改めて良い方の壺に二人の骨を一緒に納めて、二人の後生の冥福を祈ったとも想像出来る」とあるの。幾れも想像の域を出ないのですが、この板碑は二人が生前に後生の安楽を願って建立した逆修塔だとする説もあり、だとすれば、生前の仲睦まじく暮らす二人の姿を知る者達が二人の想いが刻み込まれたこの板碑の下に埋葬したのかも知れないわね。その二つの壺ですが、現在は埼玉県の指定有形文化財として冒頭に紹介した毛呂山町歴史民俗資料館に収蔵されているの。企画展などで見掛けることがありましたら思い出して下さいね。

6. 吹上前の地蔵尊 ふきあげまえのじぞうそん

延慶の板碑を後にして元来た道を舗装道まで戻り、そこから車道を南に歩きますが、県道R39との交差点傍らにポツネンと建てられていたのが左掲の吹上前の地蔵尊なの。と云っても最初から見つけられた訳ではないの。散策マップにイラストが描かれてはいるのですが、地蔵尊とあることからξ^_^ξはお地蔵さまが建つものとばかり思い込んでいたの。そうなると見つけられるハズが無いわよね。角地に貴族の森毛呂山店があるのですが、不審者に間違われたりしたらどうしようかしら−などと思いながら、お店の廻りをグルグルと探し歩いてみたり。

通り掛かった地元の方数人にも訊ねてみたのですが、皆一様に首を傾げるばかりで。結局見つけられず、お店をつくるときに整地の序でに廃棄されてしまったのかも知れないわね−と一度は諦めたの。後日再訪した際にふと目にしたのがこの石塔で、地蔵尊と云うけど、これがそうなのかも知れないわ−と気付いたの。気掛かりだった吹上前の意味にしても、単に大字川角字吹上前の地番にあることからの呼称だったと云うわけ。建てられていた場所も、元は道を隔てた反対側のR39脇にあったようで、それが現在は貴族の森がある場所に移され、更にその貴族の森が建てられる際に改めて現在地に移設されたみたいね。

石柱には文化四歳丁卯三月の銘があることから江戸時代の文化4年(1807)に造立されたものね。側面には右さかど・かわごい道 左いわどの・まつやま道の文字が刻まれ、道標を兼ねていたことが知れるの。でも、これを以て地蔵尊とするのはやはり不自然よね。ξ^_^ξが思うには造立当初はこの石柱の上にお地蔵さまが立っていたのではないかしら。憶測でしか無いのですが、或いは明治期の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で破却されてしまったのかも知れないわね。But 無責任モードです(笑)。

7. 馬頭観音 ばとうかんのん 11:12着 11:13発

散策マップには「小さな馬頭観音が見られます」とあるので探しながら歩いて見つけたのが左掲の石仏なの。底部には三猿が配され、像の両脇には鶏らしき痕跡が見て取れることからすると 庚申塔 よね。馬頭観音だと云うのですが、肝心の頭部が摩滅していて像容からは馬頭かどうかの判断が出来ないので、ちょっと見では青面金剛に見えてしまうわよね。頭部に馬頭観音を表す種子のカン(種子の詳しいことはξ^_^ξには分からないので多分だけど)があることから辛うじて馬頭観音と云うことが知れるの。庚申塔としては馬頭観音が陽刻された珍しいものね。

8. 川角八幡神社 かわかどはちまんじんじゃ 11:15着 11:37発

次に訪ねたのが川角八幡神社ですが、【風土記稿】には「天照大神春日明神を相殿とせり 社領五石五斗の御朱印は 慶安2年(1649)に賜ひし由を云へど 小名に神田の名あり もし當社の領地を唱へしならんには 舊くより社領ありしこと推て知べし 南藏寺の持」と記されているの。祭神は八幡神こと誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)を主祭神として天照大神と春日明神が併祀されているの。春日明神は春日大社(奈良県)の祭神で、武甕槌命(たけみかづちのかみ)・経津主命(ふつぬしのかみ)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の4柱を指すの。

伝承では鎌倉時代初めに創建されたものの、貞治2年(1363)の苦林の合戦時に戦禍を受けて烏有に帰したとされるの。後の応永年中(1394-1428)に現在地に再建され、慶安2年(1649)には徳川幕府から社領五石五斗を下賜されているの。改めて享保5年(1720)に社殿が再建されているのですが、修復の手を経てはいるものの、現在ある正殿は当時のものがベースになっているみたいね。因みに、直近では平成3年(1991)にも修復が加えられているの。その社殿右手にも社が建ちますが、境内末社の八坂神社(祭神:素戔鳴尊)になるの。

参拝時にふと見上げた際に神鈴が架かる横木に記される文字に目が留まったの。「初代御神木樹齢千年の老杉枯朽倒壊の為若木を植えて御神木となす。その老杉の枝に神鈴を祀る 昭和60年(1985)拾月拾日」とあることから、御神木倒壊の痕跡があるかも知れないわ−と、社殿の周囲を一巡り。そうして見つけたのが社殿背後右手に残されていた御神木の切株、否、倒壊跡なの。それを期待したξ^_^ξもいけないけど、倒壊して30年近くなると云うのに放置されたままにあると云うのも傷ましくあるわね。その傍らでは次の御神木となることを願い、若木が植樹されてはいるのですが。

〔 植樹之記 〕 当社の御神木老杉推定樹齢千年うつろ木となってなお亭々とそびえ、神威を誇示していたが、枯朽倒壊のため、この木から摂った若木を植樹し御神木とする。希わくば氏子の意を嘉し、千載に栄えまさんことを。昭和60年(1985)10月10日 八幡神社宮司 紫藤啓治撰文

毛呂山町指定 有形民俗文化財 八幡神社の宝篋印塔 この宝篋印塔は、現在の川角小学校の場所にあった越生町法恩寺の末寺である南蔵寺の境内に置かれていたものである。南蔵寺は、明治時代初めの廃仏毀釈により廃寺となり、宝篋印塔も大正3年(1914)二葉学校(現:川角小学校)の拡張に伴い、現在ある八幡神社の境内に移動された。江戸時代の天明8年(1788)正月に建てられてもので、当時多くの餓死者を出した天明の飢饉に対する供養塔と考えられる。平成2年(1990)2月15日、現在位置に移転改修する際、塔身(中段の方体部)の中に宝篋印陀羅尼経、観音経、般若心経等が納められているのが確認された。宝篋印塔は、平安時代末期から建立され始め、鎌倉時代から江戸時代にかけて数多く建立された、塔身に宝篋印陀羅尼経を納める供養塔である。町内に残る石塔の中では大型で優美な造りであり、大変貴重である。平成3年(1991)2月2日 毛呂山町教育委員会

その宝篋印塔から少し離れて大黒天と刻まれた石碑がありますが、同じく南蔵寺から移設されて来たものよ。その南蔵寺から移されて来たもので忘れてはいけないものがもう一つあるの。それが芭蕉句碑で、現在は毛呂山町の有形文化財にも指定されているの。元々は文政12年(1829)に南蔵寺の境内に建立されたもので、大正3年(1914) に移されて来たの。逆光モードの掲載画像では碑面がつぶれていて何が何だか分からないわね。申し訳ありませんが、お出掛け時に御確認下さいね。ここではせめてもの罪滅ぼしに、建立した春秋庵三世のことを御案内してみますね。

道傍の むくげは馬に 喰われけり 芭蕉翁
この俳句の作者は、芭蕉翁と刻まれてある。裏には「三世春秋庵連中 文政十二歳(1829)巳丑春三月」とある。建碑の当時、この地の俳壇は春秋庵系統の最盛期であった。川村碩布などが中心となって建てたもので、句の筆者は碩布と云われている。尚、碩布は建碑の前に四世春秋庵を嗣号しているが、先師を敬い、自らも含めて、三世の息のかかった人々とし、三世春秋庵連中と記したものと思われる。

俳聖・松尾芭蕉のことは改めて御案内するまでも無いわね。
気になるのが三世春秋庵こと川村碩布(かわむらせきふ)の名よね。【埼玉県史】には

名は金左衛門後ち七郎兵衛と改め、河庵(一に可庵)磊庭橿寮六気庵蓬首梅翁等と号し、延享元年(1744)入間郡馬場村に生れた。天明年中(1781-1789)春秋庵白雄の門に入り俳句を学びて其先達となり、別に山根連なる社中を起して門弟多数を養った。文政元年(1818)に至り春秋庵四世の号を嗣いでより江戸に出で、春秋稿八篇を出版したが、同七年(1824)に至り門弟久米逸淵に譲って帰郷し、草庵を営んで俳道に精進し、俳画を能くして梅亀に得意であった。天保14年(1843)11月9日94歳にて歿し、同郡毛呂村本郷の妙玄寺に葬られた。著書に白雄句集 碩布句集 碩布発句集 春秋稿の4部13巻がある。

とあるのですが、この説明では経歴ばかりでちょっと綺麗事過ぎるの。調べてみると川村碩布の生涯は俳諧に始まり俳諧に終えたと云っても過言ではないの。そのためには私財を惜しげなく費やし、遂には酒造業で近在に知られた名家をも傾けてしまったの。ξ^_^ξには俳句の閑雅な世界のことは(ーー;)ですので、代わりに碩布の破天荒な俳諧人生の一部を紹介してみますね。

碩布は毛呂郷馬場村(現:毛呂山町毛呂本郷)の川村家の嫡男として生まれているのですが、その川村家は代々馬場村の名主を務め、豪農としても知られる一方で、酒造りを業とする名家でもあったの。また、質屋を営むなど、近郷に聞こえた財産家でもあったの。碩布自身も寛政4年(1792)頃には馬場村の村長を務めたりもしているのですが、家業よりも俳諧に打ち込むようになり、俳諧三昧の暮らしはやがて家運をも傾けてしまうの。碩布はその夥しい出費を意に介するでもなく、諸国を遊歴し、上州や信州には再三旅をしているの。雅号の一つ、河庵磊庭橿寮六気庵蓬首梅翁の磊庭(らいてい)の磊とは読んで字の如く、石がゴロゴロしている様子を表したものですが、自邸の庭にはまさにその奇岩銘石がゴロゴロしていたみたいよ。碩布は旅の途次で奇岩銘石を見つけるとお金に糸目を付けずに買い求め、人を雇い入れて運び込むと屋敷内に築山したの。中でもお気に入りの石が三つあったことから磊庭と称したのだとか。

他にも多くの逸話を残す碩布ですが、もう一つだけ紹介しておきますね。それは信州に旅した折に姥捨(長野県更埴市)に立ち寄ったときのこと。話しに聞く「田毎の月見」を期待して訪ねたのですが、生憎と稲刈りの時期には早すぎて出来なかったの。普通ならそこで素直に諦めるハズよね。But 碩布は怯むことなく土地の古老を訪ねると、武州から遙々訪ね来たので、稲の収穫分は全額補償するから直ぐに刈り取って田圃に水を張って欲しいとねじ込んだの。最初は訝しんだ土地の人達も、碩布の人柄を知ると、その求めに応じて刈り取りを行い、田圃に水を引き入れたの。そうして碩布は一夜を心ゆくまで田毎に映る月を愛でながら過ごしたと云うの。その時の路銀にしても土蔵の一つを売却して得たものかも知れないの。

姥石の 高き忘れて 月や月

上の句はその時に碩布が詠んだもので、代表作とも云われているの。長野盆地にある姥捨山は古くから姥捨て伝説で知られた山で、盆地の斜面一帯には棚田が広がり、近くにある長楽寺はその水田に映る月(田毎の月)を観賞する名所として、多くの文人墨客達が訪ね来ているの。路銀の土蔵一つ分に加えて、稲の補填分が土蔵幾つ分に相当したのかは分かりませんが、一句を詠まんが為にそこまでするか−の感があるわね。But 碩布にしてみれば俳句は命の次に大事なものだったのかも知れないわね。そこまで打ち込めるものを見つけられた碩布の人生は一方では羨ましくもあり、それ以上に、家運を傾けてしまったとはいえ、それを支える財力に恵まれたことね(笑)。

9. 宮下橋(越辺川) みやしたばし 11:39着 11:42発

八幡神社から坂道を下ると越辺川(おっぺがわ)に架かる宮下橋が見えて来るの。江戸時代にはこの越辺川でも盛んに筏流しが行われ、毛呂山ではこの宮下橋から松貫橋(後述)にかけての河岸に筏を組む場所が設けられていたそうよ。筏を流すにはここから千住まで一週間ほど掛かり、帰りは舵取り棒や筏綱を担いで歩いて帰って来たのだとか。他の仕事に較べると実入りは良かったのですが、博打やお酒などの遊興三昧で、オケラ帰り(笑)になることも多かったみたいね。その筏流しですが、明治27年(1894)頃までは行われていたそうよ。

10. 西戸古墳群 さいどこふんぐん 11:54着 11:56発

古墳群とあるのですが、現在では1号墳のみを残して跡形もないの。その1号墳にしても民家の裏庭に辛うじてその面影を残すのみとなっているの。先ず最初に悩まされるのがその場所なの。最初は左端の写真に写る、木がこんもりと茂る場所がそれかしら−と思ったのですが違ったの。散策マップでは三叉路に位置してあることになってはいるのですが、そこには個人のお家が建てられていて、既に他の墳墓と同じように整地されてしまったのかも知れないわね−と諦めかけたの。せめてその痕跡だけでもないのかしら−とお家の背後を覗いた時に、奥にこんもりとした小山があるのが見えたの。それが1号墳だったの。

西戸古墳群は毛呂山町の越辺川流域にある古墳群の内で最も上流に位置するの。その古墳群の中の一つ、西戸2号墳が平成2年(1990)に発掘され、現在は歴史民俗資料館の前庭にその石室が移されて復元保存されているの。発掘時に出土したガラス玉や須恵器、金環などの副葬品が館内に展示されていますので、資料館の見学時に御覧になってみて下さいね。参考までにその2号墳上に建てられていたと云う「西戸古塚記」(補:石碑の現物と併せてその概略内容が資料館前庭に掲示されています)を紹介してみますね。

この石碑は西戸2号墳上に建てられていたもので、明治26年(1893)にこの古墳を発掘したときの様子を記したものです。縦書10行、漢文により刻まれ、その概要は次の通りです。

入間郡川角村西戸に行任塚と云う古い塚がある。今年の秋、長雨に依り表土が崩れて石が出て来たので下を掘ってみると槨(横穴式石室か)が姿を現した。槨の内部は分かれて二つになっていて、その広さはどちらも一丈(畳)ばかりであった。中からは人骨・刀・鏃・金環が発見され、人骨は数体分あり、主従関係にあるようで、殉死者がいたようだ。この古墳は、行任その人の古墳であろうか。生きた人が一緒に葬られたのであるからこの墓の被葬者は貴人と考えられる。この土地の所有者は供養のために石碑を建てることを考えられ、私(この碑文の作者)も同感であるから、明治癸巳の初冬(明治26年)古塚の由来を書き記したのである。

尚、地元には道祖土(さいど)の祖である平維新(行任)と云う人物が初めてこの地に入り、行任塚はこの人の墓であり、近くの丸山城(不明)は平維新が築いた城であると云う伝説があります。殉死者や平維新伝説と云った内容は史実とは考えられないでしょうが、これらの碑文や伝説から、明治中頃の人々がどのような思いで古墳を見つめていたのかが理解され、大変貴重な資料となっています。

地名の西戸ですが、古くは西土 or 道祖土と書かれ、由来については二つの説があるの。一つは【風土記稿】に「西戸村は昔は道祖土と書きたり 隣郡八ッ林村の百姓治右衛門は 道祖土土佐守が子孫にして 近郷の旧家なれば 若くはこの土佐守などが領せし地にて 道祖土の名は夫より起りたらんを 後世今の文字に書改めたるならんといへり」とあるように、道祖土氏の氏祖・道祖土土佐守が戦国期に当地に住したためとする説。もう一つは道祖土神を祀る社があったことから名付けられたとする説なの。その道祖土が西土に転じ、現在は西戸と表記されるようになったと云うの。


点景 点景 点景

次の国津神神社へは県道R343に出たところで斜向かいに見える脇道を辿って下さいね。もろバスの西戸公会堂BSに続いて鳥居が建つの。その公会堂ですが、最初はコンサートホールがあるような大規模な施設(笑)を思い浮かべてしまったのですが、見ると村の集会所の面持ちなの。その前には広場があり、ベンチも置かれていたの。誰もいないのを良いことに、こちらのベンチで暫時のランチ・タイム。と云っても持参のおむすびを頬張っただけですが。今回の散策コースでは県道R39を離れてしまうと食事処はおろかコンビニも無いの。持参は嫌と云う方は先程紹介した「吹上前の地蔵尊」が建つ交差点角の 貴族の森 で済ませるか、反対側にあるコンビニで買い求めるしかなさそうよ。

11. 国津神神社 くにつかみじんじゃ 12:01着 12:24発 (含ランチ・タイム)

この国津神神社ですが、修験寺山本坊(相馬家)が創建した熊野神社に始まるの。ここで気になるのが山本坊のことよね。既に 越生の散策・黒山三滝 で紹介済みですが、改めて御案内してみますね。山本坊は京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられ、最盛時には傘下に150ヶ寺を治め、入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国や常陸国郡を支配する程の寺勢を有していたの。開祖は(箱根山別当相馬掃部介時良入道山本大坊)栄円で、箱根山の別当を辞すると黒山に移り来て将門宮(黒山熊野神社の前身)を創始したと伝えられているの。

気になる将門宮の呼称ですが、栄円は平将門の末裔だとする伝承があるの。将門自身は「平将門の乱」で討ち死にしますが、妾腹の子が黒山に逃れ来て隠れ住んだとされ、栄円はその13代目に当たるのだとか。後に将門宮が現在は黒山熊野神社が建つ地に遷ると山本坊の本拠地となったの。時を経て山本坊第10世栄龍は天正年中(1573-91)に西戸の地を得て開拓を始めたの。そして慶長8年(1603)には本坊をこの地に移し、新たに熊野神社を勧請したの。慶長11年(1606)には越生山本坊と合わせて坊領50石の朱印状を得るなど、山本坊は新天地でも隆盛を極めたの。

お寺が農地の開墾だなんておかしいと思うわよね。But 山本坊は本山派修験の大先達を務める一方で、土豪としての性格も併せ持ち、山本坊自ら分付百姓や門前百姓と呼ばれる私的な隷属農民を抱えて所領を耕作していたの。

その山本坊も明治元年(1868)に発布された神仏分離令を受け、第25世徳栄はやむなく還俗して神主となり、相馬修理と名を変えたの。追い打ちを掛けるようにして明治5年(1872)には通称「修験道廃止令」が出されて山本坊は息の根を止められてしまい、相馬家は全ての権益を失うと帰農したの。そうして山本坊は栄円の開創以来470余年に亘る長い歴史の幕を閉じたの。一方の新熊野神社ですが、明治5年(1872)に村社に列せられると、明治37年(1904)には摂社の大山祇神社を始め、村内の愛宕神社・天満宮・稲荷神社を、明治44年(1911)には箕和田村から稲荷神社を合祀。後の大正4年(1915)にそれまでの熊野神社から国津神神社へと改称したの。伊弉諾尊・伊弉冉尊・素戔鳴尊の他にも大山祇神・迦具土神・菅原道真・宇迦之御魂神の4柱が祀られているのはそんな理由からなの。境内の一角には「山本坊の芭蕉の句碑」が建てられているの。

毛呂山町指定 記念物史跡 山本坊の芭蕉の句碑
山本坊の25世徳栄法印(別号は紫梅)の建立といわれるこの句碑には「山さとは 萬歳おそし うめの花 はせを」と刻まれている。江戸前期の有名な俳人、松尾芭蕉への追慕の気持ちが強く、徳栄は嘗て芭蕉が故郷の伊賀で詠んだこの句を選んで自然石に刻んだものである。この句の意味は、普通ならば正月に訪れる「萬歳芸人」が田舎の山さとには梅の花が咲く春先にならないとやって来ない−と云うような意味であろう。

徳栄は文化4年(1807)生まれで、わが郷土の誇る俳人、川村碩布の門人でもあり、俳号を「曰二(えつじ)」と云い、多くの句集や短冊に句を残している。また、生来文筆に優れ、神社の幟、筆塚などの銘文にその筆跡を留めている。更に武を嗜み、幕末の混乱期には村々に起こった無頼の暴徒の鎮圧にもあたった。明治維新後は神官となり、明治11年(1878)に70歳で亡くなったと云う。平成3年(1991)2月2日 毛呂山町教育委員会


ところで、今回の文化財めぐりで是非とも立ち寄ってみたかったのが次に紹介する「山本坊歴代の墓」なの。そんな、お墓だなんて、それをどうしても見たいだなんて、ちょっと頭がおかしいんじゃないの−と思われるかも知れないわね。山本坊のことは越生の黒山三滝に出掛けた時に知ったのですが、何故西戸に移転したのか不思議に思っていたの。西戸の地を訪ねてみれば或いはその謎が解けるかも知れないわ−と思ったの。と云うことで改めて調べて見ると、今となっては歴代のお墓しか残されていないことを知ったの。となると、そのお墓とやらを訪ねてみるしかないわよね−と云うことになってしまったの。これで決して変人ではないことがお分かり頂けたかしら?But そんなことが気になるξ^_^ξは確かに変わり者かも知れないわね(笑)。

個人的な動機はさておき、山本坊歴代のお墓はとんでもないところにあるの。普通に歩いていたら先ず見つけられないと思うわ。ξ^_^ξも最初は探しあぐねて半ば挫折しそうになったの。たまたま民家の玄関先に出てこられた方を見つけて訊ねてみたのですが、御存知無い様子で諦め掛けたのですが、それを端で聞いていた小学生の女の子が「それなら知ってるよ、山の中にある」とわざわざ入口まで案内してくれたの。今思うとその女の子に出逢えたからこそのレポートよ。町の指定史蹟なのですから、毛呂山町の教育委員会の方々にお願いよ、せめて道標くらいは建てて欲しいの。

と云うことで、この頁を御覧になり、或いは実地見学してみたいなと思われる方が無きにしもあらずですので、その道順と、山中への突入口(笑)を御案内してみますが、梅雨時と夏場は止めておいた方がよさそうよ。御覧になりたい方は上の画像をクリックしてみて下さいね。尚、スライドは完全手動モードですので御協力をお願いしますね。

12. 山本坊歴代の墓 やまもとぼうれきだいのはか 12:31着 12:46発

道無き道に分け入ると、朝日山(81m)の斜面麓に大小様々な形をした墓塔が並び建てられているの。左掲は碑面に「山本坊十世寛永元甲子(1624)天亘 傳燈正先達法印榮龍金剛位 當地之開山十一月五日靈(間違っていたらゴメンナサイ)」と刻まれているので、西戸山本坊を開山した栄龍の墓塔だと思うの。But 周囲は確かに嘗て僧坊が建てられていたと思えるような雰囲気にあるのですが、それ以上のことは分からず、当初の目論見も遇えなく挫折してしまったの。やはり門外漢のξ^_^ξに疑問解決の糸口が容易に見つけられるハズが無いわね。

代わりに興味深い推論を見つけたので紹介しておきますね。毛呂山町在住の杉田鐘治氏は「言い伝い西戸考」(あゆみ7号所収) の中で「山本坊入部の折、坊の地内に池を掘り、谷の水を溜めて水路にて水を引き、黒山の滝とは比すべくもない落差の少ない滝をわざわざこしらえる苦労などもしているのだ。これらは何んらかの引力があったと思われる。それは山から下りられる時代になったときに将門の原譜につながる故地と知ってわざわざ入部したのではあるまいか」と推考されているの。移転先が西戸の地であることの必然性がようやく見えて来たような気がするわね。詳しくは同著をお読み下さいね。

13. 松貫橋(越辺川) まつぬきばし 12:55着 12:57発

橋 川 川

14. 川角公園 かわかどこうえん 13:10着 13:12発

公園

今回の散策コースでの一番の困りものはトイレ休憩出来る場所が無いことね。歴史民俗資料館を出てしまうとどこにもないの。ようやく見つけたのがこの川角公園の管理事務所に併設されていたお手洗いなの。ここからゴールの武州長瀬駅までは再びじっと我慢の子になりますので、忘れずにお立ち寄り下さいね。自販機もあるので歩き疲れたときにはベンチで休憩しながら喉を潤すことも出来ますよ。川角公園からは緩やかな坂道が続きますが、畑の中に小さな瓦屋根の御堂が見えて来るの。それが川角観音堂で、堂内には如意輪観音像が安置されているの。

15. 川角観音堂 かわかどかんのんどう 13:14着 13:19発

毛呂山町指定 有形文化財 彫刻 如意輪観音像
この観音堂を建立したと云われる小室永源入道重吉(こむろえいげんにゅうどうしげよし)は阿波国(徳島県)の人で、諸国を巡礼してこの地に居を構えたとされています。小室家は、江戸時代の官撰地誌【新編武蔵風土記稿】の川角村浄光寺のところで「応永3年(1396)当所の人小室永源入道重吉と云もの 堂一宇を建立して薬師を安置す」とあり、古い土着伝承を持ちます。浄光寺は観音堂の東に位置しています。

小室家では、観音堂に安置されている如意輪観音は、小室永源入道土着の際の持参品として伝えられており、安産・子育てのお守りとして信仰を集めてきました。現在の観音堂は、平成元年(1988)度に17代願主小室実により新築されたものです。像高31.5cm、腹奥8.5cm、裾張20.0cm、光背は円光背で一木造、小型の六臂像(腕を六本作り出したもの)です。江戸時代以前の作と云われ、本町の如意輪観音像は稀であり、大変貴重な像です。平成8年(1996)2月2日 毛呂山町教育委員会

観音堂の背後左手には碑面に「帰空久室氷源居士霊位 元和元乙卯天 十月初三日」と刻まれる墓塔が建つの。その小室氏ですが、大阪城落城時の落武者との噂があるの。堂内には「南無聖観世音菩薩 奉祀為 淀君並殉死三十二名忠臣慰霊」と記された供養願文があり、その32名の中に小室茂兵衛の名があるのですが、御先祖さまだそうよ。But その噂が正しいとすると、応永3年(1396)に当地に至り来たと云うのは苦しいわね。時代としては天正年間(1573-1592)とするのが順当よね。そうなると墓塔に刻まれている元和元年(1615)の銘が俄然妥当性を帯びてくるわね。

16. 浄光寺 じょうこうじ 13:23着 13:27発

散策マップにあるので訪ねてみたのですが、建物の傷みも激しいので無住を通り越して廃寺になってしまったみたいね。But 【風土記稿】には「曹洞宗 龍ヶ谷村龍穩寺の末 兩聚山と號す 當寺の起立を尋るに 應永3年(1396)當所の人小室永源入道重吉と云もの 堂一宇を建立して藥師を安置す 其後永祿(1558-70)の頃 本山10世の僧善庵が時 一寺とせしゆへ 今是を開山とす 此僧は天正5年(1577)2月29日寂せり 本尊は彼藥師にて湛慶の作なり 慶安2年(1649)の御朱印に 藥師免五石二斗とあり」とあるように、嘗ては大寺とまではいかなくても、そこそこの寺勢を得ていたようね。

寺伝に依ると浄光寺の開創以前に至徳年間(1384-86)に創立されたと云う浄光庵なる僧坊が存在し、境内には康暦(1379-80)や至徳年間の銘を持つ石碑が残されていたと云うの。浄光寺の開創にしても寛文4年(1664)に龍穏寺第22世鉄心御州和尚を開山に、肯位繁室林茂和尚が開基したものとされているの。前述の【風土記稿】の記述を考え合わせると、一口に浄光寺と云っても盛衰を繰り返すなど、かなりの紆余曲折を経て来たようね。今はどこに安置されているのかは分かりませんが、本尊の薬師像にしても、その彫像時期は江戸時代後期に比定されているの。

余談ですが、慶応2年(1866)、萬慶金井和尚が住持のときに、この浄光寺で各地から多くの僧侶が集まり江湖会が行われたの。当時は唐代に活躍した禅宗僧侶の馬祖道一・石頭希遷の二僧の生誕地、江西省と湖南省に因み、禅宗のことを江湖とも称していたのですが、その禅宗の僧侶が一堂に会して修業するのが江湖会で、夏の梅雨時に行われることから夏安居(げあんご)とも呼ばれていたの。安居とは元々は雨期のことで、日本では梅雨がそれね。その江湖会ですが、当時は百僧を集めて百日修業すると云う厳しいもので、無事に修行を終えることは僧侶としての位階昇進を意味するものでもあったの。難関を潜り抜けた萬慶金井和尚は川越藩主松平家の菩提寺・孝顕寺に入るのですが、その松平家が前橋に転封となると孝顕寺もまた前橋へと移転したの。浄光寺がそれなりのポジションにあったことを窺わせる逸話よね。

左掲はお地蔵さまですが、廃寺となった今でもお花が供えられているの。台座には「奉造立地蔵菩薩念仏供養 宝暦11歳次辛巳二月時正 武州入間郡川角村 施主村中並近郷志村々 願以此功徳普一切 我等与衆生共滅仏道 乃至自他平等抜苦」とあることから江戸時代の宝暦11年(1761)の造立と分かるの。時代としては享保の大飢饉(1732)と天明の大飢饉(1782-87)に挟まれた時期にあり、享保の大飢饉で、或いはその後に発生したかも知れない飢饉で命を失った人々への供養と、日々の安穏を祈願して造立したものかも知れないわね。But 鵜呑みにしないで下さいね。

17. 野口有柳・行庵有終の墓 のぐちうりゅう・ぎょうあんゆうしゅうのはか 13:36着発

墓塔には春秋庵川翁有柳居士とありますが、野口有柳のお墓になるの。川角村に生まれた有柳は、若い頃から風雅を好み、長じて川角八幡神社の項で紹介した川村碩布に師事するの。嘉永2年(1849)に碩布の旧号・可庵を嗣ぐと、武蔵野俳壇の振興に努めたの。明治11年(1878)には名跡・春秋庵を嗣号し、斯界に長くその名を馳せたの。有柳は明治26年(1893)に85歳で没しているのですが、墓塔の裏には辞世の句「能知の世へ 満た見残して 月と花」が刻まれているの。

〔 春秋庵有柳先生之伝 〕  先生 姓は野口氏 通称祐助 春秋庵は其俳号なり。文化己午年 ※1 武蔵国入間郡川角村に生る。若きより風雅を好み 其性温順にして人と争はず 善く和し善く勉めて其業を隆にし 家を富ましめて 以て嗣子重左衛門に授く 傍春秋庵碩布叟に従て俳諧を学ぶ事久し 初名字琉 号を八九軒又は如鳩庵という。嘉永二年碩布居士七回忌辰に丁り 当時春秋庵梅笠叟より先師の旧号可庵を委託せられ 而后相勵みて 角丈・曾木・而耕・素竹等を補翼として 武蔵野俳壇を中興し 又春秋庵を嗣号 大講義に補せらる。当庵の歴世に立て已二十年、明治二十六年四月予に春秋庵を依託し、同年七月六日自筆を採て訃音を書 辞世を詠して安眠す。時に年八十五 身終るまで豪気僥ます俳心失わず 嗚呼勇哉此叟 嘆哉此叟 六世 ※2 春秋庵幹雄 撰並書

※1
有柳の生年は文化6年(1809)なので干支としては本当は「己巳」が正しいの。
※2
本来なら幹雄は春秋庵九世のハズなのですが、当地では五世逸淵・六世梅笠・七世弘湖を血統書(笑)から外して八世有柳、九世幹雄を各々五世、六世と記すものがあるのだとか。そこには閑雅な世界とは裏腹の確執劇があるみたいね。

その野口有柳のお墓の右隣に建てられているのが行庵有終こと伊藤洒雄(いとうしゃゆう)のお墓なの。有終は美濃国に生まれ、長じると碩布門下の可布庵逸淵について俳諧を学び、後に自ら一庵を開いて行庵と号したの。明治9年(1878)、入間郡の俳友を訪れる途次、この川角村にあった野口有柳宅で病に倒れると亡くなってしまったの。僅か一月余りの出来事で、47歳の若さだったの。同志達はこれを深く悼み、この地に葬ったの。碑には辞世の句「逃水や にくるあとよ梨 冴かへ流」が刻まれているの。

〔 行庵有終先生之伝 〕  先生 姓は伊藤 氏名は有終 美濃国の産にして 東京にあそび可布庵逸淵翁の門に入 俳諧を学び 兼て遠湖司馬先生に従ひ 心術躬行の教へを受く 可布庵翁没せし後 一庵をひらき行庵と号し 俳祖芭蕉翁の道を翼賛せしむが為明倫講社を発起す 同9年2月18日社中の人々を訪はむとて 武の入間の里に杖を曳 同3月5日 川角邨有柳老人の許にて 病に罹りて終に身まかりぬ 時に年四十有七歳也 相伝ふ為誰彼となく集ひ図りて 此の処に埋葬し 以て碑を営む 予30年の交り浅からざるをもて 為に小伝を綴り後人追慕の栞に備る事しかり 明治9年3月 三森幹雄

撰文の三森幹雄(1829-1910)ですが、野ロ有柳と共に明治期の春秋庵を支えた人物で、俳祖・松尾芭蕉の崇拝者でもあったの。三森幹雄は俳人であると共に、神道大成教を奉じて権講正の肩書きを持つ神官でもあり、明治7年(1874)にはその神道と俳諧を結びつけた明倫講社を設立主宰しているの。野口有柳から春秋庵六世を継ぎ、当時は俳壇の実力者となっていたの。行庵はその三森幹雄の右腕と云われていたのですから、行庵もまたその実力の程が窺えるわよね。

ξ^_^ξは俳諧に関する知識は皆無ですので訪ねるまで知らなかったのですが、スゴイ方達が集まっていたのね。明治大正から昭和初期までは春秋庵俳壇の中心地の体をなしていたと云うのですから、まさに毛呂山を知らずして俳諧を語るべからず−ね。

18. 旧川角村役場跡地 きゅうかわかどむらやくばあとち 13:38着発

跡地 散策マップに旧川角村役場跡地とあるので立ち寄ってみたのですが、御覧のような草叢状態なの。近隣の方からよくクレームが出ないわね(笑)。川角村は昭和30年(1955)4/1を以て旧毛呂山町と合併し、新・毛呂山町となっているの。But 合併はすんなりと出来た訳ではなさそうよ。昭和28年(1953)の町村合併促進法制定を受けて埼玉県でも町村合併が計画され、越生町・梅園村・毛呂山町・川角村の二町二村の合併が試案されていたのですが、結論が得られずにいる内に越生町と梅園村が早々と先に合併してしまい、それに刺激されて毛呂山町と川角村の合併交渉が加速したの。

と云うことで、川角村役場の建物が撤去された後はきょうまでこの状態で来たのかしら、要らないのならサッサと民間に払い下げてしまえば固定資産税が入るのに(笑)−などと思ったのですが、一昔前の地図を見ると川角郵便局や農協川角支店の名があるの。今でも信号名に川角農協前とあるのはその名残りね。郵便局にしても農協(現:JAいるま野)川角支店内に置かれた簡易郵便局だったみたいね。その郵便局もJAいるま野川角支店が平成17年(2005)に他店と統合廃止されたのを機に、同じく閉鎖されているの。地権者でも無いξ^_^ξがとやかく云えるものではないけど、何か有効活用する方法は無いのかしら。

19. 武州長瀬駅 ぶしゅうながせえき 13:52着

武州長瀬駅

旧川角村役場跡地からは歩いて武州長瀬駅に向かいましたが、公共の交通手段に頼らざるを得ないξ^_^ξとしては、エリア内にバスが走ってない以上、他に選択肢が無いの。救世主かに見えた町営の「もろバス」にしても、平日のみの運行と、つれないの。それはさておき、歴史民俗資料館で頂いた散策マップでは所要時間が2時間半〜3時間と案内されていたことから、のろまなξ^_^ξのことですから倍の時間を見越し、尚且つ資料館の見学もせずに臨んだのですが、結局は余裕のゴールでしたね。これなら資料館の見学に一時間を割いたとしても充分にお釣りが来るわね。


今回の散策はお隣の越生町にある黒山三滝に出掛けたときに山本坊のことを知り、連鎖的に西戸の地に興味を覚えたことが動機になっているの。併せて歴史民俗資料館を訪ねたときに散策マップを頂いて来ていたのですが、その内の一つに山本坊歴代の墓がしっかりと記されていたと云うわけ。幾ら訪ねてみたいからと云ってお墓を見るだけのために出掛けるのも億劫ね−と思っていたξ^_^ξの背中を押してくれたのがその散策マップだったの。とは云え、散策マップに載るからと訪ねてはみたのですが、華美荘厳を尽くした建物や、防護柵に幾重にも囲まれた事蹟があるわけでもなく、旅人の目を惹くようなものは何も無いの。But 建てられた背景や当時の情景に思いを馳せるとき、目の前の朽ちかけた建物や石塔が俄然光を放ちながら語り掛けてくるの。この頁が皆さんのお出掛け時の参考になればうれしいな。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
河出書房新社刊 宮田登・小松和彦・鎌田東二・南伸坊著 日本異界絵巻
毛呂山町歴史民俗資料館発行 第12回特別展 芭蕉のこころ−毛呂山ゆかりの文人・川村碩布と野口有柳−
毛呂山町教育委員会刊 毛呂山町史料集 第4集 毛呂山町の文化財
毛呂山町教育委員会刊 毛呂山町川角崇徳寺跡延慶の板碑
毛呂山町教育委員会刊 毛呂山町・神社と寺院
毛呂山町教育委員会刊 春秋庵・川村碩布
岡野恵二著 毛呂山町の寺を訪ねて
岡野恵二著 川角地誌考
毛呂山町発行 毛呂山町史
毛呂山町歴史民俗資料館で頂いて来たパンフ&資料






どこにもいけないわ