≡☆ 本土寺の紫陽花まつり ☆≡
2010/06/19

首都圏であじさい寺と云えば鎌倉の名月院が有名ですが、千葉県松戸市にある本土寺も10,000株に及ぶ紫陽花が植えられ、梅雨時の境内を彩ると聞き、晴れ間を見つけて出掛けてみたの。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

四季の寺・本土寺

JR常磐線の北小金駅北口から200m位歩くと鬱蒼とした木立に覆われた参道が見えてくるの。But 元々は本土寺の寺域だったのですが、現在は道路として松戸市の管理下にあるの。なので参道の中央は車道ですので、歩行者は左右の木立に沿って設けられた歩道側を歩くことになっているの。往古にはやんごとなきお方もここで下馬してから入境したであろう参道も、今となっては「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」の状態ね。樹木にしても殆どが椎の木や欅ばかりですが、嘗ては水戸光圀が寄進したと云う松や杉の老木が生い茂り、古刹にふさわしい景観を呈していたのだとか。

樹叢をくぐり抜けた辺りから車道も終わり、更に参道を進むと沿道にはお土産屋さんやお蕎麦屋さんなどが建ち並ぶの。お店の隣の小さな空き地などでは木箱を並べて地元で獲れた朝取り野菜を売る農家の方や、広げた新聞紙の上に土の付いたまま無造作にタケノコを並べて紫煙をくゆらせているおじさんなどなど、どこか懐かしい風景がありました。その参道の最奥部に見えてくるのが朱色に塗られた大きな仁王門。

長谷山本土寺は建治3年(1277)豪族・平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子・日朗を導師として招き、開堂したのが起こりです。本土寺は池上の「長栄山本門寺」、鎌倉の「長興山妙本寺」と共に、「朗門の三長三本※の本山」と称される屈指の名刹で、松戸地方における日蓮宗の教団活動の中心とされました。ここには日蓮直筆の書状類をはじめとして、松戸市域の貴重な中世史資料が数多く所蔵されています。近年においては境内の整備がなされ、「あじさい寺」として市民にも親しまれています。平成13年(2001)03月 松戸市教育委員会

三長三本は、長谷山本土寺・長栄山本門寺・長興山妙本寺の三ヶ寺とも、
山号寺号に長と本の文字が含まれることに由来するの。

仁王門から先が本土寺の境内地となるのですが、門を過ぎて直ぐの所に石畳の脇道があったの。その脇道の角地に建つ石柱は嘗て小金町役場の門柱として使用されていたものだとか。傍らにはその由来記が掲示されていましたが、読んでみてもこの場所に建てられた必然性が今一つピンと来ないわね。それに、門柱に使われていた石を何故貰ったりしたのかしら?当初は廃材を再利用する積もりだったのかしら。それとも ‥‥‥

〔 小金町役場門柱由来 〕  小金町は江戸の中心より約32Km、約八里、この間幾つかの渡しがあり、その一つに「矢切の渡し」もありました。昔から旧水戸街道を下る人はここが第一日目の宿場であったといわれてきましたが、東葛郡史にもあるように「小金の若衆はよかし、襷一本で飯食える」等と云われ、大変宿場として栄えましたが、明治になり常磐線が出来て宿場の必要は無くなり、急速に寂れてきて、遂に松戸市に合併されることになりましたが、江戸より仙台までに至る間で寺の本山が二箇寺あったのは小金町丈です。一つは浄土宗で増上寺に次ぐ東漸寺と、日蓮宗では本門寺と同格であった本山本土寺がありました。

昭和29年(1954)、小金町が松戸市に合併されました時、小金町役場の門柱を頂いて長い間そのままになっていましたが、近来全国的に「ふるさと復興運動」が盛んになって、本土寺も日蓮聖人開宗750年(平成14年)記念事業の一つとして、その昔、四院六坊の一つであった実相院跡に実相閣結社を建立し、工学博士吉田桂二氏の設計により徳川中期の建築を模し(一部改築)建立された時、且つての小金町の記念として、この門柱が建てられたものであります。平成18年(2006)長谷山本土寺

その門柱の先には実相閣と呼ばれる建物があるの。

〔 実相閣縁起 〕  平成18年(2006)は戦後60年となる年で、先代・山田日永貫首に招かれて現60世河上順光がお手伝いに参ったのは今より55年前であります。明治以来神の国は亡びないと謂う日本国の考えは原爆投下と同時に消え去ったが、山河は残り、田畑は毎日作物を生産できたのであります。当時戦争中より全く手入れの出来ない本土寺は爆撃こそ受けなかったが雨漏りがひどく廃寺寸前の状況であり、総代嶋根幸造氏と共に農村の檀家を廻って協力を頼んで歩きました。

この田畑を残して呉れた先祖を祀る寺を勇気を振り起して雨漏り丈でも止めようではないか、その5、60軒の檀家の中心となったのが且つての四院六坊の中の実相院の檀家24、5軒、他に小金・東平賀・栗ヶ沢・向小金・今谷・二ツ木・古間木等を入れ、50軒足らずでありましたが、勤労奉仕により、代わる代わる泥を共にこねて、屋根の雨漏りを止めることから始まって、やがて全檀家も参加して55年にわたる復興が始まったのであります。先ず、像師堂大改修、妙朗堂大改修、長廊下新築、本堂大改修、方丈・書院の改修、宝蔵修理、開山堂新築、五重塔新築、宝物館新築、仁王門その他三門の修理、茶室六棟の新築等が行われ、また、明治維新廃仏毀釋の際に削り取られた境内地三千坪を買い戻し、桜・菖蒲・紫陽花・紅葉等を植えて今日に至りました。この当初日本人が敗戦のショックで茫然自失していた頃に本土寺復興にかけた農村地区の檀家の情熱も、二世三世と変る子、孫子の人達の為、あの時期あの混乱の中で菩提寺復興という情熱にかけた先祖を忘れぬように、本尊両脇に実相院歴代と総檀方中、先祖代々の位牌を祀って実相閣結社としたものであります。本土寺第60世 河上順光

受付(拝観料:¥500)を済ませたところで境内の散策へ。
補:散策マップを御覧になりたい方は上の参拝券をクリックして下さいね。

その前に、ここで、参拝券の裏面に記されている略縁起を紹介しておきますね。

当山は、もと源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝えられ、今を遡ること凡そ700年前に、領主の曽谷教信卿の協力により、領内の地蔵堂を移して法華堂とし、日蓮大聖人より長谷山本土寺と寺号を授かったのに始まります。日蓮聖人の六人の高弟(六老僧)の一人である日朗上人に帰依して開いた古刹であります。その草創は建治3年(1277)とも文永6年(1269)とも云われています。日朗聖人の弟子で朗門の九鳳の一人である大円阿闍梨日傳聖人に依って延慶2年(1309)頃に寺院の基礎が築かれ、中世には千葉氏・曽谷氏・原氏・高城氏などの名族の外護を得て、上総・下総・武蔵の各地に教線を伸ばしました。歴代には池上・比企谷・身延三山の学頭を勤めた日饒上人、小西正法寺を開いた日意上人などの学匠が輩出しています。近世初頭には不受不施の伝統を遵守して身延山に対抗し、不受不施派禁制の後には宗門最高学府である中村檀林の縁頭本山となり、寺内に四院六坊を備え、江戸浅草本法寺を始めとする90余の末寺・孫末寺を支配しました。

また、将軍家より御朱印地10石と乗輿独礼の寺格を与えられ、水戸徳川家からも菩提寺格として寺領を寄進されました。本土寺は鎌倉の長興山妙本寺・池上の長栄山本門寺と共に日朗聖人開基の三大寺「三長三本」と呼ばれ、また日像・日輪両聖誕生の霊場として遠近の信徒の参詣を集めてきました。明治維新後は廃仏毀釈等に依り一時疲弊しましたが、近年では五重塔新築や庭園造営など境内整備が進み、松戸の「あじさい寺」として観光名所ともなっています。今日「花の寺」として親しまれている本土寺の本土とは我此土(わがこのど)、つまり、お釈迦様が本当の佛、本佛となって住む国土「本土」に由来します。また、花は本佛に捧げる花であり、宝樹であります。お釈迦様(本佛)の御姿は草木国土成佛させようという慈悲の光に輝いております。あなたの心にも永遠の安らぎが与えられますように。合掌

不受不施とは聞き慣れないことばかも知れませんが、法華経に帰依せざる輩から施しを受ける積もりもねえし供養もしてやらん−と云うことなの。その起こりは文禄4年(1595)の方広寺大仏供養に始まるとされ、豊臣秀吉は各宗派から出仕僧を募り、千僧会を開こうとしたの。殆どの宗派は参加を表明したのですが、日蓮宗の日奥上人だけは、法華経の信心もしてねえヤツから参加を求められたくもねえし、褒美も欲しくはねえ−と拒絶。おまけにその秀吉には、大仏供養などやめちめえ−と書状を送りつけて諫めているの。信心もせん輩が大仏供養とは聞いて呆れるぜ−と云ったところね。天下人の秀吉を非難するのですから上人の心臓は並外れて強かったのでしょうね。ですが、寺の他の者に危害が及ぶことを畏れた上人は一人寺を離れると流浪の旅に出たの。

ところが行く先々で上人がその精神を説くと次第に賛同者も増えてくるの。そうなると受施容認派との対立も深まり、遂にはその訴えから幕府に捕えられて流罪にされてしまうの。一時は赦されるのですが再び流罪。と云ってもその時既に上人は入寂していて、何とその遺骨を流罪にしたの。日蓮宗の宗祖・日蓮上人が殉教の使徒となり時代を駆け抜けたのなら、日奥上人もまた然り。精神甚だ脆弱にして不信心なξ^_^ξには驚嘆に値するパワーの持ち主達ね。

主義主張の如何は別にして、歴史上には強者がいるのですね。上人亡き後もその信仰は広く浸透し、江戸幕府は不受不施派の寺院のみならず、その信者達にも徹底的な弾圧を加えるようになったの。隠れキリシタン同様、不受不施派は表向きの改宗をすると夜陰に乗じて密かに土蔵などに集まり、その法話を聞いたと云われているの。その後も全国規模の検挙が幾度となく行われ、江戸幕府が滅んだ後の明治3年(1870)まで弾圧の嵐は吹き荒れたと伝えられているの。余談とするにはちょっと長すぎましたね、ゴメンナサイ。

受付を済ませて最初に目を惹く建物がこの五重塔よ。千葉県では平成21年(2009)に銚子市にある圓福寺(通称:飯沼観音)で新たに五重塔が建てられ、現存する建物としては三基あることになるのですが、本土寺の五重塔は中山法華経寺に次いで二基目にあたるの。尤も、中山法華経寺の方は江戸時代の元和8年(1622)に建立されたものですが、こちらの五重塔は平成3年(1991)に日像上人650年忌を記念して建立されたものなの。でも、塔内には何と仏舎利が安置されているそうよ。何故そんな貴重なお釈迦さまの舎利を収めることが出来たのか不思議ね。

因みに、舎利はサンスクリット語の Sarisa が音訳されたもので、元々は身体を表すことばなの。お釈迦さまの入滅後、残された弟子達は荼毘に附されたお釈迦さまの遺骨を8ヶ国に分骨して塔を建てて祀ったの。仏教の流布と共に各地に寺院が建てられ、舎利塔も多くなると、お釈迦さまが生前愛用していた身廻品なども舎利に見立てて安置するようになったの。

ねえねえ、そんなにお釈迦さまの遺品て多いの? 幾ら何でもそんなには無いわね。 じゃあ、みんなどうしたの? 牛玉とかお米の種籾を代用品として納めたの。最近では経典を納めることも多いの。 ねえねえ、牛玉ってなあに? 牛のお腹に出来る結石のことなの。昔は今みたいな医学知識も無かったから結石は貴重品で薬としても使用されていたの。それを一切の願いをかなえてくれると云う如意宝珠に見立てて舎利塔に納めたの。 ふう〜ん。じゃあ、お米の種籾にはどんな意味があるの? 稲穂は見たことあるわよね?最初は一握りの籾でも田圃に植えるとやがて沢山のお米が出来るでしょう。お釈迦さまの教えもお米と同じように最初は少なくてもやがて皆んなを救ってくれるようにとの願いを込めて納められるようになったの。 じゃあ、教典はどうして? 経典はお釈迦さまの教えを凝縮したものよね。
そこにはお釈迦さまの魂が宿っている−と云うことからお釈迦さまの分身として納められるようにもなったの。
ふ〜ん、そうなんだ。 これはオマケのお話しだけど、俗に寿司御飯のことをシャリとも云うけど本当は別物よ。舎利 Sarisa がお米を指す同じサンスクリット語の Sali に発音が似ていることからお米=仏舎利として同一視されるようになったの。

五重塔の左手には袴腰の付いた立派な鐘楼が建つの。釣鐘も国の重要文化財に指定されると云うのですが、残念ながら登楼は出来ないの。興味のある方は 松戸市 から、TOP頁→まつどの魅力→まつどの観光・魅力・文化→市内おでかけマップ→おでかけマップ→松戸市文化財マップと、リンクを辿ってみて下さいね。国指定文化財の項に梵鐘と銘文の写真が掲載されていますよ。

梵鐘 国指定重要文化財 昭和52年(1977)06月11日指定
建治4年(1278)鋳造の釣り鐘で、県下で二番目に古く、高さ30.7cm・径69.0cmで、約700Kgの重さがある。この鐘は文明14年(1482)、本土寺第10代住職日瑞のとき、檀那の設楽助太郎・大伴継長の協力を得て求めたことが記されている。また、この鐘は初め印東庄六崎(佐倉市)の大福寺にあったことが分かり、製作者は上総国刑部郡(長生郡長柄町)の大工・大中臣兼守と記されており、長柄町は昔から鋳物や金銀細工が盛んなところで、この鐘は千葉県の工芸の歴史を知る上で貴重な存在となっている。

写真に写る建物は開山堂で、宗祖(日蓮上人)700年遠忌記念に新築されたもの。一般客は拝観することは出来ませんが、堂内には本土寺の開創時に造立されたと云う日蓮上人の祖師像が祀られ、日朗・日傳両上人像を始めとした歴代住持の位牌も祀られているの。中をどうしても見学してみたい方は本土寺ミニツアー(会食付:¥5,000)に御参加下さいね。開山堂の他にも本堂や像師堂などの建物の内部が見学可能よ。詳しくは 本土寺 を御参照下さいね。

ここで五重塔の前に咲いていた紫陽花を幾つか紹介しておきますね。同HPに依ると、境内に咲く紫陽花は10,000株、花菖蒲も5,000株あるそうよ。因みに、櫻は100本、モミジも1,000本程あり、「四季の寺」を冠するだけあって初夏だけでなく、春先や秋の紅葉も楽しめそうね。

次に向かう先は本堂ですが、その登口右手にはモミジが植栽されて、苔むした庭が風情あるたたずまいを見せ、石段の傍らには正面に「翁」と刻まれた卵形の石碑が建てられているの。

この句碑は江戸時代の文化元年(1804)に行われた芭蕉忌を期して建立されたものです。正面にはこの句碑を建立した今日庵元夢とその門人、可長・探翠・一堂・幾来・一鄒といった東葛地方の俳人達の名が見られます。ここに名を連ねる一鄒とは、本土寺第39世日浄上人のことです。本土寺ではしばしば「翁会」と称する句会が催され、小林一茶も参加しており、幾つかの句が残されています。碑面には「御命講や油のような酒五升」の他に、芭蕉忌に因んだ「芭蕉忌に先ずつゝがなし菊の花」と云う句などもあります。平成9年(1997)03月 松戸市教育委員会

碑には「東都今日庵門人小金原 藤風庵可長 松朧庵探翠 方閑斎一堂 避賢亭幾来 当山三十九世仙松斎一鄒 文化元子十月建之」と刻まれることから、江戸の今日庵元夢の門下生でこの小金宿の住人・藤風庵可長以下5名がこの石碑を建立したことが分かるの。因みに、御命講は御影供とも呼ばれ、日蓮上人の命日(10/13)に前後して行われる法要のことで、信者等が萬燈をかざして太鼓などを打ち鳴らしながら題目を唱和するの。「御命講や油のような酒五升」の詠句ですが、芭蕉DB には芭蕉も本歌取りしていたことが記されているの。う〜ん、奥が深いわね。

本堂への石段 本堂 本堂への石段

本堂を後にして順路を右手にとると、木立の中に「妙真院日上秋山夫人之墓」と刻まれた秋山夫人のお墓があるの。

秋山夫人の墓 〔 秋山夫人の墓 〕  昭和41年(1966)松戸市文化財指定
秋山夫人は甲斐の武田一族である秋山虎康の娘で、15歳で徳川家康の側室となり、名を於都摩の方または下山の局と称され、家康の第五子万千代君を生んだ。万千代君は後に武田信吉を名乗り、天正18年(1590)に小金城三万石に封ぜられた。秋山夫人はその翌19年(1591)10月6日小金で病死した。現在の墓石は信吉の甥・徳川光圀(水戸光圀)が貞享元年(1684)に建立したものである。

秋山夫人は9歳の信吉を残して24歳の若さで病没してしまうの。その亡骸は何故か本土寺の寺地ではなくて門前に葬られ、土盛りの上には墓石の代わりに松の木が植えられたの。墓碑銘には「檀越也 夫人法名日上号妙真院其墳上有一松樹 土人呼曰日上松」とあるように、その松の木は秋山夫人の法名に因み、「日上の松」と呼ばれていたと云うのですが、家康の側室にもなった人にしては邪険な扱いね。血脈をめぐる権謀術数が蠢いていたのかも知れないわね。信吉にしても僅か9歳では周りの大人達がすることに口を挟むことなど出来なかったでしょうし。それとも何か他に・・・?

後の貞享6年(1684)、信吉の甥にあたる水戸光圀は鷹狩りでこの地を訪れた際に「日上の松」が秋山夫人の墓所と知ったの。その佇まいに殊の外哀れを感じたのでしょうね、光圀はその亡骸を本土寺内に改葬することを決めるの。But 松の根本を掘り起こして遺骨を得ようとしたのですが見つからず、仕方なく堀土を以てその代わりとしたの。秋山夫人が病没して既に100年近く。遺骨もまた時を経て土に還っていったのでしょうね。光圀はこの墓碑を建て、位牌を収めると共に寺領20石を寄進して供養したの。秋山夫人の死因は病死とあるだけで詳しい病名までは分からないけど、我が子の行く末を見届けることも出来ずに、24歳の若さで生を終えなければならなかった夫人の胸中もまた哀れよね。因みに、信吉も病弱だったようで21歳で病没しているの。

順路に従い歩みを進めると歴代住持の墓所があり、その先にも紫陽花苑がありましたが、ξ^_^ξが訪ねた時には樹勢が今一つで、境内のあちらこちらで咲く紫陽花とは較べようもなく。傍目には養生中にしか見えませんでしたが、植栽されている環境のせいかしら?その紫陽花苑を過ぎると菖蒲園が見えてくるのですが、その手前には宝物殿があるの。傍らには本土寺の境内では珍しい白い紫陽花が咲き乱れていたの。

菖蒲園には公称値で5,000株もの花菖蒲があるそうよ。訪ねたときには紫陽花と共に見頃を迎え、一度で二度おいしい体験をしてしまいましたが、これで拝観料¥500は超お得よね。菖蒲園の写真を纏めてアップしておきましたのでお楽しみ下さいね。

菖蒲園を回り込むと井戸のような建物があり、「〔 日像菩薩誕生水 〕  日蓮大聖人の御遺業である天子の御教化、都の開教を年僅かに13歳で拝命し、40年に及ぶ大艱難の末、後醍醐帝により大願を成就され、第二の日蓮と讃えられる日像聖人は文永6年(1269)8月10日この地、平賀家に生誕されました。その時庭前に湧き出た泉がこの井で、往古より乳出の御霊水と崇められて、数多の人々が御利益を頂いております」と案内されていましたが、いくら何でも出生時に湧出したと云うのは虚構よね。四方を柵で囲んだ中央には石臼みたいな釜鍋のような格好をした遺物が祀られていますが、昔は地中から自然に湧き出していたのではないかしら。

乳出の御霊水とありましたが、実は、傍らに立つ銀杏の木にも「お乳」があるの。銀杏の木は樹齢を重ねると気根と呼ばれる円錐形の突起が現れることがあり、端から見るとおっぱい(笑)みたいに見えることから乳イチョウなどと呼ばれ、子宝や子育てに霊験灼かな銀杏として信仰の対象となることもあったの。説明では銀杏のことについては触れてませんが、お出掛けの際には誕生水と併せてご見学下さいね。ダメよ、銀杏の方にばかり気をとられては(笑)。

寸景 寸景 寸景 寸景

次にあるのが祖師堂ならぬ像師堂で、説明に依れば、日像上人が自ら彫刻したと云う「親子相想の日像」像を本尊として祀り、左右には二天が配祀され、脇床には鬼子母神像が祀られるとのこと。先程チラリと触れた本土寺ミニツアーでは内部見学が出来るのですが、未体験のξ^_^ξには詳しいことは・・・です。ごめんなさい。その堂前の一角には「お願い地蔵尊」が祀られ、像師堂に続いて開運日像菩薩像が建てられていたの。

〔 日像菩薩石像の由来 〕  この石像は世人より第二の日蓮聖人と称えられる日像上人のお姿である。當山の前身である豪族平賀家の二男として生誕され、兄の日朗上人に伴われて六才で身延山に登った。大聖人は万寿丸を一目御覧になるや、この少年こそ成人の後必ず我が法を普く宣布する大器となるであろうと、その場で経一丸という名をお与えになったと云う。それから七年、身延での常随給仕の歳月は流れ、病を得られた大聖人は常陸への湯治の途中、武蔵の国(東京)池上宗仲邸では病更に進まれ、本弟子六名を定められた後、特に経一丸を枕辺に召し、立教の核心であった天子への大法奏上と帝都の開教とを御命じになり御入滅になった。時に経一丸13才のことである。宗祖の棺前にて直ちに兄・日朗上人の手で得度、その名も宗祖に似よと日像と命名された。

それから12年、宗祖の第13回忌に當る永仁2年(1294)の春より宗祖忍難弘通の御足蹟を辿った後、御所の正門に立って玄題高唱、妙法未布の地に獅子吼された。爾来30有余年に及ぶ布教も他宗僧俗の怨嫉激しく、為に朝廷をも動かして勅勘三度にも遂に怯む心なく、やがて時の帝・後醍醐天皇の御帰依を得、御所の一画に広大な寺地を賜り、ついで宗号公認とも云うべき御綸旨も賜った。この地平賀にあって母君妙朗尼が常に法難重畳の我が子の安否に心を痛めらるるを知り、望郷思親の念いを込めて御自身の姿を自ら刻んで国許の母君に送られたと云う像尊自刻の像が伝えられているが、この姿はその像を模して檀家の金森一雄氏が寄進された。

次に目に留まったのがこの句碑。達筆な筆跡もさることながら、それを碑面に再現した石工さんの腕もたいしたものよね。

藤風庵可長は今日庵の門人で文化元年(1804)芭蕉翁の第111回忌に当り、本堂階前に追善句碑を建立した同門の一人であり、昭和53年(1978)可長の第163回忌に因み、可長より七代目の子孫・当山総代永妻和男氏が先祖の追善のため、可長の師に当る今日庵元夢の筆跡を表に、可長の句を裏に刻んで之を建立した。
表 
世は夢のみ那通ひ路か梅の花 
秤目にかけるや年の梅椿
今日庵元夢 
藤風庵可長

尚、永妻家は水戸街道の小金宿で古い暖簾を誇る飴の製造業者であった。永妻家の先祖・藤風庵可長は今日庵元夢の弟子で、馬橋村在住の大川立砂の門人の小林一茶とは同門であった。永妻家には一茶が宿泊したと云われている。

稲荷社 苔 深緑 銭洗弁財天

句碑の横を通り抜けて脇道を辿ると正面には小さな稲荷社があり、そこからは御覧のように苔に覆われて、林の中を歩く散策の小径になっているの。道の傍らにはさりげなく添え書きが記されていましたが、深遠な哲学の境地ね。

ほんの少しの時間でも 永遠と想う時がある
ほんの少しの道程でも 無限と思う道がある

小径を歩いていると前方から水音が聞こえてきましたが、小さな滝が流れ落ちていたの。滝水はやがて弁天池へと流れ込むのですが、傍らには小さな弁財天像が祀られていたの。説明には−古記によると当山勧請の銭洗弁財天は霊験灼かにして、流れで銭を洗うことにより、福禄倍増したとある。しかしその神像が失われて久しかった。この度縁合ってその神像を数百年ぶりに再現したものである−とありましたので、忘れずにお参り下さいね。でも、呉々も誤解の無いようにして下さいね。福徳を願う心と共にお金を洗い清めることで初めて不浄の塵垢も消えて福銭となるの。ただ単にお金が倍になって返ってくるわけではないのよ。

参道を埋め尽くさんばかりに紫陽花が競い咲きをしていましたが、かき分けるようにして進むとあるのが妙朗堂で、日朗上人のお母さんの像が祀られているの。説明には「日像・日輪両上人の母君妙朗尼の婦徳を讃えて昭和初年建立され、日像聖人御自刻の尊母の御像が安置されております。この御像は帝都開教の為18年まみえることのなかった御母の御逝去に急ぎ御帰省の折、庭前の誕生櫻の枯枝を以て手づから刻まれました。慈母追影の孝心を今に傳えます奥ゆかしい御姿であります」とあるの。手紙などでの遣り取りは当然あったのでしょうが、成長した我が子の姿を見ることもなく亡くなったとあっては幾ら弘法のためとはいえ、切ないお話しね。

左掲は通称、朗師門と呼ばれる開山門。本土寺を開山した日朗上人の跡を継いだ日傳上人は日朗上人を師と仰いで尊び、師の出入り以外にはこの門を使用することが無かったことから朗師門と呼ばれるようになったのだとか。使われている丸柱も延慶3年(1310)に建てられた当時のもので、本土寺最古の貴重なものだそうよ。その朗師門をくぐり抜けた先(と云っても立入禁止ですが)には「この門に一茶もかけしみのと笠」の句と共に蓑と笠が掛けられているの。

拝観順路の最後を飾ってくれたのがこちらの紫陽花苑。


本土寺の紫陽花はイメージ戦略(笑)では鎌倉の名月院に負けてしまいますが、内容はとっても充実しているの。広い境内には歩道がめぐらされ、景観を愛でながらゆっくりと散策が出来るようになっているの。お寺は観光施設ではないと分かってはいても、物見遊山の参詣客にも広く門戸を開けて下さっているのはうれしいことよね。訪ねてみれば、境内にはあでやかな紫陽花や花菖蒲の立ち姿とともに、その根本には伯父の生母が眠ると云う日上の松の佇まいに涙したであろう水戸光圀の姿や、殉教の徒となったが故に互いにまみえることもかなわずに、それでも常に我が子の息災を願う母親の姿や、遠く離れて故郷に思いを寄せ、親を思う日像上人の姿があったの。咲き競う紫陽花の花影の向こうには温かなぬくもりがありました。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥

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どこにもいけないわ