≡☆ 妻沼のお散歩 ☆≡
国宝・妻沼聖天堂を訪ねて

埼玉県熊谷市妻沼にある聖天院の本堂・聖天堂が平成24年(2012)に国宝に指定されたの。建造物としては埼玉県初の国宝指定で、熊谷市では初の栄誉なの。その聖天院を始め、周辺の寺社を訪ね歩いてみたので紹介してみますね。一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

大我井神社〜聖天院〜玉洞院〜瑞林寺

1. JR熊谷駅 くまがやえき 10:10発

熊谷駅 実はこの妻沼の聖天院を訪ねたのは初めてではないの。冒頭でも御案内しましたが、聖天堂が国宝に指定されたのは平成24年(2012)ですが、8年間にも及ぶ「平成の大改修」を終えて一般公開されたのは前年の6月のことだったの。TVのスポットニュースで流れた絢爛豪華な色彩が蘇った聖天堂の映像に目を奪われ、是非ともこの目で見てみたいと思ったの。その時はまだ聖天堂の他には足を向けることもなかったのですが、いざ出掛けてみると、知らずにいた事物や事蹟があることを知り、興味を覚えて再訪したの。

どこへ行くにも公共の交通手段に頼らざるを得ないξ^_^ξとしては、この日もJR熊谷駅北口6番乗場から発車する朝日バスの「太田駅南口」行に乗車しましたが、同じ運行系統で「西小泉駅」行や妻沼聖天前を終点とするバスもあり、どれでもOKなので御都合に合わせて御乗車くださいね。所要時間:約30分 ¥450

2. 妻沼聖天前BS めぬましょうてんまえばすてい 10:39着発

バス停

But 見聞が広がると、また新たに見残しがあることに気付くと云う悪循環(笑)。結局、妻沼を訪ねること都合5回にも及んでいるの。知ったからと云って日常生活には何の役にも立たない雑学の世界で、単なる自己満足でしかないのですが、それでも知ると云うことは楽しいものよね。それはさておき、今回の散策では徒歩で歩き回っていますが、平成24年(2012)4/28から熊谷市と市民の協働でレンタサイクルが設置されたの。番外編では能護寺を紹介しますが、レンタサイクルを利用すればアプローチも容易ね。オマケに無料だそうよ。お問い合わせは 藤川屋青春館 さんへ。尚、御利用の際は一つ手前の妻沼仲町BSが最寄りのBSになりますので、お間違えの無いようにね。

3. 大我井神社 おおがいじんじゃ 10:44着 10:57発

〔 武州妻沼郷大我井神社 〕  大我井神社は遠く人皇第12代景行天皇の御代日本武尊東征の折、当地に戦糧豊作祈願に二柱の大神、伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀った由緒深い社です。古くは聖天宮と合祀され、地域の人々から深い信仰を受けてきた。明治維新の神仏分離令により、明治2年(1869)古歌「紅葉ちる大我井の杜の夕たすき又目にかかる山のはもなし」(藤原光俊の歌・神社入口の碑)にも詠まれた現在の地「大我井の杜」に社殿を造営御遷座しました。その後、明治40年(1907)勅令により、村社の指定を受け妻沼村の総鎮守となり、大我井の杜と共に、地域の人々に護持され親しまれています。中でも摂社となる富士浅間神社の「火祭り」は県内でも数少ない祭りで、大我井神社の祭典とともに人々の家内安全や五穀豊穣を願う伝統行事として今日まで受け継がれています。熊谷市観光協会

左掲がその歌碑ですが、相馬御風の書で、昭和17年(1942)に建立されたもの。藤原光俊は鎌倉時代の歌人で、新三十六歌仙の一人に数えられ、鎌倉幕府第六代将軍・宗尊親王の歌道師範として度々鎌倉に招かれているのですが、この時も歌会に出席するなどしてしばらく鎌倉に滞在し、東山道を経て帰京する途次のことなの。妻沼に差し掛かり、ふと立ち止まると、視界には紅葉を散らす大きな大我井の森の他には山と云う山も見えず、何とまあ、武蔵野と云うところは広いものよのお−と詠じたの。余談ですが、「夕」は、本来であれば「ゆふ(木綿)」が正しいのだそうよ。

今でこそ木綿は「もめん」と読み、綿花から作られた糸を指しますが、綿織物が一般化するのは室町時代以降のことで、当時は同じ木綿でも「ゆふ」と読み、楮(こうぞ)の皮を剥いで作られた糸のことを指していたの。その糸を編んで作られたのが木綿襷(ゆふたすき)で、神事を行う際に肩に掛けたの。その「ゆふたすき」が平安中期以降、「懸ける」や「懸かる」の枕詞に転化して本来の意味を失うの。光俊の本歌では「ゆふたすき」なのですが、収録される【夫木和歌抄】の復刻出版が繰り返される中で誤訳された「夕たすき」が常態化してしまったの。じゃあ「夕たすき」は何を表していることになるの?それはみなさんの御賢察にお任せよ。

参道左手に祀られている岩は福石と呼ばれ、これでも立派な御神体みたいよ。傍らに建つ福石由来之碑に依ると、天明2年(1782)の洪水の際に流れ来たもので、その奇瑞に村人達が社を建てて崇めたことが知れるのですが、どんな霊験があったのかしら。碑には天明2年(1782)のこととあるのですが、本当は天明6年(1786)ではないのかしら。天明3年(1783)には浅間山が大噴火して大量の火山灰が流れ込み、利根川の河床が上昇したところへ大雨が降り、権現堂堤(幸手)も決壊して氾濫流の被害が江戸にまで及ぶと云う、未曾有の大水害が起きているの。碑文には関東大洪水とあるので、その時のことのような気がするのですが。

敬神尊王帝國大典亦我國民通牲也故古今不乏 其事蹟盖福石玉垣造營其一事也謹按之由來當
天明二年關東大洪水山靈流下巨石而停字森下 地先人々感其奇蹟祀神稱福石神社爾來靈驗不
淺庶民仰其徳故官下諭告合祀村社大我井神社 是實明治四十二年十月也矣雖然神體巨石■在
神庭森下荒井氏子等竊憂迹神慮偶今上陛下行 給即位大禮■大當大義哉其■奉祝情不能禁■
諮畫福石玉垣造營以爲永久不滅紀年事業是實 可謂敬神尊王兩行今竣工茲記其概要以傳■■
云爾時大正四年星次乙卯十一月也 社掌 橋上福高篆額 勳八等 井田諄謹書

■の部分ですが、汚れで読み取りが出来なかったり、崩字や簡略字などが使われていたりして分からないの。
他にも間違いがあるかも知れませんが、気付いても目を瞑って下さいね。

〔 大我井神社唐門の由来 〕  当唐門は明和7年(186年前)若宮八幡社の正門として建立された。明治42年(1909)10月八幡社は村社大我井神社に合祀し、唐門のみ社地にありしを大正2年(1913)10月村社の西門として移転したのであるが、爾来40有余年屋根その他大破したるに依り社前に移動し、大修理を加え 両袖玉垣を新築して全く面目を一新した。時に昭和30年(1955)10月吉晨なり

その佇まいから古社に思えたのですが、調べて見ると意外に新しく、明治期の神仏分離を受けて明治2年(1869)に創建されたものだったの。この後紹介する聖天院ですが、明治以前は神仏習合状態で、「神仏判然の令」の発布を受けて聖天堂の帰属について大問題が起きるの。当時聖天院内にあって禰宜をしていた田島・橋上・堀越の三家が聖天堂は神社であると主張して提訴に踏み切るの。一方、別当寺の歓喜院からすれば聖天堂を取られては存亡の危機。そこで住持の稲村英隆和尚は氏子28ヶ村の村役人と相談、新たに神社を造営することでようやく決着が図られたの。

But ξ^_^ξが思うに、聖天堂に安置される本尊は聖天さまこと大聖歓喜天で、それも雙身像よ、習合を解いたからといってそれを伊弉冉尊・伊弉諾尊とみなすのは端から無理よね。確かに、聖天さまを祀りながら神社を称している事例も少なくないけど。戯れ言を書いてしまいましたが、大我井神社の主祭神として伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱が祀られる理由がこれでお分かりよね。その後、明治政府の神社統合政策を受けて明治42年(1909)には近在の神社が合祀され、現在に至っていると云うわけ。社殿も明治2年(1869)に造営されたもので、その後幾度かの改修を経て、現在の社殿は平成11年(1999)の「平成の大修理」を経てのものなの。

社殿の左手にあるのが富士塚で、角行霊神・小御嶽大神・富士浅間大神などの神名を刻む石碑が並び建てられているの。頂上に富士浅間大神の石碑があることからお分かりのように、富士山を霊地として崇める富士信仰に由来するもので、実際の富士登山が本来の姿なのですが、健康上や経済的な事由などから誰もが容易に出来るものではないわよね。そこで代理登山や富士塚に代参することで信仰の証としたの。ここ妻沼ではどうだったのかは分かりませんが、一日の内に富士塚を七ヶ所巡る「七富士参り」なども行われたようよ。勿論、実際に登山する場合もあり、某講中とある石碑は富士登山を記念して献納したものも多くあるの。

富士信仰の総本山は静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社。
御神体は云うまでもなく富士山よね。

4. 板石塔婆 ばんせきとうば 11:09着 11:10発

妻沼町指定文化財 指定年月日 昭和40年(1965)3月16日
種別:考古資料 名称:板石塔婆「善光寺式三尊像板碑」
表面の主尊に阿弥陀如来、脇侍に観音、勢至両菩薩を半浮き彫りにし、光背部に七化仏を配した所謂「善光寺式三尊板碑」で、通称「ひら仏」と呼ばれている。 裏面には釈迦如来と文殊・普賢の両菩薩の種子が刻まれている。紀年銘は無いが、鎌倉時代のものである。この板碑は嘗て妻沼小学校の敷地(もと大我井森)にあったが昭和30年(1955)12月校舎増築のため現在地に移転したものである。高さ178cm 幅59cm 熊谷市教育委員会

聖天院を訪ねる前に、本坊があると云うので先にその本坊を訪ねることにしたの。途中には花蔵院と云うお寺もあり、嘗ては聖天院の塔頭の一つだったのでは−と気になり寄り道してみたのですが、然したる収穫も得られずに本線に復帰。ビルのようでいてパゴダのような本堂を御覧になりたい方はお立ち寄り下さいね(笑)。それはそれとして、本坊の少し手前の木立ちの蔭に仰々しく護られて板石塔婆が立てられていたの。元は妻沼小学校の敷地(大我井の森)に立てられていたもので、その妻沼小学校と云えば、嘗て斎藤別当実盛の邸が建てられていた場所であることから、一説にはその斎藤別当実盛の供養塔ではないか−との噂もあるの。噂よ、あくまでも噂(笑)。

5. 妻沼聖天院本坊 めぬましょうてんいんほんぼう 11:11着 11:14発

本坊は阿請坊良応僧都(後述)が建久8年(1197)に聖天宮の別当坊として建立したもので、歓喜院長楽寺と号し、本尊に祀られる十一面観音像は宮道国平らが寄進したものと伝えられているの。残念ながらこの本坊に関しては他に紹介する事柄の持ち合わせが無いので、誌面を埋めるために(笑)代わりに「大我井の森」について少しお話してみますね。聖天院に伝えられる【白髪神社聖天正統記】には「日本武尊東夷征伐之砌 地主の神と崇め給ふ井光彦命 太我居の森に鎭利玉ひて後 別府郷に移り鎭まりまします井殿大明神 即ち宣わく 太(はじめ)我が居る森と云ふ故に 則ち此處を太我居之森と唱う也云々」との記述があるのですが、他にも諸説があるようで、今となっては分からないと云うのが本当のところみたいね。

それはさておき、気になるのが白髪神社のことなの。実は聖天院の前身はその白髪神社(しらかみのかみのやしろ)だと云うの。安永元年(1772)に根岸伊兵衛が著した【武乾記】には「往古は白髮神社にして延喜式に載する所の古社也 別當實盛信仰し 治承に至り越前國金ケ崎城より聖天宮御像を當社に持來り合祀す 故に社名を聖天宮と申し奉る 後に白髮神社は別に祠を建て 尊を奉ぜりと云ふ」とあり、治承3年(1179)に斎藤別当実盛が守り本尊として歓喜天像を白髪神社に合祀して聖天宮と称えたことが記されているの。

そうして気が付いたときには聖天さまだけが名を馳せていて、白髪大明神の方は居場所を失っていたの。白髪大明神にしたら聖天さまに軒先を貸した積もりがいつの間にか母屋を乗っ取られてしまったと云うところね。そこで再び新天地を求めて遷座したのが妻沼字女体に鎮座する白髪神社だと云われているの。更に歴史を遡ると承和8年(841)に教與上人なる僧が大我井の地に最初に祀ったのは弁財天だと云うの。2/8のことで、それより遅れること僅か9日後でしか無いのですが、引き続き白髪神社が祭られたの。弁才天のルーツは古代インド神話ではサラスバティー河を神格化したもので、水とは深〜い繋がりのある神さまよね。一方の白髪神社ですが、渡来人達が崇めていた祖霊神に由来するとの噂があり、そこからは渡来人達がこの地に入植して農地を開拓していった様子が垣間見えて来るの。

一方、先程触れた現・白髪神社の地には元々和銅4年(711)に勝道上人が勧請したと云う高岡稲荷明神社があり、白髪神社は合祀されたことになるの。その稲荷神にしても元々は五穀豊穣などを祈願するために祭られた農耕神で、そのルーツは同じく渡来系の秦氏の祖霊神だと云われているの。三神が共通の目的を以て祭られたことが分かるわね。同じ渡来系と云うことで祀る方も、祭られる方も親和性が良かったのかも知れないわね。尚、ここでは虚実(想像も含む)が入り乱れていますので呉々も鵜呑みしないで下さいね。だったら書くな!だったかしら(笑)。

神明社の前にミミズがのたうちまわったような(失礼)文字を刻む石碑が建てられていたので、何かしら−と近付いてみると「いろは歌碑」だったの。文末には空海の銘があり、空海ってあの弘法大師のことかしら?などと思って帰宅後に調べて見ると、空海の真筆とされるものだったの。それにしてもミミズの軌跡のような文字の主が三筆の一人とは。いろは歌を知るから何とか読み取ることが出来たものの、知らなければ素直に断念していたと思うわ。余談ですが、巷ではそのいろは歌を空海(弘法大師)作とする説があるのですが、あくまでも風評みたいね。史家の間では諸説紛々、結局は詠み人知らず−のようね。

いろはにほへと ちりぬるを
色は匂へど 散りぬるを
わかよたれそ つねならむ
我が世誰ぞ 常ならむ
うゐのおくやま けふこえて
有為の奥山 今日越えて
あさきゆめみし ゑひもせす
浅き夢見し 酔ひもせす

歌碑は平仮名で刻まれているのですが、漢字交じり文を併せて紹介してみました。
宛字には異説もあるのですが、ここではξ^_^ξの個人的な好みで決めていますので御了承くださいね。

6. 聖天院 しょうてんいん 11:20着 12:25発

聖天山は大聖歓喜天を本尊とし、治承3年(1179)び開創せらる。開基は斎藤別当実盛公なり。本尊は聖天尊・歓喜天尊などと称せられ、密教甚重最極の尊天にして開運厄除縁結びの霊験灼かなり。尊像は建久8年(1197)の奉鋳にして、出自明らかにして様式独特なれば国指定重要文化財なり。開基実盛公は勇猛果敢・温厚篤実にして、その人徳は平家物語を始め、数多の史書等にて讃えられ、知らざる者なかるべし。本殿は宝暦10年(1761)の竣工なり。江戸中期の技術の粋を極め、豪壮華麗にして、しかも資金たるや庶民信徒信仰の篤き結晶なれば国指定重要文化財なり。県指定文化財に貴惣門・鰐口・紵絲斗帳あり。伽藍に仁王門・中門・鐘楼・大師堂・多宝塔・籠堂・本坊など甍並びたり。豈賛仰せざるべけんや信じざるべけんや

聖天山貴惣門 種別:国指定重要文化財 建造物 指定年月日:平成14年(2002)5月23日
妻沼聖天山聖天堂の正門として建てられた雄大規模の八脚門で、側面(妻側)に破風を三つ重ねた類例の少ない奇抜な形式に特徴がある。寛保2年(1742)幕命で、利根川大洪水の復旧工事に妻沼を訪ねた周防国(山口県)岩国吉川藩の作事棟梁長谷川重右衛門に聖天堂の大工棟梁林正清が設計を依頼したもので、約100年後の嘉永4年(1851)正清の子孫林正道が棟梁となり完成した。総欅造の精緻なつくりに多様な技法の彫物で要所を飾るなど、江戸末期の造形芸術の粋が発揮されている上、主要部材に寄進の名を残す等、郷民信仰の証を伝える貴重な建造物である。熊谷市教育委員会 (宗)聖天山歓喜院

貴惣門を潜り抜けて参道を進むと、木立に護られるようにして斎藤実盛の銅像が建てられていたの。その出で立ちから出陣前の姿であることは分かるのですが、左手に鏡を持ち、右手には筆を持つと云う、出陣前にしてはちょっと異な印象よね。実はこれ、白くなってしまった髪や髭を墨で染めているところだったの。実盛が何でそんなことをしているのかはこの後に紹介しますが、先ずは傍らに案内されていた文部省小学唱歌の「齋藤實盛」から紹介してみますね。But 文部省唱歌とあるけどξ^_^ξは知らないわよ。それもそのハズ、同じ小学校でも尋常小学校のお話だったの。道理で小学生向きにしてはことば遣いが難しいと思ったわ。

銅像

一、
年は老ゆとも しかすがに
としはおゆとも しかすがに
弓矢の名をばくたさじと
ゆみやのなをばくたさじと
白き鬢髭墨にそめ
しろきびんひげすみにそめ
若殿原と競ひつつ
わかとのばらときそひつつ
武勇の譽れを末代まで
ぶゆうのほまれをまつだいまで
残しし君の雄雄しさよ
のこししきみのおおしさよ
二、
錦かざりて歸るとの
にしきかざりてかえるとの
昔の例ひき出でて
むかしのためしひきいでて
望の如く乞ひ得つる
のぞみのごとくこひえつる
赤地錦の直垂を
あかじにしきのひたたれを
故郷のいくさに輝かしし
こきょうのいくさにかがやかしし
君が心のやさしさよ
きみがこころのやさしさよ

「齋藤實盛」の歌とやらを聴いてみたい−と思われた方は現地へお御足をお運びくださいね。「このサウンドモール實盛公は唱歌齋藤實盛をAM7:00-PM9:00の時間内にこのスイッチを押すと聴くことができる施設です。規定時間外は利用できませんのでご注意下さい」とのこと。残念ながらξ^_^ξが試したときには故障中で、待てど暮らせど反応が無くて試聴は諦めたの。なので感想は?ですので、みなさんの耳でお確かめ下さいね。m(_ _)m

銅像は【平家物語】や【源平盛衰記】に描かれる実盛の逸話に基づいて造られたものなの。なので、その逸話を紹介しないことには造形の意味が分からないの。実盛は戦陣に赴く際に敵に老兵と侮られぬように白髪と髭を墨で染めて出陣した逸話に因むと案内してさらりと済ませてしまうものが多いのですが、それでは実盛の思いが伝わらないの。But それを語るには背景から御案内しなければならず、逸話の紹介と雖もかなりの長丁場になってしまうの。そこで別に頁を設けましたので こちら を御笑覧下さいね。出来たらコーヒーでも飲みながら、読み物としてお楽しみ頂けたらうれしいな(笑)。尚、以降の記述はお読み頂けたものとしてお話を進めていますので御了承下さいね。

如何でしたでしょうか、お楽しみ頂けたかしら。実盛が敗死したことで長井斎藤家はなくなるのですが、実盛の息・斎藤五実途には実家(さねいえ・五歳)と実幹(さねまさ・三歳)の二児がいたの。その実途と云えば平維盛の遺児・高清と共に仏道修行の旅をする身。既に源氏の世となり、我が子の将来を案じた実途は出家して阿請坊良応と名乗っていた弟の斎藤六実長に二児を託すの。良応は越中に隠棲するのですが、実盛の外甥・宮道傔仗国平(みやじけんじょうくにひら)が源頼朝の奥州征伐に参加して功を挙げ、陸奥国江刺郡と武蔵国長井庄を安堵されていることを知ると、実途から預かった二児を伴い長井庄に立ち帰ると、国平に養育を託し、自らは庵を結んで隠棲したの。

本尊 普通ならそこで命脈が尽きるのを待つだけだと思うわよね。But そこには父・実盛のしたたかな生き様がDNAとして良応に引き継がれていたみたいね。建久4年(1193)、征夷大将軍となっていた源頼朝が下野国に向かう途次、入間野で狩りをし、その折に当地へ立ち寄り聖天宮に詣でたの。良応はその機を捉えて頼朝に聖天宮の修復と別当寺建立のため、関東八ケ国の勧進を願い出たの。 頼朝の裁許を得た良応は錫をひいて喜捨を募り、国平等の後援もあり、建久8年(1197)、遂に聖天宮の修復と別当坊歓喜院長楽寺の建立を成し遂げたの。国平もまた実家・実幹と共に十一面観音菩薩像と歓喜天の御正躰錫杖頭を鋳造して奉納して本尊としたの。その錫杖の柄の部分には「奉鑄 武藏國永井聖天堂錫杖御正躰建立氏人 宮道國平 平氏 藤原實家 藤原實幹」とあるの。時に良応31歳、実家11歳、実幹9歳で、良応にしたら万感の思いがあったのではないかしら。

実家、実幹の二人のその後ですが、【斎藤家譜】〔富山県砺波市・斎藤氏蔵〕に依ると、実家の方は「長井庄西野郷に住す 宮道傔仗国平の女を室とし長井庄総領となる」とあり、実幹は「長井太郎義兼の養子となり 弥藤五と称す」とあるの。因みに、実父の実途ですが、平維盛から息・六代の養育を託されていたのですが、その六代が捕らえられて斬首されると自らもまたその使命を終えたとして自刃しているの。時に実途、35歳。彼もまた義に生きて義に死した東国武士の一人だったの。

熊谷市指定文化財 種別:建造物
名称:四脚門(中門)指定年月日:昭和37年(1962)8月30日
懸魚の模様等に室町期の特徴をよく残し、寛文(1661-1673)の大火で唯一残り、聖天山の建造物群の中でも最古のものと云われる。平成2年(1990)の解体処理により瓦葺きの屋根を銅板に葺き替えたが、柱に明治43年(1910)大洪水の痕跡を残す。里人はこの門を甚五郎門と称している。熊谷市教育委員会 聖天山歓喜院

門柱には色々な木札が掛けられているの。列挙してみると・・・
ぼけ封じ 関東三十三観音霊場 第十六番札所
関東八十八ヵ所霊場 第八十八番 妻沼聖天山
弘法大師八十八ヶ所霊場 幡羅新四国第十三番札所 第七十六番合祀
彩の国 武州路十二支霊場 午年の寺 聖天山歓喜院
東国花の寺百ヶ寺
−とあるの。

日本三大聖天さまの一つとして知られる妻沼聖天院は福運厄除祈願の信仰を広く集めているのですが、とりわけ縁結びには霊験灼かとされてきたの。その聖天院境内にあって特別な存在がこの中門で、嘗てはお見合いの待ち合わせ場所として利用されていたの。恋愛結婚が当たり前の今ではその姿を見掛けることもなくなりましたが、今のおじいちゃんやおばあちゃん達が適齢期を迎えていた頃は未だお見合い結婚が多かったの。この中門が貴惣門と仁王門の間で両者を取り持つようにしてあることから、お仲人さんはその縁にあやかり、待ち合わせ場所にしてお見合いをする二人の顔合わせをしたの。双方が顔をそろえたところで中門を潜ると、本殿に詣でてご縁がありますようにと聖天さまに縁結びを願ったの。その後は後述の千代桝さんあたりでお見合いの席が設けられ、社交辞令で適当な時間が過ぎたところで後はお二人で−となる段取りだったようね。

その中門右手に割烹料理の千代桝さんがあるの。店先には「千代桝(割烹)残雪の家 文豪田山花袋 残雪の舞台となる 妻沼町教育委員会」と案内する石碑があり、作品は読んだことはないのですが、田山花袋の名だけは知っていたので暖簾を潜ろうと一度は思ったのですが、「当店自慢の一品 うな重定食 ¥2,000」の案内を見て直ぐに諦めモード(笑)。後で知ったことですが、作品に登場する部屋は残念ながら焼失してしまい、現在は無いそうよ。

聖天山所蔵文化財
一.
本殿(妻沼聖天堂)国指定重要文化財 建造物 昭和59年(1984)12月28日
源平合戦で名を馳せた斉藤別当実盛公が、治承3年(1179)古社を修造守本尊の大聖歓喜天を祀って聖天宮と称し長井庄の総鎮守としたのに始まり、幾多の変遷を経て宝暦10年(1760)林兵庫正清・正信の手により、25年の歳月をかけ現堂が完成した。本殿は奥殿・中殿・拝殿よりなる廟形式の権現造で桃山建築美を伝える江戸中期の貴重な文化財である。昭和43年(1968)屋根替を終る。
二.
錫杖 国指定重要文化財 工芸品 昭和25年(1950)8月29日
実盛公の外甥宮道国平が公の孫実家・実幹と建久8年(1197)4月聖天堂の本尊として奉鋳寄進したもので、鐶内中央に大聖歓喜天の御正躰を配し柄部に建立氏人及び鋳匠紀年等の刻銘がある。高さ51.8cm 重さ12.5Kg
大正3年(1914)4月国宝に指定、秘仏にして当地方の信仰の中心となる。
三.
紵絲斗帳 埼玉県指定文化財 工芸品 昭和三34年(1959)3月20日
中国明代の織物で忍城主成田長泰が、聖天堂の厨子に懸ける為に奉納したと云う。享保16年(1731)8代将軍吉宗ご覧になり嘉賞。荻生徂徠編「度量衡考」に嘉靖の古物也(嘉靖は明の年号で、1522-66)と紹介されている。布の墨書銘にこの織物を紵絲と呼び中国福建省の機戸袁宗太が織ったと記されている。縦147cm 横170cm
四.
鰐口 埼玉県指定文化財 工芸品 昭和32年(1957)3月1日
直径31cm銘帯に「武州福河庄聖天堂常住也大檀那當庄住人沙弥來阿」外帯に、暦應2年(1339)正月下旬の陰刻があり、南北朝時代に福河庄の存在を証する貴重な資料である。平成8年(1996)4月御開扉記念 熊谷市教育委員会 聖天山歓喜院 熊谷市観光協会

パンフ

聖天院を象徴する建物が本殿で、平成15年(2003)からの足かけ8年にも及ぶ大規模な修復工事を終えて、250年前の極彩色が再び蘇ったの。工事には国などの公的機関からの補助金が約10億円に、寄付金等の3億5千万を加えた巨費が投じられ、殊、彩色に関しては文化財保存の観点から既存の塗装を膠(にかわ)液で固定した上で和紙で覆い、その上から彩色の復元を行うと云う手の込んだ作業が行われたの。その和紙の貼付にしても、将来の剥離が容易となるように正麩糊を使用し、復元された彩色でオリジナルを隠すと云う手法が採用されているの。文字通り、平成の大改修を終えて「埼玉の日光」を再び目にすることが出来るようになり、平成24年(2012)7/9には建造物としては埼玉県下初の国宝に指定されたの。現・本殿建立の歴史を遡れば、享保5年(1720)、当地の工匠・林兵庫正清が霊夢に依り、当時の院主・海算と相い図り、日光東照宮を範とした豪華絢爛な権現造りの本殿建立を決めたことに始まるの。

正清は幕府作事方棟梁を務めた平内政信の子孫と云う血脈を有し、全霊を傾けてその造営に着手するの。But 絵図面は精緻を極める一方で、資金が思うように集まらなかったのでしょうね、実際に着工出来たのは15年後の享保20年(1735)のことで、正清も既に還暦を迎えていたの。正清は絵師に狩野探幽の流れを汲む狩野金信を迎え、彫刻には親交のあった石原吟太郎を棟梁に門弟等の参加を求めたの。そうして延享元年(1744)、中殿の半ばまでの完成を以て遷宮・開帳が行われたの。と云うのも資金面で事業継続が出来なくなってしまったの。

その後、11年の中断を経て宝暦5年(1755)に中殿の残りの部分と拝殿建築に着手するのですが、既に正清は他界していて子の政信が引き継ぎ、宝暦10年(1760)にようやく中殿と拝殿の完成を見るの。と云っても屋根は未だ下地のこけら葺の状態で、当初の設計通りの銅板葺きとなるのは更に時を経た安永8年(1779)のことなの。正清が発願してから60年近くの歳月が流れた訳で、如何に大事業であったかが分かるわよね。加えてそれを支えた市井の、とりわけ地元・妻沼の人達の信仰心よね。途中、工事が中断したのも、利根川氾濫に依る氏子達の生活困窮が主な理由だそうよ。

そういった自然災害が無ければ、完成はもっと早まっていたのかも知れないわね。でも、裏を返せばそういった逆境の中でも支え続けてくれたからこそ完成に漕ぎ着けられたわけよね。今回の「平成の大改修」は公的機関の資金提供が得られたからこそなし得た事業で、自分のことを棚に上げておいて怒られそうですが、信仰心の薄れた今となっては市井の援助だけでは実現不可能なお話しなのかも知れないわね。

〔 聖天堂の建築 〕  聖天堂は拝殿・中殿・奥殿の三棟の建物が一つに繋がる「権現造」と呼ばれる建物で、上から見ると棟の形がちょうど「エ」の字形をしています。日光の東照宮に代表される形式で、江戸時代には神仏習合の建築様式として用いられました。まt、特に奥殿は、足元から軒までを精緻な彫刻が埋め尽くしており、江戸中期を代表する装飾建築です。拝殿は、多くの参拝者を受け入れるため、正面一間を大きな吹き放しとしており、内部の床には大型の賽銭箱を埋め込むなど民衆信仰の特徴がみられます。内外部ともに、中殿・奥殿と進むにつれて装飾を多用して格式を高めています。屋根は拝殿正面に唐破風と呼ばれる起り屋根を付け、更に上部に三角の千鳥破風を載せています。奥殿は、側面・背面にも唐破風を付けて正面性を持たせているのが特徴です。

〔 聖天堂の彫刻彩色 〕  奥殿大羽目彫刻 奥殿の壁に嵌め込まれていた彫刻です。厚さ20cm余りの銀杏の厚板を矧ぎ合わせて、一枚の板に仕立てています。これを高肉透彫(たかにくすかしぼり)で仕上げています。大羽目彫刻の題材は、当時流行していた七福神信仰が基本となっています。西面は三枚が一連の題材となっており、中央間に囲碁打ちに興ずる恵比寿と大黒、脇間にそれぞれの持ち物で遊ぶ唐子達を配しています。福徳と豊穣を象徴する神々、平和や子孫繁栄を体で表現しているかのような子供達は、聖天堂ならではの生き生きとした親しみのある彫刻となっています。

「平和の塔」の前のお祭り広場には「歴史探訪トイレ」があるの。と云っても特別な仕掛けがあるわけでもなくて、普通のお手洗いなのですが、入口には妻沼の地名由来が記されていたの。それに依ると「その昔、利根川の乱流で台地を挟み二つの沼が出来ました。上の沼の近くに男体様(今の男沼天神社境内に東向きに立つ祠)があり、下の沼の辺りに女体様(今も聖天の北東にあり西向きに建つ)があったことから、上の沼を男沼(おどろま−泥沼の意)、下の沼を女沼(後に妻沼)と読んだのが地名の起こりと云われています」とのこと。

余談ですが、その妻沼では昔から松を植えることを忌み嫌い、お正月の門松も樫を使う程だったのだとか。何でも聖天さまが松の葉で目を突かれたことに由来し、突かれた目を雉に嘗めて貰ったところ、忽ち治癒したことから、以後雉が聖天さまの眷属とされたとも、否、目を突かれたのは聖天さまではなくて斎藤別当実盛だとの伝承もあるの。他にも聖天さまはこの地に移られる前に須賀村の熊野社の境内に間借りしていたのですが、聖天さまの方が盛んとなり、このままでは境内を乗っ取られてしまうと危惧した熊野社の氏子達は聖天さまを松葉燻しにしたの。聖天さまはやむなく大我井の森へ移転したのですが、それからと云うもの、聖天さまは松を嫌うようになったとか、聖天さまに願いごとをすれば忽ち叶うことから「待つことが無い」が転じて松は嫌いとなった−などの伝えもあるのですが、聖天さまと松の繋がりが今一つはっきりしないわね。伝承が生まれた背景が気になるわね。

また、雉(きじ)は聖天さまの眷属なので捕まえたりしていけない、殺すようなことでもあると目が潰れ、雉肉を食べると目玉が飛び出すと云われていたのだとか。そのお陰で雉には誰も手出しをしなかったことから境内には多くの雉が住み着いていたようよ。残念ながら今では雉のキの字も見掛けられないけど。

聖天院の紹介の最後に世間話を(笑)。聖天こと大聖歓喜天ですが、実は仏教界では破壊仏とみ做す向きもあるの。既に他の頁で紹介済ですが、歓喜天の梵名は Nandikesvara ナンディケーシュヴァラで、Nandike は歓喜を表し、Svara は王のことなの。そのルーツは古代インド神話に現れる Ganapati Ganesha ガナパチ・ガネーシャで、毘那夜迦天の別称が示すように、魔障の集団が棲む毘那夜迦天の王ともされているの。何と云ってもユニークなのがその像容で、人身象頭の男女二天が抱き合う双神像なの。歓喜天像には単身像もあるのですが、専ら広まるのは双身像で、その教義を唐から伝えたのが弘法大師こと空海上人なの。

空海上人は帰国に際して216部461巻もの経典類を持ち帰りますが、その中に含まれていたのが大聖天歡喜雙身毘那夜迦法なの。真言密教の奥義を学んだ上人ですが、師事した中に北インド出身の牟尼室利(むにすり)と云う僧がいたの。恐らくは彼からインド秘伝の修法教示を得たものなのでしょうね。その像容ですが、大聖歡喜雙身毘那夜迦天形像品儀軌に依ると−此相抱像表六處之愛 六處之愛者 一者以鼻各觸愛背 二者以臆合愛 三者以手抱愛腰 四者以腹合愛 五者以二足蹈愛 六者著赤色裙−と記すように男女の抱擁そのものなの。禁欲を旨とする当時の僧侶達はこの像容にさぞ驚いたことでしょうね。秘仏とされるケースが多いのですが、その意図するところを理解出来ずに、公開すれば誤解を生むと考えられたのでしょうね。案の定、高度な宗教的解釈など分からない庶民には性愛を司る神として、後に性欲・金銭欲をも肯定する超現世肯定的な神として崇められるようになったの。その像容が特異ならその由来も極めてユニークなの。興味津々のあなたに(笑)ちょっと紹介してみますね。

とお〜い遠い昔のことなの。印度のある国に一人の男がいて国王にも良く仕えたことから忠臣として重用されていたの。けれど宮殿に出入りしている内に王妃とも親しく心を通わすようになり、とうとう王妃と関係を結んでしまったの。それを知った国王は殊の外激怒して、その男を殺そうと毒でもある象の肉を美味だからと騙して食べさせるの。男が象の肉を二口三口飲み込むのを見届けた国王は−我が妃をたぶらかしおって!お前のような奴は象肉を喰らい死ぬがよかろうて!!と高笑いするの。男は騙されたことに気付くのですが既に毒が廻りはじめ、気分が悪くなってきたの。

事の次第を知らされた王妃は男の許へ駆けつけると−愛しいひとよ。象肉を食べさせられるとは何としたことでしょう。人伝てに聞くところに依れば油の池で沐浴し、鶏羅山に生える蘿蔔根を食すれば助かると聞きます。わたくしの愛馬にて直ぐに鶏羅山に向かいなさい。そなたの罪はわたくしの罪。さすればわたくしも国王から罪を問われ獄中に捕らわれの身となることでしょう。そなたとは二度と会えますまいが生きてこの世の覇者となられんことを−そう告げたの。

男は王妃に背中を押されるようにしてその場を離れると王妃の愛馬を駆って鶏羅山へと向かうの。そうして云われた通りに油の池で沐浴し、生えていた蘿蔔根を食べてみたところ身体から毒が消えてゆき、一命を取り留めることができたの。けれど男は国王を深く恨み、国王の領地領民に害をなさんとの思いから大魔神・毘那夜迦王に変じてしまったの。その姿は人身象頭で十万七千(!)の眷属を率いて悪事の限りをはたらくの。やがて国中に悪鬼が蔓延り、国王も領民もすっかり疲弊してしまうの。それを見兼ねて毘那夜迦王の説得に乗り出したのが観音さま。見目麗しい女性に姿を変えて毘那夜迦王を訪ねるのですが、その美しさに感嘆した毘那夜迦王は欲情して何と(!)観音さまに情交を迫るの。

蘿蔔根はダイコンのこと。白ダイコンと云うよりもラディッシュに近いかしら。
歓喜天の供物にダイコンが捧げられるのはこの逸話に由来するの。

蘿蔔 ところが観音さまは−あなたが仏法に帰依して善神となるのならその望みを叶えてあげてもいいわ−と答えるの。そうして毘那夜迦王は仏法への忠誠を誓い、人身象頭の姿となった観音さまと抱き合ったの。双身像は観音さまが毘那夜迦王の脚を踏みつけているケースが多いのですが、それは悪心を封じ込める象徴なの。そうして歓喜を得た毘那夜迦王は歓喜天となり、男女陰陽の両極が結合された宇宙万物の象徴として広大無辺の神通力を持つようになったの。禁欲を説く仏教の中ではまさに歓喜天の双身像は破壊仏の感があるのですが、仏教とは深遠な世界よね。But 記述は多分に脚色を含みますので鵜呑みにしないで下さいね。

7. 玉洞院 ぎょくどういん 12:44着 12:48発

聖天院を後にして北側に位置する玉洞院へ足を延ばしてみたのですが、その縁起となると詳しいことは分からず、【新編武蔵風土記稿】(以後、風土記稿と略す)にも「禪宗臨濟派 上野國那波郡芝宿泉龍寺末 寶珠山光明禪寺と號す 開山を養巖宗胡と云 文明9年(1477)2月15日示寂す 開基は月峯常圓居士とのみ傳て 卒年俗稱等を知らず 本尊聖觀音を安置す 鐘樓 銘文に 淀城主石川主殿頭憲之妻女 及び次男義孝 武運長久の誓の爲に 元祿3年(1690)寄附する由を鐫す 辨天社 天神社 觀音堂」とあるのみなの。ここで史実如何は別にして同寺に伝えられる【観音大士略縁起】に面白い記述を見つけたの。

文中には行基云々とあるのですが、行基が実際に東国に下向して来たと云う傍証は何も無く、この略縁起もまた後世に付与された逸話の匂いがプンプンするのですが、それはそれとして、当時の人々にしたら「信ずる者には事実」のお話しを紹介しますね。

天平勝寶元己丑歳 菩薩乘白牛到于此地時 於沼上忽然見美女容 行基向彼問曰 汝是何人 女對曰 我是辨財天也 此地者是如意輪觀音之靈洞也 言于不見其形 行基作奇異思 四顧森々緑樹枝頭連珠 叢々碧草花唇吐香 恰似入于蓬莱山島 於茲行基閑座而志念爲末世之衆生化縁 更示女體 辨財天與觀音同一體手自奉彫刻如意輪菩薩三尊形新造立一宇安置于茲 今之玉洞院是也

独断と偏見で意訳すると、その昔、行基が白馬ならぬ白い牛に跨り当地に差し掛かった折、沼の上に忽然と見め麗しい美女が現れたと云うの。行基の問い掛けに美女が応えて云うには「我は是れ弁財天なり 此の地は是れ如意輪観音の霊洞なり」そう云い終えるや否や、美女は忽ちその姿を消してしまったの。その奇瑞に感応した行基は自ら如意輪観音像を彫り、一宇を建立して安置したのが玉洞院の始まりと云うわけ。左掲がその如意輪観音が祀られる圓通閣で、安産子育てに霊験灼かとされているの。今と違い、当時は出産が命懸けなら生まれた子供もまた幼くして命を失うことも多く、如意輪観音に安産や我が子の健やかな成長を願う母親達の姿がここにはあったのでしょうね。

雷神像 風神像 熊谷市指定文化財(彫刻)玉洞院 風神・雷神像
風神・雷神は自然現象である風・雷を神格化したもので、日本では上半身裸形の青鬼、赤鬼の形で表現される。玉洞院の像は、両像とも高さ1.78mの寄木造り。眼光は鋭く、髪型は焔髪。風神は風袋を背負い、雷神は太鼓を背負い、手に桴(ばち)を持つ。彩色は褪せてはいるが、勢いのある作風で室町時代の作とされる。この像は、現在堂内に安置されているが、嘗ては山門に置かれていた。熊谷市教育委員会 昭和34年(1959)4月17日 妻沼町指定

8. 利根川 とねがわ 13:07着 13:10発

ここで時間に余裕がありましたので利根川まで歩いてみたのですが、残念ながら記念写真のみで終えてしまい、景観を御案内することが出来ないの。御容赦下さいね。

9. 瑞林寺 ずいりんじ 13:22着 13:25発

曹洞派禪宗 上野國山田郡矢場村惠林寺末 祥興山と號す 開山は本寺第五世大庵文恕にて 大河内孫十郎政信開基す 文恕は慶長6年(1601)12月25日寂し 政信は貞和4年(1348)5月23日卒し 瑞光院來阿大禪定門と追號すと 即境内に其墓ありて五輪の塔を立、銘に來阿大禪定門とのみ彫たり 按に政信の卒を貞和4年(1348)と云事疑ふべし 慶長年中(1596-1615)當所に陣屋ありて 大河内孫十郎及び金兵衞等住して 此邊の事を指揮せし由村民も傳へたれば 恐くは政信は慶長頃の人なるを たまたま墓所に古き塔あるをもて 推當に政信の墳といひ出たるならん 殊に開山の僧慶長6年(1601)の寂なれば開基の人も同時なる事知べし 本尊釋迦を安置す 鐘樓 正徳4年(1714)鑄造の鐘を掛く

上記は【風土記稿】の記述ですが、境内に建つ「瑞林寺客殿改修庫裏新築記念碑」には「當山は建久年間(1190-99)天台宗寺院として創建されるが、慶長3年(1598)開山大庵文恕大和尚により曹洞宗祥興山瑞林寺に改められて以来、平成10年(1998)開創400年を迎え、平成13年(2001)に開山正当400回忌の勝縁を得る云々」とあり、前・瑞林寺とも云うべき寺院が鎌倉期に創建されていたことが窺えるのですが委細不明なの。建久年間と云えば、良応が長井庄に立ち帰り、外甥の宮道傔杖国平に実途の二児の養育を託し、自らは草庵を結び、後に聖天堂の再建と別当寺建立のために東奔西走する時期と重なるのですが、関係があるのかしら。

良応が最初に隠棲したのは聖天院から更に南に下った上根地区だと云うので
この瑞林寺との直接的な繋がりは無いみたいだけど。

此処に祀る塔碑は、昭和44年(1969)墓地改修を機に、境内及び地区内に点在していたのを合祀したものである。奥左側の板碑は中央に阿弥陀種子が蓮台に載り、その下に正嘉二年(1258)戌午九月の紀年銘、左右に右志者為慈父幽儀 右男女同心合力と云う偈がある。手前左の板碑は上部が大きく欠けているが、涅槃経の一節と中央に文永八年(1271)辛未八月八日諸孝子敬白、右に右志者為悲母幽霊十三年、左に出離生死往生極楽也とある。いづれも亡父の為、亡母十三回忌の為の供養塔として建てられたものであろう。

前列の五輪の塔は当山開基瑞光院殿来阿大禅定門、俗名大河内孫十郎政信〔貞和4年(1348)5月23日没〕の供養塔と伝えられている。往古、当山は天台宗の寺として開創されたが、慶長年間(1596-1615)に太田市恵林寺五世大庵文恕大和尚が曹洞宗として再興したものである。二十二夜月待ち信仰の本尊・如意輪観音、阿弥陀経千部供養塔、新四国霊場七十三番の碑等を合わせてここに祀り、先代18世住職が生前文化財の保護調査に努め、石碑の風化を憂いていたことに応え、これ以上の風化防止を発願し協力者を得、上屋を建築したものである。ここに先人の文化と信仰の証である石碑を永く保護し、後世まで此地の人々の誇りと心の糧に資するよう念願するものである。平成5年(1993)秋彼岸 瑞林寺19世 晴府 誌

最初に【風土記稿】の記述を御案内しましたが、五輪の塔に関しては「たまたま墓所に古き塔あるをもて 推當に政信の墳といひ出たるならん」とあるように疑義が持たれるのですが、ここでは原文のままを転載しておきました。住持の方の志を非難するものでは決してありませんので、御容赦下さいね。

10. 妻沼聖天前BS めぬましょうてんまえばすてい 13:28着 13:56発

梅月堂 妻沼聖天前BSまで戻ったところで目の前にある梅月堂さんでお土産を買うことにしたの。最初は店名や店構えから和菓子専門に見受けられたのですが、店内には和菓子のみならず、洋菓子のサブレやショート・ケーキなどもあるの。勿論、そのどれもが梅月堂さんのオリジナルで、全て手作りの逸品よ。店先には紅い毛氈を敷いた縁台も用意されているのですが、店内には喫茶コーナーもあるの。残念ながら席は一組だけの用意しかありませんが、コーヒー付のケーキ・セットが¥400で楽しめちゃうの。

他に来客が無いのを良いことにバスを待つ間の時間潰しに利用させて頂きましたが、ξ^_^ξのお勧めは野菜のスティック・ケーキよ。妻沼産の野菜を練り込んだケーキで、野菜を20%配合していながらそれを感じさせないの。これなら野菜嫌いの方でも平気よ。因みに、ニンジン、ホウレンソウ、カボチャの三種類があるので、お好みでどうぞ。野菜嫌いでも何でも無いξ^_^ξは一度口にしたら止まらなくなっちゃう(笑)。

11. JR熊谷駅 くまがやえき 14:26着

妻沼にはもう一つの見処に「あじさい寺」として知られる能護寺があるの。
日を改めて紫陽花の咲く頃に出掛けてみましたので、番外編として紹介してみますね。

12. 能護寺 のうごじ

【風土記稿】には「古義眞言宗 紀伊國高野山の末 寺領30石慶安2年(1649)8月御朱印を賜ふ 能滿山定禪坊定禪院と號す 本尊虚空藏を安ず 開山了珍より16世の間示寂の年代等すべて傳へず 17世の僧は榮智と云ふ 寛永7年(1854)寂す 此寺古くは隣村間々田にありしやうにも寺傳にみゆ されど正しきことは知らず 鐘樓 元祿14年(1701)鑄造の鐘をかく 天神社 稻荷社 聖天社 辨天社 虚空藏堂 寮」とあるのみで、詳しいことは分からないの。それを良いことに(笑)寺伝では天平15年(743)に行基が開山したもので、後に弘法大師こと空海上人が天下泰平&五穀豊穣を願い、真言密教の道場を開いたことに始まると伝えるの。

寺格を高めたい気持ちは分からなくはないけど、ちょっとやりすぎね。行基にしても彼が活躍したのは専ら畿内のお話しで、関東に下向して来た事実は無いの。ごめんなさいね、寺伝にケチを付けてしまって。

熊谷市指定文化財
(一)空海筆・般若心経 種別:有形文化財 書跡 指定年月日:昭和34年(1959)4月17日
能満山能護寺は当町屈指の名刹で、慶安2年(1649)徳川幕府から寺領30石の御朱印を受けている。本堂は文化11年(1814)に再建され、本尊は虚空蔵菩薩である。空海筆と伝えられる般若心経は、書体がねずみの足跡のように見えるところから「ねずみ心経」と呼ばれ、縦21cm横50cmの烏子金欄表装の巻物となっている。

(二)格天井の十六羅漢
種別:有形文化財 絵画(金井烏州筆)指定年月日:昭和37年(1962)8月30日
本堂内陣の格天井には一格(縦129cm横120cm)一体づつ阿羅漢が16枚画かれている。金井烏州は寛政8年(1796)上州島村(群馬県境町)に生れ、江戸末期の上州画壇で活躍した。この十六羅漢は安政2年(1855)烏州60歳の円熟期の作品で、船で運ばれたと云う。熊谷市教育委員会

栞

境内には50種類800株の紫陽花が咲くと案内されていましたが、ここではほんのさわりだけを紹介しておきますね。植えられている株数では他のあじさい寺に負けてしまいますが、本堂を取り囲むようにして鉢植えの紫陽花が置かれ、一つ一つ種類が異なるの。さしずめ紫陽花の見本市会場といったところかしら。個人的には境内を彩る紫陽花よりも、個性豊かに、それでいて楚々と咲く鉢植えの紫陽花の方が好きだったりするの。ξ^_^ξが幾らここで云々してみたところで百聞は一見にしかず。一年中見られる訳ではないのですが、みなさんも季を捉えてお出掛けになってみて下さいね。


今回のお散歩では妻沼聖天院を中心に紹介してみましたが、ξ^_^ξが最初に訪ねたときは改修工事を終えてはいたものの、国宝に指定される前のことで、参詣者の姿も決して多いとは云えなかったの。指定を機に多くの人達に関心を持って頂けたらうれしいわね。また、訪ねたときには聖天院と関わりを持った多くの人達の心模様にも思いを馳せてみて欲しいの。否、聖天院に限らず、路傍で朽ち果てるのを待つだけのものであっても、そこには当時を生きた人々の思いが込められているの。But こちらからその存在に気付いて声を掛けない限り、彼らの方から語りかけてくることはないの。お出掛けの際にはガイドマップと併せて、沢山の疑問符を握りしめながら歩いてみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
新人物往来社刊 森田保著 利根川事典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
随想舎刊 日下部高明・菊地卓著 新編足利浪漫紀行
さきたま出版会刊 さきたま文庫 妻沼聖天山《熊谷》改訂版
国書刊行会発行 稲村坦元編 新訂増補【埼玉叢書】第三巻
妻沼町発行 妻沼町誌編纂委員会編 妻沼町誌
角川ソフィア文庫 佐藤謙三校注 平家物語
聖天山歓喜院発行 妻沼聖天山
岩波書店刊 龍肅訳注 吾妻鏡
その他、現地にて頂いて来たパンフ&資料






どこにもいけないわ