≡☆ 東の小飛鳥・高麗 ☆≡
2010/11/06 & 2010/11/28

埼玉県の日高市と云えば高麗神社と巾着田に咲く曼珠沙華が有名ですが、季節外れに訪ねた巾着田曼珠沙華公園も意外に素敵でした。嘗て高麗郡と呼ばれ、多くの渡来人が移り住んだ地を訪ねてみたので紹介しますね。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

高麗神社〜聖天院〜高麗郷民俗資料館〜巾着田曼珠沙華公園

1. JR高麗川駅 こまがわえき

高麗川駅 今回の散策はJR高麗川駅を起点にして西武線の高麗駅へ抜けるコースにしてみましたが、途中、聖天宮から巾着田まではかわせみ街道の愛称を持つ車道を40分程歩くの。バスを利用するなど何か逃げ道が無いかしらと調べてはみたのですが、高麗川駅と高麗駅を結ぶバス路線はあるものの、一時間に一本の運行本数に加えて県道R15を走るだけなの。なので、ここではバスへの乗車は素直に諦めて歩くしか無いみたいね。

2. 出世橋 しゅっせばし

高麗川駅から20分程歩いてようやく辿り着いたのが高麗川に架かるこの出世橋。橋の名はこれから訪ねる高麗神社の別称・出世明神に由来するのですが、朱い塗橋を勝手に想像していた愚かなξ^_^ξでした。加えて、肝心の出世橋よりも、平行して架設されるアーチ式の水管橋の方にどうしても目がいってしまうの。往古の姿を知る由もありませんが、出世橋の手前には高麗神社の第二駐車場がありますので、嘗てはこの橋の手前で下馬すると徒歩でこの橋を渡り、高麗神社に詣でていたのかも知れないわね。

3. 高麗神社 こまじんじゃ

出世橋から200m足らずして高麗神社の入口があるのですが、第一駐車場側の出入口には御覧のようなトーテムポールが建てられていたの。えっ、なに?何なの?これ。神社なのに何でこんなものがあるの?とξ^_^ξの脳味噌はちょっとしたパニック状態。更に、彫像には大きく天下大将軍・地下女将軍の文字もあり、思わず新興宗教の類かしら−と後ずさり(笑)。実は、これ、将軍標とか長丞(ちゃんすん)と呼ばれるもので、お隣の韓国では守護神として村境や寺院などの入口に建てられるものだとか。

銘文には「日韓国交正常化40周年韓日友情年を記念し、この長丞(天下大将軍、地下女将軍像壱対)を建立、高麗神社へ奉納 2005年10月23日 在日本大韓民国民団中央本部」とありましたが、それでも未だこの時点では、何でこんなものがここにあるの?状態。参道や境内には高麗神社の略縁起を記す案内板が幾つか立ちますが、それらを読み進めている内にようやく状況が理解出来るようになってきたと云うわけ。守護神がユニークならその縁起も極めてユニークなの。帰宅後に改めて調べてみましたので、その結果を紹介しながら御案内してみますね。

長丞に引き寄せられてそのまま境内へ足を踏み入れてしまいそうですが、左掲が本当の神社入口になるの。一の鳥居なのですが、続く参道を挟んで両側に駐車場があるの。紹介した長丞はその右手側の駐車場に建てられているの。この一の鳥居から続く参道の景観を見る限りは極普通のお社よね。先ずは参道脇に立つ案内板の略縁起から紹介してみますね。

高麗神社は、高句麗国の王族高麗王(こまのこきし)若光を祀る社である。高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約700年君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい、668年に滅亡した。この時の乱を逃れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが、霊亀2年(716)その内の1,799人が武蔵国に移され、新しく高麗郡が設置された。高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。郡民はその遺徳を偲び、霊を祀って高麗明神と崇め、以来現在に至るまで高麗王若光の直系に依って社が護られており、今でも多勢の参拝客が訪れている。昭和57年(1982)03月 日高市

この説明だけではちょっと淡泊過ぎるわよね。高麗神社の主人公となる若光ですが、その名が最初に見えるのは【日本書紀】の天智天皇5年(666)の条なの。

冬十月の甲午の朔己未に 高麗 臣乙相奄鄒等を遣して調進る
ふゆとつきのきのえうまのつちのとのひつじのひに こま まへつきみおつさうあむすらをまたしてみつきたてまつる
大使臣乙相奄鄒 副使達相遁 二位玄武若光等
おほつかひまへつきみおつさうあむす そひつかひだちさうどん ふたつのくらゐぐゑんむじゃくくわうら

当時の朝鮮半島は高句麗・百済・新羅三国の勢力が拮抗する状態にあったのですが、唐が建国されるとその軍事バランスが崩れ、朝鮮半島への覇権拡大を謀る唐と手を結んだ新羅は660年に百済を滅ぼすの。その百済と友好関係にある倭国(日本)は援軍を出して唐と新羅の連合軍と対峙(白村江の戦)するのですが、逆に打ち負かされて大勢の百済遺民と共に逃げ帰ってきているの。その連合軍が次に狙う相手が高句麗だったと云うわけ。玄武若光の名が見える高句麗の使節が来日したのは天智天皇5年(666)の10月ですが、それに先立ち、高句麗からの使者は1月にも来日しているの。当時の朝鮮半島情勢からするとその目的は明らかよね。敗退したとは云え、一度は半島に派兵して唐と新羅の連合軍に刃を向けた倭国、その兵力を頼りに軍事援助を求めて来たと云うわけ。来日直前の6月、唐が高句麗に侵攻を開始していることから一行は日本への援軍を求める急使だったと考えられているの。高句麗にしてみれば待った無しの状態だったわけね。日本側も白村江の戦で敗れていなければ即刻、軍事支援の要請に応えていたかも知れないわね。

今、直ちに高句麗と手を結び、唐と新羅のきゃつらめを打ち負かせませんと、我等が次に狙われるは必定、即刻御決断を!
そう云うても、この前の白村江の戦さではさんざんな目におうたでごじゃる。何ぞ勝てる見込みでもおじゃるかえ?
そのようなものはござらん。ござらんが、我等が兵を出さずとも新羅は間違いなくこの倭国に押し寄せて参りますぞ。
あな、恐ろしや。わらわは戦さは嫌いじゃ。戦わずしてことを治める手だてはないものでおじゃるかのお。
(ええい、じれってえヤツだ、そんなモンがあるわきゃねえだろう)高麗からの使者が別室に控えておりますれば早々に御決断を!
そう云うてもなあ。
(先ず、こいつからイテコマシたろか)・・・・・

ちょっと茶化してしまいましたが、朝廷内でも要請に応えるべきか否かで大いに揺れたでしょうね。結論を先送りにする日本の得意技(笑)で、帰国出来ずにいた使節一行は、母国を遠く離れたこの異国の地で遂に祖国・高句麗の滅亡を知ることになるの。来日してから2年後のことで、帰る国を失った若光はこの地で生きていく以外に選択肢が無くなってしまったの。【続日本紀】大宝3年(703)4月の条には

從五位下高麗の若光に王の姓を賜ふ
じゅごいのげこまのじゃっこうにこきしのかばねをたまふ

とあるように、それでも、この日本で貴族の仲間入りを果たし、武蔵国に高麗郡が設置されると初代郡司となって開拓の先頭に立つなど、背景には若光の若さと王としての血脈の良さがあったのは否めないわね。その若光も天平2年(730)には再び故国の土を踏むこともなく、この高麗の地で没しているの。ここでは【日本書紀】天智天皇5年10月の条に見える玄武若光と【続日本紀】大宝3年4月の条に現れる高麗若光を同一人物と見做す説に基づいていますが、記述は脚色を含みますので鵜呑みにしないで下さいね。

【日本書紀】や【続日本紀】では高麗(こま)とあるのですが高句麗のことなの。後に同じ朝鮮半島で918年に高麗(こうらい)が建国されたことから、両者を区別する必要が生じ、便宜的に高麗(こま)の方を高句麗としたの。なので古記録の類では高麗だけど、以降は高句麗と表記されるの。高麗をどう訓むかで時代が異なり、ちょっとややこしいわね。ここでは全て高麗(こま)よ。

余談ですが、当時は高句麗のみならず、百済や新羅からも多くの人達が日本に来ているの。記述からは個別の具体的な背景を知る術はないのですが、難民とも云える人々を当時は数多く受け入れて厚遇しているの。今とは大きな違いね。加えて当時の養老律令制度下では雅楽寮に高麗・百済・新羅三国の楽師各4人、楽生各20人が所属していた−ともあり、分け隔て無く接しようとしていた証でもあるわね。斜め読みですので見落としがあるかも知れませんが、【日本書紀】と【続日本紀】から関係する記述を抜き出してみますね。

天智天皇4年(665)
百濟の百姓男女四百餘人を以て近江國の神崎郡に居く・・〔 中略 〕・・神崎郡の百濟人に田を給ふ
天智天皇5年(666)
百濟の男女二千餘人を以て 東國に居く 凡て緇と素と擇ばずして 葵亥の年より起りて 三歳に至るまでに 竝に官の食を賜へり
天智天皇8年(669)
佐平餘自信、佐平鬼室集斯等 (百濟の)男女七百餘人を以て 近江國の蒲生郡に遷し居く
天武天皇13年(684)
化來る百濟の僧尼及び俗 男女併て二十三人 皆武藏國に安置む
朱鳥元年(686)
筑紫太宰 三つの國高麗・百濟・新羅の百姓男女 併て僧尼六十二人を獻れり
持統天皇元年(687)
投化ける高麗五十六人を以て 常陸國に居らしむ 田賦ひ稟受ひて 生業に安からしむ
投化ける新羅十四人を以て 下毛野國に居らしむ (同上)
筑紫太宰 投化ける新羅の僧尼及び百姓男女二十二人を獻る 武藏國に居らしむ(同上)
持統天皇3年(690)
投化ける新羅人を以て 下毛野に居らしむ
持統天皇4年(691)
新羅の沙門詮吉・級飡北助知等 五十人 歸化けり
歸化ける新羅の韓奈末許滿等十二人を以て 武藏國に居らしむ
百濟の男女二十一人 歸化く
歸化ける新羅人等を以て 下毛野國に居らしむ
靈龜2年(716)
駿河・甲斐・相模・上總・下總・常陸・下野の七國の高麗人千七百九十九人を以て武藏の國に遷め 始めて高麗の郡を置く
天平寶字2年(758)
歸化の新羅僧卅二人 尼二人 男十九人 女廿一人を武藏の國の閑地に移す
是に於て始て新羅の郡を置く
天平寶字4年(760)
歸化の新羅一百卅一人を武藏の國に置く

特に注意を引くのが天智天皇5年(666)のことね。僧俗を問わず、百済からの亡命者男女2,000人に対し、滅亡の年より今日まで3年もの間、食事の面倒を全て見てきた−と云うの。持統天皇元年(687)では東国に移した後も「田賦ひ稟受ひて 生業に安からしむ」との記述もあり、当時は渡来人が持つ知識や技能が大いに歓迎された証でもあるわね。記録に残るだけでも想像以上の人員ですが、記録には現れずにいる人達はおそらくこの何十倍もあったかも知れないわね。新羅郡にしても、記述にある僅か74名だけで設置された訳ではなくて、郡を置くに値する程の新羅人達が既に地域内に定住していたと考えるのが妥当よね。それにしても半島では百済・新羅・高句麗に分かれていた人達が異郷では同じ武蔵国に集うことになろうとは。

気になるのは【続日本紀】霊亀2年(716)の「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て武蔵の国に遷め 始めて高麗の郡を置く」の記述よね。案内板にも記されるのですが、それまで東国七ヶ国に分散していた1,799人もの高麗からの渡来人をわざわざ集めているの。多人数の割にはやけに具体的な人数が記されるのも妙だけど、分散させて住まわせておくには何か問題があったのかも知れないわね。それに、これだけで高麗郡を設置するに足る人数とは到底思えないわよね。やはり、その時既にそれなりの人達がこの地に定住していたと考えるのが順当よね。

【新編武蔵風土記稿】には「青木村に住せる青木内藏助が家譜に云 其先武石麻呂靈龜2年(716)二月詔を蒙り 高麗人990人を具して 丹波國より本郡に至り居住せし云々」ともあるの。気になる武石麻呂ですが、話題にするとキリがないのでやめておきますね。

参道両側には日韓の名だたる方々が記念植樹された木があるの。「出世明神の由来」と題された案内板が建てられていましたので紹介してみますが、殿上人にはとんと縁の無いξ^_^ξが唯一耳にしたことがあるのは鳩山一郎氏だけね。それも本人としてでは無くて、鳩山由紀夫元首相のお祖父さんと云うだけのお話しなの。出世にはこれまたとんと縁が無いわね。

当社は遠く奈良時代元正天皇の御代高麗郡を統治した高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)をお祀りした社で、創建より1,300年を数える関東有数の古社である。古来、霊験灼かを以て知られ、高麗郡総鎮守として郡民の崇敬を受けてきた当社は、近代に入り水野錬太郎氏・若槻禮次郎氏・浜口雄幸氏・斎藤実氏・鳩山一郎氏等の著名な政治家が参拝し、その後相次いで総理大臣に就任したことから、出世開運の神として信仰されるようになった。近年では、政界・官界・財界を始め、各界人士の参拝が相次ぎ、特に法曹界では石田和外氏が最高裁判所長官、吉永祐介・北島敬介両氏が検事総長に就任された。高麗神社社務所

参道には温知学校跡を記す案内板もありました。

ここは明治19年(1886)2月から同20年(1887)10月まで、温知学校々舎及び麗発育尋常小学校仮本校舎が有った場所である。明治初期から当地方の学校教育の変遷は次の通りである。

明治5年 (1872) 学制頒布
明治6年 (1873) 新堀学校(聖天院本堂)台学校(円福寺本堂)開校
明治16年 (1883) 新堀学校を温知学校、台学校を明徳学校に改称。新たに開進学校が栗坪村新井儀七宅に開校
明治18年 (1885) 05月 温知学校新校舎建前(当地)
07月 近郷十ヶ村連合して梅原連合村発足
10月 政府より連合村に小学校一校とする通達
明治19年 (1886) 02月 温知学校(四教室)新校舎に移転(当地)
04月 梅原連合村は、梅原村内に新校舎を建設し、校名を麗発育尋常小学校とすることに決定
温知学校を仮本校舎、他二校を分教室とする。
05月 麗発育尋常小学校開校式(当地、修業年数四年)
明治20年 (1887) 09月 梅原村に発育尋常小学校新校舎落成移転(現麗小学校校地)
10月 仮本校舎及び分教室閉校。旧温知学校々舎は高萩小学校々舎として移築
12月 麗発育尋常小学校新校舎が開校

麗神社祀職麗大紀(麗家56代当主)は父明純の後を継ぎ居宅(現重要文化財麗家住宅)で近隣子弟の教育に当っていた。学制頒布以後学区取締役井上順造の依頼により新堀学校、台学校の開設から発育尋常小学校の開校まで、門弟らと共に当地方の学校教育普及に力を尽し、発育尋常小学校の初代校長となったが、開校から一年を経た明治21年(1888)12月に職を辞した。

参道の最奥部に見えてくるのが御覧の社殿。と云っても、これは未だ神門なの。社殿は瑞垣に囲まれて建つのですが、この唐破風の立派な神門も実は瑞垣の一部だったりするの。それはさておき、石段を登る際には神門に掲げられている扁額に御注意下さいね。高麗神社とあるのですが、良く見ると高と麗の間に小さく句の文字が記されているの。社殿前の広場傍らにも略縁起を記した案内板がありました。

日高市に中心を置いたと考えられる高麗郡の始まりについて【続日本紀】に「霊亀2年(716)5月、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野7ヶ国から高句麗人1,799人を武蔵国に移し、高麗郡を創建した」と記されています。この時、高麗郡の長となったと考えられているのが高麗神社の祭神で、高句麗からの渡来人であった高麗王若光でした。その後裔で、代々高麗神社の宮司を努める高麗氏系図には「若光が没すると郡民はその遺徳を讃え、御殿の後山に霊廟を建て神霊を祀り高麗明神と称した」と当社の創建を伝えています。日高市内には8世紀前半以降の集落跡や女影廃寺、大寺廃寺、聖天院の前身と考えられている高岡廃寺などの古代寺院跡や須恵器の窯跡といった高麗郡建郡以降の遺跡が数多く存在し、古代高麗郡の栄華を窺い知る事が出来ます。高麗神社には12世紀(鎌倉時代)の「大般若経羅密多経」(国指定重要文化財)を始め、高麗神社本殿(県指定文化財)、徳川将軍家社領寄進状(市指定文化財)といった有形文化財の他、10月19日の例大祭に氏子に依って奉納される獅子舞(市指定文化財)も伝えられています。また、高麗氏所蔵の文化財として17世紀の建築と云われる高麗家住宅(国指定重要文化財)、高麗氏系図(市指定文化財)があります。平成14年(2002)05月 日高市

広場に植樹された桜の根本には釈迢空こと折口信夫の歌碑があるの。

や万可介尓 獅子ぶえおこ流 志々笛ハ 高麗の武可志乎 思へ所 日々具
やまかげに ししぶえおこる ししぶえは こまのむかしを おもへと ひゞく
四月十四日し々舞を見に来て 迢空

その獅子舞ですが、日高市の無形民俗文化財にも指定されているの。

高麗神社は奈良時代に創建された由緒ある古社で、当社に伝承される獅子舞は古記録を失い、何時の頃より始められたのか定かでないが、享保12年(1727)獅子頭再興の寄進連名板が保存されている。獅子は三頭立てで、宮参り・雌獅子隠し・竿掛かりの三場と氏子崇敬者の祈願を込めた願獅子の場とからなり、毎年十月十九日の例大祭当日氏子により奉納されてきた。愛鳥を帯びた笛の音、素朴な獅子の舞は古代へのロマンを掻き立てる。坂口安吾の著書「高麗神社の祭の笛」の他、釈迢空(しゃくちょうくう)も「山かげに獅子笛おこるしし笛は高麗の昔を思へとぞひびく」の歌を残し、また、加倉井秋をの「引獅子や昏れをうながす笛と風」の句碑も建っている。神事祭礼の民俗行事を知る上、貴重な無形民俗文化財である。昭和58年(1983)03月 日高市教育委員会

高麗神社では平成28年(2016)の高麗郡建郡1,300年を記念して様々なイベントが開催されるみたいよ。左掲はその高麗郡1300年祭のマスコット・キャラのトライくんとミライちゃん。詳しいことは 高麗神社 を御参照下さいね。社殿背後に続く社地には国の重要文化財に指定される高麗家住宅が残されているの。

4. 高麗家住宅 こまけじゅうたく

〔 高麗家住宅 〕  高麗家は代々高麗神社の神職を勤めてきた旧家です。この住宅は江戸時代初期の民家として昭和46年(1971)06月22日に当時の文部大臣に依り重要文化財の指定がされました。建築年代については慶長年間(1596-1615)との伝承があるのみで明確な資料はありませんが、構造手法から見て17世紀中頃まで遡り得るようです。建物は山を背にして東に向けて建てられ、間口は約7間半(14.292m)、奥行は約5間(9.529m)、総面積は約37.5坪(136.188m²)あります。屋根は茅葺の入母屋造りです。間取りは古四間取と云う形式で、奥座敷(奥と四帖)・表座敷・勝手・部屋と比較的狭い土間で成り立っています。

また、表座敷には長押を打ち、押板(床の間の前進)を構え、前面三間に格子窓が付けられました。柱や梁は全て手斧や鎗鉋で丸みを持たせて仕上げられています。大黒柱は用いられていません。そのため柱の数は多く、太めの材木を使っています。梁は細い材木を使い、全面的に細やかな造りです。尚、この住宅は昭和51年(1976)10月に解体修理が始められ、解体工事中に調査発見した痕跡、資料等により、当初の構造を復元しました。そして昭和52年(1977)09月に竣工しました。

残念ながら家屋内への立ち入りは禁止ですが、ここで目を引いたのが神棚の下に祀られている不動明王像で、像と云っても彫像では無くて画なのですが、神職を務めてきた高麗家の屋敷に不動明王とはこれ如何に−よね。実はこの高麗神社、修験寺を称していたことがあるの。現在の当主は60代目だそうですが、遡ること23代目麗純の時のこと。あろうことか(笑)修験道の祖とされる役行者に傾注し、大峯修行すると山伏(修験者)になってしまったの。加えて、それまでの大宮寺(神社)に修験寺を開基すると自らも高麗寺麗純と名乗り、以後は修験寺大宮寺高麗神社として修験道を奉じたの。修験道と云えば不動明王よね。

変貌(笑)を遂げた正確な年代までは分からないのですが、麗純は正治元年(1199)に没しているので平安期末のことになるわね。時代背景としては東国武士団が俄に色めきたってきた頃のお話しになるけど、何か関連性でもあるのかしら?それはさておき、その麗純の第五子にいたのが顕学房慶弁で、彼もまた修験者となり、諸国修行を経た後、下野国足利郡(現:栃木県足利市)の鶏足寺に草鞋を脱ぐの。そこで慶弁が何をしたかと云うと、何と建暦元年(1211)から建保6年(1218)に及ぶ7年間と云う歳月を掛けて大般若波羅密多経(略して大般若経)全600巻を写経したの。それが高麗神社に伝えられる大般若経456帖(国指定文化財)なの。

その写経にしても半端じゃなくて、まさに苦行よ。期間中は塩・酒・雑言を絶ち、一字毎に釈迦の名号を唱え、一行毎に釈迦と須菩提・十六善神を三拝する所作を伴うものだったそうよ。須菩提・十六善神の何たるかはここでは触れずにおきますが、その大般若経全600巻、文字数にすると約500万字!もあるのだとか。慶弁の意志の強さは驚嘆に値するわね、否、それ以上よね。幾ら修行を経て来た身とはいえ、軟弱なξ^_^ξにはとても人間業には思えないわ。

その慶弁ですが、【武蔵国高麗氏系図】には「大般若経法華経等を書写す」とあることから、紹介した大般若経の他にも法華経の書写もしているの。加えて「等」ともあることからそれ以外も対象とした可能性あり−よね。その書写したハズの法華経ですが、後程御案内する聖天院に納められたのですが、残念ながら失火時に焼失してしまい、現存していないの。因みに、法華経の方は約70,000字だそうよ。

鶏足寺には兄の禅阿が政所として寺の維持・興隆に務めていたみたいね。墨や用紙などは禅阿が提供するなど、写経は兄の援助があればこそなしえた一大事業と云うわけ。二人はどんな兄弟だったのかしら?二人が生きた時代にタイム・トラベルして会ってみたいものね。

屋敷右手の片隅には家系図と題された野田宇太郎の詩碑が建てられていたの。

ぼろぼろの千二百余年も前からの この家系図の階段を登り詰めると 遙かな朝鮮奥地の茫々とした原野が見え 大陸から押し寄せる唐の大軍 東の海辺にひしめく新羅 遂に七百年の栄華を砕かれた高句麗の、うらぶれた敗亡の民に混って とある日の相模の海に漂ひ着いた わたくしの祖先若光の憂ひの顔が 今も尚このまなかひに浮かび出します

この錆びた一振りの高麗太刀 この虫づいた大般若経の古い写本 そして伝来だと云ふ仏像や舞楽の獅子面が 亡命と云ふ鈍い哀しい音となって 果てしない海原に残した水脈のやうに わたくしの心の中に、今も時折り鳴響きます それでも人気ないこの武蔵野の入間の里に 同じ思ひの人々が群れ集った時 ただひと筋の名もない碧い川だけは 天日に希望のやうに光ってゐたのでありませう 夢うつつ武蔵野暮らしに慰められて やがて亡国の恨みなど忘れたのでもありませう

ぼろぼろの千二百余年も昔からの この家系図の階段を降りてしまふと わたくしは何時もこの高麗郷の、貧しい社の前に一人立ってゐるのです 虚しいが、しかし根強い、あの高麗川の輝きのやうなものが、わたくしには・・・と、青年は口をつぐみ 広げた家系図を巻き始める 古代のやうな沈々とした月明の夜更け この部屋だけが灯を点して息吐いてゐて 山上には黒々とした祖先の墓が眠ってゐる

転載に際し体裁に変更を加えましたので御了承下さいね。碑文の末尾には昭和24年(1949)11月 高麗家にてとありますが、この詩碑が建立されたのは 歴史と文学の散歩道(松崎宿) に依ると、かなりの年月を経た昭和58年(1983)4月のことになっているの。この詩碑建立から三月後、祖先の霊に誘われるようにして氏もまた帰り来ぬ人となっているの。

【武蔵国高麗氏系図】は改めて紹介するまでも無く高麗家の家系図で、高麗王若光の長子・家重以降代々の名が記されているのですが、残念ながらこの系図は当初のものでは無いの。高麗神社は正元元年(1259)の失火の際に系図を含めて多くの宝物を焼失しているの。そこで高麗一族が自ら保有する古記録などを持ち寄り再編したの。それが現在残る系図なのですが、それでも記載される内容は概ね史実とみなし得ることから史料価値の高いものと評されているみたいよ。惜しむらくは前文の前半分が破り捨てられてしまっていることね。系図の性格上、当然そこには氏祖の高麗王若光のことが記されていたハズだもの。

日高町(現在は日高市)発行の【日高町史】に依ると、この高麗氏系図は江戸時代初めから明治7年(1874)に返還されるまで入間郡勝呂郷(現:坂戸市)の神官・勝呂氏に預けられており、その間に何等かの事情で破られたと推察される−としているの。一方、【安吾の新日本地理 高麗神社の祭の笛】武蔵野の巻 の中で坂口安吾は「明治十八年には内閣修史局の求めに応じて差し出し、内閣修史局で模写を作り、原本を本主に返したともあるから、それらを機縁に一部を破却する必要があったのかも知れぬ」としているの。胡散臭さからすると坂口安吾説の方が有力のような気がするわね。神仏分離の大号令の元に廃仏毀釈の嵐を吹き荒らしたのは他ならぬ明治政府だったのだもの。

幽栖門 前置きが長くなってしまいましたが、【高麗氏系図】は破り取られた前文をひいて「之より」で始まるの。引き続き、その一部を引用・転載してみると「従い来る貴賤相集い 屍を城外に埋め 且つ神国の例に依り 霊廟を御殿後山に建て 高麗明神と崇む 郡中凶あらば則ち之に祈る也」とあるの。家屋の背後に回り込むと御覧の幽栖門(ゆうせいもん)があるのですが、お察しのように幽栖とは「俗世間から離れてひっそりと住むこと」或いは「静かな住まいのこと」を云うの。

入口 その幽栖門に少し離れて御覧の木門があるのですが、どちらの門もくぐり抜けた先の道は背後の山中に向かっているの。残念ながら「私道につき徒歩車両共通行禁止 高麗家」とあり、未確認で終えていますが、山中には若光の陵墓があると考えて差し支えなさそうね。社殿にしても当初は山中の高台に建てられていて、麓に遷座したのは後世のことなの。

5. 聖天院 しょうてんいん

高麗神社から10分程歩いたところにあるのがこの聖天院。かわせみ街道から山門まで一直線の参道が延び、中腹に本堂が建つの。景観の見事さもさることながら、近年全面改築されたことは拝観してから知ったのですが、まさかこんな大伽藍を持つ寺院とは正直、想像もして無かったの。ただ、古刹と聞いていたので多少の古雅は期待したのですが、今となっては山門と阿弥陀堂に僅かな面影を残すのみになっていました。先ずは聖天院の略縁起から紹介してみますね。

〔 高麗山聖天院勝楽寺 〕  聖天院は霊亀2年(716)国難を避け日本に渡来した高句麗人1,799人の首長高麗王若光、侍念僧勝楽、弟子聖雲を始めとする一族の菩提寺として奈良時代に創建された。僧勝楽により開基、聖雲と弘仁により落成され、本尊には王が守護仏として故国より招来した聖天尊(歓喜天)を祀った。故に聖天院勝楽寺と称する。当山開基より約600年後の貞和年間(1345-49)中興秀海上人は、法相宗を真言宗に改めた。以来当山は高麗郷一帯の本寺として末寺54ヶ寺を擁し寺門大いに興隆した。開山以来実に千二百数十年、法灯連綿として絶えることなく現在に継承されている。天正8年(1580)第25世圓真上人は本尊に不動明王を勧請し、聖天尊を別壇に配祀した。本尊不動明王(胎内仏弘法大師御作)、王守護仏聖天尊は共に霊験真に灼かで、多くの参拝者に深く信仰されており、境内には王霊廟(墓)高麗殿の池、高麗殿の井戸などの史跡が現存し、往時が偲ばれる。昭和57年(1982)03月

門柱を過ぎて右手に広がる池が高麗殿の池。傍らには「山寺は 新義真言 ほととぎす」と刻まれた高浜虚子の句碑が建つの。ホトトギスは漢字で書くと不如帰となり、来日当初の若光の胸中を察するとまさに不如帰よね。幾ら王子として帝王学を叩き込まれながら育てられたとしても人の子であることに変わりなく。ある時は郷里を思い、またある時には月明かりの許で母を思慕して涙することもあったのではないかしら?

多くの堂宇が新たに建てられている中で古刹の風情を残して今も堂々と建つのがこの楼門なの。天保3年(1832)より6年を費やして建立されたものとありましたが、幾ら何でも一度も手を加えられることなく今日に至るとは思えないわね。それでも多くの年月を経てきた貫禄は充分にあるの。両袖には仁王像ならぬ風神・雷神像が祀られることから雷門ね。その雷門の右手には宗祖・弘法大師像に続き、高麗王若光のお墓があるの。石塔を覆う小堂には確かに高麗王廟とあるのですが、実際は供養塔で、陵墓としてはやはり高麗神社の後山だと思うの。

【続日本紀】に依れば、今から1,300年前高句麗滅亡に依って我が国に渡来した高句麗人の内、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野7ヶ国の高麗人1,799人を霊亀二年(716)に武蔵国に移し、高麗郡を置きました。現在の日高市は、高麗郡の中心をなした地域と考えられ、明治29年(1889)まで高麗郡でした。高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を治めました。勝楽寺は若光が亡くなった後、侍念僧勝楽が若光の菩提を祈る為に天平勝宝3年(751)に建立しました。若光の三男聖雲と孫の弘仁が勝楽の遺志を継ぎ、若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としました。その後開山以来の法相宗を真言宗に改め、天正8年(1580)には本尊を不動明王にしました。当代までに実に1,250年間絶えることなく継承されています。平成12年(2000)には、山腹に新本堂を建立し、同時期に在日韓民族無縁の慰霊塔を建立されました。平成14年(2002)05月 日高市

左掲は室町期の建築と伝えられる阿弥陀堂ですが、昭和59年(1984)の修復時には屋根も未だ茅葺が再現されたみたいだけど、平成12年(2000)からの全山リニューアル事業では移築に併せて銅葺に替えられているの。今となっては内陣の構造に室町期の特色を残すのみのようね。【風土記稿】には「彌陀は立像にて長二尺七寸ばかり」と紹介される阿弥陀如来像も何故か今は坐像になっているの。阿弥陀さまもさすがに疲れちゃったのかしら?(笑)因みに、脇侍する坐像は勢至・観音の二菩薩になるの。堂前には武蔵野霊場26番の札が立ち、南無大慈大悲観世音菩薩の幟がはためくのですが、これでは阿弥陀さまと勢至菩薩が僻んでいるかも知れないわね。

平成12年(2000)からの大事業ですっかり様変わりした聖天院ですが、存続の危機を幾度も乗り越えて来たみたいね。【風土記稿】には「高麗山勝樂寺と號す 新義眞言宗 山城國醍醐松橋無量壽院末なり 天正19年寺領15石の御朱印を賜ふ 當寺古は大寺なりしといへど 寛永年間回祿の災にかかりて 什寶古籍ことごとく烏有となりて 草創の事實年代等總てしるべきものなし‥〔 中略 〕‥中興開山僧秀海示寂の年月詳ならず 此僧の時より無量壽院の末となり 今に至て41世相承ずと云‥〔 中略 〕‥門末すべて54ヶ寺あり 古は寺地今の門前畑のあたりにありしを 寛永の頃今の地に移せしよし」とあるの。

その聖天院も明治期になると廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で寺運衰え、一時は「伽藍風雨を凌がず」と、荒廃の極みに達したそうなの。そこへ救いの手を差し伸べたのが新義真言宗官長松平実因。名刹の頽廃を憂えた上人は明治20年(1887)に権中僧正・伊佐弁盈を聖天院に派遣して寺の復興に当たらせたの。宗門の支援があればこその寺運回復ですが、それ以上に檀信徒からの援助よね。平成の大事業にしても然りで、住持は僧籍にあるとは云え、お寺を運営&管理出来る経営者でなくてならないと云うことね。ところで、院号の由来となる聖天こと大聖歓喜天ですが、実は仏教界では破壊仏とみ做す向きもあるの。

他の頁で既に紹介済なのですが、再掲してみますね。歓喜天の梵名は Nandikesvara ナンディケーシュヴァラで、Nandike は歓喜を表し、Svara は王のことなの。そのルーツは古代インド神話に現れる Ganapati Ganesha ガナパチ・ガネーシャで、毘那夜迦天の別称が示すように、魔障の集団が棲む毘那夜迦天の王ともされているの。何と云ってもユニークなのがその像容で、人身象頭の男女二天が抱き合う双神像なの。歓喜天像には単身像もあるのですが専ら広まるのは双身像の方で、その教義を唐から伝えたのがあの弘法大師こと空海上人なの。

空海上人は帰国に際して216部461巻もの経典類を持ち帰りますが、その中に含まれていたのが大聖天歡喜雙身毘那夜迦法なの。真言密教の奥義を学んだ上人ですが、師事した中に北インド出身の牟尼室利(むにすり)と云う僧がいたの。恐らくは彼からインド秘伝の修法教示を得たものなのでしょうね。その像容ですが、大聖歡喜雙身毘那夜迦天形像品儀軌に依ると「此相抱像表六處之愛 六處之愛者 一者以鼻各觸愛背 二者以臆合愛 三者以手抱愛腰 四者以腹合愛 五者以二足蹈愛 六者著赤色裙」と記すように男女の抱擁そのものなの。

禁欲を旨とする当時の僧侶達はこの像容にさぞ驚いたことでしょうね。秘仏とされるケースが多いのですが、その意図するところを理解出来ずに、公開すれば誤解を生むと考えられたのでしょうね。案の定、高度な宗教的解釈など分からない庶民には性愛を司る神として、後に性欲・金銭欲をも肯定する超現世肯定的な神として崇められるようになったの。その像容が特異ならその由来も極めてユニークなの。興味津々のあなたに(笑)ちょっと紹介してみますね。

とお〜い遠い昔のことなの。印度のある国に一人の男がいて国王にも良く仕えたことから忠臣として重用されていたの。けれど宮殿に出入りしている内に王妃とも親しく心を通わすようになり、とうとう王妃と関係を結んでしまったの。それを知った国王は殊の外激怒して、その男を殺そうと毒でもある象の肉を美味だからと騙して食べさせるの。男が象の肉を二口三口飲み込むのを見届けた国王は−我が妃をたぶらかしおって!お前のような奴は象肉を喰らい死ぬがよかろうて!!と高笑いするの。男は騙されたことに気付くのですが既に毒が廻りはじめ、気分が悪くなってきたの。

事の次第を知らされた王妃は男の許へ駆けつけると−愛しいひとよ。象肉を食べさせられるとは何としたことでしょう。人伝てに聞くところに依れば油の池で沐浴し、鶏羅山に生える蘿蔔根を食すれば助かると聞きます。わたくしの愛馬にて直ぐに鶏羅山に向かいなさい。そなたの罪はわたくしの罪。さすればわたくしも国王から罪を問われ獄中に捕らわれの身となることでしょう。そなたとは二度と会えますまいが生きてこの世の覇者となられんことを−そう告げたの。

男は王妃に背中を押されるようにしてその場を離れると王妃の愛馬を駆って鶏羅山へと向かうの。そうして云われた通りに油の池で沐浴し、生えていた蘿蔔根を食べてみたところ身体から毒が消えてゆき、一命を取り留めることができたの。けれど男は国王を深く恨み、国王の領地領民に害をなさんとの思いから大魔神・毘那夜迦王に変じてしまったの。その姿は人身象頭で十万七千(!)の眷属を率いて悪事の限りをはたらくの。

蘿蔔根はダイコンのこと。白ダイコンと云うよりもラディッシュに近いかしら。
歓喜天の供物にダイコンが捧げられるのはこの逸話に由来するの。

やがて国中に悪鬼が蔓延り、国王も領民もすっかり疲弊してしまうの。それを見兼ねて毘那夜迦王の説得に乗り出したのが観音さま。見目麗しい女性に姿を変えて毘那夜迦王を訪ねるのですが、その美しさに感嘆した毘那夜迦王は欲情して何と(!)観音さまに情交を迫るの。ところが観音さまは−あなたが仏法に帰依して善神となるのならその望みを叶えてあげてもいいわ−と答えるの。そうして毘那夜迦王は仏法への忠誠を誓い、人身象頭の姿となった観音さまと抱き合ったの。

※記述は多分に脚色を含みますので鵜呑みにしないで下さいね(笑)。

双身像は観音さまが毘那夜迦王の脚を踏みつけているケースが多いのですが、それは悪心を封じ込める象徴なの。そうして歓喜を得た毘那夜迦王は歓喜天となり、男女陰陽の両極が結合された宇宙万物の象徴として広大無辺の神通力を持つようになったの。禁欲を説く仏教の中ではまさに歓喜天の双身像は破壊仏の感があるのですが、仏教とは深遠な世界ですね。残念ながら聖天院の聖天像を見た訳ではないので双身像だと断言は出来ないのですが。

境内に建つ案内板では国重要文化財に指定される文応2年(1261)の銘を持つ銅鐘ばかりを取り上げて説明しているので、てっきりその釣鐘が鐘楼に掛けられているものと思っていたのですが、そうではないの。現在鐘楼に架けられている梵鐘は、時代が下った元禄4年(1691)に、第33世住持の法印賢海上人が江戸は神田の鋳工・藤原正永に造らせたものなの。じゃあ、国文の銅鐘はどうしたのかと云うと、【風土記稿】には「火災に罹りし故破裂せり」とあることから、ゴ〜〜〜ンと衝く訳にはいかず、大事に保管されているみたいね。

それでもその古鐘のことが気になる方もいらっしゃるかも知れませんので、ここではその案内文を転載しておきますが、どうしても画を見たい!と云う方は 日高市 の歴史・文化財の頁などを御参照下さいね。

〔 国指定重要文化財 銅鐘一口 〕  昭和37年(1962)02月03日指定 総高81.2cm、口径45cm この銅鐘は信阿弥と平定澄が、鎌倉時代に関東各地に名鐘を残した物部季重に造らせて、文応2年(1261)に勝楽寺(聖天院)に奉納したものである。上帯に雲、下帯に唐草文を繊細に鋳出し、全体の姿も優美である。また文応2年の鋳造銘は聖天院が古刹であることを証している。( 銘文は下記 )
武州高麗勝樂寺 奉鑄鐘長二尺七寸 諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅爲樂 文應二年歳次辛酉三月日 辛酉
大檀那比丘尼信阿彌陀佛 平定澄朝臣 大工物部季重

鐘楼右手には石段が設けられた基壇状の空き地(に見えたの)があるの。何かこれから建てるために造成だけはしておいたのでしょうね−と一人合点していたのですが、良く見るとその空き地中央には等身像が建てられていたの。それがこの高麗若光王像だったの。若光王とあるのでどうしても韓ドラに登場する若き主人公のイメージに引きずられてしまうのですが、ここでは白髭をたくわえて、まさしく王としての風格を漂わせているの。

高麗神社の項では触れずにいたのですが、若光王の死後にその遺徳を追慕する高麗の人々は王を白髭明神として崇めたの。高麗の人々にはこの像のように白髭をたくわえた姿こそが王の姿だったのでしょうね。そうして白髭明神は武蔵国に分散居住する高麗の人達の手に依り各地に分祠勧請されたの。多い時には高麗郡内だけでも21社を数えたと云うのですが、そこには白髭明神こと若光王を長として民族の誇りを失うまいと努めた高麗の人々の姿があったのかも知れないわね。

白髭神社は滋賀県高島郡に鎮座する白髭神社を総本社とするの。祭神は猿田彦神ですが、元々は伊勢地方の海人が太陽神として崇めていた神とする一方で、白日神、或いは新羅神とも云われ、渡来系の神だとする説もあるの。高麗神社にはその猿田彦神も祭神として祀られているのですが、それは後世に合祀されたものね。見てきたわけではないので断言は出来ないのですが、高麗郡では渡来神としての猿田彦神と高麗明神が習合して白髭明神に化けたと云うのはどうかしら?But 鵜呑みにしないでね。

6. 九万八千社 くまはっせんしゃ

参道 聖天院からは40分程歩くのですが頑張って下さいね。地図上で県道R15に出るか出ないかのところに一風変わった社名を見つけて訪ねてみたのがこの九万八千社。実は最初から九万をくまと読めた訳ではなくて、ξ^_^ξはず〜っと、きゅうまんはっせんしゃ−と読んでいたの。改めて訪ねてみる程のものは何もないわね−と云うのが正直な感想ですが、全国的に見ても珍しい名前のお社だと云うことで、記念に御参拝下さいね。

杉木立に囲まれて簡素な社殿が鎮座しますが、榊や紙四手も新しいことから奉賽する方が今でも確かにいらっしゃると云うことよね。八千矛命(やちほこのみこと)を祭神とし、高麗本郷の鎮守として古くから祀られていたそうなの。この八千矛命と云うのは別称で、因幡の白兎神話などを通じて皆さんも良く御存知の大国主命のことなの。意外に思われるかも知れませんが、大国主命の神格は農耕神でもあるの。農耕は農地の開墾でもあり、地域の開拓にも繋がるの。この地域の人達が崇めた理由もそこにありそうね。

【神社明細帳】には「創立詳ならず 正中2年(1325)建立の棟札ありし由 口碑に傳ふと雖も其棟札今存せず云々」とあるように、いつ頃創建されたものかは分からないの。因みに【日高町史】には、社名は九万=高麗と、八千=新羅に由来するものとする説が紹介されているの。ξ^_^ξは八千は八千矛命の八千だと思うんだけどなあ。まあ、今となっては遠い遠〜い昔のお話しね。因みに、鳥居脇には楠と杉の御神木があるの。幹周りは楠が3.5mで、杉の方はそれよりはちょっと太めの3.85mだそうよ。樹齢は両者共に不明ですが、杉の方は幹の根本が殆ど空洞化しているの。高台から巾着田の移ろいを見守り続けてくれた杉も、そろそろ土に還り行く時を迎えたのかも知れないわね。

7. 長寿寺 ちょうじゅじ

長寿寺 九万八千社とは敷地を接するようにして建つのがこの長寿寺なの。お寺と云うよりも僧庵の佇まいね。何か縁起を知る術でも無いかしら−と辺りを見回して見たのですが何も無いの。嘗ては九万八千社の別当寺を務めていたと云うのですが、【風土記稿】は「萬福山と號す 新義眞言宗 新堀村聖天院末 慶安二年釋迦堂領三石の御朱印を賜ふ 本尊釋迦を安ず 中興開山秀傳元文元年十一月八日示寂」と僅かに記すのみなの。【日高町史】に依ると、聖天院の隠居寺であったと云う伝えも残されているそうよ。

8. 高麗郷民俗資料館 こまごうみんぞくしりょうかん

漁具の展示 民俗資料館とあるように、ここでは失われつつある生産用具や生活用具が展示されているのですが、農業・林業のみならず、漁業関連の資料もあるの。日高市は海から遠く離れた山間部に位置することから漁業とは意外な印象を受けるかも知れませんが、高麗川の清流にはアユ、ウグイ、ウナギ、カジカ、カマツカ、ギバチ、ギンブナ、クチボソ、コイ、ドジョウ、ナマズ、ヤマベなどの川魚が多く棲息していたの。カワエビもちゃんといたみたいね。その川魚がさまざまな漁法で獲えられて食膳を賑わせていたの。

養蚕道具の展示 1Fにある常設展示室では稲作の他に、日高市の地場産業としての「養蚕」と「お茶」のことが紹介されているの。中でも製茶機の開発に全霊を傾け、後に製茶機械発明家として知られるようになった高林謙三はこの日高市の出身でもあるの。云うなれば郷土の偉人ね。でも、医院を開業して財を成していたと云う彼が、突然私費を投じて製茶機の開発に乗り出すと云うのもすごいわね。その波瀾万丈の開発模様が お茶街道 に紹介されています。Top-Page〜歴史探訪〜人物クローズアップ〜第11回お茶『製茶機械発明家高林謙三』とリンクを辿ってみて下さいね。

ところで、この民俗資料館の開館日と開館時間がめちゃくちゃ変則なの。訪ねてみたら休館日で見学出来なかった−なんてことがないように、参考までに 2010/11/28 現在の開館日時を掲載しておきますので御参照の上でお出掛け下さいね。But 今後変更される可能性もありますので御注意下さいね。尚、最終入館時間は幾れも閉館時間の20分前迄で、入館料は無料よ。

開館日 開館時間 補足事項
01-03 土・日(祝日&年始を除く) 10:00-15:00  
04-07 木・金・土・日 10:00-15:00  
08-09 毎日(月曜※注)&祝日を除く) 09:00-17:00 ※注)月曜祝日の場合は開館、代わりに翌日火曜日が休館
10-12 金・土・日(祝日&年末を除く) 10:00-15:00  

9. あいあい橋 あいあいばし

民俗資料館の裏手に回り込むと高麗川に架かる木製のトラスト橋があるの。それが「あいあい橋」で、周囲の景観に溶け込み、橋上から眺める高麗川の流れも素敵よ。このあいあい橋を渡ると巾着田曼珠沙華公園になるの。

〔 あいあい橋 〕  この一帯は高麗川が蛇行をして出来た巾着田(布などで作る小さな袋)のような田園地帯であり、「巾着田」の愛称で人々に親しまれています。「あいあい橋」は市民憲章に唱われている「いこいある緑と清流を愛します」の”あい”と「笑顔あるふれあいの輪を広げます」の”あい”に由来し、市政の基本理念である「ふれあい清流文化都市−日高」の実現を願って命名されました。主部材に熊本県産の小国杉を使用し、この風光明媚な景観を損なわないように配慮された木製トラスト橋となっています。「あいあい橋」には、この貴重な自然と訪れる皆様方との橋渡し役となるよう思いが込められています。平成8年(1996)8月 日高市

10. 巾着田曼珠沙華公園 きんちゃくだまんじゅしゃげこうえん

刈場坂峠付近に源を発する高麗川の流れは複雑な起伏の山峡を東流し、関東平野に出た所で南東から北東にその流れの方向を変えます。この大きく蛇行した姿はあたかも円を描いたような流れとなって、他では見ることが出来ない珍しい地形を形成しました。水の流れは永い年月をかけ、外縁の土地を浸食して急崖を造り、内側には川原が形成され、内側は自然堤防となり、自然林の木立が生育しています。更にこの内側には上流部から運ばれてきた土砂が堆積し、この土地を利用して古くから水田耕作が営まれていました。

地元の人はここを川原田と呼んでおり、この他に市原田・内野・新田・八ヶ下が字として存在し、面積は約22haに及びます。また、慶長二年(1597)高麗本郷全域にわたり、検知が行われたことが検地帳に記されており、中世末期には巾着田が耕地化されていたものと推定されます。上空から見るとこの姿が巾着袋のように見えるので、俗称として巾着田と呼ばれるようになりました。日和田山から眺めるとその姿を確認することが出来ます。日高市・日高市観光協会

曼珠沙華 〔 ヒガンバナ(曼珠沙華)群生地 〕  巾着田周辺の高麗川の岸辺は、ヒガンバナの群生地であり、その規模は長さ約600m巾約50mにもわたり、全国的にも最大級のものと云われています。群生した成因の定説はありませんが、種を付けず球根で増える性質のものであるため、一般的に河原にあるヒガンバナは、上流部から流されて来た球根が自生して群落をなすと云われています。また畔道に植えられたものが、洪水の度に流出して現在の群生地を成したものとも考えられます。

この周辺は秋の彼岸の頃になると周囲一面が真紅な色で染められ、ニセアカシアの林の緑と高麗川の清流とが相まって、美しさを一層引き立ててくれます。そして、冬になると葉が出て光合成が行われ、養分を蓄積し、次の開花に備えます。地方の俗名が多く、50余りの方言がありますが、ヒガンバナの語源は、秋の彼岸の頃に花が咲くことに依り、また、曼珠沙華は赤花を表す梵語によるものです。日高市・日高市観光協会

曼珠沙華は法華経の摩訶曼陀羅華曼珠沙華に由来するのですが、サンスクリット語(梵語)の manjyusaka が音訳されて曼珠沙華になったの。なので、本来ならマンジュシャカと読まなくてはいけないわね。

本当は辺り一面を赤く染め上げる曼珠沙華を紹介したいところなのですが、訪ねたのが秋というか、初冬のことなので掲載出来ないの。でも、花が咲いていなくても色付いたニセアカシアの根本には緑一面の曼珠沙華の葉が茂り、素敵な景観を見せてくれました。公園内には高麗川の流れに沿って遊歩道が設けられているの。落ち葉を踏みしめながら秋の陽射しを浴びてのお散歩も素敵でしたよ。今回の散策の締めくくりに巾着田曼珠沙華公園の秋景色を御堪能下さいね。

11. 高麗駅 こまえき

高麗駅 曼珠沙華公園を御案内する以上はヒガンバナが咲く時期に一度訪ねてみなくてはいけないわね−と思いつつ、仲々タイミングを捉えて訪ねる機会がなくて見切り発車で作成したのがこの頁なの。今回、掲載後2年越しにしてようやく観ることが出来たの。But 一度は喜び勇んで出掛けてみたものの、開花予想に反して開花が今一つだったの。そうなると意地よね(笑)、再度出直すことにしたの。最後までお付き合い頂いた方にスペシャル・プレゼントとして、そのヒガンバナの写真をスライドに纏めてアップしておきましたので、御覧になりたい方は左掲の画像をクリックして下さいね。


嘗て高麗郡と呼ばれたこの地には高句麗からの渡来人が数多く住んでいたの。その歴史を紐解けばそこには帰るべき祖国を失い、異国の地で生き抜いた一人の若き王(高麗王若光)の姿があるの。朝廷から土地を与えられたからと云ってもそこは未開の地。彼等の知識と技術を以てしても容易には開拓できなかったはず。それでも秋になれば流した汗と涙は高麗川の清い流れと相まって巾着田を黄金色に染めていたのかも知れませんね。散策の足をしばし休め、秋の陽溜まりにまどろんでいると、遠い昔の出来事が瞼に浮かんでくるの。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
青弓社刊 長谷川明著 歓喜天とガネーシャ神
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
吉川弘文館社刊 国史大系 続日本紀
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
日高市発行 日高市史
日高町発行 日高町史
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など






どこにもいけないわ