以前、小岩菖蒲園にハナショウブを観に出掛けた際に、北小岩は北原白秋ゆかりの地でもあり、江戸時代には房総方面と江戸を結ぶ交通の要所として町が発展していたことを知ったの。点在する寺社には、当時を偲ばせる事蹟も数多く残されていると知り、改めて訪ね歩いてみることにしたの。掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。
1. 京成小岩駅 けいせいこいわえき 10:22着 10:25発
2. 上小岩遺跡 かみこいわいせき 10:27着 10:28発
〔 上小岩遺跡 〕 上小岩遺跡は、区内で最も古くて大きな遺跡とみられ、現在の北小岩6、7丁目付近と推定されています。この地域は、元の上小岩村にあたることから遺跡名を上小岩遺跡と呼んでいます。上小岩遺跡は、昭和27年(1952)に当時の小岩第三中学校の生徒が自宅裏の用水路から土器片を発見し、同校の中村教諭に連絡したことからその存在が知られるようになりました。その後、中村氏らの調査に依り、この遺跡が古墳時代前期( 今から約1,600年前 )を中心とする低地の集落遺跡であることが分かりました。出土品は、弥生時代中期のものから発見されており、古墳時代前期の土器類が中心です。
特にS字状の口縁を持つ台付甕が大量に出土した他、土錘も多く出土し、半農半漁の生活をしていたことが窺えます。また、奈良の正倉院文書に養老5年(721)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍があり、この中の甲和里と云う集落が小岩にあたると推定されていますが、これまでの調査でこれを裏づける集落跡が発見されていません。当時の出土品も少ないため、戸籍に見られる集落の存在確認は、今後の調査に期待されています。昭和63年(1988)3月 江戸川区教育委員会
最初の目的地である善慶寺に向かって歩いているときに、偶然見つけたのがこの上小岩遺跡の案内板だったの。訪ねたときには都市計画道路整備事業を受けて道路拡幅のための土地の収用がされていましたが、通りの名も通称・上小岩遺跡通りと呼ばれるように、通りや収用された土地の地面の下には今も調査されずにいる古人(いにしえびと)の生活跡が残されているようね。収用を終えて道路工事に着手するようになった暁には、事前に発掘調査されるのかしら?もっとも、遺跡のエリアは北小岩6、7丁目に及ぶと云うのですからかなりの広さになり、道路拡張部分に限定したとしても発掘調査は大規模なものになってしまい、現実的ではないのかも知れないわね。尚、後半では上小岩遺跡の別なポイントにも立ち寄ってみましたので、後程紹介しますね。
3. 善慶寺 ぜんけいじ 10:30着 10:39発
4. 上小岩天祖神社 かみこいわてんそじんじゃ 10:43着 10:53発
ところで、江戸川区内には多くの天祖神社が鎮座しているの。今回の史蹟めぐりのコース内にも小岩神社(下段の注記を御参照下さいね)を含めると4社もあるので、何か歴史的な背景があるのではないかしら−と思い、調べてみると、やはりそれなりの理由があったの。平安時代末期になると、現在の江戸川区域を含む葛飾郡に進出してきた葛西氏はその領地(荘園)を伊勢神宮に寄進し、葛西御厨(かさいみくりや)が成立したの。国衙からの税の追徴を逃れるために、地方豪族達は有力貴族や寺社に領地を寄進、年貢の一部を納める代わりに国や郡からの徴税を免れることが出来たの。とりわけ、領地の寄進先が伊勢神宮であった場合には、荘園は荘園でも、御厨(みくりや)と呼ばれたの。
境内に立つ公孫樹とクロマツは江戸川区の保護樹に指定されているの。そのクロマツの姿を探しているときに、竹林の前に記念碑らしきものがあるのを見つけたのですが、それが恋岩聖地巡礼碑だったの。小岩を恋岩としているところが素敵ね。残念ながらその方面には疎くて、ξ^_^ξはこの北小岩天祖神社を訪ねる前までは「ルドルフとイッパイアッテナ」のことを知らなかったの。大ベストセラーで、映画化もされたと云うことなので、御存知の方も多くいらっしゃるかと思いますが、ξ^_^ξと同じように、「そんなの、知らないわ」と云う方は 映画『ルドルフとイッパイアッテナ』公式サイト を御参照下さいね。But リンク切れの際はゴメンナサイね。
5. 小岩公園・甲和亭 こいわこうえん・こうわてい 11:05着 11:09発
〔 力石 〕 力石は、地域の青年達が力比べをしたときに道具として使った石です。盛んになったのは江戸時代の中頃からで、明治・大正と受け継がれていました。鶏卵のような形の丸い自然石が使われています。挙げ方に幾つかの種類があり、競技として盛んに行われました。石の重量や挙げた若者の名前が刻まれることも少なくありません。しかし、20世紀に入ると習俗も廃れ、力石も失われていきました。江戸川区では、鷹野虎四氏に依り克明な調査が行われ、未だ多くの力石が残っていることが分かりました。この力石は、北小岩在住の田中庫三氏宅より寄贈されたものです。平成24年(2012)6月 江戸川区
前庭の一角には二基の力石が並び立てられていたの。江戸川区内には都内でも最多の332基もの力石が残されているのだとか。重さは軽いものでも18貫あり、普通は30貫から50貫が多く、最も重いものでは90貫余もあるそうよ。一貫を3.75Kgとして換算すると、約68Kgから338Kgまでのものがあると云うことになるけど、実際には、刻まれている重さの八掛けが実質的な重量のようよ。それでも、90貫と云うのは俄には信じ難いわね。因みに、持ち上げる重量の最低基準は米俵一俵分(16貫・約60Kg)で、力自慢をするためにはそれ以上の重量の石を持ち上げる必要があったの。早い話が、米俵一俵分も持ち上げられねえような奴に出場資格なんかねえよ〜と云うことね。お箸より重たい物など持ったことの無いξ^_^ξには(笑)、自分の体重以上の重さの石を持ち上げるなんて、想像も出来ないわね。
6. 小岩田八幡神社 こいわだはちまんじんじゃ 11:24着 11:33発
〔 八幡神社 〕 祭神は誉田別尊、相殿に倉稲魂尊を祀っています。
創建は不詳ですが、元禄8年(1695)の記録には神社の名が見られます。
■地蔵菩薩像庚申塔( 万治元年銘 )〕 江戸川区登録有形民俗文化財
この地蔵は、詩人として知られる北原白秋縁の三谷の地にあって、三谷地蔵として親しまれ、現在は境内右奥にある社務所の中に安置されています。銘文から、万治元年(1658)に庚申供養のために造立したことが知られます。庚申塔は、60日に一度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸(さんし)と云う虫が天帝に罪過を告げ命を縮めると云う中国の道教の教えに由来する庚申信仰の信者に依って建てられました。
■北原白秋の歌碑 昭和36年(1961)、地元の人々に依り建てられました。境内入口の右側にあります。
昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会
万治元年(1658)の銘を持つこの地蔵菩薩像庚申塔は区内最古の庚申塔とされるの。尚、庚申塔や庚申信仰のことがもっと詳しく知りたいの−と云う方は 庚申信仰 を御笑覧下さいね。CM でした。(^^:
建碑の協賛者は、当時の区長・中川喜久雄氏を筆頭に35名にものぼり、京成電鉄と読売新聞社の後援があったみたいね。刻まれている歌は【葛飾閑吟集】所収の一首になるの。白秋ゆかりの地については後程改めて紹介しますね。
7. 水神碑 すいじんひ 11:39着 11:42発
同十四年重て府廰より賞状を付與せらる。爾來五穀豐穰人皆其堵に安んじ和氣蕩然として相樂む。大正十三年三月江戸川改修の爲め此樋を現位に移し、伊豫田水田の大半を放水路となしたるを以て同十五年三月之を小岩田普通水利組合に合併し、尚ほ之が排水路を開鑿し遂に今日の隆盛を見るに至れり。是れ一は神明加護の致す所と雖も翁の偉功も亦與つて力ありと謂はざるざるべからず。乃の碑を建て以て其功徳を不朽に表すと云爾。大正十五年十二月 正五位勳三等 高倉正治撰并書
石碑は幅が1m余に、高さは台石を除いた部分だけでも3m余あり、かなり大きなものになっているの。説明にもあるように、献身的な努力に依り圦樋を完成させた石井善兵衛の偉功を後世に伝えるために、大正15年(1926)に建立された顕彰碑なの。紹介した案内板はこの後に訪ねる善兵衛樋のところに掲示されていたものですが、石碑にしても、元々は旧水門のところに建てられていたの。江戸川の河川改修に伴い、昭和42年(1967)に現在地に移設されたのですが、どうせなら善兵衛樋のあるところに移設すれば良かったのに、どうして離れたこの場所に移設してしまったのかしらね。
水神碑の前からは水が湧き出していましたが、「親水さくらかいどう」に沿って流れる疏水の源流になるみたいね。と云っても、江戸川から取水しているので自然の湧水と云うわけではないのですが、北小岩8丁目付近の500m程を流れるの。沿道には水の流れに沿って桜が植樹され、雰囲気のある街づくりがされていて素敵よ。花が散った後のお掃除は大変かも知れないけど、開花時期には一層素敵な景観が広がりそうね。
8. 上小岩親水緑道 かみこいわしんすいりょくどう 11:43着 11:51発
水神碑から道を隔てて小岩排水場があるのですが、江戸川から取水した水を利用して上小岩親水緑道が整備されているの。左掲の親水緑道の入口を進むと直ぐにあるのが善兵衛樋で、開削当時のものと云うわけではないのですが、想像以上の水量にびっくり。と云っても、元々の圦樋は上小岩村・中小岩村・小岩田村・鎌田新田(葛飾区)の4ヶ村の田畑を潤すに充分な灌漑用水を得るための仕掛けだったわけですから、当然、今以上の水量があったでしょうし、滝水のようにしてあるのも多分に景観的な演出のようね。
接近画像や周囲の景観を含めて、その様子をスライドに纏めてみましたので、
御覧になりたい方は上掲の画像をクリックしてみて下さいね。
9. 慈恩寺道の道標 じおんじみちのどうひょう 11:51着 11:54発
〔 慈恩寺道の道標 〕 江戸川区登録有形文化財 この地蔵菩薩立像を刻んだ道標は、区内で最も古いものと云われ、霊場参詣者の信仰によって建てられたもので、埼玉県の慈恩寺に行く旅人にとって、大事な道標であった。銘文からみると、正徳3年(1713)に建立されたもので、岩附・千住の二方向と、そこまでの距離が示されている。昭和53年(1978)11月 江戸川区教育委員会
(正面) 地蔵菩薩立像
堂内には左から弘化2年(1845)銘の馬頭観世音と刻まれた石塔に、地蔵菩薩像が並び立ちますが、右端が「慈恩寺道の道標」で、高さ113cm、幅41cm程の供養塔には地蔵菩薩像が陽刻されているの。塔身の右面には「是より右岩附慈恩寺道 岩附迄七里」とあるように、慈恩寺への道(慈恩寺道)の道標として岩槻街道の辻に建てられたものなの。慈恩寺は、現在の埼玉県さいたま市岩槻区にある天台宗の古刹で、平安時代初期に慈覚大師(円仁)が創建したものと伝えられ、本尊には千手観世音菩薩を祀り、板東三十三観音霊場の第十二番札所となっているの。ところでその岩槻街道ですが、慈恩寺道とも呼ばれていたことから専ら札所巡りに利用された道かと思いきや、元々は行徳で製塩された塩を岩槻へ運ぶための「塩の道」だったみたいね。
【江戸川区史】には「この街道の起こりは古く、戦国時代から開かれていた。即ち、岩槻城への行徳からの塩道として発達したもので、岩槻から古利根川筋を伝い南下して、中川を猿ヶ又村で渡り、金町村から江戸川沿いに下って、柴又から上小岩に入り、中小岩村と伊予田村の境を通って、元佐倉道の一里塚に出て、下篠崎村地先まで舟渡(河原の渡し)で対岸河原村(行徳領)に出たもので、昔はこの全経路が岩槻道と呼ばれていた。主として行徳の塩を内陸部の岩槻へ運ぶための道であった」とあるの。現在の景観からは想像出来ないけど、当時の行徳では大規模な製塩が行われていたなんて知らなかったわ。そう云えば、JR京葉線には市川塩浜と云う名の駅があったわね。
10. 北原白秋ゆかりの地 きたはらはくしゅうゆかりのち 12:02着発
※白秋も一時は死を意識するまでに至った事件で、後に「桐の花事件」と呼ばれるようになったのですが、実は人妻との恋愛事件なの。詳しくは 城ヶ島岬めぐり の白秋碑の項を御笑覧下さいね。CM でした。
小岩村での新居は、軍馬用の乾草商を営む富田市太郎氏の離れで、白秋のことばを借りると「前は柴又と千住の分かれ道、石の地蔵が一体立ってすぐ下手に橋がある、これが矢つ帳り地蔵橋。橋の横手のこの草葺きの家を遠くから見ると南に柳が枝垂れて風情がいい」と、下見もそこそこに翌日には引っ越してきてしまったの。江戸川の土手から眺めたときの、目の前に広がる景観を白秋はいたく気に入ったみたいね、併せて、その青田の中にある新居の佇まいも。その新居から紫色の煙が立ち上るのを見届けた白秋は「妻がもう夕餐の煙を立ててゐる。私はたまらなくなって茄子やもろこしの間を駆け抜けた。紫の煙!紫の煙!私は私達のこの畑の中の新居を、その晩、紫烟草舎と名をつけた」と小躍りして喜んでいるの。その新居があった場所ですが、現在は江戸川の河川改修工事や堤防の造成などで地勢がすっかり変わってしまったの。当初の場所は河川敷になってしまい、往時の縁を知る術は残念ながら無いの。だいたい、この辺りにあったと云うことで御理解下さいね。
私は今都から逃れて、静かな南葛飾の里にゐる。江戸川の清らかな流のほとり、胡瓜や茄子や玉葱や紫蘇の畑の中に、ほそぼそと紫烟草舎の煙をたててゐるのである。私は落ついて静かに歌ってゐたい。つまらぬ世間の雑音から掻きみだされたくない。‥‥‥ ああ、紫烟草舎、夜が明ければ煙をあげ、日が暮るれば灯を点じ、晴れわたった昼、雨の宵、風の夕、雪の小夜中、私達は何よりも、私達の命を、玉のようなその命を愛しまなければならない。
堪へがてぬ寂しさならず二人来て住めばすがしき夏立ちにけり 【葛飾閑吟集】
But その紫烟草舎も「あれほど庭に集まって来た雀達は追々に私と遊ばなくなった。さうして一羽ずつ別かれて、今度はせっせと自分達の巣を営みはじめた。‥‥‥ 浮世の風は静かな田園の中にも吹き荒む。私達夫婦もその風に吹きまくられて、再び都会の煤と埃との中に自分達の新しい巣を探さなければならなくなった。‥‥‥ 葛飾は静かであった。朗らかであった。紫烟草舎はなつかしかった。寥しいが安らかであった。その紫烟草舎の扉も閉ざされた。又、閉ぢなくてはならなくなった」の。白秋の小岩時代は、赤貧に喘ぎながらも、苦楽を共にすることが出来た章子さんがいてくれたことは、白秋にとってはこの上無い幸せなことだったのではないのかしら。それが故に、後年、小岩で生活を基にした作品を数多く残すことが出来たと云っても過言ではなさそうね。とは云うものの、その章子さんとも離婚することになってしまうのですが。
市川市国府台にある里見公園の一角には紫烟草舎が復元移築されているの。
後日、訪ねてみましたので紹介しておきますね。
紫烟草舎の当初あった場所は現在では河川敷になってしまっているの。大正7年(1918)に白秋は小田原に転居してしまいますが、建物は大正8年(1919)に江戸川河川改修工事に伴い、800m程離れた現在の北小岩8丁目に移転。所有者も湯浅伝之焏氏に変わり、湯浅氏の住居として使用されたの。昭和42年(1967)には再び堤防改修工事のため取り壊されることになり、解体されて湯浅氏の転居先である千葉県市川市大野に運ばれていたの。
11. 唐泉寺 とうせんじ 12:06着 12:16発
堤防沿いの旧道を歩くとあるのが江戸川不動尊の別名でも呼ばれている唐泉寺。現在は吉祥山唐泉寺を山号寺号とする真言宗泉涌寺派の寺院ですが、開創は、勤め人をしていた前住職(真快和尚)が愛娘を急性骨髄性白血病で失ったのを機に出家、全国行脚の末、当地に不動堂を建立したことに始まるの。下段に本堂の前に立つ甦り不動明王の由来を引いておきますが、真快和尚自らも癌に罹りながら、奇跡的に病を克服しているの。それはひとえに不動明王の御利益によるものとされ、現在では「がん封じ」や「ぼけ封じ」など、日本唯一の「封じ護摩」のお寺になっているの。
至心発願 天長地久 即身成仏 増長福壽 息災延命 悪霊退散 悪病退散 富病平癒 諸人快楽 乃至法界 平等利益
咤の字ですが、本当はウ冠が要らないの。
表示不能ですので代用文字にしています。御容赦下さいね。
12. 正真寺 しょうしんじ 12:25着 12:27発
正真寺は真言宗豊山派で、神明山西光院と号します。開山は暁覚法印で、慶長6年(1601)に入寂しました。現在の本堂は唐破風様式の鉄筋コンクリート造で、昭和43年(1968)10月の再建です。寺宝としては、チベット語の教典が多数あります。
■真田周作筆子塚 江戸川区登録有形文化財・歴史資料 昭和62年(1987)登録
唐泉寺からこの正真寺までの移動時間が9分程かかっていますが、途中で曲がるべき道を見過ごしてしまい、プチ迷子になってしまったの。迷わなければ半分の時間も要らないと思うわ。それはさておき、正真寺は神明山西光院と称し、元は千葉県にある金光明寺末でしたが、現在は奈良の長谷寺を本山とする真言宗豊山派の寺院。開基は暁覚法印〔 慶長6年(1601)入寂 〕で、元々は天文・永禄の国府台合戦に加わった里見方の武士でしたが、世の中の平安を祈願して阿弥陀如来の像を刻むと、国府台合戦の戦場となったこの地にお堂を建てて祀ったのが始まりであると伝えられているの。因みに、江戸期には多くの神明社の別当も務めたようよ。
正面 左脇 右面 左面 |
青面金剛像 これより左ばんどうみち 東葛西領小岩田村 庚申講中 観音堂別当了圓 享保八癸卯歳六月吉日 |
門柱の蔭に隠れるようにして建つのが青面金剛を主尊とした庚申塔で、「これより左ばんどうみち」と刻まれるように、道標を兼ねているの。その板東道ですが、慈恩寺道道標の項で触れた、板東三十三ヶ所観音霊場の一つ、現在の埼玉県さいたま市岩槻区にある慈恩寺(十二番札所)へ通じる慈恩寺道(岩槻道)、あるいは十三番札所の浅草寺に通じる浅草道を指しているものと考えられているの。 |
冒頭に紹介した案内板の説明にある真田周作筆子塚ですが、訪ねたときには墓苑の入口が閉じられていて拝観出来ずに終えているの。ごめんなさい。塔身にはそれぞれ「眞乘院蓮月暁水居士 天保四年十二月二十七日沒」、「眞全院榮仙妙保大姉 天保十二年正月六日沒」と刻まれているとのことですので、御参考までに。
13. 小岩田天祖神社 こいわだてんそじんじゃ 12:36着 12:39発
今回の北小岩の史蹟めぐりでは早くも二社目の天祖神社となるのがこの小岩田天祖神社で、天正年間(1573-91)の創建と伝えられているの。当社も神明宮として創建されているのですが、享和2年(1802)には落雷により社殿を焼失し、同年9月に改築され、現在の社殿は文政10年(1827)に再建されたものなの。祭神は天照大神を主祭神にして、相殿に経津主神(ふつぬしのかみ)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、建御名方神(たけみなかたのかみ)、惶根神(かしこねのかみ)が祀られるの。But 文政(1818-30)の頃は神明諏訪両社大神と称していたと云うのですから、当時は未だ天照大神と、建御名方命の二柱だったのかも知れないわね。経津主命と云えば香取神宮の祭神で、惶根神(=面足尊:おもだるのみこと)と云えば第六天社に祀られる神さまになるの。倉稲魂命は御存知のお稲荷さんよね。当社は明治7年(1874)に村社となり、天祖神社と改称したとのことですので、その時に周辺の香取社・第六天社・稲荷社などを合祀したのかも知れないわね。かもよ、かも。
訂正です。【風土記稿】には「神明社 稲荷香取を相殿とす」とあり、
既に合祀されていたようね。勝手推論を書きました。ごめんなさい。
左掲は境内末社の水神宮で、元文5年(1740)の創建と伝えられているのですが、それ以上のこととなると委細不明なの。
14. 真光院 しんこういん 12:42着 12:52発
〔 真光院 〕 真言宗豊山派で稲荷山遍照寺と号し、慶長7年(1602)に法印良鑁(ほういんりょうばん)が開山したと伝えられています。本尊に木造阿弥陀如来立像を安置しており、寺宝として弘法大師筆と伝えられる「鼠心経(ねずみしんぎょう)」を所蔵しています。昭和47年(1972)に萱葺きの本堂から鉄筋コンクリート造に建て替えられました。門前に青面金剛と馬頭観音が祀られ、境内には樹齢200年といわれるケヤキとスダジイが聳えています。
■木造閻魔王坐像 江戸川区登録有形文化財・彫刻
寄木造りのこの像は、本堂内に祀ってあります。像高約81cm。左手は掌を仰向けて膝の上に載せ、右手に笏を握っています。顔は忿怒の相で口を開き、胸飾りに日月を現しています。銘はありませんが、江戸時代後期に、檀家によって家族の供養のために寄進されたもので、その頃の作と考えられます。平成6年(1994)3月 江戸川区教育委員会
御案内が前後してしまい恐縮ですが、門柱右手には青面金剛を主尊とする庚申塔や馬頭観音と刻む石塔が並び立つの。背後に建つ小堂には大小の供養塔が祀られていましたが、目を引いたのが御覧のドラえもん像で、建立されたのには何か特別の理由がありそうで、その由来が気になるところね。また、境内にある樹齢200年と云われるケヤキとスダジイの樹ですが、参道の右手に立つのがスダジイで、左手に見えるのがケヤキの木になるの。
15. 光ヶ嶽観音堂 てるがたけかんのんどう 12:57着 13:00発
〔 光ヶ嶽観音堂の由来 〕 正真寺境外仏堂の観音堂は、光ヶ嶽観音堂と号し、弘法大師の大曼荼羅戒壇前にて鋳造された小金像をお祀りしています。光ヶ嶽観音は一寸八分( 約6cm )ほどですが、室町時代末期の武将・里見義豊&義俊の守り本尊で、常に甲冑に収め、戦場に赴いたと伝えられております。その後 観音像は千福寺(現存せず)に安置されましたが、里見家子孫に至って供養を怠ったところ、文禄元年(1592)、地元の沖田家祖先・豊前の枕元で大きな音が響き、驚いた豊前が跳び起きると観音像が立っていたと云います。翌朝、豊前が千福寺に詣でると、そこには観音像はなく、豊前は屋敷内にお堂を建立。以来 観音像は江戸・明治・大正・昭和・平成を通じて北小岩の信仰となったものです。地元の由緒ある文化財と云えるでしょう。また、嘗てのお堂は火災・戦災で被害を受けた人達に貸し出されたり、お年寄りの集い・踊りの稽古場にも利用され、馴染み深い観音堂なのです。地元の皆様のご協力を得て堂宇再建の機にその由来を記す。平成19年(2007)8月吉日 正真寺住職 田嶋信雄 世話人一同
境内の入口にはお地蔵さまが立ちますが、
その左手には沖田氏一族のお墓があるの。
16. 伊予田の観世音道石造道標 いよたのかんぜのんみちせきぞうどうひょう 13:08着 13:09発
〔 伊予田の観世音道石造道標 〕 江戸川区登録有形文化財・歴史資料
道標は H:106cm・W:31cm・D:21cm 程の石柱で、側面には上記のように刻まれているの。にいしく道とあるのは新宿道のことですが、新宿(しんじゅく)ではないので誤解しないで下さいね。新宿(にいじゅく)は中川を渡った水戸街道と佐倉街道の分岐点を中心にしたエリアになるの。道標には伊与田村中とあることからお分かりのように、当時の伊与田村の人達が建てたものですが、伊予田村は明治5年(1872)に発行された【東京府志料】に依ると「東は江戸川に瀕し、西は中小岩村、南は下小岩村、北は小岩田村なり。此地里見氏は遺臣篠原伊豫と云もの開發せし故、伊豫新田と号せしを、元祿以後村名となる。當村もと小岩村に孕まりたる原野なりしを開墾して別に一村をなせり」とあるように、里見氏の重臣であった篠原伊豫が開拓した土地で、当初はその名を以て伊予新田と呼ばれていたのですが、元禄10年(1697)に行われた検地を機に伊予田村となったみたいね。その篠原伊豫のことは後程寶林寺の項で改めて紹介しますね。因みに、観世音道標の右手に立つ小さめの道標には「左成田ミち」とあるの。
17. 京成江戸川駅 けいせいえどがわえき 13:10着発
京成小岩駅を出発してからここまで見学時間を含めると約3時間ほどの所要時間になるの。尤もξ^_^ξのノンビリとした足取りのせいもあるけど、更に史蹟めぐりを続けるとなると、かなりの強行軍になるの。ハナショウブが見頃となる季節であれば、次ぎに紹介する小岩菖蒲園に咲く花菖蒲を愛でたところで一日目を終え、以降の行程は日を改めるなどした方が良さそうよ。ξ^_^ξは訪ねてみたい誘惑に駆られて、あちらこちらを訪ね歩きながら東小岩にある善養寺まで足を延ばしてしまいましたが、その道程がとても長く感じられたの。
確かに、善養寺の「影向の松」の姿を目の当たりにしたときは疲れも吹き飛んでしまいましたが、足を延ばした以上はまた元の場所に戻り来なければならなくて。でも、逆に、ξ^_^ξが要した時間が Max だと思いますので、健脚を自負される方は迷うことなく挑戦あるのみ−かも。どうするかは御覧のみなさまにお任せしますね。
18. 小岩菖蒲園 こいわしょうぶえん 13:16着 13:39発
〔 小岩菖蒲園 〕 昭和57年(1982)6月開園。昭和63年(1988)利根川百景に選定。100種類50,000本のハナショウブをゆっくりと観賞出来るように回遊式庭園となっている。面積:4,900m² 種類:100種 9,000株 50,000本 開花時期:5月下旬〜7月上旬
江戸川区土木部水とみどりの課
〔 ムジナモ Aldrovanda vesiculosa 〕 水中に漂うモウセンゴケ科の奇少な食虫植物で、ムジナ(タヌキ)の尾に見立てて名付けられました。植物体は、長さ6-25cm、太さ約2cmで、節に6-8枚の葉が付いていて、虫が入ってくると貝のように葉を閉じて捕まえます。夏、水面上に淡緑白色の直径約5mmの花を咲かせますが、一日ですぼみ、柄が水中にもぐって果実を結びます。大正10年(1921)、この地はムジナモ生育地として国の天然記念物に指定されましたが、数度の洪水で流失し、大正15年(1926)に天然記念物の指定を解除されました。平成25年(2013)3月修繕 江戸川区教育委員会
日本の植物学史上特記すべき「ムジナモ発見」100周年にあたり、牧野博士の偉業を称え、その事実を永く後世に伝えるため、この発見地に記念碑を建立するものである。平成2年(1990)6月10日 牧野富太郎博士ムジナモ発見100周年記念碑をつくる会
園内の一角には紹介した「ムジナモ発見の地」碑が建てられていたの。ムジナモは埼玉県羽生市にある宝蔵寺池でも自生していたのですが、昭和46年(1971)頃にはやはりその姿を見ることが出来なくなってしまったの。江戸川区と羽生市では種の保存を図ろうと人工培養も試みられたのですが、現在では絶滅してしまったの。
以前、千葉県市川市にある蓴菜池緑地で同じく水生植物で絶滅危惧種のイノカシラフラスコモの保護育成が行われているのを目にしたことがありますが、決してムジナモと同じ運命を辿っては欲しくはないわね。そのイノカシラフラスコモですが、平成28年(2016)には井の頭公園内の井の頭池で、何と60年ぶり!に発芽が確認されたそうよ。それでも危機的状況にあることには変わりないのですが、うれしいことよね。ムジナモからお話しが少し横道に逸れてしまいましたが、ごめんなさいね。
19. 小岩市川関所跡 こいわいちかわせきしょあと 13:42着 13:44発
【新編武蔵風土記稿】の伊予田村の項に「対岸は下総國葛飾郡市川村なれば、小岩市川の御番所と云」とあります。これは幕府の設けた関所の一つで、常時4人の番士が配属されていました。上流の金町松戸関所と共に、江戸の出入りを監視する東の関門でした。戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治2年(1869)に廃止されました。江戸川区
加えて、「入鉄砲に出女」は厳重に取り締まられていたの。入鉄砲が対象にされたのは分かるけど、どうして女の人が江戸から出ることを厳重にチェックされたの?それは、諸国大名の妻女が江戸屋敷に人質として置かれていたからなの。身元を隠して関所を抜けて領地に帰られてしまっては人質の意味が無くなってしまうもの。そのため、女性の場合には女手形(御留守居証文)が要求され、旅の目的や行き先のみならず、素性や人相なども事細かに記されていたようね。更に加えて、対岸の下総・上総方面から嫁入りした場合などは里帰りをはじめ、冠婚葬祭のときなどでもその都度通行手形を必要としたの。
関所の通行には身分の上下で差があったのですが、天和2年(1682)の高札には「乗物にて相通面々、乗物之戸をひらくべし。但し女乗物は番之輩致差図、女に見せ可通之事」とあるように、冠り物をしていた際には笠や頭布をとらせ、駕籠などに乗っていたときには必ず戸を開けさせたの。特に女性の場合には、手形改めが済むと「髪改め女」が結い上げた髪をほぐすなどして徹底的に調べ上げられたの。
そう云えば、埼玉県の栗橋を散歩した際にも、栗橋の関所を通らずに利根川(権現堂川)を渡る、「女廻り道」と呼ばれる裏ルートが嘗てあったことを知りましたが、「百姓渡し」でも渡船の船賃をはずむことで女性も秘かに渡れたのかも知れないわね。But 無責任な推論モードですので、鵜呑みにしないで下さいね。
市川橋を渡った対岸には市川関所跡があるの。
参考までに紹介しておきますね。
20. 御番所町の慈恩寺道石造道標 ごばんしょまちのじおんじみちせきぞうどうひょう 13:47着発
正面 右面 左面 |
銘文 右せんじゆ岩附志おんじ道 左り江戸本所ミち 左り いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 右 いち川みち 安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 |
探し歩いてみれば、申し訳程度の敷地を得て保存されていた「御番所町の慈恩寺道石造道標」ですが、H:134cm、W:30cm、D:25cm もある大きめの道標で、安永4年(1775)に建てられたものなの。この道標にも「右せんじゆ岩附志おんじ道」とあるように、当時は房総方面から岩槻にある慈恩寺への札所めぐりがかなり盛んだったことが分かるの。ルートとしては、ここで佐倉街道を右折して小岩田村から岩槻道へ出たそうよ。江戸川に架かる市川橋から仮に車を走らせたとすると、慈恩寺までは40km程の走行距離になるのですが、当時と今ではインフラが大きく異なるので単純計算は出来ないのですが、当時はどれ位の時間を要していたのかしらね。それだけの距離を自らの足で歩いてしまう−と云うのも、また驚嘆に値するけど。 |
21. 御番所町跡 ごばんしょまちあと 13:49着 13:50発
〔 御番所町跡 〕 江戸川区登録史跡 北野神社〜蔵前橋通り(道路部分)
現在も残る角屋旅館の他、筑前屋、清水屋などの旅籠屋を兼ねた小料理屋を始め、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などが並んでいたと伝えられます。東西道の江戸川に突き当たる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。道標は今も原位置にあり、道路の様子も旧状を留めています。その他にも、江戸川畔にあった常燈明(宝林寺内)や関所役人・中根家の墓(本蔵寺墓地)など、当時に縁のある旧跡が良く残っています。江戸川区教育委員会
【風土記稿】の伊予田村の頃には、関所が「新町内江戸川の傍にあり ここを御番所町とも云」と記されているように、御番所町は関所前の界隈のことを云ったもので、関所が御番所とも呼ばれたことからの命名ね。紹介した案内板には「現在も残る角屋旅館云々」の記述があるのですが、案内板が建てられたのがいつのことかなのかは分かりませんが、既に廃業していて、現在は普通の民家に建て替えられているの。案内板の背後がそのお家よ。角屋旅館に限らず、軒を連ねて賑わいを見せていたであろう商家も今ではその名残りを留めることなく姿を消してしまい、残念ながら、嘗ての宿場町の面影はどこにも無いの。
22. 伊予田北野神社 いよだきたのじんじゃ 13:51着 14:01発
〔 北野神社 〕 旧伊予田村( 現・北小岩3・4丁目 )の鎮守です。江戸時代には、この地にあった稲荷神社と、北方の北野神社が明治42年(1909)に合祀され、今の北野神社となりました。昭和39年(1964)には一里塚近くにあった須賀神社を合祀し、そこで行われていた茅の輪くぐりをここで行うようになりました。祭神には稲荷神社の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と北野神社の菅原道真、それに須賀神社の素戔嗚尊(すさのおのみこと)を加えた三柱を祀ってあります。平成6年(1994)3月 江戸川区教育委員会
■ 茅の輪くぐり 江戸川区指定無形民俗文化財
直径3mに及ぶ大きな茅の輪を作って境内に立て、氏子達が家族の氏名や年齢を書いた人形(ひとがた)を持って茅の輪をくぐり、無病息災を願う夏(な)越しの行事です。毎年6月25日の例祭日に行われます。茅の輪くぐりが終わると大祓いの式を行い、昔は人形を江戸川に流しました。素戔嗚尊が茅の輪で流行病を防ぐことを村人に教えたという故事による行事です。
嘗ては稲荷大明神天満宮の扁額を掲げ、倉稲魂命と天神さまこと菅原道真の二柱が祀られていたの。元々鎮座していたと云う稲荷社の創建年代は不詳ですが、社殿背後左手に建つ水神宮の石祠には「寛政八辰年(1796)正月二日 御番所町、伊予田村」の銘があるので、少なくともそれ以前には稲荷社が建てられていたのでしょうね。昭和39年(1964)には後程訪ねる一里塚跡にあった須賀神社を合祀しているの。江戸川区の指定無形民俗文化財となる茅の輪くぐりですが、元々はその須賀神社で行われていたもので、夏越の大祓(なごしのおおはらえ)の行事の一つだったの。
茅の輪くぐりは、流行病などの病魔を退散させ、今迄に犯した罪や穢れを人形(ひとがた)に乗せて無病息災を願う神事なの。当社でも嘗ては実際に人形を江戸川に流していたそうよ。茅の輪くぐりは他の神社でも行うところがありますので、見掛けたことがある方もいらっしゃるかも知れませんが、江戸川区ではこの北野神社だけになってしまったの。その茅の輪くぐりですが、須賀神社の祭神でもある素戔鳴尊が、蘇民将来に茅の輪で流行病を防ぐことを教えたと云う神話に基づく神事なの。長くなり序でに紹介してみますのでお付き合い下さいね。【備後国風土記】逸文には次のようなお話が載るの。
備後の國の風土記に曰はく、疫隈の國つ社。昔、北の海に坐しし武塔の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。彼の所に將來二人ありき。兄の蘇民將來は甚く貧窮しく、弟の將來は冨饒みて、屋倉一百ありき。爰に、武塔の神、宿處を借りたまふに、惜みて借さず、兄の蘇民將來、惜し奉りき。即ち、粟柄以ちて座と爲し、粟飯等を以ちて饗へ奉りき。爰に畢へて出でませる後に、年を經て八柱のみ子を率て還り來て詔りたまひしく、「我、將來に報答爲む。汝が子孫其の家にありや」と問ひ給ひき。蘇民將來、答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍ふ」と申しき。即ち詔りたまひしく、「茅の輪を以ちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。詔の隨に着けしむるに、即夜に蘇民の女子一人を置きて、皆悉に殺し滅ぼしてき。即ち、詔りたまひしく、「吾は速須佐雄の神なり。後の世に疫氣あらば、汝、蘇民將來の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。
きびのみちのしりのくにのふどきにいはく、えのくまのくにつやしろ。むかし、きたのうみにいまししむたふのかみ、みなみのうみのかみのむすめをよばひにいでまししに、ひくれぬ。そのところにしゃうらいふたりありき。あにのそみんしゃうらいはいたくまづしく、おとうとのしゃうらいはとみて、いへくらももありき。ここに、むたふのかみ、やどりをかりたまふに、おしみてかさず、あにのそみんしゃうらい、かしまつりき。すなはち、あはがらをもちてみましとなし、あはいひどもをもちてみあへまつりき。ここにをへていでませるのちに、としをへて、やはしらのみこをゐてかへりきてのりたまひしく、「われ、しゃうらいにむくひせむ。いましがうみのこそのいへにありや」ととひたまひき。そみんしゃうらい、こたへてまをししく、「おのがむすめとこのめとさもらふ」とまうしき。すなわちのりたまひしく、「ちのわをもちて、こしのうへにつけしめよ」とのりたまひき。みことのりのまにまにつけしむるに、そのよにそみんのむすめひとりをおきて、ことごとにころしほろぼしてき。すなはち、のりたまひしく、「あははやすさのをのかみなり。のちのよにえやみあらば、いまし、そみんしゃうらいのうみのこといひて、ちのわをもちてこしにつけたるひとはまぬがれなむ」とのりたまひき。
23. 寶林寺 ほうりんじ 14:04着 14:15発
〔 寶林寺 〕 真言宗豊山派に属し、愛宕山地蔵院と号します。元は千葉県国分(市川市)の金光明寺の末です。起立は文秀法印〔 慶長12年(1607)没 〕で、本尊は不動明王です。本堂前には常燈明が、墓地には旧伊豫田村(現在の北小岩3丁目ほか)の開拓者・篠原伊豫の伝わる宝篋印塔があります。
■ 常燈明 江戸川区登録有形文化財・建造物 昭和56年(1981)登録
元は小岩市川の渡し場に建てられていました。昭和9年(1934)に河川改修のため、ここに移されました。この渡しは江戸時代には成田詣での人達で賑わいました。この常燈明は千住総講中の人達に依って天保10年(1839)に建てられました。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mあります。
■ 寶林寺所在の地蔵菩薩像庚申塔 江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料 昭和59年(1984)登録
参道入口に他の石仏群と共に祀られています。舟型で地蔵菩薩立像は半肉彫、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。像高は144cm、寛文10年(1670)に建てられました。平成18年(2006)1月 江戸川区教育委員会
現在でも初詣などの際には関東随一の参詣客を数える成田山新勝寺ですが、成田詣は江戸時代の元禄期に江戸・深川で出開帳されたのを機に盛んとなり、多くの信者や参詣客を集めるようになったの。この常燈明は元々は小岩の渡し場に建てられていたもので、台石には世話人をはじめ、千住総講中の人達の名が多く刻まれていますが、旅の道中の無事や航路安全を祈願して建てられたものなの。加えて、闇を照らす燈明は神仏の智慧に例えられ、常夜燈を道標や航路の目印代わりに建てることは神仏に「不断の燈明」を献ずることになり、神仏に対して大きな功徳を積むことでもあったの。単に旅人の往来を安らかたらしめんとして建てたのではなくて、背景には確たる信仰心があってのお話しと云うわけ。
門前左手には六地蔵などの石仏群が並び立ちますが、左から二番目に立つ舟形の石仏が江戸川区の登録有形民俗文化財になる地蔵菩薩庚申塔になるの。それらの石仏群の前を通り、奥に進むと墓地があるのですが、左手奥に篠原伊豫のものとされるお墓が建てられているの。
〔 篠原伊豫の墓 〕 篠原伊豫はこの附近の開拓者で、その名をとってこの附近は伊豫田村と称せられていた。伊豫は元里見氏の家老で、安西伊豫守実元(あんざいいよのかみさねもと)と云い、永禄7年(1564)の国府台の合戦で里見義弘に従って北条氏康と戦い、敗れて上総の国に逃れた。後、故あって主家を去り、晩年、篠原姓を称してこの地に入植した。号を道高と云い、慶長4年(1599)4月死歿、法名は浄徳。江戸川べりの小岩市川渡の南方に「道高耕地」を拓いた人である。入植は定かではないが、天正18年(1590)小田原城落城後と推定される。この宝篋印塔は、伊豫の功績を讃えて承応3年(1654)里人の建立に関わるものと考えられる。子孫は葛西長島村に移り、西野姓を称して開拓にあたった。昭和48年(1973)3月設置 平成18年(2006)1月改修 江戸川区教育委員会
墓前に建てられた二本の石柱にはそれぞれ「伊豫田草分之開祖伊豫殿之碑」と「昭和八年六月十三日、乃至法界平等利益、寶林寺住職檀信徒一同合掌」と刻まれ、宝篋印塔の正面には「道高禪定門 爲也 頓證菩提 承應三年(1654) 甲子四月廿八日」と刻まれているの。【風土記稿】には「伊豫田村は、江戸の行程用水前に同し、慶長十五年伊豫と云もの開發せし故、伊豫新田と号せしを、元祿十年酒井河内守檢地の時より今の如き村名となれり、此伊豫の事は土人ただ伊豫殿と傳へて尊敬するさまなれど、其事跡は絶て傳へず、然るに長島村に舊家久左衛門と云ふものあり、彼れが傳に、先祖篠原伊豫は里見安房守義弘に仕へし士にて、伊豫田村を開墾せしは則この伊豫なりと云 今伊豫の墳墓は村内寶林寺の境内にあり、其開きし地なるゆへここに葬りしものなるべし、當村もと小岩村にはらまりたる原野なりしを、開墾してより別に一村の名をなせり」と記されているの。
里見家の家老職まで務めた篠原伊豫(安西伊予守実元)ですが、安西氏は元々は安房国の在地豪族で、平郡の郡主を務め、代々伊予守を継ぐ家柄でもあったの。主君の里見義弘の歿後は転農して篠原姓を名乗り、新田開発に従事したの。何故篠原姓に替えたのかも気になりますが、問題なのは伊豫の歿年で、彼が永禄7年(1564)の国府台合戦に参戦していたとすると、塔身に刻まれる承應3年(1654)没と云うのは年齢的にも無理が生じてしまうの。東葛西に在住される伊豫の子孫、西野正一氏宅に伝えられる「西野三左衛門家の系図」には「慶長四年(1599)4月2日、淨徳居士、淨徳者房州之大主里見家の重臣にて、安西氏伊豫守也。後民間に降て系圖は下總八幡國分寺に納むと云ふ。葛飾郡市川に於いて伊豫新田を開發す。今の伊豫田村是也。故に其地法輪寺(寶林寺)に葬す」と記されていて、慶長4年(1599)を歿年とするのが妥当とされているみたいね。そうなると、伊豫の墓とされるこの宝篋印塔は何なのよ?と云うことになりますが、後世に建てられた供養塔で、承応3年(1654)の銘は建立の年と考えられているようね。
伊豫が開いたという伊予新田ですが、今の京成江戸川駅や市川橋付近の一帯にあたり、元々は江戸川の寄洲(よりす)だったものを開拓したものなの。寄洲とは土砂が川の流れで寄せられて出来た州のことで、そのために毎年のように洪水や長雨の被害を蒙り、新田開発したと云ってもそう容易いことではなかったようよ。増水時の河水の流入を防ぐ霞堤(かすみてい)なども造られたのですが、堤を超える洪水や決壊した場合などは排水の便が無いことから自然に干上がるのを待つのみと云う状態にあったの。明治18年(1885)の梅雨の際の出水時には「地水渋滞して一円湖の如く畑は尺余田は四尺有余の冠水依然として七月下旬に至るも減少せず‥恰も盥に水を注入したる如く」となり、少しのことでも忽ち悲惨な状態になったようよ。今ある河川敷の景観からは凡そ想像出来ないことですが、穏やかに見える風景の足許には、当時を生きた人々の多くの汗と涙が眠っているの。
24. 本蔵寺 ほんぞうじ 14:17着 14:22発
寛永19年(1642)に彩色補修が加えられ、妙顕寺13世日饒、14世日豊の署名と花押も残っています。室町期の制作と考えられる秀作で、両像とも35cmの小さな坐像ですが、写実性に富み、高僧の面影が良く偲ばれます。平成12年(2000)9月 江戸川区教育委員会
説明にある開創縁起は本像寺側からみたものですが、現在地に元々あったと云う晴立寺はどのような経緯から創建されたのか気になるところよね。But 残念ながら【風土記稿】にも「法華宗 下総國葛飾郡眞間村弘法寺末 頂榮山と号す 本尊三寶祖師を安す 正保4年(1647)弘法寺12世日晴の起立なり 故に此僧を開山とす 寂年詳ならず」とあるのみで、詳しいことは分からず終い。
本堂の右手にある墓地には御覧の中根平左衛門代々の合葬墓があるの。【風土記稿】には「先祖中根平左衛門は臺徳院殿(秀忠)御代に川除御普請役を勤めしが、寛永中當御関所番に轉じ、今八代に及べり」とあるの。因みに、初代の平左衛門は万治2年(1659)に没しているの。
ここで気になることを見つけたの。【風土記稿】は日晴の寂年を不詳と誌しますが、 真間山弘法寺 には第12世日晴は明暦元年(1655)の示寂とあるの。加えて、日晴ではなくて日靖とあるのですが、それはさておき、お話しを続けるわね。冒頭に紹介した案内板の説明では、晴立寺は中根氏の館跡で菩提寺と伝えられている−とあるのですが、それだと時間軸に矛盾があるような。と云うのも、初代平左衛門の歿年が万治2年(1659)であるなら、平左衛門の存命中に既に晴立寺が創建されていたことになり、他方で、開山の日晴は既に没していたことになってしまうの。このマトリクスをどう解きほぐしたらいいのかしらね。これは全くの余談ですが、先程「日晴ではなくて日靖とある」と申し上げましたが、日靖だとすると、寺号の晴立寺も妙に納得出来てしまうような雰囲気よね。日靖の二文字を分解して並び替えると‥‥‥。ちょっと考えすぎかしら。
25. 一里塚跡 いちりづかあと 14:27着 14:32発
〔 小岩の一里塚 〕 一里塚とは、江戸時代の街道付属施設の一つで、江戸日本橋を起点に一里( 約4Km )毎に、道の両側に築造され、榎を植えるのが定型になっていました。小岩の一里塚は、総武線のガードの南側で千葉街道沿い、岩槻街道との分岐点にありました。昔は小高い丘になっていて、須賀神社の小祠もあって、昔日の一里塚の名残りを留めていました。【葛西誌】には「此辺の一里塚も慶長年中(1596-1614)、本多佐太夫・永田弥右衛門・太田勝兵衛等が奉行して築きしなるべし」と記されています。昭和39年(1964)6月頃、須賀神社は北野神社(北小岩3-23-3)に合祀され、一里塚の跡には民家が建ち、全くその姿を失いました。今では、バスの停留所名にその名を留めています。昭和53年(1978)7月設置 平成17年(2005)3月改訂 江戸川区教育委員会
〔 小岩保健所前ポケットパーク 〕 昔、この先の千葉街道沿いに一里塚がありました。一里塚は当時、街道を往来する人々の道標であると共に、旅の疲れを癒やした所でした。区では、現代の一里塚とも云えるポケットパークの整備を進めています。この場所が、地域の人々のふれあいの場として、末永く利用されることを願っています。平成2年(1990)3月 江戸川区
26. 善養寺 ぜんようじ 14:44着 15:28発
現在は護国寺(東京)を大本山とし、奈良の長谷寺を総本山とする善養寺。山号の星住山は、後程紹介しますが、星降り松の伝説によるもので、院号の地蔵院は本尊の地蔵菩薩に由来するの。中興は第9世賢融法印〔 慶安4年(1651)遷化 〕で、慶安元年(1648)には徳川家光から寺領10石の御朱印を受け、盛時には末寺130余ヶ寺を数えるなど隆盛したの。不動門をくぐり抜けると先ず最初に境内の広さに驚かされますが、それもそのハズ、現在でも12,000m²もあるのだとか。伽藍の構成にしても今回の史蹟めぐりの中ではダントツの一位で、名刹が故に、数多くの寺宝も伝えられているの。加えて、星降り松・影向の石・むじな磬※など、数多くの伝説も語り継がれているの。全部は無理ですが、幾つか紹介していきますのでお楽しみ下さいね。それでは、改めて境内を御案内していきますね。西門側から入ると正面に不動門が建ちますが、参道脇には浅間山噴火横死者供養碑や「傘の碑」があるの。※磬:読経の際に使う打楽器
碑面には「前癸卯信州淺間山水火涌出流緇素洪河日徃 轉増爛月來更自黛白蠕孔裏蠢青蠅骶上飛 欲尋昔日愛一悲一可愧今歳寛政乙卯七月 十三回佛陀妙慧慈雲霑法雨無上菩提純淨也」と刻まれ、台座には「下小岩村中」とあるのですが、発生した山津波による犠牲者の数は想像を超え、その遺体は利根川や江戸川に満ちあふれ、小岩にあった毘沙門州と呼ばれる中州にも多く流れ着き、船の往来にも支障を来す程だったと伝えられているの。関東一円に未曾有の災禍をもたらした浅間山の大噴火ですが、【徳川実記】には次のように記されているの。徒に恐怖心を煽る積もりは毛頭ありませんが、自然はいつまた牙をむくとも限らず、災害に備えた心積もりだけは忘れてはいけないわね。
六日、この夜更たけて最北の方鳴動すること雷の如し。
七日、此日天色ほの暗くして風吹き砂を降すこと甚し。午の刻過ぐる頃風漸々鎮まり、砂降ることも少しく止みぬ。黄昏よりまた震動し、よもすがら止まず。
八日、この日鳴動ますます甚しく、砂礫を降らす、大さ粟の如し。これは信濃国浅間山このほど燃え上りて、砂礫を飛ばすこと夥しきを以て、かく府内まで及びしとぞ聞えし。世に伝ふるところは、今年春の頃より此山頻りに煙立しが六月の末つかたより漸く甚しく、この月六日夜忽震動して其山燃上り、焔燼天を焦がし、砂礫を飛し、大石を逆すること夥し。また、山の東方崩頽して泥濘を流出し、田畑を埋む。依りて信濃上野両国の人民流亡し、あまつさえ石に打たれ、砂に埋もれ死するもの二万余人、牛馬はその数を知らず、凡そこの災に罹りし地四十里余に及ぶと云ふ。
〔 横綱山 〕 昭和55年(1980)9月7日、この庭で行われた子供相撲大会に、小岩出身の名横綱・栃錦関(春日野理事長)が一門の、栃赤城、舛田山、栃光らの関取衆を連れて参加されました。それから平成2年(1990)まで春日野さんは毎年9月の大会にお出になり、後輩達を励まして下さいました。この山は、その土俵の土で作った山です。郷土の先輩大横綱の励ましに答えて頑張りましょう。
〔 小岩不動尊逆井道向石造道標 〕 H:151cm・W:31cm・D:22cm
二基は共に、昭和58年(1983)に江戸川区の登録有形文化財になっているのですが
元々は善養寺の小岩不動尊への道標として、ここではなくて、しかるべき場所に建てられていたものみたいね。
惟うに、印度四大聖地及び四大佛蹟地の聖土を収蔵したるこの種宝塔の建立は、古今にわたり史実なく、この塔を以て嚆矢とする。蓋し捧持者たる江戸川区小松川在住野口辰五郎氏の聖志によるものと雖も、祖信徒総代会議員及び住職各位の真摯なる努力、並びに本行事の立案推進、運営の衝に当れる当支所役員不眠の努力による結晶たるを疑はず。昭和33年(1958)4月8日開眼法要はらん漫たる桜花のもと、5,000有余の老若男女、印度大使、東京都知事等参列のもと、豊山派管長猊下導師により行はる。誠に盛儀と云うべし。茲に宝塔建立に当り附言して永久の記念とす。昭和33年(1958)4月8日
〔 星降りの松 〕 むか〜し、昔のお話しじゃけんども。善養寺の賢融和尚が虚空蔵求聞持法の修行をしているときのことじゃったそうな。突然、空から星が降って来たかと思うと、境内にある松の木の枝に留まって、キラキラと燦めいたそうじゃ。それを見た村人達は驚きのあまり、思わず星を仰ぎ、皆して手を合わせて拝んだそうじゃ。それからと云うもの、その松のことを星降りの松と呼ぶようになってのお、お寺の山号も星住山と号するようになったと云うことじゃ。その星降りの松に留まっておったと云う星じゃが、その後、それぞれ青・赤・黄色に光輝く石となったそうじゃ。
ここでちょっと皮肉を込めた論評を見つけたので紹介しますね。明治大正期に活躍した文人の大町桂月は紀行文【東京遊行記】の中で「今より二百三四十年前、この立てる松に下り、光ること通夜、終に落ちて石となれり。その石、今寺に蔵す。これ当時の住持・賢融の高徳の至す所なりなど、石碑にしるす。如何に徳が高ければとて、星までとりつかれては閉口なり。それでも、松に落ちたるがまだ仕合せ也。もしなほ一層徳が高くして、賢融の頭上に落ちなば忽ち即死すべし」(笑)とあるの。
本堂前の右手には影向の松に護られるようにして小岩不動尊の名で知られる朱塗りの不動堂があるの。寺伝に依ると、室町時代の大永7年(1527)に、霊夢に依りお告げを受けた山城醍醐寺の住僧・頼澄法印が、一山の霊宝とされる毘首葛摩(びしゅかつま)が制作した不動明王像を奉持して当地に下向し、一宇を建立したのが始まりであるとされているの。堂内にはその毘首葛摩作と伝えられる、高さ1.2mほどの不動明王像が安置されていると云うのですが、残念ながら非公開のため御尊顔を拝することなく不動堂の参詣を終えています。
毘首葛摩は、古代インド神話に登場するヴィシュヴァカルマン visvakarman をルーツとする神さまで、元々はあらゆるものを造りだした神さまとされ、仏教に習合されると帝釈天の眷属となったの。巧妙天、種々工巧とも漢訳されることからお分かりのように、さまざまな道具や工芸品を司る神さまとなり、建築の神さまにもなったの。なので、毘首葛摩が不動尊像を彫ることは教義的にはあり得ることなのですが、実際の制作者かどうかとなると、別なお話しのようね。頼澄の下向にしても、最後はその不動明王に背負われて当地に至り来たみたいよ。
むか〜し、昔のお話しじゃけんども、今の京都にあたる山城国に醍醐寺と云う大きな寺があったんじゃが、頼澄法印と云う、それはそれは偉いお坊さんがおったんじゃが、ある夜のこと、夢の中に不動明王が現れ、「東国の地に危難罪障病魔悉く充満せり、我、彼の地に赴きて衆生済度をせむと欲す、しからば、汝、頼澄、我を奉じて速やかに彼の地に下向せよ」と告げられたそうじゃ。お坊さんは早速、一山の霊宝とされる毘首葛摩が造られたという不動尊像を背負うて一人旅立ったのじゃが、何分にも高齢であったのに加えて、旅の疲れもあり、下向途中の山中で遂に気を喪い、その場に倒れてしまったそうじゃ。
ところが、不思議なことが起きてのお、お坊さんが気付いてみると、今迄自分が背負うていたハズの不動明王が、いつの間にかお坊さんを背負うていて、忽ちの内に東国の地に辿り着いてしまったそうじゃ。お坊さんは大層喜んでのお、その場所にお堂を建てると、背負うてきた不動尊像をお祀りしたそうじゃ。それからと云うもの、この辺りの土地の者は、疫病や飢饉などに苦しめられることものうなり、穏やかな暮らしが出来るようになったと云うことじゃ。その後も江戸川の氾濫や大地震など、幾度かの天変地異があったんじゃが、幸いにも大きな被害にならずに済んでのお、それもみな、不動明王の霊験に依るものだとされてのお、いつの頃からか小岩不動尊と呼ばれて崇められるようになったそうじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話しじゃけんども。
おびんずるさま 賓頭盧尊者像 −江戸時代−
この木像は善養寺の撫仏として親しまれ信仰されてきました。頭を撫でれば頭が良くなる、鼻を撫でれば美人になる、手を撫でれば器用になる−などのご利益を伝えています。ビンズール Pindola は、天竺(印度)十六羅漢(聖者)の筆頭羅漢で、南天竺摩利山に住み衆生救済を本誓としている尊者です。
本堂の石段を昇ると左手に全身を朱色に染めあげられたお賓頭盧尊者像があるの。お賓頭盧尊者はお釈迦さまの高弟でも十六羅漢の筆頭にあげられる賓度羅跋羅堕闍尊者(びんどらはらだしゃそんじゃ)と同一人物とされ、お釈迦さまの許で日々修行に邁進していたのですが、彼には一つだけ困ったことがあったの。それはお酒が大好きなこと。修行の妨げだと分かってはいても、お釈迦さまに隠れてこっそりとお酒を呑んでいたの。そんなある日のこと、お酒を飲んでいることがお釈迦さまに知られてしまい、大いに反省した尊者は以後の禁酒を誓ったの。そうしてしばらくはお酒を口にすることもなく修行に励む尊者だったのですが、元々お酒が大好きな尊者のこと、修行の合間に、ふと、お酒のことが脳裏を掠め、一口だけなら−と、ついお酒を口にしてしまったの。
そのことを知ったお釈迦さま、禁酒の誓いを破った尊者を精舎から追放してしまったの。その後猛省した尊者は以前にも増して修行に励むようになったのですが、お釈迦さまからは涅槃を許されず、お釈迦さまが入滅後の今も、本堂の外陣に鎮座して衆生を救済し続けていると云うわけ。他方で、修行の功あって神通力を得た尊者は、その神通力を以て多くの人々を病から救い、後に病気平癒の伝説を生むの。お賓頭盧尊者が撫仏としての信仰をあつめるのはその逸話に因むものなの。異説では神通力を見せびらかした科(とが)でお釈迦さまから涅槃に入ることを許されなかったとも云われているのですが、仮に、お賓頭盧尊者が涅槃に入っていたら独尊として祀られることはなかったかも知れないわね。因みに、お賓頭盧尊者の像が赤いのはお酒のせいだとも云われているの。本当の理由は他にあるのかも知れないけど、巷で云われているように飲酒のせいだとしたら持ち前の神通力がパワーダウンしていないか、ちょっと心配ね(笑)。
鏑木清方【新江東図説】〔 昭和12年(1937) 〕には「珍しいのは亭々として雲を凌ぐ星降りの松にも増して、その傍らに巨大な傘を差し掛けたような影向の松であろう」と書かれています。昭和56年(1981)、四国の岡野松と日本一を競い、当時の大相撲立行司・木村庄之助氏に依って東西の横綱に引き分けられました。その後、樹勢に衰えがみられましたが、平成14年(2002)度から平成23年(2011)夏までの樹勢回復事業に依り回復に向かっています。平成23年(2011)11月 江戸川区教育委員会
影向の松の景観や接近画像などをスライドに纏めてみましたので御笑覧下さいね。
御覧になりたい方は、上の画像をクリックしてみて下さいね。別窓を開きます。
説明にある岡野松は、嘗て香川県大川郡志度町(現・さぬき市)にある真覚寺に生育していたクロマツの巨木で、樹齢500年( 600年とも )と云われ、国内有数の松の巨木として知られていたの。その岡野松も病害虫の被害を受け、残念ながら、平成5年(1993)に枯死してしまったの。その岡野松ですが、嘗ては影向の松と共に日本一の座を争ったことがあるの。両者共に譲らず、その争いを見かねた木村庄之助氏(大相撲立行司)が仲裁に入り、「双方共に日本一につき、両者引き分け」と裁いたの。一角には「日本名松番付 東京小岩影向の松
むか〜し、昔のお話しじゃけんども、泥棒が善養寺の境内にある不動堂に忍び込んで、大事な仏具などを風呂敷に包むとそれを背負うてお堂から逃げ出したそうじゃ。じゃがのお、ちょんど影向の松の根元まで来たときのことじゃった。根元にあった石にヒョイと片足を乗せたところ、石に足がくっついて離れなくなってしまったそうじゃ。すっかり慌ててしまった泥棒は、急いで足を石から離そうと力を入れてもがいてみたんじゃが、どうにもこうにもならんでのお、そこへ姿を現されたのがお不動さまじゃった。手にした三鈷の剣を泥棒の胸元に突きつけると、盗みを諫め、悪行をはたらかずに善行に務めるよう諭されたそうじゃ。さすがの泥棒もそれにはすっかり観念してのお、それまでの犯した罪を悔いて涙を流しながら許しを乞うたそうじゃ。すると不思議なことに、今迄離れなかった足がふっと石から離れたそうじゃ。今でも石にはへこんだところがあるんじゃが、それはそのときの泥棒の足跡だと云うことじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話しじゃけんども。
善養寺の御案内の最後に、もう一つ、昔話を紹介しますね。
袖掛けの松と呼ばれる、ちょっと悲しいお話なのですが。
むか〜し、昔のことじゃけんども、一人の漁師が江戸川で舟を浮かべて釣りをしておったときのことじゃった。竿先に何か引っかかったので手許に手繰り寄せてみると、何と、それは若い娘の水死体じゃった。可哀想に思うた漁師は娘の亡骸を舟に引き上げると、善養寺にある無縁墓地に手厚く葬ってあげたと云うことじゃ。じゃがのお、そんなことがあってから、境内にある松の根元には娘の幽霊が出るようになってのお。それを知った賢融和尚は娘の幽霊に懇ろに尋ねてみたそうじゃ。すると娘は「私にも嫁入りの話が持ち上がり、一度は喜びもしたのですが、家が貧しくて嫁入り仕度も出来ず、悲しくなり川に身を投げてしまったのです」と答えたそうじゃ。それを聞いた和尚さんは、翌日の朝、直ぐに市中に向かうと一揃いの晴れ着を買うて来たそうじゃ。そうして娘の幽霊が出る松の木にその晴れ着を掛けてあげたそうじゃ。すると、その夜、娘の幽霊は一つの火の玉となってどこかへ消え去ってしまったということじゃ。その後、松の木の枝には白い小袖が残されていたそうじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話しじゃけんども。
善養寺の参詣を終えたところで北に進路を取りましたが、南に少し足を延ばせば東養寺や萬福寺があるの。
後日、訪ねてみましたので、参考までに紹介しておきますね。
ex. 東養寺
とうようじ
残念ながら天保12年(1841)の類焼に依り古記録の類を焼失していることから詳しい縁起は分かず、【風土記稿】にも「新義眞言宗善養寺末 藥王山と號す 本尊藥師」とあるのみなの。寺伝に依ると、覚裔和尚が国府台の合戦で敗れた里見家の家老の持仏であった薬師如来像を本尊として一宇を建立したとされるの。現在は薬王山光明院と号する真言宗豊山派の寺院で、地元では親しみを込めて「入谷の薬師さま」の名でも呼ばれているの。境内の地蔵堂に祀られている延命地蔵尊は、元々はJR小岩駅前の通称・地蔵通りに祀られていたのですが、昭和38年(1963)に移設されてきたものだそうよ。「六道の能化の地蔵大菩薩 導き給え 此の世 後の世」 拝。
ex. 萬福寺 まんぷくじ
〔 萬福寺 〕 真言宗豊山派で五社山明寿院(ごしゃさんみょうじゅいん)と号し、天文5年(1536)宥唯(ゆうい)上人が開山しました。本尊は鎌倉時代に造られた木造阿弥陀如来立像で、寺宝として文政12年(1829)に政寛和尚が伝法灌頂を行った時の両界曼荼羅を所蔵しています。明治15年(1882)に区内で2番目の公立小学校「明物小学校」( 現・小岩小学校の前身 )が本堂を借りて開校したので区登録史跡となっています。小岩生まれで近代相撲の開祖と云われる第44代横綱栃錦の菩提寺でもあります。
■ 法院中岳筆子塚・法院政寛筆子塚 共に区登録有形文化財
萬福寺もまた天保12年(1841)の火災で古記録の類を焼失していることから委細不明なの。開創は天文5年(1536)に宥唯上人が開山したことに始まり、【風土記稿】には「新義眞言宗善養寺末 五社山と号す 本尊彌陀を安ず」とあるように、元は善養寺末の中本寺で、五社神明社( 現・小岩神社 )の別当を務めていたの。残念ながらξ^_^ξは所在が分からず未確認で終えていますが、境内の一角には小岩神社が萬福寺の敷地内にあった頃の石祠が残されているとのことですので、探してみて下さいね。現在は五社山明寿院と号する真言宗豊山派の寺院で、奈良の長谷寺を総本山としているの。
その墓苑の入口で「日本相撲協会元理事長・第44代横綱栃錦関 春日野清隆墓所」とあるのを見つけたの。
But その方面には疎いξ^_^ξですので、墓誌銘の紹介を以て御案内に代えますね。
爾来、15年の在任中、相撲に由縁深き両国に新国技館を建設すべく心血を注ぎ、遂に同60年(1985)1月壮大なる両国国技館を完成、協会の確固たる基盤を築く。其功績は永く歴史に残るべし。その性極めて清廉情誼に厚く、決断力に富み、事を処するに慎重、人徳篤く慕わざる人なし。平成元年(1989)11月宿痾に倒れ、翌年1月福岡にて客死す。生前、藍綬褒章、東京都民栄誉賞、NHK放送文化賞を受賞。その勲績枚挙に遑なし。歿後、従四位勲二等瑞宝章を拝受する光栄に浴す。平成2年(1990)12月23日 財団法人・日本相撲協会 理事長・二子山勝治
27. 小岩神社 こいわじんじゃ 15:55着 16:00発
祭神には天照大神、誉田別命、玉津姫命、天児屋根命、表中底筒男命の五柱が祀られるの。
天文5年(1536)に下小岩村へ遷座したと云うのは、萬福寺の境内地に移されたときのことのようね。
28. 宣要寺 せんようじ 16:07着 16:13発
■ 柴又帝釈天石造道標 昭和61年(1986)登録 江戸川区登録有形文化財・歴史資料
佐倉道の要衝に、天保4年(1833)に建てられた高さ130cmの道標です。
平成13年(2001) 江戸川区教育委員会
説明にあるように、この宣要寺は応安3年(1370)に中山法華経寺第3世阿闍梨日祐上人(1298-1374)が隠居して一寺を建てたのが始まりとされているの。日祐上人は下総千田庄の領主・千葉大隅守胤貞の猶子で、浄行院と号して本妙寺(現・法華経寺)の第三世を継ぎ、後に隠居して一宇を建てると日限満願日蓮大菩薩像を移して安置したとされるの。境内の一角には鐘楼があり、「梵鐘規模 重量:三百貫 口径:三尺二寸 鐘身:四尺七寸 總丈:五尺九寸」と記す標柱が立てられていましたが、総高180cm、重量1,125kgにも及ぶ大鐘よ。残念ながら撞くことは出来ませんが。その鐘楼の前には「青竹の しのび返しや 春の雲」「日のあたる 窓の障子や 福寿草」の二首を刻む永井荷風の句碑があるの。碑は昭和41年(1966)に住職の成川氏が荷風の色紙を碑に模写したものだそうよ。
山門をくぐり抜けると最初に流麗な形をした老松の姿が目に飛び込んで来ますが、瑞鳳の松で、鳳凰が翼を広げた姿に似ていることからの命名なの。樹齢は400年程とされ、幹囲り130cm、高さは5m程あり、一本の枝は山門に達するまでに枝を伸ばしているの。
説明には柴又帝釈天道標のことが記されているのですが、探しても見つけられずに終えていますので画像を掲載することが出来ませんが、元々は元佐倉道(現・千葉街道)の下小岩村の高札場付近に建てられていたものだとか。本所竪川の商人7名が天保4年(1833)7月に連名で建てたもので、正中山開基日常上人作日蓮大菩薩満願と刻み、側面には帝釈従是二十余町とあることから柴又の帝釈天(題経寺)への道筋を示す道標であったと伝えられているの。千葉街道の交通の激しさから破損が危惧されることから題経寺と縁ある当寺に移されてきたものだそうよ。お訪ねの際には探してみて下さいね。
29. 十念寺 じゅうねんじ 16:20着 16:32発
左:元応元年(1319)12月日 江戸川区指定有形文化財 昭和57年(1982)2月指定
道標&庚申塔の銘文につきましては、
レイアウト上の都合から体裁を変更していますので、御了承下さいね。
墓苑の入口脇には三基の大きな石塔が並び立ちますが、右端にある唐破風付のものが法印範盛筆子塚になるの。台石を見ると、建碑の世話人として上小岩村石井善兵衛の名もあるの。あの善兵衛樋を完成させた善兵衛さんも師事していたのかしら?石井善兵衛の名は代々引き継がれているので、同名だからと云って、善兵衛樋の開削に尽力した善兵衛さんとは限らないかも知れないわね。年代的には微妙にずれているような気もするのですが、検証は御笑覧下さっているみなさんにお任せしますね。
30. 五北天祖神社 ごほくてんそじんじゃ 16:38着16:40発
〔 天祖神社 〕
天祖神社は、万延元年(1860)2月の創建で、天照大神を祀っています。
慶應3年(1867)6月に、現在の社殿に改装されました。元は神明社と称しました。
■ 天祖神社のイチョウ 江戸川区指定天然記念物 昭和56年(1981)1月指定
境内の2本の銀杏は、共に樹齢300年以上と考えられますが、今尚、良好な樹勢を保っています。
東側の樹は樹周2.32m、樹高約20m。西側の樹は、樹周2.4m、樹高約25m。区内で一番の高さを誇る、美しい銀杏です。
平成14年(2002)1月 江戸川区教育委員会
31. 上小岩遺跡 かみこいわいせき 16:47着 16:48発
史蹟めぐりの行程を終えて京成小岩駅に戻る途中で再び上小岩親水緑道に出会ったの。その緑道脇にある小岩保育園前の道路下からは、古墳時代初期の竪穴住居跡と考えられる遺跡が発見されていると知り、訪ねてみれば何か残されているかも知れないわ−と足を向けてみたの。残念ながら、痕跡の欠片も無かったのですが、代わりに当時の生活の様子を伝えるパネルが置かれていたの。
32. 京成小岩駅 けいせいこいわえき 16:57着
軽い気持ちで歩き始めた史蹟めぐりですが、いざ訪ねてみれば、至る処に当時の人々の生きた証が残されていたの。残念ながら今では痕跡も消え去り、大きく姿を変えたものもありますが、それでも僅かな敷地を得て道標が残されていたりするのを見ると、地元の方の誇りも見えてくるの。圧巻はやはり善養寺の影向の松ね。ξ^_^ξは訪ねる前までは、菖蒲園の他には何も無いところで、小岩にこんなに凄いモノがあるとは知らずにいたの。加えて、街中を歩けば、あちらこちらで緑道の小径を見つけたの。その街づくりも素敵ね。あなたも今度の週末にでもそぞろ歩きされてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
〔 参考文献 〕
東京堂出版刊 金岡秀友著 古寺名刹辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
岩波書店刊 日本古典文学大系 秋本吉郎校注 風土記
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司・武田祐吉校注 古事記祝詞
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々 日本の神霊たちのプロフィール
名著出版社刊 別所光一・丸山典雄著 東京にふる里をつくる会編 江戸川区の歴史
学生社刊 内田定夫著 東京史跡ガイド(23) 江戸川区史跡散歩
江戸川区教育委員会 編集・発行 江戸川区の史跡と名所
江戸川区編集・発行 江戸川区史 第一巻&第三巻
江戸川区郷土資料室 解説シート No.1-7 上小岩遺跡
江戸川区郷土資料室 解説シート No.1-8 葛西御厨
江戸川区郷土資料室 解説シート No.2-8 江戸川区内の力石
江戸川区郷土資料室 解説シート No.2-9 区内の天祖神社
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など
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