川越のお散歩の第二弾はメインストリート(蔵造りの町並み)は避けて新河岸川に沿うようにして街の北側をひとめぐり。嘗ては川越城を抱えて城下町として栄えた川越に因み、今回はその城跡に残されている史跡めぐりから始めますね。補:掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。但し、スライドは完全マニュアル動作ですので御協力下さいね。
1. 富士見櫓跡 ふじみやぐらあと 9:31着 9:46発
富士見櫓跡BSにしても、実際には富士見櫓跡の前にあるわけではなくて、間に住宅街があることからバスを降りてから大きく廻り道をさせられるの。なので、時間的にはそう大きな違いはなくてお薦めよ。何だかんだと云ってるξ^_^ξは待ち時間がもったいなくて今回は川越駅から歩いちゃったりしていますが。
〔 富士見櫓跡(ふじみやぐらあと) 〕 御嶽神社が祀られているこの高台は、嘗ては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、或いは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりになっていたと思われる。
〔 川越城跡 県指定・史跡 〕 川越城は長禄元年(1457)に太田道真・道灌父子によって築城され、上杉氏6代、北条氏4代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、八郭・三櫓・十二門を持つ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名であった。しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊されて、現在ではこの富士見櫓の跡と、本丸御殿の一部が残るのみとなった。富士見櫓は築城当初に、本丸西南の隅櫓として建てられた三重の櫓で、城内第一の高所として天守閣の代わりを務めた。平成5年(1993)3月 川越市教育委員会
櫓跡には遺構らしきものは何も見当たらないのですが、代わりに三つも社が建てられていたの。改めて云うまでもなく、嘗てこの場所は川越城内であったことからしても、その創建はいずれも明治期に上地されてからのものと考えるのが順当よね。その三社と云うのが、御嶽・浅間・富士見稲荷神社ですが、富士見稲荷はさておき、御嶽・浅間神社の双方とも山岳信仰に由来する神社なので、この高台に目を付けて社殿を建てたのでしょうね、きっと。
2. 三芳野神社 みよしのじんじゃ 9:49着 10:07発
参道の入口右手には、【伊勢物語】に詠まれる歌を刻む石碑が建てられているの。碑面には、我が方によると鳴くなる 三芳野の田面の雁を いつか忘れむ−とあるのですが、この三芳野と云うのがこの辺りのことを指していると云うわけ。But 異説では、入間郡三芳野村(現・坂戸市三芳野地区)、川越市的場、川越市伊佐沼などの地も候補とされているのですが、それはさておき、その【伊勢物語】第十段に記される「たのむの雁」をチョコッと紹介しますね。尚、現代語訳は昔話風でありながら、一部に標準語を使うなどメチャクチャ状態ですが、御容赦下さいね。
むかし をとこ 武蔵の國までまどひありきけり さて その國に在る女をよばひけり 父はこと人にあはせむといひけるを 母なむあてなる人に心つけたりける 父はなほ人にて 母なむ藤原なりける さてなむあてなる人にと思ひける このむこがねによみておこせたりける 住む処なむ入間の郡みよし野の里なりける みよし野の田面の雁もひたぶるに 君が方にぞよると鳴くなる むこがね 返し わが方によると鳴くなる みよし野の田面の雁をいつか忘れむ となむ 人の國にても 猶かかることなむやまざりける
在原業平が東下りの際この地に来り、余りの風景の美しさに感嘆したある時、
当時上戸村に居住していた豪族・神山七左エ門の屋敷に至り、その妻女と娘の余りの美しさに次の歌を詠んだ。
〔 川越の文化財 〕第61号所収・岸敏夫さんの論考「三芳野の地名考」より引用・転載
上戸村と云えば河越館跡のある辺りよね。この三芳野神社のある郭町からは大分離れてしまいますが、この記述からすると、河越氏が居館を構える以前に上戸村には在地豪族の屋敷が既にあったことになるわね。それはさておき、気になるのは、神山七左エ門なる人物よね。門外漢のξ^_^ξには荷が勝ちすぎますのでこれ以上の深追いはしませんが、どんな人だったのかしら?。郎党の前では居丈高でも、貴族出の奥さんの前では頭が上がらなかったりして。
〔 三芳野神社 市指定・史跡 〕 三芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の天神曲輪に建てられている。この為「お城の天神さま」として親しまれている。この天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左に見、更に天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する道を通ってお参りしていた。この細い参道が、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発祥の地であると云われ、現在でも静かな環境を保持しており、伝説の豊かな地である。尚、参道は江戸時代より若干変化している。平成11年(1999)3月 川越市教育委員会
♪通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ♪ の歌い出しで知られる「通りゃんせ」ですが、そのルーツがこの三芳野神社にあると知り、是非とも訪ねてみたいと思っていたの。いざ、訪ねてみると、他にもお伝えすべきことが多すぎて。加えて、手水舎横には川越市教育委員会が建てた力のこもった社殿の解説板が。長くなり序でにその案内文を掲載してみますが、記述には神社建築の専門用語が加わり、ξ^_^ξにはな〜に云ってんだか−の世界。用語には読み仮名もふられてはいるのですが、読めたところで構造が理解出来るわけでもなくて。この解説文を読んで構造が理解出来る方は研究者を含めて、おそらく業界関係者の方々でしょうから読み仮名も不要よね−と云うことで、読み仮名は省略しましたので御了承下さいね。
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦二年の棟札 ( 県指定・建造物 )
平安時代の初め大同年間(806-810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として崇敬を集めました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。寛永元年(1624)幕府の命を受けて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟梁鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟梁木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけら葺きでしたが、弘化4年(1848)幕府棟梁甲良若狭により瓦葺に改められ、更に大正11年(1922)銅板葺に改められました。
三芳野神社社殿は本殿・幣殿・拝殿からなる権現造で、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。本殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、四周に縁と高欄を廻し、正面に木階を設け、前面は幣殿に接続します。身舎内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に板唐戸、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に蔀戸を装置します。組物は出組で、幣殿に面した正面だけ出三斗とします。中備は極彩色を施した蟇股です。幣殿は正面一間、側面二間の両下造で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束になっています。
内部は拭板敷に小組格天井です。拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄を廻し、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝を設けます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を陸梁形の頭貫で繋いで、両端に獅子鼻を付け、連三斗を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手挟を飾ります。
三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造の本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。平成元年(1990)から平成4年(1992)にかけて実施された解体修理の報告書「三芳野神社社殿修理工事報告書」に依れば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計23面の蟇股は全て同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。
また、痕跡から、拝殿には寛永元年(1624)の造立当初より蟇股が存在していましたが( 但し、現在の蟇股とは異なる )、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合わせでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、更に、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。
明暦2年(1656)の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮※)となり、明治5年(1872)に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年(1956)に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。
※天神外宮は川越城内の田曲輪に天神社の遙拝所として建てられたものなの。庶民が参詣出来るようになったのはこの遙拝所が出来てからのお話しみたいよ。どちらにしても城内に設けられていたことに変わりなく、参詣客に紛れて城内を探索する密偵などが立ち入らぬようにと、帰路は警護侍により厳しく取り調べられたの。なので「行きはよいよい 帰りはこわい」となったわけ。その天神外宮ですが、明治期の川越城廃城に伴い川越氷川神社境内に建つ摂社・八坂神社の社殿として移築されて現在に至っているの。さすがは元・江戸城二の丸東照宮の建物ね。嘗て遙拝所として使われていたものとは云え、立派な社殿よ。機会がありましたら御覧になってみて下さいね。
蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に面し向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。朱塗の一間社流造・見世棚造で、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、殆ど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は舟肘木で中備はなく、妻飾は虹梁豕扠首です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、至って簡素な造りになっています。明暦2年(1656)の「三芳野天神別当乗海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄十一年川越市街屋敷社寺記」に「末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は身舎と庇を合わせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保19年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。昭和30年(1955)11月1日 ( 平成4年(1992)3月11日追加 )指定 川越市教育委員会 〔 本殿・幣殿・拝殿平面図&蛭子社・大黒社平面図 省略す 〕
「片葉の葦」については 川越散策 Part.1 の 浮島稲荷神社 の項でも触れていますので
よろしければお立ち寄り下さいね。CMでした。
この「川越城の七不思議」に関してですが、川越氷川神社名誉宮司で川越市の文化財保護審議会会長も務められた山田勝利氏の非常に興味深い論考があるの。それに依ると、三芳野神社と浮島稲荷神社の社地は共に水神を祀る霊地であり、嘗てその祭場に定期的に訪ね来る女性の祭祀集団があったとのこと。彼女等は巫女とも上掾i貴婦人)とも、また遊女とも称し、集団の女性の名をヨネ(米)と称し、彼女達が語る物語や演劇が「片葉の芦」の由来や「人身御供」の悲しい物語や城に纏わる「霧吹きの井戸」など、川越城を廻る数々の伝説の源点であった筈である−と述べられているの。まさに、目から鱗の史実よね。詳しくは川越市文化財保護教会刊【川越の文化財】第44号所収の論考「続・川越城とその周辺」を御参照下さいね。
3. 川越城本丸御殿 かわごえじょうほんまるごてん 10:08着 10:40発
川越城は室町期の長禄元年(1457)、古河公方の足利成氏に対抗※するために関東管領上杉持朝の命を受けた扇谷上杉家の家宰・太田道真&道灌父子が築城したことに始まるの。と云っても当初は、後の本丸と二の丸を合わせた程度のものだったみたいね。その後の経緯や変遷など、詳しいことは他のサイトにお任せですが、その川越城も時代と共に増強・拡張され、明治期の廃城直前に於ける総面積は約99,000坪(30ha)にも及ぶ大規模なものだったようよ。残念ながら廃城に伴い、建物は悉くが取り壊され、土塁は崩されて濠も埋められてしまったの。
※異説では、北関東への進出を謀る上杉持朝がその足掛かりとすべく築城したとの見方もあるの。
「本丸と二の丸を合わせた程度」と云う表現にしても、どうやら再考の余地あり−みたいね。
Ref : 川越市立博物館刊 博物館だより 第45号 所収 〜川越城築城に関する研究ノート〜 by 天ヶ嶋 岳 氏
そんな中でかろうじて残されたのがこの本丸御殿なのですが、それでも当初は建坪1,025坪に建物16棟からなる規模を誇っていたのですが徐々に解体され、僅かに玄関と大広間の部分だけが残されたの。But 玄関と大広間だけの陣容にしてこの重厚感とスケールはさすがね。入館料:¥100
巨大な唐破風を持つ玄関やその両脇に連なる櫛形塀などは、その象徴的な意匠とすることが出来ます。現在では玄関・広間部分と家老詰所など、その一部が残っているのみですが、その頃に描かれた「本城住居絵図」などを見ると、広大な御殿であったことが分かります。現在の本丸御殿の南には城主との対面の間を擁する大書院があり、その西側には城主の住まいなどの私的空間である中奥・奥向が連なっていました。また、現在の本丸御殿から西に伸びる廊下には御殿内最大の居室である「御時計の間」や城主の食事を作る厨房があり、その最も西側に家老詰所がありました。
御案内した本丸御殿は蔵造り資料館と共に川越市立博物館の分室の扱いになっていて、入館の際には下記のお得な共通入館券がお薦めよ。加えて有効期間は何と6ヶ月間もあるの。日を改めて再訪する場合などにも使えて便利よね。But フリーパスではないので各施設の利用は一回限りよ。尚、料金は幾れも ′14.10 現在 のものですので御了承下さいね。
4. 川越市立博物館 かわごえしりつはくぶつかん 10:41着 11:28発
5. 川越氷川神社 かわごえひかわじんじゃ 11:34着 11:57発
残念ながら縁結びに関しては既に解決済みのξ^_^ξとしては、上記以上のことになると他のサイトにお任せですが、この川越氷川神社には「八岐大蛇(やまたのおろち)」神話で知られる素盞鳴尊(すさのおのみこと)とその妃・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)に加え、奇稲田姫命の両親でもある脚摩乳命(あしなづちのみこと)と手摩乳命(てなづちのみこと)の夫婦神が祀られているの。更に、結びの神として知られる大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)も合祀されているの。五柱は家族でもあり、縁結びの御神威を得るにはこれ以上の組み合わせは無いわね、きっと。ところで、八岐の大蛇?なあに〜それ。そんなの知らないわ−というあなたは こちら を。
〔 柿本人麻呂(人丸)神社 〕 例祭日 4月18日 歌道上達・学業守護・火防・安産守護
境内には摂社末社が数多く鎮座しているの。その主だったものを時計回りに紹介してみますが、最初に見掛けたのがこの柿本人麻呂神社なの。柿本人麻呂を祀る神社があることをξ^_^ξは初めて知りましたが、全国には200社程あるそうよ。それでも説明には「旧武蔵国内唯一の社」とあるように、至ってマイナーな存在よね。それが選りに選って(笑)川越の地にあると云うのは何か特別な事情がありそうよね−と思ったのがいけなかったわね。調べてみると、この柿本人麻呂神社は人麻呂の子孫と伝える綾部氏が氏神さまとして祀ったことに始まるの。
綾部氏も元々は柿本姓を名乗っていたのですが、その子孫が丹波国何鹿郡綾部庄を領したことから綾部姓を名乗るようになったみたいね。後の永正2年(1505)、後裔の綾部是則が丹波国綾部庄から川越に移住して来たの。是則は弘治元年(1555)に当地で没するのですが、川越綾部氏の始祖となっているの。確たる記録が残されているわけではないのですが、当社はその是則が柿本人麻呂を祖霊神として崇めたことから創建されたものみたいよ。因みに、綾部氏家系図に依ると柿本人麻呂は3/18に歿したことになっているのだとか。例祭は今でこそ4/18に執り行われるようになったのですが、嘗ては人麻呂忌の3/18に行われていたそうよ。それも綾部氏一族の氏神祭として。
父母を見れば尊し 妻子見ればめぐし愛し 世の中はかくぞ理 もち鳥のかからはしもよ 行方知らねば うけ沓を脱ぎ棄つるがごとく踏み脱ぎて行くちふ人は 岩木より成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば汝がまにまに 地ならば大君います この照らす日月の下は 天雲の むかぶすきはみ 谷ぐくのさ渡るきはみ 聞こしをす 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 《反歌》 ひさかたの天路は遠しなほなほに 家に帰りて業をしまさに
〔 八坂神社社殿 県指定・建造物 〕 八坂神社社殿は寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたが、後に空宮となったので明暦2年(1656)川越城内三芳野神社の外宮として移築された。更に明治5年(1872)、現・氷川神社の境内に移され八坂神社社殿となった。この社殿平面は凸字型であって、屋根は銅板本葺入母屋造、建坪六坪八合( 22.48m² )、拝殿の部分は桁行三間、梁間二間で廻縁(まわりえん)を廻らし、本殿は桁行二間、梁間三間と細長く突出た平面である。建立の当初は相当の規模であったものを明暦の移築の際縮小したものと思われる。
氷川神社の現本殿は、天保13年(1842)に起工し、嘉永2年(1849)に竣工している。社殿の規模は間口約4m、奥行約2.5mの三間社である。入母屋造りで前面に一間の向拝を付けている。大屋根の前面に千鳥破風を設け、更に軒唐破風が据えられている。棟梁には城主お抱え印藤捨五郎・桑村三右衛門、彫物師に嶋村源蔵・飯田巌次郎と云う当代屈指の名工が名を連ねている。腰回りの羽目には川越氷川祭りに曳き廻される山車の人形を主題とした彫物が廻らされている。江戸彫りの装飾建築の典型であり、昭和31年(1956)、埼玉県の有形文化財に指定されている。今次、平成17年(2005)3月末日までの工期にて、屋根の全面的な吹き替えを行っている。氷川神社社務所
〔 氷川神社本殿 県指定・建造物 〕 川越の総鎮守である氷川神社の歴史は古く、その創建は欽明天皇の即位2年(540)9月15日武蔵国足立郡氷川神社を分祀奉斎したと伝える。祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大已貴命・脚摩乳命・手摩乳命の五柱と云う。長禄元年(1457)太田道真・道灌が川越城を築城するに及び、道灌は当社を篤く崇敬し「老いらくの身をつみてこそ武蔵野の 草にいつまで残る白雪」との和歌を献納している。江戸時代に於いても川越城主代々の尊崇篤く、毎年元旦には奉幣の儀が行われ、社家は登城城主目通りの上年賀を言上している。本殿は川越城主松平斉典(なりつね)を筆頭として、同社氏子の寄進によって天保13年(1842)に起工され、五ヶ年の歳月を要して建立されたものである。間口十三尺五寸(4.08m)・奥行八尺二寸(2.48m)の三間社・入母屋造で前面に千鳥破風及び軒唐破風の向拝を付した銅瓦葺きの小建築であるが、彫刻がすばらしく、当代の名工嶋村源蔵と飯田岩次郎が技を競っている。構造材の見え掛りは50種に及ぶ地彫が施され、その間江戸彫と称す精巧な彫刻を充填し、十ヶ町の山車から取材した彫刻や、浮世絵の影響を受けた波は豪壮華麗である。昭和54年(1979)3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
八坂神社の右手には御覧の絵馬回廊があるの。数が余りにも多すぎて、いったい、幾つの絵馬が掛けられているのか、見当もつかない位よ。この回廊を抜けると、社殿の背後に回り込むことが出来るのですが、そこには氷川神社の表の顔とは異なり、大小様々な姿形をした石祠や小社が建ち並ぶ異次元空間が広がっているの。ここでは画像の掲載は見送りますが、ざっと見回しただけでも、稲荷神社・日吉神社・加太粟嶋神社・菅原神社・松尾神社・八幡神社・御嶽神社・春日神社・子の権現社・疱瘡神社・厳島神社・水神社・嶋姫神社・雷電神社・三峯神社・蛇霊神社・琴平神社の名があるの。これに講中の登山参拝記念碑などが加わり、神社の見本市状態にあるの。八百万(やおよろず)の神さま−と云うけど、これだけの神さまが集う神社もそうざらには無いわね。恐らくは明治期の神社合祀政策などが背景にあるのかも知れないけど、近在の人々の嘗ての信仰模様が窺える空間でもあり、中には奉幣や新しい奉納グッズのある社があるなど、今尚その信仰が息づいているみたいね。そして神社の裏口(笑)通路脇に立つ大樹が御神木の欅で、樹齢は何と約600年だそうよ。「大根保護のため石路を設けてあります。御神木廻りをされる方は石路の上をお通り下さい」とあり、現在は保護観察中なのですが、一方で、人災ならぬ自然災害の被害も蒙っているの。
〔 ご神木の倒壊について 〕 平成23年(2011)9月、関東地方を襲った台風12号の暴風雨を受け、樹齢600年の欅の御神木が幹先10m程の部分から倒壊しました。御神木は奇跡的にも、傍らの本殿・石碑そして参拝者を全く傷つけることなく、神社裏に続く細い参道上にその巨体を横たえました。長年に亘り地域を見守り続けて来た御神木は現在、市内喜多町の共和木材に大切に安置されています。数年後にはこの御神木の材を用い、木に宿られた氷川大神の広大無辺な御神徳を、何らかの形で氏子崇敬者の皆さまにお頒けしたいと考えております。
社殿背後の見学を終えて表側に戻ったところで植え込みに立つ案内板に目が留まったの。
境内の一角には湧水の井があるの。仙波地区をはじめとして湧水の逸話が多く残されている川越ですが、現在も涸れることなく清水が湧き出していると云うのは貴重な存在よね。御神水と案内されているのですが、素戔鳴尊をはじめとした五柱の御神威ゆえのものかも知れないわね。その湧水の隣には御覧の戌岩(いぬいわ)があるの。
〔 戌岩 〕 その姿が本殿に鼻先を向けた戌(犬)の形をしていることから名づけられた。戌はお産が軽く、多産であることから、古くより安産・子宝を象徴する動物と伝えられ、今日でも毎月戌の日には安産祈願の参詣が多く見られる。安産・子授けを願う者はこの岩の鼻先を撫でると良いとされている。
湧水(御神水)は「祓いの川」へと続いているの。
その「祓いの川」では身についてしまった穢れを祓う人形(ひとがた)流しが出来るの。
〔 氷川神社大鳥居 〕 明神型・杉材 平成の御代替わりを奉祝し同2年(1990)に建立された。高さ15mの大鳥居は、木製のものとしては国内随一の規模を誇る( 笠木の幅20m、柱周6m )。中央扁額の社号文字は幕末の幕臣・勝海舟の直筆によるものである。
〔 川越氷川神社例大祭(川越祭)〕 川越氷川神社の例大祭は、毎年10月14、15日の二日間行われる。十数台の山車が市内を練り歩き、川越氷川祭として広く知られているものである。この祭は、慶安元年(1648)川越城主松平信綱が、御輿等を寄進したことに始まる。元禄11年(1698)に最初の踊屋台が出てから年々盛んとなり、文政9年(1826)の祭から意識的に江戸の天下祭の形式を採り入れ、各町毎に笠鉾、造り物、練子等が出るようになった。天保15年(1844)には一本柱の山車に統一されたが、文久2年(1862)にはもう二重鉾の山車が出現している。明治以後は山車と踊屋台が中心となり、大火以後は山車だけの祭になった。
しかし、二重鉾の山車はいよいよ豪華絢爛となり、廻り舞台の工夫もなされた。山車の構造はもとより、人形は著名な江戸の人形師の作で、囃子は神田囃子と、全て天下祭に見られた江戸文化の伝統を残していることがこの祭の特徴で、最近は全市をあげての観光行事になっている。昭和58年(1983)3月 埼玉県
川越まつりの開催日ですが、説明には「毎年10月14、15日の二日間」とあるのですが、最近は日にちにはこだわらずに、10月第3土・日曜日にかけて行われているの。土日も仕事だぜ−と云う方は別ですが、お休みの日なら気兼ねなくお出掛け出来るのでうれしいわよね。
〔 旧上尾街道 〕 この坂道は、明治時代まで上尾街道として人々が往還し、上尾街道はここから東に水田地帯を貫いて入間川・荒川の流れを渡り、上尾宿( 現在の上尾市 )に至る中山道の脇往還としても大切な役割を果たしていた。特に、川越と江戸を結ぶ川越夜舟で名高い新河岸川の舟運が発展するまでは、荒川が物資流通の大動脈として盛んに利用されたので、老袋河岸や上尾側の平方河岸も物資の集散場として栄えた。このため、河岸に通じるこの街道は、人馬の往来がしきりであった。昔は、この坂の途中には冷たい水の湧き出る泉があって、街道を行く人々の疲れを癒やしたと云う。昭和58年(1983)3月 川越市
これは氷川神社のことではないのですが、氷川神社の西側に緩やかな坂道があるの。地元の方とお話をする機会があり、昔は坂道の途中に湧き水があり、今は涸れてしまったけど、その跡が残っているよ−と聞いて探してみたのですが見つからず、代わりに見つけたのがこの石ころ群。位置としては氷川神社の裏口脇の草叢(笑)ですが、何かの建造物の礎石あるいは使われていた石材の一部のようにも見えるの。それとも、傍らを流れる新河岸川には氷川橋が架設されることから嘗ての橋脚に使用されていたものかしら?門外漢のξ^_^ξには委細不明ですが、ちょっと気になる石ころ群なの。側には紹介した「旧上尾街道」の案内板も立てられていたの。因みに、下掲の三枚の画像は田谷堰に向かう途中の新河岸川の桜並木なの。
6. 田谷堰 たやぜき 12:03着 12:04発
この田谷堰が川越景観百選の一つに数えられていると知り、足を延ばしてはみたのですが、産業遺産に興味のある方なら未だしも、その手の代物にはとんと興味の湧かないξ^_^ξには今ひとつの印象ね−と云うのが正直な感想よ。でも、それだけで終えてしまっては怒られそうね。そこで、少しだけ御案内しますね。堰には田谷橋が併設されていますが、高欄の柱には「新赤間川 昭和13年(1938)3月竣功」とあるの。この新赤間川と云うのは現在の新河岸川のことなのですが、田谷堰は昭和初期に行われた赤間川の河川改修に併せて設けられた取水堰になるの。
河川改修で赤間川が新河岸川に繋がれてしまったことから、それまで赤間川に頼っていた農業用水が下流では激減してしまい、それを補うべく堰を設けて流水の確保をしたと云うわけ。But 堰の上流側には取水門も幾つか残されていましたが、堰と同じく、どれも錆び付いているので今となっては開閉されることもないみたいね。
7. 道灌橋 どうかんばし 12:07着 12:08発
附近にはその由来を記すものは見当たらず、帰宅後に改めて調べてみると、嘗てこの辺りに太田道灌の屋敷があり、それに因んで命名されたものだと分かったの。【新編武蔵風土記稿】には河越城下町圖が掲載されていますが、東明寺に隣接して太田道灌屋鋪や多谷寺の名が記され、続いて土橋が描かれているの。字こそ異なるものの、多谷=田谷でしょうし、土橋は先程御案内した田谷堰に併設される田谷橋の元になる橋のことだと思うの。更に、東明寺村・田谷の項には「城下町東明寺の後 當村に屬せし所の地を云へり 今東明寺の山號を田谷山と唱ふれば 此地名舊きこともしるべし」とあり、同じく東明寺村・照善院(現在は廃寺)の項には「此寺地は元太田道灌の住せし處なりと、今も其跡とて一段許の地殘れり」と記されているの。
【風土記稿】は照善院の他にも、大日堂や妙義社の名をあげますが、廃寺となり、あるいは明治期の合祀政策で統廃合されたのかは分かりませんが、現在は共に存在せず−の状態なの。太田道灌屋敷跡と覚しき地にも、今では民家が建ち並び、往時を偲ぶものは何も無いの。せめて、田谷橋からこの道灌橋にかけての新河岸川の畔に八重山吹を植えて道灌の事蹟を偲ぶと云うのはどうかしら。エッ?また一つ「やまぶきの里」の候補地が増えて困る?ちょっと茶化してしまいましたね、ごめんなさい。
8. 真行寺 しんぎょうじ 12:09着 12:11発
〔 真宗大谷派 至誠山成就院真行寺縁起 〕 当寺の開基は、遠く甲斐源氏の嫡流、武田信虎を父とし、信玄の妹、八重姫なり。当時、戦乱を厭い、若くして甲斐の片際に草庵を結び、成就院至誠真行尼と号し、真言古義の行法を行う。時に、大阪石山本願寺第十一世顕如上人の御簾中と兄信玄の夫人との姻戚を頼り、石山本願寺に至る。一旦故郷に帰りしも戦乱止まず。意を決し、武田一門の岩崎兵庫、若山主計を伴い、武州吉田村虫塚を経て川越に移り、苦難の後、至誠山成就院真行寺を建立する。以来、武田一門の者川越を中心に街道沿いに落居す。二代は勝頼の二男靖清。この時に本願寺末となり、現在に至る。
八重姫の出自にしても信玄の妹ではなくて娘だとする噂もあるの。今となっては、八重姫が実在したのかどうかも含めて、史実如何は遠い昔話の世界かも知れませんが、それもまた歴史の面白さであり、ロマンでもあるわね。
【 編集後記 】 川越市発行「川越市史 第二巻 中世編」には「天正10年(1582)、武田氏滅亡の後、小田原北条氏を頼り、八王子や川越に移り住んだ武田家の遺臣が少なからずあった。【大道寺家譜】に依れば、甲州から山を越えて川越領へ来る侍が多く、中でも甲斐守護一条源八時信の諸子を基幹とする武川衆は大半が家族を伴って来たが、時の川越城将大道寺氏は心安く彼等を城下に住まわせたと云う。真行寺の創建にあたり、彼等武田家遺臣が関与したことは十分考えられる」とあるの。戦乱の世にあって心が救われる思いのする逸話ですが、一方で、真行寺の開創はその戦乱で命を落とした武田家一門の者達への菩提供養を目的になされたものだったのかも知れないわね。
9. 神明宮 しんめいぐう 12:14着 12:15発
だからと云って、この神明社もそうだとは云いきれないのですが、嘗て鎌倉室町期に伊勢神宮の神領がこの辺りに広がっていたと云う話も聞かないので、外れても遠からじ−かも知れないわね。幾れにしても、詳しいことは御覧の皆さまの御賢察にお任せモードです。ごめんなさい。
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