≡☆ 小江戸・川越のお散歩 Part.1 ☆≡
今回の散策エリアでは一番の見所となる喜多院ですが、その歴史を紐解けば、日枝神社や仙波東照宮をはじめ、中院も含めてそのルーツはみな同じなの。裏を返せば、それらの寺社を含めて訪ね歩いてみないことには、本当の意味での喜多院を訪ねたことにはならない−と云うわけ。何だか、大変なことになりそうね(笑)。補:掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。但し、スライドは完全マニュアル動作ですので御協力下さいね。
川越寺社めぐり〔 後編 〕
19. 日枝神社
ひえじんじゃ
11:39着 11:50発
朱色の社殿が背後に控えているようには見えないの。
喜多院の門前に位置してこの日枝神社があるのですが、御覧のように、通りから眺め見る限りでは朱色の社殿が目に入らないの。拝殿も近年新しく修造されたのですが、色彩的なインパクトが無いせいか、見ていると誰も気に留めることもなく、みなさん喜多院へとまっしぐらなの。かく云うξ^_^ξも、実は拝殿の右手にある無底坹(後述)を見ていたときに初めて朱色の瑞垣に囲まれて立派な本殿があることを知ったの。鳥居脇に建つ石柱には「國寳日枝神社」と刻まれることから、境内には難解な漢字が多出する古碑や案内板の類が目白押しなの。皆さんにも紹介してみますが、幾れも門外漢の目視拓本(笑)ですので誤りがあるかも知れません。その際は御容赦下さいね。
〔 日枝神社 〕 祭神:大山咋神( おおやまくいのかみ=素戔鳴尊の御孫 )
由緒:天長7年(830)慈覚大師が喜多院を創建した際に比叡山麓の日吉神社の分霊を奉祀したもので、東京赤坂の日枝神社は太田道灌が長禄年間(1457-1460)の江戸城築造に当り江戸城鎮護の神として、文明10年(1478)、当神社の分霊を城内北曲輪に分祀したものがそれである。当社はその後天文6年(1537)兵火に遭って烏有に帰したまま、慶長10年(1605)に至って徳川幕府が再建、その後引き続いて幕府の営繕社となり、明治5年(1872)村社に列せられた。明治初年神仏分離令により喜多院住職による管理を解かれて小仙波町氏子総代の管理となって今日に至ったところ、太平洋戦争に当たって川越市は戦災を免れたので、当社は喜多院・東照宮と共に昭和21年(1946)11月29日付を以て国宝に指定となり、昭和25年(1950)8月29日重要文化財となった。こうして昭和37年(1962)復元修理工事に着手、同38年(1963)10月29日修理完了したのである。平成18年(2006)拝殿、同20年(2008)社務所改新
〔 國寶日枝神社沿革碑 〕 喜多院第57世文學博士已講大僧正塩入亮忠題額
吾々の鎮守さま日枝~社は 天長7年(830) 比叡山天台宗の宗祖・傳教大師の高弟 第三座主・慈覚大師が佛法弘通の爲 三芳野の里に來て星野山を開き喜多院を創建した際に 一山の鎮守として比叡山麓の日吉~社の~靈を遷祀したものである。その~靈は 同社の主~東本宮の大山咋~で 素戔嗚~の御孫に當り 又の御名は山末之大主~と申され 比叡山の地主~である。又 東京都赤坂山王台の日枝~社は 川越城を築いた太田道灌が文明10年(1478)6月25日より仙波から江戸城中に勧請し 初めは城内北曲輪に分祀したのがそれである。
當社は 後奈良天皇天文6年(1537)7月兵燹に罹つて烏有に歸したまま荏苒年を経て 慶長年間(1596-1615)徳川幕府に依つて再建され 爾来幕府の修營社となり 明治2年(1869)~佛分離令により喜多院の管理を解かれ 明治5年(1872)村社に列せられた。氏子の手に移管されてから拜殿を新築したが 本殿は實に桃山時代の古建造物とて頽癈甚だしいものがあるので 紀元2600年記念事業として之が修理を計畫したところ太平洋戦争となり 川越市は幸い戰禍を免れたので當社本殿附宮殿は昭和31年(1956)11月29日喜多院東照宮と共に國寶に指定され 同25年(1950)8月29日重要文化財となり 東照宮修理の次同37年(1962)7月工費金壹八五萬圓の内9割と本縣及び本市より各金八萬圓の補助金を受けて修理に着工 同38年(1963)10月15日竣工式を擧くるに至つて今や再建當時の面影を偲ぶ社殿に見事復元したのである。當社の財産は 明治44年(1911)村有財産の寄附があり 宅地513坪余田畑合せて七反余を保有したが 昭和33年(1958)農地改革の爲 全部解放の厄に遭い 今は唯境内301坪を昭和34年(1959)5月財務局から無償譲與を受け 境外地として非農地5畝余宅地48坪余を有するのみである。昭和40年(1965)4月初申
この朱色の瑞垣に囲まれて本殿があるの。
瑞垣の隙間からちょっと失礼。
宮殿はこの本殿の中にあるの。
残念ながら瑞垣の中には入れないの。
日枝神社本殿付宮殿 一棟 ( 国指定重要文化財 建造物 )
日枝神社は、慈覚大師円仁が無量寿寺(中院・喜多院)を中興する際に、近江国坂本(滋賀県大津市)の日吉社(日吉大社)を勧請したといいます。本殿は朱塗の三間社流造で、銅板葺の屋根に千木・堅魚木を飾ります。三間社としては規模が小さく、架構も簡素です。身舎の組物は出三斗ですが、背面中央の柱二本は頭貫の上まで延び、組物は大斗肘木になっています。中備は置きません。妻飾は虹梁大瓶束であっさりとしています。縁を正面だけに設け、側面と背面には廻さず、正面縁の両端のおさまりは縁板を切り落としただけの中途半端なもので、高欄や脇障子を設けないため簡易な建築に見えます。庇は切面取の角柱を虹梁型頭貫で繋いで両端に木鼻を付け、連三斗・出三斗を組んで中央間だけに中備蛙股を飾ります。但し、この蛙股は弘化4年(1847)頃、修理工事の折に追加されたものといいます。身舎と庇の繋ぎは、両端通りに繋虹梁を架け、中の二通りに手挟を置きます。本殿の建立年代について、それを明確にする史料はありませんが、構造の主要部分は近世初頭の技法によりながら、装飾意匠の一部に室町時代末期頃の様式を留め、また、中央の保守的伝統的な技法に依らない地方的な技法も見受けられます。虹梁に絵様を施さず袖切・弓眉だけとする点、庇木鼻の形状と正円に近い渦の絵様、実肘木の絵様、手挟の大まかな刳形などは室町末期の様式です。また、正面の縁のおさまり、大棟上に飾棟木を設けず直接千木・堅魚木を載せる点、背面の組物だけを大斗肘木とする点、組物の枠肘木と実肘木が同じ断面寸法で且つ背と幅が同一な点、巻斗の配置が六支掛の垂木配置と関係なく決定されている点などは地方的技法といえます。特に枠肘木・実肘木の断面寸法、垂木割に関わらない巻斗の配置は珍しく、幕府作事方に収斂される中央の木割法とは異なる設計システムが存在したことを推測させます。喜多院は慶長17年(1612)頃に再興されており、日枝神社本殿もその一環として造営された可能性もありますが、それ以前に地方工匠の手によって建造された可能性も残されています。昭和21年(1946)11月29日指定 川越市教育委員会
さすがは教育委員会の立て看板。難しい神社建築の専門用語のオンパレード状態で、門外漢のξ^_^ξには「な〜に云ってんだか ・・・」の世界。実際にはその多くに読み仮名がふられてはいるのですが、ここでは省略しました。これを読んで構造を理解出来る方なら読み仮名は不要のハズだもの。
儂には難しすぎて何が何だか良く分からねえけんども、
国宝だというんじゃから凄そうで良かっぺ?
はい。
拝殿の右手には石柵に囲まれた一角があるのですが、柵の中には何も無いの。
But 嘗ては無底坹と呼ばれる井戸があったみたいね。
無底坹と案内されているのですが・・・
埋設されてしまい、今は古碑にその面影を知るのみなの。
地元の方が解読してくれた案内板が立つの。救世主よね。
無底坹 底無し井戸縁起
開山慈覚大師一時窖捨址 供華之跡千有餘年於此常 捜浄芥跡然旋増旋清水嘗
有坹溢之湧因命日無底坹 余叙其奇跡勒長碑面欲以 垂不朽去安政六巳未暁春 現住亮阿誌
一千有余年前、慈覚大師が開山された供華の跡地を捜し当て、浄錐を以て坹井を施掘したところ、底から水が溢出して究まらず、坹井の底は無限の如くであった。此の奇跡を不朽ならしめんと欲し、譜碑面とした。安政六年(1859)巳春 現住職亮阿 誌す 〔 無底坹 碑文抄訳 仙波郷松岡 〕
址の字ですが、原文には「其」偏に「止」とあるの。
表示不能ですので、代用文字にて御容赦下さいね。
ここでは地元の方が解読&解説してくれた案内板に助けられましたが、無ければ読破は素直に諦めていたわ。
むか〜し昔のお話しじゃけんども、この井戸は底無し穴と呼ばれるほど深〜い深い井戸じゃったそうな。ある日のことじゃった。底が見えねえけんども、一体どのくらい深えもんだか知りたいものよのお、一つ、物を放り込んで調べてみるべえか−と、村のもん達が相談してのお、最初に鍋を放り込んでみたそうじゃ。そうして、耳をすませて底から物音が聞こえて来るのをじっと待ってみたんじゃが、幾ら待ってみても何も聞こえては来んでのお、そこで椀やら下駄などを次から次へと投げ込んでみたんじゃが、物音一つせなんだ。いったいこの穴はどうなっておるんじゃろうか−と皆して穴の中を覗いておったんじゃが、一粁ほど離れた龍池からやってきた村のもんが、龍池に鍋や下駄やらがいっぱい浮かんでおると云うもんだで、皆して行ってみると果たして池には投げ込んだものがぜ〜んぶ浮かんでおったということじゃ。それからと云うもの、誰云うとなく、この穴を底無しの穴と呼ぶようになったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども。
お気付きのように、この龍池と云うのは先程訪ねた龍池弁財天の双子ヶ池のことなの。
逸話には飛躍があるけど、当時は地下水脈を通して繋がっていたのかも知れないわね。
嘗てここには御神木とされる古代杉が立っていみたいね。
〔 仙波鎮守 日枝神社御神木縁起 〕 昭和20年代、仙波には樹齢千年の巨大古代杉が数多く残っていました。此処がその跡地だったことは郷土史研究家岡村一郎氏の明治時代撮影の写真が証明します。鎮守の森の御神木として崇敬されておりました。昭和12年(1937)台風で西方に倒れ、梢は五年間道路に突き出し子供の遊び場でした。幹は製材し二枚の神猿大絵馬額が作られ神楽殿に掲げられています。平成25年(2013)台風で日枝神社古墳頂上の御神木の梢が折れて根部は永年保存処置をしましたが、幹は首記の大神木跡地に移動安置しました。株の年輪は300年前天海僧正が古墳の頂上に多宝塔建立時と一致します。
周囲の炭の山は毎年大晦日のお札炊き上げの残炭で、炭は万年永久に残りますので後世の人がこの縁起を伝えてくれるでしょう。千年後周りの小神木も大木となり本物の鎮守の森になるでしょう。これからも小仙波鎮守日枝神社をみんなで護ってまいりましょう。平成26年(2014)元旦 日枝神社 一丁目年行事番 謹白
この一部の盛土を残して後円部の殆どが削られてしまったみたいね。
大きな木の左手に後円部の墳丘が続いていたみたいね。右手の建物は社務所よ。
〔 仙波日枝神社古墳縁起 〕 わが國に歴史のはじめ訪れし六世紀大和朝の御代、ここ彩の國も古墳文化全盛を迎へ、川越郷仙波の古墳群の内、仙波日枝の古墳は典型の前方後円形にて、当地の東国首長の邦在りし証左として仙波有史文化黎明の象徴と申すべく郷土の誇るべき至宝と云ふべし。また更に後の世、九世紀は天長の代、慈覚大師星野山開山に当り、この閃址を尊び給ひ~佛を祀られしは亦むべなりと云われる可く、川越の近古代文化の源この丘より萌芽すと云へども過言に非ざる可し。仙波鎮守日枝山王の御社は此の聖地に建ちて、千歳星霜の歴史の経緯を踏まへつつ多衆の崇敬を集め今日に至れり。
然るに近代激動の世に至り心なき都市化文明の余波及び長年の風水の害重なりて貴重なる立麓部及周辺の御~杉を喪ひしは痛恨の極みなれど、首記の証後世に伝へるべく墳頂に証柱建て神木の址碑遺し奉納仕つるもの也。平成10年(1998)6月申 仙波日枝神社崇敬会
この日枝神社古墳ですが、大正12年(1923)の県道敷設に合わせて古墳の半分が削られてしまったの。
その際の残土は浮島稲荷神社に運ばれ、墳頂に建てられていた多宝塔は喜多院に移築されたの。
日枝神社古墳の墳頂からは喜多院の大きな駐車場が目の前に広がるのですが、そのほんの一角に「明星杉」の跡地が残されているのを目にしたの。それまでは、伝説の地はとうの昔にアスファルトの下敷きになり、今ではその痕跡さえ分からなくなっているものと早合点していたの。今これを見逃しては一生悔いが残るかも知れないわ−とばかりに、急遽後戻りして訪ねてみたので紹介しますね。なので、日枝神社での所要時間はこの明星杉への立ち寄り時間が含まれますので御了承下さいね。
嘗てこの地には喜多院の山号の由来となる明星杉が立っていたの。
逸話は池面に映る満月を元にデッチ上げたんじゃねえのか−なんて思ってはいけないわ。
浪漫よ、浪漫。想像を逞しくしてこの杉の梢を御覧下さいね。
〔 明星社と明星杉 〕 鎌倉時代の永仁4年(1296)、尊海僧正が喜多院再興の為に訪れた時には、ここに池があったと云われています。尊海僧正がその池の前を通ったときに、池の中から光りが浮かび上がり、そばにあった杉の木の上でしばらく光り輝いた後、空高く飛び立ったという伝説があります。その伝説から、喜多院の山号を星野山と称し、この地の字名を明星と称します。現在は霊地の跡に社殿を建て、新しい杉の木が植えられています。
となると、その伝説とやらが気になるわよね。
そんなあなたに、脚色を交えて逸話を紹介してみますので、お楽しみ下さいね。
とんと、むか〜し、昔のお話しじゃけんども、尊海僧正と云う偉いお坊さんがこの地にやってきたときのことじゃ。お坊さんは牛車に乗っておられたんじゃが、この辺りに差し掛かるとそれまで車を曳いておった牛が急に立ち止まったまま動かなくなってしまってのお、供の者が幾らせかしても動かなんだで、ほとほと困り果てておった。それを見ていたお坊さんは、何かこの地に特別な理由があるのかも知れんでと、きょうのところはひとまずここで一夜を明かすことにしたそうじゃ。その夜のことじゃった。池の中から不思議な光が輝き始めてのお、やがてその光は玉となって池から飛び出すと明星となって夜空に舞い上がったそうじゃ。そうしてしばらくは傍らの老杉の梢にとどまり、きらきらと輝いておったそうじゃ。その奇瑞を目の当たりにしたお坊さんは、この地はまさしく霊地、いかなる仏縁あるらん−と調べてみると、果たしてその昔、仙芳仙人や慈覚大師が修行した土地じゃと分かってのお、早速お堂を建てると、弘法の道場としたそうじゃ。喜多院の山号は星野山と云うんじゃが、明星が輝いた瑞祥に因んで名付けられたものじゃ。その明星がとどまったと云う老杉じゃが、それからと云うもの、誰云うとなく明星杉と呼ぶようになったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。
20. 仙芳仙人塚
せんほうせんにんづか
11:55着 11:59発
仙芳仙人が入定した場所と伝えられているの。
〔 仙波仙芳塚縁起 〕 7,000年前当地が海辺であったことは近くの仙波貝塚で証明されますが、此の丘に川越の大地誕生の浪漫縁起が伝えられています。塚の碑面には大昔仙芳と云う真人(仙人)が龍神の助けを得て海を干上げ、喜多院の前身たる無量寿寺領を造り上げ今の仙波となった。龍神は仙波下の弁財天池に安堵されたと刻まれています。当地仙波には六世紀まだ西の大和朝廷の力が及ぶ前の当時の豪族首長の古墳が数多くあり(三変・日枝・慈眼・氷川・愛宕の古墳)仙芳塚もそのひとつでありましょう。
嘗てはここも古墳だったみたいね。
川越は上杉の太田道灌築城以後15世紀あたりから歴史に名が出るようになり、徳川時代は幕府の庇護を受けて小江戸として有名になり今日を迎えておりますが、此の塚に立たれ、更に千年前の川越を尋ねるよすがにもなれば幸いです。尚、この塚の西側隣地は喜多院の本地堂・瑠璃薬師堂がありました。大阪落城直後元和3年(1617)日光に移送中の家康霊柩の大法会が天海僧正の導師で行われた所で、その本堂は明治維新の戦争で焼失した上野寛永寺跡に明治12年(1879)旧幕臣が労を執り仙波新河岸水運を使って運ばれ再建され、今次大戦の大空襲でも焼失を免れ、現在の上野寛永寺の根本中堂として再会することができます。この小道にたたずみ、しばし歴史との出会いをお楽しみ下さい。平成18年(2006)8月15日 当地住人 松岡章次
喜多院を訪ねる前に日枝神社の近くに龍池弁財天で紹介した仙芳仙人の入定塚があると知り、訪ねてみたの。But 場所は非常に分かりづらいところにあるの。地図だと この辺り になるのですが、道順としては日枝神社から南に延びる道に入り、左手に注意しながら歩いて下さいね。人一人がようやく通れるような脇道があるの。入口には紹介した案内板の他にも色々な説明書きが掲示されているのでそれさえ見落とすことがなければ直ぐに分かると思うわ。文末にその名があるように、案内板はいずれも松岡さまの手になるもので、先程紹介した無底坹碑とその抄訳もそうなの。面識はないのですが、松岡さまの労があればこその史跡紹介なの。この場にて改めて御礼申し上げます。m(_ _)m
21. 喜多院
きたいん
12:01着 13:48発
正面に山門が見えていますが、手前右手に天海僧正の銅像が建てられているの。
天海僧正のことは後程改めて紹介しますね。
為政者と共にあり、時代を象徴する僧侶でもあるわね。
この白山神社は円仁(慈覚大師)が喜多院の創建時に守護神として祀ったの。
扁額には白山権現とあるの。
白山権現は正確には三社からなるのですが、それはいずれまたの機会にでも。
〔 天海大僧正像 〕 天海大僧正(1536-1643) 喜多院第27世住職であり、会津高田(現・福島県会津美里町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興しました。将軍徳川家康公の信頼篤く、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々川越城また喜多院を訪れています。108歳で遷化(亡くなる)後、朝廷より慈眼大師の称号を賜りました。
喜多院の山門前には紹介した天海僧正の銅像が建てられ、続いて白山神社があるの。扁額には白山権現とあるのですが、権現とは仏や菩薩が衆生利益のために仮の姿を現すことを云い、本地垂迹説の流布に合わせて在来の神々が仏や菩薩の垂迹と見做されるようになると、権現号を以て呼ばれるようになったの。白山は富士山や立山と共に日本三山の一つに数えられ、古くから修験道の霊場として知られ、その霊威を期待した慈覚大師こと円仁が喜多院の創建時に守護神として分霊したと云うわけ。
境内の案内図よ。他力本願で恐縮ですが。
〔 国指定重要文化財 川越大師 喜多院案内 〕 伝説によると、その昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で、本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を勧請して官田50石を寄せられ関東天台の中心となった。正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北條氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。
江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第27世の法統を嗣ぐが、同16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき寺領48,000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、4代家綱のとき東照宮に200石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇は全て焼失した。そこで3代将軍家光公は掘田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院等に当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、日枝神社などの建物を数年の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されているのである。
江戸時代までは寺領48,000坪、750石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以後財力の欠如とその広さ・大きさのため荒廃に向かった。戦後、文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり、関係者の並々ならぬ努力によって、その主な建造物の復元修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし、未だ完成しないところも数あり、今日までその整備事業は継続して行われている。現在の境内地は東照宮を含めて14,000坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており、池や掘をめぐらした景勝は、そこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く、厄除元三大師のお参りとともに、四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ、毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。〔 以下省略 〕 喜多院・川越市教育委員会
喜多院では鐘楼門とこの山門が最古の建造物になるの。
〔 山門( 重文・建造物 )& 番所( 県指定・建造物 )〕 山門は四脚門、切妻造で本瓦葺。元は後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていた。冠木の上の斗供に表には龍と虎、裏に唐獅子の彫り物がある他、装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さを持っている。棟札も残っており、天海僧正が寛永9年(1632)に建立したもので、同15年(1638)の大火を免れた、喜多院では最古の建造物である。山門の右側に接続して建っているのが番所で、間口十尺(3.03m)・奥行二間半(4.55m)、起(むくり)屋根・瓦葺の小建築で、徳川中期以降の手法によるもので、県内に残る唯一棟の遺構である。平成2年(1990)2月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
左手の建物が番所になるの。
意外に思われるかも知れませんが、現存する喜多院の建物の多くが寛永15年(1638)の川越大火後に再建されたものなの。そんな中でこの山門と鐘楼門だけが大火を免れて今に残されているの。中心的な存在の建物は大火後に再建されたもので、客殿・書院・庫裏は江戸城の建物を移築しているの。とは云え、その幾れもが国 or 県の重要文化財に指定され、歴史の重みを今に伝えているの。因みに、第二次世界大戦時にはこの喜多院にも軍隊が駐屯していたのだとか。それでも戦禍をのがれることが出来たのは、奈良や京都と同じく、川越が空襲の対象から外されていたからとも云われているの。自国軍が駐屯する中で、相手国側は意図して爆撃せずにいてくれていたとは。幾ら非常事態下にあったとは云え、日本人としてはちょっと悲しいシチュエーションよね。
聖徳太子を祀る太子堂よ。
参道を進むと聖徳太子を祀る太子堂が最初にあるの。
篤く三宝を敬え−と宣うた聖徳太子は仏師や宮大工などの職人達もまた大事にしたの。
〔 喜多院太子堂縁起 〕 本年は聖徳太子御忌1,355年に当ります。申すまでもなく、聖徳太子は我が日本の文化史上に於ける代表的偉人で、その政治上の功績は云ふまでもなく、学問・著述・教育・宗教・音楽・芸能・工芸・建築・医療・養護社会施設、その他諸道の祖として信仰されております。特に室町の時代末には仏教宗派にとらわれず、太子を芸道の祖として尊ぶ信仰が生れ、大工左官屋根耺等の仕事師の絶対的信仰を集めたのであります。
当山の太子堂は弘化4年(1847)3月当山末寺金剛院境内地に創建され、明治以後廃寺に伴い日枝神社境内に移し、更に明治42年(1909)3月、現在の多宝塔建立地に移築し、そして昭和47年(1972)11月、この地に立派な六角太子堂として再興したものであります。この度、慈恵堂・多宝塔大修繕の勝縁を記念して、太子堂再興・新太子像奉刻・木遣塚・石垣等建設と共に、川越鳶耺組合(代表西村甚平氏)が中心となり、喜多院太子講の結成を見まして十方有縁の篤信徒に太子のお社を戴けることは誠に佛天の恵み千載一遇の法縁であります。ここに畧縁を誌し記念とする次第であります。昭和51年(1976)2月22日 星岳亮善 識
その太子堂の建物左手には木遣塚と刻まれた石柱も立つの。
〔 木遣塚建設の碑 〕 木遣とは、建築用材に用いる大木を運ぶ時、大勢の力を合わせて引く歌を云い、木曳歌と同義語である。木曳の際の号令の役目をした掛声が木遣歌となった。我々の祖先はその音頭に合わせ真棒と曳綱に命をかけて建設への基礎造りを続けて来たが、現今では、木遣と云えば木遣音頭を以て代表され、諸々の行事に広く歌われるようになった。この度川越鳶組合は近隣鳶組合と計り、ここ喜多院太子堂の聖地に木遣塚を建設し、その由来を記し、祖先の偉業を讃えると同時に鳶の伝統の保持と新時代に即応した業界の発展を祈念しようとするものである。〔 以下省略 〕 昭和50年(1975)4月吉日
〔 多宝塔 県指定・建造物 〕 【星野山御建立記】によると、寛永15年(1638)9月に着手して翌16年(1639)に完成、番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。明治45年(1912)道路新設のため移築(慈恵堂脇)されたが、昭和47年(1972)より復元のため解体が行われて昭和50年(1975)現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺の三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪を載せている。下層は廻縁を廻らし、軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく結合されている。円形の上層に宝形造の屋根を載せているので、組物は四手先を用いた複雑な架構となっているが、これも美事に調和している。相輪は塔の頂上の飾りで、九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠が載っている。この多宝塔は慶長年間(1596-1615)の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。昭和54年(1979)3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
この慈恵堂(じえどう)には比叡山延暦寺第18代座主慈恵大師良源(元三大師)が祀られているの。
喜多院の本堂とも呼ぶべき建物が左掲の慈恵堂(じえどう)で、堂内には比叡山延暦寺第18代座主・慈恵大師良源(元三大師)が祀られているの。建物は間口9間・奥行6間の入母屋造で、銅板葺は延暦寺の根本中堂や大講堂、日光の輪王寺三仏堂と同じ造りになっているの。因みに、潮音殿の別称は、喜多院の前身・無量寿寺の開創縁起に由来するの。小仙波貝塚跡の項でも紹介しましたが、嘗ては海が仙波台地の間近に迫り、龍池弁財天のある双子ヶ池でも潮騒がすぐそこにあったの。時を経て現在地に移転した後も、海はとうの昔に遠ざかったはずなのに、ときおり潮騒の音が風に乗って聞こえてきたと云うの。潮音殿の名はその逸話に由来していると云うわけ。
〔 慈恵堂(潮音殿)〕 寛永15年(1638)の川越大火によって現存の山門を残し全ての堂塔を失った際、当山の第27代住職天海大僧正によって再建されたのがこの慈恵堂です。しかし、その後長年に渡り荒れ果てたこのお堂は、第57代塩入亮忠大僧正、第58代塩入亮善大僧正によって次々と修繕され今日に至ります。天井に描かれた家紋は、修繕の際に寄進をされた檀信徒のものです。中央の御本尊は慈恵大師、左右には不動明王をお祀りし、毎日護摩供を修しています。
川越七福神の一神・大黒天が祀られているの。
金網に遮られて大国さまの表情は良く分からないの。
大黒堂の背後には天海僧正お手植と云われる樹齢約350年の槇の木があるの。
・小江戸川越七福神 第三番 大黒天
大黒天は古代インドの神様で、密教では大自在天の化身、生産の神様です。
くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと、財宝糧食の大福利益が得られます。
・秋の七草 萩しら露もこぼさぬ萩のうねり哉 芭蕉
萩の名は古い株から芽を出す生え芽(ぎ)から出たと云われ、山萩の別名です。
山野に多く、7-9月に紅紫色の蝶形花を開きます。花言葉−想い
小江戸川越七福神霊場会・(社)小江戸川越観光協会
慈恵堂の右手には大黒天を祀る大黒堂があるの。今では大黒天と云えば七福神の一神として大黒さまの愛称で知られますが、当初の大黒天は寺院の守護神として厨房に祀られたの。そのルーツはインド神話に登場する荒ぶる神の摩訶迦羅 Mahakala で、Mahaは「大きな」を、Kalaは「黒」を意味することから大黒と漢訳されたの。食は僧侶にとっても根源的なものよね、寺院の守護神として祀られる一方で、豊穣を齎す神としても見做されるようになり、御馴染みの大黒さまに変身していくの。槌が同じ音の「土」に通じることから左手に持つ小槌は豊穣の象徴とされ、背中に負う大きな袋もまた富の象徴になるの。袋を負う姿はお馴染みの大国主命の姿にも似て、大国が「だいこく」とも読めることから両者が合体変身して現在の大黒さまになったと云うわけ。
昇殿して中を見学することが出来るのですが撮影禁止なの。
〔 江戸城からの移築建造物 〕 慶長19年(1614)徳川家康公の寄進により伽藍が整備されましたが、寛永15年(1638)の川越大火により、山門を除く諸堂が焼失しました。再建にあたり三代将軍徳川家光公は江戸城内の御殿を川越に移築する命を下しました。このことは、当時の当山第27世住職天海僧正と将軍家の特別な関係を示すものです。江戸城から移築された建造物は、客殿・書院・庫裏の三棟で、現在国指定重要文化財として保存され公開されています。客殿の中の山水画で飾られた一部屋が「家光公誕生の間]と伝えられ、書院は家光公の乳母(子守り役)である春日局の「化粧の間」と伝えられています。
客殿や書院は昇殿して中を見学( 拝観料:¥500 )することが出来ますが、残念ながら撮影禁止なの。ξ^_^ξとしては建物よりも奥庭の小堀遠州流枯山水庭園がお薦めよ。そうそう、忘れてはいけないわね。こちらで拝観受付をすると慈恵堂(本堂)の内陣も見学することが出来るの。それに、五百羅漢の見学も出来てしまうの。逆に云うと、五百羅漢を見学したい場合には拝観手続きをしないとダメなの。拝観は客殿・書院の見学と、本堂(慈恵堂)・五百羅漢の見学がセットになっているの。と云うことで、建物見学を終えたところで、拝観券を握りしめて、次に訪ねたのは勿論、五百羅漢よね(笑)。
喜多院の五百羅漢は日本三大羅漢の一つにも数えられているの。
像は中央の釈迦如来像をはじめとして総勢538体からなるの。
ゲイジュツしてるわよね、この羅漢さま。
穏やかな表情が見る者をも優しくするの。
〔 五百羅漢 〕 喜多院の五百羅漢は実際には538体有ります。天明2年(1782)から文政8年(1825)にかけて建立されています。志誠(しじょう)と云う僧侶が発願し、先祖供養・五穀豊饒・仏法興隆等を願う多くの人々のご寄進と協力を得て完成しました。羅漢はお釈迦さまの弟子です。人々から尊敬されるまでに修行が進んだ弟子を表します。当山の五百羅漢は、中央にお釈迦さまが座り、その回りで弟子達が説法を聞いている風景を表しています。尚、お釈迦さまの入滅後、弟子達が何度か集まり、それぞれが聞いたお釈迦さまの教えを纏める「結集(けつじょう)」と云う会議が行われました。そこで纏められた教えが「お経」と云う形で現代まで伝えられています。また、深夜当山の羅漢さんの頭を触ると、一体だけ温かく感じる羅漢さんがいて、昼間その羅漢さんの顔を見ると、自分や身内に似ていると云う伝説があります。
お前さん、どこから来なすった?エッ、江戸から?それはまたご苦労なことじゃのお。
愛犬のいるξ^_^ξとしては我が身を見る思いの羅漢さまなの。
鶏に餌をあげている羅漢さまだけど、穏やかな日常の暮らしが見えて来るようね。
喜多院の五百羅漢は日本三大羅漢の一つにも数えられ、中央の釈迦如来に脇侍する文殊・普腎両菩薩と、左右に祀られる阿弥陀如来や地蔵菩薩に、釈迦の十大弟子と十六羅漢を加えた総勢538体からなるの。羅漢はサンスクリット語の arhan の漢訳・阿羅漢の略称で、出家の最高位を表し、人々から供養を受ける価値のある人−と云う意味だそうよ。因みに、500と云う数は、説明にある結集の際に集まった弟子が500人いたことに由来するのだとか。志誠こと内田善右ヱ門は元々は川越の北田島村出の農民で、後に出家したの。享保19年(1734)に生まれているのですが、内田姓を名乗っていることからすると農民出とは云え、名主などの有力農民だったのでしょうね、きっと。
人前ではしなくてもみんなすることよね。
ささ、今宵はこの般若湯でも呑みながらこの世の極楽とやらを究めようぞ。
女性らしい表情の羅漢さまなのですが、女性ではないのかしら?
彼が育った当時は江戸をはじめ各地で五百羅漢の造立と信仰が流行していて、善右ヱ門は江戸本所にあった羅漢寺にも参詣しているの。そのときに羅漢寺の羅漢さまが発するオーラが彼に乗り移ったのかも知れないわね。出家した善右ヱ門は志誠と名乗り、天明2年(1782)に造立を発願して彫像を始めたのがこの五百羅漢の起源なの。残念ながらその志誠も40体ほど出来たところで寛政12年(1800)に亡くなってしまうのですが、その遺志を継いだのが山内学寮の僧侶達で、喜捨を求めて勧進しながら多くの年月を掛けて完成させたの。羅漢さまなのに、その表情や仕草がとても庶民的なのは、志誠が願った自分の姿でもあるのかも知れないわね。
全ての苦しみから解き放ってくれるという苦抜き地蔵尊
このケヤキの木もまた苦抜き地蔵尊に見守られて大成しそうね。
慈恵堂を前にして境内左手には色とりどりの幟に囲まれてお地蔵さまが立ちますが、苦抜き地蔵尊と呼ばれているの。苦抜きは抜苦与楽に由来し、頭を垂れて手を合わせる者を全ての苦しみから解き放ち、楽を与えてくれるの。因みに、この苦抜き地蔵尊は、本間中治と云う方が昭和32年(1957)に堂宇完成落慶と自身が傘寿(80歳)を迎えられた報恩の感謝記念に奉納したものなの。
慈恵堂(本堂)左手奥に進むと石組みの塀に囲まれて川越城主を務めた松平大和守家の廟所があるの。以前は廟内をめぐることも出来たのですが、現在は廟門をくぐり抜けたところまでの参観になっているの。なので、ここでは以前訪ねたときのものを以て紹介していますので御了承下さいね。因みに、細部まで見てみたい−となると難しいのですが、全体像なら廟門を前にして背後には盛り土された尾根があり、その尾根伝いに小径が走るのでそこからなら丸見えよ。
さすがは川越城主よね。と云うよりも松平家の御威光かしら。
献納された燈籠の数が半端じゃないわね。
頌徳碑に誌される内容も凄そうよ。解読は諦めモードですが。
〔 松平大和守家廟所 市指定・史跡 〕 松平大和守家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を藩祖とする御家門、越前家の家柄である。川越城主としての在城は明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで、7代100年にわたり、17万石を領したが、この内川越で亡くなった5人の殿様の廟所である。北側に4基あるのは右から朝矩(とものり:霊鷺院)、直恒(なおつね:俊徳院)、直温(なおのぶ:馨徳院)、斉典(なりつね:興国院)の順で、南側に一基あるのが直侯(なおよし:建中院)となっている。幾れも巨大な五輪塔で、それぞれの頌徳碑(しょうとくひ)が建ち、定紋入りの石扉をもった石門と石垣がめぐらされている。平成5年(1993)3月 川越市教育委員会
何の変哲もない小橋ですが、泥棒橋の逸話が残されているの。
松平家の廟所から少し離れて御覧の小橋があるの。今となっては見た目にも何の変哲もない普通の橋なのですが、泥棒橋の逸話が残されているの。But 川も無いのに何故こんな場所に橋が架けられたのかしら−と思うわよね。実は橋の下には嘗て水を満たしたお濠が廻っていたの。と云うよりも、喜多院の周囲を堀が取り囲んでいたと云うべきかもね。盛時にはそのお濠に護られて10万坪にも及ぶ敷地を有していたと云うのですから、川越城に負けず劣らずだったみたいね。
〔 どろぼうばしの由来 〕 昔、この橋は、一本の丸木橋であったと云われ、これは、その頃の話しである。ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行では捕えることが出来ないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐ろしさを知った。盗賊は、厄除元三大師に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立直ることができた。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたと云う。この話しは大師の無限の慈悲を物語る話しとして伝わっており、それ以来、この橋を「どろぼうばし」というようになったと云うことである。昭和58年(1983)3月 埼玉県
慈眼堂が建てられている場所もまた古墳の墳頂なの。
覗き窓から失礼して収めたものだけど・・・
〔 慈眼堂 重要文化財・建造物 〕 天海僧正は寛永20年(1643)10月2日寛永寺に於て入寂し、慈眼大師の諡号を贈られた。そして3年後の正保2年(1645)には徳川家光の命によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのがこの慈眼堂である。一名開山堂とも呼び、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺となっている。宝形造は四方の隅棟が一ヶ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。平成3年(1991)3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
中央で存在感を見せつけているのは勿論天海僧正の墓碑よ。
板碑単独での撮影は難しいわね。
慈眼堂の背後には歴代住持の廟所があるの。一番大きな墓塔は勿論天海僧正の墓碑なのですが、その後ろには左右に分かれて「暦応の古碑」と「延文の板碑」があるの。残念ながら、他の住持の方の卵塔などに遮られて単独での撮影が難しいの。かと云って廟内への立ち入りは出来ず、諦めモードなの。なので単独の画像ではなく、景観写真になっていますが、御容赦下さいね。
〔 暦応の古碑 県指定・史跡 〕 暦応の古碑として指定されているが、その実は「暦応□□□□□月15日」の銘のある板石塔婆で、上部に弥陀の種子キリークを刻し、下半部に52名にのぼる喜多院(無量寿寺)の歴代の住職の名と見られる者を刻している。喜多院の歴代の住職の名を知る資料は他にないので、この銘文が重要な意味を持つところから、県の史跡として指定になったものである。梵字の真下中央に「僧都長海現在」とあるので、暦応(南北朝時代初期)の頃の住職であったことが分かる。昭和54年(1979)3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
この暦応(りゃくおう)の古碑ですが、北院(喜多院)二世の寛海法印と心聡法印が中心となり、先師の追善供養と自らの逆修の願いを込めて暦応5年(1342)に造立されたもので、碑面には52名もの法名が刻まれているの。碑面上部に刻まれた「過去」の部分には9名の法名が記され、その中には中院を開基した尊海僧正の名も見え、「現在」と記された部分には43名の僧侶達の名があるの。禅尼の名も多くあることから「女人にも広く門戸を開くべし」とした尊海僧正の思いを物語るものでもあるの。
〔 延文の板碑 市指定・考古資料 〕 暦応の板碑と並んで立っている延文3年(1358)のこの板碑は、高さ276cm・最大幅69.4cm・厚さ9cmで川越市最大の板碑である。暦応の板碑と同様に、上部に種子キリークがあり、そのもとに僧1・法師2・沙弥32・尼21・聖霊4の合計60名が刻まれており、「一結諸衆/敬白」とあり、文字通り結衆板碑である。聖霊の4名は喜捨を募ってから板碑に刻むまでに故人になった人と思われる。従って完成までに少なからず歳月を費やしたことが考えられる。暦応の板碑が喜多院の歴代の住職の名を記したのに対し、この板碑はその殆どが沙弥と尼で、共に僧階は最も低く、僧・法師が導師となって在俗の人々が結衆したことが分かる板碑である。昭和63年(1988)3月 川越市教育委員会
ここでの沙弥・尼と云うのは必ずしも僧籍に身を置いていたと云うことでもなくて、
在俗の禅門・禅尼に対する称号のようね。
この鐘楼門は、山門と合わせて喜多院最古の建造物とも云われているの。
〔 鐘楼門 重要文化財・建造物 〕 【星野山御建立記】によると、寛永10年(1633)に東照宮の側に鐘楼門を建てたと記録している。その頃の東照宮は現在の慈眼堂の位置にあった。そして鐘楼門再建の記録がないところをみると、寛永15年(1638)の大火に焼失を免れたのではなかろうか。桁行三間(5.45m)、梁間二間(3.64m)、楼閣造袴腰付入母屋造で本瓦葺の屋根を持っている。縁には勾欄を回らし、壁面には前面に龍、背面に鷹の木彫が二個づつはめこんである。また、この鐘楼に懸けられている銅鐘には元禄15年(1702)の銘がある。昭和54年(1979)3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
以前訪ねた時に目にした案内板の記述を紹介しましたが、最近新しい案内板が立てられたの。
難しさには一層の磨きがかかりましたが、参考までに転載しておきますね。
〔 鐘楼門 附銅鐘 国指定重要文化財・建造物 〕 江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほば中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は堅板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲龍の彫物を飾り、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。上層には、元禄15年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永15年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄15年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。昭和21年11月29日指定 川越市教育委員会
厳島神社が鎮座するのですが、実態としては弁財天ね。
鐘楼門の南側には木々に囲まれて弁天池があるの。朱塗りの鳥居と共に厳島神社と墨書きされた木札がありましたが、実態としては弁財天が祀られているの。厳島神社の祭神・市寸島比売神(いちきしまひめのかみ)は容姿端麗を以て弁財天と習合したのですが、明治期の神仏分離で習合を解かれ、元の市寸島比売神に戻されたと云うわけ。加えて、弁財天のルーツはインドのサラスバティー川にあり、妙なる音色を発しながら水が流れゆくさまを象徴した神さまで、水の流れのあるところに弁財天が祀られるのは必然でもあるの。それはさておき、この弁天池ではホタルが養生されているみたいよ。
池ではホタルが養生されているみたいね。
〔 葵庭園 〕 私たち川越葵ライオンズクラブは、平成15年(2003)から毎年6月末、ホタル鑑賞会「ホタル祭り」を実施し、市民の皆様に初夏の一夜を楽しんで頂いております。本年、当クラブ結成30周年記念事業として、この庭園が自然のホタル自生地となるよう願いを込め、庭園のシンボルである池の護岸整備・八ツ橋造営・清流を保つポンプ設置を実施致しました。池にはホタルが生息しております。この池で産卵し、翌年5月下旬から7月上旬にかけて飛び立ち、幻想的な光を放ちます。どうかホタルをかわいがって下さい。また、池の美化にも御協力下さい。葵庭園のホタルが永遠に光を放つよう見守って頂ければ幸いです。平成19年(2007)5月 川越葵ライオンズクラブ
22. 仙波東照宮
せんばとうしょうぐう
13:50着 14:09発
見えているのが隨身門よ。
石鳥居は造営奉行を務めた堀田正盛が奉納したもの。
喜多院の境内からは弁天池の前を通り、そのまま仙波東照宮へと抜けることが出来るのですが、御案内の都合で、隨身門からの正規ルートを辿って参拝したことにしますね。最初にその隨身門と併せて石の鳥居の紹介をしますが、左端に見える朱色の建物が隨身門で、右側の画像で参道奥に小さく見えているのが、石の鳥居になるの。ちょっと分かりづらいかも知れませんが、ごめんなさいね。拡大表示が出来ますので、クリックしてみて下さいね。
〔 東照宮随身門・石鳥居 重要文化財・建造物 〕 境内入口にある随身門は朱塗八脚門・切妻造でとち葺形銅板葺である。八脚門とは三間×二間の門で、門柱4本の前後に各一本ずつの控柱を持っている屋根付き門のことである。以前には後水尾天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が掲げられていた。記録に依ると、この勅額は寛永10年(1633)12月24日とあるから東照宮の創始の時期を知る一つの資料となっている。石鳥居は寛永15年(1638)9月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれており、様式は明神鳥居である。川越市教育委員会
これは以前訪ねたときのもの。
残念ながら普段は境内への立ち入りは禁止なの。
東照大権現の御威光ゆえの献納よね。すりすりしておかなくちゃ、睨まれでもしたら大変よね。
華麗なる装飾はまさに東照宮ね。
〔 仙波東照宮 重要文化財・建造物 〕 徳川家康を祀る東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和3年(1617)3月、喜多院に4日間逗留して供養したので、天海僧正が寛永10年(1633)1月この地に創建した。その後寛永15年(1638)正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年6月起工、同17年完成した。当初から独立した社格を持たず、喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮と共に三大東照宮と云われている。社の規模は表門(隨身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。尚、拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
御案内している仙波東照宮ですが、境内への立ち入りは禁止なの。掲載する画像は以前拝観が許可されたときのものに加え、再訪時に外周の塀越しに撮影したものなの。接近遭遇したいとなると不定期の特別拝観を待つしかなさそうね。
〔 東照宮拝殿・幣殿 重要文化財・建造物 〕 拝殿は桁行三間(5.36m)、梁間(3.64m)で、単層入母屋造、正面は向拝一間(1.82m)あって銅板本葺である。幣殿は桁行二間、梁間一間で背面は入母屋造、前面は拝殿に接続し、同じく銅板本葺である。内部も朱塗で美しく、正面に後水尾天皇の御染筆なる東照大権現の勅額が懸けてある。記録に依ると寛永10年(1633)12月24日とあって、東照宮創建当時に下賜された貴重なものとされている。川越城主であった柳沢吉保や秋元但馬守喬朝(たかとも)の頃に大修復があったと伝えているが、松平大和守の弘化4年(1847)にも修復が行われたと云う。平成3年(1991)3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
案内板があると云うのに立入禁止と云うのも癪よね。
東照宮の東照宮たる由縁ね。
葵の御紋は時を経た今もその威を天下に顕現していると云うわけ。
〔 東照宮本殿・瑞垣・唐門 国指定・建造物 〕 東照宮本殿は、三間社流造・銅瓦葺・極彩色で、寛永17年(1640)に再建された。本殿内に安置されている円形厨子の中には、天海が彫作した冑を着け槍を右手に持ち、駿馬に騎っている家康公の木造が祀られている。本殿の周囲に巡らす瑞垣は、本瓦葺で透し塀、中央正面の唐門は、一間一戸の平唐門で銅瓦葺である。平成12年(2000)2月 川越市教育委員会
御案内が前後して恐縮ですが、石段の登り口右手には仙波東照宮沿革碑が建てられているの。旧漢字での表記に加え、文語体で誌されることから解読には苦戦を強いられましたが、何とか読みとることが出来たの。碑文には他では得られない情報も記され、ξ^_^ξ個人としては貴重な参考資料にもなったの。But ちょっと長文なの。いたずらにこの頁に長文を転載するのも気が引けますので別頁を設けましたので、興味を持たれた方は こちら を御参照下さいね。
23. 南院遺跡
なんいんいせき
14:10着 14:11発
南院跡ではなくて南院遺跡よ。微妙なニュアンスの違いを御理解下さいね。
嘗ての無量寿寺は仏蔵院(北院=喜多院)・仏地院(中院)・多聞院(南院)の三院から成り、【新編武蔵風土記稿】には「山號寺號等 すべて喜多院と同じ御神領のうち 二十石を配当し寺中に列す 本尊の地蔵尊は秘佛なり 聖天堂 放光堂 成就房・仙境房・廣仙房・星行房・明星房・常蔵房・心境房 以上七房 各寺領十石を配當す」と記されるように、喜多院の塔頭・子寺としての位置付けでありながらも、南院も多くの僧房を構えて隆盛していたみたいね。その南院も明治2年(1869)の神仏分離令公布に伴い廃仏毀釈の嵐に巻き込まれて廃寺となり、現在は遺跡のみとなっているの。
その遺跡にしても僧房の一つであった広仙房跡地が僅かに残されているだけで、他の堂宇が破却整地される際に、それまで個々に建てられていた石仏や墓塔が十把一絡げでここに纏められてしまったみたいね。遺跡の背後には瀟洒な家々が建ち並びますが、遺跡に立つ石仏達もいずれまたここを立ち退かなくてはならない運命にあるのかも知れないわね。
24. 中院
なかいん
14:15着 14:38発
実は中院の門は三ヶ所あるの。この山門は庫裏へと続くので通用門かも。
中院の山門ですが、実は三つもあるの。上掲は一番北寄りの山門で、敷石の参道を進むと庫裏があるので通用門と云ったところかしら。But 手入れの行き届いた植栽に迎えられ、禅寺の装いなの。ξ^_^ξとしては一番好きな道よ。春には枝垂れ桜やぼたんが、初夏にはまばゆいほどの緑など、季節毎にその表情が異なり、訪れる旅人を楽しませてくれるの。
〔 中院 〕 中院は嘗て星野山無量寿寺仏地院と称し、天長7年(830)に慈覚大師によって創立された。当初の中院は、喜多院の隣にある東照宮の地にあったが、寛永10年(1633)東照宮建造の折に現在地に移されたものである。境内には、川越城主秋元侯の家老であった太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母・加藤みきの墓などがある。太陽寺一族の墓は、山門を入ってすぐ左側にある三基の墓で、川越の地誌「多濃武の雁」を著した太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻のものである。また、加藤みきは、文久3年(1863)に川越松平藩蔵前目付の次女としてこの地に生まれ、4歳の時に母に伴われて上京し、以後大正12年(1923)に再び川越に戻り、昭和10年(1935)5月に73歳の生涯を閉じた。墓石に「蓮月不染乃墓」と彫られており、この墓銘は藤村が書いたものである。昭和57年(1982)3月 埼玉県
〔 中院 市指定・史跡 〕 中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830)慈覚大師によって創立された。元来星野山無量寿寺(せいやさんむりょうじゅじ)の中に北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院・仏地院・多聞院と称していたものである。当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永10年(1633)東照宮建造の折りに現在地に移されたものである。喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安3年(1301)勅願所たるべき口宣の写しや慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元侯の家老・太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母・加藤みきの墓などがある。平成4年(1992)3月 川越市教育委員会
この山門をくぐるのが正攻法なのかも。
本堂よ。枯山水ではないけれど素敵な境内よね。
石碑には「不染」と刻まれているの。後方の建物が不染亭になるの。
不染亭よ。このお履き物からするときょうの集まりは茶道と云うよりも単なるお茶会かしら?
三つある中で中央に位置する山門が上掲の山門で、石柱や燈籠を前立にした重厚な門構えに加えて、参道が本堂に続くことからするとこの山門がオフィシャルみたいね。参道の右手は通用門側から見た景観を共有することになりますが、左手には茶室の不染亭があるの。右側の二枚に写る建物がその不染亭なの。
〔 不染亭 〕 不染亭は昭和の文豪島崎藤村先生が静子夫人の母堂加藤みき刀自に昭和4年(1929)に贈られた茶室で、川越市新富町に建てられて在りました。この度此処に株式会社長谷工がマンションを構築することになり、川越市当局・長谷工・藤村学会・地元有志の熱望に依り、加藤家の菩提寺星野山中院に移築することを依嘱されました。移築に当って住職並びに中村工務店は責任を以て事に当り、茶道会館に学び、表千家妙風会の尽力を得て誠心誠意遂行されました。茲に藤村先生の母堂に贈られた孝心と遺徳を偲び、昭和の川越市の文化財として長く活用し伝承して行きたいと思います。平成4年(1992)11月17日 星野山中院67世 表千家妙風会々長 仁平信海
不染亭が建てられていた加藤家旧居跡地(川越市新富町1-14-1)には現在はマンションが建ちますが、片隅に「島崎藤村ゆかりの地由来」碑が立てられているの。参考までに紹介しておきますね。
「島崎藤村ゆかりの地由来」碑
〔 島崎藤村ゆかりの地由来 〕 ここは旧町名を黒門町と云い、文豪・島崎藤村夫人静子の実家加藤家の旧居跡です。藤村と静子は昭和3年(1928)11月3日に結婚。同年12月8日に、藤村は初めて川越の加藤家を訪問。以後折に触れ、川越を訪ねてはここで歓談の時を送りました。藤村は静子の母・みきを「川越の老母」と呼んで敬愛し、感想集「桃の雫」の中で、みきから聞いた話しやその人となりを数多く記しています。昭和4年(1929)、藤村は茶人でもあったみきに茶室をこの地に建てて贈り、「不染亭(ふせんてい)」と命名しました。この茶室は平成4年(1992)11月、星野山中院(川越市小仙波町五丁目)に移築し保存されています。
不染亭から左程離れずして囲い木の中から大きな石塔の頭が見え、何かしら−と足を向けてみると歴代住持の墓所だったの。喜多院のように古碑が残されている訳でも無いのですが、中院の身の上を知る上で面白いものを見つけたの。それが中院歴代墳墓遷座記で、誌されている内容からすると、天海僧正が喜多院を中興開山するまでは、関東天台宗の本山として580余寺を束ねるなど、三院の中ではむしろ中院の方が中心的な存在だったみたいね。喜多院の隆盛で、あたかも子院の如くとなった後でも関東檀林の一つとして教学修行の道場であり続け、碑文からはその自負と誇りが感じられるの。境内の凜とした佇まいもまたその血脈故のものなのかも知れないわね。
〔 中院歴代墳墓遷座記 〕 當山は星野山無量寿寺仏地院と称す 明治維新迄は準別格寺 関東八箇檀林にして一大学院たり 開基は慈覚大師圓仁 淳和天皇の御宇 天長7年(830)大師34歳の時 仙波の霊場を奏し勅許を請ひ星野山無量寿寺仏地院の勅号を賜ふ 永仁4年(1296)秋 尊海上人仏地院を再建 関東天台の教寺580余箇寺仙波に付属す 此事天朝に達し 関東天台本山の勅許を蒙る 爾後寛永16年(1639)第29世乗鎮の時 東照宮造営に付き中院を此地に移す 爾後享保18年(1733)現本堂を再建し今日に至る
昭和48年(1973)第67世信海當山住職拝命 翌49年(1974)5月晋山式執行の際檀徒の浄財を得る 依つて発起人等計り前住昭雄師以来懸案の歴代墓地を整美す 境内墓地に散在せし墓石を此処に集め その遺徳を宣揚し菩提を弔ふものなり 凡そ此処に在るものは第31世廣海大和尚が始めにして それ以前のものは見へず 恐らく東照宮造営の砌 彼の地に取り残せしものか 依つて中興開祖師尊海上人を第一世となし 現董までを誌に刻し後世に傳ふるものなり 尚嘗て不断念佛の大道場たりし釋迦堂付属の當日回向の仏塔と法華経六十六部供養塔も安置す 維時昭和甲寅歳仲冬 星野山中院第67世大阿闍梨信海誌之
ここ中院が狭山茶発祥の地になるの。
歴代住持の墓所を過ぎて、植え込みの影に隠れるようにして「狭山茶発祥之地」碑と河越茶・狭山茶の起源が誌された石碑が建てられていたの。意外な所に意外なルーツよね。
〔 河越茶・狭山茶の起源 〕 夫れ茶は遠く平安の昔傳教大師最澄和尚中国天台山国清寺より伝来し京都に栽培せしより始まる 慈覚大師圓仁和尚天長7年(830)當地仙波に星野山無量寿寺仏地院建立に際し比叡山より茶の実を携え境内に薬用として栽培す これが河越茶・狭山茶の起源である 當山茶園の茶株を此処に移植し永く伝承す
狭山茶発祥之地
当時の僧侶達が飲んだお茶は煎茶ではなくて抹茶ですが、薬用と云うよりも養生や長寿延命をもたらす仙薬として飲用されていたの。その抹茶を薬用として最初に説いたのは栄西上人で、【喫茶養生記】には抹茶の製法と共にその効用が説かれているの。建保2年(1214)には病に伏す実朝に「良藥と稱し本寺より茶一盞を召し進す 而るに一巻の書を相副えこれを献らしむ」【吾妻鏡】と飲用を勧めているの。But 蓋を開けてみれば病ではなくて「上下盃酌數巡に及ぶ 縡美を盡くし終夜諸人淵醉すと」【同】とあるように、単なる二日酔いだったの。残念ながら追体験してみたことはありませんが、何となく、二日酔いにも効きそうな気がするわね。
釈迦堂
〔 昭和文化財 釋迦堂 〕 星野山無量寿寺仏地院釈迦堂は、念仏道場として広く而も深く信仰を集めていた。江戸時代初期第三十四世秀順和尚は、念仏三昧に入りて爾来一萬日・二萬日・三萬日・四萬日・五萬日と仏塔が建立せられ、実に百数十年の長きに亘って継承せられた。然るに昭和十九年一月不慮の火災により堂宇を焼失し今日に至る。此度檀徒総代護持会役員相謀り、秩父市上山田荒木社寺設計事務所坂本才一郎氏に依頼し堂宇を建立。社長専務両氏は、昭和の文化財を川越に残さんと原図を比叡山に求め設計・施工も当り竣功に尽力せらる。
本尊釋迦牟尼如来は仏教美術の巨匠・高村晴雲師の謹刻、十三仏・十六羅漢像は不二工芸佐藤弘師の謹刻に成る。寺墓地に建立せられし相輪塔は坂本氏の設計に成り、住職がインド仏跡聖地巡拝・中国天台山・五台山巡拝を記念し、当山伝承の仏舎利と遺跡の品々を奉納する。比叡山開創壹千貳百年記念 昭和六十二年丁卯歳夏日 入竺・入唐僧第六十七世信海
釈迦堂の左手には墓苑が広がりますが、後世に名を残した人達のお墓が幾つかあるの。But 墓石ばかりを載せるのもどうかと思い、リンクを貼ることにしました。どうしても画像を見たい−と云う方は各々のリンクをクリックしてみて下さいね。
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川越別院開山上人
面には文字がびっしりと刻まれ、墓塔と云うよりも頌徳碑なの。
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川越別院の開山と云えば石川照温よね。But 何故ここに?
開山なんだもの、普通なら川越別院の境内に葬られてしかるべきよね。
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加藤みき刀自
墓石には蓮月不染乃墓と刻まれていますが、戒名も揮毫も藤村自身の手になるの。
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加藤みきは島崎藤村の義母で、墓石には蓮月不染乃墓と彫られているの。藤村は義母みきとの折り合いも良く、思い出話を聞いては小説の情景描写の参考にしていたみたいね。
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釈迦堂常念仏大先達
個別には追究してないけど釈迦堂常念仏大先達の墓だそうよ。
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釈迦堂は「嘗て不断念佛の大道場たりし」とあることからすると、重きをなしていた僧侶達のものかも知れないわね。ところで、刀自とか大先達のことばからは修験との関係も連想されるけど。
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太陽寺盛胤一族
盛胤ではなくて、盛胤一族としているところが味噌醤油味ね。
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大陽寺盛胤は川越藩主秋元涼朝(すみとも)の家老を務めた一方で、川越地誌の【多濃武野鴈】を著したことでも知られているの。因みに、墓石は祖父・盛昌とその室、父・盛方、盛胤の母の三基からなるの。あら〜変よね、それじゃあ、肝心な盛胤のお墓はどこにあるの?
先程中院には三つの山門があると御案内しましたが、残る一つが釈迦堂に続く参道に設けられた鐘楼門なの。喜多院に残る鐘楼門は立派なものですが、対して中院のそれは閑雅で風流然としているの。その鐘楼門が建つ参道の景観を紹介しますね。
最後になりますが、その鐘楼門が建つ参道脇に新たに薬師堂が建てられたの。残念ながら単なる物見遊山など、脳天気な輩の参詣は不可−とのことで、委細不明なの。代わりに由来碑に誌される案内文を掲載して紹介に代えますね。
残念ながら脳天気な輩の参詣は不可なの。
〔 薬師堂 〕 仙波の里、星野山無量寿寺仏地院中院には昔時三堂の御堂が共存していた。本堂・釈迦堂・薬師堂がそれである。三堂にある本尊が三体揃うことで過去・現在・未来を担うと考えられている。それは即ち未来永劫に亘って輝く法の灯を祈念してのことである。昭和の中期に釈迦堂・薬師堂の両堂とも火災によって焼失したが、釈迦堂は昭和58年(1983)に古の天台様式に則って再築された。ここの建立されし薬師堂は現代的な様式にし、薬師如来をはじめ十三仏を荘厳に祀り、参拝する人誰しもが心から安らげる空間と清新さに重きを置いた。以上の歴史的背景と意義を深く思念し、長く後世に伝うべく、茲に由来を附して記念碑を建立す。平成24年(2012) 第68世 住職 仁平雄俊
25. 光西寺
こうさいじ
14:39着 14:40発
さすがは松平周防守家の菩提寺ね、山門も武家屋敷の門みたいに重厚な造りなの。
扉に彫られた紋所に御注目を。
あら〜、大変。桐の御紋よ。寄るでない、控えおろう!
この紋所が目に入らぬか!−の世界ね。
施された彫刻もまたみごとなの。一部だけでごめんなさいね。
見ている方も思わず力が入ってしまいそうね。
〔 緇川山(くろかわさん)浄楽院光西寺略歴 〕 光西寺は永禄9年(1566)、石州浜田(島根県浜田市)に恵誓法師を開基として寺が建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として崇敬されていたが、天保7年(1836)、10代藩主康爵の時、藩は日本海の孤島「竹島」を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を行って、幕府の政策に違反した。ことは幕府の密偵間宮林蔵の調べで露見し、藩は本来ならばお家取り潰しになるところ、徳川家の親藩の故を以て減刑、重臣の岡田頼母・松井図書の二人が責任をとって切腹、船頭が処刑され、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。家臣共々光西寺も棚倉に転住し東林寺に仮住まいした。
棚倉在住三十余年、維新の危機に直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に転封させ国内外の重要政務の責任者とした。慶応2年(1866)10月、光西寺も家臣と共に川越に転地し、南町養寿院門前の千手院を仮寺とした。その翌々年は明治元年、明治維新となったので、寺領も貰えず寺の建立もならず、漸く大正の末に現在の場所に小堂を建立したのである。藩についてきた寺と云うことで士族寺とか、お伴寺とか呼ばれている。
中院とは道を隔てた南側にこの光西寺があるの。これは補足のお話しですが、当時は藩主が転封する際には一族の菩提寺を伴い赴くのを常としていたの。城下町に寺院が多くあるのはそんな理由もあってのことなのですが、一族郎党のみならず、従者やその家族までを含めた大移動に伴う出費は、藩の財政を圧迫したのは想像に難くないわね。その上での菩提寺建立よ。やはり財政的に余力が無いことには無理よね。
ようやく安住の地を得て、今はこの光西寺に眠るの。
〔 松平周防守家廟所( まつだいらすおうのかみけびょうしょ ) 市指定文化財・史跡 〕
松平周防守家の本姓は松井氏で、藩祖は康親(やすちか)と称し、はじめ左近将監忠次(さこんのしょうげんただつぐ)と云った。三河以来の徳川重臣で、後に松平姓を賜った譜代の家柄である。石州浜田、奥州棚倉の藩主を経て川越に転封したのが慶應2年(1866)で、以来明治4年(1871)の廃藩置県まで康英(やすひで)・康載(やすとし)の二氏が川越藩主となり、領高は八万八百石であった。光西寺は松井家の菩提所で、現在は松井家累代之墓とあるように、松井家累代の遺骨170余柱が合葬されている。昭和33年(1958)3月6日指定 川越市教育委員会
去り際に「人それぞれの道」と題された逸文が誌された案内板を見つけたの。フランク・シナトラ Frank Sinatra が歌っていたマイ・ウェイ My Way の歌詞が連想されましたが、洋の東西を問わず、人が人として生きる上で何が一番大事なのか−は皆同じみたいね。人生を論ずる境地には程遠いξ^_^ξですが、元気が貰える逸文ですので、皆さんにも。
〔 人それぞれの道 〕 路上に立って一筋のつらなりをながめていると、自分がこれまで歩いてきた道をおもう。これからあるかねばならない道をおもう。ながいながい道であった。行手にはまだながいながい道がある。これが人の一生、どこまで行っても行き着かぬ道、誰でも、そうしても歩かねばならない道 ―――― 命のかぎりの道である。生きるとは、少なくとも、よりよくいきようとすることは、坂道を車を押して上るようなものだ。ちょっと手をゆるめると、すぐにずるずると下がってしまう。教養といい、生活といい、信仰といい、なんと困難なみちであろう。一生かかってもやり遂げられるだろうか。そう思うと、ときには気も挫ける。だが勇気・信念・絶望は常に早い、その絶望のさきにはなお道はあるのだ。歩こう、歩こう。ただ常に自分を信じて ――――― 自分の中には、まだ何かがあると信じて ――――― 人を妨げず、人に妨げられず ‥‥‥。私の道は私の道、その道を私は行く。ただ一すじの道である。幽かな命の道である。それをたどって行くものは、一つの自我、一つの仏性、いかに小さくとも、弱くとも、一人の人間、一人の巡礼、一人の求道者として ‥‥‥。( 人それぞれの道の上に、人は自分の運命を画いて行くのである。)善知識にあうことも、おしうることもまたかたし。よくきくこともかたければ、信ずることもなおかたし。(浄土和讃)浄土真宗本願寺派 光西寺
26. 川越八幡宮
かわごえはちまんぐう
14:53着 15:04発
川越八幡宮の名で親しまれている川越八幡神社
川越八幡神社は川越八幡宮又は通町の八幡様と呼ばれ、氏子崇敬者より崇められてきたが、歴史は古く、人皇第68代後一条天皇(1016-1036)長元3年(1030)甲斐守源頼信の創祀と伝えられている。長元元年(1028)下総国千葉の城主上総介平忠常が朝廷に謀反を企て、安房・上総・下総の三ヶ国を平定し破竹の如き勢いで威を八州に轟かし、大軍を起こして武蔵国に押し出した時、冷泉院判官代甲斐守源頼信(多田満仲の御子、頼光朝臣の弟)は長元3年(1030)平忠常追い討ちの綸旨を賜り、当地に於いて必勝祈願をし敵陣に切り込めば、忠常の陣中麻の如く乱れて三日三夜追い討ちして潰滅、頼信は御神威を感得喜悦して直ちに八幡神社を創祀した。
八幡神社と云えば祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)よね。
当社は平忠常の乱を平定した源頼信が神威に感謝して創建したものと伝えられているの。
長禄元年(1457)に川越城が成り、太田道真・道灌は当神社の分霊を川越城内の守護神として奉斎し、爾来川越の歴代城主城代の崇敬が深く、殊に天正18年(1590)以来城主酒井氏一族の崇敬は頗る篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次いだ。酒井氏は国替後も益々崇敬を加え、しばしば改築費や修繕費を奉納した。文化9年(1812)7月1日、姫路城主酒井雅楽頭源朝臣忠衡は御神号川越八幡宮(向鳩文字)の額並に掛物一幅を奉納、これより先寛永2年(1625)徳川家光公日光社参の折り、酒井備後守忠利は道中安泰の祈願をなし、その功により徳川家より葵紋付祭器具の寄進があった。
明治維新の際、別当万歳寺を廃寺し、川越城主の領する地の人々は当神社を氏神として崇敬した。現在の社殿は昭和48年(1973)8月より昭和50年(1975)8月までの二ヶ年間をかけて本殿・拝殿を改築、幣殿を新築、社殿は鉄筋コンクリート造り、朱塗りで屋根は銅板葺きである。〔 以下省略 〕 奉納 川越市脇田本町 遠藤義憲
祭神は八幡神こと誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)ですが、元々は武神・軍神なの。だからこそ武士は守護神として崇め、その霊験灼かなるを期待し感謝したと云うわけ。その八幡神も元は九州の一地方神に過ぎなかったのですが、ひょんなことから中央に駆り出されて、以後は出世街道まっしぐら。その八幡神の詳しいことは鎌倉歴史散策の 鶴岡八幡宮編 で触れていますので、よろしければお立ち寄り下さいね。CMでした。
本殿の左手には民部稲荷神社があるの。稲荷神社と云えば祭神は稲荷神こと倉稲魂神(うかのみたまのかみ)よね、普通は五穀豊饒をもたらしてくれる神さまなのですが、このお稲荷さんは相撲稲荷とも呼ばれ、足腰健康を御神徳とする神さまでもあるの。さて、その訳とは・・・
本殿左手に鎮座する民部稲荷神社には老狐の物語が伝えられているの。
〔 民部稲荷神社 〕 創立年代は不詳であるが、川越に感誉上人の開山した蓮馨寺がある。この感誉上人に隨従して来た人に猪鼻民部がいた。川越に土着して蓮馨寺の門前町を拓いた。ここが猪鼻町(現在の仲町・連雀町の銀座通り商店街)と呼ばれた。子孫が脇田町分に移り名主役を務めた故、猪鼻町が飛び地とされて大字脇田で八幡神社の氏子となっている。八幡神社は今は東に入口があるが、昔は脇田に向いていた。【川越索麺】によると、梵心山民部稲荷の老狐物語の伝説が記されている。
昔、八王子在に老狐が人に化身して民部と名乗り浪人になりすました。ある夜某寺の和尚が小僧にお前はいつもどこへ出掛けるのだと尋ねると、民部様のところですと答えた。和尚は驚いてかかる武士の邸宅も住まいもない所故、小僧が物の怪に憑かれたと思い、お前がお世話になる民部様にお礼を述べ、御挨拶がしたいからお越し下さるようにと小僧にお奨めしてこいと申しつけたら、早速翌日の夜分参上するとの返事であった。その夜、浪人の民部が供の者を連れて寺に参上し、和尚の手厚いもてなしと四方山話に花が咲き、話が角力のことに及んだら民部は膝を乗り出し角力自慢を始めた。早速民部の供の者と小僧と角力を取って興趣を添えた。翌朝小僧が庭掃除に行くと、昨夜の角力場の跡に狐の毛が沢山散らばっていた。これを和尚に告げると、和尚は小僧に口外を秘めさせ、民部様に礼言の使者を立てたら、民部は故あって川越の梵心山と云う所に新しく移り住むことになったと厚く礼を述べ、打身の手当を教えたと伝説に遺されている。
この梵心山に民部稲荷が古くあったが荒廃し、後に八幡神社の境内に移されて角力の絵馬額が今も納められている。打身、挫きの時角力絵馬を納めれば霊験が灼かだとされている。面白いのは角力にこじつけ、四畳半角力の水商売の人達の信仰が栄であった頃もあった。
聖徳太子が壁になってくれるとは思いもしなかったけど。
本殿の左右には他にも摂社・末社が建ちますが、最近新たに登場したのが左掲の「ぐち聞きさま」よ。「ぐち聞きさまは聖徳太子のお姿です。太子は一度に十人もの訴えを聞き分けたと云われ、苦しみ悩む多くの人の救いとなってこられました。ぐち聞きさまに自分の悩みを打ち明け、お守りを身につけ、心穏やかにお過ごし下さい」とありますので、お悩みの方は、ストレスを抱えて神経性胃炎になる前にお出掛け下さいね。尚、お守りは社務所に用意されているみたいなので、ストレス発散の後には忘れずにお買い求め下さいね。
御案内が最後になってしまいましたが、社殿の前に立つ御神木の大公孫樹は縁結びの木でもあるの。
〔 縁むすび銀杏(川越八幡宮御神木)由来 〕 平成・明仁天皇がお生まれになった御年(昭和8年12月23日生)、川越八幡宮の崇敬者によって、男銀杏と女銀杏二本を植樹したが、いつしかその二本の木は寄り添い、一本に結ばれてしまったことに由来する。固く結ばれた二本の御神木に触れ、お守りを身につけ、二度柏手を打つと夫婦円満・良縁に巡り逢うと伝えられている。
御神木の公孫樹は縁結びの木でもあるの。
この乳に触れながら祈念すると安産子宝の御神徳が得られるそうよ。お試しを。
縁あって結ばれた二人だもの、いついつまでも仲睦まじくありたいものよね。
うふふ、最初は男の子がいい、女の子がいい?−だなんて。
〔 安産・子宝の乳 〕
男銀杏と女銀杏から新たな命(乳)が誕生しました。
乳に両手で触れて、手を合わせ念じると安産・子宝のご神徳があります。
尚、良縁祈願・安産・子宝のご祈祷お守りも社務所にお申し付け下さい−とのことですので、よろしくお願いしますね。
27. 西雲寺
さいうんじ
15:10着 15:14着
地図上にその名を見つけて足を延ばしてみたのがこの西雲寺なの。川越八幡宮を後にしたξ^_^ξは、八幡通りを経てクレアモール街を歩きましたが、近づくにつれ、お洒落なショップや飲食店が建ち並び、人通りも多くなることから、きっと建物もコンクリート造りの近代的なものに建て替えられ、ひょっとしたら都内で時折見掛けるビル形式にもでなっているのではないかしら、だったら無駄足だったかも知れないわね−と一抹の不安を感じていたの。左掲の山門を目にしてようやく胸をなで下ろした次第なの。その山門にも記されていますが、現在は佛名山常行院西雲寺を正式な山号寺号とする浄土宗系寺院になるの。
この西雲寺ですが、残念ながら再三の火災に見舞われ古記録の類を焼失していることから詳しい創建年代は不詳なの。But 開山の西雲法師が正保2年(1645)に入寂していることから推して、江戸時代初期の慶長年間(1596-1614)の開創に比定されているの。前身は現・小仙波の地にあったという阿弥陀堂で、正保年中(1644-1647)の川越城の拡張工事に伴い現在地へ移転してきたの。本尊は改めて云うまでもなく阿弥陀如来で、観音・勢至両菩薩が脇侍する阿弥陀三尊像が本堂に祀られているの。
その本堂ですが、元は板橋区の仲宿にあった乗蓮寺(現在は赤塚に移転・東京大仏の名でも知られる)の旧本堂で、それを譲り受けて移築、屋根を入母屋造りに改めるなどして昭和51年(1976)に竣功したものだそうよ。以前 板橋・赤塚歴史散策 で乗蓮寺を訪ねていたξ^_^ξとしては、思わぬところで知る人に出会ったような気分なの。
日限三体地蔵尊が祀られているの。
替わって、境内の最奥部に建つのが日限三体地蔵尊を祀る地蔵堂で、寺伝に依ると宝暦4年(1754)、小笠原石見侯の藩士で松浦嘉太夫次周なる人物が瓜二つの地蔵尊を三体彫り上げ、とある高僧がその像を背負い諸国を行脚、当地に訪ね来た際に納められたものと伝えられているの。それ以来、疱瘡に苦しむ者が手を合わせると不思議なことに治癒する者が多くあったと云われているの。そんなことから病に苦しむ者あればその苦を癒やし、貧しい人には福運を与えてくれる地蔵尊として篤い信仰を集めたようね。( 逸話には別伝もあるのですが、省略しますね。)
ところで、この日限地蔵尊ですが、西雲寺では特に三、五、七の付く日を特別な日として日限り(ひぎり)を冠しているみたいだけど、元々の日限地蔵は決められた日数内で願いごとを叶えて下さると云うお地蔵さまなの。じゃあ、決められた日数って一体どの位なの?それは御参りするあなた次第よ。願いごとと共にあなた自身で期限を決めるの。例えば、今年中に眼病が治りますように−と。エッ?直ぐ治せって?そんなあなたは先ずその短気なところを治しましょうね(笑)。日限地蔵に願いごとをしたら、その日がやってくるまでひたすら精進するの。ダメよ、願いごとをしただけでは。
28. 長松院
ちょうまついん
15:27着 15:30発
散策の最後に訪ねたのがこの長松院ですが、山門も無ければ、本堂も御覧のように民家の佇まいなの。お寺なんだもの、民家越しに銅板葺きの屋根が見えるか、入口に建つ山門あるいは門柱が見えてくるハズよね−と勝手に思い込んでいたξ^_^ξがいけなかったわね。まさか、道端の小さな棒柱に長松院とあるのみとは知らず、一度通り過ぎてしまった位なの。境内は完全に駐車場化していて、建物も見た目には無住みたいなの。略縁起を誌すものも見つからず委細不明なのですが、長松院の何がξ^_^ξを惹きつけたかと云うと、地元・脇田町に残されている「乳母観音さま」の伝説なの。その観音さまを祀る観音堂が境内にあると知り、訪ねてみたいと思っていたの。
今は子育観音としての信仰を集めているようね。
むか〜し昔のお話しじゃけんども、これは川越藩の家老の奥方が、間違ってわが子を押し殺してしまったと云うお話しじゃ。ある日のことじゃった。すやすやと小さな寝息をたてて眠るわが子を見ておった奥方じゃったが、その内自分も眠くなってきてしまってのお、ちょっと昼寝でも−と添寝をすることにしたんじゃが、すっかり眠り込んでしまってのお、気がついたときにはわが子を押し殺してしまっておったそうじゃ。寝返りをうったときにわが子の口を塞いでしまったのかも知れんのお。
跡取りとしてわが子の成長をことのほか楽しみにしている夫に、誤ってわが子を押し殺してしまったなどとは間違っても云えんでのお、奥方はすっかり困り果ててしまってのお、あろうことか、罪の一切を乳母のせいにすることにしたんじゃと。城から戻って来た家老は奥方からことの次第を聞かされると、乳母を呼びつけ何度も殴りつけたそうじゃ。無実を訴えて泣き叫ぶ乳母じゃったが、跡取りを失った家老の怒りはおさまらんでのお、何と乳母の指を一本一本折っていったそうじゃ。挙げ句、手打ちにしてしまったそうじゃ。
それからと云うもの、家老の家では次々に不幸な出来事がおきるようになってのお、さすがに奥方もこれは濡れ衣を着せてしまった乳母の祟りかも知れぬと思い始めてのお、恐ろしくなった奥方はとうとう家老に一切を白状したそうじゃ。ゆめゆめそのようなことになっておろうとは思わなんだで、家老は腰を抜かさんばかりに驚いてしまってのお、乳母にはすまぬことをしたと苦しみ抜き、乳母の霊を慰めるために立派な観音像をつくると長松院に安置し、許しを乞う毎日じゃったそうな。その観音さまがこの乳母観音じゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども、今では安産やこどもの健やかな成長を願う親御さん達の願いを聞き届けて下さる子育観音でもあるそうじゃ。
紹介した乳母観音(子育観音)ですが、現在は境内と云うよりも、北側の、道を隔てた小堂に祀られているの。右隣には脇田町の山鉾山車を収める格納庫が建つので直ぐ分かると思うわ。問題はむしろ長松院の方ね。地図だと ここ よ。
29. 川越駅
かわごええき
15:41着
以上を以て今回の散策も全ての行程を終了よ。冒頭でもお知らせしましたように、実際には妙善寺の再訪と云う後行程があるのですが、何の参考にもならない失敗談なので、川越駅到着を以て完歩としますね。ところで、改めて今回の散策の所要時間を計算してみると9時間半も歩き回っていたことになるの。所々でとった休憩時間がやたらに長かったりしますが、それでも全行程を完歩出来たのは早起きのおかげね。早足の苦手なξ^_^ξの散策記なので、時間的には余り参考にならないかも知れませんが、それでも目にしたもの一つ一つをつぶさに見て行くと意外に時間が掛かったりするの。
かと云って、さらりと流し目で済ませてしまっては川越の魅力に触れたことにはならないわね。出来れば、今回のコースも二分割の上でお出掛けしてみることをお薦めしますね。それなら無理して早起きしなくても済むし、からだも楽よ。
小江戸・川越のお散歩の第一弾は仙波町を中心にして歩いてみましたが、大昔のこととはいえ、嘗ては仙波台地の間近に海が迫り来ていたとは驚きね。仙波台地からの湧水が双子ヶ池を生み、その景観が霊威を醸し出していたのでしょうね。今で云えばパワースポットよね。龍池を訪ねてみれば、史実かどうかは別にして、仙芳仙人がその霊威を感得して無量寿寺(喜多院)を開創したのも頷けるような気がするの。双子ヶ池を見下ろす丘の上に立ち、ふと瞼を閉じてみれば、打ち寄せるさざ波と共に穏やかな潮騒の音(ね)があなたの耳にも聞こえてくるかも知れないわ。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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〔 参考文献 〕
岩波文庫 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
東京堂出版社刊 大野達之助編 日本仏教史辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
信州信濃浄土出版会発行 百瀬千又編 平成小江戸川越古寺巡礼
さきたま出版会刊 さきたま文庫・27 有元修一著 柳田敏司監修 喜多院[上]歴史
さきたま出版会刊 さきたま文庫・28 有元修一著 柳田敏司監修 喜多院[下]文化財
川越市発行 川越市庶務課市史編纂室編 川越市史 第二巻 中世編 別巻・板碑
川越市教育委員会発行 川越市教育委員会社会教育課編 続・川越の伝説
川越市教育委員会発行 川越市教育委員会社会教育課編 川越の伝説
川越市教育委員会発行 川越市文化財保護課編 川越市の文化財
川越市立博物館刊 川越市立博物館・常設展示図録
有峰書店新社刊 新井博著 川越の民話と伝説
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など。
十方庵敬順著【遊歴雑記】については、国立国会図書館の 近代デジタルライブラリー より、江戸叢書刊行会編【江戸叢書】巻之五を参照させて頂きました。