≡☆ 鎌倉歴史散策−極楽寺編 ☆≡
 

鎌倉で紫陽花と云えば明月院が有名ですが、それと知られた場所を離れて小径を行けば、傍らにひっそりと咲く紫陽花にも季節は均しく巡り来ていたの。先ずは最初に鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社を訪ねてみたの。御霊神社で思わぬ紫陽花の競演を目にしたところで次の成就院へと向かいましたが、道の途中にはロマンチックな別称を持つ星ノ井や珍しい虚空蔵菩薩を祀る御堂があるの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。

御霊神社〜虚空蔵堂〜成就院〜上杉憲方墓〜阿仏尼旧居跡〜極楽寺〜月影地蔵堂

1. 江ノ電・鎌倉駅 かまくらえき

JR鎌倉駅からは江ノ電に乗り換えて先ずは長谷駅へと向かいますが、長谷と云えば長谷寺の境内に咲く紫陽花や鎌倉大仏のある高徳院を期待していらっしゃる方も多いのではないかしら。そちらは 長谷編 で紹介していますので、宜しければお立ち寄り下さいね。今回の散策では紫陽花で知られる成就院や極楽寺界隈を訪ねてみたの。江ノ電の乗車券は「のりおりくん」と云う一日乗車券を利用しましたが、割引切符などの詳しい情報は 江ノ電 を御参照下さいね。

2. 江ノ電・長谷駅 はせえき

長谷駅 鎌倉駅からは僅か5分足らずの乗車ですが、長谷駅は鎌倉大仏で知られる高徳院参詣の玄関口でもあり、週末には大変な賑わいを見せるの。But 今回の散策エリアは極楽寺界隈ですので、下車した後は左手に続く線路伝いの小径を歩きます。閑静な住宅街の中を道なりに歩くとやがて御霊神社の参道に突き当たるの。参道と云っても普通の小径なのですが、ウチダ白衣と云うクリーニング工場が角地に建ちますので、それを目印にして右折して下さいね。

3. 御霊神社 ごりょうじんじゃ

踏切 間も無く江ノ電の踏切の先に木立ちに覆われた鳥居が見えて来るの。下の写真は踏切周囲の民家の塀に植栽されていた木々や紫陽花を撮したものですが、住む方の日頃の丹精もあり、風情ある佇まいを見せてくれたの。木々の緑にしても御霊神社の御神威を得てのものなのかしら、青々としているの。あるは植木鉢の緑に、車の排気ガスにまみれた街路樹ばかりを見慣れたξ^_^ξの眼には眩しいばかりの緑でした。拝観料:境内自由

タブの木 踏切を越えて鳥居を潜ると右手に大きなタブの木に覆われるようにして社務所がありますが、そのタブの木は推定樹齢350年余で、神奈川の名木百選の一つに数えられ、鎌倉市の天然記念物にも指定されているの。その樹齢からすると古木と思われがちですが、タブの木は樹齢700年に達するものもあると云うのですから未だ未だ生長過程にあるの。その幹廻りもさることながら、枝を大きく広げた様には木の精霊が宿る面持ちがするの。

境内摂社 参道を挟み、社務所の反対側には稲荷社と秋葉社が祀られているの。このシリーズを御読み頂いている方は既にお分かりでしょうが、稲荷社は食物の神・宇迦之御魂神(うかのみたのかみ)を祀るもので、防火の神として迦具土神(かぐつちのかみ)を祀るのが秋葉社になるの。迦具土神は火を司る神で、火山の営みを擬人化したものと云われますが、人々はその神威を崇めることで災いが起こらぬようにと祈ったの。尚、稲荷社は京都の伏見稲荷から、秋葉社は静岡県・秋葉神社から勧請されているの。

宝物庫 石畳の参道脇には鎌倉江ノ島七福神の幟が立つ小さな宝物庫がありましたので、社務所の方へ声を掛けて拝観させて頂きました。この御霊神社の例祭は9/18に行われますが、その際には特異な面を被り、街中を練り歩く面掛行列が催され、この宝物庫にはその時に使用される面が収められているの。残念ながら内部は撮影禁止ですので、詳しい紹介は出来ませんが、収められている面の中には福禄寿があり、鎌倉江ノ島七福神の一つに数えられているの。奇抜な容姿に何やら異国情緒の漂う面が並びますが、元々は伎楽に用いられたものなの。宝物庫入館料:¥100

伎楽面 嘗ては鶴岡八幡宮寺で行われた放生会の際にも伎楽が奉祀されていたの。この伎楽と云うのは寺院に於いて舞楽として行われた無言の仮面劇で、古代インドのチベット地方にその源を発し、シルクロードを経て推古天皇治世期に百済から日本に伝えられたものなの。奈良時代には盛んに行われたのですが、雅楽が伝えられると次第に衰微してしまったみたいね。この面が御霊神社に帰属したのは明治期のことで、それ以前にはこの辺りに住む特定の家柄の者が伝えていたと云われているの。元々は伎楽を演ずる家系にあったのかも知れないわね。

面掛行列では阿亀(おかめ)の面を被った妊婦姿の者が中心になると聞きますが、妊婦は源頼朝のお手つきを得て身籠った女性を模したものとも云われているの。佐助ガ谷を訪れた源頼朝は麻代と云う美しい娘に出会うと一目惚れして契りを交わしてしまうの。娘は頼朝の子を身籠るのですが、娘の許に密かに通う頼朝を里人達が警護したと云われ、頼朝はその口止め料として藍摺りの衣を父娘に与え、里人には年に一度だけ無礼講を許したと伝えられているの。娘の父親は彫師で、当時の佐助ガ谷が隠れ里とも呼ばれていたことから、伎楽を演ずる者や仏師などの特殊技能集団が住み、面掛行列の中で密かにそれを伝えたのでは−とも云われているの。元々は無礼講の際に演じられた余興から始まったものなのかも知れないわね。

逸話が伝える内容の真偽はξ^_^ξには不詳ですが、若し本当なら頼朝も一年に一度行われる無礼講の際には政子にバレやしないかと肝を冷やしていたかも知れないわね。【吾妻鏡】の文治元年(1185)8/27の条には

午の刻御靈社鳴動す 頗る地震の如し この事先々の怪たるの由 景能これを驚き申す
仍つて二品參り給うの處 寶殿の左右扉破れをはんぬ これを解謝せんが爲
御願書一通を奉納せらるるの上 巫女等面々に賜物有り 御神樂を行わるるの後 還御す

と記されているの。「この事先々の怪たるの由」が具体的には何を指すのかは分かりませんが、事の露顕を畏れた頼朝は大慌てで御霊社に向かい奉斎したのかも。或いは、坂ノ下の鎮守でもある御霊社の社殿損壊を放置したとあっては里人達にいつ何時政子に事の次第をバラされてしまうかも知れないと思ったのかも知れないわね。御願書一通の中味も不明ですが、無礼講の許状だったのかしら。加えて、その際に巫女達に下賜したのが逸話と同じ藍摺二反で、鎌倉幕府半公式記録の【吾妻鏡】としては精一杯の記述?内容はξ^_^ξの勝手な想像を含みますので、呉々も鵜呑みにしないで下さいね。

宝物庫を後に石段を登るとあるのが本殿で、訪ねた時には祝詞を奏上する神職の方の姿がありました。耳を傾けていると背後からは踏切の警告音と共に江ノ電が走り抜けて行きましたが、江ノ電の走る姿も此所では周囲の景観の一つに溶け込み、不思議と違和感は感じられないの。駿馬に股がり、疾風のごとく敵陣を駆け抜けた景政神なら目の前を走り抜ける江ノ電にも乗ってみたいと常々思っているのかも知れないわね。ところで、この御霊神社は頼朝の鎌倉入部以前からある古社で、元々はこの辺りを治める大庭・梶原・鎌倉・長尾・村岡氏の祖霊社だったと云われているの。

境内 五氏は源家の御家人として活躍することから源家所縁の諸氏と思われがちですが、実は桓武平氏の流れを組む一族なの。時代は遡りますが、平安時代の寛平2年(890)、平氏の祖とされる平高望(たかもち)が5人の息子達を引き連れて上総介として上総国に赴任し、息子達もまた東国に根を下ろし地方豪族になるの。やがて高望の四男・良文は村岡姓を名乗るようになり、五男・良茂の流れから鎌倉氏が生まれ、後に長尾・大庭・梶原姓が派生するの。御霊神社はその五氏の祖霊を祀ることから五霊神社とも呼ばれていたの。

その五氏の中でもとりわけ名を挙げたのが鎌倉権五郎景政で、奥州清原一族の内紛に端を発した後三年の役が勃発すると源義家に従軍して活躍するの。当時の景政は未だ平姓ですが、その武功から鎌倉荘を安堵されると鎌倉姓を名乗るようになったの。景政が参陣したのは16歳と血気盛んな年頃で、【奥州後三年記】が語るところに依れば、金沢柵に攻め込む景政めがけて敵方の家臣・鳥海弥三郎が矢を放ち、景政の右目を射抜いたの。ところが、景政は怯むどころか右目に矢が刺さったまま、自分の弓に矢を番えると左眼で弥三郎を捉えて射殺してしまったの。

そうして、悠然と陣中に戻ると景政は三浦為次に矢を抜いてくれるように頼みますが、容易には抜けず、為次は景政の顔に片足を載せて力任せに引き抜こうとしたの。すると突然景政は刀を抜いて為次に斬りかかったの。景政!何するものぞ!と飛び退く為次に景政は「戦さに死するは武士の本懐。なれど生きてわが頭を土足で踏まれるは恥辱の極み」と説いたの。そのことばに為次をはじめ、周囲の者達からは「おお〜っ」と喚声があがったと伝えるの。そんな景政の活躍に他の祖霊神も蔭が薄くなってしまったのでしょうね、景政を祭神として祀るようになると権五郎神社と呼ばれるようになったの。

片目で遠近感が掴める訳なんかねえじゃんかよ〜などと思ってはいけないわ。景政神にその手にした大弓で矢を射掛けられてしまうかも知れないわよ。それが出来たからこそ神さまにもなれたのかも知れなくてよ。江戸時代になると、その武勇伝と共に、片目を失いながらも生還したことから、景政神は眼病にも霊験灼かとされるようになり、眼を患う人々の信仰も集めたの。全国各地に景政神を祀る御霊神社がありますが、この御霊神社はその総本社とも云うべき存在なの。

弓立ての松 社殿前の左手には「弓立ての松」の古株が残されているの。いつ頃枯死したのかは分かりませんが、中はすっかり朽ち果てて樹皮だけが残ることから大分樹齢を重ねた老松だったみたいね。景政は鎌倉のみならず平塚辺りまでの湘南一帯を開墾した荘園領主で、領地を見廻る際に立ち寄るとこの松に弓を立て掛けて休んだと云われているの。社殿の裏手には神主の方が丹精された紫陽花苑があり、咲き誇るようにして色とりどりの紫陽花が花を咲かせていたの。思い掛けないところで紫陽花の競演に出会いましたが、紫陽花と一口に云ってもこれだけの種類があるのね。

社殿背後の傾斜地に造られた規模の小さいものですが、一株一株に咲く華は見事な大輪で、日頃の丹精の賜物でしょうね。御霊神社を訪ねた際には是非御鑑賞下さいね。そんなことを云ったって今は紫陽花の咲く季節じゃないんだから無理よ〜とお怒りのあなたは左の画像をクリックしてみて下さいね。あなたを素敵な紫陽花ギャラリーに御案内します。訪ねたのは梅雨時のことでしたが、紫陽花には不釣り合いな程の好天に恵まれました。ですので、ここではピーカン照りの紫陽花も、ま、いっかと云うことでお許し下さいね。収録画像数は14枚ほどありますのでお楽しみ下さいね。

石上神社 社殿右手には石上神社が鎮座しますが、その名の如く石が御神体なの。縁起では御霊神社の前浜沖に巨岩があり、通航する船や漁師の舟がその岩に乗り上げて座礁遭難して命を失うことも多く、海神の怒りと畏怖した村人達はその岩を曳き揚げて上部を削り取ると祠に祀り、海上安全や豊漁を祈願したと云われているの。毎年7/20に行われる御供流しの神事はそれを今に伝えるもので、前浜沖で神前に供えた赤飯を流して海神の霊を鎮め、命を失った人々の鎮魂をするの。

その石上社の左手に鎮座するのが讃岐国(現・香川県)の金刀比羅宮から分霊した金刀比羅社で、海上安全の守護神なの。現在は大物主命を祭神としますが、実は、明治期の神仏分離令発布以前は象頭山金刀比羅大権現を祭神としていたの。琴平神社の背後にある象頭山は古来より瀬戸内海を航行する漁民達の信仰を集め、航海の無事を祈願していたの。後に仏教が伝えられ、現在の琴平神社が建つ地に松尾寺が創建されると、象頭山の海上守護神が金毘羅神に習合されて寺院の守護神にされたの。金毘羅はサンスクリット語の Kumbhira の音訳で、元々はガンジス川に棲む鰐を神格化したものと云われているの。

為政者や讃岐地方の有力者の庇護を受けて隆盛し、江戸時代には金毘羅参りがお伊勢参りと並んで庶民の間で広く行われるなど、全国的な信仰を集めたの。その金毘羅神も明治期の廃仏毀釈から大物主命に姿を変えさせられたの。大物主命=大国主命ですが、有名なのが因幡の白兎神話よね。ワニ達に丸裸にされた白兎ですが、鰐神の金毘羅神が大国主命に変身させられたのもそれに由来するのかしら?と云っても、【記紀】が記すワニは実は鮫だったりしますが。

石上社の右手には農耕を司る大地主神を祀る地神社が建てられていますが、大地主神は「おおじぬしがみ」ではなくて「おおとこぬしのかみ」と訓んで下さいね。ですが、大地を司る神さまなのですから、大地主の神さまと云えなくもないわね。大地は人々に豊穣を齎すことから農耕神にもなり、土地を新たに開墾した先祖を祀る祖霊神とも習合するの。景政が祭神として祀られる以前は、この地神社に祀られる大地主神こそが御霊神社の祭神だったのかも知れないわね。

御獄社 境内を更に右手に進むと御獄社が祀られているの。御獄社は長野県の御嶽神社を勧請したもので国之常立神(くにのとこだちのかみ)・大穴牟遅神(おおなむちのかみ)・少名彦神(すくなひこなのかみ)の三柱を祭神としますが、幾れの神さまも国造りを行うなど、大地とは深か〜い繋がりがあるの。国之常立神は天地創造の最初に現れた神さまで、泥を固めて大地を生成したの。大穴牟遅神とは大国主命のことで、常世の国からやって来た少名彦神と共に国造りをしているの。因みに、【一寸法師】の物語のモデルはこの少名彦神だとも云われているの。

境内の一角には庚申塔が数多く建ちますが、その内の一基では主尊の青面金剛が女性の髪を掴みあげているの。何故そんなことをしているのか皆さん御存知?庚申信仰の詳細は 庚申塔 を御読み頂くとして、庚申待ちをする夜には肉食を絶つなどの他にも、女性とHしてはいけない(笑)と云うタブーがあったの。なので、青面金剛がその禁忌を破らぬようにと、女性を取り上げていると云うわけ。

庚申塔の両側には鶏が彫り込まれていますが、庚申信仰では鶏は朝を告げる鳥として縁起の良いものとされていたの。ねえねえ、鶏が啼いてくれたわよ。やっと朝が来たわ。庚申待ちも無事に済んだみたいね。あらあら、こんなところで寝てしまって。ねえ、あなた、起きてってばあ〜。ゆうべは皆んなと大分お酒を飲んでいたみたいだけど、折角の庚申待ちを寝てしまったら意味が無いじゃないの。

第六天社 社殿右手の一角には神世七代の六代目に生まれた淤母陀流神(おもだるのかみ)と女神の阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)を祀る第六天社の小さな祠が建てられていたの。淤母陀流神は面足尊とも書かれ、大地(=面)がすべからく足りた様子から転じて、全てが整った状態を擬人化したものと云われているの。得てして男神の淤母陀流神ばかりを祀る第六天社が多い中で、ここでは女神の阿夜訶志古泥神も合祀されているの。物事にはすべからく陰陽があるように、男女合わせて初めて世界が成り立つことから至極自然なことよね。二柱は男女の容貌が成り整う過程の象徴でもあるの。貴男も貴女も、そしてξ^_^ξも、同じく大地から生まれたものなのね。

社殿の周囲を一巡りしたところで最後にあるのがこの手玉石と袂石。ボーリングのボールのようにも見えますが、手玉石は105Kgで、袂石の方は60Kgもあり、ちょっと持ち上げてみると云うわけにもいかないの。逸話では景政が手玉に取り、袂に入れて持ち歩いていたと云うのですが。百歩譲って袂に忍ばせて歩くことが出来たとしても片方だけでは重心が取れず歩き難かったのではないかしら?エッ、片眼だったから袂石を入れると真っすぐに歩けた?...(((;^^)

神社を訪ね歩くと逸話が付与された重量級の石を見掛けることがありますが、実際には祭礼などの時に余興で行われる力競べに使われたものが多いの。景政も戦さでは刀を振り回し、それなりの腕力はあったでしょうが、持ち上げることは出来たとしても袂に入れていたと云うのはちょっと大袈裟よね。ξ^_^ξなら瞬間持ち上げることが出来たとしても一歩も踏み出せない内にドスンで終りよ。当時のこの辺りの人々は半農半漁で暮らしをたてていたと聞きますので、力仕事はお手のものだったでしょうから、力自慢の人達も多かったのではないかしら。手玉石は男性用、袂石は女性用だったのかも知れないわね。

公孫樹 公孫樹

遠景

境内の右手には公孫樹の巨木が立ちますが、かなりの樹齢を重ねているようで、樹皮を見つめていると精霊の顔にも見えてくるの。見上げれば青々とした葉を付けた枝が一面に広がっていましたが、景政神や大地の守護神に見守られてここでは木々も大成するようね。嘗ての英雄も神に昇華して久しい今ではここに訪ね来る人も少なく、静かな境内となっているの。鶴岡八幡宮のような立派な社殿があるわけではありませんが、境内に立てば、当時の坂ノ下の人々の暮らしぶりも見えてくるの。景政神は眼病に霊験灼かですので、受験勉強などで疲れた目にも効き目があるかも知れないわね。気が向く儘の一日を季節の彩りの中に目を休め、しばし古人(いにしえびと)の問わず語りの物語に耳を傾けてみてはいかがかしら。

4. 和菓子・力餅屋 ちからもちや

力餅屋さん

御霊神社を後に星ノ井通りへと歩きましたが、角地にあるのがこの力餅屋さん。ドラマのロケにでも使われそうな店構えですが、創業は江戸時代の元禄3年(1690)と云うのですから300年余も営業を続ける老舗ですね。こちらではこし餡をのせた搗き立ての力餅が名物なの。勿論、無添加無着色は老舗のこだわりよ。ところで、元禄と云えば庶民の暮らしも豊かになって来た時代ですよね。景政神が眼病に霊験灼かとされるようになると旅姿の参詣客も多くなり、この力餅屋さんは茶店として店開きしたのかも知れないわね。But 未確認ですので鵜呑みにしないで下さいね。

5. 星ノ井 ほしのい

星ノ井

道を極楽寺方面に歩くと程なくして白幟の旗めく虚空蔵堂が見えて来ますが、その門前にあるのが星ノ井なの。嘗ては鎌倉十井の一つにも数えられ、当時は鬱蒼とした木々に覆われて昼間でも井戸水には星影が見えたことから星月夜ノ井とも呼ばれていたのだとか。誰が名付けたのかは分かりませんがロマンチックな名前よね。But その星影も、ある時近在の女性が井戸に菜刀を落してからは見えなくなってしまったと云われているの。今では蓋に覆われ、中を覗くことさえ出来ませんが、清らかな湧水は昭和初め頃迄この切通しを通る旅人に売られていたと伝えるの。

6. 虚空蔵堂 こくうぞうどう

星月夜ノ井に続く石段を登ると虚空蔵堂が建ちますが、最初に目にするがこの舟守地蔵なの。当時の坂ノ下には漁を生業とする人々も多く住んでいたことから海上安全や大漁祈願、水難海難に霊験灼かなお地蔵さまとして信仰されていたと伝えられているの。また、いついつ迄にと期日を指定して御参りすれば願いがかなうと云う日限地蔵としての信仰もあり、気性が荒くて気の短い漁師さん達には甚だ都合のいいお地蔵さんだったみたいね。現在でも海上輸送など船舶に関係する方々が参詣し霊験灼かと聞きますので、その方面の方は是非御参拝下さいね。漁師さん達の短兵急な願いに鍛えられた舟守地蔵ですので、御利益は直ぐに現れるかも。

虚空蔵堂は現在ではこの後に紹介する成就院持ちですが、縁起ではその開創は何と奈良時代の天平年間(729-749)と云われているの。諸国を遊行していた行基がこの地を訪れた際に星ノ井の中に光輝く石を見つけ、虚空蔵菩薩を感応した行基は御堂を建てて祀ったと云うの。その名も明鏡山円満院星井寺で、由緒書には頼朝の参詣や仏像の奉納があったことが記されていますので、その頃は未だ独立寺院として営まれていたのでしょうね。堂内には日本三虚空蔵の一つに数えられる貴重な虚空蔵菩薩像が安置されていると云うの。

ところで、虚空蔵菩薩とは耳慣れない仏さまですが、乱暴な云い方をすれば虚空とは全てを包含した大宇宙のことで、それを蔵しているのですから、まさに大宇宙を象徴する仏さま。その功徳もまた広大無辺で、虚空蔵菩薩を拝すれば全ての仏さまを拝んだことになるとも云われているの。そうは云っても、行基が感応した頃は虚空蔵求聞持法の主尊として、法を修すれば抜群の記憶力と広大無辺の智慧を授けてくれる仏さまだったの。地蔵菩薩は普段不信心な人であっても地獄の艱難辛苦からお救い下さることから地蔵信仰として庶民の間では爆発的な流行をみますが、虚空蔵菩薩の功徳である智慧には興味が無かったみたいね。

その像容は左手に如意宝珠のある白蓮華を持ち、右手は掌を外に向けた与願印を結ぶとされているの。与願印は安心を与え、願いに応える印ですので、清らかな心で拝すれば頭を垂れるあなたに広大無辺の慈悲と智慧を授けてくれるの。嘗ては35年に一度開帳される秘仏でしたが、最近では毎年1/13、5/13、9/13に行われる護摩供養の際に開帳されると聞きます。そのお姿を是非この目で見てみたいの−と云う方は機を捉えてお出掛け下さいね。虚空蔵菩薩像の前立像は頼朝が奉納したもので運慶作とも云われていますので、興味のある方は併せて御堪能下さいね。

7. 極楽寺切通し ごくらくじきりどおし

極楽寺切通し

虚空蔵菩薩の御尊顔を拝さなかったからかしら、一向に賢くなった気がしないのですが、虚空蔵堂を後に緩やかな上り道を歩いて成就院へと向かいました。星月夜ノ井のある辺りから続くこの道が極楽寺切通しで、今では道幅も広くとられて車の交通量も多い道となっていますが、嘗ては成就院が建つ辺りまでの高さを登る急勾配の道だったの。当時の面影を今に求めることは出来ませんが、道の傍らに並ぶ苔むした石仏達は時代の流れを静かに見続けて来たのでしょうね。因みに、切通しとは山の尾根部分を掘り下げて通行可能としたもので、この極楽寺切通しは後程紹介する忍性上人が開創したものと伝えられているの。

極楽寺切通し この切通しが造られる以前は、稲村ガ崎が京都〜鎌倉間の往還路でしたが、【海道記】に依れば「さがしき岩の重なり臥せて浜を伝へ行けば 岩に当りてさきあがる浪の 花の如くに散りかかる」状態で、海が荒れる日などは通行不能だったみたいね。鎌倉には多くの往来者があり、忍性上人は通行に難儀する人々の様子を黙って見てはいられなかったのでしょうね。嘗ては大仏坂・化粧坂・亀ヶ谷坂・巨福呂坂・朝夷奈・名越の切通しと共に鎌倉七口の一つに数えられ、鎌倉防衛を担う戦略上の重要拠点でもあったの。

三方を山に囲まれた鎌倉は天然の要塞でもあり、交通路を新たに敷設することは有事の際には攻め込む側に利すると云うことでもあり、果たして元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際には化粧坂・巨福呂坂と共に主戦場になっているの。その時の様子を【太平記】の稲村崎成干潟事の段では

去る程に極樂寺の切通しへ向かひたる大館次郎宗氏 本間に討たれて兵ども片瀬腰越まで引き退きぬと聞へければ 新田義貞逞兵二萬餘騎を率いて 二十一日の夜半ばかりに 片瀬腰越を打ち廻り 極樂寺坂へ打ち莅み給ふ 明け行く月に敵の陣を見給へば 北は切通しまで山高く路嶮しきに 木戸を誘へ垣楯を掻きて 數萬の兵陣を雙べて竝み居たり

と記し、引き続き鎌倉兵火事付長崎父子武勇事の段では

去る程に濱面の在家竝らびに稻瀬河の東西に火を懸たれば 折りしも濱風烈しく吹き布れて 車輪の如くなる炎 黒煙の中に飛び散りて 十町二十町が外に燃え付きる事 同時に二十餘箇所也

と伝えるの。地獄谷を覆い尽くすようにして赤々と燃え上がる焔の中で、互いの軍勢数万騎が入り乱れて死闘するさまは正に地獄絵図だったでしょうね。その戦火を受けて忍性上人が開山した極楽寺が被災してしまうのは皮肉と云えば皮肉な結末よね。

極楽寺切通しは北条義時の三男・重時が出家して草堂を結ぶ際に資材運搬に供する道として開創されたとする異説もあるの。その際に道路敷設などの社会事業に経験豊かな忍性上人が駆り出され、それが縁で重時との関係が深まり、極楽寺の創建に繋がったとされるの。当時の時代背景からするとこの異説の方に軍配が挙がるような気もするわね。

8. 日限六地蔵 ひぎりろくじぞう

成就院への石段が目の前に見えて来たところで道の右側にお地蔵さんの並ぶ小さな建物を見つけて何かしら?と訪ねてみたのがこの日限六地蔵なの。護持会の方々が記した案内板には−当地蔵尊は道行く人々をお守り下さり、お地蔵様の目の届く範囲で事故が起きても大事に到らないと云われ、また善男善女が邪心を捨て心を清く持ち、願い事を期日を極めておすがりすればその期日迄に功徳が頂ける有り難いお地蔵様であるとしていつの世にか日限地蔵と称されるようになったと伝えられています−と記されているの。

当時の感覚からすると極楽寺切通しがある辺りは村境でもあり、鎌倉を離れて遠出する旅人達にとっては異界へと通じる道だったの。異界とはちょっと大袈裟過ぎるんじゃないの?何て思ってはいけないわ。今と違い、旅先で病に倒れて命を失うこともあり、旅人を襲う山賊や盗賊も多くて当時の旅はまさに命懸けだったの。人々は村境などにお地蔵さまを祀り、手を合わせて旅の無事を祈願していたの。鎌倉時代になるとお地蔵さまが我が身を分かちて地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の辻に立ち、迷える衆生を救済してくれると云う六地蔵信仰が隆盛し、人々は死後に於いて六道の幾れに堕ちても救済して下さると云うお地蔵さまに日々の安寧を祈願するようになったの。そんな六地蔵が、ここでは日限地蔵としての性格を持つようになったのも、前述の舟守地蔵と同じように、坂ノ下に住む漁師さん達が多く御参りしたからかしら?

お地蔵さま、きょうこそは大漁にしてくれねえと明日喰う米もねえんだ。
かかあの奴も目をつりあげてるんで何とか頼んますよ。

案内板には続けて「近年になり盗難・悪戯が激しく、事もあろうに心ない酔漢に依り佛像が破壊されるに至りました。これ等保護の為止むなく見苦しいシャッターを取り付けました」と記されているの。殺伐としたニュースが頻出する昨今ですが、口も聞けずに抵抗する術を知らないお地蔵さまに怒りの矛先を向けるとは。辛い時代になりましたね。我が身を顧みず、身を粉にして衆生を艱難辛苦から救済して下さるお地蔵さまなのですから、呉々も優しく見守ってあげて下さいね。

9. 成就院 じょうじゅいん

参道 参道 参道

日限六地蔵に旅の安全を祈願したところで成就院への参道石段を上り始めましたが、沿道の紫陽花はまさに見頃を迎えて大勢の方々が訪ね来られていました。石段の数も煩悩の数に合わせた108段からなり、紫陽花も般若心経の字数に因み、262株が植えられているのだとか。難しい理屈はさておき、先ずは右端の画像をクリックしてみて下さいね。あなたを素敵な紫陽花ギャラリーに御案内しますね。

参道 参道

山門 参道の石段を上り切るとあるのがこの山門で、扁額には普明山とあるように、正式な山号寺号は普明山成就院法立寺なの。寺伝に依ると、江ノ島に訪ね来た弘法大師こと空海上人が、この地で100日間にわたり護摩を焚いて虚空蔵求聞持法を修したと云われているの。その護摩壇跡地に承久元年(1219)、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時が京から高僧を招いて創建したもので、元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの際に火を放たれ灰塵に帰し、江戸時代の元禄年間(1688-1704)に再建され、現在に到ると伝えるの。

境内 境内 龍神 本堂

ナツツバキ 山門を潜り抜けるとこじんまりとした境内ながらもそこかしこに花が咲いていたの。本堂左手にはナツツバキが枝を広げていますが、むか〜し昔、あるお坊さんが話しに聞く沙羅の木が日本にもないものかと山中を探し歩いていたところ、このナツツバキを見つけて「これこそ沙羅の木に違いない」と思い、以来、このナツツバキを以て沙羅双樹としたの。沙羅の木はインド北部を原産とする熱帯地方のものですので、日本に自生する訳はないのですが、ナツツバキには沙羅の木を連想させる佇まいがあったのでしょうね。

本堂の手前にはイワタバコが群生しているの。葉の形がタバコの葉に似ることから名付けられたものですが、似ているからと云ってタバコにはならないの。鎌倉では寺院の境内などで湿り気を帯びた岩肌に群生する光景を良く見掛けますよね。紫色の可憐な花を咲かせていましたが、葉は若葉の頃には摘み採って食用とすることが出来るそうですが、どんな味がするのかしら。タバコと一緒で、苦味走った大人の味がするのかも知れないわね。

太子堂 本堂の右手奥には聖徳太子を祀る八角堂と呼ばれる小堂がありますが、法隆寺の夢殿を模したもので、大正10年(1921)の聖徳太子1300年忌を記念して建てられたものなの。聖徳太子は法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書【三経義疏】を著わすなど、仏教への深い造詣もあり、十七条憲法では「篤く三宝を敬へ 三宝とは仏法僧なり 則ち四生の終帰 万国の極宗なり」と、最大限の奨励をしているの。そんなことから日本仏教の始祖と仰がれてもいますので、その遺徳を慕んで建立したものでしょうね。

子安地蔵 木々に覆われた境内の一角には子安地蔵が祀られているの。この子安地蔵を拝すると子供が授かる功徳が得られると云うことですので、そろそろウチのダンナさまにもパパになってもらおうかしら−と思われている方は足をお運び下さいね。子安地蔵は子供の守り神でもあり、お母さんになったあなたが健やかな我が子の成長をお祈りしても勿論聞き届けて下さるの。これから相手を探さなきゃ−と云うあなたは先ず本堂の不動明王にお願いしてみて下さいね。成就院のお不動さまは縁結び不動とも云われているの。両手を合わせた後は縁結びのお守りも忘れずにネ。

菩提樹 その子安地蔵の傍らにあるのがこの菩提樹の木。お釈迦さまがその樹下で悟りを開いたことから名付けられたと云うのですが、お釈迦さまが目にしていたのは本当はインド菩提樹でくわ科の落葉高木なの。日本の寺院で多く見掛ける菩提樹はしなのき科ですので本来のそれとは違うの。どこでどうすり変わってしまったのかは分かりませんが、前述のナツツバキと同じような理由かしら。それとも贋菩提樹の実の種子を使い、数珠が作られたことから本種のインド菩提樹に結びつけられたのかしら?

菩提樹 菩提樹 成就院さん、ごめんなさいね、いちゃもんつけて。因みに、菩提樹の菩提は道・智・覚を表すサンスクリット語の Bodhi の音訳なの。道を智覚すること、則ち、悟りと云うことね。幾れにしても菩提樹にいちゃもんをつけるようでは悟りは開けそうにもないわね。

順路を辿り、境内中央に戻る途中に不動明王が祀られていますが、本堂内に祀られる本尊の不動明王像は拝観出来ませんので、この像はその身代わり不動なの。忿怒の形相からはおよそ縁結びの御利益があるようには見受けられませんが、真摯な願いには目を細めるのかも知れないわね。同じ明王でも、愛染明王は人々の愛情や情欲さえも肯定する優しい明王なの。その像容にしても愛のキューピットのように弓を持っているの。ひょっとして成就院のお不動さまはその愛染明王の化身だったりして。

ところで、気になるのがこのアクリルケースに入れられた謎の物体ですが、明王像よりも大事にされていることから何か特別の意味があるものなのでしょうが、何の説明も無いの。護摩炉のようにも見受けられるのですが。真言宗でも、とりわけ密教系では護摩壇に焚かれる焔を前に読経する光景を目にすることがありますが、護摩はサンスクリット語の Homa を音訳したもので、智慧の焔で煩悩を焼き尽くす様子を表しているの。元々は加持と呼ばれる仏道修行の一つだったのですが、現世利益的な祈祷が行われるようになると、加持と祈祷が十把一絡げになってしまったの。

普段ξ^_^ξ達が願い事を記した乳木を燃やして貰い、家内安全や商売繁昌を願うのは護摩は護摩でも祈祷の方なの。道理で一向に煩悩が減らないわけよね。忿怒形の不動明王に睨まれたところで成就院を後にしましたが、境内には御覧のような花々も咲いていたの。

ハマナス 躑躅 躑躅

ヤマボウシ 山門脇ではヤマボウシの木が白い花を咲かせていましたが、最初に見た時には花とは知らずに、病気になっちゃったのかしらと思ったの。写真では分かりませんが、花のように見える白い部分は実は花ではなくて苞なの。本当の花はその苞片の中央に小さくあるの。漢字で書くと山法師ですが、山法師が僧兵を指すように、花の咲く様子が僧兵の丸坊主に白頭巾の出で立ちに似ることから名付けられたと云われているの。

ところで、左の写真に御注目下さいね。山門前の木立ちの中に枝豆みたいな実をつけた木を見つけたの。この〜木なんの木、気になる木ですから〜と某社のCM状態。実があると云うことは花が咲くと云うことよね。見たことも〜ない〜花が咲くでしょ〜お〜と大いに気になるところ。どなたか御存知の方、いらっしゃいます?

10. 上杉憲方墓 うえすぎのりかたのはか

桜橋

石標 成就院から極楽寺方面に向かうとこの桜橋が見えて来ますが、左脇を注意しながら歩いて下さいね。道の傍らに御覧の石標が建てられているの。刻まれた文字も風化してしまい判読が不能ですが、この石標に続く石段を上り、小径を突き進むと上杉憲方の墓と伝えられる石塔があるの。御覧のように五基の石塔が並び建ちますが、七層ある多層塔が上杉憲方のものとされているの。他の石塔も所縁ある人達のものと思われるのですが風化してしまい、今となっては誰のものなのかは分からないの。上杉憲方は山内上杉家の祖とされる人物で、明月院を開基したのも彼なの。と云っても当時の明月院は北条時宗が創建した禅興寺の塔頭に過ぎなかったのですが。

その明月院にあるやぐらは憲方の墓だとされ、後に紹介する極楽寺に埋葬されたと云う説もあるの。この石塔にしても生前に死後の冥福を祈って建てた逆修塔なの。ところで、上杉憲方と聞いてもピンと来ないかも知れませんが、憲方の家系からは後に有名人が現れているの。上杉氏と云えば上杉謙信よね。山内上杉家の祖とされる憲方ですが、彼自身も上杉氏の分流で、その上杉氏にしても元々は藤原氏の分流ですので、血脈を辿ると人類みな兄弟になってしまいそうね。取り敢えず上杉謙信の御先祖さまと云うことで頭の片隅にでも書き留めておいて下さいね。

11. 阿仏尼旧居跡 あぶつにきゅうきょあと

阿仏尼旧居跡

極楽寺通りに戻り、江ノ電を跨ぐ桜橋を越えると極楽寺があるのですが、その前に足を延ばして阿仏尼の旧居跡を訪ねてみることにしたの。なので、桜橋は渡らずに道なりに歩いて極楽寺駅前を一度通り過ぎて下さいね。極楽寺通りと江ノ電の線路との間には民家が建ち並びますが、線路沿いに向かう脇道が見えて来たら右折して下さいね。ちょうど江ノ電の車庫がある辺りになるの。後は線路伝いの道を2,300m程歩いた踏切の傍らに阿仏尼の旧居跡を示す石碑が建てられているの。阿仏尼は【十六夜日記】の作者として知られますが、彼女は60歳と云う高齢を前にして鎌倉に下向して来たの。詳しいことは扇ガ谷編の 阿仏尼墓 の項を御笑覧下さいね。

そんなの面倒くさいわ−と云う方に概略だけお話しすると、彼女の夫は藤原定家の次男・為家ですが、為家には先妻との間に出来た為氏と云う息子がいたの。為家の存命中はどうにか収まっていた所領問題がその死後に以外な展開になるの。譲状の記述が曖昧で所領は為氏の預かりとなってしまうの。それを知った阿仏尼は歌道の名門としての将来を案ずると共に、経済的な支えを失っては家門の繁栄は有り得ないと、所領の帰属の裁可を朝廷や幕府の出先機関である六波羅探題に願い出るの。

阿仏尼旧居跡碑 けれど、埒のあかぬ態度に業を煮やした阿仏尼は最高機関である鎌倉幕府への直訴を決断するの。そうして高齢の身をおして東下してくるのですが、その道中の折々の情景などを和歌を交えて詩情豊かに書き記したのが【十六夜日記】なの。鎌倉に下向して来た阿仏尼ですが、当時の幕府は元寇襲来と云う未曾有の国難に忙殺され、土地の帰属問題どころでは無かったの。長期戦を覚悟した阿仏尼が居を構えたのがこの月影の谷(つきかげのやつ)なの。今でこそ住宅も密集して建ちますが、当時は阿仏尼のことばを借りると「浦近き山もとにて風いとあらし 山寺のかたはらなれば 長閑にすごくて 浪の音 松風たえず」の状態。【吾妻鏡】には今と違い、冬には鎌倉でもかなりの積雪があったことが記されますが、ファンヒーターなんて無かった時代のことですから、寒風吹きすさぶ環境は高齢の身にはとりわけ堪えたでしょうね。

12. 極楽寺 ごくらくじ

阿仏尼旧居跡を後にして極楽寺駅前を再び通り抜けて桜橋まで戻りましたが、橋の左手にあるのが極楽寺。文久3年(1863)に再建されたと云う茅葺きの山門が風情を以て迎えてくれました。傍らには略縁起を記した案内板が立てられていますが、海外から来られた方が見入っていましたので、ξ^_^ξも気になり読んでみたのですが、英語では何と書かれているのかしらと横文字を追ってみると、まるっきり別のことが書かれていて。この案内では折角訪ね来られた海外の方には余りにも不親切だと思うのですが。先ずは日本語の文章から紹介してみますね。

霊鷲山極楽寺と号し、開山は忍性菩薩です。
忍性は広く慈善救済事業を行い、人々から尊崇されました。
本尊の釈迦如来像は秘仏で重要文化財に指定されています。

これが英語では

This temple was originally established in 1113 in Fujisawa
and moved to its present site in 1259.

とあり、この寺は藤沢の地に1113年に創建されたもので1259年に現在地に移された−と云うことで、これを読んだだけでは「だからなんなのよ?」と思ってしまうわよね。宗教や習俗など異なる文化圏から訪ね来られる訳ですから、日本語の文面をそのまま英訳しても無理があるかとは思いますが、「忍性は広く慈善救済事業を行い、人々から尊崇されました」のところは触れて欲しいものよね。極楽寺を語るとき、忍性上人と慈善救済事業はキーワードなのですから。じゃあ、てめえだったらどう書くのさ−と云うことで、こんなのはどうかしら?

The Gokurakuji temple was establised in 1259 by Ninshou.
He had been involved in many charitable activities, also highly respected as a Buddhist.

山門 思いっきり脱線してしまいましたが、ξ^_^ξの戯れ言とお許し下さいね。ところで、この山門から先の境内は残念ながら撮影禁止なの。殺風景な誌面になるのも気が引けて、門前に咲いていた花々を貼り付けてみたの。決して境内に咲いていた訳ではありませんので予め御了承下さいね。観光地にある寺院などでは外国人の方が漢字で撮影禁止と書かれていてもバシャバシャ写真を撮しているのを見掛けたりすると羨ましいと思うこと頻りです。外国人になりた〜い。「ワタシ、カンジ、ワッカリマセン」(笑)

石標 この極楽寺は元々は正永上人と云う僧侶が正嘉年間(1257-59)に深沢の地に建てた極楽寺が前身なの。お寺と云うよりは草堂のようなもので、上人亡き後は廃寺となっていたみたいね。それを北条義時の三男・重時が現在地に再建したの。前極楽寺と重時の接点が不詳ですが、寺地の選定に際して重時は当時鎌倉で律宗弘法のために多宝寺(廃寺)に住していた忍性上人に相談するの。忍性上人は奈良・西大寺の叡尊律師に師事して戒律を学び常施院を開くなど、奈良在住時から慈善事業を行い、それなりの知名度はあったみたいね。重時にしても六波羅探題などの幕府要職を務め、執権を補佐する連署にもなり、一方で信濃・若狭などの守護を経ていることからそれなりの財力もあったようね。その忍性上人が適地として勧めたのが当時地獄谷と呼ばれていたこの地なの。建長寺が建つ辺りも嘗てそうであったように、この極楽寺が建つ辺りも死人の遺骸が捨て去られる場所だったの。それなりの地位にある人なら別ですが、今と違い庶民は専ら風葬で、早い話しが放ったらかし状態ね。

「地獄谷に極楽寺を建つるべし 衆生を救うことこそ仏の道 則ち天下安泰と知りぬべし」そんなことを重時に云ったかどうかは分かりませんが、おどろおどろした土地を選んだのも庶民への慈善事業を行って来た忍性上人ならではの発想なのかも知れないわね。

重時の命を受けて正元元年(1259)、寺院建立の槌音が地獄谷に響き渡るようになるのですが、重時はその完成を待たずして亡くなってしまうの。その遺志を継いで伽藍を完成させたのが重時の子・長時と業時で、忍性上人を開山に迎えて新しい極楽寺が創建されたの。その後上人は幕府とも積極的に関わりを持つようになり、蒙古襲来時には異国退散の祈祷を行い、頼朝が創建した永福寺の別当にもなっているの。後には奈良・東大寺や天王寺の要職を務め、悲田院や敬田院などの慈善事業施設を再興し、勧進聖として架橋や道路建設などの社会事業も行っているの。その数にしても生涯に於いて寺院建立83ヶ寺、架橋189脚、道路施設71ヶ所に及んだと伝えられているの。

晩年鎌倉に戻った忍性上人は極楽寺にも施薬・悲田・福田院などの慈善救済施設を造り、癩病などの疫病患者を収容・施薬したの。癩病とはハンセン氏病のことで、現在では完治可能ですが、当時は伝染性で不治の病とされていたの。極最近までハンセン氏病の方に対する偏見があったことを御存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、当時の感覚からすると、そう云った病人を療養することは極めて画期的なことだったの。寺伝では収容された人々は20年間で何と57,000人にも及んだと云うの。医者は仁術であることを忘れ、診療拒否する病院もあると聞く昨今、ちょっと考えさせられてしまいますね。

参道

悲田院は身寄りの無い老人や孤児を養い、福田院は貧しい者に施しを与えるための施設ですが、忍性上人は牛・馬などの家畜にも病舎を建てて療養したの。動物病院が当たり前になったのは最近の話しですよね。ξ^_^ξは未だ嘗て歴史上にそんなことまでした僧侶を他には知りませんが、その桁違いの善行に当時の人々は医王如来として崇めたの。それこそ当時の庶民にしたらまさに神さま、仏さまに見えたでしょうね。その忍性上人も嘉元元年(1303)に87歳で入寂するの。その遺業から後醍醐天皇は後に菩薩号を諡号していますが、忍性菩薩の称号はそれに由来するの。

創建当時には七堂伽藍を備えて49院を数える堂宇が建ち並び、現在のそれとは比較にならないほどの広大な敷地を有し、極楽寺切通しを開創したのが忍性上人なら、その切通しから南は稲村ガ崎に至る寺域にも堂宇や療養所などの建物が並び建っていたの。稲村ガ崎の交通路は難所だったことから切通しの開創となったのですが、皮肉なことに元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは極楽寺の門前が主戦場の一つになってしまうの。極楽寺はその戦禍の煽りを受けて被災し、建武元年(1334)に第二陣が攻め込むと、戦禍ばかりでなく、狼藉や略奪も受けたの。

鎌倉幕府の滅亡で経済的な支援を失った極楽寺ですが、後醍醐天皇の勅願寺でもあったことから関東管領職の足利家や執事・上杉氏の保護を受けて復興するのですが、その後度重なる震災や火災を経て昔日の面影を失ってしまうの。頂いてきた栞に掲載される極楽寺古伽藍図には七堂伽藍を取り囲むようにして6社ほどの鳥居が建つことから多くの境内社があったことが窺い知れますが、明治期の廃仏毀釈から切り放されてしまったみたいね。

前置きが長くなってしまいましたが、境内の御案内をしましょうね。山門の通用門を潜り抜けて木々に覆われた石畳の参道を歩くと左手に百日紅の巨木が見えて来るの。樹齢は不明ですが、開花時期は7〜9月に掛けてのことと聞きますので、その頃には極楽を思わせる風情が境内に溢れるのでしょうね。境内の右手には宝物殿が建ちますが、その右手にあるのが八重一重咲分桜で、北条時宗お手植の古株より生長したものと伝えられているの。

どの辺りになるのかは分かりませんが、鎌倉の桐ヶ谷に咲いていたことから桐ヶ谷の名を以て知られ、薄紅色の八重と一重の花が一枝に一緒に咲くと云う珍しい品種の桜なの。嵯峨天皇行幸の砌、あまりの美しさに幾度となく御車を返された故事に因み、別名「御車返しの桜」とも云われているの。その桐ヶ谷も鎌倉ではこの一本だけになってしまったみたいね。云わば血脈の正統と云うところかしら。残念ながら花はξ^_^ξも写真でしか見たことがありませんが、気になる方は季節を捉えてお出掛け下さいね。

その「八重一重咲分桜」に並ぶようにして木陰には寛文11年(1671)の銘を持つ 庚申塔 が建てられているの。阿弥陀如来を主尊に三猿を底部に刻む舟型の大きなものですが、嘗ては別な場所に祀られていたものがこの地に移されて来たものみたいね。

宝物殿の石段左手には製薬鉢と千服茶臼が残されているの。製薬鉢は施薬のために使用したもので、その大きさからは当時の極楽寺には多数の療養患者がいたことが窺い知れるの。民俗資料館などで薬研を見ることもありますが、そんな小さなものでは間に合わなかったのね。一方の茶臼ですが、当時はお茶の葉を粉にした抹茶が延命長寿や療養に効果があるとされ、仙薬として飲用されていたの。最近はお茶に含まれるカテキンの効能に着目して健康飲料や雑菌の繁殖を抑える洗剤などにも使用されていますが、先人達はそれを経験的に理解していたのね。

多くの寺宝を抱える極楽寺ですが、転宝輪殿と名付けられた宝物館にはその一部が展示されているの。極楽寺の本尊は京都・清凉寺のそれを模した釈迦如来立像で、国の重要文化財にも指定されているの。清凉寺様式と呼ばれる特徴のある像容だと云うのですが、残念ながら秘仏で、普段は厨子の扉も閉じられていて拝観出来ないの。どうしても見たいの!と云う方は4/7〜4/9に行われる花まつりの際にお出掛け下さいね。

館内には岩見国(現・島根県)の勝達寺の本尊として祀られていた平安期造像の不動明王像や、鎌倉期に彫像された十大弟子像などが安置されているの。鎌倉時代の塑像の特徴として目が水晶で造られていることが挙げられますが、間近に拝観することが出来ますので御確かめ下さいね。十大弟子とはお釈迦さまの高弟10人ですが、戒行第一とされる羅睺羅(らごら)はお釈迦さまの実子とされているの。出家以前に出来た子供とのことですが、お釈迦さまに実子がいたなんて初めて知りましたが、お釈迦さまも最初の頃は同じく人の子だったのですね。そんなことを知ると遙か向う岸のお釈迦さまも身近に感じられるのではないかしら。

館内には他にも転法輪印を結ぶ、全国的にも珍しい転法輪釈迦如来像が安置されているの。説話では釈迦の前世は七色に輝く美しい鹿だったと云われ、住み処としていたのが鹿野苑。転法輪印はその鹿野苑で釈迦が初めて説法した時に結んだ印なの。両手を胸の前に構えて掌と指を捻じる姿は右手で受けた仏法を左手で衆生に授ける姿を現しているの。

折角の寺宝を展示する宝物館ですが、入館される方は余りいらっしゃらないようですね。それを良いことに受付される係りの方としばし歓談してしまいましたが、展示される仏像もその多くは新田義貞の鎌倉攻めの際に略奪や盗難に合い、各地に散逸していたものを戦後になって少しずつ返還や買い戻しをして来たものと聞きました。遙かなる時を経てようやく一堂に会することが出来たわけで、極楽寺の住持となられた方々の御尽力の賜物ですね。

ところで、御存知の方がいらっしゃいましたら御教示頂きたいのですが、館内に掲示されていた寺史の中で忍性上人の業績として「弘長元年(1261)、鎌倉清凉寺釈迦堂に住す 北条時頼の病気平癒を祈願す」とありましたが、この鎌倉清凉寺釈迦堂と云うのはどの辺りにあったのかしら。実はこの疑問を端緒に係の方と歓談が始まったのですが、残念ながら御存知ではないと云うことでした。調べておきますね−と御丁寧なおことばを頂きましたが、再訪することも無く今日に至っているの。

境内の中央には本堂が建ちますが、元々は建治元年(1276)に建てられたもので、大正12年(1923)の関東大震災で倒潰してしまい、現在の堂宇は元の構造に従い再建されたものなの。その本堂左手には弘法大師を祀る大師堂が建てられ、手前には子育地蔵が祀られているの。一角には山門前を掘り起こした際に発見されたと云う極楽寺の井の遺構があるの。鎌倉石を8段程積み上げたもので、忍性上人はこの辺りで療養する人々にお粥を施したと伝えるの。お粥はお粥でも薬湯に近いもので、授かる人々もその効能に期待すると共に、上人と身近に接することが何よりの功徳と信じていたのかも知れないわね。

その忍性上人も嘉元元年(1303)に極楽寺で入寂するの。齢87歳と伝えられていますが、荼毘に伏された後はその遺骨も上人の遺志から三ヶ寺に分骨されたの。勿論、その一つはこの極楽寺。本堂左手に続く脇道を辿った奥の院には忍性上人の墓所があり、高さ4m程の五輪塔(国重文)が建てられていると云うのですが、こちらも普段は非公開なの。前述の花まつり開催期間中の4/8のみ開門されると聞きますので、本尊の釈迦如来立像と併せて御覧下さいね。

13. 導地蔵堂 みちびきじぞうどう

導地蔵堂 導地蔵

桜橋の傍らには導地蔵堂があるの。導地蔵とは聞き慣れないお地蔵さまの名ですが、極楽寺の門前にあることからこの場合の導くとは死者をあの世に無事送り届けることを指し、この地蔵堂を境にしてあの世とこの世に分かれ、六道の辻は遺族が死者を見送る場所でもあり、お地蔵さまを祀って死者が成仏出来るようにと祈願したのでしょうね。その意識も薄れ、近代的な葬儀が営まれるようになった今では導地蔵の存在も影が薄くなり、村の集会所の面持ちね。

14. お昼御飯よ。

導地蔵堂から次の熊野神社に向かう途中でしらす丼の幟を見つけて、遅い朝食と昼食を兼ねてぶらりと入ってみたの。残念ながらお店の名前もお値段の方も忘れてしまいましたが、朝方腰越漁港に揚がった新鮮なしらすを使ったものでとても美味でした。しらすと云えば腰越が有名で、TVの旅番組でも紹介された某店で食べてみたことがありますが、こちらのお店のしらす丼の方がダントツのお薦めよ。御飯の上に載せられているだけでなく、しらすが御飯の間にもサンドイッチ状態になっているの。刻んだ紫蘇の葉が香りを添えて、イクラも載せられたリッチなしらす丼よ。

2Fには椅子席なども用意されているようですが、1Fはカウンター席があるだけで5,6人も来たら直ぐに満席になってしまうような小さなお店なの。内では奥さまと身内の方でしょうか、女性お二人が腕を奮いますが 「 どうでした?成就院の紫陽花は。去年は剪定したので余り綺麗じゃなかったけど今年は綺麗でしたでしょう?」 と声を掛けて下さって。しばし紫陽花談義に花を咲かせてしまいました。しばらくするとホームステイでもしているのでしょうか、外国人の方をエスコートしながら鎌倉散策していると思われる女性の二人連れが入って来られたのですが、海外の方にはしらすが何か分からず、しきりにことばで説明するのですがどうも分からないみたい。するとそれを側で聞いていた奥さまがしらすが入った器を取り出してエスコート役の女性と一緒に説明し始めたの。取り立ててどうのこうのと云う光景ではないのですが、見知らぬ旅人にもアットホームで優しいお店の方でした。

15. 熊野新宮 くまのしんぐう

石標 しらす丼でお腹いっぱいになったところで次の熊野新宮に向かいましたが、最初はその入口が分からず探したの。分かってしまえば何のことは無いのですが、訪ねてみようかしらと思われた方は導地蔵堂から20,30m程してあるこの石標を目印に、稲村ガ崎小学校方面に歩いて下さいね。刻まれた文字も近付いてみないと何が書いてあるのか読めませんので気をつけて下さいね。写真では石標を基準にして水平位置を決めていますので分からないと思いますが、電柱に倒れかかるようにして残されているの。この石標がある場所からは谷奥(やつおく)に向かい、かなりの距離を歩きますが、沿道には瀟洒な邸宅が建ち並び、庭先には季節の花々が咲き競っていたの。歩いていると地元の方からすれ違いざまに「こんにちは」と挨拶されたの。ここでは住む方々にも穏やかで優しい時間が流れているようね。

ユリ ユリ unknown ユリ

熊野新宮 道が突き当たるようにして御覧の鳥居が建てられていましたが、嘗ては谷の最奥部に鎮座していたのでしょうね、今では境内を迂回するようにして道が左手に続き、境内地背後にも住宅が建ち並ぶの。資材置場などもあり、境内は工事車両が停められて駐車場代わりにもなっていたの。元々は極楽寺の鎮守として創建されたと云う熊野新宮ですが、今ではすっかり村の鎮守さまの面持ちですね。拝観料:境内自由

この熊野新宮は忍性上人が極楽寺の鎮守として熊野山(和歌山県)から勧請したもので、文永6年(1269)の創建と伝えられているの。忍性上人は大和国(現在の奈良県)に生まれ、信貴山にも修行していますので熊野信仰の影響も受けていたのでしょうね。鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏の弟・直義が土地の寄進を行うなど、関東管領職にあった足利家の保護を受けてもいるの。現在の社殿は昭和2年(1927)に再建されたものですが、その翌年には下手ガ久保の諏訪神社、上町の八雲神社の両社が関東大震災で倒潰したことからこの熊野新宮に合祀されているの。

現在の祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)・建御名方神(たけみなかたのかみ)の四柱ですが、本家の熊野新宮=熊野速玉神社に祀られるのは速玉男命ですから元々の祭神は速玉男命だったのでしょうね。建御名方神は諏訪明神とも呼ばれるように諏訪神社の祭神で、八幡神と並ぶ武神・軍神ですが、それに日本武尊と素戔鳴尊が加わっているのですから、これ以上強力な威力を持つ神社はそうざらには無いわね。

梅 社殿右手には小さな梅林があり、見事な青梅が実っていましたが、祭礼時に使用するので採るな!との警告が。でも、青梅を一体何に使うのかしら?神社の祭礼と云えばお神酒でしょうから、青梅を焼酎に漬け込んで梅酒を造ると云うわけでもないでしょうし。境内の一角には庚申塔や講中の方が建てられた記念碑などが並びますが、珍しいのが左端の不動明王像で、単体の石仏としては鎌倉では余り見掛けませんが、簡素な造りの素朴な味わいは庶民の信仰ゆえのものね。

不動明王 講中碑 バラ バラ

16. 月影地蔵堂 つきかげじぞうどう

熊野新宮への参拝を終えたところでちょっと足を伸ばしてみたの。稲村ガ崎小学校の前を通り抜けた頃から道も次第に細くなりますが、用水路のある道を蛇行しながら道なりに歩くと、住宅街の中に忽然と現れて来るのがこの地蔵堂なの。阿仏尼の事績を調べる内に存在を知ったのですが、場所が分からず、先程しらす丼を紹介したお店の方に教えて頂いたの。境内には石仏が彫り込まれた墓石なども建ちますが、とりわけ入口の左手に建つ石仏達が寂寥感を漂わせて佇んでいるの。

石仏 石仏 石仏 石仏

忘れ去られてしまったような趣きの小堂ですが、堂内には地蔵菩薩像が祀られているの。伝えられるところでは、この地蔵菩薩像は阿仏尼邸にあったものと云われているの。鶴岡八幡宮寺にも献歌するなどして訴訟の行方に希みを託す阿仏尼ですが、高齢の身を以て一人異郷の地に暮らす彼女にしてみれば、死を覚悟しての訴訟だったでしょうから、訴訟の行方と、日々の安寧をこの地蔵菩薩に必死に祈願していたのかも知れないわね。

17. 江ノ電・極楽寺駅 ごくらくじえき

月影の谷を訪ねたところで帰路に就きましたが、極楽寺から稲村ガ崎に足を延ばせば鎌倉十橋の一つに数えられる針磨橋や、新田義貞の鎌倉攻めの際に討ち死にした大館宗氏など、義貞軍勢の郎党11人が眠る十一人塚などが残されているの。機会があれば訪ねた上で改めて皆さんにも紹介しますね。


成就院の紫陽花と極楽寺を中心に訪ね歩いた今回の散策ですが、見ていると極楽寺駅を降りると真っ先に成就院へ向かい、そのまま長谷観音や大仏のある長谷へと足を伸ばす方々が殆どのように見受けられました。確かにこの時期の成就院の紫陽花は必見ですが、喧噪を離れて佇む古社や小堂にも均しく季節はめぐり来ているの。その季節の彩りの中に佇めば年月を重ねた石仏達が問わず語りの物語を語ってもくれるの。穏やかな一日をあなたもその物語に耳を傾けてみませんか?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
実業之日本社刊 三浦勝男監修 楠本勝治著 鎌倉なるほど事典
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
講談社刊 森本元子著 十六夜日記・夜の鶴 全訳注
昭文社刊 上撰の旅11 鎌倉・湘南・三浦半島
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
岩波書店 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
各寺院発行の栞・由緒書等






どこにもいけないわ
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