鎌倉幕府が開かれていた頃は北条氏を初め、有力御家人達が屋敷を構えていたという小町大路界隈を散策してみたの。大町には時の為政者を非難し弾圧を受けながらも布教に腐心した日蓮上人所縁の史跡が数多く残されているの。東身延とも呼ばれる本覚寺、比企の乱で滅ぼされた比企氏一族が眠る妙本寺、桟敷尼が龍ノ口刑場に曳かれ行く日蓮上人にぼた餅を捧げた故事に因み、ぼたもち寺と呼ばれる常栄寺などを訪ねてみたの。
1. 宝戒寺 ほうかいじ
北条義時がこの地に小町邸を構えてより、歴代の北条氏屋敷として利用されていたのですが、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めで焼き払われ、北条高時ほか一族郎党800余人は菩提寺の東勝寺に立て籠もると火を放ち自刃するの。赤々と燃え上がる焔にも一族の怨念は昇華されなかったのでしょうね、その霊を鎮めるために、後醍醐天皇は足利尊氏に命じて、建武2年(1335)に第5代天台宗座主の円観恵鎮慈威上人を開山に迎えて、この屋敷跡に宝戒寺を創建したの。拝観料:¥100
正式名称・金龍山釈満院円頓宝戒寺の本尊は仏師・憲円が貞治4年(1365)に完成させたという子育経読地蔵大菩薩像で、国重要文化財に指定されているの。この宝戒寺は萩の寺としても知られ、9月中頃には咲き乱れる萩が境内を埋め尽くすの。普通は萩と聞けば赤紫色の花を思い浮かべますが、宝戒寺の萩は白い花なの。その佇まいを目にすれば、遠い昔のこととは云え、人の世の儚さが垣間見えてくるのかも知れないわね。本堂中央には子育経読地蔵大菩薩像の他にも諸仏が祀られていますが、本堂左手には鎌倉江ノ島七福神の一つ・毘沙門天が祀られているの。
毘沙門天はインドの古代神話に登場するクベラ Kuvera がそのルーツで、仏教に取り入れられてやがて四天王の一神として北方の守護神となったの。後に福徳富貴の神としても崇敬されるようになり、七福神の一神となったの。宝船に乗る毘沙門天は優しいお顔ですが、元は仏法守護の役割を担うことから忿怒の形相をしていたの。宝戒寺の毘沙門天ですが、残念ながら本堂の暗闇に祀られていますので、その御尊顔を拝することが出来ないの。替わって本堂右手には鎌倉歴史散策−北鎌倉編の 円応寺 の項でも紹介した閻魔大王が祀られているの。
円応寺の閻魔大王は気持ち笑っていらっしゃるようにも見えますが、宝戒寺の閻魔さまは正に忿怒の形相よ。直ぐ傍まで近付くことが出来ますので、是非御覧になってみて下さいね。But 間近にみたξ^_^ξはそのまま地獄に突き落とされてしまうんじゃないかしら?と冷や汗が。拝観順序としては閻魔大王に恐れおののいた後に、地獄に堕ちた者さえも救済して下さると云う本尊の地蔵菩薩を拝み、心安らかになったところで福徳富貴を齎して下さる毘沙門天にお参りすべきでしたね。どんな仏さまがいらっしゃるのか知らずに逆コースを辿ってしまいました。
妃は歓喜天の魔神としての働きを封じるために十一面観音が化身したものとされ、早い話しが妃の色香に気をとられている間は歓喜天も悪さをしないだろうというわけ。宝戒寺の大聖歓喜天が秘仏とされていることからすると、双身像の可能性が大よね。夫婦和合、子授けの霊験灼か−と云うのですから、先ず間違いなさそうね。左掲は堂内に祀られる歓喜天の本地仏・十一面観音像を覗窓から失礼して撮したものですが、仲々艶なるお姿をされていると思いません?尚、右に脇侍するのは聖徳太子二歳像になるの。夫婦円満を願うあなたは是非御参りを。勿論、これから−という方も。But 決してお忘れにならないで下さいね。強靭な功徳が得られる半面、約束違反には厳しい態度で臨む大聖歓喜天。離婚なんてしたら大変なことになってしまいますよ。いかなる事態になろうともξ^_^ξは一切関知しませんからそのお積もりで。
境内右手に小さな鳥居を見つけて奇異に感じたのですが、それがこの徳崇大権現社で、東勝寺で自刃した北条高時を祀るお社だったの。北条氏一族の霊を鎮めるために造営されたという宝戒寺の縁起からすると、この徳崇大権現社こそが本来祀られるべきものよね。尤も、宝戒寺の造営に際しては北条氏の鎮魂と共に、人材養成のための修行道場の側面もあったようではあるのですが。見ていると、この社に参拝する方など誰もいらっしゃらないようで、皆さん、一目散に本堂を目指すの。
左掲は社殿内に祀られる北条高時像よ。髭を蓄えていますが、東勝寺で自刃して果てたのが33歳の時と聞きますので、威厳を持たせるために造立時に加えられたものかしら。高時は田楽と闘犬を殊の外好んでいたようですが、【太平記】の相摸入道弄田楽並闘犬事の段に面白い記述がありましたのでちょっと紹介してみますね。高時以下郎党多数が酒を酌み交わしながら田楽舞に興じていると、いつの間にやら怪しげな化け物達が舞を舞っていたと云うの。
或觜勾て鵄の如くなるもあり 或は身に翅在て其形山伏の如くなるもあり 異類異形の媚者共が姿を人に変じたるにてぞ有ける 〔 中略 〕 誠に天狗の集りけるよと覚て踏汚したる疊の上に禽獣の足迹多し 〔 中略 〕 天下将乱時妖霊星と云悪星下て災を成すといへり 而も天王寺は是仏法最初の霊地にて聖徳太子自日本一州の未来記を留給へり されば彼媚者が天王寺の妖霊星と歌ひけるこそ怪しけれ 如何様天王寺邊より天下の動乱出来て国家敗亡しぬと覚ゆ 哀国主徳を治め武家仁を施して消妖謀を被致よかし と云けるが果して思知るゝ世に成にけり 彼仲範実に未然の凶を鑒ける博覽の程こそ難有けれ
何やら暗示めいた逸話ですが、泥酔して眠りこけていた高時が目覚めて事の次第を告げられても、妖怪達の舞に驚くことも無かったと記すの。畏怖を覚えて仏像建立などをしていれば、或いは歴史が変わっていたかも知れないわね。それとも、益々奇物を愛する事止時なし−と記すことから、その時の妖怪達が演ずる舞は高時の仕組んだ余興だったのかしら?
【太平記】の記述は 日本文学電子図書館 を参照させて頂きました。
その徳崇大権現社に隣接して聖徳太子を祀る太子堂があるの。なぜ、聖徳太子がここに?その縁起は不詳ですが、本堂に祀られる毘沙門天は元々四天王の一神、それが独立して祀られるようになったのは聖徳太子がその四天王を崇拝していたことに由来すると云う説もあるので、両者には何か関係があるのかも知れないわね。おまけに、妖怪達が天王寺の妖霊星を見よう−と云いながら舞ったとあれば、当時の太子信仰は殊の外身近なものであったことの証でもあるわね。ここでは門外漢のξ^_^ξの勝手な類推ですので、呉々も鵜呑みにしないで下さいね。
太子堂の傍らにはとび職組合の記念碑もありますが、聖徳太子は仏法と共に、宮大工や仏師を保護したことから職人達の信仰も得ているの。太子堂に祀られる太子像は残念ながら御簾が掛けられていて御尊顔を拝することは出来ませんが、毎年1/22には聖徳太子講が行われますので、その時には御尊顔を拝することが出来るのかも知れないわね。5/22には徳崇大権現会が、5/23には大聖歓喜天供が行われますので、秘仏に出遭えるかも知れませんね。
2. 東勝寺橋 とうしょうじばし
宝戒寺を後に小町大路を左に折れて北条氏の腹切りやぐらに向かう途中にあるのがこちらの東勝寺橋。一見して何の変哲も無い普通の橋なのですが、この東勝寺橋にまつわる青砥左衛門藤綱の面白い逸話が残されているの。【太平記】の北野通夜物語事付青砥左衛門事の段に記載されるお話しを脚色してお届けしてみますね。
そのむかし、未ンだ鎌倉に幕府がおかれておった頃のことじゃ。青砥左衛門藤綱というものがおってのお、北条時宗、貞時の二代に亘って仕えておった。その左衛門には多くの所領があって裕福なはずじゃったが、いっつも貧しい身なりをしておったそうじゃ。おまけに、焼いた塩を飯にかけ、肴といえば、干魚の他には何も口にしなかったそうな。そんな左衛門じゃったが、いざ御政道のことになると、出す金を惜しみなく使うたそうじゃ。また、道端で飢えている者や、争い事に疲れて訴え出た者には、米や絹などを与えて助けておってのお、仏さまのように慈悲深い行いをしておったそうじゃ。
ある夜のことじゃった。そんな左衛門がお役目に呼び出されてこの橋に差し掛かった時のことじゃった。懐の火打ち袋に入れておった十文が川へ落ちてしもうたそうじゃ。最初はのお、十文じゃからと、そのまんま先へ行こうとしたのじゃが、家来を遣わして五十文で松明を十把ほど買い求めてきたそうじゃ。そうして川に落した十文を探し出したと云うわけじゃ。その話しを聞いた者達は皆「十文を得ようとして五十文を使うとは大損じゃ」と笑うたそうじゃ。ところがじゃ、当の左衛門はと云うと、「うぬ等は世の勘定を知らずして民を慈しむ心無き愚か者よ 探さずば何も得られずを 松明を求めたる五十文は商人が利するところ。然らば我が六十文は天下の利するところなれば、我が損と彼の利に何の違いがあろうや」と諭されたそうじゃ。
現在に置き換えてみれば、10円落したので50円でロウソクを買い求めて探したというところね。常日頃から経済への波及効果まで考えて行動しなければいけないのかしら。エッ?LEDライト買ってくる?う〜ん、リッチねぇ。ξ^_^ξなんぞは経済波及効果をもたらす前に自己破産してしまうわよ〜。【太平記】の中ではこの銭探しの他にも幾つかの逸話が記され、極めて道徳的な人物像が描かれているの。でも、所領が多くあり、裕福だったと云うのが味噌醤油味よね。
3. 東勝寺跡 とうしょうじあと
東勝寺橋から続く坂道を登り詰めたところにあるのが東勝寺跡。東勝寺は北条泰時が退耕行勇を開山として迎え、嘉禄3年(1237)に北条氏の菩提寺として創建したの。元弘3年(1333)、新田義貞の軍勢に攻め込まれて屋敷に火を放たれた北条高時は這々の体でその東勝寺に逃げ込むの。そうして観念した高時以下一族郎党870余人が自刃して火を放ち、北条氏の終焉と共に鎌倉幕府は滅亡したの。
【太平記】には地獄絵図さながらに壮絶な最期を遂げる様子が描かれていますが、とてもこの場で紹介出来るようなものではないの。歴史の一頁とは云え辛い時代ね。その東勝寺跡から祇園山ハイキングコース入口に向かう途中に左掲の腹切やぐらがあるの。東勝寺で自刃するなどして果てた北条氏一族のお墓ですが、寂寥感漂う空間で、やぐら内の傍らに据えられた石仏に均しく合掌ね。
4. 妙隆寺 みょうりゅうじ
妙隆寺は千葉常胤の子孫・胤貞が祖先追善供養のために氏寺でもある下総の中山法華経寺から千葉氏所縁の日英上人を開山に迎え、至徳2年(1385)に開創したものなの。創建時には七堂伽藍を有する大規模なものだったみたいね。千葉常胤と云えば、石橋山の合戦に敗れて房総に逃れた頼朝が再び挙兵した際には真先に駆け付け、頼朝をして第二の父と称する程。その功績から鎌倉幕府の有力御家人となり、この妙隆寺が建つ辺りに千葉屋敷が建てられていたの。拝観料:境内自由
境内の一角にあるのが鎌倉江ノ島七福神の一つに数えられる寿老人。中国から伝えられた道教の神さまで南極老人星の化身と云われ、不老長寿を司る神さまなの。宋の時代に実在した人物(老子の化身とも)で、天に昇り寿老人になったとも云われているの。3,000年の長寿を保つという玄鹿が寿老人の前で蹲っていますが、その鹿の肉を食すれば同じく3,000年の長寿が得られるというのですが、どんな味がするのかしら。
5. 日蓮上人辻説法跡 にちれんしょうにんつじせっぽうあと
更に下るとあるのが日蓮上人辻説法跡。鎌倉入りした日蓮上人は松葉ヶ谷(名越)に草庵を結び、日参して辻説法を行った場所と云われているの。当時は鎌倉新仏教と形容される臨済(禅)宗や念仏宗などが興隆する中で天変地異、疫病流布などの惨状を目の当たりにした日蓮上人は法華経に帰依することでのみ救われると説いたの。丁度この辺りから北側が武家屋敷などが建ち並ぶ為政者側、南は商人などの庶民が暮らす町並みとなり、両睨みの説法をしていたの。
6. 蛭子神社 ひるこじんじゃ
前身となる夷三郎社ですが、この地が大倉幕府から見ると裏鬼門に当たることから、源頼朝が守護神として祀ったものなの。夷三郎とは七福神の一神として有名な恵比寿さまのことで、蛭子神とは同一神なの。恵比寿は夷とも記されるように、元々は異郷を指すことばで、周囲を海に囲まれた日本では海に対する畏敬の念から、海から得られるものや、漂着するものを夷(えびす)として崇め、恵を齎してくれるものとして後に神格化されていくの。
一方、【古事記】に描かれる国産み神話では、伊邪那岐命と伊邪那美命が「あなにやしえをとこを、あなにやしえをとめを」と宣いて契りを結び、最初に産まれたのが蛭子命。残念ながら蛭のような姿形をしていたことから葦船で海へと流されてしまうの。その蛭子命が流れ着いたのが摂津国西の浦(現在の兵庫県西宮市)の海岸で、土地の者が夷三郎と名付けて大事に育て、後に夷三郎大明神として西宮神社に祀られるようになったの。ここに至り、夷神と蛭子命が同一神として融合するのですが、その名を一躍有名にしたのが西宮神社の神事。やがて神社専属の芸能集団が全国各地を訪れて舞うようになるのですが、その際配られた絵図に描かれていたのが夷三郎が着ていたという狩衣に烏帽子と云う御馴染みのスタイルなの。
恵を齎す神から転じて市場の守護神としても祀られるようになった恵比寿さまですが、当時この辺りは商業地が広がり賑やかであったと云うのですから、恵比寿さま(蛭子神)を祀るのは当然のことだったのでしょうね。その賑わいも今では小町通りや若宮大路にすっかり奪われてしまい、この蛭子神社の存在さえも触れずに終えている観光案内も多く、ちょっと残念な気もしますね。鎌倉・江ノ島七福神の一神、恵比寿さまのルーツとも云うべき蛭子神社の境内に立ち、芸人達が門付けしながら演ずる恵比寿舞に思いを馳せれば、遠い昔の賑わいも瞼に浮かんでくるのかも知れませんね。
恵比寿舞は人形を使い、恵比寿神を賛える歌を唄いながら舞うのですが、日本の人形芝居のルーツとも云われ、後に浄瑠璃と結び付いて人形浄瑠璃にも繋がっていくの。七福神の恵比寿さまと、人形浄瑠璃の源流が同じとは普通は思いませんよね。
7. 大巧寺 だいぎょうじ
若宮大路側の門前には頼朝戦評定所の碑が建てられていますが、元は十二所の地にあった大行寺が前身で、頼朝が鎌倉入りする際に軍議を謀り大勝したことから大巧寺と名を改め、現在地に移されて来たものなの。後に第五世日棟上人が難産で死んだ秋山勘解由の妻の霊を鎮めるために産女霊神(うぶすめれいじん)として祀ったことから、安産や縁結びの神として「おんめさま」の名で親しまれるようになったの。拝観料:境内自由
今から500年位前のことじゃ。この大巧寺におった日棟上人というお坊さんが、ある夜滑川にかかる夷堂橋の袂で幽霊に出逢うたそうじゃ。驚いた上人が目を凝らして見ると、乳飲み子を抱いた女が悲しげに彷徨うておったそうじゃ。難産で死んだ母親が我が子可愛さにうかばれずにおるのじゃろうと、寺に戻った上人は早速人づてに訊ねてみたそうじゃ。すると、その姿形から先頃難産で亡くなった秋山勘解由の女御ではあるまいかとなったのじゃ。それを聞いた日棟上人は、子を思う母心を憐れと思い、産女霊神を彫って祀ったそうじゃ。それからというもの、産女霊神を誰云うとなく「おんめさま」と呼ぶようになってのお、無事に子供が産まれ育つようにと、訪れるものも多くなったそうじゃ。
手入れの行き届いた境内には多種多様の草花が植えられていて、その一つ一つに名札が掛けられているの。華々しさこそありませんが、安産祈願の寺にふさわしく、女性的な細やかさが感じられるの。隣地には境内を覆うようにして生涯学習センターの巨大な建物が聳え、些か興醒めなのですが、公的機関のものであれば周囲の景観に配慮してもう少し低層に出来なかったのかしら。何もこんな立派な建物を建てなくとも鎌倉には活きた教材が沢山あるじゃないの−と能天気なξ^_^ξは思うのですが。エッ?生涯学習の対象は歴史だけじゃない?それもそうね。
写真を撮っている傍らをその年齢をとうに過ぎた(失礼)と覚しき御婦人達が−ねえアンタ、安産子育ての神さまだってよお〜、アンタも拝んで今から頑張りなさいよお〜アハハハ−と声高に通り過ぎて行かれました。これにはおんめさまもタジタジでしょうね。今のように高度な医療技術もなかった頃には命懸けの出産となるケースもあり、おんめさまに願を掛けることも多かったのでしょうが、今ではすっかり明治は遠くなりにけり−と云ったところね。
8. 本覚寺 ほんかくじ
本覚寺の建つ地には嘗て夷三郎社(夷堂)があり、佐渡流刑から赦されて鎌倉に戻った日蓮上人は一月余りをその夷堂に身を寄せて布教活動を再開、その後身延山へと赴くのですが、その夷堂も新田義貞の鎌倉攻めで焼失してしまうの。時を経て鎌倉入りして布教を始めたのが日出上人ですが、日蓮上人に負けず劣らず強気の方だったようで、他宗を排斥したことから捕らえられて処刑となるところを、鎌倉公方・足利持氏の夢枕に夷神が現れて赦免を諭したと云う逸話が残されているの。拝観料:境内自由
そうして赦された日出上人は持氏から日蓮上人所縁の夷堂跡地の寄進を受け、永享8年(1436)に本覚寺を開山したと云われているの。山門脇に八角形をした夷堂がありますが、これは昭和56年(1981)に再建されたもの。堂内中央に夷神が祀られていますが、ふくよかな恵比寿さまとは違い、正直云って不気味なの。最初はアップで撮ろうとしたのですが、気持ち悪くて止めました。蛭子神社のところで触れましたが、恵比寿さまと云うよりも、蛭子神のお姿なの。夢枕に立たれた持氏がびびったのも頷けるような気がしますね。気になる方は御自身の目でお確かめ下さいね。
上は皆さん御馴染みの恵比寿さまのお姿ですが、やはりこちらの方が親近感が持てますよね。本堂右手には二世住持の日朝上人が身延山から譲り受けたという日蓮上人の分骨を祀る分骨堂があり、本覚寺が東身延と呼ばれる由縁となっているの。本堂左手には名刀・正宗で知られる刀鍛冶・岡崎五郎正宗のものと伝えられるお墓もあるの。
〔 編集余話 〕 鎌倉公方(鎌倉御所)とは室町幕府が鎌倉に設置した行政機関・鎌倉府の長官職。相模国を初め関東一円を管理下に置き、初代長官は足利尊氏の次男・基氏で、持氏は四代目になるの。その鎌倉公方の補佐役というか次官が関東管領。足利持氏が鎌倉公方職に就いた頃には室町幕府の出先機関でありながら、東国での権勢を極め、幕府中央と対立。関東管領職にいた上杉憲実は幕府側についたことから一大騒動(永享の乱)が起こるの。
9. 夷堂橋 えびすどうばし
本覚寺の山門前を流れる滑川に架かる夷堂橋は鎌倉十橋の一つに数えられていますが、行き交う車も多く、コンクリート製の橋にアスファルト舗装の今となっては往時の様子を窺い知ることは出来ませんね。橋を渡り、左手に続く道を辿ると比企氏一族の眠る妙本寺がありますが、嘗ては比企氏の屋敷があり、乳母の比企尼を慕って頼朝も屡々訪れているの。従者を従えた頼朝は馬に股がり、悠然とこの橋を渡っていたのかも知れないわね。
10. 妙本寺 みょうほんじ
妙本寺が建つ辺りには嘗て比企邸があり、頼朝の乳母であった比企尼が存命の頃にはその頼朝も足繁く通い来ているの。頼朝にとって千葉常胤が第二の父なら比企尼は第二の母とも云うべき存在。頼朝の妻の政子が頼家を身籠った際には産所にもしているの。そんな平和な舞台も成長した頼家が鎌倉幕府第二代将軍となり、比企尼の娘婿・比企能員(よしかず)の娘が妻であったことからやがて悲劇の舞台へと変わってしまうの。拝観料:¥100以上志納
乳母の比企尼は頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に配流となると京都を引き払い、夫の掃部充(かもんのじょう)と共に、所領の武蔵国比企郡(現:埼玉県東村山市)に移り住むの。頼朝に近侍することが許されなかった彼女は、夫と共に、その後20年間に亙り、配流の頼朝の許へと衣類や食糧を送り続けたの。加えて三人の娘を地方豪族の安達盛長・河越重頼・伊東祐清に嫁がせ、娘婿となった彼らを頼朝の側近として近侍させたの。乳母の域を通り越して絶大なる援護者だったのですね。娘ばかりの比企尼にしてみれば、頼朝は我が子同然だったのかも知れないわね。
余談ですが、実は安達盛長に嫁いだ長女は再婚なの。二条天皇に仕えていた頃には丹後局と呼ばれ、惟宗広言に嫁ぐの。But その時既に、後に島津家の祖とされる島津忠久を産んでいるのですが、その父親は何と頼朝だと云われているの。頼朝にとっては初恋のひとだったみたいね。盛長に嫁いだのは平治の乱の後、武蔵に下野してからのこと。一方、河越重頼に嫁いだ二女は後に義経の妻となる郷御前を産んでいるの。三女は伊東祐清に嫁ぎますが、その祐清が討死した後には平賀義信と再婚しているの。比企尼の娘三人の軌跡を追うだけでも立派な時代小説が書けそうね。
話しを元に戻しましょうね。頼朝急死の後に鎌倉幕府第二代将軍となるのが源頼家ですが、妻は比企能員(よしかず)の娘・若狭局。加えて乳母は能員の妻であったことから頼家は能員を何かにつけ頼りとするの。頼家は将軍とは云え若干18歳で、今で云えば高校生よね。百戦錬磨の御家人相手では思うように事が進められなかったのでしょうね。一方、面白くないのは頼朝の下で政子を介して外戚という立場を利用して有力御家人の中でもトップの座に昇り詰めた北条時政よね。嘗て自分がしてきたように、頼家の外戚となり、発言権を増す能員の存在はまさに目の上のたんこぶ。
若狭局が嫡男の一幡を産む頃から北条氏と比企氏の対立が激化するの。そんな中で頼家が病に倒れて危篤状態が続くと、時政は政子と謀議して養育する頼家の弟・千幡(源実朝)を次期将軍に据えようと画策するの。そして頼家に知らせぬ内に全国の地頭職を頼家の嫡男・一幡と頼家の弟・千幡に二分してしまうの。娘・若狭局の仲介で、危篤状態から持ち直した頼家を見舞う能員からそれを知らされた頼家は、「家督は惣領が相続すべきもの、時政誅すべし」と、北条氏打倒を謀るの。ところが、その謀議を障子の蔭で聞いていたのが北条政子なの。政子は直ちに使者を遣わし、時政に事の次第を告げるの。
時政は踵を返して大江広元を訪ね相談しますが、北条氏と比企氏の私戦だから−と日和見主義を決め込まれてしまうの。元々貴族出身の広元にしてみれば、刀を振り回すのは真平御免−といったところでしょうね。広元の説得を諦め自邸に戻る途中、時政は配下の天野民部入道蓮景なる人物に「軍兵を発するに能わず 御前に召し寄せこれを誅せらるべし 彼の老翁何事か有らんや」と助言を受けるの。入道とあるので一応は僧籍に身を置く者のはずですよね。なのに−能員は高齢なのだから兵を挙げて襲うまでもない、誘き出しておいて殺してしまえ−と助言するなんて。当時は高野山と雖も僧兵を擁する武装集団でもあり、蓮景もどこかの寺院の僧兵だったのかしらね。或いは出家とは名ばかりの元武士の類かも知れないわね。
自邸に戻った時政は、将軍・頼家の病状平癒を祈願して薬師如来の供養を行うからと嘘ぶき、その際に折り入って話したき儀もあり−とことば巧みに能員を自邸に招き出すの。能員は近臣が制止するのも聞かず、僅かな供を従え平装のまま出掛けてしまうの。打倒時政を謀議しながらその時政邸にのこのことと出掛けて行く能員の気が知れませんが、折り入っての話しに融和の期待感があったのかも知れないわね。But と云うか、やはりと云うか、 完全武装で待ち構える時政邸に入った能員はあえなく殺されてしまうの。
邸内の異変に気づいた供の者が直ぐさま比企邸に走り、事の次第を告げるのですが、反撃する間も無く北条義時率いる軍勢が比企邸に襲いかかるの。必死の抵抗も虚しく、一幡の御前にて自刃して果てた者も多く、能員の嫡男・時員(ときかず)は女装して一度は逃げ出すことに成功しますが、見破られて斬り殺されているの。逃げ延びた者も捕われ、死罪或いは流刑となってしまうの。
一幡はその時僅かに6歳。翌朝未だ煙燻ぶる焼け跡から焼け焦げた小袖一寸ばかりを見つけたのが頼家の寵愛を受けていた蹴鞠の名人・大輔房源性。袖衣に菊の紋様が残ることから一幡の着ていたものとそれを拾い上げ、後に高野山に奉納しているの。上の一連の写真は比企氏一族が静かに眠るお墓なの。左掲は一幡の焼け焦げた袖衣を一緒に葬り、供養したことから呼ばれるようになった袖塚なの。以上が【吾妻鏡】が記す比企の乱の顛末ですが、事の次第を知った将軍・頼家は和田義盛らに時政の殺害を命じますが、逆に義盛は時政に通じてしまうの。
そして遂に時政は頼家殺害の意志を固めますが、それを救ったのが頼家の母でもある北条政子。尼将軍と云われる政子ですが、父親と我が子の間で苦悩し、父親の時政に頼家の助命を嘆願するの。そうして頼家は出家させられ、伊豆・修善寺へ幽閉されてしまいますが、政子が頼家にしてやれるのもそこまでだったの。政子の庇い立ても虚しく、頼家はその後刺客の手に依り暗殺されてしまうの。配流先から挙兵した頼朝と行動を共にしてきた時政にすれば、幽閉しただけでは枕を高くして眠れなかったのでしょうね。頼家は未だ23歳、なまじ将軍家などに生まれなければ人生を謳歌することも出来たでしょうに。
比企の乱から20年程経た後、北条泰時の命で比企邸跡に竹ノ御所の御殿が建てられることになるの。竹ノ御所は頼家の娘で、親を失った彼女は祖母の政子に引き取られて養育されますが、政子の死去に伴い全ての肉親を失ってしまうの。自分が亡き後は天涯孤独となってしまう竹ノ御所をさすがに不憫と思い、政子は泰時へ御殿の造営を申し送りしたのかしら。
そうして比企邸跡に建てられた屋敷で静かに暮らすはずの竹ノ御所でしたが、再び歴史の矢面に立たされてしまうの。寛喜2年(1230)、鎌倉幕府第三代将軍・源実朝が殺されて四代将軍として京都から迎えられた九条(藤原)頼経に無理矢理嫁がされてしまうの。頼経は若干13歳に竹ノ御所28歳という政略結婚で、彼女はその4年後に懐妊しますが、難産から死んでしまうの。その時彼女は32歳。今でこそ医療技術の発達で高齢出産も難しいものではなくなりましたが、当時は正に命懸け。時代がそうさせた−と云って片付けてしまうには余りにも辛い時代ですよね。
その比企邸跡に比企能員の末子・能本(よしもと)が日蓮上人の弟子・日朗上人を開山としてこの妙本寺を創建したの。あれ〜、比企氏一族は滅亡したんじゃないの〜?と不思議に思われたあなたはスルドイかも。実は、能本は出家して日蓮上人に師事していたことから、比企の乱の時には京都で修行中だったの。そのお蔭で命を長らえた能本は竹ノ御所存命時に彼女を頼り、そのつてで赦免を得ているの。山号寺号の長興山妙本寺の長興は父・能員の法号で、妙本は同じく母の法号と云われているの。静かな境内に立てば比企氏一族の鎮魂を斉しく願わずにはいられないわね。
11. 常栄寺 じょうえいじ
次に訪ねたのがぼたもち寺とも呼ばれる常栄寺で、ちょっと変わった冠木門を持つお寺なの。嘗てこの地に理縁尼という尼さんが住していたのですが、裏山に頼朝が由比ヶ浜の鶴を遠望するために桟敷(展望台)を設けたことから桟敷尼と呼ばれていたの。その桟敷尼が文永8年(1271)の龍ノ口法難の折、刑場に引かれゆく馬上の日蓮上人にぼたもちを捧げたという故事が別称の由来となっているの。この常栄寺は慶長11年(1606)に日詔上人が開祖となり創建された日蓮宗のお寺で、寺号は桟敷尼の法名・妙常日栄に由来するの。拝観料:境内自由
境内左手のジンジャーの葉陰に隠れるようにして桟敷尼夫妻の墓が並ぶの。桟敷尼は鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王に仕えた近臣・印東次郎左衛門尉祐信の奥方だった方で、夫君の印東祐信なる人がどんな人物であったのか詳しいことは分かりませんが、夫妻仲良く並ぶ姿にξ^_^ξ達もそうありたいもの−と願う次第でした。境内には鎌倉時代後期の歌人で【十六夜日記】を記した阿仏尼の屋敷跡が残されていると云うのですが、残念ながら分かりませんでした。でも、阿仏尼は極楽寺近くの月影の谷(やつ)に住んだはずよね。鎌倉に下向して来た当初の仮住まいだったのかしら?
ところで皆さん、ぼたもちとおはぎの違いを御存知ですか?実は両方とも材料も作り方も元は一緒なの。どちらもお彼岸にお供えするものなのですが、季節の花になぞらえて春の彼岸にお供えする際には牡丹餅、秋にお供えする時にはお萩と呼んでいたの。いつの間にか牡丹餅が訛り、ぼたもちと呼ばれるようになったの。ちょっと賢くなったような気がしません?エッ、知ってた?伝えられるところでは、実際に桟敷尼が日蓮上人に捧げたのは胡麻をまぶした握り飯で、ξ^_^ξ達が普通に思い描くぼたもちとはちょっと違うみたいよ。
何でも最初はホントのぼたもちを捧げようとしたのですが、一行が思いの外早くやってきてしまい、間に合わずに急拵えのぼたもちとなってしまったのだとか。日蓮上人に帰依した功徳からでしょうか、桟敷尼は88歳の長寿を全うしているの。龍ノ口の法難に因む9/22には御法難会が行われ、参詣者にもぼたもちが振る舞われると聞きますので、お出掛けになってみては如何?
12. 八雲神社 やぐもじんじゃ
八雲神社は兄の源義家の奥州攻め(後三年の役)に際し、その助勢に赴く新羅三郎義光がこの地に立ち寄った折りに疫病に苦しむ人々の姿を見て疫病退散を祈念し、京都祇園社を勧請したことに始まるの。後に義光の子孫で源氏、足利家など歴代の将軍家に仕えた佐竹氏の屋敷にあった氏祠が合祀され、江戸時代には徳川家より御朱印を賜るなど後盾を得て、現在でも地元の方からは天王さま、祇園さまと呼ばれて親しまれているの。拝観料:境内自由 宝物庫のみ志納
明治維新に伴い、近在の4社を合祀したのを機に、祇園天王社と呼ばれていた社号も八雲神社と改称したの。残念ながら関東大震災で当時の社殿は倒壊してしまい、現在の社殿は昭和4年(1929)に再建されたもの。境内の傍らに建つ宝物庫には陶器や鏡などの他、4基もの荘厳な御輿が収蔵され、ガラス越しにですが見学することが出来るの。この御輿にはいかなる疫病悪鬼も退散させる威力があるそうですので、是非、御覧になってみて下さいね。
境内中央にある御神木の根元には新羅三郎手玉石と呼ばれる石が2個転がっているの。新羅三郎もこの石を持ち上げて配下の者達と力比べしたのでしょうね。一個なら何とかなりそうですが、これを二個も持ち上げて手玉にとるとは新羅三郎はかなりの力持ちだったみたいね。重い刀を意のままに振り回すにはそれなりの力が必要だったのでしょうね、力自慢の方はお試しを。But お祭りの際には余興で力競べが行われることも多くあり、使用した石に後世逸話が付与されたとするのが本当のところではないかしら。八雲神社さん、ごめんなさいネ、ケチつけて。
本殿右手には三峰神社と御嶽神社が合社された御嶽三峰社が鎮座しますが、その右脇に続く道が東勝寺跡に通じる祇園山ハイキングコースへの登り口なの。訪ねた時には散策する時間の余裕がなくて未体験で終えているの。ゴメンナサイ。祇園山ハイキングコースについては機会を見つけて探索した上で改めて皆さんにも紹介したいと思いますのでお待ち下さいね。それにしても普通では先ず見つけられないと思うわ、この入口は。
順序が前後して恐縮ですが、この八雲神社で一番のお気に入りがこの手水作法を記した案内板なの。参拝時にきちんと手水してからお参りする方も少なくなりましたが、このような説明があれば誘われて手水してしまいますよね。これであなたも神社通になれますね。カメラのレンズを向けるξ^_^ξの背で連れがひとこと。あなたも少女趣味ね。
参道脇には唐破風笠を冠する 庚申塔 があるの。中央には阿弥陀如来が、三猿は左右裏面に分かれて描かれているの。寛文10年(1670)の銘があり、鎌倉でも五指の一つに数えられるほど古いもので、市の有形民俗資料にも指定されているの。右隣には猿田毘古大神と刻まれた石塔がありますが、庚申の申と【記紀】に描かれる猿田彦の猿が融合し、後に道祖神と同じく、旅の道中安全を祈願し道端に建てられるようになるの。庚申信仰は庶民信仰ですので、時代や地域でその意味合いも異なるのですが。
本殿左手には稲荷神を祀る小さな社がありますが、御座所には於岩稲荷社・稲荷神社・諏訪神社が祀られ、その左手には数多くの石祠が並ぶの。苔むすままに静かに佇む祠をみると、農業技術も医療も現在ほど発達していなかった当時の人々が、ことある毎に頭を垂れ、祈りを捧げていた姿も瞼に浮かんで来るの。
稲荷信仰には伏見稲荷(神道)系と豊川稲荷(仏教)系の二つの流れがあるというのですが、傍らに立てられた幟には正一位稲荷大明神とありますので、伏見稲荷系のお稲荷さんね。どちらも狐を神使としますが、天慶5年(942)に正一位の神階を得たのは伏見稲荷なの。But 明神と冠するあたりは神仏混淆の世界ですね。明神とは仏法を護る神を指すことばで、稲荷神も仏教に取り入れられてしまったの。尤も、今ではお稲荷さん=狐となってしまい、肝心の稲荷神はどこかへ行ってしまいましたね。
13. 別願寺 べつがんじ
次の目的地・上行寺に向かう途中で目に留まり訪ねてみたのがこの別願寺。注意していないと気付かずに通り過ぎてしまうほど小さな門構えのお寺ですが、往時には鎌倉に於ける時宗の中心地として、室町時代には代々鎌倉公方職に就いた足利氏一族の菩提寺として寺勢を興隆。天正19年(1591)には徳川家康から土地の寄進を受けたと云うのですが、その後は後盾を失い、次第に衰微してしまったの。拝観料:境内自由
境内左手に建ち並ぶ墓石群の中でとりわけ大きな宝塔(鎌倉市指定有形文化財)が足利持氏の墓と伝えられているの。But その特徴から室町時代より更に遡る鎌倉期に造られたものとする異説もあるの。そうなると室町時代を生きた足利持氏のものとするには無理が生じてしまいますが、門外漢のξ^_^ξには真偽の程は不詳よ。ところで、足利持氏って何者?という方に。御一緒に少しだけお勉強してみましょうね。足利氏と云えば真っ先に思い浮かぶのが足利尊氏の名ですよね。持氏は室町幕府第五代将軍・足利義教と同じく尊氏を祖とする一族の一人なの。実は、義教は籖引きで選ばれた将軍なのですが、その際に持氏は未だ成人に達していないということから候補者から外されているの。そのことが後の強気の言動へと繋がっていったのでしょうね。てやんでえ〜籖引きで選ばれる将軍なんぞ、オレにだって務まらなあ〜。
持氏は専制政治を行おうとする室町幕府第五代将軍・足利義教と悉く対立するの。鎌倉公方と云ったって、たかが幕府の出先機関じゃん、何で中央と対立すんの?と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、当時の鎌倉府は幕府中央と対等に渡り合える程の実力を持っていたの。源頼朝が最初に武士の政権を樹立したのが鎌倉なら、室町時代になっても鎌倉は東国武士団のメッカとなっていたの。その連中を束ねていたのが鎌倉公方なのですから、持氏が鼻息荒いのも頷けますよね。オレ達にイチイチ命令なんかするんじゃねえ〜。
一方、将軍・義教は混乱の極みにあった九州を平定し、もう一つの利権武装集団の比叡山延暦寺を壊滅せんと画策しますが、そんな義教のもとに、比叡山側が持氏と結託して義教を呪詛している−との怪情報が飛び込んで来たと云うのですから、さあ大変。義教は圧倒的な軍事力で延暦寺を攻略するの。一度は和議を申し入れた延暦寺側も義教の策に敗れ、遂には根本中堂に火を放ち自害するの。そして、恐怖政治を行う義教が、次なる標的に据えたのが鎌倉公方の足利持氏なの。
方や関東管領職として持氏を補佐する立場の上杉憲実は、持氏の行動を都度諫めたことから不興を買い対立。身の危険を感じた憲実は、遂には領国の上野国(現在の群馬県)に逃げ出してしまうの。空かさず持氏は憲実追討の兵を挙げますが、打倒持氏が悲願の将軍・義教は直ちに持氏討伐命令を下すの。幕府側の威を畏れた諸大名は悉く憲実側に味方したの。中でも出兵で留守となった鎌倉を持氏側についていた三浦氏や二階堂氏が一時は占領するのですが、後に幕府側に寝返ったの。四面楚歌になった持氏は敢えなく敗北し、鎌倉・永安寺(ようあんじ)にて剃髪し謹慎。
勝者となった憲実ですが、そんな持氏の助命嘆願を幕府側に幾度となく行い、持氏の嫡男・義久を次期鎌倉公方とするよう願い出るのですが、何戯けたことを!と義教は逆に憲実に持氏殺害を迫るの。遂に抗することが出来ずに、永享11年(1439)、永安寺を配下に襲撃させ、持氏はもはやこれまでと寺に火を放ち、僅かな側近と共に自刀して果てるの。以上が永享の乱の顛末ですが、憲実は後にその職を弟の清方に譲り隠居しているの。その後将軍・義教が死去すると、永安寺襲撃時に奇跡的に脱出した持氏の遺児・成氏(しげうじ)が鎌倉公方職を継ぎ、憲実の嫡男・憲忠が関東管領職に就いて鎌倉府は再興されるのですが、享徳3年(1454年)には再び成氏が憲忠を謀殺してしまうの。戦国の世とは云え、血塗られた歴史が再び繰り返されるという悲劇・・・
憲実はその命を狙われながらも、敗れた持氏の助命を嘆願し、持氏の嫡男・義久を鎌倉公方に推すなど、常人では仲々真似の出来ることではないわよね。当時の世情からすれば、持氏に代わり鎌倉公方に就こうとするのが普通でしたでしょうに。憲実は鎌倉の円覚寺から禅僧・快元を迎え、自領や書物を献じて足利学校を再興し、永享の乱の後には出家して諸国を巡る旅に出ているの。後年は大内家を頼り隠遁生活を送ったようですが、人の世の儚さが去来していたのでしょうね、きっと。生まれる時代を間違えたのかも知れないわね。その憲実は山口県長門市の大寧寺に眠っているの。
ξ^_^ξは未体験ですが、この別願寺には珍しい魚籃観音像が祀られているの。左手に魚籃(魚籠)を下げ、右手に印を結ぶの。普通、観音さまというと男女の区別がない中性なのですが、この観音さまは女性の仏さまなの。
むか〜し昔、中国は唐の時代の陜右という村でのことじゃ。村には仏さまの教えを敬うものなど誰もおらんでのお、それを嘆いた観音さまは一人の見目麗しい女人となり、魚籠に魚を入れて村を売り歩いたのだそうじゃ。さすがは観音さまの化身、その美しさはこの世のものとは思えぬほどじゃった。魚を売り歩いておると是非妻に迎えようと云い寄る若者が後を絶たずにおってのお。若者達には観音経をそらんじることが出来た者に嫁ぎましょう−と約束されたのじゃ。そうして何日か経つと観音経の暗記が出来た若者が喜び勇んでやってきたのじゃが、多くの若者がおってのお、どの若者に嫁ぐべきか決められんかった。そこで今度は金剛経を暗記してきた者に嫁ぎましょう−と約束されたのじゃ。
それができると今度は法華経をそらんじることが出来た者に嫁ぎましょうと約束したのじゃ。ところが法華経は大法典じゃ、観音経や金剛経は暗誦出来ても法華経ばかりは誰も出来なかったのじゃ。唯一人、馬郎と云う若者だけが暗記出来たそうじゃ。そうして約束通り、その若者に嫁ぐことになったのじゃが、式の当日、仲々姿を見せず不思議に思うた馬郎が部屋を覗いてみると、はたしてそこには黄金色に輝く観音像があったということじゃ。観音さまがお姿を変えて仏さまの教えを説いて下さったのじゃと得心した村人達じゃったが、それからというもの、この村では仏法に帰依するものも多かったということじゃ。とんとむか〜し昔のお話しじゃ。
最近は仏教というと法事の際に接するくらいでしょうか、観音さまも昨今の巷の世情を嘆いていらっしゃるのでしょうね。街角に絶世の美女が現れる日も近いのかも知れないわね。
観音さまの画像は Harumi's Home Page さんに掲載されるものをお借りしています。
But 閉鎖されてしまったみたい・・・ね。
14. 上行寺 じょうぎょうじ
上行寺は日蓮上人の孫弟子・日範上人が開山となり、正和2年(1313)に創建された日蓮宗のお寺なの。山門の裏側には幾度かの火災の際にも被災せずに残った、左甚五郎作と伝えられる龍の彫りものがあるの。山門をくぐり抜けたら振り返って見上げてみて下さいね。表側で云うと、ちょうど扁額が掲げられる位置にあり、歩く視線では気付かずに終えてしまうの。本堂は明治19年(1886)に松葉ヶ谷(まつばがやつ)の妙法寺にあった祖師堂を移築したものですが、軒下の欄間や横木には見事な飛天龍が彫られているの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
太陽光から建材を保護するためでしょうか、建物の三方がプラ・トタンで囲まれているのは御愛敬ね。その本堂内には日蓮上人や上行寺を開山した日範上人像が祀られていると云うのですが、残念ながら拝観は出来ないの。その代わりでもないのですが、堂前には七福神が勢揃いしているの。鎌倉・江ノ島七福神めぐりをしようとすると、かなりの時間と体力が必要ですが、上行寺なら一度の御参りで済みますね。境内の右手には、癌封じに御利益があるとされる瘡守(かさもり)稲荷を祀る稲荷堂と、鬼子母神を祀る薬師堂があるの。と云っても実際には一つの建物なのですが。
靴を脱いで昇殿させて頂くと、堂内右手に瘡守稲荷が、左手には千手観音や鬼子母神が祀られているの。普通はお稲荷さんと云えば神社ですが、そこは神仏混淆の名残りね。瘡守稲荷とは聞き慣れない神さまですが、医療技術が現代ほど発達していなかった当時は、天然痘や痘瘡は疱瘡神がもたらす疫病と信じられていたの。死亡率も高く、流行り病の疱瘡は恐怖そのもの。当時の人々はその疱瘡神を祀り、猛威を奮わぬようにと必死に祈願したの。やがて疫病神の疱瘡神も時代と共に疱瘡や皮膚病などに霊験灼かな神さまとして姿を変えたの。
上行寺の瘡守稲荷が癌封じの霊験を持つようになったのはいつ頃からのことなのかは不詳ですが、最先端の医療技術を以てしても容易に癒せない癌は、当時の人々と等しく、疱瘡神に祈りたくもなりますよね。ξ^_^ξもお賽銭を奮発して拝。替わって堂内左手には無限の慈悲を以て衆生をお救い下さると云う千手観音と共に、鬼子母神が祀られているの。鬼子母神は幼子を擁護することから安産や子育てに霊験灼かな神さまとして広く信仰されていますが、どうして鬼の字がついているの?なんか怖そうで嫌だわ〜というあなたに。
鬼子母神は元々はインドの神さまでハーリティー Hariti と呼ばれていたの。優しそうな名前とは裏腹に夜叉神の一族で、同じ鬼神の般闍迦(はんじゃか)に嫁ぐと1,000人(!)もの子供を産むの。そんな大勢の子供達を食べさせるのはた〜いへん。夫婦揃って人間界のこどもをさらってはその肉を子供達に分け与えていたの。ところがわが子をさらわれる人間の方はたまらないわよね。泣き叫び、挙げ句のはてに狂乱する母親や、悲嘆に暮れるあまり病に伏せてしまう母親も多くて、次はうちの子がさらわれる番かも知れないわ−と不安で不安でしょうがなかったの。その後もこどもさらいは一向に減る様子が無くて。そんな時耳にしたのがお釈迦さまの噂。ハーリティーからわが子を救う方法がありましたら是非お教え下さい−とお釈迦さまを訪ねて相談してみたの。
嘆き悲しむ母親達の願いを哀れとお思いになったお釈迦さまは、こどもを失う母親の悲しさを悟らせるために、彼女が一番可愛がっていた末っ子のピンガラを隠してしまうの。最愛の愛児がいなくなり、さすがの彼女も悲しみに暮れてしまうの。そして同じようにしてお釈迦さまに救いを求めるの。そんな彼女を前にしたお釈迦さま「1,000人ものこどもを持つお前がたった一人のわが子がいなくなったというだけでそれだけ悲しい思いをするのだ。ましてやほんの数人しかいないわが子をさらわれた母親の悲しみ、苦しみが今のお前に分からぬはずはあるまい」そう諭されたの。そうして彼女の子供達には人肉の代わりにザクロを食べさせるように諭すの。彼女は今までの罪滅ぼしのために人間界のこども達を永遠に守ることを誓い、ようやくわが子を返して貰うの。すっかり改心した彼女はこども達を守る一方で仏法を護持する神さまにもなったのよ。
ザクロは人肉の味がする−という巷の風評はこの逸話に由来するの。鬼子母神はハーリティーが音訳されて訶利帝母(かりていも)とも呼ばれますが、その像の多くが左手に幼児を抱き、右手にはザクロの実を持つ天女の姿で描かれるの。腕に抱かれる最愛の末子・ビンガラは音訳され、氷掲羅天(ひょうぎゃらてん)と呼ばれているの。
15. 安養院 あんよういん
山門をくぐると最初にあるのが弘法大師作と伝えられる日限(ひぎり)地蔵で、決められた日数内で願い事を叶えて下さると云う珍しいお地蔵さま。決められた日数って一体どの位なの?それは御参りするあなた次第よ。願い事と共にあなた自身で期限を決めるの。例えば「今年中に眼病が治りますように」と。エッ?直ぐ治せって?そんなあなたは先ずその短気なところを治しましょうね(笑)。日限地蔵に願い事をしたらその日がやってくるまでひたすら精進しましょうね。日限地蔵を祀る地蔵堂の右脇には尊観上人お手植えと伝えられる樹齢700年余の柏槇の巨木が枝を広げているの。
現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものですが、堂内に奉られる千手観音は昇龍観音とも呼ばれ、出世に御利益があると云われているの。田代信綱がこの千手観音を常日頃から信奉し、戦陣に加わる際にはその画を鎧の中にひそませていたことから幾多もの危難から逃れ、数々の武勲を挙げた故事に因むの。また、堂内には尼僧姿で座す政子像も祀られているの。頼朝の死去に伴い出家した後も尼将軍として権勢を奮う政子ですが、病弱な娘を抱え、嫡男・頼家を自ら伊豆修善寺に幽閉(後に暗殺される)するなど、晩年は淋しい想いをしたのではないかしら。
夫・頼朝の菩提を弔うために建立した長楽寺ですが、完成して間も無く、政子は69歳の波乱に満ちた生涯を終えているの。大恋愛の末に結ばれた二人です。心の安らぎを求めて、愛する夫・頼朝の許へと旅立ったのでしょうね、きっと。
本堂裏手には政子の墓と伝わる供養塔が建てられていますが、尼将軍として東国武士団を束ね、敏腕を奮った彼女にしては余りにも侘びしい佇まいね。分骨して−とは云いませんが、法華堂跡地に眠る頼朝の傍らに政子の供養塔でも建てて一緒に祀ってあげられないのかしら−とは能天気な旅人の感想よ。左掲の写真には写し込まれていませんが、政子の墓に隣接してあるのが善導寺を開山した尊観上人の墓と伝えられる宝篋印塔(国指定重要文化財)で、高さ3m余の石塔には徳治3年(1308)年の銘があることから鎌倉最古のものとされているの。
16. 妙法寺 みょうほうじ
そんなの面倒くさいわ−という我儘なあなたに、少しだけ解説してみますね。
鎌倉幕府と対立する後醍醐天皇は密かに息子の護良親王と共に倒幕を図りますが、幕府側に知られ隠岐に配流となるの。それを知った親王は直ちに還俗して挙兵するの。足利尊氏や楠木正成らの助成を得て鎌倉幕府を倒しますが、今度はその尊氏と対立。配流先から京に戻った後醍醐天皇は倒幕の最大の功労者である尊氏に責められ、遂に親王を鎌倉の地に幽閉してしまうの。その監視役として派遣されたのが尊氏の弟・直義ですが、北条氏の残党がその直義軍に襲いかかるの。尊氏と違い、弟の直義はインテリ派で戦は苦手だったみたいね、敗退を余儀なくされてしまうの。敗走に際し、幽閉する護良親王を生かしておいては再び挙兵されると危惧した直義は、家臣の淵辺義博に命じて親王を殺害してしまうの。斬首された親王の首がその刃に噛りつき、畏れおののいた義博はその場に放り投げて逃げ去ったと云われているの。親王の悔しさには想像を絶するものがあるわね。
土牢に幽閉されたという護良親王ですが、その際に身の回りを世話したのが南の方と呼ばれる女性で、親王との間に一児をもうけているの。その親王の遺児が後の日叡上人で、非業の死を遂げた亡き父の菩提を弔うと共に、日蓮上人所縁のこの地を守ろうと妙法寺を再興したの。その縁起から寺史では日蓮上人が小庵を結んだ建長5年(1253)を妙法寺が創建された年として、日叡上人を中興開山としているの。
左掲は拝観受付前にある門扉から写した貴重な画像よ。と云うのも、妙法寺の境内は撮影禁止なの。苔むす石段や重厚な趣を見せる堂宇などを皆さんに紹介したいのですが、ξ^_^ξの脳味噌に焼きついている景観を霊視(?)して頂くしか他に方法がないの。ざけんじゃねえよ!と御立腹の方は、申し訳ありませんが御み足をお運び下さいね。受付を済ませて石畳を歩いた先にあるのが肥後藩主・細川家の寄進を受けて建てられた本堂で、総欅造りの堂宇が重厚な構えを見せているの。堂内には絵画なども描かれていると聞きますが、残念ながら非公開なの。拝観料:¥300
訪ねた季節は晩秋というか冬というか、紅葉を愛でるにはちょっと遅すぎるんじゃないの?といった時節でしたが、本堂前のモミジが朝の陽射しを浴びて黄金色に燃え立っていたの。写真にはほんの少しだけ写りますが、間近に仰ぎ見た印象は、まるで錦繍の衣を纏う観音さまが目の前に降臨してきたかのようよ。本堂前にて先ずは合掌です。
妙法寺の拝観時間は季節で変わりますので注意が必要よ。1月〜3月中旬と7月中旬〜9月中旬は土日のみ拝観可能です。本堂前の紅葉を是非見てみたいの−という方には拝観受付が始まる 9:30 がお薦め。ξ^_^ξが訪ねたのは12月中旬ですが、秋というよりも冬かしら。
本堂右手に続く石畳の道を辿るとあるのが仁王門なのですが、訪れた時には全面改修中でした。すっかり防護幕で覆われていましたので解説不能なの。防護幕の隙間からちょっと覗いてみたのですが、どこがどうなっているのやら。修復工事を終えた仁王門はどんな景観を見せてくれるのでしょうね。再訪する機会がありましたら改めて紹介しますね。
仁王門に続く上り道を歩くと苔むす石段の参道が見えてきますが、その景観を保護するためでしょうか、柵が立てられ立入禁止なの。その石段の石も角が丸く摩り減り、多くの参詣者が訪れたことを物語っているの。遙かなる時を経て歴史の重みを感じさせられる石段よ。その石段の前では住持の方が御夫婦で枯葉の掃除をされていました。そのまま通り過ぎてしまうのも気が引けて「こんにちは、お邪魔しています」と挨拶してみたのですが、「お早うございます。きょうはよくぞ御参り下さいました。足許が泥濘るんでいますのでお気をつけて御参り下さい」と御丁寧なおことばを頂戴したの。写真撮影を禁止することから厳格な御住職を勝手に想像していたξ^_^ξですが、参詣者には優しい住持の方のようですね。そんな御住職ですから自然保護にも注力して件の処置となっているようね。参道を登った右手には法華堂があるのですが、代わりに迂回路が造られていますのでそちらを登ります。迂回路とは云え、こちらの方が思いっ切り近道だったりしますが。
迂回路の石段を登るとこれまた重厚な建物が眼前に立ちはだかりますが、水戸徳川家から寄進されたという法華堂なの。門前のひっそりとした佇まいからは想像出来ませんが、境内に入ると重量級の堂宇が建つ様には諸国大名家や江戸大奥の女人達からも多くの信仰を集めたというのも頷けるわね。傍らには日叡上人のお手植えと云われる樹齢650年余の蘇鉄もあるの。
どういう理由から諸国大名の信仰を集めたの?と不思議に思われた方もいらっしゃるかと思いますが、後に妙法寺の住持となった日応上人と日慈上人が黄門さまとして知られる徳川光圀の創建した水戸三昧堂檀林(僧侶の養成学校)の出身者だったことから、当時の江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の帰依するところとなったの。将軍家が寄進するのですから諸大名が挙って右へ倣えするのは当たり前よね。紀伊徳川家が帰依したのは未だしも、関東から遙かに離れた加賀藩・前田家もその輪に加わったというのですから、やはり御上の御威光は怖かったのでしょうね。家斉は自ら詣でることもあり、総門・仁王門・法華堂などは嘗て朱塗りの伽藍だったそうで、明治中頃までは境内に将軍の御座所も設けられていたというのですから驚きよね。
法華堂を後に順路に従い歩みを進めると、先程の苔むした石段の上に出るの。ちょっとした平地になっていますが、嘗て釈迦堂が建てられていたという跡地なの。行手前方には鐘楼が建てられていますが、その手前から石段の参道が続きます。こちらの石段もかなりの年月を経て同じように摩り減っていますので、雨上がりの後などは気をつけて登らないと。その石段を登り詰めると、日蓮上人が最初に庵を結んだという草庵跡が残されているの。現在はそれを知らせる石標がコンクリート製の柵に囲まれて建つだけなのですが。法華経を慟哭する日蓮上人の声は背後を囲む斜面にこだまして松葉ヶ谷を埋めていたのかも知れないわね。
草庵跡地から右手に続く細い道を、よいしょこらしょと登るとあるのが護良親王のお墓とされる大塔宮御墓なの。大塔宮とは親王が出家していた際の称号よ。あれ〜変よねえ。護良親王墓 の項では理智光寺に葬られたと書いてあったじゃない。あれは嘘だったの?ξ^_^ξも不思議に思い、拝観受付時にお伺いしてみたの。聞くところに依れば、鎌倉の地に護良親王の墓所とされる場所は何と30ヶ所余も存在するというのですから驚きよね。今となってはどこが本当の墓所なのかは不明とのこと。真偽の程は皆さんの御賢察に御任せよ。そう云えば、理智光寺跡に祀られる親王墓には宮内庁の鑑札がありました。お固いお役所のことですから、単なる興味本位では御陵を発掘させてはくれないでしょうし。当たり前か。
左掲は境内じゃないのだからいいんじゃないの?と勝手な解釈をもとに撮影した大塔宮御墓からの眺めになるの。ちょうどこの辺りは松葉ヶ谷の頂上に当たるの。鎌倉市内の街並みの向こうには冠雪した富士山が雄大な姿を見せてくれました。都から遙か離れた東国の地で非業の死を遂げた護良親王も、この流麗な富士を見ることで心和ませていると信じたいものですね。視線を左に転ずれば、陽光煌めく材木座海岸も視野に入ってくるの。
元来た道を草庵跡まで戻り、今度は左手に続く山道を辿ると三基の石塔が並ぶ山頂に出るの。手前から護良親王に仕えた南の方が眠る墓所。その隣には親王の遺児で、妙法寺を再興した日叡上人のお墓。そして最奥部に建つ日蓮大聖人塔は云わずと知れた日蓮上人の分骨や妙法寺の住持を務めた4代までの遺骨が納められているの。それにしても母子の南の方と日叡上人が並び葬られているのは良いのですが、どうせなら親王の傍に葬ってあげたら良かったのに〜。親王にすれば日叡上人は忘れ形見。わが子の顔を見ることもなく28歳という若さで薨去しているの。南の方にしても親王の傍で最期まで仕えた女性なのですから、親王にとっても特別な存在だったハズよね。親王は天皇家の血脈、かたや南の方は公家の出自だから−と片付けてしまうには余りにも寂しい思いがするわね。
境内の見学を一通り終えたところで仁王門まで戻ってきたのですが、その途中、洞窟内に祀られる上人像が目に留まり、近付いてみたのが化粧窟で、松葉ヶ谷の法難の際に一匹の白い猿が日蓮上人を誘導して襲撃から助けたという逸話が残されているの。化粧窟は、その際に上人が逃げ込んだ洞窟なのかしら。次に訪ねる安国論寺にも南面窟と呼ばれる洞窟があり、同じく上人が白猿に案内されて逃げ込んだものとしているの。他にも材木座寄りにある長勝寺が名乗りを挙げているの。巷では最初に草庵を結んだ地を含め−うちこそホントの旧蹟、いやこちらこそ本物−と論争が続いているようですが、その道の研究者や三寺には申し訳ありませんが、能天気なξ^_^ξには逸話の舞台がどこであろうと、歴史の浪漫は決して色褪せることは無いと思うの。三寺にとっては寺格を高めるためには必要な探求なのでしょうが。
17. 安国論寺 あんこくろんじ
妙法寺から程なくしてあるのがこの安国論寺ですが、こちらも日蓮上人が最初に草庵を結んだと伝えられる聖跡で、うちこそ本物の掛け声が三寺の中でもとりわけ大きなお寺なの。と云ってもξ^_^ξの勝手な評ですが、状況証拠からすると、確かに安国論寺の方が優位にあるわね−と思わせるような旧蹟が境内には数多く点在しているの。力が拮抗した際には声がデカイ奴が勝つ−と云ったところかしら。少し茶化し過ぎてしまいましたのでマジメにレポートしますね。安国論寺も安房国から鎌倉にやって来た日蓮上人がこの地で布教をせんと最初に草庵を結んだのが始まりとされるの。拝観料:¥100以上の志納
寺号の安国論寺は境内にある御法窟で書かれたと云う【立正安国論】に由来しますが、同書で日蓮上人は法華経による仏教の統一を叫び、その仏教が結集することでのみ社会救済がされると説いたの。立正とは仏教の統一理念に基づき政治を行うことを指し、国安らかたらしめるにはそれ以外に方策は無しと、時の為政者・北条時頼に同書を献じてその政道を諫めたの。ところが、同書の中で仏教統一の障害として当時隆盛していた念仏を悉く批判していたことから逆に弾圧を受けることに。度重なる迫害の下、40歳にして伊豆流罪、50歳の時には佐渡流罪にさせられてしまうの。普通なら挫折してしまうところですが、強靭な意志を持つ日蓮上人は弾圧を受けることで、逆に殉教の使徒として我が身を奮い起たせるの。日蓮上人はその間の20年余りをこの地で過越しているの。
日蓮上人が苦行する道場としていた草庵跡に建つ安国論寺ですが、遙かなる時を経て能天気なξ^_^ξでも気安く訪ねることが出来るようになりました。山門を潜り抜けて参道を進むと、左手には東京・芝増上寺にある徳川家の御霊屋から移されたという大きな石灯籠が並び建つの。歩みを更に進めると御覧のような紅葉が目に飛び込んで来たの。
その隣ではちょうど見頃を迎えた山茶花が白い花を咲かせていたの。見頃は11月中旬から12月中旬までと聞きますので、清楚な花を見てみたいの−という方は、機を捉えて訪ねてみて下さいね。この山茶花は鎌倉市の天然記念物にも指定されているの。
紅葉と山茶花に迎えられた先にあるのが左の本堂ですが、その本堂に対面して鎌倉一の樹齢と云われる海棠の巨木があるの。But 多くの添え木に支えられて、見た目にはちょっと痛々しい感じがしますね。この海棠も鎌倉市の天然記念物に指定され、4月には淡いピンク色した花を咲かせるとのこと。
鎌倉の地にやって来た日蓮上人が最初の修行道場としていた御法窟が本堂に対座してある−と聞いていたのですが、それらしき岩窟が見当たらず、この祖師堂が建つばかりでした。加えて、内部の見学も出来ないようで。折り良く祖師堂の周囲を掃除する職員の方がいらっしゃいましたので訊ねてみたのですが、不詳とのことでした。境内にはそれを知らしめるような案内もなく。御法窟の探索を諦めて、祖師堂を写真に収めようとレンズを向けていると、先程の職員の方が駆け寄って来て−すみませんねえ、ゴミ袋出しっ放しで−と声を掛けてきて。
云われるまで気付きませんでしたが、サツキの枝にゴミ袋が隠れていたの。ξ^_^ξの視野が如何に狭いかの傍証ね。−いえ、いいんですよ。朝早くから大変ですね。この季節は次から次へと枯葉が落ちてきて大変でしょう−と連れが返したのを機に世間話しが始まって。その内どこからかタイワンリスの鳴き声が聞こえて来たのですが、一匹の猫が現れてやにわに崖を登り始めたの。何をする積もりかしら−と眺めていると、リスを狙って様子を窺っているの。名前はすっかり忘れてしまいましたが、職員の方に依るとこの猫は安国論寺のマスコットだそうよ。
リスの鳴き声がするといつもああして狙うのですが、リスの方がすばしこくって、いつも逃げられているんですよ−と笑ってらっしゃいました。このマスコットのねこチャンの挙動が面白くて、もう少し近付いてアップで撮してみようかしら−と祖師堂の背後に廻り込んでみたのですが、その時発見したのが御法窟(だと思います)なの。白い猿に導かれて焼き討ちから逃れたのが日蓮上人なら、ξ^_^ξはこの白いマスコットのねこチャンに導かれて見つけたのが御法窟というワケ。まあ、両者には天と地ほどの違いがあるのですが。肝心の写真がブレブレですが、御容赦下さいね。
石碑が建つ背後には岩窟らしきものがあり、照明が無いので中の様子を窺い知ることは出来ませんでしたが、御法窟だと思うの。祖師堂の背後からは渡り廊下で繋がっていたのね。見学こそ出来ませんでしたが、その存在を知り得ただけでも良しとしました。その祖師堂の右手には、熊王稲荷大明神を祀る熊王殿があるの。どんな神さまかと思いきや、日蓮上人の従者だったという熊王丸。その名からすると元服前の童子みたいね。御参りすれば歯痛の霊験灼かと云うのですが、どんな人物で、どういう経緯から明神さまとして祀られるようになったのか、ちょっと気になる存在ね。
熊王殿前には日蓮上人の杖が根づいたと云われる妙法桜があるの。市原虎の尾と呼ばれる品種の八重山桜で、京都の市原に源を発し、開花する様が虎のシッポに似ていることから名付けられたものだそうな。それにしても杖が根づくとは思えず、日蓮上人は清澄寺で開宗する前には京都で求法修行していますので、持ち帰った苗木だったのかも知れないわね。いずれにしてもξ^_^ξには真偽の程は不詳ですが、この妙法桜も鎌倉市の天然記念物に指定されているの。
頂いた境内案内図では、順路としてこの後熊王殿右脇の急段を登るよう示されているのですが、お勧め出来ないの。理由は後述しますが、墓苑を抜けて南面窟に向かいましょうね。それにしてもこの案内図、実際の位置関係とはかなり掛け離れて描かれているのは困りものね。
墓苑の一角には日朗上人荼毘所があるの。日朗上人は師孝第一と評される日蓮上人の直弟子で、小庵跡地にこの安国論寺を開山するの。以下は日蓮上人が伊豆配流に処せられ、沼浦の海岸から上人を乗せた船が漕ぎ出される際のこと。
日朗上人は必死に船にすがりつき随行を求めますが、役人から櫂で殴りつけられ腕を折られてしまうの。それを見た日蓮上人は空かさず日朗上人の身を案じ「末法に法華経を広むる者は大難来たり 杖をもて打たれ 遠き島に流さるるは勧持品の経文也 〔 中略 〕 日輪東天に昇り給はば 日朗鎌倉に無事なりと知るぞ 月西山に傾くならば日蓮伊豆伊東にありて健在なりと知れ」と日朗上人以下弟子達を激励して船出して行くの。配流されゆく我が身を思い、師孝第一の日朗上人に或いは法華経の全てを託したのかも知れないわね。※記述に際しては 妙 The Mysterious Lotus World を参照させて頂きました。
墓苑には経団連会長を務めるなど、経済界の重鎮でありながら質素な生活振りで知られた土光敏夫氏も眠っているの。法華経に帰依し、私利私欲のためには会社を使わなかったと評されるの。興味本位は困りものですが、意のある方は墓参されてみては?
他宗を徹底して排斥する日蓮上人も天台宗だけは攻撃対象から外しているの。伝説めいたエピソードですが、実際のところは夜襲の計画を知った天台宗側が密かに日蓮上人に知らせたのかも知れないわね。その南面窟も今となっては御覧のように内部がコンクリートで覆われているの。洞内には上人像と共に、白猿像が祀られているの。余談ですが、上人が逃げ込んだと云う洞窟が逗子寄りに位置する法性寺にもあるの。未体験ですので写真を見た限りの評で恐縮ですが、その裏山はお猿畠と呼ばれる大切岸が連なり、嘗て猿が棲息していたのかどうかは分かりませんが、それらしき雰囲気ね。機会を見つけ訪ねてみたいものね。
案内図に示される順路がお薦めできない理由がこの急な石段なの。熊王殿右脇から登るように示されているのですが、眼前に石段が迫る急峻な登り道が続くの。日蓮上人にあやかり、苦行のほどを追体験してみたいの−と云う方でもない限りはξ^_^ξの辿ったコースをお勧めしますね。ですが、辛い急段を登り切ると先程の眺望が広がりますので、目にした時の感激もひとしおかも知れないわね。登り下り、幾れにしても足許には充分お気をつけ下さいね。
途中で登り来る二組ほどのグループの方々に出逢いましたが、一様に息を弾ませて、この先何かあるのでしょうか?と不安げに訊ねてこられたの。急段からは木立に埋もれて佇む本堂の屋根、ふと頭上を見上げると御覧のような紅葉が広がっていました。そんな余裕が持てたのも急段を下ってきたからでしょうね。
18. 名越大黒堂 なごしだいこうどう
安国論寺の拝観を終えて門前に戻ったところで、右手に小さな鳥居を見つけて訪ねてみたのがこの名越大黒堂なの。縁起は不詳ですが、傍らには庚申塔も建てられていることからすると、庚申待する名越の人々から、大黒さまもまた、守り神として昔から崇敬を集めていたのでしょうね。大黒さまは恵比寿さま・弁天さまと共に七福神の一神で、七福神全部の名を知らない方でもこの三神は御存知よね。
今ではすっかり日本の神さまとなった感のある大黒さまですが、何とそのルーツはインドの古代神話に描かれるマハーカーラ(摩訶迦羅)Mahakala なの。何でそれが大黒さまになってしまうの?と思われる方もいらっしゃるでしょうが、マハー maha は大きなを、カーラ kala は黒を意味することから大黒と訳され、荒ぶる神は仏教に取り入れられると大黒天として寺院の守護神になったの。仏教はどんな神さまでも守護神にしちゃったのね。それが中国に伝えられると寺院の厨房に祀られるようになりますが、修行に身を置く僧侶と雖も食は根源的なもの。寺院を守護する一方で、豊穣をもたらす神としても祀られるようになるの。その大黒天を日本に連れて(笑)来たのが後に伝教大師と呼ばれるようになった天台宗の開祖・最澄その人なの。
そうして比叡山延暦寺の厨房に祀られるようになった大黒天は、その後多くの寺院に安置されるようになるの。大黒天が身近な存在になるのは鎌倉時代に盛んになった本地垂迹説に依るの。本地は仏さまや菩薩を、垂迹は分身を表し、元々は仏さまや菩薩がこの世に仮の姿で現れて衆生に功徳を施すことを指していたのですが、拡大解釈されて日本の神さまも盛んに仏教と融合されていくの。日本神話と云えば「因幡の白兎」などで有名な大国主命ですよね。その大国主命の大国がダイコクとも読め、どちらも大きな袋を肩に下げるところから融合されて大変身を遂げるの。その大黒さまを一躍有名にしたのが恵比寿さま同様、全国を門付けしながら渡り歩いた芸人達なの。庶民はその芸人達から大黒さまのお札や塑像を買い求め、台所に祀ったの。そうして一般庶民に担がれた大黒さまは、その後庶民の意のままに姿を変えてゆくの。
ねえねえ、大きな袋を肩に下げる大黒さまの袋の中には何が入ってるの?
何でも入っていてドラエモン状態よ。富の象徴なの。
じゃあ、打ち出の小槌は何のため?
槌(つち)はその音が土に通じることから豊穣の象徴なの。
御参りすると小槌をふるい、あなたに富をもたらしてくれるの。
傍らに建つ庚申塔の一つには猿田彦大神、天細女命と共に北斗尊星の文字が刻まれているの。
北斗尊星ってなあに?北斗七星と何か関係があるの?と云う方に。
庚申信仰 は中国の道教に源を発し、人間の胎内には三つの虫が住みついていて、60日毎に訪れる庚申の夜になると身体から抜け出して宿主の罪状を天帝に告げ、その罪の軽重に基づいて寿命が縮められると信じられていたの。だったら庚申の夜には眠らずに起きていればいいじゃん−と云うことで始まったのが庚申待なの。その庚申信仰にあり、罪状を計る裁判官たる天帝が住むと信じられていたのが北斗七星なの。また、神猿と云えば日吉社(滋賀県)で、猿は山王権現の使いと信じられていたの。その日吉社が北斗七星を祀ることから山王信仰と庚申信仰とが結び付いたの。
寿命を縮めてしまう疫病や流行り病などは全て悪神が成せる技と信じられていたのですから、命を長らえてくれそうなものは何でも思いつくままに取り入れたの。庚申塔が建てられるのは室町時代からのことですが、江戸時代中頃から次第に衰微してしまうの。一部の地方では近年まで庚申講の名残りとしての集会なども催されていたと聞きますが、鎌倉を散策していても、庶民信仰の象徴だった庚申塔が今では単なる墓石として扱われているケースも多く見受けられるの。放置され苔むすままに風化していく供養塔のように、庶民の信仰もまた遙かなる時を経て土に還り行くようね。
為政者を初めとする御家人屋敷が多くあったという小町。一方、商人などの庶民が暮らしていた大町を訪ね歩いた此度の散策ですが、訪ねた寺社にもそれぞれの思いが託されていました。遙かなる時を経て後盾を失い衰微してしまったお寺にも歴史の重みは確実に語り継がれているの。得てして伽藍の大きさに惑わされがちですが、その歴史を紐解けば、時代を駆け抜けた人々の思いも偲ばれるの。俄勉強で得た知識をもとに記述している部分も多く、誤った理解をしている場合もあるかと思いますので御指摘下さいね。この頁が皆さんのお出掛け時の一助となれば幸いです。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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〔 参考文献 〕
実業之日本社刊 鎌倉なるほど事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
講談社刊 窪 徳忠著 道教百話
各社寺拝観時に頂戴、若しくは買い求めた栞・パンフレット
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