箭弓稲荷神社の境内をひとめぐりしてみましたので紹介しますね。実は、ξ^_^ξも訪ねる前までは馴染みのない社名から左程歴史あるお社とは思ってはいなかったのですが、何と、奈良時代初めの和銅5年(712)の創建と伝えられる古社だったの。嘗ては近在のみならず、江戸をはじめとした関東一円から参詣客を集める程の賑わいをみせていたそうなの。
右端は三の鳥居ですが、立派よね。大きさこそ小振りですが四脚鳥居で、扁額には唐破風の屋根が付くなど凝った造りになっているの。結わかれた注連縄も負けてはいないわね。これだけ見てもそこらにある神社とはちょっと違う感じがするわね。
長元元年(1028)下総国(千葉県)の城主・前上総介平忠常は下総に乱を起こし、安房・上総・下総を手中に収め、大軍を率いて破竹の勢いで武蔵国へ押し寄せた。長元3年(1030)秋、忠常追討を命ぜられた冷泉院の判官代甲斐守源頼信(多田満仲の子、頼光の弟)は、武蔵国比企郡松山野久ヶ原に本陣を張り、一泊した際に当社に詣で、敵退治の願書を呈し、太刀一振、馬一匹を奉納して一夜祈願した。その暁、白羽の矢のような形をした白雲が起って敵陣の方へ飛んだ(一説に白狐に乗った神が弓矢を授けた夢を見た)のを見て神様のお告げと感じ、直ちに兵を起こして敵陣に攻め込んだ。忠常の兵は不意の攻撃になす術もなく敗れ、三日三晩の戦いで潰滅した。頼信はこれを喜び、凱旋の際、立派な社殿を再建し箭弓稲荷大明神と称えたと伝えられている。現在の社殿は享保3年(1718)領主・島田弾正が社地4町7反余を免除し、四方の信徒と図って建造したと云われている。明治29年(1896)に郷社と定められ、大正12年(1923)には県社に昇格し、衣食住は元より、商売繁昌・開運の神として広く知られている。また、境内にはぼたん園があり、関東随一の名園と云われている。平成10年(1998)3月 東松山市・埼玉県
次に紹介するのは神社側の由緒書きですが、市側の案内とは違って力が入ってるわよね。
〔 御由緒 〕 御祭神:宇迦之御魂神(保食神)・豊受比売神
当社の御創建は和銅5年(712)と伝えられ、規模の雄大さと御社殿の荘厳さと御霊験の灼かさに於ては、関東に比無き稲荷大社と称せられ、創立の当時は野久または矢久稲荷と称せられ里人の信仰の的となっていた。社記に依れば人皇第68代後一条天皇の御宇長元元年下総国(千葉)の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房・上総・下総の三カ国を切従え破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起して武蔵国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信長元3年(1030)忠常追討の倫旨を賜り、当地野久ヶ原に本陣を張りて当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、一終夜の御祈願ありてその暁白雲俄に起りて白羽の箭の如く型取りたる雲現れると共に一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛び行けば頼信神明の感応なりと直ちに敵陣に攻め入れば、忠常の陣中麻の如く乱れ三日三夜追討して壊滅せり、頼信御神威を感得、喜悦して直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓稲荷大明神と称え奉れりと記され亦後に御社名を箭弓稲荷と呼称す。
又、宝徳3年(1451)2月の初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼は太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を崇敬して御分霊を城内及び邸内に奉斎された。当社の最も隆盛を極めたのは特に享保年間で庶民の崇敬も厚く、四方遠近の国々貴賤当社に心願を込めて参籠し、社前市をなし人馬の往来繁く江戸より熊谷西上州、又江戸には「箭弓稲荷江戸講中」日本橋小田原町を中心に江戸市中に及び講中の参拝引きも切らず、桶川・鴻巣・吹上の宿より道中して参拝し「従是箭弓いなり道」の道標50余本ありて当時の隆盛を偲ぶことが出来る。現在も大小百余講社あり。尚、当社は五穀豊穣・商売繁昌・家内安全の守護神であると共に養蚕倍盛・交通安全・厄除・火難除・開運・学業成就・芸能精進等の神社として信仰を集めております。
鳥居を抜けると正面に歴史の重みを感じさせる重厚な趣きの社殿が迫りますが、決して古きのみを重んじている訳でもなさそうよ。社名の箭弓(やきゅう)の音が野球に通じることから「野球がうまくなる神社」として野球関係者が多く参拝することでも知られているの。埼玉県でプロ野球と云えば所沢にある西武ドームをホームグランドにする西武ライオンズよね。運が良ければお気に入りの選手が参詣する姿を目にすることが出来るかも知れないわよ。何でも楽天の野村前監督も常連だったそうよ。神社側でもホームベース型やバットの形をした絵馬まで用意していると云う力の入れようよ。参詣者がないときにはお稲荷さんもおキツネさんを相手にバッティングや投球練習してるかも知れないわね(笑)。
〔 箭弓神社の本殿と絵馬 〕 市指定文化財
箭弓神社の本殿は正面5.43m、奥行は5.15mあり、屋根は切妻単層三重垂木の銅葺で出来ています。本殿の正面、妻梁上の両破風面は龍・獅子・獏等の彫刻をあしらったものが多くを占めています。本殿裏には、仙人が烏鷺(うろ=囲碁)を戦わせて遊び楽しんでいる彫刻もあり、龍・獅子・獏等力強い彫刻の多い中で興味あるものです。本殿内部の各桝組は、極彩色の花卉模様が散りばめられており、正面の扉、柱及び欄間には極彩色の花鳥の彫刻があります。床面は朱塗りで、全体が日光廟の模様を小さくした感じです。絵馬は、神社に馬を奉納する代わりに、板に馬を描いて奉納したのが始まりで、近世になると馬以外の題材も扱うようになります。「●呉服店」「馬上の中国武人」「関羽と張飛」「俵藤太秀郷」「牛若丸と弁慶」「予譲の仇討」「文人机に寄り」「武人と騎馬武者」の題名で8点の絵馬が指定されています。幾れも1-4mの大型の絵馬で、数多くある箭弓神社の絵馬でも作風保存状況等の優れたものです。箭弓神社の社記によれば、祭神は宇迦御魂命(保食神)で、平安時代(長元元年=1028年)の草創とされています。現在の本殿等は江戸時代(天保年間−1836年頃)に建立され、その後数回改築されています。昭和58年(1983)3月 東松山教育委員会
と、あるの。因みに、●は○の中に=が入った一文字なのですが、表示不能ですので御容赦下さいね。
社殿左手には何やら曰くありげな石が置かれていましたが、むすび石と案内されていたの。 |
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御利益 受け方 納め方 |
縁結び・子宝 ※お喰初にお使い下さい。 石を選んで受け、社頭にて祈念を込めてからお持ち帰り下さい。 願い事が成就しましたら早速ご返納下さい。 ご返納は倍返しが慣わしですので、似た石を選んでお納め下さい。 |
本殿の左手には神楽殿があり、ぼたんまつりの期間中は神楽や巫女舞の奉納や、プロの歌手やミュージシャンを呼んでのミニ・コンサートなども行われるの。大型バスが10台位押し掛けてきても平気で止められる位広い観客席(と云っても椅子はなくて単なる地べたよ)なので、そんなにお客さんが集まるのかしら−と思いきや、露店の出店で半分以上は埋まっていました。
本殿の背後に回ると木立の中に小さな社殿が建てられているの。瑞垣の外に鎮座することから境内摂社の類かしらと思ったのですが、実は、この小さな社殿こそが元宮だったの。社殿には覆屋が設けらて風雨避けのガラスで囲まれるなど、小さいながらも鄭重な扱いがされているの。傍らに立つ石柱には平成20年(2008)に改修したことが記されていましたが、野久(矢久)稲荷と呼ばれていた頃は更に簡素な社殿だったのではないかしら。あるいは、単に祠のようなものだったのかも知れないわね。東松山市(教育委員会)が立てた案内板では、源頼信との関わりを以て箭弓稲荷神社の草創とし、平安時代の長元元年(1028)を創建年代に充てているけど、この元宮を見ていると、神社側の、奈良時代の和銅5年(712)とする云い分も満更あり得ない話しではないような気もしてくるわね。
傍らに立つ説明書きを紹介してみましたが、ここでは稲荷神と云うよりも、稲荷神の使い、おキツネさまの御利益の方が勝っているような気がするわね。舞台成功の裏には七代目市川団十郎に乗り移ったおキツネさまの姿があったのかも知れないわね。ちょっと茶化してしまいましたが、俳優は「わざおき」とも読めるように、神さまの御魂を招き寄せ、自らも神懸かりして舞うなどして神さまを楽しませるのが本来の役割だったのですが、歌舞伎役者も舞台の上では役を演じきるわけですから同じよね。
以上で境内の御案内を終えたいところなのですが、実は、牡丹園の最奥部には天神社が祀られていたの。天神さまと云えば菅原道真を思い浮かべますが、普通は神池の畔には弁財天( or 市杵島比賣神)が祀られることが多いのですが、天神さまが鎮座するには何か特段の理由があるのかしら。最後にその天神社に触れて御案内を終えますね。
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