≡☆ 羽根木公園梅まつり ☆≡
2009/02/22 & 2010/02/14

TVのお天気情報のコーナーで梅の花が開花時期を迎えたと知り、日帰り圏内で観梅出来る場所が無いかしら?と探して見つけたのが羽根木公園なの。本数では約650本と、都内有数の規模を誇る梅林がある−との触れ込みに誘われて出掛けてみたものの、園内を埋め尽くす人の波に圧倒されて観梅はあえなく挫折。一年越しのリベンジを経てようやく見ることが出来たの。補:掲載画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

森巌寺〜北沢八幡神社〜北沢川緑道〜圓乗院〜代田八幡神社〜羽根木公園

1.小田急・下北沢駅 しもきたざわえき

最初に出掛けた時に比べると人出も少なく、梅の花も今ひとつで、観梅には少し早過ぎたみたい。羽根木公園で行われる梅まつりの開催期間中は 世田谷区 のHPに開花情報が掲載されますので、御参照の上でお出掛け下さいね。それはさておき、今回の散策は、ただの観梅だけではおもしろくないわね−と少し欲張って北沢川緑道を辿りながら羽根木公園を訪ねることにしたの。住んでみたい街ランキングでは常に上位に挙げられる下北沢ですが、駅前の賑わいには縁が無くなりつつあるξ^_^ξでも、少し離れると住んでみたいなと思わせる静かな街並みが広がっていたの。

2.森巌寺 しんがんじ

最初に訪ねたのが「淡島の灸の森巌寺」として「せたがや百景」の一つに数えられている八幡山浄光院森巌寺。山号の八幡山は嘗て森巌寺が次に訪ねる北沢八幡宮〔 現:北沢八幡神社 〕の別当寺を務めていたことに由来するの。この森巌寺は徳川家康の次男・結城秀康の位牌所として開基されたもので、院号寺号は結城秀康の法名・浄光院殿森巌道慰運正大居士に因むの。秀康は34歳の若さで没していますが、波瀾万丈の人生だったみたいね。10歳で秀吉の養子に出されたものの、その秀吉に実子が出来ると、下総国の結城晴朝の姪と婚姻させられているの。

そうして結城家の家督を継ぐと結城秀康と名乗るようになるのですが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後にはその戦功から越前国福井藩67万石に加増&移封されているの。その時のことね、越前の一乗院住持だった万世上人に帰依したのは。秀康は慶長12年(1607)に没するのですが、臨終に際し、その万世上人に一寺を建立して己が菩提を弔うよう遺言したの。でも、万世上人は高齢だったことから弟子の清誉上人に委ねたの。遺言を引き継ぎ勝地を求めていた清誉上人はこの地に至り来ると慶長13年(1608)にこの森巌寺を創建したの。

江戸を遠く離れた越前から何でまたこの地に?と思うわよね。学生社刊【世田谷区史跡散歩】には−下北沢の開墾者吉良氏の遺臣・膳場将監(ぜんばしょうげん)の協力に依るところが大−とあるのですが、余計分からないじゃないの。

山門を潜り抜けた正面には樹齢400年の大公孫樹の聳えたつ姿があるのですが、左手には順に不動堂・弁天堂・淡島堂が並び建つの。不動堂は閻魔堂も兼ねていて、そうとは知らずに堂内を覗かせて貰いましたが、その瞬間に思わず後退り。中央には喝!と目を見開いた閻魔大王が祀られ、左手には奪衣婆をはじめ十王像が並び、右手には不動明王が火焔を背にしてこれまた憤怒の形相なの。その閻魔大王や十王のことが気になる方は、鎌倉歴史散策の 円応寺 の項を御笑覧下さいね。但し、呉々も普段の行いに自信のある方だけにして下さいね。その不動堂には〜護摩供養の御案内〜が貼り出されていたの。

森巌寺不動堂に於きまして不動護摩の祈祷を厳修致します。家内安全・交通安全・安産成就・身体健全・厄除け・事業繁栄・合格祈願・等々誓願一切の成就をお祈り致します。何かと世情厳しい折柄ではございますが、皆様方の諸願が成就致します様、お勤めさせて頂きますので、この機会に是非ご参詣下さいます様御案内申し上げます。合掌  不動堂護摩供法要 毎週日曜日 13:00- 於 八幡山森巌寺内不動堂  護摩木 一本 ¥300

不動堂の右手にはガラス張りの八角形をして異彩を放つ弁天堂があるの。中には弁財天が祀られているのですが、その弁財天も八臂で、人面蛇身の宇賀神を従える、ちょっとオドロオドロした弁財天なの。弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。Saras は水を、Sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。川の流れの妙なる水音は人々の心を豊かにすることから福徳を齎らす女神となり、穀物の豊作を齎らす豊穣の女神ともなるの。やがてそのサラスバティーが同じく女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。

と云うことで、本来の弁才天は二臂だったのですが、女神と云うことから日本人には殊の外好まれたみたいね(笑)。男性的な像容の仏像が多い中で女神像の存在は人々に親近感を持って迎えられ、同じく女神として脚光を浴びたのが荼吉尼天なの。彼女もまた古代インド神話では自在の神通力を持つダーキニー Dakini と呼ばれ、人間の生死を半年前に見抜いてその心臓を喰らう鬼女だったの。後に大黒天との闘いに敗れた彼女はその眷属となり、仏教の守護神となるのですが、持ち前の神通力は衰えることを知らず、大いに利用されたの。日本ではその荼吉尼天の神使が狐とされたことから稲荷神とも習合するのですが、同じ女神同士と云うことから弁才天にも習合したの。

一方、田植えの時期になると現れる蛇は田畑を潤し豊穣を齎らす神の化身として古来より崇められていたのですが、宇賀神とも習合したの。宇賀神はその名から連想されるように、稲荷神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一視されていたの。宇迦之御魂神は食物を司る神であり、豊作を祈願する農耕の神でもあったの。蛇の水神信仰と結び付いた宇賀神は人面蛇身となると、やがて鎌倉時代に隆盛する弁才天信仰に習合していくの。そうして弁才天は荼吉尼天や宇賀神のパワーを引き継ぐと、その像容も二臂から八臂などに変身したの。優雅に琵琶を奏でて妙音を発するだけでは許して貰えなくなってしまったと云うわけ。

八臂となった弁才天は弓箭や刀剣などの武器も持たされるようになるの。その武具も本来は悪心邪気を退治するためのもので、戦闘用ではないのですが、弁才天が寺院の守護神として祀られることもあり、時と場合に依っては実力行使をする戦闘神と考えられてもいたみたいね。その時は荼吉尼天から引き継いだ神通力がものを云うのでしょうね。その後弁才天信仰が庶民の中に広まると、その現世利益的な側面が強調されて、福運の最たるものとして金銀財宝が持ち出され、弁才天は弁財天として更にパワーアップするの。弁才天は金銀を纏う前、弁財天は財宝を手にしてからね。

傍らには水盆が置かれ「辨財天眞言(となえことば)を唱えながらお金を浄めます。おん そらそば ていえい そわか」と案内されていましたが、森巌寺の弁天さまが銭洗い弁天だとは知らなかったわ(笑)。因みに、「おん そらそば ていえい そわか」を漢字表記にすると庵薩羅薩縛帝曳娑婆訶だそうよ。元々はサンスクリット語なので漢字は音写の単なる当て字だけど。この「そらそば」と云うのが、訛ってはいるけど サラスバティー Sarasvati のことみたいね。

弁天堂の右手にある建物が淡島堂で、狛犬が置かれた参道まであるの。森巌寺の境内にあって破格の扱いですが、それもそのハズ、開山の清誉上人自らが生まれ故郷の紀州名草郡加太(現:和歌山県和歌山市加太町)の地に祀られる淡島明神(現:加太神社)を勧請したものなの。【江戸名所図会】には「相傳ふ 當寺開山清譽上人修行成就の後 當寺を開創せらるると雖も 常に腰痛の患あり 依つて年月淡島明神に祈願を籠め奉り 夢中靈示あるを以て灸治し 終に積年の病痾を遁れたりしかば その報賽として紀州加太淡島明神の神主に告げて この御神を此地に勸請なし奉り 法樂ありしと云ふ」とあるの。

引き続き「この故に累世の住僧 連綿としてこの灸治の法を口授相傳し 衆病悉除の爲 毎月三八の日之を施せり 依つて灸治を求めむとする輩 遠きを厭はずして此の地に至る者少なからず 云々」とあるように、この灸は評判を呼び、月に6回行われる灸の日には多くの人達が集まり、順番待ちをする人が列をなして日の暮れるまで続いたそうなの。通りには茶店や食事処、おみやげ屋さんなども出来て、盛時には門前町の賑わいを見せていたと云うの。当時は森巌寺よりも北澤の淡島社としての知名度の方がダントツだったわけね。山門には今でも「粟島の灸森巌寺」と書かれた木札が掲げられ、往時の名残りを今に伝えているの。

ねえねえ〜、淡島明神ってどんな神さまなの? 女性の病気や安産に霊験灼かな神さまで
親しみを込めて淡島(粟島)さまと呼ばれているの。
淡島って淡路島に関係あるの? そうじゃないわ。でも地理的には近いかしら。淡島明神は和歌山県の加太町にある淡島神社に祀られているの。その淡島神社の沖合いに友の島という名前の島があるんだけど、元々はその島の傍らに浮かぶ小島の淡島に祀られていたのよ。 粟島明神とも書くのはどうしてなの? この森巌寺でも門前に立つ道標では淡島、山門に掲げられる木札には粟島とあるの。【扶桑略記】などにも粟島と記されているので昔は両方の表記があったみたいね。その淡島が住吉大社の神領だったことから淡島明神の面白い縁起が生まれるの。ちょっと長くなるので纏めて紹介するわね。

住吉大社(大阪市住吉区)に祀られる住吉明神(大神)は伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰り、海水で禊をした際に生まれた神さまなの。一神と思われるかも知れないけどホントは三神なの。禊の時には大勢の神さまが生まれてるけど、水底の水で清めた時に生まれたのが底筒之男命、中程の水から中筒之男命、海面近くの水をすくい清めた際に生まれたのが上筒之男命なの。だから本当は住吉明神を一人称で呼んではいけないはずなんだけど。因みに、左眼を洗った時に生まれたのが天照大神よ。

その住吉明神の許へ嫁いだのが天照大神の六番目の娘とされる婆利塞女(はりさいじょ)という女神なんだけど、その仏教的な名前からすると、神代というよりも後世に作られた逸話の匂いがプンプンするわよね。住吉明神の妃となった彼女なんだけど、下の病にかかり、夫婦の契りが出来なくなってしまったの。彼女はその病を癒そうと人形(ひとがた)を作り、思いを託して海に流すのだけど一向に癒える兆しが無くて。とうとう住吉明神から離縁され、可哀想に彼女は舟に乗せられて流されてしまうの。そうして流れ着いたのが淡島なの。島の者に助けられた彼女は、自分と同じような病で苦しむ女性達を助けようと誓い、彼女が亡くなると島の者達は淡島さまとして祀ったの。

舟で流されて漂着し、土地の人々から神さまとして祀られるようになる縁起は夷神(恵比須さま)と似てるわね。因みに、彼女が流れ着いたのは三月三日。三月三日と云えば雛祭りよね。雛祭りは流し雛がそのルーツとも云われているの。夫婦の契りを結ぶことが出来なかった彼女が、我が身を嘆き悲しみ、人形(ひとがた)を作り、海に流したことに始まるの。伊邪那岐命が禊をしたように、海は穢れを祓い清める力を持つと信じられていたの。その海に通じる川へ身代わりの人形を流すことで日々の安寧を願ったの。その縁起を全国的に広めたのが淡島願人と呼ばれる修験者達。彼らは淡島明神の由来を語りながら門付けして歩いたの。

その淡島堂の参道右手には御覧の針塚が建てられているの。

森巌寺の針供養 世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)平成11年11月24日
針供養とは2月8日や12月8日、或いは両日共に裁縫の仕事を休み、折れ針や古針を供養する行事のことを云う。現在、森巌寺の針供養は毎年2月8日に淡島堂で行われている。堂内に置かれた豆腐に古針が刺され、住職らに依り供養の法要が営まれる。供養された針は豆腐より抜き取られ、淡島堂正面にある石棺に納められる。

森巌寺に於ける針供養の創始は不詳であるが、安政3年(1856)刊行の【狂歌江戸名所図会】には同寺の針供養に関連した狂歌が詠まれており、遅くとも安政期にはこの地で針供養が行われており、その施灸と共にかなりの程度著名であったと思われる。森巌寺の針供養は、嘗ては広く見られた民間信仰の風潮と、道具を大切に扱った先人達の思想を今に伝えるものとして貴重な存在である。平成12年(2000)1月 世田谷区教育委員会

蕎麦処

まかり(曲り)たる針も納る淡しまハ 人をつりこむ御夢相の灸
淡しまに灸をそすうる女等の 針さす癪もをさまり※にけり
※「治まる」「納める」を懸ける

境内の最奥部に建つ本堂は昭和39年(1964)に再建されたもの。
門扉には燦然と輝く三葉葵の御紋。ええ〜い、寄るでない!この紋所が目に入らぬか!控えおろう!

余談ですが、森巌寺の拝観を終えて山門を出たところで目に留まったのが右端の蕎麦処 打心蕎庵 。隠れ家的な佇まいに惹かれたのですが、残念ながら時間が早過ぎて−只今支度中−とあり、未体験で終えています。ちょっと気になるお店ね。

3.北沢八幡神社 きたざわはちまんじんじゃ

下北沢の鎮守さまとして祀られる北澤八幡神社は、9月の第一土日曜に行われる秋祭りが「せたがや百景」の一つに数えられているの。説明書きには応神天皇・神功皇后・比売神・仁徳天皇の4柱を祭神とするとあり、この応神天皇が誉田別尊で、イコール八幡神ね。二柱目の神功皇后は応神天皇のお母さんで、神名は息長帯比売命になるの。一方、比売神は一人称になってはいるけど宗像三女神とも呼ばれ、市杵島比売命・田心比売命・湍津比売命のことなの。普通は以上の三柱を以て八幡宮とするのですが、何故かここでは仁徳天皇が合祀されているの。

文明年間(1469-87)世田谷城主(8代左兵衛頼康の頃)の勧請により創建され、七沢八社随一正八幡宮と称された。江戸時代歴代地頭の尊信厚く、慶安3年(1650)時の知行・斎藤摂津守の八幡宮領七石四升は、前と同じに寄進することの黒印状があったが、別当であった森巌寺の火災により焼失した。現在の産土神はこの本殿で、嘉永5年(1852)に建築された。現在の社殿は昭和53年(1978)に改築され、神楽殿は明治26年(1893)に建築され、平成16年(2004)改築した。

文中にある七沢八社随一正八幡宮は、嘗て吉良家の世田谷所領内に七沢八八幡と呼ばれる、七つの沢と八つの八幡社があったことに因むの。当時の八幡神は武神・軍神として武士の崇敬を集めていたのですが、吉良氏もその血脈を辿れば足利氏であり、更には源氏へと繋がるの。鎌倉の鶴岡八幡宮に八幡神を勧請したのは他ならぬ源頼朝よね。今では40,000社を超えると云う八幡社ですが、それは地頭として各地に赴任した御家人達が現地に分祠勧請したからだとも云われているの。

本殿の左手には摂社末社が並びますが、左掲は産土神を祀る産土社になるの。産土とあることから安産祈願に霊験灼かなお社かしら?と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、ここでは五穀豊穣など、豊かな恵みを齎らす大地に宿る神さまのことで、転じて村人達の鎮守さまとなった神さまのことなの。産土はうぶすなと訓み、古くは本居・宇夫須那・生土・産須那などとも表記され、うぶは産なり則ち土なり−と云うことで、生まれた土地に宿る神さまを指し、氏神さま、あるいは村人達の共通の守護神としても祀られるようになったの。

産土社の左手には多くの稲荷社が建ち並ぶの。説明書きには円海・野屋敷・長栄・愛宕稲荷社の名が挙げられていましたが、祭神は幾れもお稲荷さんこと、倉稲魂神(うかのみたまのかみ=宇迦之御魂神)ね。ξ^_^ξが思うには、宅地化の波を受けて鎮座地を奪われたお稲荷さんが、移転を余儀なくされてここに遷されて来たのではないかしら。もう、米ば、作らんき、お稲荷さんもそろそろ隠居して貰えんじゃろか。こん土地ば売って、わしも隠居じゃで。お稲荷さん、許してけろや−と云うわけ。

拝殿右手には小さな鳥居も建つので、どんな神さまが祀られているのかしら?と訪ねてみたの。ちょっと判断に迷うのですが、鳥居の扁額には正一位伏見稲荷大明神とあり、木札には高良玉垂社と記されているの。多分、右手に建つ並殿がお稲荷さんなのでしょうね。伏見稲荷とあるので、現在は京都市の伏見稲荷大社を総本社とする神道系のお稲荷さんね。因みに、仏教系だと荼吉尼天と習合した豊川稲荷になるの。 それはさておき、気になるのは高良玉垂社に祀られる高良玉垂神(こうらたまだれのみこと)の方ね。傍らには再建記念碑が建てられていたの。

末社祭神 高良玉垂神 稲荷大神
高良玉垂の神は神功皇后征韓の折 潮満玉汐干玉を授けられた福徳圓満延命長寿の神様であり 又稲荷大神は五穀豊穣衣食住安定の守護神で 稲生り 意成り の神徳がございます 旧社殿は寛文6年(1666)の創建でしたが腐朽甚しく この度明治百年を記念して特殊製鋼株式会社より寄進を受け 奉斎致したのでございます。昭和43年(1968)5月15日 宮司 矢島千裕 記

既に他の頁で紹介済みなのですが、神功皇后は諸神の助力を得て新羅に遠征するの。尤も、史実ではなくて神話の世界でのお話しなのですが、その際に高良玉垂神は潮の干満を操る玉を海中に投げ入れて神功皇后の遠征を助けたの。高良玉垂神は現在の福岡県久留米市に鎮座する高良神社に祀られる神さまなのですが、その事蹟から八幡神の随神とされる武内宿彌(たけうちすくね)に比定されてもいるの。その八幡神にしても元々は現在の大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮に祀られている神さまよね。同じ九州出身の神さま同士、心通じるものがあるのかも知れないわね。

八:
お〜い、こうらたまだれの。さぶいと思うたら雪が降りよーと。
芋(焼酎)でも買うて来て一緒に飲まんか。
高:
それは良いお考えにござりまする。ならば、賽銭より少しばかり金子を賜りたく。
八:
媛どももふるえておるじゃろうて、ここへ呼んでまいれ。
高:
かしこまりましてござりまする。ならば御母堂さまも。
八:
よいよい、母上は呼ばずとも。最近は口うるそうてかなわん。
母上のことじゃ、また、どこぞへ攻め入る積もりで筋トレでもしておろう。

4.北沢川緑道 きたざわがわりょくどう

北沢川

北沢八幡神社から南に歩くと北沢川緑道があるの。説明には「北沢川は昭和の初期まで農業用水として利用されていました。昭和8年(1933)頃護岸工事が行われ、更に都市化が進み、生活排水の流入により水質が悪化したことと、大雨時の洪水が発生しやすくなったことから昭和40年代(1965-74)に北沢川は暗渠化され、昭和53年(1978)頃から上部が緑道として整備されました。そして平成7年(1995)度から平成19年(2007)度にかけて「ふれあいの水辺」が再生されました」とあるの。今回の散策はその北沢川緑道を辿りながら羽根木公園を目指すことにしたの。※左掲は昭和30年代(1950-64)の北沢川の様子だそうよ。

嘗てメダカやフナなどが泳ぎ、自然豊かな川であった北沢川。その清らかな流れを取り戻し、人々が水に親しめる豊かな環境を再現するために「ふれあいの水辺」事業が始まりました。「ふれあいの水辺」として北沢川緑道、烏山川緑道、目黒川緑道合わせて全長2,435mを整備しました。平成2年(1990)度に地元の方々と区が一緒に「ふれあいの水辺」事業について話し合いを始めて以来、管理協定を区と結び、清掃や見回り等の管理を行って貰うなど、地元の方々にはきめ細やかな関わりをずっと続けて頂いています。この緑道を流れる水の源は、東京都下水道局落合水再生センターで高度処理した下水処理水の一部を使用しています。「ふれあいの水辺」ではこの高度処理水を臭いや色が無いように更に浄化しています。尚、使用した水は目黒川に放流されています。

〔 北沢川文学の小路 〕 北沢川緑道の宮前橋(世田谷区代田)から下代田橋(代沢)までの区間約1Kmは、近代日本文学を代表する歌人、作家、詩人たちが普段着姿で散策した場所です。彼らがここを通り、思念し、思索し、歌を、俳句を詠み、そして詩を創り、文章を書きました。その彼らが嘗て居住したところがこの北沢川周辺にあったことから、地域の皆さんから「北沢川文学の小路」と呼ばれています。北沢川ゆかりの作家が居住していた町丁目を紹介すると、代田三丁目には齊田小枝子・斎藤茂吉、代田二丁目には萩原朔太郎・萩原葉子、代田一丁目に三好達治、代沢五丁目に坂口安吾(勤務地)・石川淳・田中英光・中村汀女、代沢四丁目には森茉莉・加藤楸邨、代沢三丁目には宇野千代・田村泰次郎、代沢二丁目に横光利一がいました。

代田小学校の塀が途切れる辺りで目に留まったのがこの煉瓦造りの門柱なの。その門柱には大田区東矢口二丁目6-27の住所表示があり、門柱の間には「人間の尊さは自分を苦しめるところにある 安吾」の文学碑が建てられているの。

〔 安吾文学碑の由来 〕 坂口安吾は大正14年(1925)、代沢小学校で一年間代用教員として勤めた。その時のことを背景として書かれたのが【風と光と二十の私と】である。安吾文学碑に刻んだ文言はこの作品に書き記された一節である。碑文両脇の煉瓦は安吾が「蒲田の家」(現:大田区東矢口二丁目)と称していた家の門柱である。この家で【日本文化私観】【白痴】【風と光と二十の私と】などの作品が書かれた。門柱は所有者「新潟日報社」が長年保存してきたものである。それを譲り受け「東邦薬品株式会社」の協賛を得て、ここに門柱保存を兼ねた文学碑を建立したものである。尚、この碑は、武蔵野の風と光と若い魂が通り抜けて行けるようにデザインしたものである。平成19年(2007)12月3日 世田谷区教育委員会 寄贈 北沢川文化遺産保存の会

代沢小学校辺りから環七通りの手前までの緑道には桜の木が150本程植えられているの。訪ねたのは2月のことなので、さすがに桜の開花は無理ね−と思っていたのですが、途中で一本だけ花を咲かせている樹を見つけたの。寒桜?それとも狂い咲きかしら?と思って近づいてみたのですが、桜では無くて、梅の木だったの。意図して植えたものか、それとも偶然なのかは?だけど、この梅の木のお陰で辺りにはかぐわしい香りがほのかに漂うの。出でいなば 思ひおこせよ 梅の花。お出掛けの際には忘れずにお探し下さいね。

〔 周辺のみどり 〕 代沢せせらぎ公園と北沢川緑道は、せたがや地域風景遺産として選定されており、周辺には羽根木公園、世田谷公園、三宿の森緑地など大きなみどりのある公園緑地、また、せたがや百景や世田谷区名木百選に選ばれている樹木のある神社・お寺として、池尻稲荷、森巌寺、北沢八幡神社があり、この地域ならではの特色あるみどりが多くあります。「ふれあいの水辺」は、桜並木とせせらぎが四季の変化を感じさせ、周辺のみどりを繋ぐネットワークとなっています。

水の湧き出し口を見つけましたが「ここに流れている水は、新宿区にある東京都下水道局落合処理場で高度処理した再生水の一部を、代沢せせらぎ公園の地下にある施設で浄化し利用しています。再生水はそのままでもフナなどの魚が生息することが出来ますが、リンや窒素分が多く、藻が発生しやすいことと、多少臭い、色、雑菌がありますので浄化し、せせらぎを清らかで快適なものにしています。大雨の時は、再生水が停止するため水は流れません」とあり、処理場からの再生水に凝集剤を添加して濾過、更にオゾンと反応させて脱臭&殺菌しているのだとか。

魚の種類までは分からないけど、2,3cm程の小魚が群れを成して泳ぎ回る姿を何回も見たの。
近隣の方が放流されたものだとは思うけど、それでも産卵するなどして定着しているのではないかしら。

5.圓乗院 えんじょういん

環七通りの少し手前に建つのがこの圓乗院。現在は代永山真勝寺を山号寺号とする、真言宗勝国寺末の寺院。詳しい縁起は不明ですが、寺伝では、代田七人衆の手に依り、その菩提寺として寛永2年(1625)頃までに創建されたものと伝えられているの。この代田七人衆と云うのは、世田谷領主吉良氏の家臣七氏のことなの。天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏政は秀吉側に討たれるのですが、その北条氏側についていた吉良氏は下総国に逃げてしまうの。そこで吉良氏の家臣だった秋元・大場・齊田・清水・山田・柳下の七氏はこの代田の地に留まると帰農したの。

あれえ、変よねえ、七氏のハズなのに一つ足らないじゃないの。実は、齊田氏は二家(宗家と嫡家に分かれていたのかしら?ムセキニンモードです)あったの。五氏+二家で七人衆ね。当時の武士(御家人達は別にして)の多くは専門職と云うよりも、平時には農作業に従事し、いざ合戦の時になると鎧を纏い、刀や槍を手にして戦陣に馳せ参じていたの。なので、代田七人衆も帰農したからと云って、まるっきり農作業を知らない訳では無かったように思うのですが、どうかしら?とは云え、代田の開拓はその代田七人衆がいたればこそのお話しね。

門柱を抜けると正面に本堂が建ちますが、元の堂宇は第二次世界大戦時の空襲で焼けてしまい、現在の建物は戦後の昭和29年(1954)に東京都台東区橋場の総泉寺(旧秋田藩主佐竹氏の菩提寺)から移築してきたものなの。その本堂の前にはオブジェと化した高野槙が残されていますが、同じく空襲で幹を残して焼けてしまい、戦争の悲惨さ・痛ましさを今に伝えるものとして保存されているの。その高野槙を前にして境内左手には観音堂があるのですが、傍らの梅の木が風情を添えていたの。

境内を右手に進むと庫裏があるのですが、その前に造られているお庭が素敵なの。観光寺院ではないので声を大にして紹介することは出来ないのですが、ξ^_^ξ一押しのお勧めスポットよ。境内には梅の木が多く植えられているので、やはり訪ねるべきは梅の開花期ね。住持の方の日頃の丹精があってのものでしょうね、素敵でしたよ。

6.代田八幡神社 だいたはちまんじんじゃ

鳥居

地図上にその名を見つけて訪ねてみたのがこの代田八幡神社。天正19年(1591)の創建と案内されていましたが、先程の圓乗院と同じく、この代田八幡神社も代田七人衆が代田の鎮守として北沢八幡神社より分祠&勧請したものみたいね。社殿は幾度か修復・再建を経て来たものの、第二次世界大戦時の空襲を受けてそれまでの社殿を焼失。現在の建物は昭和33年(1958)に再建されたものなの。訪ねた時には、平成23年(2011)の鎮座420年式年大祭を迎えるにあたり「記念事業として稚児行列等の行事及び社殿、境内整備、玉垣等の修復を行います。お一人でも多くの皆様に御奉賛の協力を戴きたくお願い申し上げます。鎮座420年 式年大祭 実行奉賛会」とありました。式年大祭後には境内の装いも大きく変わるでしょうね。

この代田八幡神社の境内で毎年1月の第3日曜日に行われる三土代(みとしろ)会主催の餅搗会(もちつきえ)は世田谷区の民俗無形文化財に指定されているのだとか。その三土代会の餅搗会が、羽根木公園で行われる梅まつり開催期間中にも特別上演されるの。因みに、平成22年(2010)の第33回せたがや梅まつりでは2/21(日)に 10:30 12:00 13:30 の三回にわたり、行われたの。見てみたいな−と云う方は事前確認の上でお出掛け下さいね。

7.北沢川緑道 きたざわがわりょくどう

代田八幡神社の参拝を終えたところで再び緑道を歩いて羽根木公園へ向かう積もりでいたのですが、ξ^_^ξが最初に訪ねた時には整備工事で通行止めになっていたの。現在( ′11.02 )は既にその工事も終えて綺麗な遊歩道になっているので、御安心下さいね。工事後の景観が気になる方は 世田谷区 から TopPage〜くらしのガイド〜楽しむ・学ぶ〜公園・緑道案内〜緑道〜北沢川緑道へとリンクを辿ってみて下さいね。

8.羽根木公園 はねぎこうえん

この羽根木公園は面積が約74,000m²にも及ぶ公園で、昭和31年(1956)に東京都が開設、昭和40年(1965)に世田谷区に管理が移譲されているの。公園の名は、西側にある羽根木稲荷神社に由来しますが、現在は梅林となる丘も、嘗ては根津山とか六郎次山と呼ばれて、笹が生い茂る普通の小山だったのだとか。梅林はその根津山に昭和42年(1967)、区議会議員に選出された55人が梅の木を植樹したことに始まるの。昭和46年(1971)の東京100周年記念植樹230本、翌年の区制40周年記念植樹100本などを含め、現在までに10回程の植樹が行われ、その本数も650本を数えるまでになっているの。

梅林の中程には飛梅(とびうめ)が植樹されていたの。石碑には「飛梅とは菅原道真に纏わる梅の伝説に登場する梅の木のことです。平安時代、時の右大臣であった道真が太宰府に左遷となり、京を発つとき日頃大切に育てていた梅に向かって 東風吹かば 匂ひ起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ と詠むと、梅は主人を慕って太宰府まで飛び、根付いたと云うことです。この紅白一対の梅はその飛梅の分身で、梅の木がある太宰府天満宮から寄贈されたものです。平成7年(1995)2月」と記されているの。

石碑は平成14年(2002)に第25回梅まつり開催を記念して実行委員会の方々が寄贈されたものだとか。御本家の飛梅は樹齢1,000年を超えると云う堂々とした御神木ですが、頼らげなこの分身が神懸かりするには気が遠くなるような時間が必要みたいね。But 御本家の飛梅は白梅なのに、こちらの飛梅が紅白一対と云うのはちょっと変よね。紅梅はどこから飛んで来たのかしら。梅園を抜けた広場には地元の商店街や町会の方々が模擬店を出店しているの。これなら途中でお腹が空いても平気ね。地元の植木屋さんかしら、梅の苗木や便乗(笑)してお花の小鉢に至るまで青空市場で展示即売中よ。

お祭り会場 お祭り会場

おまつりの実行委員会も負けてはいないわよ、直営の売店では梅に因む和菓子や梅ゼリーに梅パイなどなど、梅を絵柄にあしらったハンカチなどもあるの。また、特設舞台では演舞や和太鼓の演奏などが行われるの。飲めや、歌えや−とまではいかなくても、ここではおまつり気分にどっぷりと浸って下さいね。喧噪を離れて梅園を西側に進むと「外にも出よ ふるるばかりに 春の月」と刻まれた中村汀女の句碑があるの。

この句は俳人・中村汀女先生の代表句の一つで、昭和21年(1946)の作品です。作者の中村汀女先生は、昭和12年(1937)から世田谷区代田に住まわれ、閑静だった世田谷の自然に親しみ、この辺りを良く散策されたと云います。先生は明治33年(1900)熊本市に生まれ、昭和22年(1947)俳詩「風花」を主宰し、長年にわたって女流詩人の第一人者として活躍され、昭和63年(1988)9月20日逝去されました。〔 以下省略す 〕 平成元年(1990)10月吉日 世田谷区

星辰堂

園内にはお茶会などに利用される茶室の日月庵と、華道・短歌・俳句などのお習いごとに利用される星辰堂があるの。基本的には有料なのですが、星辰堂にある休憩スペースは無料で利用可能みたいね。梅まつりの開催期間中の土日祝日にはその星辰堂に茶席が設けられ、お抹茶のサービスもあるの。人数限定で、当日、星辰堂で整理券が発行されるのでお早めにね。因みに、第33回梅まつり開催期間中ではAM10:00から全7回 or 全9回あり、午前券は9:30から、午後券は11:30からの配布になっていたの。But お抹茶のサービスが今後も継続されるかどうかは分かりませんので御了承下さいね。

観梅の最後を飾ってくれたのがこの紅梅と枝垂れ梅。園内には60種類を越える梅があり、時期を違えて咲くと云うのですが、それでも訪ねるにはちょっと早過ぎたかも知れないわね。年毎に気温の寒暖も異なるので見頃を予想するのは難しいわね。

一部には樹勢が衰え、その回復のためにさまざまな取り組みがなされて実を結びつつあると云う記事も見受けられましたが、飛梅の樹齢1,000年に比べたら、羽根木公園の梅なんて幼稚園児みたいなものよね。空に向かい伸びあがるエネルギーは命の輝き。逆境になんて負けずに花を咲かせてξ^_^ξ達の目を楽しませて欲しいものね。まさに−東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花−よね。

9.小田急・梅ヶ丘駅 うめがおかえき


下北沢と云えば、住みたい街ランキングでは常に上位に挙げられる街ですが、駅周辺の賑わいを少し離れると閑静な住宅地が広がるの。瀟洒な家が建ち並ぶことから常に新しいことに向き合う人達ばかりかと思いきや、有形無形の文化遺産に対する取り組みも着実に行われていたの。今回は狭いエリアを歩いただけでしたが、新旧が巧く調和しながら同居する素敵な街でした。肝心の観梅ですが、羽根木公園の梅には頑張って貰いたいわね−と云うのが正直な感想ね。ξ^_^ξには圓乗院の梅や、緑道の桜並木で一本だけ芳香を漂わせていた梅の木の方が印象に残るの。桜の華やかさとは違い、梅の花には楚々とした美しさを演出してくれる環境も必要のようね。人もまた同じね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥

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〔 参考文献 〕
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々 −多彩な民俗神たち−
角川書店社刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版 江戸名所図会
雄山閣出版社刊 笹間良彦著 弁財天信仰と俗信
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
学生社刊 竹内秀雄著 世田谷区史跡散歩
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
せたがや梅まつりパンフ
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など






どこにもいけないわ