水戸の偕楽園や埼玉県の越生町にある越生梅林と共に、関東三大梅林の一つに挙げられる熱海梅園は、「日本一の早咲きの梅」が咲く梅林として知られますが、その一方で「日本で一番最後の紅葉」が見られる紅葉の名所でもあるの。暦の上では既に冬を迎えた晩秋の一日、遅い紅葉狩りに出掛けてみましたので紹介しますね。
〔 梅園の由来 〕 明治18年(1885)、わが国初の温泉療養施設「噏汽館(きゅうきかん)」開設に伴い、内務省衛生局長・長与専斎の遊歩公園造成提唱に応じた横浜の茂木惣兵衛らが出資し、地元の協力によって專斎自ら選定したこの地10,000坪に早咲きの梅初雁、冬至梅など紅白100種をこえる梅3,000株と松、桧、楓を配し、三亭、五橋を以て翌19年(1886)完成し、茂木氏梅園と命名、熱海梅園と通称され、当初より公開された。その後、皇室財産、国有財産を経て、昭和35年(1960)熱海市に譲渡された。昭和60年(1985)1月吉日 孫・長与道夫
現地で頂いてきたパンフをアップしておきましたが、表示するには AcrobatReader が必要なの。
インストールが未だの方は左記のサイトからダウンロード〔 無償 〕して下さいね。
長与専斎略歴−天保9年(1838)、長崎県大村の藩医の家に生まれ、16歳で大阪の蘭学塾、緒方洪庵の「適塾」に入門、のち長崎で直接蘭医に学び、長崎医大の前身・精得館、長崎医学校の学頭を務め、近代医学の導入を図った。明治4年(1871)、岩倉具視の米欧使節団に随行、国民の健康保護、医事行政、諸施設に啓発され、明治6年(1873)、文部省初代医務局長のあと、自ら案出した「衛生」のことばを用いた内務省初代衛生局長となり、在任18年わが国医制、公衆衛生の基礎をつくった。明治35年(1902)死去
現地で見掛けた由来記を引いておきましたが、モミジ系の植栽については「楓を配し」とあるだけなので、当初は余り多くは無かったのでしょうね。現在はどの位のモミジが植えられているのかは分かりませんが、この時期の園内は赤や黄色に色づいたモミジ一色で、どこに梅の木が植えられているのか気にして見ていないと分からないくらいなの。
ここでは撮りためてきたものをスライドにして纏めてみましたのでお楽しみ下さいね。But TVのお天気情報では晴れと予報されていたので飛び出したのですが、生憎とすっきりしない空模様で終わってしまったの。なので、残念ながら蒼空の下での燃え上がる紅葉をお見せすることが出来ませんが御容赦下さいね。
〔 追記 〕:熱海梅園のもみじまつりからは離れますが、帰宅の途につくには今少し時間の余裕がありましたので 来宮神社 に立ち寄ってみたの。お目当ては本州一の巨樹とされる樹齢2,000年超の大楠でしたが、いざその姿を目の前にすると、神々しさに思わずことばを忘れるの。その大楠の他にも参道脇には第二の大楠が控えるなど、境内には生命の逞しさが感じられる空間が広がっていたの。来宮神社の詳しい御案内は他のサイトにお任せすることにして、ここでは御神木であり、国の天然記念物にも指定される大楠を紹介しておきますので、熱海梅園にお出掛けの際には来宮神社にもお立ち寄りの上、是非一度そのパワーに触れてみて下さいね。その様子を御覧になりたい方は こちら から。
傍らには平成12年(2000)銘の案内板とは別に長文の案内板が建てられていたの。内容的にはそちらの方が面白いので引いておきましたので、興味のある方は ここ をクリックして下さいね。因みに、もう一方の案内板には大楠の幹周り23.9mに、樹高26m以上−と記されていたの。
鳥居を潜り抜けて最初に目にするは第二の大楠なの。
御神木とされる樹齢2,000年超の大楠は本殿の背後に鎮座坐すのでお間違えの無きようにね。
「日本で一番最後の紅葉」のキャッチコピーに惹かれて足を向けてみた熱海梅園のもみじまつりでしたが、訪ねる前迄は当たり前だけど梅がメインの梅園だもの、最後の紅葉と云っても景観の方は余り期待せずにいた方が良さそうね−と、内心ひそかに思っていたの。それが園に足を踏み入れた途端、誤りに気付いたの。歩みを進める毎に赤や黄色に色付いたモミジの景観が形を変えて目の前に広がり、梅の木の方はいったいどこへ植えられているの?と探さなければ分からないくらいで、この時期の梅園はモミジ園と名を変えてもいいんじゃないの−と思えた程よ。かえすがえす残念なのは蒼空が望めなかったことね。秋空の陽射しの下での燃える紅葉を堪能することが出来たらどんなに良かったかしら。機会を見つけて是非もう一度訪ねてみたいわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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