≡☆ 散策閑話−源頼朝 ☆≡
 

源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に配流されてから挙兵するに至るまでの経緯を短く纏めてみたの。
But 史実に基づいてはいますが、多分に脚色を含みますので読み物としてお楽しみ下さいね。

源氏の貴公子・頼朝は配流の身と雖も意外にもてたみたいね。

源頼朝は久安3年(1147)に源義朝の三男として生まれますが、熱田神宮大宮司藤原季範の娘・由良姫を母をする家柄の良さから嫡男として育てられているの。早い話しが源氏の貴公子と云うことでサラブレッドね。平治元年(1159)、頼朝は13歳にして父・義朝に従い「平治の乱」に初陣しますが、敗れて捕らわれの身となり、本来なら斬首となるところを平清盛の継母・池ノ禅尼に助けられるの。禅尼には頼朝が死んだ吾が子の生き写しに見えたことから清盛に助命を嘆願するのですが、清盛も他ならぬ継母の頼みとあって渋々承諾し、罪一等を減じて伊豆への配流となったの。そうして蛭ヶ小島での20年余に及ぶ流人生活が始まるのですが、その頼朝を監視する役目にいたのが北条時政・伊東祐親・山木兼隆と云うわけ。

一方、配流となった頼朝に随い、世話をしたのが乳母の比企局と夫・掃部允(かもんのじょう)に安達盛長なの。殊に比企局は後に頼朝からは第二の母と呼ばれる程献身的に努めているの。夫君の掃部允が病没すると剃髪出家しますが、三人の娘があるものの、男子には恵まれなかったことから、頼朝のことは吾が子同然に思えたのかも知れないわね。因みに、娘の内の一人は安達盛長に嫁ぎ、伊東祐親の子息・祐清は娘婿になっているの。

能員が姨母(比企の尼と號す)當初武衞の乳母たり
而るに永暦元年豆州に御遠行の時 忠節を存ずる餘り
武藏の國比企郡を以て請け所と爲し 夫掃部の允を相具す
掃部の允下向し 治承四年秋に至るまで 二十年の間 御世途を訪い奉る【吾妻鏡】

頼朝は配流の身とは云え、監視の目を盗んでは結構出歩いていたみたいね。写経や読経に明け暮れる姿に監視の目も緩み、加えて世は平家の全盛期を迎え、源家の嫡流と雖も配流の身では何も出来まいて−と誰も気に留めなかったようね。そんな中で寺社詣と称しては三島社や箱根権現などにも出掛け、次第に行動半径を広げて知己を得ているの。中でも伊豆山権現の別当・文陽房覚渕は頼朝に学問を教える一方で援護者となり、加えて東国には「前九年の役」や「後三年の役」を通して源家に所縁を持つ武士も多くいたことが後に大きく幸いするの。

その頼朝もやがて適齢期を迎えると監視役にあった伊東祐親の娘・八重姫に近付くの。前述のように祐親の子息・祐清が比企尼の娘婿となっていたことから祐清を介して知り合ったのでしょうね。父親の祐親が大番役として上洛した隙に密会を繰り返し、承安2年(1172)には千鶴丸と云う男の子が生まれているの。頼朝25歳のことで、まさか配流の身で子供を得ることが出来るとは思ってもみなかったでしょうね。そうして八重姫と千鶴丸を前にして穏やかな日々が続くはずでしたが、安元2年(1175)に大番役の任を終えて帰郷した祐親は八重姫と頼朝のことを知ると激昂し、八重姫の切なる願いも虚しく千鶴丸を川に沈めて殺してしまうの。その怒りの矛先は当然頼朝に向けられたのですが、祐清の報せを受けて頼朝は空かさず伊豆山権現に逃げ込むの。当時の伊豆山権現は60有余の僧坊を構え、僧兵800余人を数えるほどの隆盛があり、さすがの祐親も手出しが出来ずに諦めざるを得なかったの。

その後、八重姫は江間小四郎(北条時政の次男で、後の北条義時)に無理矢理嫁がされるのですが僅か数ヶ月で実家に戻って来てしまうの。八重姫が頼朝と密かに逢うことを危惧した父親の祐親は、その八重姫を外出禁止にしてしまうのですが、そうなると八重姫の頼朝への思慕の念はますます燃え上がるの。悶々とした日々を過ごす八重姫ですが、治承元年(1177)に再び父親の祐親が上洛することになり、外出のチャンスが訪れるの。八重姫は意を決して館を抜け出すと、侍女と共に頼朝のいる北条屋敷に向かうの。北条屋敷に辿り着いた八重姫は頼朝へ一目まみえようと門を叩くのですが、門前払いされてしまうの。それでも必死に頼み込む八重姫に門番は、頼朝は北条時政の長女・政子と結ばれ、二人の間には既に大姫と云う娘も生まれていると告げたの。それを知らされた八重姫は愕然としてその場にへたり込んでしまったの。愛児を失い、今また愛する人の心変わりを知った八重姫は、既にこの世には我が身を寄せるべき場所が無いことを知り、侍女達の制止を振り切ると古川の川淵に身を躍らせたの。報せを受けて館の者達が駆け付けた時には侍女達もまた八重姫の後を追い、既に自刃して果てた後だったと云うの。ちょっと悲しすぎる恋物語よね。

話が前後して恐縮ですが、八重姫とのことで伊東祐親に命を狙われた頼朝は伊豆山権現に逃げ込み保護されますが、ほとぼりが覚めると今度は同じく監視役の任にあった北条時政の長女・政子に近付くの。と云っても最初は次女へ艶書をしたためたのですが、手紙を届ける役目を負った安達盛長が次女よりも長女の政子の方が美人だからと宛名を書き改めて政子に手渡したとされているの。真偽の程は不詳ですが、頼朝と政子の縁結びが盛長の悪戯心だったなんて、知れば知る程歴史の面白さが見えて来ますよね。

頼朝の配流先となった蛭ヶ小島は北条館にも近く、頼朝と政子は早い時期から互いを見知っていたのかも知れませんね。その頼朝からの恋文と知って熱を上げたのは、実は政子の方だったみたいね。配流の身とは云え、頼朝は清和源氏の嫡流で、母方は熱田神宮大宮司・藤原季範の娘という由緒ある血筋。北条氏も元々は平氏の流れをくむ一族ですが、今では単なる在地豪族に過ぎず、政子は源氏の貴公子からの恋文に夢中になったの。ですが、頼朝が政子に接近したのは八重姫の時と同じように、時政が大番役で京都に上洛した際の留守を見計らってのこと。頼朝と政子のことを知らされた時政は、平家への対面から激怒しますが、一方では許してもいたみたいね。そうは云っても、娘婿が源氏の嫡流とあっては北条氏の地位も危ぶまれることから、役目を終えて京から戻った時政は、素知らぬ振りをして政子を目代の山木兼隆の許へ嫁がせてしまうの。たぬき親父よね。

目代(もくだい):国司が任命した私的な代理人のことで、国司の四等官の目(さかん)とは別物よ。実際に国司が現地に赴任することが無い場合には、一切合切を引き受けて職務を遂行することから勢力を持つ場合が多かったの。当時の伊豆守は平時兼で、知行国司は平時忠。兼隆にしても山木姓を名乗ってはいるけど桓武平氏の一流で、み〜んな平家なの。

ところが、政子はこともあろうにその婚儀の最中に兼隆の館を抜け出すと、風雨降り頻る中をひた走りに走り、頼朝の待つ伊豆山権現に逃げ込んだの。二人は事前に示し合わせていたみたいね。新妻に逃げられたと知った兼隆は手勢を従えて伊豆山権現に踏み込もうとしますが、北条時政は伊東祐親の時と同じように、800余人の僧兵を相手に戦うのは得策ではないと諭し、諦めさせているの。時政にしてみれば平家側への対面を繕いながら娘・政子の我儘を許したと云ったところですが、源氏の嫡流としての頼朝を密かに認めてもいたの。

伊豆山権現の別当・文陽房覚渕に再び助けられた頼朝は改めて政子と結ばれ、長女・大姫が生まれるの。頼朝にすれば政子と云う伴侶を得たことで北条家への入婿となった訳で、時政が認めてくれたと云うことは実質的には流人の身から抜け出せたと云うことよね。頼朝が監視役の伊東祐親や北条時政の娘に意識的に近付いたのは保身術以外のなにものでもないのでしょうが、政子との間に大姫が生まれて一先ず当初の目的が達成されたと云うわけね。

一方、都では平清盛の嫡男・重盛が病死すると清盛の専横を制止する者もいなくなり、後白河法皇と清盛の対立も激化するの。清盛の圧政に対する不満が日に日に募り、治承4年(1180)には後白河法皇の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を発し、源頼政と共に挙兵するのですが敢えなく敗死してしまうの。二人の関係にしても頼政が以仁王を焚き付けたのだ、いや以仁王の方が頼政を頼みにしたのだなどと両方の説があるようですが、高齢の頼政は源氏にありながら清盛の信任も得てそれなりの地位にあり、以仁王にしても敗死の際にはその顔を見知った者が少なく検証も難儀しているの。と云うことは接触する相手も少なく、それだけ不遇だったと云うことよね。そんな二人が接近したからと云って直ちに平家に反旗を翻して挙兵することにはならないと思うの。そこにはそんな二人を担ぎ上げて虎視眈々と次を狙う第三者の存在が見え隠れしているの。

ところで、令旨は天皇の宣旨や上皇の院宣に較べると格が下がるのは否めませんが、各地の源氏の元にも届けられたの。その令旨には何が書かれていたのか気になりますが、【吾妻鏡】の記述を紹介してみますね。But 本当にその通りのものが書かれていたのかどうかは分からないの。

下す 東海東山北陸三道諸國の源氏竝びに群兵等の所
應に早く清盛法師竝びに從類叛逆の輩を追討すべき事 ・・(略)・・
仍りて吾は一院第二の皇子として 天武皇帝の舊儀を尋ね 王位を推し取るの輩を追討し
上宮太子の古跡を訪ねて 佛法破滅の類を打ち亡ぼさんとす
唯り人力の構えを憑むに非ず 偏に天道の扶けを仰ぐ所なり
之に因りて如し帝王三寶神明の冥感有らば 何ぞ忽ちにして四嶽合力の志無からんや
然らば則ち源家の人 籐氏の人 兼ねては三道諸國の間 勇士に堪うる者は同じく輿力せしめよ
もし同心せざるに於いては清盛法師の從類に准じて 死流追禁の罪過に行うべし
もし勝功有るに於いては 先ず諸國の使節に預からしめ
御即位の後 必ず乞いに隨いて勸賞を賜うべきなり
諸國宜しく承知し 宣に依りてこれを行へ

以仁王の令旨と云っても、実際には頼政の子息・仲綱が取り次ぐ形の文面になっているの。省略した部分では平清盛や宗盛の圧政・専横振りに対する批判が記され、ことば遣いこそ高貴ですが、内容は罵詈雑言なの。以仁王と頼政が敗死すると、以仁王の令旨が独り歩きを始め、令旨に応えて挙兵しようとする動きが出て来たの。

【吾妻鏡】の治承4年(1180)6/19の条では、三善康信の弟・康清が頼朝のいる北条館を訪ねて奥州に逃れるようにと勧めますが、康信の母親は頼朝の乳母妹でもあったことから康信は頼朝の配流当初から毎月使者を遣わしては都の情勢を事細かに伝えていたの。康信の遣いは月に三度程の頻度で伝えられていたとされ、異郷の地にありながら頼朝はかなり的確な状況判断が出来る環境にあったみたいね。

去る月廿六日高倉宮御事有るの後
彼の令旨を請くるの源氏等 皆以て追討せらるべきの旨其の沙汰有り
君は正統なり 殊に怖畏有るべきか 早く奧州方に遁れ給うべきの由存ずる所なりてえり

けれど、既に反平家の動きを察知した清盛側では源氏討伐に傾き、その矛先は源氏の嫡流である我が身に真っ先に向かうと見た頼朝には挙兵以外に選択の余地は無かったと云うわけ。そうなると頼朝の周囲も俄に慌ただしくなるの。三浦一党の三浦義明の次男・義澄や千葉常胤の六男・胤頼などが上洛の帰路に北条館に頼朝を訪ねてくるようになるの。頼朝は挙兵する機会を密かに窺っていたと評されていますが、崖っぷちに立たされて仕方なく挙兵したとするのが本当のところみたいね。最大の防衛策は攻撃よね。






どこにもいけないわ