≡☆ 土佐の高知のはりまや橋で ☆≡
1996/07/27 - 1996/07/30

ふと目にした桂浜の景観写真に魅せられて四国行を思い立ってみたものの、費用と時間に阻まれて、東側は次回に訪ねることにして、西側を駆け足で巡ることにしました。尚、掲載の列車やバスのダイヤ並びに料金などは当時のものですので予め御了承下さいね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。

一日目:土佐の高知のはりまや橋で

1.JR東京駅 とうきょう 21:00着 9番線

あれから大分経ちますが費用と時間の制約は益々厳しさを増して、再訪することも能わず今日に至っています。なのでここでは当時を回想しつつ、新たに知り得た事柄を含めて纏めてみました。余り参考にはならないかも知れませんが読物としてお楽しみ下さいね。寝台特急・瀬戸 特急券:¥3,090 寝台券:¥6,180 乗車券:¥10,800

2.JR高松駅 たかまつ 7:35着 8:51発

特急しまんと 高知と聞けば最初に思い浮かぶのが「よさこい節」に歌われるはりまや橋よね。そのはりまや橋は必須ですが、高知城と竹林寺に加え、桂浜を観て歩くとなると一日では無理かも知れないわ、それなら次に優先させるのはやはり桂浜で、時間があれば帰り道に竹林寺に立ち寄ることに−とコース設定してみました。なのでここでは高知城は訪ねることなく終えています。その高知城が気になる方は 高知城公式HP を御参照下さいね。特急しまんと3号 特急券:¥1,380( 乗継割引 )乗車券:¥2,600
素材提供:お貸し屋さん

3.JR高知駅 こうち 11:04着

高知城 高知駅に降り立ち、先ずは手荷物を預けて身軽になろうと今宵の宿泊を決めていた 土佐御苑 に向かいました。同館からはりまや橋までは歩いても15分足らず。

高知県の最新の観光情報が気になる方は左掲のサイトを御参照下さいね。因みに、高知城の画像も同サイトからの借用です。土佐観光写真集の頁には他にも素敵な画像が沢山アップされていますので是非、御覧の上でお出掛け下さいね。
素材提供:よさこいネット

4.はりまや橋 はりまやばし

道路標識 ♪土佐の高知の はりまや橋で 坊さん かんざし買うを見た よさこい よさこい♪と唄われる「はりまや橋」は竹林寺のお坊さんだった純信と鋳掛屋の娘・お馬さんの悲恋物語の舞台として語り継がれているの。訪ねた時には嘗ては流れていたと云う堀川も埋設され、緋い欄干が歩道の防護柵みたいに立つだけで、その「がっかり名所」を新たに親水公園として整備して汚名返上しようと生憎の工事中でした。以降の掲載画像は装いを新たにしてからのものですので御安心下さいね。

その「はりまや橋」の名の由来ですが、嘗て掘川が流れていた頃に、川を間にして御用商人の播磨屋と櫃屋が店を構えていたのですが、舟での往来に不便を感じた両家は私費で橋を架けたの。それが播磨屋橋の始まりで、櫃屋橋とならなかったのは播磨屋の方が隆盛を極めていたからかもネ。ところで、その純信とお馬さんの悲恋物語ですが、巷で語られるところを纏めてみると。

時は幕末、高知の五台山にある竹林寺の修行僧・純信は禁を破り、鋳掛屋の娘・お馬さんに想いを寄せるようになったの。そんなある日のこと、二人ははりまや橋の袂で落ち合うことを示し合わせると、純信は小間物屋でかんざしを買い求め、お馬さんにプレゼントしたの。ですが、純信は僧籍にある身ですので、二人のそれは許されぬ恋。純信がお馬さんにかんざしを買い与えたことがやがて街中の噂となり、いたたまれなくなった二人は急き立てられるようにして駆け落ちするの。

けれど、捕らえられて土佐に連れ戻され、裁きを受けて互いに離れた土地に追放されると、その後は再びまみえることも無く一生を終えたと云うの。ところが、事件のあらましが気になり、調べ始めてみると、巷の風評とは異なる事実が次々に。中でも「かんざしを買い求めたのは純信ではない」と云う記述を見つけたξ^_^ξは目が点になってしまったの。

はりまや橋 はりまや橋

じゃあ、よさこい節に唄われる♪坊〜さん♪は誰なのよ?と云うことになるのですが、お馬さんに想いを寄せる修行僧に、同じく竹林寺の慶全がいたの。かんざしを買い求めたのは実はこの慶全なの。お馬さんはとても綺麗な方で、一説には茶髪だったことから余計に目立つ容姿をしていたみたい。一方の慶全にしても風評ではお馬さんに負けず劣らず、仲々の美男子との噂が。その二人が相思相愛となればロミオとジュリエット状態になるハズでしたが、歯車は意外な方向に廻り始めるの。

純信にしても修行僧とばかりに思っていたのですが、実はレッキとした住職で、年齢にしても37歳だったの。京都に修行した後、竹林寺の末寺の住持を経て南坊の住職となっていたの。その竹林寺にしても土佐藩の外護を得て七堂伽藍を備えるなど格式ある寺院で、南坊はその中の脇坊の一つと雖も、その住持を務めるにはそれなりの地位と教養が必要だったみたい。

はりまや橋 一方の慶全は25歳の適齢期で、当初はお馬さんもその慶全と好意を寄せ合う間柄だったのですが、やがて住職の純信に心を寄せるようになるの。そんなお馬さんの心変わりに気付いた慶全は、かんざしをプレゼントしてその恋心を我が身に繋ぎ止めようとしたわけ。けれど、修行僧の身でありながらお馬さんに寄せる慶全の恋心を知った純信は、彼を竹林寺から追放してしまうの。戒めに留まらず、厳罰を以て処した背景には、お馬さんに好意を寄せていた純信の嫉妬心があったのかも知れないわね。

お馬さんの心が既に自分から離れてしまったことを知らされた慶全は純信を恨み、かんざしを買い求めたのは自分では無くて純信であると街中に云い触らしたの。純信は僧籍にありながら色恋に身をやつす破戒僧であると。その時のお馬さんは17歳。親子ほど歳の離れた純信にお馬さんが恋心を抱くとはちょっと不思議に思われるかも知れませんが、洗濯物や縫い物などの用使いをする母親に連れられて竹林寺脇坊に出入りする内に、お互いに意識するようになったのでしょうね。

純信:文政2年(1819)に現在の土佐市市野々に生まれているの。父母の職業は不詳ですが、江渕要作・さわの二男に生まれ、本名は江渕要。兄弟は僧籍に身を置く者が多く、彼もまた京都で修行した後に末寺の住持を務め、後に竹林寺南坊住職となっているの。生涯に幾度か名を替えていて、自他を含めて時系列に纏めると 江渕要 ⇒ 禅之(せんなり) ⇒ 純信 ⇒ 岡本要 ⇒ 中田与吉 ⇒ 慶翁徳念和尚 と、傍目には凡そ同一人物とは思えないわね。事件後にはそれだけ人目を欺く必要があったと云う傍証でもあるわね。

お馬さん:天保10年(1839)に鋳掛屋職人の娘として生まれ、武家屋敷に奉公に出た後に里帰りして母親の仕事を手伝いをするようになったみたい。母親は竹林寺にも出入りして洗濯物や縫物などの用使いをしていたと云うのですから、クリーニング屋さんと仕立屋さんの兼業ね。別伝ではその美貌を武器に「其の時分 給仕として諸家の宴席に雇われ行きたり」と、今で云うところの派遣コンパニオンのアルバイトもしていたみたいで、云い寄る若侍どもが数多と云うのですから、美しさは罪でもあるわね。純信もお馬さんの、その妖艶な美しさに引き込まれて我を見失ってしまったのかも知れないわね。

互いに置かれた境遇の違いから結ばれぬ恋と知りつつも心は裏腹に寧ろ募る一方で、慶全の流言飛語が功を奏して二人の噂は街中に溢れていたみたい。やがて寺側の知るところとなり、純信は謹慎に、お馬さんは寺への出入り禁止処分となるの。ところが逢えぬことで互いの恋心は以前にも増して燃え上がり、二人の関係にしても知らぬ者は誰一人無く、純信はお馬さんと示し合わせると街の噂に急き立てられるようにして駆け落ちしてしまったの。

二人は土佐を離れて京都へ向かう積もりだったみたいね。今でこそ何処に行くにも自由ですが、当時は通行手形が無ければ関所を通ることが出来ない時代。駆け落ちする二人には当然ですが許可証たる通行手形がある訳も無く、番所が設けられている所では山道を迂回しての逃避行で、結果的には関所破りの大罪を負うハメになるの。現在では高知自動車道が縦走しますが、二人は手に手を取り、笹が峰の険しい峠道を越えていったの。

やがて現・香川県琴平の旅籠に辿り着くのですが、そこで追手の役人に見つけられてしまうの。道中の疲れもあったのでしょうが、二人はそこで出帆する船を待つ積もりだったみたいね。捕らえられた二人は高知へと連れ戻され、4ケ月に及ぶ入牢の後、純信は土佐から所払いとなり、川之江に。一方のお馬さんは安芸川以東に追放の処罰に賦されて現在の安芸市安田町にあった宿屋に住み込みで働くようになるのですがそれも束の間で、再び所替わりさせられ、須崎に落ち着くの。所替わりさせられた理由は国外追放になった純信が行商人に扮してお馬さんを連れ出しに来たからとも云われているの。

結局は騒ぎを起した廉で捕らえられ、再び国外追放となるのですが、純信のお馬さんに対する想いを象徴する逸話でもあるわね。エッ?あなたもそこまで想われてみたい?

その純信は川之江で土地の顔役・娚石(みょうといわ)亀吉こと川村亀吉の援助を受けて寺子屋を開設して生活の糧を得ていたみたい。その頃には僧籍も剥奪されて立場の違いによる障壁は無くなり、お馬さんを想う心から今一度恋文をしたためて知り合いに託してもいるの。残念ながらその知り合いがお馬さんを訪ねてみると既に嫁入りした後で今更手渡してみたところで詮無いことよ−と諦めざるを得なかったの。

はりまや橋 はりまや橋商店街 はりまや橋商店街

恋文の中では差出人の名を岡本要と替えていますが、たとひ何年懸かりても連れ行き申すべく候故 左様御承知置き下さるべく云々−と認めているの。詳しくは後述の【純信の実像を探る】を御読み戴くとして、その行間からはお馬さんに対する想いが溢れ、思わず胸がジーンと熱くなる秀文よ。ここでは漢字混じりで紹介しましたが、実際にはお馬さんのことを考えてひらがなで書かれているの。その手紙にしても知人は当初からお馬さんに届ける積もりは無くて、戯れに屏風に貼りつけて訪ね来る人に見せては楽しんでいたとする別伝もあるの。だとしたら人の心を弄ぶ、とんでもねえヤロ〜よね。それこそ市中引き廻しの上、打馘獄門よ。

路面電車

その後、純信がお馬さんの心変わりを風の便りに聞かされたのかどうかは分かりませんが、後盾をしてくれていた娚石亀吉が亡くなると川之江を離れて再び消息を絶つの。その後の足取りは不詳ですが、後述の【純信の実像を探る】の著者・矢野安民氏の調査では、その間に連れ合いも得て安政5年(1858)には長女・サダヨが、元治元年(1864)には長男の熊太郎が生まれ、その血脈は今に続いているとのこと。

路面電車 路面電車 路面電車 路面電車

その純信ですが、明治21年(1888)に69歳で没し、現在は愛媛県上浮穴郡美川村に眠るの。幕末から明治維新と云う過渡期にひたむきな愛に生きた純信ですが、時代をたがえていたらまた違った人生があったのかも知れませんね。ですが、それはそれとして、連れ合いを得てからはそれなりに幸せな人生であったと思いたいものですね。

一方、お馬さんのその後ですが、須崎では庄屋の監視下のもと、世話役宅に預かりの身となるのですが、その庄屋に出入りする大工の寺崎米之助に請われて嫁入りするの。やがて長男・徳太郎が家業を継いで大工となり上京し、後に陸軍の御用大工に採用されたのを機に一家して東京に移住するの。純信と愛の逃避行に燃えたお馬さんも、米之助に嫁いでからは穏やかな暮らしに終始したみたい。そのお馬さんですが、現在は故郷を遠く離れて、東京都北区にある西福寺に眠っているの。下掲の4枚はその西福寺ですが、右側が供養碑の「お馬塚」なの。

西福寺 西福寺 お馬塚 お馬塚

以上を踏まえて、改めて「よさこい節」に耳を傾けてみて下さいね。右の画像をクリックしてみて下さいね。但し、再生の可否は御利用の環境に依存しますので御容赦下さいね。因みに、音源は 童謡・唱歌の世界 様よりお借りしています。

よさこい祭
土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た よさこい よさこい
御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸を開けて 月の名所は桂浜
云うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く鯨(さかな)が泳ぎよる
土佐は良い国 南をうけて 薩摩おろしがそよそよと
わしの情人(といち)は 浦戸の沖で 雨にしょんぼり濡れて鰹釣る
夜さ来い晩に来いと 云わんすけれど 来てみりゃ真実来いじゃない
西に竜串 東に室戸 中の名所が 桂浜
思うて叶わにゃ 願かけなされ はやる安田の 神の峰
来るか来るかと 待つ夜にゃ来ずに 月の種崎 松ばかり
土佐の名物 珊瑚に鯨 紙に生糸 鰹節

記述に際しては下記を参照させて頂きました。
お二人の地道な探査は敬服の限りですが、とりわけ矢野氏のことばが余韻として残ります。

一世紀以上にもわたって「よさこい節」が歌い続けられるということは、一方で、一族にとって身を切るような側面もあったのではないかと思うのです。その人たちの気持ちを決して無視してはいけないと思うのです。それを考えるやさしさも必要ではないでしょうか。

[ 1 ] 高知新聞社刊 矢野安民著「純信の実像を探る」
[ 2 ] 高知新聞社刊 岩崎義郎著「追跡!純信お馬−駆け落ち百五十年−」

5.桂浜 かつらはま

はりまや橋から桂浜へはバスに乗車して向かう積もりでいたのですが、生憎と運行本数が少なく時間を節約するために、止むを得ずタクシーを利用しています。今でしたら高知県観光コンベンション協会が運行する「MY遊バス」がお薦めよ。高知駅〜はりまや橋〜五台山(竹林寺)〜桂浜を巡る周遊バスですが、路線図や時刻表などの詳しい情報は よさこいネット を御参照の上で御利用下さいね。参考:はりまや橋⇔桂浜 タクシー料金:¥2,850 約20分所要

龍頭岬と龍王岬を結ぶ砂浜がこの桂浜。古くから白砂青松の美しいことで知られ、月の名所として歌にも詠まれているの。現在は一帯が桂浜公園として整備され、 とさいぬパーク 桂浜水族館 などの施設もあり、桂浜を見下ろす高台には 高知県立坂本龍馬記念館 があるの。訪ねた時には他にも約4,300種100,000点余に及ぶ貝殻を展示する「うぶすな博物館」があったのですが、閉館してしまったみたいね。

桂浜

坂本龍馬像


桂浜の砂浜を前にして一角には坂本龍馬の銅像が立ちますが、昭和3年(1928)に地元の有志の方々の手により建てられたもの。昭和58年(1983)に台座の修復を経て、平成11年(1999)には大改修を経ているの。その幾れもが龍馬ファンからの寄付金で費用を賄っていると云うのですから如何にファンが多いかの証左でもあるわね。平成11年(1999)の改修時には6,000万円にも届こうと云う金額の募金が集められたと云うのですからスゴイ!のひとことよね。
素材提供:お貸し屋さん

左掲の画像は訪ねた時のものですので改修以前の龍馬像ですが、太平洋を見つめて毅然と立つ姿は新しい時代の幕開けを希求・予見した龍馬の姿そのものね。幕末の志士として活躍した龍馬ですが、大政奉還を成し終えて正にこれからと云う時に、同郷の中岡慎太郎と近江屋の二階で話し込むところを刺客に襲われ暗殺されているの。時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳と云う若さ。この龍馬像は志を一にしながら共に散った慎太郎の像(室戸岬)と向き合って建てられているとも云われているの。昨今の世情を観るに付け、まさに−日本を今一度せんたくいたし申候−と思っているのかも知れないわね。

桂浜


ところで、幕末の郷士達が酒宴の余興で歌い始めたことから流行るようになったと云う「よさこい節」ですが、♪よさこい〜よさこい♪と掛け合いながら、龍馬も慎太郎も共に豪気なところを見せ合っていたのかも知れませんね。それにしても♪おらんくの池にゃ♪と太平洋を自分ちの池にしてしまうのですから、豪気なことこの上無いわね。因みに、その高知沖ではホエール・ウオッチングも出来るの。船は苦手よ、と云うあなたは 桂浜水族館 へお立ち寄り下さいね。アシカやイルカのショーが見られますよ。

6.竹林寺 ちくりんじ

三重塔 桂浜の散策を終えて次に向かったのが竹林寺。紹介しましたように、純信が住職を務めていた脇坊があったのがこの竹林寺なの。寺伝では、神亀元年(724)に行基が開基したとされる古刹で、聖武天皇が唐(中国)の五台山に登頂して文殊菩薩を感得した霊夢を見たことから、日本でも似た地形の山を見つけて、そこに伽藍を建てるよう勅命したの。それを受けて行基は諸国を廻り、当時は大島と呼ばれていたこの地に竹林寺を開基したと云うわけ。後に弘法大師が堂宇を修復し、江戸時代には土佐藩の外護を得て隆盛し、嘗ては七堂伽藍を備えた大寺でもあったの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

本堂 正式な山号寺号は五台山竹林寺で、現在は真言宗智山派の寺院。四国霊場第31番札所として参詣者も多く、訪ねた時にもお遍路さん姿の方々がお参りされていました。本堂に祀られる本尊の文殊菩薩像は「日本三文殊」の一つにも数えられているのですが、残念ながら50年に一度開帳されると云う秘仏なの。因みに、次回のお披露目は2014年よ。

参考:桂浜バス停〜竹林寺〜土佐御苑 タクシー料金:¥5,480

二日目:竜串海岸と足摺岬

高知を後に次に訪ねたのが足摺岬。と云っても当時、高知県交通(株)が運行していた定期観光バスの「竜串足摺岬めぐり」を利用しての駆け足観光です。掲載している料金や時刻などは全て訪ねた当時のものですので御注意下さいね。

7.JR高知駅 こうち 8:28発

残念ながらその高知県交通(株)も分社化されて現在は観光バス事業は貸切をメインにして定期運行からは手を引いてしまったみたい。なので今となっては他の旅行会社が主催するバス・ツアーを利用する方法しか無くて、公共の交通手段となると残るは 高知西南交通 の路線バスに頼るのみになってしまいましたね。高知駅からはJR四国の特急「あしずり1号」に乗車。特急券:¥2,330 乗車券:¥2,300

8.窪川駅 くぼかわ 9:42着&発

この窪川駅まではJR四国の土讃線ですが、ここから先は 土佐くろしお鉄道 への乗り入れになるの。訪ねた当時は窪川⇔中村を結ぶ中村線の開業でしたが、平成9年(1997)には宿毛まで延伸。平成17年(2005)03/02にはその宿毛駅構内での特急列車の衝突事故と云う不名誉な出来事を経験しましたが、同年11/01に全線での運転を再開しているの。運営は沿線自治体に依る第三セクター方式で、まさに〜おらんくの庭には陸蒸気が走りよる〜と云うわけ。詳しくは 土佐くろしお鉄道 中村・宿毛線 を御参照下さいね。乗車券:¥1,040

9.中村駅 なかむら 10:26着 10:35発

高知県交通バス 既に紹介済みですが、当時乗車したのは高知県交通(株)が運行していた定期観光「竜串足摺岬めぐり」(料金:¥6,750)。その高知県交通(株)も分社化されて、現在は高知西南交通(株)が四万十川や足摺岬を中心にバスを運行していますが、残念ながら定期観光バスは無いの。掲載画像は頂いたパンフからの転載ですが、写真ではガイドさんも一緒に写りますが、この「竜串足摺岬めぐり」コースでは添乗せずにワンマン運行で、車内での観光案内は専らテープに依るものでした。

四万十川 中村駅を出発したバスは一路南へ向けてR321を走りますが、街中を抜けるとしばらくは日本最後の清流と呼ばれる四万十川のたゆとう流れを車窓に観ることが出来ました。総延長200Kmにも及ぶ大河は小説家の高橋治さんのことばを借りると−外来の客を暖く迎える土佐人のように悠揚迫らざる表情−で、確かに「ござれの怪魚」が潜んでいてもおかしくない豊かな水量ね。出来ることなら別に一日を割いてその豊かな清流に親しんでみたいところですね。

記述に際しては高橋治著『流域』新潮文庫版を参照させて頂きましたが、「ござれの怪魚」とはアカメのこと。異名の云われは同書をお読み頂くとして、その姿形が気になる方は アカメの国 を御参照下さいね。実物をこの目で見てみたいの!と云うあなたは桂浜をお訪ねの際に 桂浜水族館 へ忘れずにお立ち寄り下さいね。

10.足摺海洋館 あしずりかいようかん 11:47着

中村駅からは1時間余でようやく竜串海中公園に到着。予定では海中展望塔のある 足摺海底館 を訪ねることになっていたのですが、天候の影響で海中の透明度が低いことから急遽 足摺海洋館 に変更されてしまったの。こればかりは自然の営みの成せる業ですので致し方の無いことね。その海洋館では近海のお魚達を中心に150種3,000匹余が飼育展示されているの。中でも見処は1mを越す大型魚が泳ぎ廻る海洋水槽ですが、知らない名のお魚達ばかりでした。尤も食べたことのあるお魚しか知らないξ^_^ξですが、それも姿形と云うよりは専ら味覚の方のお話しね。

11.竜串観光センター たつくしかんこうせんたー 12:50着 14:05発

こちらの2Fで遅めの昼食を取った後には 竜串観光汽船 のグラスボートで海底散策の予定でしたが、海上の波が高くて欠航中。なので詳しい御案内が出来ませんので同サイトを御参照の上でお出掛け下さいね。乗船出来ない場合には「海のギャラリー」こと、貝類展示館を見学し、後は自由散策との案内にちょっとがっかり。グラスボートの船底からは色とりどりの造礁サンゴが見られると云うことでしたが。因みに、レスト竜串から 足摺海底館 に向かう途中の発着所からは たつくし海中観光 のグラスボートも出ているの。最近では両社共、従来のグラスボートに加えて半潜水船を就航させ、よりリアルな海底散策が楽しめるようになったみたいね。詳しくは両社のサイトを御参照下さいね。

海のギャラリー とはお洒落な名前の施設ですが、正式名称は土佐清水市立竜串貝類展示館。説明では地元在住の洋画家・黒原和男氏から寄贈された貝類コレクションを基に昭和42年(1967)に開館したものだそうで、日本三宝と評されるテラマチタカラガイ、オトメダカラガイ、ニホンタカラガイなどの貴重な貝殻を含む80,000点余が収蔵・展示されているの。陳列される貝殻もさることながら、建物もシャコ貝をイメージして造られたものでしたが、近年リニューアルされたみたいね。

12.足摺岬ハイウエイ展望台 あしずりみさきはいうぇいてんぼうだい 14:35着 14:55発

展望台 バスは竜串から再び土佐清水まで戻ると足摺スカイラインを縦走します。自然休養林に覆われた山の稜線を縫うようにして走るスカイラインで、眼下に広がる太平洋の大海原に真夏の太陽が陽射しを浴びせていました。途中にある展望台では暫時の休憩タイム。この時にはビーチパラソルを広げて暖簾をなびかせるおじさんを見つけてかき氷(¥300)をゲットしましたが、売店らしき施設があるわけでもなく、普段は展望台を兼ねた休憩スポットみたい。一説にはバイクツーリング時の野営地だとも。

13.足摺岬BT あしずりみさきばすたーみなる 15:12着 16:10発

足摺岬 この足摺岬は南から流れ来る黒潮が初めて日本列島に接するところ。亜熱帯性の植物群と椿の樹林に覆われた岬には遊歩道が整備され、切り立った断崖に白く豪快に砕け散る波の景観を楽しむことが出来るの。先端に建つ白亜の灯台の他にも海蝕洞門の白山洞門や亀に似た姿形をした亀石など、足摺七不思議と呼ばれる弘法大師所縁の見処もあるのですが、その全てを見るとなるととても一時間では無理ね。ここではダイナミックな景観のみの紹介になってしまいますが御容赦下さいね。

四国最南端に位置する足摺岬の突端に建つ白亜の灯台は足摺岬の象徴でもあるわね。80mの断崖絶壁に立つその足許には押し寄せる波濤が飛沫をあげているの。「日本の灯台50選」にも選ばれる足摺岬灯台ですが、初点灯は大正3年(1914)のことで、昭和35年(1960)に現在のロケット型の建物に改築されているの。残念ながら内部への登灯は出来ませんので飛行士気分を味わうことは出来ないの。

自然遊歩道の出口近くにはジョン万次郎の銅像が建てられていました。詳しいことは知らなくても一度位は歴史の教科書でその名を耳にしたことがあるのではないかしら。どうしてこんなところに銅像があるのかと云えば彼はこの足摺岬に程近い中ノ浜に生まれたの。かく云うξ^_^ξも遠い昔のことで今となっては「この人、何をしたんだっけ?」状態ですので、改めてその略歴を紹介してみますね。

万次郎は江戸時代の文政10年(1827)に貧しい漁師の家に次男として生まれているの。10歳の頃には父親を亡くし、漁師見習いとして働いていたみたいね。天保12年(1841)14歳の時には出漁中に嵐に遭遇して当時は無人島だった小笠原諸島の鳥島に流されてしまうの。無人島生活では海鳥などを捕まえて生き長らえたみたいですが、彼だけでなく5人の仲間がいたことも心強い支えになったのではないかしら。幸運なことに漂着から半年後には運良く通り掛かったアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助されたの。尤も偶然と云うよりも食糧となる海亀の卵を求めて乗組員が島にやって来たみたいね。

他の仲間達の年齢がξ^_^ξには不詳ですが、彼の14歳と云う若さが幸いしたのかも知れませんね、ホーランド号のウイリアム・H・ホイットフィールド船長は彼をアメリカ本国に連れ帰り、我が子同様にして学校教育を授けるの。名前も捕鯨船のジョン・ホーランド号に因み、ジョン・マン John Mun と名付けられて、英語のみならず、航海術や測量術、捕鯨術なども修得しているの。後にその知識を生かして捕鯨船に乗り込み、七つの海を周航することになるの。

そうしてそのままアメリカに帰化するかに思えた万次郎ですが、24歳の時に俄に帰国を決意するの。一説では婚約者もいたのですが、長い航海から帰ってみると事故で亡くなっていたとも云われているの。愛する人を失い、絶望感に打ちのめされた彼はホームシックを覚えたのかも知れませんね。ですが帰国を決意したからと云って今みたいにジェットでひとっ飛びと云うわけにはいかないの。船の航海には莫大な費用と時間が必要で、まして当時の日本は鎖国時代。ようやく辿り着いたところで取り調べのために入牢させられてしまい、この土佐の地に帰り着いたのは2年も後のことなの。

困難を極めた帰国ですが、幸いなことに黒船の来航の2年前だったの。ペリーが浦賀に現れた後では帰国出来なかったかも知れませんね。ですが幕府を震撼させた黒船来航は万次郎の生活も再び一変させてしまうの。語学に堪能で海外の事情に精通することから漁師の身分からいきなり苗字帯刀を許されて土佐藩に登用されるの。生誕地が中ノ浜だからと中浜の姓を得たのはこの時のことね。そうして遂には幕府の直参旗本に取り立てられるのですが破格の扱いよね。

その後、大政奉還、明治維新と云う大きな歴史のうねりの中で彼は大活躍するの。航海術書や公文書の翻訳などで多忙な日を送ることになり、航海や捕鯨の実地指導も行っているのですが、咸臨丸の太平洋横断は彼無くしては成功しなかったでしょうね。帰国に際しては書籍の他にもカメラやミシンなどを持ち帰っているのですが、江戸で初めて写真撮影を行ったのは万次郎だと云われてもいるの。明治2年(1869)には開成学校(東大の前身)の教授に任ぜられて後進の指導に当たるのですが、44歳の時に健康を損ねてからは表立った活動はしていないの。明治31年(1898)にはその数奇な運命の生涯を71歳で閉じているの。

万次郎の最大の幸運はやはりホイットフィールド船長に助けられたことでしょうね。東洋人の万次郎を差別無く我が子同然に扱ってくれたことは当時としては希有の出来事ではないのかしら。万次郎は日本に帰国してからも明治3年(1870)に視察団の一員として西欧に赴いた際にアメリカに足を延ばしてホイットフィールド船長と再会を果たしているの。両家の交流は世代を超えて引き継がれ、現在に至ると云うのですから素敵ですよね。本当の国際交流はこんな個人的なところにあるのかも知れませんね。

金剛福寺 残念ながら時間切で拝観出来ずに終えていますが、駐車場の直ぐ傍には四国霊場第38番札所の金剛福寺があるの。弘仁13年(822)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願を受けて開基したと伝えられる古刹で、四国最南端の霊場として古くから観音浄土への渡海修験場でもあったの。本堂には弘法大師の作とされる三面千手観音像が安置され、愛染堂には県の文化財に指定される愛染明王像に象頭人身の大聖歓喜天像が脇侍すると聞きます。愛染明王と云えば愛のキューピッドよろしく弓矢を手に持ち、象頭人身の聖天像に至っては男女和合の像容が普通なの。
素材提供:お貸し屋さん

金剛福寺に奉られる実物を拝観したわけではありませんので機会がありましたら御覧になってみて下さいね。歓喜天のことが気になる方は鎌倉歴史散策−鶴岡八幡宮編の 青梅聖天社 の項を御笑覧下さいね。CMでした(笑)。

余談ですが、この足摺岬は嘗ては海の遙か彼方に存在すると信じられていた観音浄土の補陀洛山へ船出する際の湊でもあり、灯台の建つ岬を含めた一帯が金剛福寺の境内地でもあったの。

足摺岬 補陀洛はサンスクリット語のポータラカ Potalaka の音写で、元々はインドの南海岸の地名で、観音菩薩が住む処と信じられていたの。ニライカナイの常世信仰や蓬莱島伝説にも同じような宗教観がありますが、古くから海の彼方には理想郷があると信じられ、日本では観音信仰の隆盛に合わせ、極めて特異な補陀洛渡海が行われたの。有名なのは和歌山県の那智勝浦ですが、この足摺岬でも生きながら極楽浄土への到達を希求した修行者達が小舟に揺られて湊を離れたの。【発心集】の「或る禅師 補陀洛山に詣づる賀東上人の事」の段には

足摺岬 土佐の国に知る処ありければ 行きて新しき小舟一つまうけて 朝夕これに乗りて梶取るわざを習ふ その後梶取りをかたらひ 北風のたゆみなく吹きつよりぬらん時は告げよと契りて其の風を待ちえて 彼の小舟に帆かけて ただ一人乗りて南をさして去りにけり 妻子ありけれど かほどに思ひ立ちたる事なれば留めるにかひなし 空しく行きかくれぬる方を見やりてなん 泣き悲しみけり 是を 時の人 こころざしの至り浅からず 必ず参りぬらんとぞ おしはかりける

足摺岬 −と記されているの。また、舞台は南紀勝浦ですが、鎌倉幕府の半ば公式記録とも云える【吾妻鏡】にも天福元年(1233)の事として「熊野那智浦より補陀洛山に渡るの者有り 智定房と号す・・(中略)・・彼の乗船は屋形に入るの後 外より釘を以て皆打ち付け 一扉無くして日月の光を観る能はず 只燈に憑る可し 三十ケ日の程の食物并びに油等 僅かに用意すと云々」と記されているの。補陀洛渡海のことを知ると四国霊場の中でも他の霊場からは遙か離れて最南端に位置するこの足摺岬が重い意味を持つことが分かって頂けるのではないかしら。

一時間と云う制約の中での岬巡りは駆け足とならざるを得ませんが、時間とお金に余裕があれば あしずり温泉郷 にも宿泊してみたいものですね。この頁では竜串海岸にしても足摺岬にしてもその魅力のホンの一部を紹介したに過ぎません。他にも多くの見処を抱えていますので 土佐清水市役所公式HP などを御参照の上でお出掛け下さいね。

14.中村駅 なかむらえき 17:15着

翌日は宿毛経由で宇和島への移動を計画していましたので、この日は中村市内にある桂月別館に宿泊。中村市※と云えば清流・四万十川を巡る際の云わばベースキャンプでもあるわね。食膳にはその四万十川で採れた川海苔のアオサノリや天然鰻の蒲焼き、川エビの唐揚など貴重な食材を使用した料理が並びます。因みに、川エビ漁は伝統漁法の柴づけ漁で行われ、最盛期は6月から8月にかけてのことだそうで、正に夏の味覚なの。

カツオのたたき 川エビと川海苔 うなぎ 皿鉢料理

そして当館でのもう一つの感激ものがクマゼミの鳴き声が聞けたこと、それも部屋の窓から手を伸せば届きそうなところで鳴いていたの。地元の方でしたら改めて意識することもないのでしょうが、関東以北ではその鳴き声を聞くことは先ず無いのではないかしら。それが生きたまま、増して鳴き声をあげているところを間近に見られるなんて。ここでは豊かな自然が正に手の届くところにあるの。

※中村市は 2005/04/10 に西土佐村と合併して現在は四万十市になっているの。
旧中村市の観光案内や宿泊情報は 四万十市公式HP を御参照下さいね。

三日目:宇和島散策と道後温泉

旅も三日目のきょうは宇和島散策と道後温泉への宿泊です。尚、掲載している料金や時刻などは全て訪ねた当時のものですので御注意下さいね。

15.中村(桂月別館) なかむら 8:30発

今では 土佐くろしお鉄道 も宿毛まで延伸されて便利になりましたが、当時は中村駅が終着駅だったの。なので宿毛迄はバスを利用する積もりでいたのですが宿のチェックアウトを済ませ、いざバス停に向かうとホンの少し前に通り過ぎた後でした。宿毛では再びバスを乗り換えて宇和島に向かう予定でしたからそのバスに乗り遅れては大変!と緊急避難のために止むも得ずタクシーに乗車。宿毛までは中村間を東西に結ぶR56を走るのですが、内陸部にあることから田園風景の中を走るだけで海は見えないの。当時の料金で¥6,090でしたが乗りでがあったわね。途中、乗り遅れてしまったバスが前方に見えて追い越した時のξ^_^ξ達一行の恨めしげな視線。バスの運転手さんは気付いたかしら。

16.宿毛BS すくもばすせんたー 9:00着 9:22発

宇和島バス ここで宇和島へ向かう路線バスへ乗り換えですが、出発までは時間の余裕がありましたので暇潰しに辺りをプラプラと散策。その途中で宿毛郵便局を見つけて記念預金。平日に旅することが少なく、預金額が一向に増えませんが、貴重な機会でした。因みに乗車したのは 宇和島バス ですが、路線バスにも関わらず、投入されている車両は観光バスのような瀟洒なものでした。生憎と手許にあるのは記念写真ばかりで乗車したバスの写真が掲載出来ませんが御容赦下さいね。乗車券:¥1,700

17.JR宇和島駅 うわじまえき 11:34着

ここでも駅前郵便局を見つけて記念貯金。ガイドブックには宇和島市内の主な見処として、天赦園と宇和島城が紹介されていましたので、駅から離れた天赦園を最初に訪ね、宇和島城を経て戻るコースにしてみました。事前の下調べでは宇和島市内バスの出口・薬師谷・柿の木方面行に乗車、天赦園前バス停で下車とあったのですが、いざ乗車しようとすると運行本数が極端に少なくて。乗車時間も10分足らずと聞いていましたので仕方なくタクシーを利用しています。因みに、当時の料金で¥700でしたが今なら幾らかしら?どうしてもバスに乗るの!と云う方は前掲の 宇和島バス に時刻表が掲載されていますのでにらめっこした上で御利用下さいね。不幸にして乗り遅れたりした場合には次のバスを待つよりは歩いてしまった方が絶対に早いと思うけど。

18.天赦園 てんしゃえん

天赦園 嘗てはこの辺り一帯も海だったの。宇和島藩の二代藩主となった伊達宗利(むねとし)は寛文12年(1672)にこの地を埋め立てて浜御殿を造成したの。その頃は未だ浜離宮恩賜庭園状態だったのでしょうね。その後、七代藩主となった宗紀(むねただ)が隠居所として造成し直したの。広大な敷地を持つ池泉廻遊式の大名庭園で、その敷地の2/3を占めると云う池には太鼓橋を模した藤棚も設営され、園内には伊達家の家紋「竹と雀」に因み、種類の違う竹が植栽されているの。藤にしても普通は薄紫色の花を想像しますがここでは珍しい白藤で、伊達家の祖先が藤原姓をルーツとすることから植えられたものなの。入園料:¥300
素材提供:お貸し屋さん

紹介が前後して恐縮ですが、伊達家と云えば真っ先に思い浮ぶのが伊達政宗よね。実は天赦園の名称由来となるのがその伊達政宗の漢詩なの。その境地には程遠いξ^_^ξですが、ちょっと紹介してみますね。

馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
ばじょうにしょうねんはすぎ よはたいらにしてはくはつおおし ざんくはてんのゆるすところ たのしまずしてこれをいかんせん

天赦園の見学を終えて宇和島城へと向かいましたが、天赦園の直ぐ傍には宇和島市立伊達博物館があるの。かく云うξ^_^ξも同類項なのですが、伊達家=仙台藩の図式に洗脳されている方が殆どで、何で宇和島が伊達家なの?と云う疑問がフツフツと湧いてくるのではないかしら。仙台と宇和島は今でも提携姉妹都市の間柄ですが、そのワケが知りたいの!と云うあなたにはこの伊達博物館がお薦めよ。天赦園の見学を終えたところで佐伯町郵便局を見つけて再び記念貯金。その後は宇和島東高脇を通り、宇和島城へと向かいました。

19.宇和島城 うわじまじょう

宇和島城は宇和島市のシンボル的な存在で、周囲は城山公園として整備されて市民の憩の場にもなっているの。現在は国の重要文化財に指定される天守閣のみを残すだけとなってしまいましたが、400年余の歳月を経ながら築城以来の風情を留める、全国でも数少ない天守閣の一つで、その姿形の美しさから鶴島城の別称を以て呼ばれることもあるの。見学時に頂いた栞に依ると、この地に最初に築城したのは在地豪族の橘遠保で天慶4年(941)のこととされているの。天守閣拝観料:¥200

ですが、その頃の宇和島は板島と呼ばれ、廻りを海に囲まれた島のような状態で、その板島に「藤原純友の乱」で知られる藤原純友が前線基地を造っていたみたいなの。乱暴な云い方かも知れないけど、早い話しが海賊達のベースキャンプね。その純友を駆逐した橘遠保がそのキャンプ地を利用して砦のような出城を築城したと云うわけ。その後、城主も幾度か変わるのですが、天守閣を持つ本格的な城が築城されたのは文禄4年(1595)に藤堂高虎が入部してからのことで、城郭と呼べる城が完成したのは文禄6年(1601)頃のこととされているの。

変遷を経て元和元年(1615)に伊達政宗の長子・秀宗が入城すると以後は伊達氏歴代の居城となるの。寛文年間には大修理を経てその後も小規模な修復を繰り返してはいますが、現存する天守閣は寛文年間に完成した姿を留めているの。栞には沿革が記されると共に安政2年(1855)に描かれた絵図が掲載されていますが、現在の城山公園全域に及ぶ敷地内に多くの建物が存在し、大掛かりな濠に護られて堅固な城郭だったことが窺えます。その外堀も明治維新後には埋設されてしまい、建物も悉くが取り壊されてしまったの。数少ない遺構の一つであった追手門(国宝)も昭和20年(1945)の戦災で焼失。現在はこの天守閣と共に市の文化財に指定される「上り立ち門」を残すのみになってしまったの。

20.JR宇和島駅 うわじまえき 14:52発

城山公園から降りたところで宇和島郵便局を見つけてきょう4度目の記念預金。ξ^_^ξのおサイフの中もかなり身軽になってしまったところで、松山に移動すべく、宇和島駅までは歩いて戻りましたが、伊達家10万石の城下町として栄えた宇和島には、伊達家所縁の寺社仏閣なども数多く残されているの。そんな宇和島の魅力をトコトン紹介して下さるサイトを見つけました。その名もズバリ ザ・宇和島 で、他では知り得ないローカルな話題が目白押しなの。是非御一読の上でお出掛け下さいね。宇和島駅からは特急「宇和海18号」に乗車。指定席特急券:¥1,830 乗車券:¥1,720

21.JR松山駅 まつやまえき 16:08着 16:23発

道後温泉への移動には今では珍しくなった路面電車に乗車。訪ねた時にはレトロな車両が街中に溢れ、まさに動く博物館。記念写真ばかりで画像の掲載が出来ませんが、乗車した車両のフロントフェイスには「63」とありますので昭和35年(1960)に投入されたものですね。訪ねた時には未だ未だ現役で、力強い走りを見せてくれたのですが、さすがに疲れてしまったみたいね。平成14年(2002)に始まる新型車両の投入に伴い、平成15年(2003)には廃車にされてしまったの。
補:記述に際しては 四国電車通り を参照させて頂きました。

坊ちゃん列車 その路面電車の軌道上を今では復活した「坊ちゃん列車」が走っているの。そのルーツは明治21年(1888)に松山(現在の松山市駅)⇔三津に開業した 伊予鉄道 で、762mmの狭軌を採用した軽便鉄道だったの。それを明治28年(1895)に松山中学校(現・松山東高校)の新米教師として赴任して来た夏目漱石が、後に小説【坊ちゃん】の中で−乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない−と描写したことから、いつからか「坊ちゃん列車」と呼ばれて親しまれるようになったの。

訪ねた当時には客車が子規堂に、機関車は三津浜の梅津寺パークに分かれて展示されるだけでしたが、動力こそディーゼル機関に変更されたものの、平成13年(2001)に復元されて古町駅前⇔道後温泉間を走るようになったの。「坊ちゃん列車」の歴史が 伊予鉄道 の「坊っちゃん列車物語」に掲載されていますので御参照下さいね。伊予鉄では他にもボンネット型の「マドンナバス」と云う周遊バスも運行していますので、今なら路面電車などと組み合わせて多彩な市内巡りが出来そうね。

22.道後温泉駅 どうごおんせんえき 16:43着

駅舎 路面電車の終着駅でもある道後温泉駅。改札を抜けて表に出てみるとこちらもレトロな印象の駅舎ですが、昭和61年(1986)に老朽化した建物を取り壊して新たに建て替える際に、明治44年(1911)に建てられた旧駅舎を再現したものなの。2Fには「坊ちゃん茶房」がありますので、道後温泉の足湯巡りなどの出発前の作戦会議に御利用下さいね。その道後温泉駅舎を後に商店街を歩きながら今宵の宿に向かいましたが、商店街の中にも「坊ちゃん」所縁のお店があるので忘れずにネ。

つぼや菓子舗
坊ちゃんが「おれの這入った団子屋は遊廓の入口にあって大変うまいと云ふ評判だから温泉に行った帰りがけに一寸食って見た」団子屋さんのモデル。と云っても現在のような三色団子になったのは後のことで、坊ちゃんが頬張った頃には小豆餡で包んだ素朴なものだったみたいね。
椿の湯
L字型した商店街の角地にあるのがこの椿の湯。道後温泉本館の云わば別館的な存在で、地元の方に親しまれる温泉。「それで赤シャツは人に隠れて、温泉の町の角屋へ行って芸者と会見するそうだ」とあるように、嘗てはこの場所に赤シャツが芸者と密会した角屋のモデルになった旅館があったみたいね。この「椿の湯」は昭和28年(1953)の開設と新しく、現在の建物は昭和59年(1984)に改築されたもの。
かど半本舗
その密会現場を見届けようと「角屋の前に枡屋と云ふ宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、障子へ穴をあけて、見ているのさ」と小説に出てくる桝屋のモデルとされるのがこのお店なの。当時は老舗旅館「かど半」の名を掲げていたのですが、昭和46年(1971)に現在のお土産屋さんに鞍替えしてしまったの。

23.花ゆづき(旧:ホテルはなゆづき)泊

浴衣 道後温泉を象徴する道後温泉本館ですが、残念ながら入浴のみで、宿泊することは出来ないの。かと云って地元の方でもない限りは日帰り入浴と云うわけにもいきませんね。訪ねた時には 花ゆづき に宿泊してみました。浴衣に着替えてからそぞろ歩きしながら道後温泉本館での入浴を楽しむ積もりでいたので、余り離れたところでは−と云う地理的な理由から決めたのですが、館内の至るところに女性的な優しさが感じられて、とても素敵なホテルでした。中でもξ^_^ξのお気に入りが御覧の浴衣なの。湯浴みに出掛ける際にはその浴衣に合わせて可愛らしい竹籠とタオルを貸してくれますので忘れずにネ。因みに、掲載画像は同館のHPからのもので残念ながらξ^_^ξではありません。手にする湯籠が気になる方は 竹屋 さんを御参照下さいね。

24.道後温泉本館 どうごおんせんほんかん

道後温泉 日本最古の温泉の一つにも数えられる道後温泉ですが、楼閣を思わせる本館も、平成6年(1994)に建築100周年を迎えたのを機に、国の重要文化財に指定されたの。道後温泉を象徴する三層楼ですが、建築当時でも莫大な資金が必要で、周囲からは大反対されたのですが、後世の町の繁栄のためにと強行突破したのが当時の湯之町町長を務めていた伊佐庭如矢(ゆきや)なの。そんな関係から今でもこの道後温泉本館を運営管理しているのは松山市で、全国的に見ても自治体が直営する公衆浴場と云うのは珍しいわよね。

道後温泉

浴室は「神の湯」と「霊の湯」の二種類があるのですが、利用するサービス等で料金が変わりますので御注意下さいね。訪ねた時には浴衣・貸タオル・お茶・お菓子サービスが付いて、湯上がりには二階席の休憩室が利用出来る「霊の湯」二階席コースを利用してみました。料金や歴史など、詳しいことは 松山市HP の道後温泉本館探検帳(施設案内)を御参照下さいね。漱石は小説【坊っちゃん】の中でこの松山のことをボロクソに貶しているのですが、道後温泉だけは−ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ−と賞賛しているの。

温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。・・(中略)・・湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。

夏目漱石 道後温泉本館 道後温泉本館

左端はその「坊ちゃん」が泳いだ湯のモデルとされる「神の湯」ですが、壁には物語に因み、「坊っちゃん、泳ぐべからず」の木札が掛けられているの。残念ながら男湯側にしかありませんので、目にすることが出来るのは男性の方だけなのですが、その木札を見られない女性の方でも霊の湯三階個室にある「坊ちゃんの間」は忘れずに見学させて貰いましょうね。

玉の石 湯浴みを終えて建物の周囲をそぞろ歩きしている時に、柵に囲われた石を見つけて何かしら?と気になったのがこの「玉の石」。傷ついた一羽の白鷺がこの温泉に浸かり傷を癒したことから知られるようになったと云う道後温泉ですが、神さま達も温泉療養しているの。中でも少名彦命はこの温泉に浸かることで再び生を得ているの。少名彦命は我が身の蘇生を喜び、この石の上で踊り出したと伝えられているの。伊予国風土記逸文に

大分の速水の湯を 下樋より持ち度り来て 宿奈毘古那命を漬し浴ししかば 暫が間に活起りまして・・(中略)・・
おほきだのはやみのゆを したびよりもちわたりきて すくなひこなのみことをひたしあむししかば しましがほどにいきかへりまして
踏み健びましし跡處 今も湯の中の石の上にあり
ふみたけびまししあとどころ いまもゆのなかのいしのうへにあり

と記される石がこの「玉の石」。残念ながら少名彦命がどうしてそんなことになったのかは分かりませんが、延命長寿の薬湯どころか生命復活のパワーを秘めた霊泉と云うわけ。「神の湯」の女性用の浴槽にはその大国主命と少名彦命の像が祀られていますので忘れずにね。余談ですが、あの小野小町も病気平癒のためにこの道後温泉を訪ね来ているの。と云うことは「美人の湯」の効能もありかも知れないわね。

ところで風土記に「大分の速水の湯」とあるのは別府温泉のことなの。ひょっとしたら道後温泉と別府温泉は今でも地下水脈を通して繋がっているのかもネ。ダメよ、鵜呑みにしちゃあ〜。

4日目:松山・城下町巡り

旅も最終日を迎え、四国霊場第51番札所の石手寺を訪ねて、最後に松山城を見学してみました。
補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。

25.道後温泉(ホテルはなゆづき) どうごおんせん 10:00発

26.石手寺 いしてじ 10:20着 10:55発

道後温泉からは歩いて20分程の距離にある石手寺は、二十五菩薩降臨の霊夢を見た伊予国太守・越智玉純が神亀5年(728)にこの地に熊野十二社権現を祀り、堂宇を創建したことに始まるとされているの。本尊に祀られる薬師如来にしても、行基が天平元年(729)に彫像開眼したものと伝えられ、当時は安養寺と称する法相宗系寺院だったの。現在のように熊野山石手寺と改称して真言宗に改宗したのは寛平3年(891)のことで、盛時には堂宇66坊を有する大寺でしたが、永禄9年(1566)の兵火でその多くを焼失してしまったの。拝観料:境内自由

仁王門 仁王門 中門を抜けて回廊を進むとあるのがこの仁王門で、河野通継が文保2年(1318)に再建したものと伝えられ、鎌倉期の特徴を備えた秀逸な楼門として昭和27年(1952)には国宝に指定されているの。両袖に祀られる仁王像も運慶一門の出である湛慶の作と伝えられ、県の重要文化財になるの。

その仁王像の前には数多くの「願掛けわらじ」が奉納されているの。中でも中央に掲げられた巨大なわらじに御注目下さいね。聞くところによると4年に一度作り替えられるのだそうで、足の病に殊の外御利益があるのだとか。勿論、健脚祈願にも効果あり?

地元の方からは「石手のお大師さま」と呼ばれて親しまれる石手寺ですが、お大師さまとはここでは勿論、弘法大師こと、空海上人のことね。その弘法大師所縁の地を訪ねるのが西国霊場八十八ケ所巡りですが、中でも松山市内には八ケ寺もの霊場があるの。訪ねた時にもお遍路さんを見掛ける機会がありましたが、この石手寺はその四国遍路のルーツとも云われているの。頂いた栞にはその始まりを記した「衛門三郎縁起」が記載されていますので脚色を交えてちょっと紹介してみますね。

むか〜し昔のことじゃけんども、この伊予の国の荏原の郷に衛門三郎と云う欲深い長者が住んでおった。ある日のことじゃった。その長者の屋敷の前にみすぼらしい出で立ちの坊さんが現れて托鉢を乞うて来た。じゃけんども強欲な長者のことだで「ぬしのような乞食坊主にくれてやるような物なぞ無いわ、帰れ!」と追い返そうとしたのじゃが、その坊さんはようようその場を立ち去ろうとせなんだ。腹を立てた長者は「しつこい坊主め、ならばこうしてくれようぞ!」と坊さんの手にした鉄鉢を取り上げると地べたに投げつけたのじゃ。鉄鉢は八つに割れて辺りに飛び散り、坊さんは仕方なく長者の屋敷を後にしたのじゃった。

ところがのお、それからと云うもの、8人おった息子達が次々に病に倒れて僅か8日の間に皆のうなってしまったのじゃ。強欲長者と知られた三郎もこの時ばかりはさすがに托鉢僧を邪険にした仏罰じゃと畏れおののき、床に伏せてしまったのじゃ。数日が過ぎた、ある夜のことじゃった。長者の夢枕にお大師さまが現れて門付けを求めた時の出来事を述べると日頃の悪業を改めるよう諭されたのじゃ。な、何と云うことじゃ、あのお方こそがお大師さまじゃったのか!と我が身の犯した罪の深さに畏れおののいた長者は邪見を捨てて改心すると、家も財産も捨てて巡礼へと旅だったのじゃ。

じゃがのお、幾度巡礼を繰り返してみてもようようお大師さまには会えなんだ。そしてとうとう21回目を数える巡礼の旅の途中でようやく阿波の国の焼山寺の門前に辿り着こうかと云うところで病に倒れてしまい、それっきり動けなくなってしまったのじゃ。お大師さま、ひと目お会いしてお侘びしたかったのですがこの三郎の命ももはやこれまで ・・・と、三郎がまさに息を引き取ろうとしたときのことじゃった。

三郎の枕元にお大師さまが現れてのお、−安心するが良いぞ。そなたの罪は今までの巡礼の功徳で消えてのうなった。何ぞ最期の望みがあらば云うてみよ−と声を掛けて下さったのじゃ。三郎は−お大師さまにお会い出来た今となってはこれ以上の望みなど何も御座いませぬが、来世では世のため、人のために生きとう御座います−と答えたそうじゃ。そのことばに大きく頷いたお大師さまは傍らの石に「衛門三郎」と刻むとそれを三郎の手に握らせたのじゃ。すると三郎は安心したのか、眠るようにして息を引き取ったと云うことじゃ。

それから何年かしてこの伊予の国の豪族の河野息利に男の子が生まれたんじゃが、幾つになっても右手は握られたままで開こうとせなんだ。八方手を尽くして開こうとしてみたんじゃがどれも効き目がのうて、ならば安養寺の薬師さまに願うてみようぞ−と願を掛けたところ、開かなかった掌から「衛門三郎」と書かれた石が転がり出て来たのじゃ。その男の子こそ衛門三郎の生まれ変わりで、その仏縁に因み、石を収めたことから寺号も安養寺から石手寺と改めたのじゃ。その衛門三郎の「玉の石」じゃが今でも講堂に祀られておると云うことじゃ。

27.道後温泉 どうごおんせん 11:16着 11:25発

28.大街道電停 だいかいどうでんてい 11:35着

29.ロープウェイ乗場 ろーぷうぇいのりば 11:40着

リフト

路面電車を下車して5分程歩くと松山城ロープウェイの乗場が見えて来ます。因みに松山駅からマドンナバスに乗車する場合にはロープウェイ前BSで下車して下さいね。次に訪ねる松山城は平野部に位置しながらも標高132mの勝山山頂に築かれているの。勿論、歩いて登ることも出来ますが、ここでは素直に文明の利器に身を委ねましょうね。更に嬉しいことにここではロープウェイとリフトの二刀流なの。どちらを利用するかはあなたのお好み次第。左掲はそのリフトですが御覧のようにすぐ隣をロープウェイが併走するの。訪ねたのが夏の真っ盛りのことでしたので少しでもと、涼しさを求めてスリルあるリフトに乗車してみました。所要時間:約6分 料金:¥260(片道)

松山城は姫路城、和歌山城と並ぶ日本三大連立式平山城として全国的に有名なお城で、その構造故に質実剛健にして堅固な要塞の趣の中にも完成された美しさがありますよね。歴史を紐解けば、豊臣秀吉に仕えて武勲をあげた加藤嘉昭(よしあきら)が、26年の歳月をかけて寛永4年(1627)に完成させたものと云われているの。ですが、余りにも堅牢な城郭故に、幕府側からは睨まれてしまったみたいね。完成間も無くして嘉昭は会津に転封されてしまったの。その後に入部したのが蒲生忠知ですが、後継に恵まれずに断絶してしまい、替わって伊勢桑名から松平定行が城主に迎えられ、以後は松平15万石の居城となったの。

残念ながら築城当初は五層の天守閣も幕府への配慮から三層に改められ、天明4年(1784)には落雷で焼失しているの。現在の天守閣は嘉永5年(1852)に再建されたものなのですが、松山城の凄いところが戦後に再建された櫓なども含めて、その全てが木造建築に依ることなの。その天守閣からは松山の市街地は勿論、晴れた日には石鎚連山や瀬戸内海に浮かぶ島々の眺望が楽しめますよ。天守閣:¥500

本丸跡から麓までは徒歩で下りましたが、その途中には二之丸史跡庭園があるの。発掘された二之丸跡を庭園として新たに整備したものですが、残念ながら時間の関係で素通りしてしまいましたので詳しい御案内が出来ません。ごめんなさいね。

30.県庁前 けんちょうまえ 14:00発

旅も松山城の見学を終えて予定していた全ての行程を終了。県庁前からは路面電車に揺られて再び道後温泉駅へと向かいました。普通なら松山市駅かJR松山駅に向かうところですが、残された旅の最終目的がお土産品の購入なの。なので帰路の行程は参考にはなりませんね。運賃:¥170

31.道後温泉駅 どうごおんせんえき 14:07着 15:23発

運賃:¥400

32.松山空港 まつやまくうこう 16:30着 17:10発

ANA596便:¥16,200

33.羽田空港 はねだくうこう 18:30着

みょうがちゃん 【編集余話】旅した季節が真夏のことならこのコンテンツを作製したのも真夏のことですが、スーパーの野菜コーナーで偶然見つけたのがこの「とさっ子みょうがちゃん」キャラのラベルが貼られたミョウガなの。よく見ると高知産とあり、思わずはりまや橋で紹介したお馬さんと「とさっ子みょうがちゃん」のイメージがオーバーラップしたと云うわけ。因みに、ラベルの裏側にはミョウガを利用したお料理レシピも紹介されているの。

みょうがちゃん 調べてみると高知県のミョウガ生産はハウス栽培に限って云えば国内の何と97%ものシェアを有するそうよ。ラベル上で紹介される携帯サイトにはこの「とさっ子みょうがちゃん」のバリーエーションが他にも幾つか紹介されていますが、春夏秋冬の季節感を踏まえたものも掲載されているの。ミョウガと云えばξ^_^ξは夏だけのものかと思っていたのですが、今ではハウス栽培に支えられて一年を通して店先に並ぶようになったみたいね。

みょうがちゃん ところで、この「みょうがちゃん」キャラのラベルは何種類位出回っているのかしら?お蔭で我が家の冷蔵庫の野菜室にはミョウガが売る程(笑)あるの。ミョウガは古くは「めが」or「めうが」と呼ばれていたものが室町期の頃からは「みょうが」となり、江戸時代になって茗荷の字が充てられるようになったみたい。巷では「ミョウガを食べ過ぎるとバカになる」との噂が飛び交いますが、これは江戸時代に流行った古典落語の「茗荷宿」に由来するの。

むか〜し昔、お釈迦さまに周梨槃特(すりはんどく)と云うお弟子さんがいたの。後に悟りを開くまでの仏道修行者でしたが、ややもすると自分の名を忘れてしまうの。なのでお釈迦さまをはじめ、周りの人達から呼ばれても自分のことだとは気が付かないの。それを見ていたお釈迦さまは周梨槃特を可哀想に思い、名前を書いた札を首に掛けさせたのですが、今度は名札を掛けていることさえも忘れてしまうありさまで、周梨槃特は死ぬまで自分の名前を覚えることが出来なかったの。後にその周梨槃特が葬られたお墓からは見慣れぬ草が生えて来たの。そこで生前の周梨槃特が自分の名前を荷なって苦労したことに因んで茗荷と名付けられたの。

みょうがちゃん 草冠に彩られて、まさに「その草の名前は何あに?」そのものね。バカになる云々の俗説はこの逸話に由来するのですが、決してミョウガをいっぱい食べた訳では無いのね。じゃあ、どこでそう云う話しになってしまったの?と気になるあなたは引き続き、次をお読み下さいね。但し、ここでは上記の逸話を含め、飽くまでも落語の中のお話しなので誤解の無いようにして下さいね。

むか〜し、とある町外れにおんぼろな旅籠があってのお。ある日のこと、日の暮れかかった頃に一人の旅の者が宿を求めて来たのじゃ。裕福な身なりに加え、胴巻きの脹らみ具合から見てもかなりの大金を持ち歩いている様子じゃった。強欲な女主人がその金を何とか散財させようと思案したんじゃがようよう良い手立てを思いつかん。そんな時にふとミョウガを食べると物忘れをするという云い伝えを思い出したのじゃ。そうじゃ、そうじゃ。ならば今夜の馳走はミョウガづくしに。そうして旅人の食膳にはミョウガの煮物に、ミョウガの汁もの、香の物には勿論ミョウガの漬物と、凡そ考えられるミョウガ料理を所狭しと並べたのじゃ。

その晩はミョウガが当地の名物じゃろうと我慢しておったのじゃが、翌朝もミョウガ料理を並べられた旅人はすっかり呆れてしまってのお、早々に旅だってしまったのじゃ。旅人の出立を今か今かと待ち構えておった女主人が早速部屋をたずねてみたんじゃが、そこには胴巻きどころか何一つ残されておらんかった。そんなわけは無い、あれだけミョウガを食べさせたんじゃ。どこぞに忘れておるハズじゃ−と四方八方探してみたんじゃが見つからんかった。そん時に急に旅人から宿賃を貰い忘れたことを思い出したのじゃ。しまった!夕べのミョウガ料理で味見ばかりしておって食べ過ぎた!と後悔してみたところで後の祭りじゃった。一方の旅人にしてもミョウガ料理が利いたのか宿賃を払い忘れて旅だってしまったと云うことじゃ。

みょうがちゃん 主に薬味として食卓にのぼるミョウガですが、独特の香りは精油成分のα−ピネン pinene に依るもので、落語とは裏腹に大脳皮質を刺激して活動を活発化する作用があるみたいよ。但し、オツムの活性化だけでなく、食欲増進・消化吸収促進の働きもあると云うのですからダイエット中のあなたは要注意かもね。ですが、夏バテ気味の方にはお薦めの食材ですよ。解毒殺菌作用もあるそうで、そう云えば「カツオのたたき」にも添えられていましたね。


限られた時間の中での駆け足旅でしたので四国の魅力を充分に御案内出来てはいませんが御容赦下さいね。加えて時を経た今では大きく景観を変えたものもあり、一方で新たな見処も増えているの。当時のξ^_^ξが一番期待して訪ねたのは「はりまや橋」と桂浜で、一番がっかりさせられたのもまたその「はりまや橋」なの。それが周囲を含めて新たに親水公園として整備されて「橋」として再現されたのは嬉しいことよね。その橋の前に佇めば純信とお馬さんの二人が互いに寄せた熱い想いがあなたにも伝わって来るはずよ。愛するひとが隣にいたら握りしめたその手を決して離さないで下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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