最初に訪ねたのは絶体絶命のピンチを迎えた源頼朝が梶原景時に助けられた逸話を持つ鵐の窟なの。個人的には今回の湯河原散策での最重要ポイントだったりするの。その後は城山ハイキング・コースを辿りますが、城山々頂には嘗て土肥実平の居城が建てられていたと云われ、その麓にある城願寺は土肥氏の菩提寺になるの。一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。
1. JR湯河原駅 ゆがわらえき
訪ねたのは暮れも押し迫ったと云うか、巷では大晦日と呼ぶ日(笑)のことでしたが、意外に静かな朝を迎えていたの。湯河原は「さがみの小京都」とも呼ばれる静かな佇まいの温泉地。その湯河原も古くは土肥郷と呼ばれ、源頼朝が挙兵すると領主・土肥実平は逸早くその許に馳せ参じて扶けたことから、地元では頼朝所縁の逸話と共に、実平の活躍が今でも語り継がれているの。今回の散策ではそんな歴史の浪漫を紹介してみますね。
駅の改札口を経て最初に目にしたのが上の二匹の狸像ですが、湯河原温泉に因む逸話に由来するの。折角温泉地に来たのだから一風呂浴びてから−と、逸る心を抑えて先ずは歴史を駆け抜けた人々の軌跡を訪ねてみることにしますね。と云っても、既にその舞台に立っているわけで、駅舎のある場所には嘗て土肥実平の居館が建てられていたの。ロータリーには鎧姿の武将と共に、脇に控えた女性の銅像が建てられていますが、実平夫妻を表したもので、館の前庭に当たる場所だと云われているの。
ねえねえ、普通の銅像は一人だけど、どうしてここでは二人なの?
それはダンナさまの窮状を献身的に支えた功績から妻の鑑と褒め称えられたからなの。
土肥氏は元々は平氏の流れをくむ一族だけど、土肥郷を領していたことから土肥姓を名乗っていたの。治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に際しては実平は弟・土屋宗遠や嫡男の遠平を引き連れて参陣するの。後にその勲功から有力御家人となるのですが、実平の扶けが無ければ頼朝も歴史の表舞台に立つことは出来なかったの。
源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に配流され、後に挙兵するまでの経緯を、頼朝の恋物語を中心に短く纏めてみましたので興味のある方は こちら をお読み下さいね。But 史実と云うよりも、読み物としてお楽しみ下さいね。
頼朝は手始めに伊豆の目代・山木兼隆を討つと三浦軍と合流すべく相模を目指して東へと向かいますが、その時の頼朝軍は僅かに300騎。その行く手には大庭景親率いる3,000余騎の軍勢が待ち構えていたの。そうして石橋山(小田原市南西)に陣を構えた頼朝でしたが、折悪しく降り続いた雨で酒匂川が増水して三浦軍は足止めされてしまい、後方には伊豆から追撃してきた伊東祐親の300騎が迫っていたの。三浦軍の応援が得られない内に大庭軍から総攻撃を受けた頼朝は、その圧倒的な軍勢に惨敗し、這々の体で椙山々中に逃げ込んだの。その頼朝を追って翌日からは大庭軍の掃討作戦が始まるのですが、実平の妻は姿を変えて敵を欺き、山中に潜む頼朝主従の許に食事を届けて情勢を伝え、頼朝主従七騎の五日間に及ぶ山籠りを支えたの。
土肥次郎が女房は心さかさかしき者にて 僧を一人相語らひ
椙山に御座ける程は笭簀(あじか)に御料をかまへ入れ 上に樒を覆ひ 閼伽の桶に水を入れ
上人法師の花摘む由にもてなして 忍々に送りけり 【源平盛衰記】
湯河原駅前からは御覧の 箱根登山バス の元箱根行に乗車して、その逸話の舞台となった椙山へと向かいましたが、問題なのはそのバスの運行ダイヤなの。湯河原温泉の利用客を見込んで奥湯河原迄は多発しているのですが、更に先へと向かう元箱根行のバスとなると運行本数も少なく、限られてしまうの。なので、元箱根方面行きのバスの時刻表を箱根登山バスのHPで確認の上でお出掛け下さいね。運賃:¥650 所要時間:約30分
2. しとどの窟BS しとどのいわやばすてい
奥湯河原からはバスは蛇行を繰り返しながら城山へと坂道を上りますが、この「しとどの窟バス停」がある辺りは椿台と呼ばれ、芦ノ湖に続く椿ラインの沿道には5,000本はあると云う椿が咲き誇るの。また、桜の木も4,000本ほどがあり、季節には見事な花見街道に姿を変え、訪れる旅人の目を楽しませてくれるとのことですので、季を捉えて訪ねてみるのもいいかも知れないわね。
3. 椿台展望所 つばきだいてんぼうしょ
4. 桜郷史跡入口 さくらごうしせきいりぐち
椿台展望所の前に続く道を辿ると見えてくるのがこのトンネル入口で、潜り抜けると桜郷史跡碑が建つ広場に出るの。傍らには石仏や祠が建てられていますが、嘗ての湯河原は地蔵信仰や観音信仰の霊蹟として修験者の修行場でもあったの。伊豆や箱根では温泉や噴火などの火山活動に対する霊験信仰を基盤として独自の修験道が起こり、一大修験霊場が形成されたのですが、頼朝が一時期身を寄せた伊豆山権現も箱根権現と共にその中心的な存在だったの。
湯河原にはその遺跡と共に弘法大師を崇敬する大師信仰の遺物も多く、沿道に祀られる大師像群は麓に埋もれて放置されていたものが後年この地に集められたものなの。中には近年に奉納されたと思しき新しい像もあり、時を経た今も聖地として崇められている証ね。今でこそ道も整備されて急勾配ながらも歩き易い足許になっていますが、頼朝一行が隠れ潜んだ頃は山伏の行場に相応しく、山の斜面が広がるのみで、道があったとしても草叢の中に僅かに獣道が走る程度のものだったのでしょうね。
大師像群が建ち並ぶ道を下り切ると道は再び上り道となりますが、案内板に従い石段を登ります。この分岐路となる位置には大きな岩があり、右手には白銀ハイキング・コースや幕山ハイキング・コースへと続く道が設けられているのですが、訪ねた時には通行禁止になっていたの。風雨に依る損壊に整備事業の予算が追い付かないみたいね。自然が相手だけに仕方のないことよね。
やがて、山の斜面にポッカリと口を開けた洞窟が見えて来ますが、大庭軍の探索を逃れて椙山に逃げ込んだ頼朝主従が一時期潜んだとされる鵐の窟なの。鵐とはどんな鳥なのかしらと気になるところですが、ここでは鴟・鵄でトンビやフクロウ等の猛禽類を指し、具体的な鳥を比定している訳では無いみたいね。字面の与える印象から鵺(ぬえ)のような怪鳥を想像したのですが、ξ^_^ξの妄想でしたね。因みに、新人物往来社刊【新定源平盛衰記】では「旧は傍訓して鴟と為す 〔 中略 〕 鵐は蓋し鴟の訛なり」と注釈が加えられているの。
【吾妻鏡】の治承4年(1180)8/24の条に
この間武衞御髻の中の正觀音像を取り 或る巖窟に安じ奉らる 實平その御素意を問い奉る
仰せに曰く 首を景親等に傳ふるの日 この本尊を見ば源氏の大將軍の所爲に非ざるの由 人定めて誹りを貽すべしと
件の尊像は 武衞三歳の昔 乳母清水寺に參籠せしめ 嬰兒の將來を祈ること懇篤にして
二七箇日を歴て 靈夢の告げを蒙り 忽然として二寸の銀の正觀音像を得て 歸敬し奉る所なりと
−と記される観音像ですが、後に伊豆山権現の供僧に依り探し出されて頼朝の許へと届けられているの。現在は伝源頼朝隠潜地として神奈川県指定史跡にもなる鵐の窟ですが、【源平盛衰記】には「鵐の岩屋と云ふ谷に降り下り見廻せば七八人が程入ぬべき大きなる臥木あり 暫く此に休みて息をぞ續ぎ給ひける」と記されるように、隠れたのは岩窟では無くて、実は倒木の中とされているの。頼朝を追って来た大庭景親は足跡が途絶えていることからその臥木を怪しむの。景親の従弟・梶原景時が刀に手を掛け、朽木の中に入ると果たしてそこには‥‥‥
佐殿と景時と眞向いて互いに眼を見合せたり
佐殿は 今は限りなり 景時が手に懸りぬと覺しければ 急ぎ案じて降をや乞ふ
自害をやすると覺しけるが いかゞ景時程の者に降をば乞ふべき
自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ 景時哀れに見奉りて
暫く相ひ待ち給へ 助け奉るべし 軍に勝ち給ひたらば 公忘れ給ふな
若し又 敵の手に懸り給ひたらば 草の陰までも景時が弓矢の冥加と守り給へ
と申しも果てねば 蜘蛛の絲さと天河に引きたりけり 景時不思議と思ひければ
彼の蜘蛛の絲を 弓の筈 甲の鉢に引き懸けて 暇申して臥木の口へ出でにけり
佐殿然るべき事と覺しながら掌をあはせ 景時が後貌を三度拜して
我世にあらば其の恩を忘れじ 縱ひ亡びたりとも七代までは守らんとぞ心中に誓はれける
頼朝と目を合わせた景時は密かにこれを助けたの。蜘蛛の糸を巻きつけた景時は誰も隠れていないと景親に告げて、真鶴方向に頼朝の一行と覚しき人影が見えたから直ちに追うべしと誘導しているの。それでも不審げな景親が自ら捜そうとすると「この景時が嘘偽りを申すと云われるか」と腰の刀に手を掛けて制止しているの。心残りな景親が去り際に弓を差し入れて打ち振るとその弓が頼朝の鎧の袖に当たり、中からは二羽の山鳩が飛び出して来たの。すると忽ち雷雲湧き起り大雨となり、景親は雨が止んだ後に再び探索せんと、取り敢えず大岩でその臥木の入口を塞いで引き返したのですが、この場合の鳩は勿論八幡神の使いよね。なので源氏の守護神たる八幡大菩薩が頼朝の窮地を救ったと云うわけ。
頼朝は土肥実平の案内で椙山の山中を移動しながら、洞窟や臥木に身を隠すなどして難を逃れたの。そうして治承4年(1180)8/28、真鶴の岩海岸から僅かな手勢を引き連れて安房へと小舟を漕ぎ出すのですが、この椙山での5日間の出来事はそれまでの頼朝を大きく変えたの。生死の狭間を彷徨う内に源氏の棟梁としてのDNAが甦ったみたいね。
残念ながら未体験ですが、椿ラインの箱根寄りの天照山神社北側の地には頼朝主従が隠れたとされる土肥大杉跡があり、現在はその跡地を示す石碑が建てられているの。【盛衰記】では7,8人が隠れることが出来るとしていますので、屋久島のウイルソン株並みの朽木だったのでしょうね。加えて、椙山は杉山とも記され、【新編相模国風土記稿】の記述などからしても、嘗ては杉の大木が自生する原生林が広がるなど、【盛衰記】の記述が満更誇張とも云い切れない状況だったみたいね。
最初に山木兼隆を討つ段では佐々木四兄弟の遅参から討ち入りの予定を繰り延べ、馳せ参じて来た時には相好を崩して喜んだ頼朝が、房総に渡り、再度挙兵する頃になると20,000騎を従えて参集して来た千葉広常の遅参を責めているの。「てめえ、様子見をしやがって」と云うわけで、僅かな間に棟梁としての風格が備わってきたの。
左掲は開口部ですが、頭上からは湧水が小さな滝となり流れ落ちていたの。余談ですが、この巌窟内観音像群の案内板には何と「湯河原町鍛冶屋953」と住所が表示されていたの。当然のことながら山中のことですので民家も堂宇も無いのですが、この住所宛に郵便物を投函したら届けて頂けるのかしら?(笑)
6. 城山ハイキング・コース しろやまはいきんぐこーす
鵐の窟からは先程の椿台展望所まで一度戻った上で、今度は建物の背後に続く、この城山ハイキング・コースの道を辿りながら土肥城趾へと向かいます。程無くして芝生広場に出ますが、そこからは左手に幕山を見やりながらの尾根伝いの散策になるの。その幕山背後にある星ヶ山には自鑑水と呼ばれる水溜まり(笑)があり、頼朝が水面に映るやつれた我が身を嘆き、自害しようとしたことから自害水とも呼ばれているの。その自鑑水は鎌倉歴史散策番外編・湯河原 Part.2 で紹介していますので、宜しければお立ち寄り下さいね。CMでした。
7. 土肥城趾 どひじょうし
尾根伝いの道を更に辿るとようやく見えてくるのが最後の上り道。登り切ったところが城山の山頂で、山頂広場の中心に土肥城趾を示す石碑が建てられているの。土肥実平の居城であったとされる土肥城ですが、城郭のような石垣が残されている訳でも無く、自然の地形を生かした城柵のような造りのものだったのでしょうね。
城山の標高は563mと決して高くはありませんが、相模湾を前にして房総半島や伊豆半島のパノラマが広がるの。残念ながら雨模様でしたので、雄大な景観を紹介することが出来ませんが、晴れた日には素敵な眺めが期待できそうね。【源平盛衰記】の中では梶原景時が真鶴の方角に頼朝一行の姿が見えたと嘯いていますが、天候のことは別にしても、この城山の山頂からはとても目視では真鶴半島に人の姿を認めることは出来ないわね。おいおい、誰も真鶴半島とは云ってねえぜ。真鶴の方角に見えただけだぜ(景時談)。
この土肥城趾ですが、実は、実平の居城跡とするには無理があるみたいなの。【新編相模国風土記稿】には「土肥實平の城跡と傳ふれど信じ難し 盖し北條氏の頃 望哨など設けし遺跡なるべし」とあり、後北条氏が設営した哨戒砦の類に逸話が付与されたものじゃあなかんべえか−としているの。湯河原町の郷土の誇りにケチをつける格好になってしまい恐縮ですが、飽くまでも信じ難しと評しているだけで、100%嘘だと断言しているわけではないのですが。真偽の程は御覧の皆さんの御賢察にお任せしますが、ξ^_^ξとしては実平の居城跡であって欲しいな。だったらそんな話しをするな!ですね(笑)。
8. ピクニック・グランド ぴくにっく・ぐらんど
土肥城趾から続く道を下ると10分程でこのピクニック・グランドに出るの。芝生広場が広がるだけで、これといった施設があるわけではないのですが、これがピクニックランドとなるとレジャーランドを想像して、何かしらの遊戯施設を期待してしまいますが、ここではランドでは無くてグランドなの。グがあるか無いかでは雲泥の差があるわね。ちょっと茶化してしまいましたが、ここでは素直な気持ちで自然に触れ合いながら、散策を楽しみましょうね。
道すがら宝籤桜植栽地の標識を見つけて気になったのが左の桜の苗木なの。どんな所以から植樹されたのかは分かりませんが、籖運に恵まれるかも知れないわ−と合掌&拝。傍らでは椿が見事な花を咲かせていましたが、宝籤桜が空を覆うようになる頃迄には宝籖が当たるかも知れないわね。But それまで生きてられるかしら?(笑)
9. 宮下林道 みやしたりんどう
そのピクニック・グランドを抜けると林道に出ますが、この標識に注意して下さいね。湯河原駅へは宮下林道経由と城堀林道経由の二つの道があることを示しているのですが、この標識とは別に湯河原駅(宮下経由)5,000mの標識があるのに城堀経由の距離を示した標識が無いことから当然宮下経由の道を辿るべきものと思い、画面左手方向に歩き出してしまったの。でも、本当は画面右手の城堀林道経由の道を歩くべきだったの。次に訪ねる城願寺は城堀林道経由の道を経て湯河原駅に向かう途中にありますので、皆さんは呉々も間違えないで下さいね。
おまけに湯河原駅へも城堀林道経由の方が約3kmと遙かに近いの。それにしても不親切な標識よね。宮下林道と城堀林道の違いを知る方には分かるかも知れませんが、旅人には両者がどこをどのように走っているのかなんて分かりませんよね。標識のどこかに「=>城願寺」と記しておいて欲しいものよね。ブ〜ブ〜。予備知識を持たずにこの標識群を見たあなたはどちらに向かいます?えっ、普通は右手方向に歩き始める?左掲はピクニック・グランドからの出口で、画面奥に続く舗装路が城堀林道になるの。
10. 城願寺 じょうがんじ
城願寺は土肥実平の持仏堂を前身に、土肥一族の菩提寺として建てられたもので、室町時代に雲林清深上人が中興開山したものと伝えられているの。訪ねた時には季節外れの紅葉に迎えられ、掃き清められた参道には色付いた落ち葉が風情を添えていました。参道の途中にある山門には露座の仁王像が脇侍しますが、その先に見えてくるのが神奈川の名木百選の一つに挙げられている柏槇の巨木なの。
その柏槇ですが、樹高:20m、胸高周囲:6mの巨木で、土肥実平が手植えしたものと云われることから、樹齢も約800年と推定され、現在は国の天然記念物にも指定されているの。鎌倉の寺院境内でも多く見受けられる柏槇ですが、成長すると27m程の樹高を有する巨木になることもあり、樹齢は何と1,500年に達するものもあると云われているの。と云うことは、この城願寺の柏槇も未だ未だ生長過程にあると云うことよね。その生命力にはただただ脱帽ね。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
その柏槇の巨木の傍らに建てられているのが左掲の七騎堂なの。椙山の山中に身を隠して大庭景親の探索を逃れた頼朝一行は、やがて真鶴半島の岩海岸から房州に向かい小舟を漕ぎ出しますが、その小舟に同乗したのが頼朝以下土肥実平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、田代信綱、新開忠氏の七騎なの。実平の嫡男・遠平も椙山の山中では付き従っているのですが、伊豆山権現に逃れて「石橋の戰場に出で給うの時 獨り伊豆山に殘留す 君の存亡を知らずして日夜消魂」していた政子の元に使者として訪れ、頼朝が房総へと逃れたことを伝えているの。
謡曲・七騎落では、八騎の数を忌み嫌った頼朝が七騎にするよう実平に命じたことから、止むなく我が子の遠平を下船させたのですが、折りよく沖合いの和田義盛の船に救い揚げられ、歓喜極まり、酒宴を催して舞となるの。史実と云うより創作の世界ですが、現実として、時には主君の頼朝を助けるべく、老いた我が身を山中に捨て置いて逃れるように我が子を諭した者や、逆に自分の父親を助けるためにその命を落した者など、忠節と親子の情愛の狭間で葛藤する武士達の姿がそこにはあったの。
その七騎にしても、多勢では護りきれぬと判断した実平が一族を中心に纏めたものなの。実平を中心にすると、土屋宗遠=弟、岡崎義実=妹のダンナさま、新開忠氏=次男と云う血縁関係になるの。一方、安達盛長と田代信綱は実平とは血縁関係にはないのですが、頼朝にすれば配流当初から近侍した気心の知れた連中よね。因みに、敵味方に分かれた土肥実平と伊東祐親ですが、実平の妹の一人が伊東祐親に嫁ぎ、実平の嫡男・遠平に嫁いでいたのが伊東祐親の娘で、伊東祐泰の妹なの。ちょっとややこしいかも知れませんが、敵味方の区別無く、人類皆兄弟状態にあったと云うことね。
七騎堂には土肥会の方々が城願寺本堂内に安置奉納されていた七騎像を、堂宇の建立に併せて昭和49年(1974)に移設・安置しているの。残念ながら堂内の拝観は出来ませんでしたが、七騎の木像が収められていると聞きますので、見学する機会に恵まれた際には是非拝観してみて下さいね。
本堂の左手には三神仏を祀る文殊堂と呼ばれる小堂が建てられていますが、その名の由来となっているのが智慧の仏とされる文殊菩薩で、地蔵菩薩と共に、学問の神さまとして崇められる天神さまこと、菅原道真公が祀られているの。傍らに立てられている案内板には、明治政府の学制発布を受けた際に、学舎が無かったことからこの文殊堂が寺子屋ならぬ仮校舎として利用された−と記されているの。ハード面では恵まれた環境とは云えないかも知れないけど、文殊菩薩に見守られながらとあっては誰もが成績優秀で巣立ったことでしょうね。
その文殊堂背後に続く墓苑の一角にあるのが土肥一族が眠る墓所で、10坪ほどの敷地に66基もの墓石が建ち並び、重層塔や五輪塔、宝篋印塔など姿形の異なる墓塔があり、県の指定史跡に選定されているの。墓塔に刻まれた文字も風化してしまい、今となってはその主も定かではなく「猛き人も遂には滅びぬ」の世界ね。
石橋山の合戦以来、頼朝を支えた土肥実平ですが、文治5年(1189)の奥州征伐に従軍した後は僅かに【吾妻鏡】の建久2年(1191)7/18の条に「内の御厩の立柱上棟 土肥の次郎・岡崎の四郎等これを沙汰す」とあるのみで、以降のことは不明なの。金剛流横須賀美賀和会 の頁で和田完一さんは、豊前国・小早川に居を定めた実平は建久2年(1191)に83歳で没し、その亡骸は鎌倉に運ばれて頼朝と対面した後にこの城願寺に葬られ、嫡男・遠平もまた68歳で亡くなるとこの一族の墓に葬られた−と記しているの。入口の最奥部に多層塔が脇侍して4基の五輪塔が建ちますが、献花されているのが実平の墓塔になるのかしら?
土肥実平にしても岡崎義実にしても没年齢からすると頼朝と行動を共にした時には既に齢(よわい)を重ねていた訳で、ここでは触れていませんが、頼朝の挙兵を源家の再興と喜び、一身に敵を集めて衣笠城に露と消えた三浦義明も同じよね。挙兵以前に頼朝は密かにその義明を訪ねていた節もあるのですが、頼朝は年長者に好かれる性格の持ち主だったみたいね。一方、男性ばかりでは無く、助命を嘆願してくれた池ノ禅尼や献身的に支えてくれた比企尼など、女性にも好かれたみたいね。幾ら源氏の嫡流だとしても嫌いだったら助けられないし、そこまで尽せないと思うわ。詳しいことは省きますが、その池ノ禅尼の助命嘆願にしても預り役となった平宗清の取り次ぎがあればこそ。宗清に嫌われていたら池ノ禅尼への面会など有り得なかったわけだもの。
本堂前ではこれから行われるどんど焼きの支度も整い、寺務所では近在の方を含めて最後の準備をされていたの。レンズを向けていると人懐っこい男の子が声を掛けてきてどんど焼きのことを色々と教えてくれたの。けれど、火が焚かれるのは当分先のことのようで、諦めてその場を後にしましたが。今思うと、男の子は御住職の御子息だったのかも知れないわね。鐘楼には除夜の鐘の出番を控えた吊り鐘が‥‥‥
ここまでは鵐の窟と城願寺をメインに紹介しましたが、他にも椙山々中の小道地蔵堂で修行していた純海上人が身を挺して頼朝を助けたりもしているの。その小道地蔵堂も、現在は湯河原と真鶴の中間に位置する吉浜にあるのですが、訪ねる機会がありましたら改めて紹介してみますね。次頁からは頼朝の逃避行に纏わる事跡を離れて、湯河原温泉街を流れる藤木川沿いを御案内してみますので、引き続きお付き合い下さいね。
その地蔵堂を訪ねてみましたので興味のある方は御笑覧下さいね。
現在地にある(吉浜)地蔵堂を御覧になりたい方は こちら を、
吉浜に移される前の椙山々中にある小道地蔵堂跡が気になる方は こちら を。
藤木川と千歳川の渓流沿いに閑静な温泉宿が軒を連ねる湯河原温泉。二日目のきょうは渓流沿いの散策を楽しみ、元旦にはやはり初詣よね−と云うことで、福泉寺を訪ねた後は湯河原の総鎮守とされる五所神社に詣でてみたの。
11. 不動滝 ふどうだき
湯河原駅からは 箱根登山バス の不動滝行のバスに揺られて20分余りで終点の不動滝下車。車道の傍らを藤木川が流れますが、山側に順路を辿ると見えてくるのがこの不動滝。滝の名前は滝壺の傍らに不動明王が祀られることに由来しますが、不動明王と云えば修験者が好んで祀った主尊の一つでもあり、嘗ては流れ落ちる滝水に打たれて修行する山伏の姿もあったのでしょうね。
滝壺左手斜面にある小堂には不動明王像が祀られているのですが、崩落の危険性があるのでしょうか、近付くことが出来ませんでした。滝壺の右手にも不動明王像を祀る小堂がありますが、その不動堂の前に続く石段を登ると、小さな社殿が建てられているの。中央には御神体を表す鏡が祀られていますが、気になったのはその左側に併せて祀られていたもう一つの社殿なの。30cm四方程の筐体に屋根が載ると云った小さなお社で、祭神は不明ですが、背後からの照明を受けて光輝くさまは天の岩戸から顕れた天照大神の印象ね。
不動滝の見学を終えて戻る途中で出逢ったのがこのウサギさん。お土産屋さんのマスコットで、名前をお伺いしたのですが忘れてしまいました。お店の方に依ると、機嫌が良いと勝手に辺りを飛び跳ねて遊んでいるそうで、掴まえようとしても仲々捕まらないので好きなようにさせているとのことでした。お店の前で飛び跳ねていたら、声を掛けてみて下さいね。但し、御返事願えるかどうかはその時の気分次第みたいよ。
12. 五段ノ滝 ごだんのたき
13. 屏風岩 びょうぶいわ
14. 万葉公園 まんようこうえん
万葉公園は藤木川と千歳川の合流地点に造られた自然公園で、湯河原温泉が〜足柄の 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 子ろが云はなくに〜と万葉集に詠まれていることに因んで名付けられたものなの。千歳川の渓流沿いに散策路が設けられ、最奥部には湯河原を愛した国木田独歩の石碑と共に、足湯施設「独歩の湯」があるの。詳しいことは下記を御参照下さいね。
湯河原温泉観光協会 or 湯河原町観光課
足柄の 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 子ろが云はなくに
あしかりの とひのかふちに いづるゆの よにもたよらに ころがいはなくに
ねえねえ、どうしてこの歌が湯河原温泉を詠んだものになるの?
どこにも湯河原なんて出てこないのに。
そうね、不思議に思うかも知れないけど、その頃は土肥(とひ)と呼ばれていたの。
湯ヶ原と呼ばれるようになったのは江戸時代の終り頃からのことなの。
ふ〜ん、そうなんだ。
歌の意味も良く分からないんだけど、何て云っているの?
ちょっと難しいかも知れないけど、これは恋の歌なの。
あと何年かすると分かるようになると思うけど、取り敢えず説明してみるわね。
関西の河内にしても元々は同じ意味よ。続いて「たよらに」は頼りなげに揺れ動くさまを表し、「子ろ」は単純に子供と云うことでは無くて恋愛対象としての娘子のことね。万葉集が編纂された頃には中国大陸からの侵攻を防ぐために九州に兵士が派遣されていたの。それが防人(さきもり)で、最初の頃は諸国から徴兵されていたのだけど、後に東国からが専らになったの。この歌は徴収されて九州に赴任した防人が、将来を誓いながら故郷に残して来た恋人を想い詠んだものなの。と云うことで、脚色を加えた上で訳してみると
こうしてふる里からは遙かに遠く離れてしまったけれど
愛しいあの娘(こ)は今頃どうしていることだろうか、
旅立つ際には私が帰るのをひたすら待っていてくれると云ってはくれたのだけれど。
務めを終えてふる里に戻ることが出来るのは三年も先のこと、
それまであの娘(こ)はこの私を待っていてくれるだろうか。
土肥の郷(さと)に流れる千歳川の川畔には湯煙りが頼りなげに揺らいでいたけれど
私の心も心細さに同じように川面を流れ行く風に揺れている‥‥‥
その後の二人がどうなったのかはお読み頂いている皆さんの御想像にお任せしますね。紹介した万葉歌碑の建つ右手からはトンネルが通じ、その出口側から大きな水音が聞こえて来たの。左程の落差は無いのですが、豊かな水量が一気に滝壺に流れ落ち、轟音を響かせているの。その隧道を通り抜けたところからは千歳川沿いに散策路が設けられ、湯河原を愛した文人達の歌碑などが沿道に並ぶの。訪ねたのは冬場のことでしたが、緑豊かな小径ですので、新緑や紅葉期には素敵な散策路になってくれそうね。
その小径を辿ると小さな社の狸福(りふく)神社があるの。傍らには例に依り例の如くのタヌキの置物が。何でこんな所にタヌキが祀られているのかしら?と思いきや、この湯河原温泉を最初に発見したのは、実は、三島の山中に棲んでいたタヌキだったと云うの。むか〜し昔、日金山を越えた三島の山奥に一匹の雄のタヌキが棲みついていたのですが、信心深いタヌキで、毎朝遠くから三島権現の方角を向いては頭を垂れていたの。
ねえねえ、その三島のタヌキがどうして湯河原温泉を見つけたの?
それはね、猟師に射掛けられた一筋の弓矢から始まるの。
平穏に暮らすタヌキだったんだけど、ある冬の日のこと。降り続いていた雪も止んで木々の間には久し振りに温かな陽射しが射し込んでいたの。ここ数日餌にありつけずにいたタヌキはすっかり喜んで食べ物を探しに出掛けたの。そうして餌探しに夢中だったタヌキは矢を番える猟師の気配にも気付かずにいたの。いきなりヒューッと風を切る音が聞こえたと思ったら、後足の太腿にその弓矢が突き刺さったの。もうすっかり驚いたタヌキは一目散に逃げ出したのだけど、どこをどう走り抜けて来たのか、気が付くと見知らぬ山中に迷い込んでいたの。
恐ろしさに痛みも忘れて必死で逃げて来たので気付かずにいたけれど、矢はいつの間にか抜け落ちていたの。木枝にぶつかりながら走っている内に抜け落ちたみたいだけど、逆に傷口が大きくなってしまったの。雪で冷やしてみたり、舌で傷口を舐めてみたりしたのだけれど痛みが消えなくて。どうしたら良いのか分からず、かといって見知らぬ山中のことで一先ず身を隠す場所を探したの。けれど傷を負った後足を引き摺りながら雪原を歩いている内にとうとう疲れと痛みでその場に蹲ってしまったの。
最早これまでと諦めかけた時のこと。谷間から白い湯煙りが立ち昇るのが見えたの。タヌキは冷え切った体を湯に沈めて温めようとやっとの思いで谷底に辿り着いたの。そうして静かに後足を湯に浸してみたのだけど、傷口が沁みるわけでもなく、痛みも和らいでくるような気がしたの。傍らには身を隠すに手頃な大きさの洞穴もあって、からだが温まると疲れから急に眠くなったタヌキはその洞穴に転がり込んだの。そうしてタヌキはその翌日から日に幾度となくその湯に浸かりながら傷を癒したの。雪の下から蕗の薹が顔を覗かせる頃になると傷口も塞がり痛みも消えて、元のように歩けるようになったの。
そうなると生まれ育った三島の山中が恋しくなり、雪融けの春を指を数えて待っていたの。そんなある日、山中で食べ物を探していると自分と同じように足に傷を負い、蹲っていた雌のタヌキに出逢ったの。雄のタヌキは我が身の出来事を話して聞かせ、温泉の湯で傷を癒すことを薦めたの。そうしてその間中、雄のタヌキは食べ物を探して来ては雌のタヌキのところへ運んだの。やがて二匹は恋仲になり、傷が治ると晴れて夫婦となったの。
と云うことで、めでたし、めでたし−となるのですが、物語には更に続きがあるの。
湯河原の山々にも新緑が芽吹き小鳥がさえずるようになると雄タヌキの傷痕はすっかり消えて、雌タヌキも元のように走り回れる程になったの。雄タヌキもその頃になると三島の山中に戻ることよりも雌タヌキと一緒にこの地で暮らすことを考えるようになっていたの。春の暖かな陽射しを浴びて微睡んでいると此度のことが思い出され、温泉の不思議な効能に感謝すると共に「この地に導いてくれたのも三島権現を始めとする神仏の御加護の賜物。何とかその御恩に応えたいもの・・・」と思うようになったの。けれど温泉が湧く辺りの山間を通る者は殆ど無くて、時折日金山を山越えする者や樵の姿を僅かに見掛けるだけだったの。そうして恩返しをする術も無く、季節は流れて秋も深まったある日のこと。
この土肥郷に住んでいた弥作と云う若者が三島宿に出掛けた帰り道でのことなの。商いが早めに終わったことからこの分なら日金山を山越えして行けば日暮れ迄には我が家へ辿り着けるかも知れないと考えた弥作は足早に歩き始めたの。けれどいざ山中に分け入ってみれば所々で草木に覆われて道も消えかかり、難儀を重ねる内に陽も陰り始めてきたの。山中のこと故行き交う人も無く、弥作は道に迷ってしまったの。ようやく沢を見つけて渓流沿いを伝いながら麓に辿り着いた頃には陽も暮れて辺りには夕闇が迫りつつあったの。険しい山道を歩き通しで疲れを覚えた弥作は傍らの岩に身を凭せ、一時身体を休めていたの。するとどこからともなく甘い香りが風に乗って鼻先をかすめ、目の前を色付いた木の葉が二、三枚はらはらと舞ったの。
その木の葉に気を取られて気付かなかったのですが、弥作の前にはいつの間にか妙麗の美女が現れて弥作に微笑みかけていたの。狐につままれたようにぽか〜んと口を開けてその美しさに弥作が見とれていると「弥作さん、大分お疲れのようですね。この近くにお湯が湧き出る温泉がありますのでわたくしが案内いたしましょう。先ずはその湯に浸かり、疲れを癒した上でお帰り下さいな」と薦められたの。狐に騙されているのかも知れないと思いつつ、弥作はその声色と美しい後姿に引き寄せられるようにして従ったの。果たして河原の岩蔭からはこんこんと湯が湧き上がり、湯船からは湯煙りが立ち上っていたの。
タヌキの湯河原温泉発見物語を脚色してお届けしてみましたがいかがでしたでしょうか。左掲は湯河原駅前にあったタヌキ像ですが、傍らの案内板には「お知らせ:湯河原温泉で出逢った美しい女性、若しくは男性は人間でない場合があります」と注意書きされていましたのでお気をつけ下さいね。湯河原温泉発見説にはこの他にも諸説があるの。
1.役小角発見説 2.行基菩薩発見説 3.弘法大師発見説 4.二見加賀之介重行発見説
高僧三人には日本全国の湧水や温泉発見の逸話が数多く残され、皆さんも一度位はその名を耳にされたことがあるかと思いますが、耳慣れないのが二見加賀之介重行の名前ね。元々は加賀国(現在の石川県)の土豪でしたが山伏となり、この地に辿り着いて土着したと云うの。その時に発見したのが湯河原温泉だと云うわけ。加賀と云えば白山連峰で、泰澄が白山の菊理媛神に十一面観音を感応して以来修験者の霊地となりますが、それ以前から白山は女神の住む山として古来から崇められていたの。その故郷の白山に因み、背後の山に白山と名付けて信仰の山としたみたいね。それがいつしか「しろやま」と呼ばれるようになり、後にその白山に土肥実平が居城を設けたことから城山と書かれるようになったとも云われているの。
前頁では城山にある硯石では嘗て雨乞いの儀式が行われていたことを紹介しましたが、白山の女神・菊理媛は豊かな恵みを齎す水神でもあったの。白山の嶺峰に降り積もった雪は春の雪融けに伴い、麓の田畑を潤すことから、白山は豊穣の神でもあるの。硯石の雨乞い神事は白山の原始山岳信仰に繋がっていたのかもね。
ところで、伊豆山神社に伝えられる走湯山縁起には遠大な叙事詩が描かれていますが、幾れも後に付与されたものみたいで草創期のことは分からないのですが、加賀と云えば温泉地。重行にしても、山伏となり、加賀を離れるに足る政治的な理由があり、新天地を求めて東国に来たわけで、加賀と湯河原では多くの共通項もあり、妙理権現と走湯権現が意外なところで繋がっているのかも知れないわね。
門外漢の勝手な想像ですので、呉々も鵜呑みにしないで下さいね。
だったら書くな!−かしら。
閑話休題、湯河原温泉は古くからその存在が知られながら脚光を浴びるようになったのは明治時代になってからのことなの。この万葉公園の地には嘗て大倉孫兵衛の別荘があり、養生園と名付けられていたの。大倉孫兵衛は森村市左衛門と共にノリタケカンパニーの前身となる日本陶器合名会社を設立した人物ね。湯河原が日露戦争の傷痍軍人の保養地として指定されると養生園も開放され、それを切っ掛けとして皇族や文人墨客達が訪ね来るようになったの。園内には東郷平八郎選の養生園の碑が建てられていますが、東郷平八郎もその養生園で療養しているの。
その時の体験などを元に著したのが「湯ヶ原より」・「恋を恋する人」・「湯ヶ原ゆき」などの短編小説なの。中でも「湯ヶ原より」には女中のお絹に恋心を寄せる独歩の心情が豊かに描かれているの。独断と偏見で体裁を変更させて頂きましたが、その一部を紹介してみますね。
僕はお絹が梨をむいて、僕が獨で入いつてる浴室に、そつと持て來て呉れたことを思ひ、
二人で溪流に沿ふて散歩したことを思ひ、其優しい言葉を思ひ、其無邪氣な態度を思ひ、
其笑顏を思ひ、思はず机を打つて、『明日の朝に行く!』と叫けんだ。
お絹とは何人ぞ、君驚く勿れ、
藝者でも女郎でもない、海老茶式部でも島田の令孃でもない、美人でもない、醜婦でもない、たゞの女である、
湯原の温泉宿中西屋の女中である! 今僕の斯う筆を執つて居る家の女中である!
田舍の百姓の娘である!小田原は大都會と心得て居る田舍娘!
好意を寄せる割りにはヒドイ云い方かも知れませんが、行間には独歩の温かな思いが溢れているの。そのお絹さんも小田原に嫁ぐことを知らされて独歩は失恋してしまうのですが、その後の二回に及ぶ療養もこの湯河原を訪ねているの。小田原に嫁いで女中を辞めてしまったお絹さんですが、独歩の目には訪ね来る度に渓流に遊ぶお絹さんの姿が見えていたのかも知れないわね。
ここでは独歩とお絹さんの関係を叙情的に受け止めてみましたが、独歩の日記には離婚後であるにも関わらず「信子の事は常に吾が心を襲いつつあり」と記されるように、大恋愛の末に結ばれながらも離婚せざるを得ずに別れた最初の妻・佐々城信子さんへの思いが忘れられず、お絹さんの立ち振る舞いやことばの端々にそれを見ていたのでは−とする説もあるの。お相手の佐々城信子さんは医師を父に持つ御令嬢、片や当時の独歩はしがない新聞記者。赤貧の生活は恋愛感情だけでは乗り越えられなかったの。紹介したように「湯ヶ原より」では心を寄せるお絹さんに独歩は暴言を吐いていますが、本当はお絹さんが独歩自身で、暴言を吐く独歩が実は佐々城信子さんと云うパラドックスにもなっているのではないかしら。ちょっと考えすぎかしら。
独歩文学碑を過ぎて最奥部にあるのが独歩の湯。湯河原の地を愛した国木田独歩に因む名称ですが「独りで歩く=自らの力で前進する」と云う意味も兼ね備えているの。そんなことから単に足を浸す足湯ではなくて、臓器の名前に由来する九つの温泉で足裏のつぼをマッサージするように造られているの。「思考の泉」には優しい気持ちを取り戻し、心を和らげ幸せな気分になれる効果もあるそうよ。疲労回復もさることながらメンタルケアも忘れずにね。入浴料:¥300
独歩の湯の傍らにあるのがこの湯かけ地蔵。湯河原の湯を守るお地蔵さまとして建立されたものですが「病める箇所へお湯をかければあなたの悩みや病を癒し、ひとり歩きの出来る、独立独歩の強い心と体を作ってくれます」とありますので是非お試し下さいね。園内には他にも熊野神社や太子堂、季節にはホタルの乱舞する花木園が設けられ、各種イベントも随時行われますので下記のサイトなどで事前調査の上でお出かけ下さいね。
15. 廃墟 はいきょ
今でこそ個人客でも丁寧に迎えてくれる宿が増えましたが、嘗ては「団体客の宴会で忙しいってのに〜」とことばにこそ出しませんが態度にありありと見え、不愉快な思いをしたことも数多くあったの。中には部屋に案内された途端「今から団体さんのバスが到着するものでお出迎えしなければならないのでこれで失礼します!」と背を向けられることも。なあにい〜あれ。ξ^_^ξ達は客じゃないのお〜?確かに団体客は宴会費などで宿に落としていくお金も多いのでしょうけれど。
一方、古くから文人墨客達に愛された老舗旅館の多くが今でも営業を続ける湯河原温泉ですが、こちらも生き残りをかけてどこも必死みたいね。あの夏目漱石も定宿とした天野屋も廃業してしまったの。嘗ては伊藤博文や横山大観なども宿泊したと云う天野屋ですが、老舗の暖簾にしがみついているだけでは宿泊客を呼び込むことが出来なくなってしまったのでしょうね。でも、旅館側ばかりを責めることも出来ないわね。嘗ては温泉に浸かり、酒宴を催して日々の疲れを癒すことが人々の数少ない娯楽の一つでしたが、今は身近に何でも揃う時代で、温泉浴だけが娯楽では無くなってしまったと云うわけ。その入浴にしても今はスパ・リゾートの世界ね。
温泉浴と云えば福泉寺に向かう途中にあるのが ゆ処こでん で、食事も楽しめる日帰りの温泉入浴施設。′04.04にはリニューアルされて宿泊も出来るようになったみたい。宿泊は一日4組までで、21時以降は宿泊客のみが入浴可能と云うことですので、貸切なんてことがあるかも。料金設定にしてもお財布にトコトン優しいの。※残念ながら平成22年(2010)6/30を以て廃業してしまったの。
16. 福泉寺 ふくせんじ
お話しは光友が生まれる前のことに始まるの。光友の父・徳川義直が鷹狩りからの帰り道に一人の娘を見初めたの。義直が馬上から遙か先を見やると耳の遠くなった老婆が行列が近付いていることにも気付かずに家の前にタライを持ち出して行水していたの。傍らで老婆の身体を拭っていた娘が一行に気付くと空かさず家の中へ運び込んだのですが、その姿を見た義直は娘の孝養心と礼節に感じ入り、城中での奉公を命じたの。やがて娘は義直の寵愛を受けるようになり、若君(後の光友)を懐妊するの。
ところが「下賤の身で若君を股の間から御産み申すは万世の恥辱、されば腹から御産み申さん」と自らお腹を切り開いて光友を産んだと云うの。我が身の誕生譚を知った光友はお釈迦さまに母の菩提供養を願わずにはいられなかったでしょうね。その腕に赤子を抱きとめることも無く、若君の誕生を見届けると絶命して果てたと云うの。我が身の命さえも引き換えに、産まれ来る吾が子の幸せを願う母の姿が逸話には込められているの。福泉寺の大仏さまの御尊顔を拝すれば、母子共に健やかに−と、斉しく願わずにはいられませんよね。合掌
境内の一角には鬼子母神を祀る小堂が建てられていたの。鬼子母神は嘗ては人間の子供をさらってはその人肉を我が子に与える鬼神だったのですが、お釈迦さまに諭された後は仏教を外護する一方で、子供達の守護神となったの。併せて墓苑の入口には六地蔵が祀られていますが、六道の辻に立ち、艱難辛苦からξ^_^ξ達をお救い下さると云う、ありがたいお地蔵さまね。鬼子母神も六地蔵も詳しいことは折に触れて紹介済みですのでここでは省略させて下さいね。
17. 明神の楠 みょうじんのくすのき
福泉寺からは再び千歳川を渡り、バス通りを歩きます。やがて左手に五所神社の木立ちが見えて来ますが、道を挟んで右側に聳え立つのがこの「明神の楠」と呼ばれる巨木なの。今でこそ五所神社の直前を県道が横切っていますが、嘗ては千歳川から参道が続き、参拝者は千歳川の清流で禊をしてから社殿に詣でていたの。その頃は他にも数多くの楠の巨木が参道に覆い被さるようにして葉を広げていたそうですが、今はこの一本のみが残されるだけになってしまったの。画像には参詣客の方の姿もありますので、幹の太さが容易にお分かり頂けるわよね。
推定樹齢は800年を越え、根回りは15.6mに及ぶ古木で、湯河原町の文化財にも指定されているの。幹も空洞化してしまい、モールド樹脂(?)で補強されていますが、中には小さな鳥居も建てられているの。その佇まいを見やれば精霊が宿る面持ちで、800年を越えてなお生長を続けるさまは、まさに神の成せる業なのかも知れないわね。
18. 五所神社 ごしょじんじゃ
その明神の楠から県道を挟んで建つのが五所神社で、古くは五所大明神と呼ばれ、縁起では湯河原の温泉発見説で紹介した二見加賀之助重行が、この土肥郷を開拓した際に、鎮守社として天照大神を始め、五柱を勧請して祀ったものと云われているの。治承4年(1180)の挙兵に際しては「石橋山の合戦」前夜に詣でた頼朝は、盛大に護摩を焚いて戦勝祈願したと伝えられ、その時に土肥実平が奉納した刀が現在でも社宝として残されているそうなの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
【新編相模国風土記稿】では天忍穂耳尊、天穂日尊、天津彦根尊、活津彦根尊、熊野豫日尊の五柱を祭神として記しますが、最初に祀られた五柱と考えて差し支えなさそうね。五柱は姉神・天照大神と弟神の素戔鳴尊が天安原を挟んで誓約(うけひ)した際に天照大神の玉飾りから生まれているの。誓約とは誓いと云うよりも神の意向を伺う行為のことで、神さまが神さまの意向を伺うなんておかしいわよ−と思われるかも知れませんが余り深く追究しないで下さいね。尚、現在の祭神は下記の九柱とされますが、誉田別尊とは応神天皇のことでイコール八幡神(八幡大菩薩)なの。
あまてらすおおみかみ 天照大神 うがやふきあえずのみこと 鵜葺草葺不合尊 ほむだわけのみこと 誉田別尊 |
あめのおしほみみのみこと 天忍穂耳尊 すさのおのみこと 素盞嗚尊 |
いざなぎのみこと 伊弉諾尊 ににぎのみこと 瓊瓊杵尊 |
いざなみのみこと 伊弉冊尊 ひこほほでみのみこと 彦火火出見尊 |
1. 先ず正面に止立して一拝
2. 祓え給え清め給えと唱えつつ左へ一回廻る
3. 祓え給え清め給えと唱えつつ右へ一回廻る
4. 祓え給え清め給えと唱えつつ左へ一回廻る
5. 正面で一拝し神前へ進む
19. 薬師堂 やくしどう
天照大神を始め、居並ぶ神々に今年一年の平穏を祈願したしたところで元旦の散策も終了ですが、下調べをしている際に近くに薬師堂があることを知り、宿に向かうには時間が未だありましたので訪ねてみたの。そうは云っても案内板があるわけでも無く、地元の方に訊ねてみても「知りませんねえ〜」と云われてしまったの。道端には御覧のような石仏も立ち、それらしき建物の存在を予感したのですが、これが仲々見つからなくて。
ようやく民家の間に路地を見つけて辿り着いたのがこの薬師堂なの。殆ど忘れ去られたかのような佇まいの小堂で、お堂と云うよりも朽ちかけた民家の趣きね。同じく風雨に曝された木札には「相模国八十八ケ所六番 宮下・薬師堂」とあり、今にも消え入りそうな文字で「かりのよに ちぎやう あらそう むやくなり あんらくふくの しゅごをのぞめよ」の御詠歌が。漢字混じりにすると「仮の世に 知行争う無益也 安楽福の守護を希めよ」と云うところかしら。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
軒下には閻魔大王を始めとする十王像が祀られていますが、鎌倉時代には暗い世情を反映して十王思想が隆盛したの。門外漢のξ^_^ξには彫像年代は不詳ですが、敷地内にはその十王像の他にも石仏が建てられているの。嘗てこの辺りには寺院が建てられていたと伝えられ、先程紹介した路傍の石仏もそのお寺に関係するものだったのでしょうね。この薬師堂にしても堂宇の一つとして境内地に建てられていたものでしょうし、かなりの規模を有するお寺だったのではないかしら。
不動堂とも聞きますが、だとすると祀られるのは不動明王像となってしまいますが、残念ながら堂内を見学させて頂いたわけではありませんので不明なの。なので、ここでは薬師堂と云うことにしておきますね。この薬師堂のある場所ですが、五所神社からは東海道線のガード手前の脇道を上り、湯河原駅方面に向かい、線路伝いに歩いた左手に建つの。道からは少し奥まった所にありますので、注意して歩いて下さいね。記憶では県道からは300m位歩いたところだったかしら。
今となっては土地の人達からも忘れ去られようとする薬師堂ですが、嘗てそこには薬師如来に頭を垂れて無病息災を願う庶民の姿があったハズよね。遙かなる時を経てその役目は近代的な医療技術が担うことになり、薬師如来も不動明王も須弥山に帰っちゃったのかも知れないわね。
駆け足で巡った湯河原の史蹟散策ですが、初詣も終えたところで宿へと戻りました。引き続き宿の宿泊体験記としたいところですが、料理内容などはお正月と云うことで極めて特殊なケースですので参考にはならないと思うの。なので、ここでは宿泊を決めた経緯を紹介してみますね。何だ、余計参考にならないじゃんかよお〜。
20. おんやど惠 おんやどめぐみ
湯河原には是非訪ねてみたいなと思う日帰り入浴温泉施設は数多くあるのですが、宿泊してみたいなと思っても幾れの施設も出来ないの。それならシティーホテルに宿泊して、温泉施設で日帰り入浴を楽しんだ後は美味しい海の幸を食べに街へ繰り出そうかしら?と思ってみても、今度はそのシティーホテルが無いの。ビジネスホテルでも何でもいいから−と探してみたのですが見つからず、そんな時に おんやど惠 で見つけたのが、小林伸男氏の小説『湯けむり』だったの。
神奈川新聞に連載された小説で、臨時の女中から女将となった室伏あきさんが前身の惠旅館を舞台に奮闘する様子が描かれているの。事実と異なる部分があるとの断り書きもありますが、大半は実際のお話しみたいよ。氏の文才に依るところ大ですが、まさに抱腹絶倒の物語。と云っても、当時の当人達は大まじめで、女将の室伏あきさんを中心に義理人情に厚い人々の悲喜交々を描いた秀作よ。その『湯けむり』を読み終えた瞬間に、おんやど惠以外の選択肢は消えてしまったと云うわけ。皆さまも是非御一読の上、当館を御利用下さいませ。
鎌倉歴史散策の番外編として湯河原の散策記を紹介してみましたが、石橋山の合戦に敗れて椙山々中に逃れた頼朝は多くの人々に助けられながら九死に一生を得て後の再起へと繋がっているの。その強運は奇跡とも呼ぶべきものですが、舞台となった湯河原には多くの逸話が残されているの。また、湯河原は古くから知られた温泉地でもあり、渓谷を流れる水音をBGMとして湯けむりに身を沈めれば、名も無き語り部達があなたにも昔話を語り聞かせてくれるかも知れないわ。ふと後を振り返ればそこには中空を見上げて微笑むタヌキ像が置かれていたりして。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 大日本地誌大系 「新編相模国風土記稿」第一巻〜第六巻
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
新人物往来社刊 新定源平盛衰記 第一巻〜第六巻
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
講談社刊 山本幸司著 頼朝の精神史
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
岩波書店 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
塙書房社刊 速水侑著 観音信仰
昭文社刊 上撰の旅12 箱根
渡辺氏著 歴史ロマン 頼朝と政子
渡辺氏著 主な湯河原の神社と寺及び石仏
湯河原町商工会発行 2003年版 なるほど情報局
その他、現地にて頂いてきた栞、パンフ等
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