東松山と吉見町は幾度か訪ねてはいるのですが、足回りの不便さから一日では見処をカバーし切れずに終えていたの。そこで紹介するに先立ち、吉見町だけなら何とか一日で廻りきれるかもしれないわ−と試行錯誤を重ね、トライしてみたの。掲載画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。気になる画像を見つけたらクリックしてみて下さいね。
日本スリーデーマーチに代表されるように、お隣の東松山市はウオーキングが有名よね。軟弱なξ^_^ξにしたら、今回の散策はかなりの強行軍でしたが、歩き慣れた方にはずいぶんとのんびりとしてるな−と思われるかも知れませんね。それでもこの頁を御覧になり、追体験してみようかしら−と思って下さる方がなきにしもあらずですので、参考までに各地点の発着時間を載せておきました。道の途中では、草花を写真に収めるなど、余計な時間が含まれていますので、これ以上のんびりとは歩けないハズよ。併せて、掲載の画像は以前訪ねた時のものも使用していますので、予め御了承下さいね。
1. 東松山 ひがしまつやま 10:20発 3番乗場 鴻巣免許センター行
改札を抜けたら東口に降りて南側広場にある3番乗場を探して下さいね。但し、バスの行き先にはくれぐれも注意してから御乗車下さいね。と云うのも、同じバス乗場から東松02と東松10の2系統が出ているのですが、行先がまるっきり違うの。オマケに、異なる行先のバスが同時刻に発車するケースがあると云うアンビリーバブル。これが時には思わぬ不幸を招くの。実は、その落とし穴にものの見事にはまってしまったξ^_^ξ。1時間に3本あるか無いかの運行本数なので、まさか同時刻発の別系統のバスが同じバス乗場から出るとは夢にも思わず、行先も確認せずに滑り込んできたバスに素直に乗車してしまったの。
車中ではバス停の案内は確かにあるのですが、地元の細かい町名なんて分かりませんから、途中で何か違う方角に折れたみたいだけど、路線バスは必ずしも最短コースを走るとは限らないからと、余り深くも考えずにいたの。ところがその内、「次は終点・パークタウン五領です」のアナウンス。え〜ッ、うっそ〜。
東松02:鴻巣免許センター行(21:00以降鴻巣駅止まり)
東松10:パークタウン五領行
と云うことで、ξ^_^ξは東松10系統のパークタウン五領行に乗車してしまったの。結局、運転手さんに同時刻にもう一つの別の行先のバスがあったことを伺い、始めて事情が飲み込めたのですが、問題はこの後どうするかよね。一番無難なのはもう一度駅まで戻ることですが、本数が少ないのが命取りよね。下手をすれば一時間以上のスケジュール変更を余儀なくされ、最悪は踏破出来ずに途中で断念せざるを得なくなるかも知れないわ。う〜ん、何か良い手だてはないかしら?そうそう、確かバスの時刻表を持って来たハズだわ−と、時計とにらめっこして、最終的には途中まで戻って乗り換えることに。運転手さんにどこで下車して乗り換えるべきかのアドバイスを受けて、一か八かの大勝負をしてみることに。タイミング良く乗り換えられたらいいけど、ダメだったら後はもうヤケクソよ(笑)。
結局、六反町BSで無事乗り換えることが出来、予定の30分遅れで散策を続けられましたが、皆さんはくれぐれもお間違いの無いように御乗車下さいね。因みに、ξ^_^ξがこの日乗車しようとしたのは、9:54発の鴻巣免許センター行よ。ちょっと遅れ気味でしたが、六反町BSを手許の時計で10:28発のバスに乗車出来ましたので、東松山駅を10:20に発車したバスになるわね。と云うことで、ここでは東松山駅10:20発にしておきますね。所要時間:12分 ¥260
時間よりも早く着いたから箭弓稲荷神社へお参りしてから散策すべえか−と云う方は西口に降りて下さいね。
歩いても2,3分の距離ですから、バスの待ち合わせ時間をうまく見計らえば充分可能よ。
2. 久保田BS くぼたばすてい 10:32着発
3. 息障院(源範頼館跡) そくしょういん(みなもとののりよりやかたあと) 10:54着 11:02発
当山は真言宗智山派に属し、岩殿山息障院光明寺と称する。開創は古く、天平年中(730年頃)坂上田村麻呂将軍の開基によるとも伝えられている。古くは吉見護摩堂と称し、天慶(てんぎょう)の乱の折、平将門調伏の護摩を修し、その功により息障院の号を下賜されている。現在の境内地は、源範頼の館跡と云われ、県の指定旧跡となっている。本尊は不動明王であり、平安時代末〜鎌倉初期のもので定朝様式を伝える傑作と云われ、県指定の有形文化財である。当山の全盛期は、戦国末期から江戸時代で、その当時は、末寺120余か寺を数え、隆盛を極めたものである。平成10年(1998)3月 吉見町・埼玉県
そうして自らは新王と称して独自に関東諸国の国司を任命したのですから、治外法権を得た独立国家が関東に出来たようなものよね。今ここで平将門をイテコマシ(笑)ておかないと後に続く輩が現れては大変なことになるわよね。それを許していたら租税の調達が出来なくなり、やがては財政が破綻して権力の維持が出来なくなるもの。そこで朝廷は急遽諸社寺に平将門調伏の祈祷を命じ、併せて追討軍を派遣したの。結局、将門の我が世の春は僅か2ヶ月足らずで終焉を迎えてしまったの。
【新編武蔵風土記稿】には「相傳ふ昔平將門反逆の時 朝敵調伏の爲 勅ありて當寺及び長野村長久寺 小俣村鷄足寺の三ヶ寺を創立ありしと 明證はなし」と記されますが、創立ありし−と云うのは誇張で、本当は祈祷を命じられただけみたいね。でも、なんだ、祈祷しただけで院号を下賜されんのかよ、そんな訳はねえだろう−と思ってはいけないわ。当時はことばには霊力があると信じられていたの、所謂、言霊(ことだま)よ。当時は紛争も人心の乱れとして悪霊の為せる業と信じられてもいたの。
天皇にすれば実力行使と共に、臣民を惑わす不敵な悪霊どもを祈祷で封じ込める必要があり、一方で悪霊どもを退治するためには神仏の加護も必要だったの。乱を平定出来たのもその双方が得られたからのことで、褒賞は霊験や法力への対価で、下賜される方にしてみれば霊験灼かなことを証明する勲章よね。
【風土記稿】に記される長野村長久寺と小俣村鷄足寺ですが、現在は埼玉県行田市桜町にある長久寺と、栃木県足利市小俣町の鷄足寺を指しているみたいね。その鶏足寺ですが、平将門の乱平定後に以前の世尊寺から改称しているの。その理由と云うのがおもしろいの。将門調伏祈願に際して住持の定有(じょうゆう)上人は土で将門の首に見たてた塑像を作り、それを前にして連日連夜祈祷を続けたの。でも、幾ら修行を積んだ身と云っても人間ですからいつまでも徹夜は続けられず、祈祷の最中にとうとう眠ってしまったの。ところが、不思議なことに、鶏がその足で血まみれの将門の首を踏みつける夢を見たの。上人が鶏の雄叫びの鳴き声に目を覚ますと、将門の塑像には鶏の足跡がくっきりと残されていたの。それから数日後には将門の首も討ち取られ、その奇瑞に触れた上人は寺名を鷄足寺に改称したと云うわけ。
冒頭に紹介しましたように、この息障院は源範頼(みなもとののりより)の居館跡と伝えられているの。その範頼については後程安楽寺のところで触れますので、今しばらくお待ち下さいね。
※【保暦間記】には永仁4年(1296)11/20のこととして「吉見孫太郎義世 三河守範頼四代孫 吉見三郎入道頼氏男 謀反の聞え有て召取る 良基僧正同意の間遠流せらる 義世は瀧の口にて首を刎られ畢」と記されているの。この謀逆の内容ですが、北条得宗家の専制に不満を持つものも多く、幕府に反旗を翻して挙兵しようとしたみたいね。ところが挙兵の直前に事が知れて北条軍に攻め込まれてしまい、義世は捕らえられてしまったの。その義世の子・義宗は他家の養子(後の渋川尊頼)となり、ここに武蔵吉見氏の嫡流は断絶するに至ったの。
山門をくぐりぬけた左手には室町時代に建てられたものとされる地蔵堂が建ちますが、当時の建物がそのまま現存している訳ではなくて、後世に幾度か手を加えられているの。それでも当初の建築様式を多く引き留めていることから重要建造物として扱われているみたいね。ところで、地蔵堂と云えば息障院の本尊とされるのが不動明王坐像。伝えられるところでは平安時代末期から鎌倉初期にかけて作られたもので、弘法大師作とも云われているのですが、これはちょっと頷けないわね。
と云うのも、弘法大師こと空海上人が生きたのは奈良時代後半から平安時代初期にかけてのことよね。弘法大師作として権威付けしたい気持ちは充分理解できるのですが、吉見町HPの解説では「12世紀頃の中央仏師の作と考えられ、県内最古のしかも地方作の代表的な不動明王である」としているの。ところで、不動明王坐像は地蔵堂に祀られているの?それとも本堂にかしら。本尊とされるのですからやはり本堂に祀られているのかしら。どちらにしても興味本位で拝観出来るような雰囲気ではないのですが。
ここで次の横見神社までの道のりを参考までに御案内してみますね。
手許に地図があったとしても意外に分からないものよね。それともξ^_^ξだけかしら?
ねえねえ、延喜式ってなあに? その前に式から説明しないといけないわね。計算のしかたを数字や記号で表したものを計算式と云うけど、式にはお手本とか型、決まりごとと云った意味があり、ここでは法律のことなの。延喜5年(905)に編纂が始められたことから延喜式の名があるけど、その前にも弘仁式、貞観式と名付けられたものがあるの。延喜式はその二つを集大成し、実情に合わせて補強を加えたものと云えなくもないの。 中にはどんなことが書いてあるの? 当時は律令制度に基づいて国が治められていたのは知っているわよね。律は刑法を、令は国を治める組織やお役人の仕事の内容をとり決めたものだけど、式には更に細かい運用規則が一つ一つ書かれているの。全部で50巻もあって条文も3,000以上あるのでひとことでは云えないわね。 その法律を集めた延喜式にどうして神社の名前が載るの?
当時は神社を運営するのも大事な政(まつりごと)だったんだけど、幾ら何でも全ての神社の面倒はみられないわよね。そこで重要な神社を選んで指定したの。それでも3,000社近くあったのよ。延喜式の第9巻、10巻はその一覧表(神名帳)になっているんだけど、そこに名前が載る神社は式内社として朝廷からはとても大事にされたの。それぞれの社では毎年2/4に祈年祭を行い、一年の豊穣を祈願したんだけど、式内社には朝廷から神さまへのお供え物があったの。五穀豊穣は国を治めていくには大前提で、徴租は黄金色の稲穂がたなびいてこそのお話しよね。なので、お供え物にしても、ξ^_^ξ達がするような些細なものではなくて、受け取る方でも気合いが必要だったの。ちゃんと奉幣してんだから五穀豊穣を心して祈願せい!もしダメだったら来年からはお前んところには交付金はやらねえぞ!−と云ったところね。
因みに、横見は横渟(よこゐ)に遡ると云うの。
【日本書紀】の安閑天皇元年(534)閏12月の条には
武蔵国造笠原直使主と同族小杵と 国造を相争ひて 年経るに決め難し
むさしのくにのみやつこかさはらのあたひおみとうがらをきと くにのみやつこをあひあらそひて としふるにさだめがたし
小杵 性阻くして逆ふこと有り 心高びて順ふこと無し
をき ひととなりうぢはやくしてさかふことあり こころたかびてまつろふことなし
密かに就きて援を上毛野君小熊に求む 而して使主を殺さむと謀る
ひそかにゆきてたすけをかみつけののきみをくまにもとむ しこうしておみをころさむとはかる
使主覚りて走げ出づ 京に詣でて状を言す
おみさとりてにげいづ みやこにまうでてそのかたちをまうす
朝庭臨断めたまひて 使主を以て国造とす 小杵を誅す
みかどつみさだめたまひて おみをもちてくにのみやつことす をきをころす
国造使主 悚喜懐に交ちて 黙己あること能はず
くにのみやつこおみ かしこまりよろこびこころにみちて もだあることあたはず
謹みて国家の為に 横渟・橘花・多氷・倉樔 四處の屯倉を置き奉る
つつしみてみかどのために よこゐ・たちばな・おほひ・くらす よところのみやけをおきたてまつる
とあるのですが、な〜に云ってんだか分からないわ−と云う方に。武蔵の国の豪族・笠原使主(かさはらおみ)と、同族の小杵(おぎ)が国造の地位をめぐり、合戦を始めたの。けれどいつまでもたっても勝敗が決まらず、荒くれ者の小杵は密かにお隣の上毛野国(=現:群馬県)の小熊に応援を求めたの。それを知った使主は都へ逃れると朝廷に泣きついたの。即刻、断は下され、使主を新たな国造に任命すると、小杵を追討したの。使主はうれしくてうれしくて、何もせずにはいられなかったので、朝廷のためにと横渟・橘花・多氷・倉樔の4郷を屯倉として献上したと云うわけ。
記述中に残る、橘花・多氷・倉樔は順に、神奈川県の川崎市と横浜市日吉、東京都多摩地区、神奈川県の横浜市に比定されるの。ξ^_^ξは武蔵と聞くと武蔵野市を思い浮かべてしまいますが、当時の武蔵国はとてつもなく広かったのね。
前置きが大分長くなってしまいましたが、横見神社は和銅年間(708-715)の創建とする説もあるようですが、明確な傍証は無いみたいね。【風土記稿】の上細谷村の項には飯玉氷川明神社と名を変えて紹介されているの。村名も社名も現在のそれとは異なることから奇異に感じられるかも知れませんが、時の流れの中で地割の変遷があり、その時々で名を変えてきたことに依るものみたい。確かに異説もあるようなのですが、それはひとまず置いておき、【風土記稿】の記述を紹介してますね。
是 延喜式神名帳に載る横見の神社にて
祭神 素盞嗚尊 稻倉玉命なりと云傳れど 慥なる據あるにはあらず
當村及下細谷・黒岩・御所・谷口・中荒井・久保田 七ヶ村の鎭守なり
社の後に神木とて 圍一丈五尺程の松あり 此下に石郭ありと云傳ふ
古は社に金の弊束ありしが 中古洪水の時社共に 久保田村へ流れ行て 今は失へりとぞ
慥なる拠あるにはあらず−の断り書きはあるのですが、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と奇稲田媛命(くしなだひめのみこと)だと伝えられていると云うの。荒ぶる神の印象が強い素戔嗚尊ですが、実は、穀物などの恵みをもたらす豊穣神でもあるの。素戔嗚尊と云えば八岐大蛇退治の神話ですが、大蛇は龍神として水を司る神さまでもあり、それを退治した素戔嗚尊は稲作に必要な水をコントロールする力の象徴でもあるの。また、大蛇から助けられた奇稲田媛にしても、黄金色の稲穂が風に揺れて美しくあるさまを表したものとされ、一方で水の神さまである龍神を迎えて祭祀を行う儀式では祭司の役割を担うとともに、自らもまた神へと嫁ぐ巫女の姿の投影でもあるの。なので二柱は横渟の屯倉に造営された横見神社にはふさわしい祭神と云えるのではないかしら。
【風土記稿】には「社の後に神木とて囲一丈五尺程の松あり」と記され、嘗ては「横見の松」と呼ばれる御神木の松の木があったみたいね。加えて、「此下に石郭ありと云伝ふ」とあり、古墳の上に社殿が建てられていると云うわけ。拝殿の建つ場所は整地された平地ですが、本殿は盛り土の上にあることから古墳の土壇に建てられているとみても差し支えなさそうよ。確かに近年の発掘調査などから古墳時代の集落跡とされる稲荷前遺跡も見つかり、御所古墳群の存在も知られているの。
横見神社の境内地に接するようにして小さな稲荷社が建ちますが、その稲荷社もまた御所稲荷塚古墳の上にあるの。元は横見神社の境内地に末社としてあったものを明治5年(1872)に現在地に遷座したみたいね。祭神は勿論、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ=倉稲魂命)で、元々は稲の生育と豊穣を司る神さまね。通称はみなさんも良くご存知のお稲荷さん。
グリコのオマケのお話しですが、同じ社名の横見神社が2Km程南に下った久保田地区にも鎮座するの。伝えられるところでは、慶長年間(1249-56)に御所の横見神社が大洪水で流されて久保田村に流れ着いたの。御神体が漂着した久保田村の里人達はそれを神さまの御来臨と喜び、社を建てて祀ったの。【風土記稿】に記される「中古洪水の時 社共に久保田村へ流れ行て」とあるのはその時のことね。なので久保田横見神社は分社分霊したものね。ただ、吉見町では、パンフレットには御所横見神社を、HPでは久保田横見神社を横見神社として紹介するの。なので、どちらの横見神社のことを云っているのか注意しなければならないのはちょっと困りものね。要改善よ、吉見町さん。
混乱に輪を掛けるようで恐縮ですが、上細谷の氷川神社が横見神社から北へ直線距離にして僅か200m足らずのところに鎮座するの。ここでは【風土記稿】が云うところの上細谷村の飯玉氷川明神社を横見神社のこととして御案内してみましたが、上細谷に現存する氷川神社の縁起が気になりますよね。一度訪ねてはみたのですが、村の集会所の趣で、由来を窺わせるようなものは何一つ見つけられずに終えてしまったの。どうも横見神社に関しては今一つ歯切れが悪く、爽快感を以て次へ−とはいかないわね。
話は変わりますが、横見神社の鳥居と道を挟んで町内巡回バスの停留所があったの。実は、吉見町の散策にこのバスをうまく利用出来ないかしら?と考えたのですが、余りにも本数が少なくて。加えて、東武東上線へは東松山が最寄り駅のハズなのに、何故か離れた森林公園駅に接続すると云う天の邪鬼。JR高崎線への接続にしても、鴻巣駅ではなくて北本駅や吹上駅なの。地元の民営バス会社の運行経路との重複を極力回避した結果だとは思うのですが、利用者側にすれば余りにも不便よね。基本は町民の方々の町内移動で、外からの来町者の利用は想定外なのかも知れないわね。よそ者のξ^_^ξが苦言を呈したところで、吉見町に税金を納めているわけでも無いので仕方無いわね。とは云え、東松山⇔鴻巣免許センターを運行する川越観光バスを除けば吉見町を走る唯一の公共交通手段なの。
そうそう、もう一つ、東武バスが鴻巣免許センターからJR鴻巣駅を経由して川越駅に向かう路線を運行しているけど、これは吉見町を通ると云うよりも掠めているだけよね。吉見町の方々には申し訳ないけど、端から見たらこれでは陸の孤島状態よ。不便さは覚悟の上で挑戦してみるわ−と云う方は 吉見町役場HP からリンクを辿ってみて下さいね。路線バスヘのリンクもあるの。
紹介した吉見町の町内循環バスですが、平成30年(2018)12月28日を以て運行を終了してしまったの。現在は運行時刻&経路を事前予約(町民限定)で決めるデマンド型交通(デマンドバス)に移行していて、脳天気な旅人には路線バス以外の選択肢が無くなってしまったの。残るは自分の膝栗毛しかないの。
ここで横見神社から安楽寺(吉見観音)への道筋を御案内しておきますね。
左端が参道の景観よ。沿道には露座の仁王像が建てられていましたが、こちらの仁王像は篤志家の方が平成4年(1992)に奉納されたものなの。他にも如意輪観音像などが建てられていますが、右端は青面金剛と三猿を刻む庚申塔ね。
5. どびんや 11:45着 11:54発
本当は御開帳(厄除朝観音)の時に境内や参道で売り出されるのが本来の厄除け団子なのですが、年に一度のことですし、朝早ければ早い程御利益があるとされるので、AM2:00頃から売り出されるそうなの。なので徹夜で強行軍するなど、厄除け団子で一年の厄落としをしようとするとかなりの気合いが必要みたいね。そこまでの根性は無いわ−と云う方は縁日(18日)の度に「どびんや」さんへ足をお運び下さいね。それも無理よ−と云う方は、訪ねた時にお団子の数に任せて(笑)厄除けしましょうね。「どびんや」さんなら同じ厄除け団子でもお醤油味だけはなくて、あまから(みたらし)、柚みそ、のり、つぶ餡なども楽しめるわよ。
訪ねたのが真夏も真夏、猛暑日のことでしたので喉もカラッカラッで飛び込んだξ^_^ξは「氷」の暖簾に負けてかき氷を頼んだの。なので厄除け団子は未体験で終えてしまったの。そのかき氷ですが、しそ梅シロップ¥400 を初体験。梅の酸味と紫蘇の香りがマッチする逸品でしたが、「どびんや」さんのオリジナルなの。因みに、「どびんや」さんでは自家栽培のお野菜を使った「昼御前」など、しっかりとした食事も出来ますよ。今回の散策では安楽寺に着く頃がちょうどランチ・タイムになるの。この後は山歩きが続きますので、食事をするならこちらの「どびんや」さんがお薦めよ。ξ^_^ξは暑さに負けてかき氷で済ませてしまいましたが、この日食事が出来たのは吉見百穴に辿り着いてからだったの。と云うのも、途中にはコンビニも無ければそれらしきお店が何も無かったの。
6. 安楽寺(吉見観音) あんらくじ(よしみかんのん) 11:55着 12:17発
岩殿山安楽寺は坂東11番札所で、真言宗智山派に属し、古くから「吉見観音」の名で親しまれている。今から約1,300年※ほど前、行基菩薩が岩窟に観音像を安置したのが始まりと云われている。平治の乱後には、源範頼がこの地を領するようになり、本堂と三重の塔を建立したと伝えられるが、天文年間(約450年前)の上杉憲政と北条氏康の松山城合戦に際し、全ての伽藍は焼失してしまった。現在の本堂は寛文元年(約340年前)に再建されたものであり、五間堂の平面を持つ密教本堂で、江戸時代前期の建築様式を伝える貴重な遺構である。また、堂内の欄間には左甚五郎の作と云われる「野荒らしの虎」も納められている。三重塔は本堂よりも古い寛永年間の創建であり、全体的に簡素な意匠ながら和洋様式で統一された江戸時代初期の貴重な遺構である。仁王門は元禄15年(約300年前)に再建された三棟造りの八脚門と云う建築様式をもち、内部に仁王像2体を安置する。本堂・三重塔・仁王門は県指定、仁王像は町指定の文化財になっている。平成10年(1998)3月 吉見町・埼玉県
※1,200年とするものが多いのですが。ex.吉見町HPなど
観音さまの画像は Harumi's Home Page さんに掲載されるものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・
元久元年(1204)04/18の条には「将軍家御夢想の告げに依って、岩殿観音堂に参り給う。遠州並びに四郎・五郎等主 及び廣元朝臣以下の扈従雲霞の如し」とあり、源実朝が夢告を受けて、後に第二番札所となる岩殿観音(神奈川県逗子市の海雲山岩殿寺)に詣でた際には御家人達がそれこそ雲霞のように付き従ったことが記されているの。以後も実朝の巡礼諸堂云々や岩殿観音に詣でた記述が見えるの。このことから板東三十三所札所の制定と巡礼は実朝の時代に始まったとする説があるくらいなの。
尤も、当初の巡礼は修行を伴うことも多く、僧侶であるか、或いは貴族や武士などの限られた人達だけで行われていたのですが、徐々に一般化。江戸時代になると、庶民の暮らしぶりも向上したことから現世利益に主軸が移り、巡礼が観光化したの。観音霊場を辿る途中では深山幽谷に遊び、参詣を終えると飲めや歌えやの宴席が設けられるなど、早い話が物見遊山になってしまったの。尤も、そのお陰で観音霊場周辺にはお金も落ちて大いに潤ったと云うことでもあるの。
嘗ては大いに賑わいを見せた観音霊場ですが、交通手段が発達してどこにでも身軽に出掛けられるようになった今では信仰にこと寄せて旅をする必要もなくなり、喧噪が遠のいた境内には紫煙がたなびき、信仰と真摯に向き合う巡礼者の姿が戻ってきたと云うことね。観音霊場めぐりを踏まえて板東三十三所を駆け足で紹介しましたが、詳しいことが知りたい方は 板東三十三観音公式サイト を御参照下さいね。余談ですが、板東三十三所の全行程は強引な語呂合わせに思えるけど330里だそうよ。1里を4Kmとすると何と1,320Kmにもなるの。平均的な人間の歩行速度は4Km/hよね。仮に一日8時間ぶっ通しで歩いたとしても42日掛かる計算になるわ。う〜ん、聞いただけで目眩がするわ。久保田BSからここまで歩いて来ただけで地球を半周したような気分になっているξ^_^ξにはとても踏破は無理ね。霊場めぐりは正に修行、否、苦行ね。
安楽寺は寺伝では今から約1,200年前に聖武天皇の勅命を受けて行基菩薩が観世音菩薩を彫像して岩窟に納めたことに始まるとされ、延暦14年(795)に奥州征伐に向かう途次にこの地に立寄った坂上田村麻呂が戦勝祈願し、領内の総鎮守としたとされているの。その後、吉見庄を安堵した源範頼(みなもとののりより)が本堂と三重塔を建立したのですが、天文6年(1537)に後北条氏が松山城を攻めた際の戦火を受けて全てを焼失。現在の堂宇の多くは江戸時代に再建されたものとされるの。
ですが、行基菩薩云々はちょっとマユツバものね。行基が活躍したのは専ら都でのお話しで、彼が東国に下向して来たと云う傍証は何も無いの。その多くが権威付けをねらって後世に付与されたものなの。だからと云って100%の断言は出来ないのですが、東下して来た可能性は限りなく低いの。他の頁でも御案内していますが、東国に行基の「痕跡」が数多く残されている理由のヒントが新人物往来社刊 馬淵和雄氏著 【鎌倉大仏の中世史】に記載されていますので、気になる方は同著をお読み下さいね。次の坂上田村麻呂云々にしても【風土記稿】のことばを借りると「比企郡なる岩殿観音の伝えを引付しにて取に足らず」なの。その【風土記稿】は更に「或書云 吉見次郎頼綱 比企の岩殿に擬して起立せしと」との説も披露してくれてはいるのですが、やはり「慥なることにはあらず」のようね。因みに、「比企郡なる岩殿観音」ですが、同じ板東三十三所でも第10番札所の正法寺のことなの。
伝えられる縁起を悉く否定してしまいましたが、それらしく思えるのが【風土記稿】が引く「されど縁起によれば 源範頼平治の後當所に來り 三河守に任じて吉見の庄を領せし頃 所領の半を寄附して諸堂を建立すと云り」の記述なの。
石段脇の石柱には板東11番岩殿山安楽寺の案内と共に、側面には蒲冠者源範頼旧跡とあるのですが、蒲冠者=源範頼で、冠者は元服して間もない若者の意で、蒲は遠江国蒲御厨(かばのみくりや:現在の浜松市)で生まれたことに因むの。出世魚では無いけど、当時は年齢や職掌などで名を変えたの。蒲の冠者、蒲殿と呼ばれていた源範頼も三河守の地位を得てからは三州殿と呼ばれていたみたいね。年齢的には30歳前後で就任した計算になるかしら。
源範頼像・横浜市金沢区 太寧寺所蔵
じゃあ、その源範頼とは何者なの?と気になりますが、その前に予備知識を一つ紹介させて下さいね。【風土記稿】の息障院の項には「岩殿山の観音も元は當寺にて進退せしが 程隔て便悪き故 別当職を安楽寺へ譲りしと云ふ」とあるの。それがいつのことなのかまでは分かりませんが、息障院の管理下にあった観音堂が安楽寺に委ねられ、今では安楽寺そのものになっていると云うわけですが、嘗ては息障院も観音堂も安楽寺もみ〜んな一緒だったの。なので、蒲冠者源範頼旧跡を謳う安楽寺ですが、息障院もまた然りなの。範頼のことをこれから御案内しますが、息障院・観音堂・安楽寺が人類皆兄弟状態(笑)の時のことよ。
源範頼ですが、源義朝を父として、母は遠江国池田宿の遊女とされるの。と云うことは、頼朝の異母弟になるわけよね。付け加えれば、義経は範頼からするとこれもまた異母弟になり、源頼朝・範頼・義経はそれぞれが母親を異にした兄弟と云うわけ。異母兄弟だとはいえ、血を分けた兄が弟の命を奪うとは辛い時代ですね。それはさておき、範頼の養和元年(1181)以前の経歴は分からないの。なので【安楽寺略縁起】に記される僅かな情報に頼らざるを得ないのですが、それに依ると平治の乱の後、比企尼の庇護の許に、この安楽寺に稚児僧として身を隠していたと伝えられているの。御存知のように、比企尼は頼朝の乳母でもあり、頼朝が蛭ヶ小島に流されると夫と共にこの比企郡に下向して20年間に亘り、頼朝を支え続けているのですが、その献身ぶりは乳母を超えて最大の援護者でもあったの。その比企尼が範頼を庇護していたとしても不思議ではないわね。因みに、範頼の幼名は乙若丸だったみたいよ。義経とは一字違いだけど偶然の一致かしら、それとも‥‥‥。その範頼が歴史の表舞台に登場するのは養和元年(1181)のことで【吾妻鏡】の閏2/23の条に「蒲の冠者範頼同じく馳せ来たる所なり」とあるの。
以後は義経と共に転戦を繰り返し、平家追討軍を率いて西海に赴いてもいるの。義経ばかりが脚光を浴びますが、範頼の陣頭指揮や戦術ぶりも決して見劣りするようなものではなかったようよ。加えて、スタンド・プレーの多い義経に対し、範頼は最前線から頼朝に逐一書状を送るなどしていることから、総司令官の頼朝は追討軍の司令官に相応しい逸材と受け止めていたようよ。【吾妻鏡】を見る限りでは、壇ノ浦で勝利を収めてからは行事の際に参列者に名を連ねる程度でしか無いのですが、建久4年(1193)に突然伊豆に配流されたことになっているの。【吾妻鏡】の8/17の条には
參河の守範頼朝臣伊豆の國に下向せらる 狩野の介宗茂・宇佐美の三郎祐茂等預かり守護する所なり
歸參その期有るべからず 偏に配流の如し 當麻の太郎は薩摩の國に遣わさる
忽ち誅せらるべきの處 折節姫君の御不例に依って その刑を緩せらると
これ陰謀の構え上聞に達しをはんぬ 起請文を進せらるると雖も
當麻が所行 これを宥められ難きに依りて この儀に及ぶと
とあるの。これだけでは配流にさせられた理由が分からないわよね。直接の原因では無いのですが、あの「曾我兄弟の仇討ち事件」が関係していると云われているの。事件は配流に先立つ5/28に起きているのですが、範頼は頼朝に随行せずに鎌倉で留守居役をしていたの。事件のあらましは詳しくは触れずにおきますが、同じく鎌倉で待つ北条政子のもとに飛脚がとどけられて事の次第を告げられたのが5/30で、頼朝の帰還は事件から一週間も後のことなの。事件は曾我兄弟の宿敵・工藤祐経を討ちはたしながら弟の五郎時致は「御前を差して奔参」し、頼朝も「御剣を取り これに向かわしめ給わんと欲す」状況にまでなったの。既に仇討ちの本懐は遂げていたのに頼朝を襲っていることから、仇討ちにかこつけて暗殺を目論んでいたのでは−と思われているの。事件のあらましを聞かされた政子にしてみれば、頼朝の顔を見るまでは不安だったと思うわ。【保暦間記】には
三河の守範頼誅せられをはんぬ
その故は 去る富士の狩りの時
狩り場にて大將殿の打れさせ給と云う事鎌倉へ聞えたりけるに
二位殿大いに騷いで歎かせ給いけるに 範頼鎌倉に留守なりけるが
範頼左て候へば御代は何事か候べきと慰め申したりけるを
扨は世に心を懸けたるかとて 誅せられけるとかや
とあり、政子の憂いを端で見ていた範頼は「例え兄の身に何かあったとしても鎌倉にはこの範頼が控えておりますれば源家も安泰、ご心配召されるな」と云って慰めたの。このことばが鎌倉に戻った頼朝の耳に入ったことから謀反の疑いを掛けられたの。範頼は8/2には忠誠を誓う起請文を頼朝に送るのですが、三河の守源範頼と源氏姓を名乗ったことで反感を買うの。起請文に一族であることを明示するとは何事ぞと云うわけ。頼朝にすれば、例え弟と雖も一人の家臣で、「頗る過分なり これ先ず起請の失なり」と、にべもなく却下されてしまうの。範頼が悩んだのは当たり前よね、その後一週間近くも音沙汰が無いのですから。その主の心中を察してか範頼配下の当麻太郎が頼朝の寝所の床下に忍び込むのですが、頼朝にその気配を悟られて捕らえられてしまうの。主の愁嘆する姿を見ておれず、話の序でに処遇如何が吐露されるやも知れぬと忍び入っただけで他意は無し−と陳情する当麻でしたが、肝心の範頼はと云うと覚悟の由を告げたと云うの。【吾妻鑑】は「当麻は参州殊に相憑まるるの勇士 弓剣の武芸にすでにその名を得るの者なり」と記しますが、これでは刺客とみなされても仕方ないわね。
そうして8/17には範頼は伊豆に配流させられたの。【吾妻鏡】はその翌日8/18に範頼の家人が武装して不穏な動きを見せたことから成敗され、8/20には曾我祐成の同母兄弟である京の小次郎なる人物が範頼に縁座することから誅殺されたことを記すのみで、範頼のその後を記すことは無いのですが、【保暦間記】や【北條九代記】では「誅せられをはんぬ(誅せらる)」と、殺されたことになっているの。
ですが、他にも修善寺で自刃して果てた、否、金沢(現在の横浜市金沢区)太寧寺で自刃した、いやいや、武蔵国足立郡(現:埼玉県北本市)石戸宿に逃れた、ちゃうでぇ〜、伊予国(現:愛媛県)の河野氏の許に身を寄せた等々の諸説があるの。勿論、この吉見にも逃れ来て身を潜めたと云う説があるの。因みに、刺客と見なされた当麻は頼朝の娘・大姫が病に伏せたことから薩摩への遠流に恩赦されているの。
【吾妻鏡】の記述を元に紹介してみましたが、鎌倉幕府の半公式記録と云ってもその内容は極めて北条氏側に有利なもの。事件は範頼の謀反と云う形で終えていますが、本当は範頼を貶める謀略だったのでは−と云う説もあるの。仇討ち事件にしても曾我兄弟の弟・五郎時致の烏帽子親(元服する際に後見人ともなるべき名付け親)は北条時政なの。改めて云うまでもなく政子の父親ね。そこに作為的な意図が感じられると云うわけ。史実の程は御読み下さっている皆さんの御賢察にお任せよ。
石段を上ると最初にあるのがこの仁王門で、両袖に祀られる仁王像と共に埼玉県の指定文化財になるの。その仁王像は元禄15年(1702)の造像であることが知られているの。傍らに建つ案内板(というよりも案内柱)に依ると「間口四間一尺、奥行二間四尺、二軒繁垂木切妻造、瓦葺、妻は二重虹梁、邪鬼束を用い三棟形式、中備蟇股、正面両端間に金剛柵を廻らし内部に阿、吽の蜜跡金剛力士二体、丈、十二尺を安置す。全体的にどっしりと豪壮な気宇がただよっております」とのこと。因みに、ここでは「かね尺」での採寸のようですので、一尺は約30.3cmになるの。後は各自電卓などで計算してみて下さいね。
本堂に上る石段の右手には二躯の青銅仏が露座で鎮座されていますが、ξ^_^ξが気になったのは石段寄りに鎮座する小さな青銅仏。台座には「奉納日本廻国六拾六部供養仏」とあり、寄進者の名がびっしりと刻み込まれているの。六拾六部とは通称「六部(りくぶ)」のことで、元々は66部からなる法華経を書写して同じく66ヶ所の社寺に納経して歩く修行僧のことを指していたの。彼らは厨子に入れた仏像を背負い、鉦を鳴らしながら歩いたの。尤も、66ヶ所と云っても固定的な霊地があった訳ではなく、飽くまでも66と云う数に意味がおかれていたようね。寶永7年(1710)の銘がありましたので江戸時代に建立されたものね。寶永年間と云えば前後の元禄、享保年間と共に庶民の生活が豊かさを迎えた時代よね。その豊かさを背景にして諸国を行脚する庶民の姿が多くあったのかも知れないわね。
安楽寺本堂−埼玉県指定有形文化財:本堂は棟札銘によれば杲鏡(こうきょう)の弟子・秀慶らが杲鏡の遺志を継いで寛文元年(1661)に建立したものである。様式は禅宗様に和様を交えた典型的な五間堂の平面を持つ密教本堂である。内部各部材に施された華麗な彩色文様とともに江戸時代前期の様式を伝える貴重な遺構である。向拝は享保年間の付加、屋根はもと柿葺(こけらぶき)であったが大正12年(1923)の改修の際に銅瓦棒葺に改められた。昭和56年(1981)2月10日 埼玉県・吉見町教育委員会
石段を登ると重厚な本堂が間近に迫りますが、堂内の欄間には左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝えられる「野荒しの虎」があるので見逃さないようにして下さいね。薄暗い堂内のことで掲載画像では良く分からないと思いますが御容赦下さいね。この「野荒らしの虎」には面白い逸話が残されているの。
虎は夜になるとこのお堂を抜け出しては馬や牛を襲い、田畑を荒らしては村人達を困らせていたと云うの。困り果てた村人達がある夜総出で虎狩りをすると、射止めることは出来なかったものの、投げた槍が足に当たったの。残念ながら逃げられてしまいましたが、残された血の跡を辿ってみると何とこのお堂の中まで続いていて、欄間に彫られた虎の後ろ足にはたくさんの血がついていたと云うの。「野荒しの虎」のその後が気になりますが、余程痛かったと見えて今は悪さもせずにおとなしく参詣者を見守ってくれているようね。
安楽寺三重塔−埼玉県指定有形文化財:三重塔は本堂棟札銘によると杲鏡の造営になると伝えるから本堂より古い創建である。総高約17.6m※、方三間の三重塔婆で基壇は設けられず、心柱は初重天井上の梁で支えられている。絵模様彫刻はない。屋根はもと柿葺(こけらぶき)であったが、現在は銅板葺に改められている。全体的に簡素な意匠ながら、和様様式で統一された江戸時代初期の貴重な遺構として戦後の本県指定有形文化財の第一号として指定された。昭和35年(1960)県費補助事業として解体修理を実施した。昭和56年(1981)2月10日 埼玉県・吉見町教育委員会
※24.3mとするものが多いの。ex.次に紹介する三重塔の前に立つ案内板、吉見町HPの文化財解説記事など
吉見観音は今から約1,220年前、行基菩薩の草創であります。その後、大同元年(806)坂上田村麻呂によって、吉見領の総鎮守といたされました。後、鎌倉時代に源範頼は十六丈(約48m)の三重大塔と二十五間(約45m)四面の大講堂を建立し、非常に壮大であったと伝えられております。しかし、天文年間に松山城の落城に際してこれらの大伽藍も悉く焼失致しました。現在の三重塔は、その後今から約350年前の寛永年間(1624-1643)に杲鏡法印によって再建されたものであります。塔はインドに於いて仏教と共に起こった建築でありまして仏陀の遺骨を奉安し供養するために建てられたものであります。この塔は総高24.3mで様式は全体に穏健な和風的な雰囲気を漂わせ江戸時代初期の特徴を良く現しております。
初重の内部には四天柱を建て、中に誕生釈迦尊像を安置し、心柱は天井の梁で支えられ、組物等は工匠間の所謂六枚掛で整然としています。塔建築の少ない関東地方に於いて江戸時代初期の塔は県内に三塔存在しておりますが、その中でもこの三重塔は当代の様式を最も良く伝えている極めて貴重な建造物であります。昭和28年(1953)3月有形文化財として県の指定を受けました。昭和62年(1987)03月 吉見町教育委員会
まさかこの吉見町で三重塔が見られるとは思いもしませんでした。高さにしても建立当初のものは現在の倍近くあったと云うのですから驚きよね。無理とは分かっていてもその姿を是非一度この目で見てみたいものね。因みに、最初に訪ねた ( ′09.07 ) 時には三重塔の前には御覧のように「三笠宮殿下御手植の松」が風情を添えていたのですが、今回訪ねた ( ′10.08 ) 時には切り株を残すだけになっていたの。強風で倒されてしまったのかしら?
その三重塔の右手には御覧の太子堂と、供養塔三基が並び立てられているの。一番背の高い供養塔は先程紹介した六十六部、略して六部の供養塔ね。本堂の裏手になりますが、御覧の石段を上った先には鐘楼が、その右手には「八起地蔵(やおきじぞう)」が祀られているの。八起は「七転び八起き」の八起よ。お地蔵さんの傍らにはその縁起を記す石碑が建つの。
本堂の左手には、松尾芭蕉の芭蕉庵もかくありなん−と思わせるような門が建ちますが、その先にあるのが納経所なの。実は、この安楽寺を最初に訪ねた時に驚いたのはうら若き乙女達の姿が多くあり、ここは鎌倉、はたまた京都かしら−の印象だったの。見ていると参詣を終えると皆さん例外なくこの門の奥にある納経所に足を向けるの。勿論、納経所では絵馬を買い求めて願いごとを託して奉納するの。
世の中の動きとは無縁の世界にいるξ^_^ξは後で知ったのですが、モデルの上原歩さんが吉見観音の御利益発言をTVでしたこと ( 2008/02/23 ) からネットで広まり、願いごとが叶うお寺【吉見観音】として一躍脚光を浴びるようになったのだとか。何でもお詣りする際には「行く時の法則」があり、その一つに「東松山駅に着いたらケチらずにタクシーで吉見観音へ( 運賃¥1,700 )」というのがあるの。それをケチって歩いたξ^_^ξはやはり願いごと叶わず−みたいね。因みに、左掲はその賑わいぶりを伝えた 2009/01/26 付の朝日新聞の記事よ。
その納経所前の苔むす庭に設けられた小径を辿ると薬師如来を祀る薬師堂があるの。
その手前には弁財天を祀る小社があり、放生池にはちょっと晩生の蓮の花が一輪咲いていました。
長くなり序でに安楽寺の御案内の最後に四方山話を一つ紹介してみますね。安政5年(1858)から順次刊行された【観音霊験記】にはとんでもない縁起が書かれているの。【霊験記】はその画を浮世絵師の二代目広重・三代目豊国・国貞が、由来記を万亭応賀(まんていおうが)こと本名・服部孝三郎がしたためているのですが、どこからそんなネタを仕入れて来たの?と云う位に突拍子もない逸話が目白押しで、もう、ここまでくると面白半分の行楽ガイドね。尤も、その頃になると霊場巡りに出掛ける方でも信仰心よりも物見遊山が目的になっていたでしょうから、この頁のような小難しい理屈はさておき、いかにもそれらしく聞こえる物語があれば充分だったのでしょうね。その霊験記に記される安楽寺の縁起譚を紹介してみますが、修正加筆していますので予め御了承下さいね。
当山の本尊は 当国の領主・吉見兵庫介 守り仏を岩窟に納め置きたるに 延暦年中 北国の逆賊退治の為に 田村麻呂当所に来たりしに 不思議の霊夢によりて 荊棘の岩戸をひらかしめせしに 岩洞より光明輝く観世音の尊像を得て たちどころに恭敬渇仰して 夷賊誅罰の擁護を祈りければ はたして利益を蒙るが故 帰洛の上 宣命を奉りて千歳の場と為し給ひてより 日々に霊験灼かなる故 良く人の知る処也
更に輪を掛けるようにして 日本百観音 に紹介される霊場解説では、一段と磨きが掛かっているの。物見遊山の巡礼者を魅了してやまない記述よ。実は、こちらの縁起譚が一番面白かったりするので、是非御一読の上でお出掛け下さいね。
安楽寺への参拝を済ませた後は八丁湖公園を目指します。安楽寺の仁王門前の石段を正面にして、今度は右手に続く道を道なりに辿って下さいね。民家が途切れてとんでもない山の中に連れていかれそうな雰囲気ですが、この草むらを過ぎるとよしみ体育センターのテニスコートが見えて来るの。ややもすると木立の間からは八丁湖の湖面が見えて来ますので御安心下さいね。安楽寺からはのんびりと歩いても10分足らずよ。
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