≡☆ 浮間公園桜草まつり ☆≡
2012/04/22

2012.04.15付の朝日新聞にあった「桜草・復活の50年」の記事に目が留まり、読み進めると、絶滅しかけていた桜草を浮間ヶ原桜草保存会の方々が中心になって地道な増殖栽培が続けられ、現在では浮間公園に隣接する桜草圃場に約100種100,000株もの桜草が植えられ、開花期には「桜草まつり」も行われるとあったので、早速、出掛けてみたの。

浮間ヶ原桜草圃場(うきまがはらさくらそうほじょう)

sakurasou-01.mp4 桜草は嘗ては荒川下流域の湿地帯に群生していたもので、そのルーツは秩父の山間原野湿地帯に自生していたものが、荒川の流れで運ばれ、流れ着いた種子が繁殖したものと考えられているの。荒川下流域の中でもこの浮間は江戸時代からその名を知られ、江戸市中や近在からも多くの愛好家達を集め、季節には花見客で賑わいを見せたと云うの。それが昭和初期の荒川河川改修を機に変容を遂げるの。氾濫が無くなり、皮肉にも桜草に好適な土壌の供給が止まってしまったの。大正12年(1923)の関東大震災では、その復興に生育に適した土が壁土として使われ、生育環境が大きく変わり、その数を減らしたの。それでも昭和22年(1947)頃までは僅かに自生していたみたいね。その桜草の息の根を止めたのが、新たに戸田市に造られた競艇場なの。何と、その残土で自生地が埋め立てられ、その後に工場や家々が建ち並んだの。 浮間ヶ原桜草圃場のサクラソウ
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撮りためてきたものをスライドに纏めてみましたので御笑覧下さいね。
上の画像をクリックしていただくと、別窓を開きます。

〔 浮間ヶ原の桜草 〕  ここに咲く桜草は日本に固有の品種で、プリムラ・シーボルディと云う学名がつけられています。四国を除く北海道から九州までの湿地に自生する多年草で、4月の中旬から下旬にかけて淡紅色の小さく可憐な花を咲かせます。荒川流域では、昭和の初期までは浮間ヶ原や対岸の戸田ヶ原、田島ヶ原に数多く自生していました。田山花袋は大正7年(1918)2月に出版された「一日の行楽」と云う著書の中で浮間ヶ原を取り上げ、毛氈を敷きつめたように咲き乱れる桜草が、ここを訪れる女学生達と織りなす美しい情景を描いています。戦後、浮間ヶ原の桜草は自然環境の変化や荒川流域の開発で絶滅の危機に瀕しましたが、僅かに残った桜草が圃場に移植され、昭和37年(1962)8月に地元の人々によって浮間桜草保存会が結成されました。桜草は暑さと乾燥に弱く、この性質を補っていた荒川の自然条件は、保存会の人々の心を込めた栽培作業によって保たれることになりました。現在の圃場は昔の浮間ヶ原の面影を取り戻そうと計画され、当初の圃場を移転して開設したものです。平成元年(1990)4月 東京都北区

〔 浮間ヶ原桜草圃場由来碑 〕  この地は昔より桜草の名所として広く知られたところである。当時の荒川は屡々氾濫し、土砂が堆積し、茅・萩などが生茂り、桜草の繁殖に適する環境であった。春ともなれば、淡紅色の優雅で可憐な花が原野一面咲き誇っていた。しかし、荒川の治水工事や都市化により、桜草は年々減少し絶滅の危機に瀕する昭和30年(1955)、この由緒ある桜草の復元を願い、地元有志が桜草を旧荒川の端に持ち寄り保存の作業が開始された。昭和37年(1962)8月、浮間ヶ原桜草保存会が結成され、会員の努力と北区の援助により、昭和39年(1964)4月に一般公開するまでに至った。この度、東京都と北区の好意により永年の要望であった広い圃場が、平成元年(1990)4月14日開園された。これを記念してここに碑を建てる。平成元年(1990)7月吉日 浮間ヶ原桜草保存会 北区長 北本正雄 額書

浮間ヶ原の桜草は徳川家康が鷹狩りの際に可憐な花を見つけて持ち帰り観賞したことに始まり、やがて旗本や大名家も競って栽培を始め、それが町民の間にも広がっていったのだとか。そうして花の変異種を自生地に求める一方で、交配で新種を作り出し、文化天保年間(1804-1844)には品評会が盛んに行われるなど、ちょっとしたブームにもなったようね。その桜草ですが、江戸時代は専ら花壇に飾って観賞していたのだとか。会場には地元の小学生達が栽培した桜草の花壇もあり、一鉢毎に名札が添えられていたの。

桜草圃場と道を隔てて鎮座する浮間氷川神社の境内が「桜草まつり」のメイン会場になっていて、桜草の鉢植えに加えて、地元名産のくず餅や「吟醸さくら草」の販売が行われていると知り、足を延ばしてみたので紹介しておきますね。会場では地元の商店街が中心になって模擬店を出店し、福引抽選会なども行われていたの。

〔 桜草一般公開30周年記念碑 〕  ここ浮間の地に昭和37年(1962)8月浮間ヶ原桜草保存会が結成され、昭和39年(1964)4月、会員の努力と北区の支援により、一般公開を始めた。本年30周年を迎えるにあたり、これを記念してここに碑を建立する。平成6年(1994)4月吉日 浮間ヶ原桜草保存会 北区長 北本正雄額書

〔 社殿建設記念の碑 〕  当氷川神社の創建の時期は浮間の村里が形成された15,6世紀で、武蔵一之宮大宮氷川神社より勧請せられたものと伝えられ、御祭神は須佐之男命と奇稲田姫命です。村社として、また浮間の鎮守として土地の人々が厚く奉斎して参りました。明治40年(1907)6月村内にありました第六天社、御嶽社、稲荷社、八王子社、猿田彦社が合祀された崇敬厚きお社です。旧拝殿は大正9年(1920)、御本殿は江戸末期の建造で、修理を重ねて参りましたが、老朽化を極めていました。この度、この由緒深い氷川のお社を造り改め、また、社域を整備致したく「浮間氷川神社社殿建設委員会」を設立し慎重に検討し、事業の推進を図って参りましたが、お陰をもちまして氏子並びに多くの地域崇敬者の皆様の多大なる御協賛を賜り、新社殿建立の大願を成就することができました。それに加えて社務所、玉垣をはじめ境内の整備も全て完成致すことができました。ここに社殿、社域の完成を記念して碑を建立致します。平成8年(1996)7月吉日 宮司 石川卯之吉 建設委員長 岩井敏雄

浮間公園 お話が前後しますが、浮間公園は昭和初期の荒川の河川改修で流路変更されたためにできた浮間ヶ池を中心にして、昭和42年(1967)に東京都が公園として整備したものなの。総面積40,000m²余の浮間公園にあって、その約40%をこの浮間ヶ池が占めると云うのですからいかに大きなものなのかがお分かりいただけるわよね。池の中央には小さな島が浮かびますが、板橋区と北区の境界線が中央を通っているのだとか。ここが都立公園でなければその帰属をめぐって揉め事が起きたかも知れないわね(笑)。桜草観賞の帰り際にその浮間ヶ池を一周してみたの。 浮間公園
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因みに、浮間舟渡駅側の公園出入口から桜草圃場に向かう道筋の桜並木では八重桜が満開を迎えていたの。
併せて紹介しますね。御覧になりたい方は上の画像をクリックして下さいね、別窓を開きます。

















こんなにも可愛らしい花を咲かせるサクラソウが、嘗ては荒川下流域の湿地帯に広く自生していたことをξ^_^ξは訪ねてみて初めて知りましたが、河川改修やその後の開発などにより生育環境が変わり、生き長らえることが出来なくなってしまったのは悲しいことね。それは決してサクラソウだけに限ったことではないのですが、加害者側の立場にいるものとしてはツライ現実ね。せめてもの救いが浮間桜草保存会の方々による栽培&保存活動で、願わくば、嘗てのように、浮間ヶ池の畔一帯を埋め尽くすまでの復活を遂げて欲しいものね。因みに、サクラソウの花言葉は「初恋・憧れ・純潔」( by 花言葉−由来 )だそうよ。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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どこにもいけないわ