≡☆ ときがわ町の古刹・慈光寺 ☆≡
2014/04/12

越生を散策した際にときがわ町にある慈光寺のことを知り、一度は訪ねてみたいと思っていたの。それも、出来れば桜の花が咲く頃にと思いつつ、都合がつかなかったり、雨で中止を余儀なくされたりしてのびのびになってしまっていたの。今回はお天気にも恵まれ、タイミング良くお休みがとれたので出掛けてみたので紹介してみますね。掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

慈光寺

1. 慈光寺入口BS じこうじいりぐち 8:50着発

慈光寺を訪ねるのに一番悩ましいのがそのアプローチなの。公共の交通手段に頼らざるを得ない身では最寄り駅から路線バスへの乗車がお決まりなのですが、休日なら未だしも、平日となると慈光寺まで行ってくれるバスが無いの。今回の散策のように、慈光寺入口から慈光寺間を沿道に咲く桜を愛でながら徒歩で巡る場合には問題は無いのですが、それでも途中で乗り換えがあったり、本数が少なかったりして、思うような行程が組めず、仕方なく越生駅からはタクシーを利用しているの。列車の待ち合わせ時間などのロスは覚悟の上で、出費を抑えるならJR八高線に乗り換えて明覚駅で下車後にタクシーを利用する手もあるわね。

参考までに最寄り駅からのタクシー料金の概算 ( ′14.04 現在 ) を載せておきましたので
散策のプラン作りにお役立て下さいね。東武・JR越生駅 〜 ¥3,610 / JR明覚駅 〜 ¥2,080

どうしても路線バスじゃなきゃ嫌だ!と云う方は ときがわ町 のトップページから 生活・環境・交通 > ときがわ町路線バス へとリンクを辿ってみて下さいね。町営のデマンド・バスを含めて至れり尽くせりの情報提供がなされているのですが、それでも利用するにはかなりの試行錯誤が必要よ。

山麓の慈光寺入口から本堂までは約2Kmの坂道が続くのですが、沿道には桜の木が、それも八重桜が多く植えられていることから季節には艶やかな桜並木となるの。その八重桜ですが、昭和61年(1986)に270本の一葉と普賢像が植えられたのを機に植栽が進められ、今年(2014)も新たに5品種が加えられたの。地元では霊山院の参道に植えられた桜と合わせて慈光寺の里ざくらコレクションとして売り出し中ですが、今では八重桜以外のものを含めると50種類近くもの桜が楽しめてしまうと云うわけ。

But 時期を同じくして一斉に開花するソメイヨシノと違い、それぞれの桜の開花時期が微妙に異なるので、一度のお出掛けで全てを観賞するのはちょっと無理みたいね。でも、裏を返せば、期間内であれば、満開であなたを迎えてくれる桜が必ずあると云うことよね。お出掛け前には同じく ときがわ町 で最新の開花情報をお確かめ下さいね。

ps.都幾川村は平成18年(2006)に玉川村と合併してときがわ町になっているの。
この頁では、案内板の引用などで原文のまま都幾川村と記す場合がありますが、適宜読み替えをお願いしますね。

2. 女人堂 にょにんどう 9:00着 9:06発

国宝「慈光寺経」装飾法華経提婆達多品 鎌倉時代
慈光寺を創建された道忠禅師は、奈良の都で、唐より波濤を越えて来朝された鑑真和上に仏教を学ばれ、持戒第一の弟子と云われました。生まれ故郷の武蔵国に帰り、ここ都幾山を根拠に上野(群馬)に浄法寺(緑野寺)を建立し、下野(栃木)の大慈寺を復興して関東一円に仏教を広めました。これにより慈光寺は平安・鎌倉・室町時代と東国佛教の大中心として栄華隆盛を極め、最盛期には寺坊75を数えるほどでした。諸説伝承によると、この女人堂も平安初期に於いて女人禁制のため、慈光坂途中に建立されていました。

女人信仰の御堂として世々増改築や移設もされ、この地元住民の遠き親達の誠実な祈りと尊き志により護られ維持されてきました。この度山頂の慈光寺に伝来する国宝「慈光寺経」の内、金泥文字の剥落はあるものの、ほぼ完全な姿で伝えられて来た「装飾法華経提婆達多品第十二」を拡大陶窯焼成して、諸衆の祈念に、とりわけ女性の幸せのために掲立しました。この「装飾法華経提婆達多品」の本文には、サーガラ龍王の娘が解悟(さとり)に達したことに釈迦の高弟サーリプトラ(舎利弗)が疑義を挟むが、彼女はこれを論破して衆生に法を説き、解悟を得させて信受させてゆく物語がある。

この故に女人成佛の経巻として、古来より数多女人の信仰篤く、図らずもこの女人堂に最も相応しい機縁に恵まれたことになる。本経の結縁者は、文永7年(1270)の「一品経書写次第」に吉祥御前と記されている。見返絵は金箔・砂子を霞濃淡に横断させた上に、墨絵による松・柳・もみじを描き、下方に芦・オミナエシと岩を配している。この絵の中に「法華経序品」の『或有諸比丘 精進持浄戒 猶如護明珠』の文字が芦手絵風に見え隠れする。本文は金泥の文字で、界線は世にも珍しい載金(きりかね)による三重線である。その下地は金地に金による波寄する州浜の絵がある金尽くしの豪華な経巻である。王朝文化の衰退しつつある後鳥羽宮廷の作品で、陰翳深く高貴な趣をみせている。南無妙法蓮華経 合掌 平成10年(1998)5月 慈光寺 百七世明了 識

女人堂の創建は宝永5年(1708)のことと伝えられ、文化3年(1806)に再建されてもいるの。と云っても、当初は説明にもあるように、もう少し山側に建てられていたみたいで、現在地に移転して来たのは明治30年(1897)のことなの。失礼して堂内を覗かせて貰いましたが、正面に見える厨子の中に収められているのが本尊の木造千手観音像だと思うの。右手の黒い厨子には「観音菩薩 坐像」と記された木札が添えられているので、南北朝期に造られた木造観音菩薩像が収められているのかも知れないわね。厨子の背後に見えているのが説明にある陶窯焼成された「装飾法華経提婆達多品第十二」ね、きっと。

3. 桜並木 さくらなみき

慈光寺は桜と共にシャガの花でも知られているのですが、訪ねたときには、運良くそのシャガの花を見ることも出来たの。左掲は葉を落とした木に奇異な姿形をした「もの」を見つけて気になり収めた一枚ですが、その正体は木に寄生するヤドリギだったの。調べてみると宿木とも書かれ、文字通り落葉樹に寄生してその幹から養分を横取りする、とんでもない植物と分かったの。この先、このヤドリギを多く見掛けることになるの。それもヤマザクラなどの大きな桜の木によ。中には複数の塊が寄生している可哀想な桜もあるの。これもまた自然界の営みの一つかも知れないけど、ちょっと痛々しいわね。

4. 桜山公園 さくらやまこうえん 9:27着 9:37発

5. 浄土院念仏堂跡 じょうどいんねんぶつどうあと 9:39着 9:41発

浄土院念仏堂跡 慈光寺僧坊跡群 No.61地点
元禄10年(1697)の慈光寺一山絵図に依ると、道や墓地の位置関係から当時ここには浄土院念仏堂があったことが分かります。念仏堂の本尊は、鎌倉時代に造られた宝冠阿弥陀如来坐像(慈光寺宝物殿所在・県指定文化財)であったことから常行三昧と云う念仏を唱えてお堂を巡る修行が行われていたと思われます。浄土院は江戸時代末期に西側のNo.63地点に移り、明治43年(1910)に廃院になりました。

後程本堂前の多羅葉樹の項で改めて御案内しますが、比叡山延暦寺第三代座主となった慈覚大師こと円仁は、承和5年(838)に留学僧として入唐し五台山で常行三昧を修しているの。帰国後はその五台山の般若道場に倣い比叡山に常行三昧堂を建立、その本尊として宝冠阿弥陀如来坐像を安置しているの。慈光寺は天台宗の関東別院と称するが故に、浄土院もまた延暦寺のそれに倣い、念仏堂に宝冠阿弥陀如来坐像を安置したみたいね。それはさておき、説明にNo.61地点だとか、No.63地点とあるのは困りものね。No.61地点は未だしも、No.63地点がどこなのか、これでは分からないじゃないの。

6. 土屋文明氏墓地 つちやぶんめいしぼち 9:38着 9:48発

浄土院念仏堂跡と道を挟んで墓苑があるのですが、慈光寺浄土院霊廟とあるように、この場所も嘗ては浄土院の境内地だったみたいね。車道から離れて墓苑の脇道を歩きましたが、道端には旗桜(長勝院旗桜)が咲いていたの。墓苑には「亡き後を言ふにあらねど 比企の郡 槻の丘には 待つ者が有る」の句が刻まれた石碑と共に、土屋文明氏のお墓があるの。石碑の背面には「土屋文明先生は明治23年(1890)9月18日群馬県西群馬郡上郊村(現・高崎市)生 碑の台は文明邸沓脱石 発起人 小山光夫 平成11年(1999)12月8日 鷹村書」とも誌されますが、文明氏は最愛の奥様テル子さんと長男の夏實氏と共にこの地に眠っているの。

詳しいことは他のサイトに譲りますが、大正7年(1918)に塚越テル子さんと結婚した文明氏は諏訪女学校教員に赴任したのを機に長野県上諏訪に移り住み、後に同校長にもなっているの。その頃に詠まれた「寒き国に移りて秋の早ければ温泉(いでゆ)の幸をたのむ妻かも」には、テル子さんに対する優しい眼差しがみてとれるわよね。大正11年(1922)には長男・夏實氏が生まれているのですが、52歳で病死してしまうの。その夏實氏に寄せた「汝がことも夢に見るまで距たりて 或は楽し夢の中の遊び 厳しく育て 何を求むとはあらざりき 我より先に煙と立ちゆく」の句には文明氏の思いが満ちあふれているの。

詠まれた時期は分かりませんが「罵らるればふくるる妻も老いにけり かくして吾もすぎはてむとす」の句も残され、時には仲違いをしつつも、歳を重ねてもお二人は仲の良い御夫婦だったみたいね。文明氏はその妻のテル子さんが亡くなったのを機に、それまで京都深草に葬ってあった夏實氏の遺骨を引き取ると、慈光寺の墓苑を親子三人の墓所として定めたの。

亡き後を言ふにあらねど 比企の郡 槻の丘には 待つ者が有る

因みに、墓石には三人の命日が誌されているの。

土屋文明
平成 2年(1990)12月8日 享年100歳
土屋テル子
昭和57年(1982)4月13日 享年 93歳
土屋夏實
昭和49年(1974)6月11日 享年 52歳

※補)西暦並びに没年齢は管理人の追記です。

7. 桜並木 さくらなみき 9:44着発

8. 僧房跡 そうぼうあと 9:50着 9:59発

墓苑を後にして歩き出すと、草がはびこってはいるけど、道端に広場らしき平坦地を見つけたの。入口と思われる直ぐ手前には御覧の慈光山歴史公苑と書かれた案内板が立てられていたので、ξ^_^ξはてっきりその草叢の広場が歴史公苑だと思ったの。腐りかけてはいたものの、木製のベンチが据えられていたりしたので、ミニ公園として整備したものの、利用されることもないままに捨て置かれているものと勝手に思っていたのですが、慈光山歴史公苑は慈光寺を中心とした一帯を指すものだと後から知ったの。そうなると、この草叢広場は何なの?と云うことになるのですが、ここもまた僧房跡みたいね。因みに、この辺りではあちらこちらからウグイスの美声が聞こえたの。

9. 女人道入口 にょにんみちいりぐち 9:59着発

絵図

江戸時代の絵図によると、この場所には山門(仁王門)や女人禁制を示す結界がありました。女性は結界を避けて「女人道(にょにんみち)」と呼ばれている西側の尾根道を登り、坂東観音霊場九番札所・慈光寺観音堂へと向かいました。
その仁王門も現在は礎石のみを残すだけですが、絵図を見る限りでは、その仁王門をくぐり抜けた左手に女人道が続いているの。尤も、当時と今とでは大分地勢も変わってしまったみたいだけど。因みに、絵図の右手には紹介した念仏堂をはじめ、鐘楼や愛宕社、弁天堂などが描かれ、左手には守護神・山王権現を祀る山王社もあるの。But 今はその跡形も無いの。

10. 青石板碑群 あおいしいたびぐん 10:01着 10:03発

〔 慈光寺山門跡の板碑群 〕 慈光寺山門跡に立つ9基の板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた供養塔です。表面の大きな梵字は本尊を表し、仏像彫刻と同じように蓮座の上に刻まれています。蓮座の下には年号や願文など造立の目的が刻まれています。個々の板碑の造立目的をみると、摩滅の進んだ十三仏種子板碑(4)は判読できませんが、一番大きい貞治4年(1365)銘板碑(5)は、慶秀・頼承・慶救の3名が、寺縁りの頼憲・専信・頼慶など14名の僧侶の霊を供養するために造立したことが分かります。また、元亨4年(1324)銘板碑(7)は朋全という僧侶が自らの死後の往生を願う逆修供養のために造立したことがわかります。

これと同様に逆修供養のために造立した板碑が5基(1)、(2)、(6)、(8)、(9)があります。この場所は大型板碑が群立する景観として知られていますが、明治時代の初期に山中の僧坊跡から移設したものと考えられています。尚、板碑の年代及び現状の大きさについては、左から順に次の通りです。

(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
(8)
(9)
嘉暦2年(1327)銘
文和4年(1355)銘
弘安7年(1284)銘
年代不詳
貞治4年(1365)銘
元亨4年(1324)銘
元亨4年(1324)銘
徳治2年(1307)銘
寛正5年(1464)銘
阿弥陀一尊種子板碑
阿弥陀三尊種子板碑
阿弥陀一尊種子板碑
十三仏種子板碑
阿弥陀一尊種子板碑
阿弥陀一尊種子板碑
阿弥陀一尊種子板碑
阿弥陀一尊種子板碑
胎蔵界大日種子板碑
鎌倉時代
南北朝時代
鎌倉時代
 
南北朝時代 
鎌倉時代
鎌倉時代
鎌倉時代
室町時代
高さ 141cm
高さ 137cm
高さ 123cm
高さ 140cm
高さ 272cm
高さ 256cm
高さ 255cm
高さ 221cm
高さ 218cm
幅 40cm
幅 39cm
幅 42cm
幅 40cm
幅 65cm
幅 64cm
幅 65cm
幅 56cm
幅 68cm
厚さ
厚さ
厚さ
厚さ
厚さ
厚さ
厚さ
厚さ
厚さ
6cm
5cm
5cm
4cm
7cm
11cm
11cm
9cm
7cm

実際の説明では大きさについて小数点第一位まで記されているのですが、独断で四捨五入した整数値で御案内しています。
また、機種依存文字が使用されていることから代替文字を使用するなど、加筆&改変していますので御了承下さいね。

板碑に番号を付記しておきましたので、
どの板碑のことなのか知りたい方は上の3枚の画像をクリックしてみて下さいね。

板碑の中には「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」と刻むものがありますが、涅槃経の中に収められる一節で、雪山偈、通称・諸行無常偈と呼ばれるものなの。読み下し文にすると「諸行は無常なり 是れ生滅の法なり 生滅を滅し已れば 寂滅を楽と為す」となり、その文言からは広く知られる【平家物語】の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり」の一節が連想されますが、「この世に存在する全てのものは形を変えて移りゆくものであり、姿を変えぬものなど何も無いのだ。この世に生まれ、やがて死ぬことは苦であるとされてはいるが、それは生滅するのが本来の姿であるにもかかわらず、変わらぬものとして観るから苦が生ずるのである。

この世の全ては皆いずれ消え去りゆくものとわきまえ、変化に左右されずに生きれば、死をもまた楽とすることができるのだ」と云ったところかしら。理屈の上では分かるけど、煩悩の塊みたいなξ^_^ξの脳味噌では本能が受け入れてはくれないわね(笑)。But 逆修塔に諸行無常偈を刻むあたりは、次元の差こそあれ、名だたる高僧と雖も同じ迷いを抱えていた証でもあるわね。その板碑群を見守るかのようにして立つ楓の木の根元には、楓の木に抱かれて「あかあかと 日はつれなくも 秋の風 はせを」と刻まれた芭蕉句碑もあるの。

11. 桜並木 さくらなみき

12. 開山塔 かいざんとう 10:20着 10:23発

開山塔

国指定重要文化財 慈光寺開山堂 室町時代 天文25年(1556) 昭和28年(1953)8月29日指定
慈光寺開山塔は、鑑真の弟子で慈光寺を開山した釈道忠(広恵菩薩)の墓に建てられたと伝えられ、正面に見える覆堂の中に収められています。現在の開山塔は、総高5.1mの比較的小型の木造宝塔で、室町時代末の天文25年(1556)の銘が露盤にあったという記録と建築技法により、この頃に建てられたものと考えられています。一階は八角形の土台に8本の円柱を建てて円筒状とし、上端に厚板の亀腹、側面の四方に桟唐戸(扉)を設けています。二階は一階床から立て上げた円形の軸部(中心部)の上部に組物を置き、方形の屋根を支えています。屋根は板で葺いた「とち葺き」で、勾配が急になっています。塔の先端にある相輪は欠損していましたが、昭和39年(1964)の解体修理により復元したものです。尚、この修理の際に、基壇の下から火葬した人骨を納めた須恵器製の蔵骨器や飾り金具など(埼玉県指定文化財)が発見されています。慈光寺開山塔は、独特の建築技法と共に国内唯一の室町時代の木造宝塔として、極めて貴重な存在であります。平成11年(1999)3月 都幾川村教育委員会

嘗て存在していたと云う路盤の銘には天文25年(1556)に権大僧都重誉が願主となり造営したことが記されていたの。この開山塔は、開祖・釈道忠のために造られたものと伝えられていたのですが、昭和39年(1964)に行われた解体修理工事の際に出土した蔵骨器には30,40歳前後の男性の人骨が収められていたこと、その蔵骨器にしても年代的には平安時代末期から鎌倉初期のものであることから、慈光寺と縁の深かった人物の供養塔ではないかと推測されているの。となると、その人物とやらが気になりますが、門外漢のξ^_^ξにはちょっと荷が勝ちすぎるわね。それはみなさんの御賢察にお任せするとして次に進みますね。

13. 釈迦堂跡 しゃかどうあと 10:24着 10:26発

釈迦堂 〔 釈迦堂跡 〕 昭和60年(1985)11月26日に焼失した釈迦堂は、元禄8年(1695)に奥州津軽の行者、釈見性(しゃくけんしょう)が諸国を勧化して回り、喜捨された浄財で再建したものである。近年の調査で鰐口に「元禄八年当院四十世学頭翁鎮釈見性法印」とあり、当寺歴代84世翁鎮の代に、釈見性の勧進により建立されたことを確認することが出来た。間口八間(14.8m) 奥行七.五間(13.88m) 更に五尺(1.65m)の外縁をもつ大講堂の内陣には、大講堂にふさわしく高さ2.26mの巨大な釈迦如来坐像が安置されていた。厨子の丸柱に金箔が残っていたことから、往時は極彩色であったことが窺える。

釈迦堂跡 【慈光寺実録】によると、当山には学徒と行徒の二派があり、一夏90日間行徒は回峰修行し、学徒はこの講堂に閉じこもり論談決択勤行を行った。寛元の鐘を鳴らし、この堂に全山の僧が集まり、内陣は75坊の住職、中外陣には修行僧が坐して勤行したと伝えられている。外陣の左右に安置されていた仁王像は、廃仏毀釈により明治末期まで山門にあったが、ここに移転奉祀されたものである。高さ3.5mの巨像で、「慈光の仁王様」と呼ばれ、地元人々から親しまれ「仁王奇行」と云う伝説も残されている。尚、釈迦堂と共に釈迦如来坐像・仁王像・蔵王堂及び蔵王権現立像が焼失した。平成17年(2005)12月 都幾川村教育委員会

昭和60年(1985)11月26日の出火は放火に依るもので、釈迦堂や木造蔵王権現立像を始め、鐘楼など多くの文化財を焼失し、県下最大の文化財火災事故と云われているの。とりわけ、昭和59年(1984)4/27から5/11までの15日間に掛けては、ときがわ町を始めとする近隣自治体では放火と思われる山林火災が立て続けに34ヶ所も発生しているの。越生町を訪ねたときにも放火に依る火災で灰燼に帰した寺社のお話しを耳にすることがありましたが、文化財は所有権こそ個々に帰属はするものの、人々の共有の財産でもあるわよね。放火犯は未だに捕まらずにいるようなことも耳にしましたが、時間の醸成の中で育まれた歴史遺産は一度失ったら二度と元へは戻せないの。憤懣の捌け口を放火に求めるだなんて卑劣な行為は是非止めて欲しいわね。

14. 鐘楼 しょうろう 10:28着 10:33発

国指定重要文化財 寛元三年銘 銅鐘 一口
鎌倉時代・寛元3年(1245) 昭和25年(1950)8月29日指定
この鐘は、鎌倉時代の寛元3年(1245)5月18日に栄朝が願主となり東国の名工「物部重光」が鋳造し、慈光寺に奉納した銅製の梵鐘です。鐘の表面(池の間)には陽鋳による銘文が次のようにあります。
〔 第一区銘文 〕 奉冶鋳 六尺椎鐘一口 天台別院慈光寺 大勧進遍照金剛深慶 善知識入唐沙門妙空 大工物部重光 寛元三年乙巳五月十八日辛亥 願主権律師法橋上人位栄朝

〔 第四区銘文 〕 銅一千弐百斤
この銘文によると、鎌倉時代に隆盛を極めていた慈光寺が天台別院であったこと、後に鎌倉大仏や鎌倉・建長寺の梵鐘(国宝)の製作で知られた物部重光が鋳造したこと、臨済禅を日本に伝えた栄西の弟子で、霊山院(りょうぜんいん)や群馬県尾島町世良田の長楽寺を開山した栄朝が願主として奉納したことが分かります。また、銅一千弐百斤(約720Kg)とあり、原料の使用量が分かります。この鐘は総高150cm、口径88cmで、重量は709Kgあります。年代の判る梵鐘では埼玉県内最古であり、鎌倉時代から南北朝時代にかけて関東で活躍した物部姓鋳物師(いもじ)の研究や、慈光寺の繁栄を物語る貴重な文化財であります。尚、この鐘楼は昭和60年(1985)11月26日の火災により釈迦堂や蔵王堂と共に焼失しましたが、寺の復興を願う関係者の浄財により平成2年(1990)に再建しました。平成12年(2000)3月 都幾川村教育委員会

ここで、この釣鐘に纏わる昔話を紹介しますね。
その昔、慈光寺にすむ天狗がこの釣鐘の乳を一つ千切り取ってしまったと云うの。

むか〜し昔のことじゃけんども、この慈光山には天狗がすんでおってのお。その日も松山宿へ使いに出掛けた村人がおったんじゃが、用事は一つだけではなかったもんで帰るのがすっかり遅くなってしまってのお、慈光山の麓に帰り着いたときには、辺りはもうすっかり暗くなってしまっておった。とは云え、慈光坂は毎日通い慣れた道じゃで、村人は釈迦堂まで登り来ると一休みしようと煙草に火を付けて休んでおったそうじゃ。するとその時、何かが村人の頭の上をかすめたかとおもうと、釈迦堂の扉に当たり、コロコロコローッと音を立ててお堂の縁の板敷きを転がっていったそうじゃ。そんなことは今まで一度も経験したことがなかったもんで、村人はすっかり恐くなってしまってのお、

すると、傍らにあった大きな杉の木の枝がザワザワとしたかと思うと、上の方から大きな笑い声が聞こえてきたそうじゃ。そして「お前はいい度胸をしておるわい。わしが投げたものはお前にくれてやるぞ」と云う声が聞こえたかと思うと、大きな笑い声とともにどこかへ行ってしまったそうじゃ。村人は慈光山にすむ天狗が悪戯をしては村人を驚かす話しを思い出し、これも天狗の仕業かと合点したそうじゃ。そうして次の日、村人は釈迦堂で天狗が投げたものを探してみたんじゃが、果たして親指ほどの丸い形をした「もの」が転がっておったそうじゃ。手にしてみると、どこかで見たような気もするんじゃが、よくよく見ると、それは釣鐘についている乳のようにも見えてのお。まさかとは思うたんじゃが、村人が釣鐘を見てみると、果たして乳が一つ無くなっておったそうじゃ。拾ったものをあててみるとピッタリとあってのお、天狗はこの乳を千切って投げつけたものと知れたそうじゃ。村人はその乳を家に持ち帰り大事にしておったんじゃが、いつの間にかのうなってしまってのお。それからと云うもの、慈光寺の釣鐘には乳が一つ足りないと云うことじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

お話しは桜山公園で見つけた案内板に書かれていた「慈光寺の天狗」伝説を素に
脚色を交えて紹介してみましたが、お楽しみいただけたかしら?

15. 般若心経の道 はんにゃしんぎょうのみち

16. 慈光寺BS じこうじばすてい 10:36着発

慈光寺の草創は96世信海和尚が著した【慈光寺実録】に依ると、天武天皇治世の白鳳2年(673)に僧・慈訓(じきん)※が当山に登り、老翁の委嘱を受けて千手観音堂を建て、観音霊場として開基したことに始まるとされ、その後、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)が東国を歴遊した際に当地を訪れ、西蔵坊を設けて修験道場としたと伝えるの。時を経て鑑真和上の高弟・釈道忠が東国を巡錫した際に当山に仏堂を建立、丈六の釈迦如来像を安置して一山学生修学の大講堂として創建したのが慈光寺だとされ、清和天皇からは天台別院として「一乗法華院」の勅額を賜るなどしているの。But これらが全て史実かどうかとなると、ちょっと怪しい(笑)みたいね。とは云え、慈光寺が関東有数の古刹であることに変わりは無いのだけど。

※【慈光寺実録】には「人王四十代天武天皇白鳳二年癸酉慈訓和尚當山に登り明星を禮す 常に紫雲靉靆として光輝ある所尋ね見れば一人の翁現れ 汝を待つこと久し 則ちこの山を汝に與ふべしと云へ 今に此所を與地の峯と云ふ また山常に光明あるを人呼びて慈光と云ふ またある時 白衣の翁来たりて千手観音の像を刻し慈訓和尚に授く 慈訓何人ぞと問いければ 我は是春日と云ふ 忽ち形を見ず」とあるの。その慈訓ですが、生年は不明ですが河内国に生まれ、出家して興福寺に入ると玄昉・良敏の二師に師事して法相宗を学び、後には新羅からの来朝僧・審祥より華厳宗も学んでいるの。天平宝字元年(757)には奈良・興福寺の初代別当になるなど、慈訓は奈良時代を代表する僧侶でもあるみたいね。

土日祝日に限り運行される慈光寺行の路線バスの終点がこの慈光寺BSなの。
お手洗いもあるので、慈光寺めぐりを始める前に忘れずにトイレ休憩して下さいね。

17. 慈光寺本堂(阿弥陀堂) じこうじほんどう(あみだどう) 10:42着 10:47発

多羅葉(たらよう) 埼玉県指定天然記念物
モチノキ科の常緑喬木で幹回り2.7m、高さ18m、葉の表皮に棒などで字が書けるので葉書(はがき)の語源となる。慈覚大師円仁(794-864)が天長年間(824-834)に植えられたと言われる。昭和63年(1988)4月7日の降雪によって、老木化していた枝が折れ、幹の内部が腐っていたので、枯枝を除去し、枝の高さや幅をつめ、木の陽焼を防ぐため幹巻をし、ウロの中に垂れ下っていた根を生かすために、鹿沼土と共に施肥などの肥培管理をしたので、自然に生きる生命力の尊い姿を見せている。補助金の内訳 県45万円、村22万5千円、所有者負担22万5千円、合計90万円

慈覚大師こと円仁は下野国都賀郡(現・栃木県栃木市)に生まれ、9歳のときに同郡大慈寺の広智禅師に師事したの。その広智禅師ですが、鑑真の弟子・釈道忠に師事し、徳行に優れていたことから広智菩薩とも呼ばれたの。大同3年(808)、その広智禅師が同郷であった円仁を伴い比叡山に登り、伝教大師こと最澄の弟子となるのですが、その最澄が弘仁6年(815)に東国を巡り、下野国に宝塔を建立するときには援助をするなどして、関東に天台宗を広める端緒を開いたの。一方の円仁ですが、承和5年(838)、最後の遣唐使と云われる藤原常嗣の一行に加わり入唐し、9年間を留学僧として過ごしているの。承和14年(847)に帰国した円仁は翌年(848)入京すると比叡山に常行三昧堂を建立、仁寿4年(855)には延暦寺第三代座主となっているの。寺伝ではその円仁が天台密教の道場として慈光寺に宝樹坊(明治期に廃寺)を創建したと伝え、本堂前の多羅葉樹はその円仁のお手植えだと云うの。因みに、円仁は貞観6年(864)に71歳で入寂しているのですが、2年後の貞観8年(866)、生前の業績を称えられて清和天皇から慈覚大師の諡号を賜っているの。同じく、最澄には伝教大師の諡号が贈られ、両者共に、日本で最初の大師号とされているの。

本堂右手にある鐘楼には「時の鐘」が吊り下げられ、銘には「都幾山 慈光寺 念仏堂 浄土院 元禄八乙亥年 願主 寒林院見正 奉再建立 慈光寺現住九十四世法印義然代 天明三癸卯年四月廿五日午刻 大工武州住上小用村 清水武左衛門全盈作之」とあり、嘗ては浄土院の鐘楼に懸けられていた梵鐘で、浄土院が大正年間に廃絶したのを受けて現在地に移されてきたみたいね。願主として寒林院見正の名が刻まれますが、釈迦堂跡の項で登場した奥州津軽出身の勧進僧・釈見性(しゃくけんしょう)のことで、釣鐘は元禄8年(1695)に一度鋳造されたにも関わらず、天明3年(1783)に94世義然が再度鋳造しているの。その理由が気になるわね。

鐘楼には鳴鐘の偈(めいしょうのげ:鐘をつく時の言葉)なるものが案内されていましたのでみなさんにも。

がんししょうせいちょうほうかい
 
願以鐘聲超法界
お願いすることは、この鐘の音が全宇宙に響き渡り
てっちゆうあんしっかいもん
 
鉄園幽暗悉皆聞
暗黒である地獄で苦しむ人達よ
さんずりくしょうあんにょう
 
三途離苦生安養
速やかに安楽の浄土に生まれ変わり
いさいしゅしょうじょうしょうがく
 
一切衆生成正覚
全ての人々と解悟を開けますように

18. 宝物殿(金蓮蔵) ほうもつでん(きんれんぞう) 10:48着 11:12発

個人的に興味を覚えていたのが、源頼朝が奥州藤原氏追討に先立ち戦勝祈願に奉納したと云う愛染明王像と祈願状なの。実物を閲覧出来たときには、遙かな時を経たにも関わらず、かの源頼朝が日夜掌を合わせていたのかも知れない、あるいは頼朝自ら署名したと思われる花押が残る書状など、貴重な遺品が目の前にあることに歴史の浪漫が感じられたのですが、帰宅後に改めて調べてみると、どうやら展示されているものは後世につくられたものみたいね。だからと云って、元々無かったものと断言し得るだけの根拠も無いようで、【寺院明細帳】には「当寺古記録古文書等は天正18年(1590)当山放火に罹りし時 或は烏有に属し

或は紛失し 伝記の確詳を失せり 天正18年(1590)当国松山城主上田能登守当山を放火す 蓋西軍(豊臣氏の軍勢)の保砦と為らんを恐れてならん 是時宝物重器等を土中に埋蔵し一山の僧徒難を山中に避く 当時宝物書類多く失せり」とあるの。【慈光寺実録】にも「当山坊中堂社不残焼亡し 此時札所観音堂計り残れり 宗徒は寳物・霊物等を土中に埋之隠し 山林を立去り 遠山に身を退き 戦火を遁る 此時寳物多く紛失せり」と記されているの。更に遡れば、康正2年(1456)には太田道灌の軍勢に攻め込まれてもいるみたいね。当時の慈光寺はその利権を守るためにもかなりの僧兵を擁して武装していたのでしょうね。

天保6年(1835)に第99世義仙が著した【慈光寺実録】には「康正2丙子年(1456)二月十日天下大乱に依り武州慈光寺へ軍勢・雑人等乱入し 宝蔵を打ち破り 御経並びに宝物を奪い取りし」と記されるなど、当初のものはその戦乱の中で散逸あるいは焼失したのかも知れないわね。それはそれとして、面白そうなので源頼朝祈願状について紹介してみますね。

【天台別院都幾山慈光寺実録】略して【慈光寺実録】には寛政12年(1800)に第96世信海が著したものと、天保6年(1835)に第99世義仙が著したものの二つがあるの。ちょっとややこしいわね。

武蔵國比企郡慈光山
今度頼朝下向奥州 爲于泰衡追伐
日來禮敬之愛染王奉送于慈光山 以是為本尊可抽奧州征伐御祈禱之由
被仰含別當嚴耀竝衆徒等候訖 當寺者本自所有御歸依也
去治承三季三月二日 于豆州遣信濃守盛長 令鑄洪鐘令寄進 割付署名於件鐘面所也
運増武泰願成就仕 令還府本国鎌倉者 為御報賽 重令寄付佛供燈油免
可為一山神社佛閣再興旨 執達願文仍如件 謹言 源頼朝(花押)文治五年六月廿九日

〔 読み下し文 〕
・この度頼朝奥州に下向し 泰衡追伐の為に
・日來(ひごろ)禮敬の愛染王を慈光山に送り奉り 是を以て本尊と為し 奥州征伐の御祈禱を抽(ぬき)んず可きの由
・別當嚴耀竝びに衆徒等に仰せ含められ候訖んぬ 當寺は本より御歸依あるところなり
・去んぬる治承三年三月二日 豆州に信濃守盛長を遣わし 洪鐘を鑄し寄進せしむ 割付署名を件の鐘面に付す所なり
・運を武に増して素願成就仕り 本国鎌倉に還府せしむれば 御報賽として 重ねて佛供燈油免を寄付せしめ
・一山の神社佛閣の再興を為す可き旨 執達願文仍て件の如し 謹言源頼朝(花押)文治五年六月廿九日

実は、この源頼朝願文と酷似する記述が【吾妻鏡】の中にあるの。
同じく文治5年(1189)6/29の条には

日來御禮敬愛染王像 被送于武藏慈光山 以之爲本尊 可抽奥州征伐御祈禱之由
被仰含別當嚴耀并衆徒等 當寺者本自所有御歸依也
去治承三年三月二日 自伊豆國遣御使盛長 令鑄洪鐘給 則被刻御署名於件鐘面云々

〔 読み下し文 〕
・日來御禮敬の愛染王の像 武藏慈光山に送らる 之を以て本尊と爲し 奧州征伐の御祈禱を抽んずべきの由
・別当厳耀並びに衆徒等に仰せ含めらる 当寺は本より御歸依あるところなり
・去んぬる治承三年三月二日 伊豆國より御使盛長を遣わし 洪鐘を鑄せしめ給ふ 則ち御署名を件の鐘面に刻まれると

ここで気になるのが「治承三年三月二日 自伊豆國遣御使盛長 令鑄洪鐘給」の記述なの。治承3年(1179)と云えば挙兵以前のことで、頼朝は未だ伊豆で配流生活を送っていたハズよね。普通に考えれば、その状況下では安達盛長を遣わして釣鐘を鋳造させることなど出来る訳が無いと思うわよね。不思議に思って調べてみると、みな水面下ではしっかりと繋がっていたみたいね。

先ずは登場人物の安達盛長ですが、頼朝の乳母であり、最大の援護者でもある比企尼の娘・丹後内侍を妻としているの。比企尼には他にも二人の娘がいたのですが、その内の一人は伊東祐親の子息・祐清の娘婿になるなど、強力な血縁関係を以てして彼らを配流中の頼朝に近習させているの。その比企尼の本貫地と云えばこの比企郡よね。【吾妻鏡】には「武藏の國比企郡を以て請け所と爲し 夫掃部の允を相具す 掃部の允下向し 治承四年秋に至るまで 二十年の間 御世途を訪い奉る」とあるように、比企尼は全身全霊を以て頼朝を支えたの。

因みに、安達盛長と丹後内侍との間に生まれた娘は源範頼の室となり、後に範円が生まれ、その子孫が吉見氏を名乗ることになるの。これはグリコのオマケのお話しですが、頼朝と北条時政の長女・政子との縁をとりなしたのも安達盛長だとされているの。と云っても頼朝は最初は次女への艶書をしたためたのですが、手紙を届ける役目を負った安達盛長が次女よりも長女の政子の方が美人だから(笑)と宛名を書き改めて政子に手渡したとされているの。真偽の程は不詳ですが、頼朝と政子の縁結びが盛長の悪戯心だったなんて、知れば知る程歴史の面白さが見えて来ますよね。

もう一方の登場人物、厳耀は畠山重忠の伯父とも云われ、秩父重綱の子※であることが知られているの。その子孫・河越重頼もまた比企尼の二女と婚姻関係を結ぶなど、秩父氏もまた以前から比企氏と密接な関係にあったと考えられ、源頼朝と慈光寺の関係はその延長線上にあり、鎌倉幕府開府以前から始まっていたようね。配流中の頼朝が直接的には費用負担出来ずとも、その意を受けた比企尼や安達盛長が釣鐘の鋳造に奔走したのでしょうね、きっと。その釣鐘ですが、怪力の持ち主として知られた畠山重忠が担いで山道を登ったとする伝説もあるくらいなの。

残念ながら、頼朝が奉納した釣鐘は現存せず、「頼朝公寄附 奥州征伐當時戦勝祈願之本尊」と案内されている愛染明王像にしても、当初のものではなくて、後世に改めて造られたものみたいね。

※熊野那智大社所蔵の【小林系図】には、秩父重綱の子の一人に「阿闍梨厳耀慈光寺別当」の名が見えることから、秩父氏一族の出自とされているの。また、寺僧の中には畠山重忠の子の重慶・円耀兄弟の名も見え、畠山氏一族とも深い関係にあったことが窺え、東国武士団の名だたる面々が慈光寺を中心にして見え隠れしていると云うわけよね。頼朝が慈光寺を崇敬したのは宗教的な拠り所と云うよりも、まさにこの点にあったのではないかしら。

19. 申八梵王 さるはちぼんのう 11:18着発

猿は、古くから山の神、もしくは山の神の使いとして、信仰されています。山に出入りする人達が、この石像を「お猿さん」とか「申八梵王」と呼んで信仰し、親しまれてきました。これは、地元・雲河原村(現在の都幾川村大字雲河原)産出のことど石を彫刻したものである。横に「天明6年(1786)丙午9月19日」の刻字がある。この年、江戸幕府老中・田沼意次が失脚している。天明3年(1783 )に浅間山噴火があり、天明の大飢饉の最中で、各地に一揆や打ち壊しが続発して、幕藩体制を揺るがし始めた頃である。山村の無名の石工は、何かを祈りつつ、この軽妙洒脱な御幣を持つお猿さんを彫ったと思われます。平成5年(1993)10月 都幾山慈光寺

関係があるのかどうかはξ^_^ξには分かりませんが、地元には、その昔、昼に風呂を沸かしていたところ、犬に乗った猿がやってきて、その風呂に入っていったと云う伝承が残されているのだとか。地獄谷温泉の猿ではあるまいし、そんな馬鹿な−と思ってしまいますが、逸話の蔭には猿に仮託して語られる修験者の姿があったりして。また、山王権現の神使とされているのが猿で、山王権現と云えば比叡山延暦寺の守護神よね。像容はその山王権現の神使とされる猿に見えなくもないわね。あるいは、浅間山の噴火は山の恵みにも大きな影響をもたらしたはずで、普段は山中で暮らしていた猿も食べ物を求めて麓に下りてくるようになり、農作物を猿害から守るために改めて山の神さまとして祀ったのかも知れないわね。以上はξ^_^ξの単なる絵空事かも知れませんが、当地の人々が猿を単に害獣とはせずに、神さま、あるいは神さまの使いとしてみなしていたことだけは確かなことのようね。

20. 般若心経堂 はんにゃしんぎょうどう 11:19着 11:24発

国宝 慈光寺経妙法蓮華経授記品 鎌倉時代 慈光寺蔵
国宝「慈光寺経は」、国宝「久能寺経」や国宝「平家納経」と並ぶ三大装飾経として、日本文化の真髄を極めている。紺紙金字経が多く、この「法華経授記品第六」を始めとして、「化城喩品第七」、「法師品第十」、「涌出品第十五」、「分別功徳品第十七」と結経の「観音賢経」、「般若心経」の七巻を数える。「久能寺経」には一巻もなく、「平家納経」さえ二巻である。この「授記品第六」は、銀界秀麗な金字の筆蹟の素晴らしさと、天地欄外の金銀を縦横に駆使した華麗な装飾は、「慈光寺経」の他の紺紙経と雲泥の隔差がある。蓮の花や葉を型文様に抜いた中に金銀の砂子を撒き、花や葉の細い脈を更に抜いたり、筆で銀の細い線を描いている。更には、金箔の蓮花や銀箔の蓮葉を型に切って置く技法を使い、砂子・野毛や切箔を水面のようにあしらい散らした夢幻の蓮池の世界を作り上げている。紺紙経の王者、奥州平泉の藤原三代の栄耀で作られた、国宝「中尊寺清衡一切経」と比べても書宇に於いて、この欄外の装飾については凌ぐかと思われるが、瑠璃紺の美しさと、金銀交書一切経五千余巻の写経作善の大事業の深い祈りには及ばないと思わせる優れた芸術作品の経巻である。

経巻の頭初に飾る絵を見返絵といい、お釈迦様の霊鷲山説教図が多いが、経文の内容を絵画化したもの、時代の風俗、或いは自然の風景もあって、漢字の縦列の経文の前段として安らぎを与える。平成の今日現在、「慈光寺経」三十二巻の内、当初の見返絵は殆ど亡失損傷され、祈鑑に耐え得るのは、法華経「人記品第九」、「宝塔品第十一」、「提婆達多品第十二」、「勧持品第十三」、「随喜功徳品第十八」、「巌王品第二十七」の六品のみである。この授記品第六の見返絵も完全に失われている。今度の陶窯焼成に際して、京都国立博物館の御好意によって、「大宝積経巻第三十二」の見返絵「三菩薩奏楽散華図」を添えることができた。高麗佛教王朝の統和24年(1006)に穆宗の母后、千秋太后皇甫氏が発願した金字大蔵経の一巻で、現存するのはこの一巻のみ、高麗金字経の貴重な遺品である。天に楽器が飛び、音楽が流れ、花々が降り、地上の草花が喜々としているところ、蓮台上に三菩薩が優雅にして豊麗に立っておられる。千年を経んとしても生々彩々たるお姿に祈鑑お願い申し上げる。日本には、早くに渡来して嘉慶2年(1388)8月に江州(滋賀県)の金剛輪寺に権律師・豪憲が納めたことを記す朱書の銘文が残されている。平成16年(2004)10月

紺紙金字一字宝塔心経 平安時代後期 唐招提寺蔵
− 前半部省略す − 慈光寺を創建した道忠和尚は、この心経を所蔵される唐招提寺の開山、鑒真和上(688-763)の高弟であります。鑒真和上は来日のため東支那海を渡らんとして五度の海難漂流に遭遇され、幾多の艱難辛苦の中に失明されても初志をまげず、11年後の天平勝宝5年(753)ようよう日本上陸を果されました。和上は、東大寺に戒壇を設け律宗を興すなど佛法興隆に尽されると共に、携えてきた佛像・経典と深い学殖は、天平文化に多大な影響を与えました。平成3年(1991)8月、慈光寺107世明了和尚は鑒真和上の遺徳を敬慕し、一世道忠和尚との佛縁浅からぬを深謝して、これと同じ金字一字宝塔心経陶板を唐招提寺に献上致しました。平成3年(1991)8月

21. 観音堂 かんのんどう 11:28着 11:39発

都幾川村指定文化財 慈光寺観音堂 一棟
江戸時代・享和3年(1803) 平成元年(1990)4月11日指定 平成9年(1997)4月12日修復
阪東三十三観音霊場第9番札所・都幾山慈光寺観音堂の本尊は木造千手観音立像です。寺伝に依れば、天武天皇2年(673)に僧・慈訓により創建されたといわれます。現在の観音堂は享和3年(1803)に97世義然が再建したもので、歳月の中で老朽化は進み、将来への継承が心配されていました。そのため修復事業に着手し、村内外からの寄付金、県・村などの補助金と慈光寺により、平成5年(1993)度から4ヶ年をかけ、本尊の解体修理や茅葺きから銅葺きへの改修、堂内外の修復と周辺整備を行ないました。

観音堂は入母屋造・銅板葺の屋根、軒は二重繁垂木とし、本尊を安置する内陣の柱は円柱で三間(約5.4m)四面です。前方に十二尺三寸(約3.7m)出して礼拝の間(外陣)を設け、その前方には一間の軒唐破風付きの向拝を出しています。外陣は吹き放しで、履物のまま昇殿できる様式は札所建築の特徴でもあります。更に細部を見ると、柱毎に彫刻木鼻をつけ、虹梁に細かい文様の地彫または彫刻を施し、その上は彫刻欄間で飾っています。内陣は格天井とし紋尽くしの文様を画き、来迎柱には極彩色が施されています。尚、外陣に千手観音の眷属である風神・雷神を始め、二十八部衆の欄間彫刻があることは特徴でもあります。

千手観音像 本尊千手観音立像は秘仏ですが、毎年4月第2日曜日と17日に厨子が開かれ拝観することができます。この御開帳日には多くの信者が登山し、盛大に護摩法要が行なわれ賑わいます。また、季節を通じ、全国から多くの巡礼者の参詣が絶えません。堂内には廃絶した山内諸堂から木造十一面観音立像・木造毘沙門天立像が合祀され、外陣には寶頭盧尊者坐像、その天井には伝説の「夜荒らしの名馬」が安置されています。平成12年(2000)12月 都幾川村教育委員会
埼玉県指定文化財 本尊・木造千手観音立像 像高 270cm
頭部 室町時代・天文18年(1549)制作
体部 江戸時代・享和 2年(1802)制作

安置される木造千手観音像は、室町時代前期の造立に比定されていたのですが、平成5年(1993)から行われた観音堂の修復工事に合わせて東京国立博物館で解体修理され、頭部から発見された墨書銘から頭部は天文18年(1549)の造立と知れたのですが、胴体からは江戸時代の享和2年(1802)に再興した旨の札が発見され、胴体部分に関しては再興時のものであることが判明したの。頭部と体部が異なる制作年代を以て案内されているのは、そんな理由からなの。その再興の背景ですが、【慈光寺略誌】には「元禄元年(1688)当時83世大阿闍梨翁鎮之を再建せし事 棟札写によりて明かなれど 夫より以前の沿革詳らかならず 寛政6年(1794)更に之を造営したりしが 享和2年(1802)4月27日出火の為 堂宇焼失し僅かに本尊を出せしのみ 他は悉く烏有に帰せり」とあり、建物が灰燼に帰してしまったと云うのですから再建せざるを得ないわよね。その状況から推して、運び出された本尊の千手観音像も決して無傷と云うわけではなかったのでしょうね。

堂内に併せて安置される十一面観音像は畠山重忠の念持仏と伝えられ、像高179.3cmは重忠の身長に合わせて作成されたとの逸話もあるの。当時の男性の平均身長がどの位だったのかは分かりませんが、現在でも身長179.3cmは背の高い方よね。重忠は怪力の持ち主との伝えも多いことからすると、かなりの大男で、筋骨隆々とした武者だったみたいね。残念ながら堂内に安置される本尊の千手観音菩薩像と共に、十一面観音像も普段は見ることが出来ないの。どうしてもこの目で見てみたいの!−と云う方は 慈光寺 で、開帳日を御確認の上でお出掛け下さいね。

観音堂の左側天井部からは御覧の白馬像が吊り下げられているの。かの有名な左甚五郎作と伝えられ、「夜荒らしの名馬」の逸話が残されているの。伝説の内容が知りたい方は前掲の 慈光寺 を御参照下さいね。良く似た逸話が東松山市高坂にある正法寺(巌殿観音)や吉見町の吉見観音こと安楽寺にも残されているの。比企地方の幾れの観音札所にも同じような逸話が残されていると云うのも面白いわね。But 偶然にしては出来すぎの感がしないでもないわね。その巌殿観音や吉見観音のことが知りたい方は夫々 東松山・高坂のお散歩 吉見町のお散歩 を御笑覧下さいね。CMでした(笑)。

22. 慈光寺BS(再) じこうじばすてい 11:54着 11:56発

観音堂の拝観を終えて一度慈光寺BS迄戻り、改めて慈光寺の奥の院(実際には直接の関係はないのですが)的な存在の霊山院を目指して歩いてみたの。御存知の方なら観音堂からそのまま石段を下って霊山院に向かえば良いものを−と思われるかも知れませんが、実はバス停にあるお手洗いに用があった(笑)と云うわけ。先程も御案内しましたが、みなさんは散策を始める前に忘れずにこちらでトイレ休憩を済ませておいて下さいね。But 怪我の功名で、思わぬ桜見物が出来たの。先ずは、バス停の周囲に咲いていた桜から紹介しますね。

23. 桜並木 さくらなみき

24. 観音堂下 かんのんどうした 12:00着 12:02発

観音堂への参道の場所からはほんの少し戻ったところに「慈光の七井」の「月の井」と「阿伽の井」が並ぶようにして残されていたの。今ではすっかり涸渇してしまい、往時の縁を今に求めることは出来ませんが、「月の井」にはその昔役小角がこの慈光山に登り来て仏法弘通の守護を神明に祈ったところ、この井の水面に映える月輪の内に蔵王権現が出現し誓約したとの逸話が残されているの。一方の「阿伽の井」ですが、阿伽=閼伽で、仏さまに供える水のことね。

下記は観音堂下から霊山院への道すがらの景観ですが、桜よりも杉木立が続いて質実剛健の趣きよね。
But その霊山院が見えてくると世界が一変するの。

25. 霊山院 りょうぜんいん 12:13着 12:36発

〔 霊山院の文化財 〕 当寺は山号を拈華山(ねんげさん)と称し、建久8年(1197)に臨済宗の開祖明庵栄西の高弟栄朝によって創建された。以来禅修行の道場として多くの名僧を輩出し、禅宗寺院としては関東で最も古い寺と伝える。明治5年(1872)に京都花園の妙心寺所轄となり現在に至っている。当寺には「開山栄朝禅師の木像」「五色の払子(ほっす)」「印子(いんす)の香炉」や徳川将軍家(五代将軍綱吉公)より拝領の「蒔絵の硯箱」など多くの寺宝を伝えているが、中でも次の二件は県の文化財指定を受けた優品である。

県指定有形文化財 板石塔婆 一基 昭和40年(1965)3月16日指定
ふくらみのある美しい蓮座上に、阿閦如来を示す種子ウーンを深い薬研彫りで表わし、下部中央には「為造立浮図并千部妙経生々父母法界」「永仁四季丙申二月日」の銘文、また両側には随求(ずいく)真言を刻む。浮図(ふと)は塔婆を意味し、千部とあるのは法華経一千部のことで、永仁4年(1296)に父母のために法華経を千部読誦し塔婆を建立したことが分かる。鎌倉時代の形の整った美しい板石塔婆として本県を代表するものであり、昭和16年(1941)には国の重要美術品の認定も受けている。高202cm、幅47cm、厚さ8.5cm

鉄造阿弥陀如来坐像 県指定有形文化財 鉄造阿弥陀如来坐像 一躯 昭和48年(1973)3月8日指定
この像は、彫刻では数少ない鉄を用いて鋳造したものである。写真でみるように、両肩にかかる納衣(のうえ)を纏い、手は膝前で定印(じょういん)を結び結跏趺坐(けっかふさ)する阿弥陀如来である。全体に鉄仏特有の荒々しさがあるが、素朴で古様を帯びた像形は深い味わいを持つ。造立年代を知る銘や資料はないが、鎌倉時代の制作と推定される。像高34.1cm 昭和58年(1983)3月 埼玉県教育委員会・都幾川村教育委員会・霊山院

現在は臨済宗妙心寺派末の霊山院ですが、当初は慈光寺(天台宗)の塔頭として創建されたみたいね。開山は説明にもあるように、臨済宗の開祖・栄西禅師の高弟栄朝禅師ですが、後鳥羽天皇から「東関最初禅窟」の勅額を賜るなど、関東最初の禅修行道場と伝えられているの。第2世住持となった良空和尚は禅の布教を目指して当地に正法寺や全長寺、皎円寺を開創。その後も歴代住持によって末寺が創建され、盛時には15ヶ寺(現在は6ヶ寺)を数える程の隆盛をみたの。But 江戸時代になると慈光寺へ与えられた朱印地100石の内から僅かに13石を配分されたのみで、台所事情としてはかなり厳しいものがあったようね。

切妻造茅葺四脚門の勅使門ですが、当初のものは建久8年(1197)に創建され、宝暦6年(1756)&昭和46年(1971)に改修、更に平成9年(1997)には屋根銅板葺替え改修工事が行われて現在に至っているの。本堂と庫裏は宝永4年(1707)に建てられたもので、勅使門と併せて昭和46年(1971)に寺有林から切り出した木材を使用して復元・改築されているの。画面最奥部には坐禅堂が続くのですが、霊山院開創800年を記念して新たに建てられたもので、現在は研修道場になっているみたいね。その本堂前を探索していた際に水琴窟と気になる石碑を見つけたの。実際には石碑と云うよりも、石碑に刻まれている文言の方ね。

父さん母さんの
学校の先生の
友だちみんなの
お米や野菜の
着物やお靴の
社會ではたらく
お蔭さまです
おかげです
おかげです
おかげさま
おかげさま
おかげです
皆さまの
ありがとう

裏山の中腹に満開の枝垂れ桜を見つけ、その艶やかさに引き寄せられるようにして近づいてみると、歴代住持の墓所に引き続き叔山禅師の入定塚が残されていたの。傍らにつくられた「お休み処」は目の前の枝垂れ桜は勿論、霊山院の伽藍を背後から見渡せる絶景のロケーションに建つの。禅定を続ける禅師の目にも、この景観はきっと見えているはずよね。

〔 入定尊 叔山禅師行録 〕 師諱は叔山 字は碩珠 四国松山の人 丸山氏の次男として文政12年(1829)6月3日誕生 10歳の時同国南昌寺桂州和尚を礼して祝髪す 20歳 摂津国祥福寺専門道場に掛錫し 巨道禅師に従い七年 印可を受く 安政3年(1856)江戸月桂寺に住山す 当時霊山院は無住にて荒廃その極に達す 師の道風東都に盛んなるを聞き 門中檀徒会議をして再三にわたり懇請 文久3年(1863)9月26日本院第38世として晋山す 師曰く「十年の計は樹を植ゆるにあり 百年の計は徳をたつるにあり」と ここに一大洪業を企画し 雲嶽の中腹に当院の再興を期して杉桧苗三万余本を栽植す

然るに明治維新の政変により菩提林は全て国有となり 師一世の偉業は空しくも水泡に帰す 廃仏毀釈の嵐は吹きまくり 檀信徒は動揺し 信念を一転する者続出するを深く憂いて開山栄朝禅師の宗風が確固不動のものであることを示さんがために遂に入定を決意す 明治6年(1873)3月後事を門檀に託して予め塔地を定めて霊龕を造らしめ 七日忌前に龕中に静座して大禅定に入り賜う 時に明治6年(1873)5月28日 寿45歳 塔を建て叔山塔と云う 思うに霊山院の今日あるは叔山禅師の天真の徳業の至すところなり 法孫檀信徒はこれを忘れてはならない 毎年4月28日には報恩の中興忌法要を営んでいる。平成8年(1996)4月28日 謹誌
〔 遺偈 〕 叔山雲静帰家路 来処還知玄所親 這裏神光亘天地 山頭月下落花辰

※転字(特に偈文の部分)に誤りがあるかも知れません。
御指摘頂ければ幸いです。

明治維新に伴い、明治5年(1872)、それまで霊山院が所有していた山林が国有林として没収されることになったの。そうなれば再興はおろか、経済的には死活問題でもあるわよね。そこで叔山禅師は入間県令に対して再三の請願をしたのですが受け入れて貰えず、自らの命を賭して抗議することにしたの。結果、山林の没収は取り止めとなり、霊山院の今日があるのですが、生きたまま端座合掌して入定するとは。叔山禅師の精神力は驚愕に値するわね。異説では「生きながら霊棺に入り埋葬された」とするものもあるの。そうであればなおのことね。

26. 展望所 てんぼうしょ 12:38着 12:40発

霊山院から西に少し歩くと「ときがわトレッキング・コース」の入口があるのですが、左端はそこからの眺めなの。まさに山懐に抱かれるようにしてあるのがよく分かるわね。この景観を前にしてお弁当を広げている家族連れの方を見掛けましたが、絶好のオープンテラス席よね。因みに、右端に見える山道は正法寺に通じるハイキングコースになっているみたいだけど、墓苑の裏側に続く道なので、ちょっと分かり難いかも知れないわね。後ほど正法寺についても紹介しますが、このルートを辿れば近道が出来るみたいよ。残念ながら未体験なので無責任モードだけど。

27. 桜並木 さくらなみき

帰り道は霊山院の駐車場脇に続く左掲の道を下り、麓まで下りてみることにしたの。この道は霊山院の参道なのですが、実際に歩いてみると、慈光坂と比べて道幅も狭くて、おまけにかなりの急坂なの。訪ねる前までは帰路もまた慈光坂を下る積もりでいたのですが、この霊山院の参道脇にも桜の木が植えられていて、慈光坂の桜並木と合わせて慈光寺の里ざくらコレクションとなっていることを知り、それなら−と、こちらの下山道(参道)を辿ってみることにしたと云うわけ。But 慈光坂の桜並木の景観を見てきた者には、霊山院の参道脇の植栽はどうしても貧弱に見えてしまうのは仕方のないことね。

歩き始めてまもなく杉林の切れ目から大公孫樹が聳え立つのが見えたの。大樹が点在するときがわ町ですので、この大公孫樹もその内の一つかも知れないわ−と思い、足を踏み入れてみたのですが、周囲を杉林に囲まれてはいるものの、平地が広がっていたの。朽ちかけた小堂に目が留まりましたが、傍らには御覧の六地蔵が並び立つなど、嘗てはここに塔頭などの僧房が建てられていたことが窺えたの。調べてみると霊山院の周囲にも嘗ては複数の僧房が点在していたみたいね。

28. 慈光寺入口BS じこうじいりぐちばすてい 13:25着

当初の予定では以上を以て今回の散策終了と考えていたのですが、バス停近くの掲示板に貼られていたポスターで、ツツジまつりを控えて正法寺ではムラサキツツジが見頃を迎えたと知り、帰宅時間にも大分余裕があることから足を伸ばしてみたの。併せて、藤原鎌足の遺髪を祀ったことに始まると云う多武峰神社も訪ねてみたの。歴史が嫌いな方でも藤原鎌足の名は一度は耳にしたことがあるのではないかしら。その藤原鎌足の遺髪云々とあれば、訪ねることなくしてときがわ町を後にするわけにはいかないわよね。なので、ここからは甚だ個人的な興味からの散策記になりますので、今まで以上に退屈(笑)かも知れないわね。そのお積もりでお付き合いくださいね。

29. 正法寺 しょうぼうじ

正法寺の御案内にあたり、先ずはその開創縁起などを紹介したいところなのですが、【新編武蔵風土記稿】にも「岩殿山と號す 開山は全長寺と同じ 本尊釈迦 此他鏡面に千手観音の像を鑄出せしものあり これ秩父庄司重忠の守り本尊なりしと云 舊きものとは見ゆれど 年號等刻せざれば慥ならず」とあるのみで、詳しいことは分からず終い。なので、ここでは境内に咲くムラサキツツジの景観を以て御案内に代えさせて下さいね。

正法寺の裏山には「四国八十八ヶ所登山道」が巡らされているの。その登山道を辿ることで裏山を染め上げるムラサキツツジを観賞出来ると云うわけ。But 実際に歩いてみると道端が崩れかけていたりして足許が危ないの。転落防止の防護柵があるわけでは無いので充分に気をつけて下さいね。ξ^_^ξは道に突き出たムラサキツツジの枝を避けようとして二度ほど足を滑らせてしまい、危うく斜面から転がり落ちるところだったの。身の危険を感じて(笑)山頂への登頂は諦めて途中で引き返してしまいましたが、運動神経に優れたあなたなら大丈夫だと思うわ。是非、山頂制覇にチャレンジしてみて下さいね。

〔 四国西国霊場巡拝碑略記 〕 明治30年(1897)に当山33世宗晋和尚願主 発起人 当所大島庄三郎、大島勝五郎、峰岸茂三郎、内田國吉、内田喜平の五名他 賛助者121名により造立されたものである。この山は観音山とも呼ばれる険しい山であるが、88基の碑は当山の貴重な遺産である。4月には実生(みしょう)の三つ葉つつじが全山をむらさきで覆う。碑は多くの方の巡拝をお待ちしている。

正法寺を後にして多武峯神社に向かいましたが
馬生BSから坂道を登り始めて間もなく、みごとな枝垂れ桜に出会ったの。

30. 全長寺 ぜんちょうじ

何かとんでもないところへξ^_^ξは行こうとしているのかしら−と思いつつ、終わりのない坂道を上りながら、ようやく辿り着いたのがこの全長寺なの。最終目的地である多武峯神社への道程は更なる試練が待ち構えていたのですが、それはさておき、【新編武蔵風土記稿】には「臨済宗にて慈光寺塔頭靈山院の末 普門山と號す 本尊薬師を按ず 開山良空正嘉2年(1258)8月10日示寂」とあるの。開山の良空和尚が正嘉2年(1258)に示寂していることから推して、この全長寺は鎌倉中期に創建されたと考えて差し支えないわよね。それにしても人里から離れたこんな山奥(ごめんなさいね)にあるお寺が、まさかそんな由来を持つ古刹だとは夢にも思っていなかったの。

残念なことに、文政10年(1827)に火災に遭い古記録の類を焼失し、詳しいことは分からず終いのようですが、それでも本尊の薬師如来像は難を逃れ、薬師三尊像とされる日光・月光菩薩や十二神将像と共に現本堂内に祀られているみたいね。因みに、その薬師如来像の台座には「建長六甲寅仙崖鶴寿比丘」の墨書が残されているそうなの。建長6年(1254)と云えば、開山の良空和尚が示寂する僅か4年前のことで、良空和尚と仙崖鶴寿比丘の二人の関係が気になるわね。

ここで多武峯神社に向かう途中の景観を幾つか紹介しておきますね。と云っても、大半は杉木立に囲まれた林道の坂道で、改めて写真に収めるような景色が望めたわけでもないの。この後紹介する武藤家が近づくにつれ、道幅も広くなり、沿道にも桜が植樹されるなど、ようやく人手が加えられていることが感じられるようになったと云うわけ。

31. 武藤家住宅 むとうけじゅうたく

〔 多武峯の文化財 〕 武藤家のあるこの地域を多武峯といいます。これは、慶雲3年(706)に大和国磯城郡多武峯(奈良県桜井市談山神社)から藤原鎌足の遺髪を移し、祭神として祀った多武峯大権現が始まりとされています。その後、この地に聖観音を本尊とする福聚寺観音堂が建立されたといいます。また、観音堂領として慶安2年(1649)徳川家光より5石の朱印状が下されています。この観音堂を管理していたのが武藤家(当時、藤原姓)であり、江戸時代には慈眼坊と名乗る修験道場でした。慈眼坊は京都聖護院を本山とする天台系修験の本山派に属し、関東地方の本山派修験の大先達であった入間郡越生郷山本坊の配下として、外秩父地方の副先達を務めていたといわれています。更に、元禄6年(1693)には聖護院門跡から常陸国筑波郡(茨城県)の内50箇村の年行事職を認められています。武藤家の母屋は17世紀に建設され、護摩堂を配するなど往時の修験道場の家屋形態をよく保存しています。明治2年(1869)の布告により修験は廃止されます。神仏分離により観音堂は多武峯神社に改称、慈眼坊は姓を武藤に改め神職となりました。このような経緯の中で武藤家は、多武峯の始まりを示唆する瓦塔片をはじめ、修験道に関係する数多くの貴重な文化財を所蔵しています。また、多武峯には天狗や竜宮の穴などの伝説も伝わっています。平成15年(2003)3月 都幾川村教育委員会

役行者絵巻

主な文化財
 
瓦塔片と蔵骨器
奈良〜平安時代初期(県指定文化財)
板碑群
14世紀〜16世紀
天文5年(1536)銘鰐口
一口 室町時代(村指定文化財)
役行者絵巻
一巻 江戸時代(村指定文化財)
徳川幕府朱印状
観音堂領五石 9通 江戸時代

32. 多武峯神社 とうのみねじんじゃ

〔 多武峯神社沿革の概要 〕 往古からこの地を武州多武峯と称し、日本三多武峯の一として知らる。多武峯神社の御祭神は大職冠藤原鎌足公で、今から千二百数十年の昔、即ち慶雲三丙午年(706)の三月、大和の国多武峯談山から公の遺霊を当山に遷し、武藤家の守護神として祀らる。以来、文人武人の信仰殊に厚く、南北朝に降って神社山麓に火災起こり、その類焼を蒙り全山灰燼に帰してしまったのであるが、当山第38世一峯法印別当の世、時の中納言である藤原藤房郷大願主となって、当地竜ヶ谷の工匠・森川金八に命じ、三間四面朱塗りの殿堂を再建したのである。時正に正慶2年(1333)。

明治維新に至るまで行基菩薩の作である聖観世音と相殿であったが、徳川三代将軍家光公以来代々五石余の朱印状を賜り、当地が観音堂領となっていたのである。世の人当山を称し観音山と云い、鬱蒼とした原生林に覆われた神域は天狗の山とも云われている。明治40年(1907)1月19日の夜、再び火災に遭い、社殿は焼失し、山容は見る影もない形相となったのであるが、大正15年(1926)2月当山第64世代現在の神社を再建した。神秘の山・多武峯には断崖の絶景、龍宮の穴等人跡未踏の聖地もあり、独特の風光に参詣の人々の心を強く打つものがある。尚、当山山頂に棚を廻らし文亀2年(1502)建立の五輪の塔があるが、これは祭神・藤原鎌足公の墓であり、この塚から奈良朝末期作の瓦塔古壺等の出土品多数あり、昭和34年(1959)3月多武峯瓦塔遺跡として埼玉県指定史蹟に指定されている。
多武峯御詠歌 はるばると 登りて聞けば 百鳥の 声もみのりも かたらひの峯
昭和39年(1964)4月15日 第64代 当主 武藤昌蔵 記

〔 多武峯神社の由来 〕 この多武峯神社は、慶雲3年(706)に藤原鎌足の遺髪を大和国多武峯から遷して祀ったのが始まりとされています。その後、同所に福聚寺観音堂が建立されました。観音堂は三間四面の朱塗りの堂宇であったと伝えられ、南北朝時代の頃に火災に遭い、再建されています。明治2年(1869)に多武峯神社と改称されましたが、明治40年(1907)に再び山火事により延焼し、現在の社殿は大正15年(1926)に建立されたものです。神社名になっている多武峯は、また「塔の峯」とも称されています。それは、社殿のある峯の形が塔のように見えること、或いは往古瓦塔があったと伝えられるからです。その証拠に大正13年(1924)社殿の北西側にある塚から瓦塔、瓦堂、須恵器杯等の破片や14世紀作と考えられる蔵骨器、片口鉢が出土しています。多武峯神社の瓦塔は、県内出土の瓦塔の中でも最古に分類されるもので、9世紀頃と推定される貴重なものです。塚の上には、文亀4年(1504)銘の五輪塔も祀られています。また、嘗て社殿西側には文安2年(1445)銘の十三仏板碑や長禄5年(1461)銘の六観音・六地蔵板碑など、都幾川村を代表する板碑も十数基立ち並んでいました(現在は武藤家東側に移動)。これらのことから、多武峯神社は古代・中世の文化財が多数発見された貴重な遺跡でもあります。神社の祭典は郡村誌には3月15日と記されています。その後4月15日に変更となり、現在は5月3日に行われています。尚、社殿は標高368mに位置していますが、南側は高さ99丈と云われる断崖絶壁となっており、その中腹には椀貸し伝説が残る「龍宮の穴」と呼ばれる横穴があります。平成16年(2004)3月 都幾川村教育委員会

前身となる福聚寺観音堂に祀られていた木造聖観音菩薩像ですが、現在は武藤家宅に安置されているみたいね。武藤家は以前は慈眼坊を名乗る本山派修験の旧家で、明治期の修験道廃止に伴い、それまでの藤原姓から武藤姓に改姓し、慈眼坊61代寛慶法印は神職となり、多武峯神社の神主に就いたの。その観音堂が建てられていた場所は里人からは観音山と呼ばれ、天狗がすむと怖がられていたそうよ。天狗は山伏(修験者)の仮託でもあるわね。

この多武峯にはその天狗と共に「龍宮の穴」の伝説が残されているの。
海から遠く離れたこんな山奥(失礼)で龍宮伝説に出会うなんて不思議な気がしますが、
最後にそれを紹介して今回の散策の余韻としますね。

むか〜し昔のお話しじゃけんども、修験家の慈眼坊は外秩父の副先達を務めておった程じゃで、集まりがあるときは用意した膳椀だけでは足りんときがあってのお、そんときは前の日に前以てこん「龍宮の穴」の前に来て、大声で「あした集まりがあるで、○○人分の膳椀をお貸し下され」と三回お願いをしたそうじゃ。そうして翌日改めて穴の前に来てみると、果たして穴の入口の前には頼んでおった人数分の朱塗りの膳椀がきちんと揃えて用意されておったそうじゃ。そうして、その膳椀を借りて使い、礼を述べて穴の前に戻しておくと、いつの間にか膳椀は穴の中に消えておったそうじゃ。

ところが、ある日のことじゃった。そん日も数が足りんで龍宮の穴にお願いして借りたまでは良かったのじゃが、賄いの手伝いに来ておった者の中に不心得者がおってのお、借りた膳椀の幾つかを自分のものにしてしまったのじゃ。そうして借りた通りの数をお返ししなかったのじゃ。すると、それからと云うもの、龍宮の穴の前で幾ら膳椀をお貸し下さるようお願いしても、二度と朱塗りの膳椀が出てくることは無かったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

いかがでした?お楽しみいただけましたでしょうか?下手な脚色でごめんなさいね。
But 逸話の裏側には隠れた史実がひそんでいるような(笑)。想像を逞しくしすぎかしら。

















史料的な裏付けは得られてはいないものの、寺伝によると盛時には75坊もの僧房を構えたと云う慈光寺ですが、実際に歩いてみると僧房の数はさておき、稀にみる大寺だったことが窺えるの。慈光坂を辿れば、時折見え隠れする嘗ての参道からは、馬の背に揺られながら郎党を引き連れて上り来る頼朝の姿も見えて来るような気がするの。嘗ては修行僧の読経がそこかしこから聞こえ、山伏装束を纏った修験者達が数多く往来していたであろう山内も今は昔。その慈光寺が桜の咲く頃になると少しだけ賑わいを取り戻すの。その彩りの中で、歴史の語り部達がつむぐ逸話にも耳を傾けてみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
東京堂出版社刊 大野達之助編 日本仏教史辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
都幾川村発行 都幾川村文化財調査委員会編 都幾川村の史跡と文化財
都幾川村発行 都幾川村史編纂委員会編 都幾川村史資料1 地誌I
都幾川村発行 都幾川村史編纂委員会編 都幾川村史資料3 古代・中世史料編
高志書院刊 埼玉県立嵐山史跡の博物館編 峰岸純夫監修 東国武士と中世寺院
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
さきたま出版会発行 梅沢太久夫編 埼玉ふるさと散歩 比企丘陵編
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
岩波文庫 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など。






どこにもいけないわ