春の一日、石神井川の桜並木を歩いてみましたが、嘗ては板橋から王子にかけて景勝地が点在して江戸庶民の身近な行楽地として人気を集めていたみたいなの。今ではすっかり景観も変わってしまい、往時の縁を今に求めることは出来ませんが、それでも当時を物語る史跡や名残りがひそやかに佇んでいるの。尚、掲載記事は時季を違えて出掛けた際の散策記を加えて再編成していますので予め御了承下さいね。
1. 石神井川 しゃくじいがわ
コンクリートで覆われた絶壁の護岸の後方には大規模なマンション群が建ち並びますが、それでも季節の移ろいは街中の桜にも均しく流れ来ているの。左掲画像の撮影ポイントとなる加賀一丁目〜二丁目辺りには、嘗て江戸時代に加賀藩の下屋敷が建てられていたことから現在の地名となるのですが、時を経た今も緑が点在し、落ち着いた佇まいを見せているのは、そんな背景からなのでしょうね。橋の名に御成橋や金沢橋とあるのもそれに由来するの。
2. 音無緑地(松橋弁財天洞窟跡) おとなしりょくち まつはしべんざいてんどうくつあと
今回の石神井川緑道の散策の目的の一つがこの音無緑地なの。全くの個人的な興味で恐縮なのですが、志水辰夫氏の『ボチャン!』(講談社文庫【負け犬】所収)の中でこの緑地がある重要な場所として取り上げられているの。物語の中で42年振りにこの地を訪ね来た主人公の清吉は「音無緑地と標示されていた。その横に「松橋弁財天洞窟跡」としるした観光案内板と説明文が立てられている。まちがいない。ここがあの、岩屋があった公園の跡だったのだ」と重い過去の出来事を振り返るの。
登場人物や物語の展開などは勿論フィクションなのですが、小説の中ではこの石神井川の新旧の情景が巧みに織り交ぜられているの。気になる方は同著をお読み頂くとして、読了後では紹介する石神井川の印象も大きく変わってしまうかも知れないわね。志水氏は物語の中で、この石神井川にも嘗てはフナやメダカが泳ぎ、夏になると蛍が飛び交っていたとも記していますが、浄化を経て綺麗な水が流されるようになったとは云え、コンクリートに塗り固められて、水草も生えぬ環境とあっては、再び夜空に儚げな光が舞うこともなさそうね。
音無緑地は御覧のように親水公園として整備されているの。この音無緑地ですが、後程紹介する音無さくら緑地との兼ね合いから音無もみじ緑地とも呼ばれているの。辺りを見回してみたところで、モミジのモの字もありませんので不思議に思われるかも知れませんが、嘗ては紅葉の名所としても知られていたと云うの。傍らの案内板には松橋弁財天洞窟跡と記され、嘗ての景観を描いた絵図が掲載されていたの。多少の誇張はあるのかも知れませんが、天保5年(1834)頃の情景を元に描かれたもので、深山幽谷の佇まいは感動ものね。
左掲がその【江戸名所図会】に描かれる松橋弁財天窟(まつはしべんざいてんいわや)なの。掲載画像では小さすぎて、何が何だか分からないと思いますので、お出掛け時に案内板を御覧頂くか、最寄りの図書館などで【江戸名所図会】を御参照下さいね。描き込まれている景観の紹介にしても、他力本願で恐縮ですが、ここでは案内板の記述を転載して紹介に代えさせて下さいね。因みに【南総里見八犬伝】の中で犬塚信乃の母・手束が三年に亘り子授けを祈願したと云う「滝野川なる岩屋殿」もこの松橋弁財天窟のことなの。
元々この辺りは石神井川が蛇行して流れていた場所でした。左の絵は【江戸名所図会】に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み 自然の山水あり 両岸高く桜楓の二樹枝を交え 春秋ともにながめあるの一勝地なり」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像が祀られていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。【新編武蔵風土記稿】に依ると、この弁財天に源頼朝が太刀一振りを奉納したと伝えられていますが、既に太刀も弁財天像も失われています。
また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川付近には滝が多く、夏にこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の【名所江戸百景】や【東都名所】をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標が幾つか残っており、当時の名所であったことを窺わせます。平成9年(1997)3月 東京都北区教育委員会
記述にもあるように、残されていた岩屋も護岸工事で取り壊され、弁財天も住処を奪われてしまったと云うわけね。弁財天のルーツは古代インド神話で水の流れを象徴する女神のサラスバティーに由来し、琵琶が奏でる旋律は妙なる水音の調べでもあるの。その弁財天のお住まいを壊してしまったのですから、石神井川が渓谷美を取り戻すことはもはやありえないお話しね。緑地には小さな広場も併設されますが、傍らでモミジの代わりに彩りを添えてくれたのがこの枝垂れ桜。水面を流れゆく花筏は弁財天が流す涙かも知れないわね。
3. 滝河山金剛寺 りゅうかざんこんごうじ
松橋院(しょうきょういん)と號す 松橋辨天境内に安ず 弘法大師の開基にして 本尊不動尊は即ち大師の作なり その後あまたの星霜を經て荒廢におよび 他の宗風に化せり 天文の頃 中興阿闍梨看印なるもの 曩祖(のうそ)開基の靈地をして他の宗風に轉ぜしことを歎き その頃北條氏康に訟えて再び眞言の靈區に復せしむ 【江戸名所図会】
門前には源頼朝布陣伝承地と記した案内板が建ちますが、治承4年(1180)10月、上総下総を経て武蔵国に入り来た源頼朝はこの松橋に陣を構えたの。【源平盛衰記】の源氏隅田河原取陣事の段には「武蔵国豊島の上 瀧野河松橋と云ふ所に陣を取る」と記されますが、その軍勢は十萬餘騎に及ぶと云うのですから、すごい!のひとことよね。この時ばかりは鎧姿の武者達の勝ち鬨が深山幽谷にこだましていたのかも知れないわね。頼朝は松橋弁財天に戦勝を祈願すると、やがて武蔵六所大明神(現・大國魂神社)に向けて隊列を進めたの。
後に、その報恩に感謝した頼朝は弁天堂を建立して所領を寄進したとも伝えられているの。ところで、弁財天に戦勝祈願なんて不思議に思われるかも知れないけど、当時の弁財天は同じ「べんざいてん」でも弁才天だったの。寺院の守護神として祀られることも多く、転じて身を守る守護神としても信仰されたの。宝剣を振る八臂の像容はまさにジャンヌダルク状態で、武士達には心強い女神に思えたのかも知れないわね。その弁才天が金銀財宝を纏い、技芸を司る見目麗しい弁財天に変身するのは後のことね。
境内には七福神の石像や記念碑が建ちますが、中でも気になったのがこの顕彰碑。最初にこれを見掛けたξ^_^ξは、このおむすびの形をした石はいったいなあにぃ〜?豊作祈願?それとも飢饉で亡くなった人達を供養するものかしら?などと、どうしてもおむすびの印象から抜け出せずにいたの。実は、これ、富士山を模したものなの。富士塚は神社の境内などで見掛けることがありますが、富士山に見立てた石と云うのは珍しいわね。と云っても、ここでは依代(よりしろ)ではなくて飽く迄も顕彰碑。じゃあ、誰の、何を顕彰しているの?
〔 富士講先達の安藤冨五郎顕彰碑 〕
富士山は神の宿る霊山として古来から人々による崇拝による信仰を集めてきましたが、登拝すると数々の災難から逃れられるとも信じられ、富士山参詣による信仰が形成されてきました。富士講はこれらを背景に江戸時代、関東地方を中心とする町や村で造られた信仰組織です。ここにある富士山を象った記念碑は富士講の先達として活躍した安藤冨五郎の顕彰碑です。碑の表側には参と云う文字を丸で囲んだ講紋及び「三国の光の本(もと)をたちいてて こころやすくも西の浄土へ」と云う天保8年□月12日に没した伊藤参翁の和歌の讃が刻まれています。
裏側の人物誌に依れば、冨五郎は宝暦5年(1755)滝野川村に生まれたが青少年時代から富士信仰の修行を行い、丸参講と云う講組織を作って富士信仰を広めるのに努力した。その甲斐もあってか、中興の祖である食行身禄(伊藤伊兵衛)の弟子の小泉文六郎から身禄が姓とした「伊藤」と云う姓を許されて伊藤参翁と称した。富士への登山・修行は50回に及び、富士信仰に関わる多くの人々から敬われ、80歳を越えてもなお顔立は早春に野山の枯れ草を焼く野火や紅色の雲のように活気に満ち、嘘や偽りのない美しさを保っていたとあります。
冨五郎が生きた時代、富士信仰は政治経済の混乱や封建的な身分制秩序による苦難から人々が救われるには男女の平等や日常生活の上での人として守るべき規範を実践し、これによって弥勒の世を実現するべきだという信仰思想に触発され、人々の間に急速に広まりました。平成7年(1995)3月 東京都北区教育委員会
4. 音無さくら緑地 おとなしさくらりょくち
紅葉橋の袂を過ぎて程なくしてあるのがこの音無さくら緑地。その名から桜の木が数多く植樹されているのではと想像したのですが、飽く迄も前述のもみじ緑地に対しての呼称みたいね。それでも頭上からは桜の花びらが淡雪のように舞い降りて来て、歩道もうっすらと薄化粧していたの。ここでは行き交う人も少なくて、舞い落ちる花びらを眺めながら暫し春を独り占め。ちょっと幸せな気分を味わうことが出来たの。
このさくら緑地ですが、U字形に大きく蛇行しているの。それもそのハズ、嘗ての石神井川はこの緑地を流れていたの。護岸工事に併せて水路は蛇行を離れて直線コースに変更され、旧石神井川の川筋は緑地として整備されたと云うわけ。緑地の最奥部には地層が自然露頭する崖も残され、その前を流れる小川にはトンボの幼虫・ヤゴを始めとした水生昆虫がいたとしてもおかしくないシチュエーションよ。王子側の出入口近くには御覧のような吊橋が架けられていましたが、嘗ての石神井川はこの吊橋の下を流れていたの。
5. 正受院 しょうじゅいん
再び石神井川沿いの道を王子方面へと向かいましたが、木立の中に屋根瓦のお寺らしき後姿を見掛けて訪ねてみたのがこの正受院。楼閣を思わせる鐘楼門が建つ他は、至って普通のお寺に見えるのですが、その創建は室町時代のことと伝え、縁起にしてもちょっとユニークなの。また、当院は赤ちゃん寺とも呼ばれるのですが、その由来を語るにはつらい内容となりますので、ここでは触れずにおきますね。その代わり、創建の縁起などはたっぷりと紹介しますね。現在は思惟山正受院浄業三昧寺を正式な山号寺号とする浄土宗系の寺院。
北区教育委員会が立てた案内板には、嘗て境内地を流れていたと云う不動滝のことが記されていましたが、残念ながら今では滝のたの字も無いの。ですが、滝野川の地名が物語るように、辺り一帯には大小の滝が数多くあり、その流水が石神井川に注ぎ込んでいたみたいね。中でも正受院の不動滝は風光明媚な景勝地として、また、信仰の対象としてもダントツの人気を集めていたみたいなの。【江戸名所図会】には滝を前にして佇む旅姿の墨客や、縁台に腰掛けてお茶で喉を潤す旅人の姿なども描き込まれているの。
掲載画像では細部の判読が不能ですので申し訳ありませんが、最寄りの図書館などで御覧下さいね。
せめてものお詫びに、ここでは付されている説明書き(改行位置など一部改編)を掲載しておきますね。
不動瀧 泉流の瀧とも云ふ
ふどうのたき せんりゅうのたきともいふ
正受院の本堂の後 坂路を廻り下る事 數十歩にして飛泉あり 滔々として硝壁に趨る
しょうじゅいんのほんどうのうしろ はんろをまわりくだること すうじゅっぽにしてひせんあり たうたうとしてしょうへきにはしる
此境は常に蒼樹蓊鬱として白日をさゝえ 青苔露なめらかにして 人跡稀なり
このちはつねにそうじゅおううつとしてはくじつをさゝえ せいたいつゆなめらかにして じんせきまれなり
不動滝は稲荷・権現・大工・弁天・見晴・名主滝と共に王子七滝の一つに数えられ、とりわけ不動滝が人気を集めていたことから正受院には参詣客も多く、盛時には浪花亭と云う茶屋も出来たの。正受院の本堂に立ち寄ると、ある者は沐浴姿となり滝水に打たれ、ある者は流水に涼を求めたの。そうしてひとしきり不動滝の流れに親しんだところで本堂に戻り、お弁当やお寿司などをとって食事を済ませると、夕方には帰途に就いたの。因みに、納骨堂の裏手が不動滝跡で、右手にある建物が不動堂になるの。不動滝は流水が涸渇した後もしばらくは断崖として姿を留めていたようですが、関東大震災時に崩壊してしまったみたいで、今となっては絵図に描かれた同じ場所に自分が立っているとはとても思えないわね。
この正受院の創建にしても、その不動滝に由来するの。引き続き【江戸名所図会】の記述を元に紹介すると、時代を遡る室町時代後期の弘治年間(1555-57)のこと、大和国(現在の奈良県)宇多郡滝門の奥地となる功曽久と云うところに、不動尊修法を会得しようと修行する一人の僧侶、学仙坊がいたの。ある日、霊夢を得てこの滝野川の地に至り来たの。そして、この滝を見た学仙坊は、幸いの地なりとして滝の傍らに庵を結んだの。それがこの正受院の始まりで、学仙坊は庵に起居しながら更に修行を続けていたの。
その年の秋に石神井川が氾濫したのですが、濁流が流れ落ちる滝壺の中から光を発するものが見えたの。不思議に思い、水が引いた後で辺りを探ってみたのですが、何とそこには不動明王像が。これぞまさしく不動尊修法を感得した証!−と歓喜した学仙坊は、早速その不動像を滝の傍らの庵に安置して祀ったの。滝の名は勿論その不動像に由来するのですが、病を患う者がその滝水に打たれると不思議に病が癒えたりするなど、殊の外霊験灼かと信じられるようになり、盛時には正受院も、湯治場のそれを思わせる程の賑わいを見せたと云うの。
本堂左手の植え込みの中に御覧の鎧姿の石像を見つけましたが、摩滅していて顔の表情も分からず、最初は加藤清正像かしら?とも思ったのですが、正受院は日蓮宗系では無くて浄土宗ですのでそれは無いわね。傍らの案内板には近藤守重の肖像とありましたが、じゃあ、近藤守重なる人物は何者で、いったい何をした人なの?何で正受院の境内に肖像が建てられているの?となるのですが、ξ^_^ξも初めて聞く名ですので知らなかったの。なので、他力本願で恐縮ですが、北区教育委員会の手になる案内板の記述から紹介してみますね。
坐像は現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府」と云う標柱を建てた近藤守重の肖像です。守重は明和8年(1771)江戸町奉行与力の次男として生まれ、家督を継いで通称を重蔵、号を正斎と称しました。寛政10年(1798)3月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉兵衛の協力で、石像のように甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力しました。また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政5年(1822)から9年までの4年間を正受院の東隣に滝野川文庫と云う書斎を設けて住みました。石造近藤守重坐像はこの記念に江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼して製作したと伝えられます。
調査や開発だけが目的なら甲冑に身を固める必要は無いハズですが、敢えて鎧姿となるにはそれなりの理由があり、幕府が探査に着手したのも事情があってのことなの。それは他ならぬロシアの南下政策。当時の北海道は渡島半島を松前藩が治めるほかは、太平洋側の東蝦夷地、日本海側は西蝦夷地と呼ばれ、アイヌの人達が住んでいたの。松前藩はそのアイヌの人達から主に海産物を年貢として取り立てていたのですが、その頃になるとオホーツク海からロシア船が頻繁に姿を現すようになったの。寛政4年(1792)にはロシアの使節ラックスマンが日本人の漂着民を連れて根室に来航すると強く通商を求めたの。
一方で、イギリス船も近海に現れるなど、日本を取り巻く状況も変わりつつあり、幕府内でも海岸防備を唱える者がいる一方で、ロシアとの交易や蝦夷地開拓の必要性を説く者もいて喧々囂々だったの。守重の千島列島探索に先立ち、蝦夷地を開拓してロシアとの交易を考えた老中の田沼意次も探検隊を派遣したのですが、意次自身の失脚もあり、実現せずに終えていたの。
近藤守重の千島列島探索の翌年には東蝦夷地が幕府直轄地となり、後に西蝦夷地も直轄領となるの。その直轄地となった蝦夷地を東北諸藩が分担して警備することになったのですが、松前藩はその役割分担からハズされたみたい。歴史の暗部と云うことで詳しいことはξ^_^ξには分からないのですが、松前藩は露や清(中国)との密貿易で不正な利益を得ていた一方で、アイヌの人達からも不当に年貢を掠めるなど、蝦夷地探索の過程で松前藩の不埒な悪行三昧が幕府に知られるところとなったみたいね。
一方、探索ばかりで態度の煮え切らぬ幕府を横目に、ロシア船は北海道沿岸部に現れては略奪を繰り返していたみたいね。近藤守重の千島探検からは10年後のことになりますが、文化5年(1808)にはロシア軍艦が国後島に接岸して艦長らが上陸。箱館奉行配下の警備兵が捕らえて投獄したのですが、その翌年(1809)、今度はロシア側の手で近藤守重の千島探検を助けた高田屋嘉兵衛が抑留されてしまったの。幸い、このゴローウニン事件は文化10年(1813)には解決するのですが。
と云うことで、当時の北海道を取り巻く情勢には厳しいものがあり、松前藩にしたら幕命を受けて蝦夷地探検に来た近藤守重は藩の内情を探る隠密に見えたかも知れず、不正が暴かれた際には海の藻屑と化すこともいとわずにいたのかも知れないわね。コラコラ、また勝手に話しを創るな!(笑)。加えて、探検先ではいつ何時ロシア人に襲われるかも知れぬとあっては鎧で身を固めておく必要があったと云うわけ。実際には常時着用していたわけでもないのでしょうが、蝦夷地探検には身の危険が常に付きまとっていたと云うことでしょうね。極寒の地ですから、鎧姿で分厚い積雪の上を歩くことは先ず不可能よね。
最後はちょっと茶化してしまいましたが、記述は脚色も含まれますので、呉々も鵜呑みにはしないで下さいね。
ここでは読み物としてお楽しみ頂けたらうれしいな。だったら書くな!かしら?
6. 音無親水公園 おとなししんすいこうえん
正受院を過ぎると飛鳥山の緑や音無橋が見えて来ますが、その音無橋の辺りから石神井川も暗渠となり、飛鳥山の地下をくぐり抜け、再び地表に現れるとやがて隅田川に注ぎ込み、その役目を終えるの。嘗ての流水路が今では親水公園として整備され、市民の憩いの場となっているの。園内には流れ落ちる滝水や水車なども再現され、水路に沿って歩道が設置されていますので、暑い日などは涼をとりながらの散策が楽しめそうね。
ところで、先程から出てくる音無の名称ですが、石神井川の別称の音無川に由来するの。と云っても、板橋区を抜けて北区に入る辺りからの名称で、次に紹介する王子神社に関係するの。後程改めて御案内しますが、王子神社は紀伊国(現在の和歌山県)の熊野三山から分霊勧請したもので、中でも本宮の麓を流れているのが音無川なの。そこで、本家のそれに倣い、王子神社の傍らを流れる石神井川を音無川に見立てたと云うわけ。因みに、地名にある滝野川ですが、今も昔も河川としては存在しないの。舞台の主役は飽く迄も石神井川ね。
7. 王子神社 おうじじんじゃ
この王子神社は、鎌倉時代後期の元享2年(1322)に、この辺りを治めていた豊島氏が新たに社殿を造営して、紀伊国(現在の和歌山県)の熊野神社から改めて分霊勧請したことに由来するの。一口に熊野神社と云っても熊野三山の呼称があるように、実際は本宮・新宮・那智大社の三社からなる熊野信仰の総本山よね。鎌倉室町期になると、その熊野信仰が武士や庶民の間にも広がるのですが、豊島氏が新たに社殿を造営して崇めた背景もそこにあるようね。名称にしても熊野権現に因み、明治以前は若一王子宮とか王子権現と呼ばれていたの。
現在の王子と云う地名も、この王子神社に由来しているのですが、元々の王子は御子の神さまを云い、王子社にしても熊野三山の神さま達を崇める遙拝所や分祀社を指すものだったの。京都から始まり、熊野本宮大社に至る熊野詣の道筋には、○×△□王子と多くの王子社が祀られていますが、王子神社のルーツがそれね。ところで、熊野権現はホントは一神では無いのですが、因数分解(笑)すると話しがやたらややこしくなるので、ここでは深追いせずに置きますね。
豊島氏以後も小田原北条氏の崇敬を受け、江戸時代になると将軍家の祈願所にも指定されるなど、為政者の加護を受けて隆盛したみたいね。中でも江戸幕府八代将軍の徳川吉宗は紀州出身だったことから熊野権現に由来する当社を殊の外崇敬したの。その象徴が飛鳥山の寄進で、吉宗の寄進があればこその飛鳥山公園ね。加えて、歴代将軍の帰依を受けて社殿が造営されたこともあり、【江戸名所図会】に描かれる熊野権現社の境内図には主祭神の他にも白山、蔵王権現に八幡神、天満宮などのお社もあって、神社の見本市状態なの。本宮と同じ高所に東照大権現を祀る社殿があるのは当たり前と云えば当たり前かしら。
一方で、境内地には阿弥陀如来や薬師如来などを祀る本地堂や鐘楼も描かれているの。今でこそ神社としての構えですが、明治以前は王子権現の社号に象徴されるように神仏混淆の世界で、神社と寺院の区別が無い神宮寺だったの。その王子権現の別当として任じていたのが禅夷山東光院金輪寺ですが、明治期の廃仏毀釈で廃寺となり、楼門に祀られていた仁王像は他寺に移され、鐘楼は壊されてしまったの。王子権現社から王子神社へと改称したのはその時のことね。
参道脇には祭礼時に奉納される王子田楽を紹介する案内板が立てられていたのですが、掲載されている画像には、鎧姿の武士が長刀を立てて左右に仁王立ちするなど、説明文との関連が分からないの。田楽とあることから田楽舞のことだと思うのですが、五穀豊穣を祈る神事に由来する田楽舞に何故武士が登場するの?残念ながら実際に観たわけではないので何とも云えないのですが、実際の田楽舞を観ればその理由が分かるかも知れませんね。無責任モードで恐縮ですが、ここではその説明文を掲載するに留め置きますね。
王子田楽は豊かな実りと無事を祈って毎年八月王子神社の例祭で神前に奉納される伝統芸能です。花笠をつけ、鼓・筰・太鼓方が笛に合わせて躍る、全国でも数少ない芸能です。しばらく絶えていましたが復元され、王子田楽衆と王子田楽式保存会に依って保存・伝承されています。東京都北区教育委員会
前述のように記したところ、「田楽おじさん」さまより御丁寧な解説のメールを頂きました。鎧姿の武士の登場には意外な理由が隠されていたの。それを知ったξ^_^ξはまさに目から鱗状態。「田楽おじさん」さまの御了解を得ることが出来ましたので、皆さんにも紹介してみますね。
平安時代、田楽の初段にあっては、御霊会(ごりょうえ)などに、田とは離れた田楽躍りが貴族の間にはやりました。貴族は、いかに優秀な田楽法師を召抱えているかは、当時の自らのステータスを誇るものであったようです。貴族と貴族の田楽衆が道にてすれ違うと、必ず小競り合いや石合戦にまで発展してしまったようで、それで、どの田楽衆にも警護の武者が付き添うのが常態だったようです。
このことは、京の都で宮中が空になるほど貴族が町に繰り出して田楽狂いをした当時の田楽というものが、農耕儀礼ではなくて別のものであったことの証明でもあります。平清盛が八坂神社に田楽衆をともなって入ったときも大きなケンカ合戦となり双方流血の惨事となって、出世前の清盛は朝廷から罰金を受けたという歴史事実が残っているほどです。
田楽には大きく分けて、囃子田系のものと躍り系のものがあり、躍り系の中には、農耕儀礼系のものと、平穏無事を祈念する系のものがあります。農耕儀礼系のものは、ふつう、水を意味すると思われる、白い紙をさげた笠をつけておどります。王子の田楽は、赤い魔除けを意味する下げ紙の花笠をつけて躍る魔事災難除けをする踊りなのです。そして、田楽古来の伝統にそって、警護の仰々しい鎧武者が田楽衆を護っているわけです。
ξ^_^ξ達の感覚からすると普段は農作業などに従事する方が祭礼時に限り舞を奉納するものとばかりに思ってしまいますが、当時は専門の興行集団があったとは。加えてことばのイメージから田楽=農耕儀礼と理解しがちですが、当時はそれを離れて広く社会現象化していたなんて意外性の連続ね。まさに「現在の感覚で当時の習俗を理解しようとすると歴史認識を誤る」の好例ね。それにしても鎧姿の武士達が実は田楽衆を護る用心棒(笑)だったとは‥‥‥
ところで、後から知ったことなのですが、解説を寄せて下さった「田楽おじさん」さまは王子田楽衆の代表者の方だったの。更に驚いたことに、昭和19年(1944)以来途絶えていた王子田楽を、中心になって復興された方でもあるの。復興と口では簡単に云えるけど、踊りから衣装・楽器に至るまでその全てが試行錯誤と労苦を経てのもので、「田楽おじさん」さまがいなかったら今日に王子田楽が蘇ることもなかったと云っても過言ではないの。「田楽おじさん」さまの 王子田楽・祭りの花笠 には復興物語と共に、王子田楽の全てが紹介されていますので、是非、御覧になって下さいね。
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関−の和歌で有名な蝉丸公は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みな上、琵琶の名手であり、また、髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の古屋美女に命じてかもじ・かつらを考案し、髪を整える工夫をしたことから音曲諸芸道の神、並びに、髪の祖神と博く崇敬を集め、関蝉丸神社としてゆかりの地・滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達がかもじ業者を中心として江戸時代、ここ王子神社境内に奉斎したのが当・関神社の創始なり。昭和20年(1945)4月13日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地のかもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師の各界に呼び掛け浄財を募り、昭和34年(1959)5月24日これを再建せり。
〔毛塚の由来〕 釈尊が多くの弟子を引き連れて祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に代えて献じた光が大突風にも消えることなく煌々と輝き、世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く云い伝えられる由縁である。毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に昭和36年(1961)5月24日関神社境内に毛塚の塔を建立して永く報恩の一助とする。関神社奉賛会 東京人毛商工組合 東京床山協会 東京かつら協会 関西かつら協会
8. 王子稲荷神社 おうじいなりじんじゃ
縁起では「康平年中(1058-64) 源頼義 奥州追討の砌り 深く当社を信仰し 関東稲荷総司と崇む」と伝えられていることから、平安期中頃には既にそれなりの社格を有していたみたいね。と云うことは、前述の王子神社が未だ創建されていない時代に、王子稲荷神社は既に関東稲荷総司云々にふさわしい陣容を構えていたと云うことね。尤もその頃は鎮座地の名から岸稲荷と呼ばれ、王子稲荷と改称したのは王子神社の創建時のことなの。現在でも岸町と名を残していますが、元々は荒川の岸辺の意に由来するものみたいよ。
社務所の左手に続く脇道を辿ると本宮があり、その右手の鳥居群をくぐると嬉野森、北村、亀山稲荷の合祀社があるの。ξ^_^ξが思うには、周辺の開発で鎮座地を奪われたお稲荷さん達がこの地に遷宮して来たのではないかしら。その左手には御覧の願掛け石が祀られる小社があるの。おざぶに載せられて鎮座する「御石さま」ですが、願いごとのある人はそれを心に唱えつつ持ち上げるの。軽く感じたあなたには願いごとが叶う兆しあり、う〜重た〜いと思われたあなたは残念ながら願いごと成就せず−みたいね。因みに、左手奥には小振りの「御石さま」が用意されていますので、ささやかな願いのあなたはこちらでチャレンジを。ダメよ、実現不可能な願いにも関わらず、小さい方で占なったりしたら(笑)。
参道石段脇には市杵島比売神(いちきしまひめのかみ)を祀る境内末社がありましたが、嘗ては弁財天として祀られていたのでしょうね。【江戸名所図会】では「本殿には聖観世音・薬師如来・陀枳尼天を、本宮には十一面観世音菩薩を祀る」としているのですが、この陀枳尼天( =荼枳尼天 )と云うのが仏教に習合された稲荷神で、同様にして市杵島比売神もまた弁財天に習合させられていたの。宗像三女神の中でもとりわけ容姿端麗とされた市杵島比売神が、弁財天の金銀財宝に結びついたのですから、これに優る女神さまはいないわね。
その弁財天が明治期の神仏分離で習合が解かれると元の市杵島比売神に戻ったと云うわけ。でも、本当は純粋の弁財天になるハズが、神社に鞍替えした以上はそうもいかず、市杵島比売神に変身せざるを得なかったのではないかしら。斎(いつ)き祀る島の巫女−に由来する市杵島比売神は元々は航海の安全などを守る海の女神さま。稲荷神社の境内に祀るにはちょっと無理があるような気がするんだけど‥‥‥。何、ひとりで難しいこと云ってんだよ〜!そんなん、どっちでもえやないかい!だったかしら。
9. 王子山金輪寺 おうじさんきんりんじ
次の名主の滝公園に向かう途中には金輪寺と云うお寺がありますが、既にお気付きのように、嘗ては王子権現社・王子稲荷両社の別当寺を務めていたの。御案内したように、明治期の神仏分離で廃寺となったのですが、当時12坊(閼伽井・池上・井上・観行・華上・月蔵・実相・杉本・増上・大乗・藤本・宝持坊)あった塔頭の中で二坊だけが残され、中でも藤本坊がその名を引き継いだと云うわけ。興味本位で境内に立ち入り出来るような雰囲気に無く、門前に建つ庚申塔と不動明王像を収めて終えていますので、御容赦下さいね。
10. 名主の滝公園 なぬしのたきこうえん
次に訪ねたのがこの名主の滝公園で、安政年間(1854-59)に当時の王子村の名主・畑野孫八が自邸に開いた庭園を元に造られているの。孫八の詠歌には「宇治に似よ 新茶に水や 王子園」とあり、当初は王子園と称していたようね。園内には大小の滝が流れますが、中でも男滝は古くから王子七滝の一つに数えられて多くの人達が訪ね来たと云うの。とは云え、公園として現在に至るにはそれなりの経緯もあったみたいね。入口に掲示されていた案内板の記述を紹介してみますが、西暦表示を加えるなど、一部を改変しましたので御了承下さいね。
名主の滝は王子村の名主畑野家がその屋敷内に滝を開き、茶を栽培して一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことに始まるもので、名称もそれに由来しています。その時期は定かではありませんが嘉永3年(1850)の安藤広重に依る【絵本江戸土産】に描かれた「女滝男滝」が名主の滝に当たると思われますのでそれ以前のことと考えられます。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は好んでいた塩原(栃木県)の景に模して庭石を入れ、楓を植え、渓流を造り、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。
昭和7年(1932)の文献に開園期間は4/1-11/20迄新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。昭和13年(1938)垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。昭和33年(1958)東京都は名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同35年(1960)11月から都市公園として公開されるに至りました。昭和50年(1975)4月1日、東京都から北区に移管、北区立の公園となり、同61年(1986)10月から一年半大規模な改修がなされました。
精養軒が運営していた頃は12,000坪と云う広大な敷地を有し、ボート遊びが出来る池や25mプールなどもあり、温泉付きの宿泊施設も造られていたの。まさに一大レジャーランドで、当時としては画期的な施設だったのではないかしら。
王子稲荷神社で頂いた栞で装束稲荷のことを知り、後日改めて訪ねてみましたので、ここでちょっと紹介してみますね。先ずは【江戸名所図会】に誌される逸話に耳をお貸し下さいね。
いづれの世にかありけむ この社の傍に稲荷明神をうつしいはひければ
いづれのよにかありけむん このやしろのかたはらにいなりみゃうじんをうつしいはひければ
毎年臘晦の夜 諸方の命婦この社へ集まり来たる その燈せる火の連なり続ける事
としごとのおほつごもりのよ しょほうのみゃうぶこのやしろへあつまりきたる そのともせるひのつらなりつづけること
そくばくの松明を並ぶるが如く 数斛の蛍を放ち飛ばしむるに似たり
そくばくのたいまつをならぶるがごとく すこくのほたるをはなちとばしむるににたり
その道野山を通ひ河辺を通へる不同を見て 明年の豊凶を知ると聞こゆ
そのみちのやまをかよひかはべをかよへるおなじからざるをみて あくるとしのほうきょうをしるときこゆ
命婦の色の白きと九つの尾あるは奇瑞のものなりと 古き書にありとなむとかや
みゃうぶのいろのしろきとここのつのおあるはきずいのものなりと ふるきふみにありとなむとかや
大晦日になると関東各地から神使の狐が集まり来て衣冠姿となり、王子稲荷に参詣したと云うの。その狐達が着替えをしたのが装束榎の下で、その年の狐火の多少で翌年の収穫を占ったの。残念ながらその装束榎も枯死してしまい、場所を違えて現在は装束稲荷が祀られているの。因みに、その王子の狐火の正体についての推論が【動物信仰事典】北辰堂社刊に記載されていますが、ロマンに水を差してもいけないので、敢えて内容には触れずにおきますので、気になる方は同著をお読み下さいね。
左端がその装束榎ですが、何代目になるのかしら?ちょっと見では傍らの電柱の方が存在感があり、御神木の装束榎の幹と見間違うばかり。このまま葉を広げると送電に支障があるからと枝が切り落とされてしまうかも知れないわね。東京電力さん、特段の配慮を以て、御神木を傷付けずに済ませる方法を考えて頂けないかしら。因みに、毎年大晦日の夜には逸話に倣い、狐のお面を被り、狐火ならぬ提灯をかざしながら王子稲荷神社までを練り歩く「狐の行列」が行われるの。下段は ′07 の大晦日の時のものですが、王子狐ばやしに合わせて行進する子狐達の仕草が可愛いの。是非、御覧になってみて下さいね。
先程紹介した「田楽おじさん」さまですが、「王子の小太郎」さまと名を変えて 王子の狐物語 では狐の行列についても紹介されているの。前掲の 王子田楽・祭りの花笠 と併せて御覧になってみて下さいね。
散策の最後に飛鳥山公園を訪ねてみましたが、お花見の季節は桜の花もさることながら全山黒山の人だかりなの。折角の桜を前にして戦意を喪失してしまいましたので、桜の花の画像は 写真素材[フォトライブラリー] さんよりお借りしています。
紀州出身の徳川吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任すると、王子権現社を中心にして石神井川流域の観光再開発を始めるの。熊野詣を知る吉宗が王子村にその情景を現出させようとしたのかも知れないわね。ですが、観光と云っても当時のそれは神社仏閣に参詣し、自然の造形や営みを愛でるもので、石神井川の流れを背景に春は桜、夏は滝水に涼を求め、秋は緋く染まる紅葉に季節の移ろいを楽しむものだったの。中でも吉宗がこだわりを見せたのが桜なの。紀州と云えば吉野の桜よね。
現在は全国的にも知られる上野公園の桜ですが、当時は上野寛永寺の境内地にあり、夜桜見物はおろか、ドンチャン騒ぎなどは論外のこと。そこで吉宗は、この飛鳥山を始めとして、江戸近郊の隅田川堤、小金井堤、品川御殿山に桜の植樹をして、それを庶民に開放したの。中でもこの飛鳥山には、【新編武蔵風土記稿】に依ると、享保5年(1720)に270本を、その翌年(1721)には1,000本もの桜が植えられたと記されているの。
そうして植樹された桜が根付いて見事な開花を見せるようになった元文2年(1737)、吉宗はこの飛鳥山で、それこそ飲めや謡えやの盛大な花見を催したの。庶民が右に倣えをしたのは云う迄も無いわね。一方で、それまでは野間氏の領地だった飛鳥山も代替地を与えて王子権現へ寄進され、更に後の天明2年(1782)にはその王子権現の別当・金輪寺に管理が委ねられているの。そうして江戸時代を通じて幾度と無く枯れては補植され、「芝山にして桜多く春季花盛の時期に茶舗を設け貴賤老若集ひ来て酒宴を開き云々」【日本名所図会】となったわけ。
文体にしても、当然ですが仮名交じり文ではなくて漢文で、オマケに中国五経の一つとされる尚書(書経)を踏襲していると云うのですから余程の方でも無い限りは読破は無理ね。そう云われると何が書いてあるのか余計気になるじゃねえか、分かるヤツはいねえのかよ〜とお嘆きの貴兄にお応えして傍らに建てられていた説明文を紹介してみますね。
この碑には熊野の神々のこと、平安時代の末頃よりこの地方を開拓した豊嶋氏が熊野の神を迎え、地名を熊野に模して飛鳥山とか王子或は音無川と呼ぶようになり、土地の人々が年を経ても変わりなくお祭りしたこと、花鎮めの祭りのさま、星霜遙かに移り寛永11年(1634)将軍家光公が王子権現の社を新たにし飛鳥の社をそこに遷したこと、更に百三年経た元文2年(1737)将軍吉宗公が飛鳥山を王子権現に給わり、此の地の整備を命じ音無川を浚い流れをよくし、山には花木を植え江戸庶民の行楽の地となし、付近の道路を良くし農耕の便を計るなどした為に豊年続き神栄え人々吉宗公の徳を慕ったことを千年の後までの鑑としてこの石に録したと刻まれている。
変わってこちらはSLのD51と共に広場に展示されていた都電の車両なの。昭和24年(1949)に製造された6000型と呼ばれる車両で、都内の転戦を経て昭和46年(1971)に荒川車庫に配属されてからは昭和53年(1978)に引退するまで荒川線を走り続けていたと云うの。その荒川線も現在では東京都交通局の運営ですが、開設当時は王子電気軌道株式会社が運行する私営の電車で、この飛鳥山への行楽客を当て込んでの敷設だったと云うのですから驚きよね。その歴史を紐解けば、明治44年(1911)に大塚駅と飛鳥山上(現在の飛鳥山)間が開通し、大正2年(1913)には飛鳥山と三ノ輪間が、続いて大正4年(1915)にはその飛鳥山と王子駅間が結ばれて現在の都電荒川線の原型が出来上がっているの。
13. 扇屋 おおぎや
今回の散策も以上で終了ですが、嘗ての王子は日帰り圏内にあることから江戸庶民の身近な行楽地として人気があったみたいね。そのコースにしても、不動滝や松橋弁天窟などを訪ね、王子権現と王子稲荷両社の参詣を加えて幾つかのバリエーションがあり、その行楽客を目当てに石神井川沿いや王子両社の門前などには茶店や料理屋などが多く建ち並び、盛時には江戸市中のそれを思わせる賑わいを見せていたと云うの。中でもその名が広く知られていたのが海老屋と扇屋の二軒。
江戸市中から芸者や鳶の頭を従えて物見遊山に繰り出してきた旦那衆などは料亭で酒宴をもうけて旅の締め括りとしたの。海老屋と扇屋にしても元々は卵焼きを名物にしていた茶店で、それが人気を呼び、料亭に鞍替えしたの。余談ですが、その海老屋と扇屋の二軒は寛政11年(1799)に開店しているのですが、ライバル店同士かと思いきや、兄弟が営むお店だったみたいで、扇屋は主に武家を、海老屋の方では町家を客にして棲み分けが出来ていたようね。こうした料亭が出来る前は「王子の茶店は菜めし田楽のみにて青魚に三葉芹の平皿にもりたるのみ」の状態だったみたい。時代は下りますが、明治22年(1889)に発刊された【日本名所図会】には「蝦屋扇屋とて其の構造美麗なる酒楼 水に臨て建築す云々」とあり、それだけ多くの行楽客が散財してくれたと云うことでもあるわね。
ダシを効かせて甘さを抑えた逸品は、滝浴み客で賑わいを見せていた時代に誘ってくれるの。
王子を訪ねる機会がありましたら、是非お買い求め下さいね。
嘗ての扇屋を舞台にしたお話しに【王子の狐】と云う落語があるのですが、当時の情景が織り込まれていて面白いの。御覧のみなさんが欲求不満を残したままでも困りますので紹介してみますが、出来ましたら落語選集などで原話に触れて見て下さいね。尚、噺家に依りお話しの展開に若干の違いがあるのですが、ここでは明治期に活躍した三升亭小勝師匠のお噺をベースに脚色を加えてみましたので御了承下さいね。因みに、最初に演目としたのは同じく明治期に活躍した初代三遊亭円右師匠で、上方で演じられていた【高倉狐】の舞台を王子に移したものだったの。
ある日のこと、暢気な職人がおりまして、こう暑くっちゃ仕事をする気にもならねえや、ひとつ王子辺りに滝浴みにでも出掛けてみようってんでやって来たんですが、ふと見ると木陰に一匹の女狐が気持ちよさそうに寝てるじゃありませんか。それもそのハズ、この辺りは王子稲荷のお膝元、狐は神さまのお使いってんで大事にされてるもんだからひとさまが脇を通ろうとも気にも掛けねえ。
おいおい、てえしたたまだよ、こいつは。湯宿に辿り着くてえっと、奥からは美人の女将が楚々とした仕草で現れてよお、座敷に通されてすすめられるままにお銚子を空けてるって云うといつの間にか辺りは茜色、ほろ酔い気分で湯船に身を沈めていると気がついたら肥溜めの中にいた−なんて云う話しは良く聞くけどもよお、ひとは騙せてもこの俺さまが騙されるわけはねえ、そうだ、この際だから反対にこの女狐を騙してやろうじゃねえかと思ったもんだから、大変なことになってしまいましてねえ。
一計を案じた男は女狐に近づいて「爺っつあん、爺っつあん」と声をかけましてねえ、女狐の方では今まで眠っていたもんだから別に何に化けていたという積もりも無かったんですが、「爺っつあん」と呼び掛けられて空かさず百姓姿の爺さんに化けると「いい気持ちで寝ておったに、何ぞ御用ですかいのお?」と応えたもんだから、男はしめしめ、反対に化かされるとも知らずに‥‥‥とほくそ笑みましてねえ。
男は旨いもん旨いもんと印象づけたもんで女狐の方でもすっかりその気になってしまいましてね。男も女狐のことが気になり、しばらく歩いてから横道に入りざまに後ろを振り返ってみたのですがいつの間にか姿を消してましてね。しめしめ、うまくいったわいとほくそ笑んでいたのですが、堤を通り、云われた場所へ近づくてえっと藪の中ではまさに女狐が尻尾をたてて化けるところで。
おしろいを塗ったような白い襟足にほつれ毛が一筋かかるのが見えて、なかなか乙じゃねえかと男もニンマリ。ところで何と呼ぼうか、狐だからおこん、それとも白い狐だからおぎん、いや、狐なんだからおつねがいいかも知れねえな、うん、おつねだ−などと独りごちているってえと
そうして二人が、イヤ、一人と一匹と云うのが正しいんでしょうが、使い分けるにはちと面倒なんでこの際、二人と云うことにして貰いまして、その二人が扇屋にやって来たんですが。
そうして「お二人さんですからなるたけ静かなお部屋がよろしいかと」と女中に云われて通されたのが部屋の中でも川の流れに面した二階の部屋で。
そうこうしている内にお酒も届いてお品書きに目を通した男が
てな具合で差しつ差されつ杯を重ねているってえと
酔いつぶれて寝込んでしまった女狐を見届けると男は帳場に向かうってえと店の者に
それから半刻余りして料理屋の方でもそろそろ店終いと云うことになりまして、先程のお客さんを起こしに仲居が部屋を覗いてみるってえと、何と一匹の狐が正体をさらけ出して眠りこけてたってえもんだから仲居はすっかり仰天しちまって。それでも抜き足差し足で部屋を離れるてえと直ぐさま帳場に駆け込んで
てな訳で、階下から唐辛子をいぶした煙を炊いて部屋からあぶり出したところを皆して袋だたきにしてやろうと云う算段。女狐の方でも先も見えねえ位にいぶされたもんだからさすがに目を覚ましましてねえ。とは云っても酔いが覚めてねえもんだから未だ化けている積もりでして−ちょいとヤな店だねえ、よりによってあたしの嫌いなものをいぶしたりして。ちょいと止めておくれでないかい−などと仲居にでも頼む積もりで暢気に障子を開けたところを空かさず板長はじめ、店のもんが箒や棒っ切れを手にして皆して飛び込むと手当たり次第にポカポカ殴ったもんだから女狐の方でもさすがに進退窮まりましてイタチの最後っ屁ならぬ狐の最後っ屁を放ちましてねえ。その臭さいことといったらイタチに負けず劣らずでして皆して「臭せえ、臭せえ〜」と鼻を摘んでいる内に逃げられてしまいましてねえ。
そのてんやわんやの騒ぎの最中に帰って来たのが扇屋の旦那で。−おいおい、この騒ぎはいったい何ごとだね?−と訊かれて皆して事の次第を話したんですが、それを聞いた旦那は空かさず−お前さん達はとんでもないことをしておくれだね。この王子はお稲荷さんがあっての王子じゃないか。この扇屋はそのお稲荷さんにお参りする人があればこその身代。お稲荷さんの使いが狐であることはお前達も良く知っておろうに。その狐をよってたかって殴るとはどう云う了見なんだね、お前達は。今からでも遅くないからお稲荷さんのところへ詫びにいくぞ!−てなことになりまして。
一方、まんまと女狐を化かして喜び勇んで帰った男の方ですが、扇屋の折り詰めを持って知り合いの家を訪ねたんですが、土産話に花が咲くってえと、当然、狐との化かし合いに話しが及びまして。−おいおい、折り詰めはもう喰っちまったぜ。狐は執念深いって聞くから、いつ何時、狐に化かされるかも知れねえぞ。狐に祟られたりしたらてえへんだ。悪いことは云わねえ、おおごとにならねえ内に詫びに行った方がいいぞ−と云われたもんだから普段は暢気な男もやたら不安になって来ましてねえ、夜が明けるてえと重箱に牡丹餅を沢山詰めると王子にやって来たんですが、昨日までの様子とはがらりと違ってましてねえ。と云うのも昨日訪ねたときにはあちこちで狐の姿を見掛けたんですが、どこへいっちまったんだか狐のきの字も見つけられない有様で。と云うのも当節ではうっかり人間に姿でも見せようものならこてんぱんに殴られてしまうと、狐同士皆して昼間は穴から外へは出ぬように示し合わせてしまったようでして。男はそれでも牡丹餅を抱えては王子参りを続けていたんですが、四日目にしてようやく子狐の姿を見掛けて
包みを受け取ると子狐は母狐のいる穴へ戻るってえと痛みをこらえて蹲る母狐の前に差し出して
てなワケで母狐が包みを開けてみるってえと重箱からはうまそうなぼた餅が出て来ましてねえ、
それを見た子狐は盛んに欲しがるのですが、母狐の方は人間に化かされてさんざん痛い目にあったもんだから
およしよ、また化かされるといけないよ。馬の糞かも知れないじゃないか。
お後が宜しいようで‥‥‥
都内有数のお花見の名所として知られる飛鳥山公園ですが、その麓を流れる石神井川には古くから行楽に興ずる庶民の姿があったの。その地形から豊かな湧水を得て大小の滝が数多く点在し、風光明媚な景勝地を造りあげていたと云うのですが、残念ながら今では名主の滝公園などに僅かな名残りを偲ぶだけになってしまったの。それでも歴史を紐解けばそこには人々の生きた証が見えてくるの。中でも印象に残るのが装束榎を始めとした狐の逸話ね。落語の【王子の狐】にしても作り話しだと分かってはいても当時は今と違い、日々の生活の中にも物語のように優しい時間が流れていたような気がするの。いかがですか、うららかな春の一日を、緩やかな時の流れに身を任せながら石神井川の畔を歩いてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
〔 参考文献 〕
堀書店刊 安津素彦・梅田義彦監修 神道辞典
東京堂出版刊 朝倉治彦 他 共編 神話伝説辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説歴史散歩事典
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
新人物往来社刊 鎌倉室町人名事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
光文社刊 花山勝友監修 図解 仏像のすべて
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
吉川弘文館刊 国史大系 吾妻鏡
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
角川書店社刊 五来重著 仏教と民俗
角川書店社刊 室伏信助 他共著 有職故実 日本の古典
角川書店社刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版 江戸名所図会
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々 −多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々 −日本の神霊たちのプロフィール−
北区教育委員会刊「若一王子縁起」絵巻
北区教育委員会刊「若一王子縁起」絵巻−解説編−
立風書房社刊 名人名演 落語全集 第三巻 明治篇3
名著出版社刊 東京にふる里をつくる会編 北区の歴史
北区飛鳥山博物館刊 遠くと近くの熊野 中世熊野と北区展 図録
北区飛鳥山博物館刊 常設展示案内
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