以前、世界に一本しか無いという長勝院旗桜に惹かれて訪ねてみた志木市ですが、いざ足を向けてみると、旗桜の他にも気になる事蹟が数多くあることを知ったの。梅雨の晴れ間の一日、その志木市内をぶらり史蹟めぐりをしてみましたので紹介しますね。掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。
1. 宗岡小学校BS むねおかしょうがっこうばすてい 9:33着発
2. 志木市立郷土資料館 しきしりつきょうどしりょうかん 9:34着 10:32発
入口の門構えからして旧家のそれを思わせる佇まいですが、この資料館の建物は宗岡の内田家から寄贈された「離れ」を改築したもので、江戸末期に築造された建物であることからその歴史的価値を踏まえ、保存を兼ねたものになっているの。開館は昭和54年(1979)とのことですが、市内の各遺跡から出土した土器や石器をはじめとした考古資料に、宗岡地区の稲作に多大な貢献をした野火止用水や「いろは樋」関連の歴史資料に加え、江戸時代後期から昭和にかけて市内で使われた民俗資料などが展示されているの。入館料:無料よ、無料!
とりわけξ^_^ξのお薦めは、市の指定文化財が写真と共に解説されているコーナーがあることね。所在先に足を運んだからと云って、実物だけで何の説明も無い場合があったりするものよね。それが、この資料館に事前に立ち寄ることで解決出来てしまうの。それに、どこにどういったものがあるのかも一目瞭然よ。うれしいことに写真撮影もOKなの。
〔 長勝院の神鏡 〕 柏町にあった長勝院がまだ神仏混淆の時代に神霊として安置されていたものと思われます。素材は銅合金で、裏面には5羽の鶴が戯れる吉祥図が描かれています。また、江戸期の鏡師は「天下−出雲」などと国名を刻みましたが、この神鏡にも「天下−津田薩摩守家重(つださつまのかみいえしげ)」の銘が彫られており、おそらく江戸期の作と思われます。志木市立郷土資料館
〔 長勝院の版鐘 〕 元禄5年(1692)・志木市指定文化財
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館内の見学を終えて外に出てみると、敷地の一角に何やら屋外展示されているものがあるのを見つけたの。
最初は織機か何かの機械で、産業遺産かしら−と思い、近づいてみたのですが、いろは樋関連の遺構だったの。
それから、もう一つ。バスを降りてこの資料館に訪ね来るときに、道路脇に見えていた「 8.195m - 明治43年の洪水の最高水位 」の表示板ですが、敷地内に解説があったの。文末には「大水害の不安は解消されました」とはあるものの、自然はいつまた牙をむくとも限らず、災害に供えた心積もりだけは忘れてはいけないわね。徒らに恐怖心を煽る積もりは毛頭ありませんが。
3. 一里塚 いちりづか 10:35着発
4. 実蔵院 じつぞういん 10:40着 10:46発
当時の就学年齢の人口からすると、約600人に一校の割合だったの。But 幾ら何でもそんなに多くの校舎を直ぐには用意出来ないわよね。そこで寺院の講堂などが仮校舎として利用されたの。ここ宗岡地区ではこの実蔵院を仮校舎として明治7年(1874)7月に宗岡小学校が設立されているのですが、「字なんぞ読めんでも米ば作れっぺ」と声を荒げていた村人達にしたら、「子弟をして必ず學に從事せしめざるべからざるものなり」の太政官布は、まさに明治維新だったかも知れないわね。それとも宣戦布告(笑)に思えたかしら。
参道を進むと、左手に何やらいわれのあるらん石柱が立てられているのに目が留まったの。
墓塔で無ければ供養塔でも無さそうで、何かしらと思い、近づいてみたところ、鷹場を示す境杭だったの。
〔 御鷹場の境杭 〕 天正18年(1590)徳川家康は関東に入国まもなく江戸を中心に五里四方が幕府の御鷹場と定められました。寛永10年(1633)には家光は鷹場の外五里の地域を水戸・紀伊・尾張御三家のお鷹場と定められました。尾張家の鷹場は多摩川・新座・入間の三郡に跨る広大な地域で、天保13年(1842)に上宗岡村他185ヶ村が含まれ、その地域を示す杭は84本建てられました。現在30余本確認出来ます。此の杭は享保15年(1730)に造られ、羽根倉(上宗岡)に存在したものです。左側面には一時他に転用された痕跡が認められます。鷹場内には鷹場法度があり、その内
「左側面には一時他に転用された痕跡が認められます」とありますが、痕跡どころか大きな加工細工跡があるの。何に使われていたのかしらね。これが江戸時代のことだったら大変なことになっていたハズよね。「おのれ、お上を恐れぬ所業、直ちに引っ捕らえて打ち首獄門にいたせ!」と、なっていたかも知れないわね。
5. 天神社 てんじんしゃ 10:56着 11:04発
〔 天神社 〕 祭神は菅原道真公、配祀神として春日大神と八幡大神がそれぞれ祀られています。創立年代は不詳ですが、一説では江戸の湯島天神を分祠したものと云われており、一方では近世初期にこの地を支配し、後に代々名主役を務めていた木下氏の先祖に当たる山口大膳が山口(現・所沢市)から来住した際に出身地の氏神を分祀してきたと云う説もあって、定説はありません。この神社は、昔から字北美町(現在の中宗岡1〜2丁目付近)と字南界駅(現在の中宗岡4〜5丁目付近)の鎮守社として崇敬されてきました。平成7年(1995)1月30日 志木市教育委員会
一、所在地 二、祭神 三、沿革 四、本殿形式 五、祭事 |
志木市中宗岡1-4-36 菅原道真 配祀神:春日大神・八幡大神 流造(覆屋中にあり) 寛永3年(1626)江戸湯島天神を分祠したと伝えられている。 明治5年(1872)村社に列せられ、昭和3年(1928)社殿新築 昭和37年(1962)拝殿・幣殿・覆殿改築。社務所 昭和46年(1971)新築 元旦祭(1/1)、祈念祭(2月)、例大祭(4/25)、祇園祭(7月) |
六、その他 |
新穀感謝祭・七五三合同祈願(11月)大祓(12/31-1/1) 氏 子:150戸 摂 社:伊都岐島神社・稲荷神社・八坂神社・阿夫利神社・水神社・大杉神社 保存資料:絵馬 |
ξ^_^ξが訪ねたときには、社務所に「祝 天神社創建390周年」と併せて「祝 志木市無形民俗文化財 宿組の囃子」と書かれた横断幕が掲げられていましたが、気になるのが後者ね。 |
6. いろは樋の跡 いろはどいのあと 11:08着 11:14発
架設後に幾度か改修・改造されながら、宗岡地区に多大の恩恵を与えてくれた「いろは樋」も、昭和40年(1965)に市場地内の野火止用水(伊豆殿堀)が下水路として暗渠に改造されたために、その機能と歴史的な役割に終止符が打たれました。尚、このいろは樋に使用された樋の一部が現在も市立郷土資料館に展示されています。平成10年(1998)3月1日 志木市教育委員会
交番を過ぎて、いろは橋に差し掛かる道路脇に小さな広場があり、鉄管がゴロンと(笑)置かれていたので、これも先程資料館で屋外展示されていたいろは樋に使われていた鉄管かしら−と思ったのですが、やはり、その鉄管だったの。でも、いろは樋に最初から鉄管が使われていた訳ではないわよね。ちょっと冗長になりますが、資料館の解説を紹介しておきますね。
※白井武左衛門は、正保元年(1644)から元禄7年(1694)まで上宗岡地区と下宗岡地区を三代にわたって知行した旗本・岡部氏の家老で、その頃は、多分江戸の屋敷に在住していたはずの主君に代わり、宗岡地区に常在して村内の管理にあたったものと思われる。武左衛門の最大の功績は、灌漑用水に恵まれていなかった宗岡地区に、新河岸川に空しく落ちていた野火止用水を「いろは樋(どい)」と云う巨樋(きょひ)を寛文2年(1662)に架設することによって導いたことである。その他、北に接する南畑(現・富士見市)との間に670余間の佃堤(つくだづつみ)を築設して宗岡地区への洪水の流入を防いだり、大水が出た時に逆流する荒川の水から同地区の最南端部に158間の新田場堤(しんでんばつつみ)を設けるなどして、村民の生活を守るために最大限の努力を惜しまなかった。武左衛門によって大きな恩恵を受けた村民の感謝の念はその後も長く続き、文化10年(1813)には今は廃寺になっている観音寺境内に供養塔が建てられた。下宗岡の氷川神社境内に建立されている頌徳碑と治水碑も、村民が感謝の気持ちを表すため、明治末期に相次いで建てたものである。志木市立郷土資料館
文末にある、旧観音寺境内( 下宗岡2-12 )に建つ白井武左衛門、並びに下ノ氷川神社( 下宗岡4-7 )に建つ頌徳碑と治水碑の見学は、今回の散策コースから外れることから未体験で終えていますので、御了承下さいね。
〔 野火止用水を流した鉄管 〕 野火止用水を本町側の大桝から中宗岡側の大桝に流すために、新河岸川の川底に敷設してあった鋳物製の鉄管である。太い2本の管の内の〔 明治二六☆ 〕と刻まれた管は、日本で初めて設立された日本鋳鉄合資会社が初期に製作した鉄管であり、〔 明治三一CIE GLE LIEGE 〕と刻まれたもう1本の管は、ベルギーからの輸入品で、リエージ市水道鉄管会社が製作したもの。内径は50cm、1本の長さは約4mあるが、展示するために短く切ってある。管を繋いだ部分は、麻の繊維を詰め、鉛を打ち込んで締め付けを行い、水が漏れないようにしてある。
細い方の管〔 明治三〇 〕は内径25cmで、太い管の中を水が流れる時に溜まる空気を抜くためのものである。その他、東京市( 現在の東京都 )や横浜市が水道事業を始めた際に使用されたものと同種と思われる〔 ☆ 〕〔 YWW横水 〕といった、東京や横浜水道の記号を刻んだ管も発見されている。志木市教育委員会 ☆ですが、正しい記号は現地にて御確認下さいね。
7. いろは橋 いろはばし 11:15着 11:16発
〔 宗岡閘門と洗堰(通称・いろは水門)〕 大正10年(1921)から、水害対策を主眼として新河岸川の改修が行われ、舟連の便を図るために昭和4年(1929)に宗岡閘門と洗堰が完成した。「埼玉のパナマ運河」と云われ、閘門は通舟幅6m、閘室の長さ26mで、前後に各2枚の閘扉があり人力で開閉し、1回の通舟操作時間は約20分であった。水遊びや魚釣りなど人々の憩いの場所としても親しまれた。昭和初期には、輸送の中心は鉄道に移り、その役割を終え、水流の妨げとなることから、昭和55年(1980)に撤去された。埼玉県朝霞県土整備事務所
※写真は昭和28年(1953)頃の現在のいろは橋付近にあった宗岡閘門(左)と洗堰(右)の様子
8. 旧村山快哉堂 きゅうむらやまかいさいどう 11:18着 12:12発
〔 伝統的建造物・旧村山快哉堂 〕 旧村山快哉堂は、明治10年(1877)に建築された木造二階建て土蔵造りの店蔵(みせぐら)で、本町通り( 本町三丁目 )に面して屋敷を構え、「中風根切薬(ちゅうふうねぎりやく)」・「分利膏(ぶんりこう)」・「正齋湯(しょうさいとう)」などの各種家傳薬を製造、販売する薬店でした。村山家は、創業以来、平成5年(1993)まで七代にわたって薬屋業を営んでいました。平成6年(1994)に村山家が建物を取り壊すことになったため、市教育委員会では、所有者(当主・村山源博氏)から寄贈を受け、平成7年(1995)に解体後、4年の保存期間を経て、いろは親水公園中州ゾーンに約2年間の歳月をかけ、移築復元したものです。
この店蔵の建築年代は、欅の通し柱に墨書されていた「明治十年丑十一月十二日建之」と云う文字の発見により確認されました。当初は、白漆喰の壁でしたが、明治後期頃黒漆喰仕上げに改修されています。建造物としては、店蔵が座売り形式の商形態を残している点や、1階部分の中央に吹き抜けがあること、また、鉢巻の二段構成やムシコ窓及び開口部の枠回りなど、川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成が見られることからも貴重な文化財と云えます。平成13年(2001)3月27日 志木市教育委員会
ごめんないさいね。この旧村山快哉堂を訪ねたときにはボランティア職員の方がいらっしゃって、「暑い中、ごくろうさま。今、冷たいお茶でも入れますから、急がないようでしたら、ゆっくりしていって下さい」と、お誘いを受けてしまったの。それを機に、志木市の裏話を含めての世間話に花を咲かせてしまい、ふと気付いたときには時計の針は一時間近く経っていて。と云うことで、店蔵内の見学はせずに慌ててその場を辞しましたので、詳しい御案内が出来ないの。見学時間にしても、お茶(笑)さえしなければ10分程度で済むハズですので、追体験される場合には調整願いますね。But ξ^_^ξとしては地元の方との交流もお薦めよ。
9. 栄橋 さかえばし 12:13着 12:14発
引又河岸には、いつの時代にも二軒乃至それ以上の舟問屋が営業していたが、新河岸川の改修により、昭和6年(1931)には廃業に至った。県では、平成23年(2011)に新河岸川舟運の復活のシンボルとして、水辺再生100プラン推進事業でいろは橋下流に船着場を建設し、栄橋下流に引又河岸を復元した。埼玉県朝霞県土整備事務所
10. 下の水車跡 しものすいしゃあと 12:17着発
この水車は、かなり大規模な水車であったらしく、杵の数が14本もあり、玉川上水筋では最も大きい水車でした。尚、この水車は文政12年(1829)に焼失するまでは、この辺りにありましたが、弘化4年(1847)の再建以後は、台地下の駐車場の最も奥の場所で操業されていました。平成7年(1995)10月20日 志木市教育委員会
11. 朝日屋原薬局 あさひやはらやっきょく 12:19着 12:20発
川越の蔵造りの商家を思わせる佇まいに文化財としての保存がなされていることが窺えたのですが、辺りを見廻しても何の説明も無く、代わりに「登録有形文化財 第11-0049〜0055号 この建造物は貴重な国民的財産です。文化庁」と小さく案内されていたの。国の登録有形文化財になる位なんだもの、何か特別な建物なのよね、きっと−と気になり、帰宅後に調べてみたの。文化庁の 国指定文化財等DB に依ると、通りからは店舗(主屋)しか見えませんが、店舗のみならず、土蔵・物置・洋館・離れに加え、門や塀までもが、それぞれ登録有形文化財になっていたの。
更に、東雲不動尊祠なんて建物までもが登録有形文化財になっているの。不動尊とあるのでお不動さま( 不動明王 )を祀る祠堂よね。 同DB には、それぞれの建物の文化財としての意義が、写真と共に掲載されていますので、御参照下さいね。因みに、店蔵の左手に建てられていた石標には「與野町へ貮里六町壱間壱尺 大和田町へ三拾五町拾八間 浦和町へ二里拾三町六間 志木町」などとあるの。志木町とあることから明治22年(1889)以降に建てられたものね。
建物の前に駐車してある車との新旧のギャップが面白いわね。
But 不思議と違和感が無いの。と思うのは、ξ^_^ξだけ?
12. 敷島神社 しきしまじんじゃ 12:26着 13:36発
田子山富士塚の諸元
田子山富士は全体的に丸みを帯びているので円形に見えるけど、実際には方形の築山なの。ここまでの規模のものではなくても、神社の境内で富士塚を見掛けることがありますが、何でそんなもの(笑)が造られているのか、余り気にせずに済ませてしまっている方も多いと思うの。そんな方のために少しお話させて下さいね。富士塚は、その名の如く、富士山を模したもので、富士山を霊地として崇める富士信仰に由来するの。キリスト教やユダヤ教のエルサレム巡礼ではないけれど、実際の富士登山が本来の姿なのですが、健康上の理由や経済的な事由などで誰もが簡単に出来る訳ではないわよね。そこで代理登山や、富士塚に代参することで信仰の証としたの。勿論、実際に登山する場合もあり、富士塚にある石碑には富士山詣を記念して献納されたものも多くあるの。その富士山信仰の総本山が富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)で、御神体は云うまでもなく富士山よね。
塚は、高さ12m、樹木や岩石の配置に工夫が施されており、富士山に模して登山道・人穴・胎内・烏帽子岩・釈迦割石や富士山から運んだ溶岩などが置かれ、頂上の祠の中には木花咲耶姫命が祀られています。また、塚の麓には浅間神社の祠があり、承海の逆修板碑が祀られています。平成2年(1990)3月30日 志木市教育委員会
〔 田子山富士塚の築造 〕 田子山富士が造られるきっかけとなったのは、引又宿(志本市本町地区に含まれる)で醤油醸造業を営む高須庄吉が田子山塚で、14世紀中頃の泥に埋もれた古い板碑を発見したことによります。この場所には、以前から今より低い古墳のような塚があり、これを田子山塚と呼んでいたようです。また、明治41年(1908)に近隣の神社を合祀して敷島神社が創設される以前、ここには富士を祭る浅間神社がありました。もしかすると、その呼び名はともあれ、田子山塚は富士塚的なものだったのかも知れません。田子山富士塚は、なんら必然性のないところに突然造られたわけではないのです。
その光明真言ですが、漢字への音訳版(文献等に依り異なる漢字が宛てられている場合あり)を紹介しますね。エッ、そんなことより、その意味を教えろ−ですか?それは訊く相手を間違えているわ。But それではあんまりよね。そこで少しだけ補足しておきますね。真言の中にある尾盧左曩 ( vairocana ) と云うのが毘盧遮那仏こと、大日如来のことで、光明真言の中では一番のキーワードになるの。それを元に、意訳を通り越して暴力的に光明真言を訳すと「至上の仏たる大日如来よ、その遍く燦然と輝く五色の智慧の光で我が身を照らせよ」と云ったところかしら。ちゃんとした光明真言の意味が知りたい方は Google で検索してみて下さいね。但し、知恵熱を出さないように、気をつけて下さいね。
唵阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麼抳 鉢曇摩 忸娑羅 波羅波利多耶 吽
おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん
※ この光明真言を唱えることで罪障消滅・福楽長寿・極楽往生が出来るとされるの。
逆修塔の主・十瀧房承海(じゅうりゅうぼうじょうかい)ですが、【敷島神社縁起】には具体的なことが記されているの。敷島神社自体の創立が、実は比較的新しい明治期のことで、あくまでも「伝に曰く」の断り書き付きなので、記されていることが必ずしも史実と云うわけではないのですが、ちょっと面白いの。時代は南北朝期のことで、世はうち続く戦乱で疲弊し、万民は困窮の極みに達していたの。そんな中「大和国笠置山の僧梨耶承海十瀧房深く之を慨き、心願を起し、天下大平国家安穏を神仏に祈願の為、本邦名山駿河国富嶽に参じ、白糸滝に専心苦行を重ぬる事壱千日、願満ちて、尚諸国の霊山に詣らんと廻国の途次此地に来れり。天台宗鈴甕山東光寺の庵室に宿し、淹留中偶々病魔の襲ふ所となり、病を養う事旬日、病癒ゆるを以て地を卜し、逆修の石碑を建立し、後幾何もなく庵室を辞し、再び廻国の途に上れりと云ふ」とあるの。因みに、承海が仮寓したと云う東光寺ですが、現在は既に廃寺となっているの。後程訪ねる寳幢寺ですが、当初はその東光寺跡に建てられていたみたいね。承海は寳幢寺の僧侶だったとする説もあるのですが、その辺りがごちゃ混ぜになっているみたいね。
その結果、ホスセリノミコト(海幸彦)、ホアカリノミコト(火明命)、アマツヒコホホデミノミコト(山幸彦)の3人の男子が生まれました。このように、木花開耶姫命は命を賭けて身の潔白を晴らした女性として崇敬され、また、安産の神、蚕の神とされてきましたが、富士の祭神としての根拠が、はっきりしないところがあります。しかし、わが身は死したとはいえ、火の中で無事お産をなし遂げたのは、火を制する力をもったからです。そんなところから、嘗て火山であった富士の火の力を押さえるための神とされたのかも知れません。秀麗優美な富士の姿が、美しい花を咲かせる女性の姿にふさわしく、それが神話の木花開耶姫命と結びついたものと考えられます。志木市立郷土資料館
〔 経ヶ嶽玉垣の屋根棟と門扉 〕 元は経ヶ嶽玉垣の入口部分にあった屋根棟と門扉です。日蓮宗の寺紋である「井桁に橘( いげたにたちばな )」がついています。門扉に描かれている睡蓮は、流水の中に、蕾・開花したもの・花が終わったもの−が描かれ、全ては移ろいゆくことを表現しています。
13. 旧西川家潜り門 きゅうにしかわけくぐりもん 13:52着 13:53発
14. いろは樋のモニュメント いろはどいのもにゅめんと 13:54着 13:58発
市場坂上交差点にはもう一つ、いろは樋の実物大の模型が屋外展示されていたの。加えて、当時の様子を示したジオラマ模型も展示ケースに収められ、自由に見ることが出来るの。文字だけの説明だと今ひとつスケール感がつかめないところがあるけど、これなら一目瞭然ね。
※模型は縦組ですが、実際には横組であったと推定されます。
〔 いろは樋の仕組み 〕 いろは樋の構造は、市場坂上に木箱の小桝を設け、その小桝に一度溜めた野火止用水を地下に埋めた木製の樋( 埋樋:うめどい )によって引又河岸そばの木箱・大桝に送っていました。埋桶から送られた水は、坂を落下する水勢によって大桝の底部の口から流れ込み、大桝を満たすと、満たされた水が大桝の反対側上部の口に繋がれていた掛樋( かけひ:水道専用橋 )を流れて、川の上を渡り、対岸の宗岡側の精進場( 現・いろは橋交番付近 )に送られていました。このような掛樋は、近隣では神田上水を神田川の上に通すために設けられていた掛樋( 現・東京都文京区本郷周辺にあった水道橋の語源となった掛樋 )などがありましたが、水を掛樋で渡すと云う土木技術は、江戸時代に地域の発展を導いた先人の偉業として注目されています。尚、当時のいろは樋の様子は、天保15年(1844)に作成された【いろは樋絵図】( 市指定文化財 )などにより窺い知ることが出来ます。
※展示ケース内のジオラマ模型は、天保15年(1844)の「いろは樋絵図」( 内田太郎家所蔵 )に基づいて周辺の引又河岸の様子などを含めていろは樋の全長を縮尺約1/75で再現したものです。志木市教育委員会・埼玉県浦和土木事務所
15. 東明寺 とうみょうじ 14:04着 14:12発
〔 東明寺の庚申供養地蔵 〕 寛文7年(1667)2月に造立された地蔵像の像塔で、光背に「庚申供養也 武刕新倉郡蟇俣村」と刻まれています。引又村( 現在の本町地区付近 )にこの「蟇俣(ひきまた)」の字が使われたのは、当時の新河岸川と柳瀬川の合流地点付近の地形が、蟇蛙(ひきがえる)のはいつくばった形に似ていたところからきているとも云われています。この庚申供養像は「蟇俣」の字が使われている市内唯一の石造遺物であり、大変史料的価値の高いものです。平成4年(1992)3月30日 志木市教育委員会
本堂の右手に無縫塔や石仏が並び立つ一角がありますが、一番背丈があるのが志木市指定文化財〔 平成3年(1991)3月29日指定 〕の「東明寺の庚申供養地蔵」なの。更に右手には六地蔵が立ちますが、愛らしい表情のお地蔵さま達よ。お地蔵さまと云うと、普通は赤い帽子によだれ掛けが定番ですが、夏の到来を受けて涼しげな装いに衣替えしていたの。近隣に住んでいらっしゃる有縁の方に依るものでしょうね、きっと。何気ない光景に、心がほっこりとさせられたの。
16. 寳幢寺 ほうどうじ 14:17着 14:41発
しかし、いずれの説をとるにせよ、柏の城落城後に現在の地に建立、または移転されたのではないかと推測されています。【風土記稿】に依れば、三代将軍・家光が鷹狩りの際休息したのが機縁となって、慶安元年(1648)に御朱印地10石を賜り、また、境内が狭いと云って門前に一町歩加増してくれたとの記述がみえます。更に「此辺にての大寺にて、末寺も三ヶ寺あり」とあり、当時よりこの辺でも大きな寺院であったと云うことが分かります。尚、この寺には「お地蔵さんとカッパ」と云う伝説や、「ほっぺたの黒いお地蔵さん」と云う伝説などが伝わっています。平成7年(1995)10月20日 志木市教育委員会
ここで、その【風土記稿】の記述を引いておきますね。
寳幢寺 除地 二町四方 村の西の方にあり 新義眞言宗 山城國醍醐三寳院末山なり 開闢の年代は詳ならざれども 古き寺なりと云傳ふ 寺領10石を賜ふ 境内に立る先住の石碑に 権大僧都法印承永は 寛文10年(1670)3月24日示寂の由を刻し 其餘ふるき五輪の石塔あまたあり みな承永より先の住持の碑と見ゆれども 文字なければ年代を考るによしなし 昔大猷院殿此邊へ御鷹狩の時は かならず當寺へわたらせ玉ひければ 時の住僧謁し奉れり 其後しばしば拜し奉りける かくてぞ村内10石の地御寄附の御朱印を賜ひしとなん 又ある日御遊歴ありしに 境内せはきよし仰ありて 門前の地一町を加へ賜はりし 今に至りて大門の前に 又木戸を設けたる所 これのちに賜はりし地の界なりと寺僧いへり かゝりければ當時は 寺院もことにゝぎはひしと見えしが 今はをとろへはてゝ堂宇の再建だに果すことを得ず 寂莫たる野寺なり されど此邊にての大寺にて 末寺も三ヶ寺あり
表門 裏門 本堂 鐘楼 |
入口より大門の間一町餘 南に向ひてたつ 表門の並にありて 東の方によれり 天明6年(1786)火災にかゝりて後 いまだ再興の事に及ばず 纔の假殿を建て 本尊地藏尊を安す 本堂の礎石は假殿の西の方に殘れり 本堂礎石の前にあり 古鐘は慶安辛酉※法印承秀住職の時鋳たるよしを刻したれば 今の鐘は後に改め鋳しことは勿論なれど 年月を勒せざれば 何の頃成しや知るべからず |
【河童と和尚】のお話は♪坊やよい子だ、ねんねしな♪の歌詞でお馴染みの「まんが日本昔ばなし」でも紹介されていたような気がするの(未確認モード)ですが、実は、そのお話の舞台が志木だとは知らずにいたの。その【河童と和尚】のお話とは別に、地元では【お地蔵さんとカッパ】のお話も語り継がれているの。和尚さんがお地蔵さんに替わり、お話の展開に異なる部分もあるのですが、ひとづてに語り継がれていくうちに少しずつ形を変えていったものでしょうね。 長勝院旗桜 の頁でも紹介していますので、ご記憶の方もいらっしゃるかも知れませんが、再掲しますのでお楽しみ下さいね。
むか〜し、昔のお話じゃけんども、寳幢寺にはお地蔵さんがまつられておったんじゃが、雨模様のある日のことじゃったそうな。雨風の音に混じって、かすかに馬の啼き声がどこからか聞こえて来たそうじゃ。尋常な啼き声とも思えず、一向に啼き止む様子もないので気になったお地蔵さんは、馬の啼き声を辿ってみたそうじゃ。果たして柳瀬川の畔まで来ると、川の流れの中で一頭の馬が脚を踏ん張って啼いておったそうじゃ。さては泥にでもはまってしまったものか−と思うたお地蔵さんが馬に近づいてみると、何と、こどもの河童が馬の尻尾を引っ張りながら馬を川の中へ引きずり込もうとしておったそうじゃ。それを見とがめたお地蔵さんは河童の悪戯をきつく諫めて、人間の、日々の暮らしの中で馬がどれほど大事にされているかをこんこんと説いてやったそうじゃ。お地蔵さんのことばにすっかり改心した河童は許されて川の流れの中に消えていったそうじゃが、その後、寳幢寺の厨房には獲ったばかりの鯉や鮒などの川魚が時々置かれるようになってのお、誰が届けてくれたものか、その姿を見た者も誰一人おらんでのお、きっとお地蔵さんに諫められて改心した河童が届けてくれておるんじゃろう−と云われるようになったそうじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども。
紹介したお話の他にも地元では【ほっぺたの黒いお地蔵さん】のお話も語り継がれているの。
勿論、そのお地蔵さんは寳幢寺の本尊とされる地蔵菩薩のことですが、面白いので、お話の序でに紹介してみますね。
この寳幢寺には今でもお地蔵さんがまつられておるんじゃが、今から話すのは、そのお地蔵さんに纏わるお話じゃ。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども、宮戸村(みやどむら)※に住む若い者のところに、たいそうきれいな嫁さんが嫁いできたと評判になってのお、近隣の村のことじゃで、この辺りでも噂されるようになってのお。そんなある日のことじゃった。村人達が噂するのを黙って聞いておったお地蔵さんじゃったが、そんなにきれいな嫁さんなら、自分もこの目で一度見てみたいものじゃな−と思うようになったそうじゃ。そして、とうとう我慢出来なくなったお地蔵さんは宮戸村へと出掛けていったそうじゃ。果たしてその嫁さんの家を訪ねてみると、お歯黒を塗っている最中じゃった。しばらくは庭先からその様子を眺めておったお地蔵さんじゃったが、元々悪戯好きじゃったものだから、こっそりと家に上がり込むと、嫁さんをからかう積もりで、手を伸ばしてちょっと小突いてみたそうじゃ。
びっくりした嫁さんは、とっさに手にしていた房楊子(ふさようじ)でその手を払いのけたんじゃが、それがちょうどお地蔵さんのほっぺたに当たってしまってのお、お地蔵さんは唖然とする嫁さんを尻目に一目散にその場を逃げ出したそうじゃ。そうして痛むほっぺたを押さえながら寺に逃げ還ったお地蔵さんじゃったが、右のほっぺたにはお歯黒の墨がべったりとついておってのお、お地蔵さんも墨を消そうとしてみたんじゃが仲々消えずに、そのまま墨跡になって残ってしまったそうじゃ。そんなことがあってからと云うもの、この寳幢寺のお地蔵さんは厨子に閉じこもったまま、村人の前にも姿を見せることはなくなってしまったと云うことじゃ。お地蔵さんも恥ずかしくて顔を見せられなくなってしまったんじゃろうのお、きっと。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども。
※宮戸村:現在の朝霞市宮戸
いかがでしたか、お楽しみ頂けたかしら? But お地蔵さんのお話で良かったわね。
これが和尚さんのお話だと、ちょっと困ったお話になるわよね(笑)。
17. 馬頭観音文字塔 ばとうかんのんもじとう 14:42着 14:43発
〔 寳幢寺前の馬頭観音文字塔 〕 文政3年(1820)正月に造立され、正面には「馬頭観世音」、左側面には世話人として館村高野萬治郎、引又□三上彌惣治、館村高野三之烝、同村同勘五郎と云う名が刻まれており、館村の高野氏と引又の三上氏とで造立されたことが分かります。この馬頭観音は、引又宿から大和田へ向かう街道沿いに建てられており、当時、荷物の運搬に使われた馬の供養のために建てられたものと思われます。石仏の規模は、台座も含めると、高さが2.04mもあり、市内では最大のものです。平成3年(1991)3月30日 志木市教育委員会
民家の庭先の一角を間借りするかのようにしてあるのがこの馬頭観音文字塔で、馬の供養塔として建てられたものなの。馬頭観音はその名の如く、馬頭を戴き忿怒の形相をするのですが、その強面な像容は余り日本人には好まれなかったみたいね。加えて、古代インド神話の中で、天輪王が宝馬に跨がり須弥山を疾駆するかのような勢いで衆生摂化するさまを現したものだと云ってみたところで、庶民にすれば何のこっちゃ?−よね。But その馬頭観音の馬と農耕馬が単純に結びつけられて、馬の守り神・農耕の神として庶民の間で崇められるようになるの。今とは違い、当時はトラクターなどの耕作機械があったわけではないので、馬は大事な働き手。飼馬が丈夫でいてくれることが貧しい日々の暮らしの支えだったの。人々は、この供養塔の前で飼馬の働きに感謝&合掌していたのでしょうね、きっと。
18. 舘氷川神社 たてひかわじんじゃ 14:48着 14:55発
この舘氷川神社の創立ですが、【風土記稿】にも「氷川社 村の中央にあり 本社は宮作にて上屋あり 三間に二間半 前に拜殿あり二間に三間 禮拜殿の三字を扁す 拜殿の前を距こと三十間許にして鳥居を建つ 鎭座の年代は知らざれども 古き社なりと云 村内寳幢寺持」とあるだけで、委細不明のようね。それを良いことに(笑)、紹介した由来記を更に遡る逸話も残されているの。それが【舘氷川神社と椋(むく)の木】のお話で、当社は蝦夷征伐の際に当地に立ち寄った坂上田村麻呂が創建したものだと伝えられているの。伝説の域を出ないものですが、知らぬ土地の咄しの面白さ−と云うことで紹介してみますのでお楽しみ下さいね。
とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども、延暦年間(782-806)と云うから、平安時代初め頃のことじゃな。坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が天皇の命を受けて蝦夷征伐に向かう際に、この武蔵野に差し掛かったときのことじゃった。地元の賊徒に襲われ合戦になってしまってのお、地理も地勢も不慣れなことから田村麻呂の軍勢は劣勢となり、遂には敵勢に囲まれてしまったそうじゃ。食料もつき始め、苦戦を強いられることになった田村麻呂じゃったが、思い立って武蔵国一ノ宮として知られる大宮氷川神社に詣でて戦勝祈願をしたそうじゃ。その帰り道のことじゃった。実が鈴なりになった椋(むく)の木を見つけたそうじゃ。果たして、その椋の木の実を兵士に食べさせたところ皆して勇気百倍、見事、賊を退散させることが出来たそうじゃ。これは、他ならぬ氷川神社の加護の賜物−と、その神威に感謝した田村麻呂は椋の木の傍らに祠を建てて神霊をお祀りしたそうじゃ。それがこの舘氷川神社の始まりだと云うことじゃ。今では伐採されて無くなってしもうたが、境内にあった椋の木もそのときのものだと云うことじゃ。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども。
この他にも、奉賛会の方が建てた由来記にもあるように、藤原長勝が貞観年間(859-877)に勧請したとする説や、久安5年(1149)に新座郡々司の高野大膳亮師之(たかのたいぜんのすけもろゆき)が分祠&勧請したと云う説が伝えられているの。また、この舘氷川神社は「柏の城」の南東に位置することから、室町期には「柏の城」の守護神としての役割も担っていたみたいね。為政者の意を受けて神さまもその姿を変えざるを得なかったと云うことのようですが、明治40年(1907)に神社統合政策を受けて近隣15社が合祀され、現在は地域の総鎮守になっているの。
郷土資料館で境内に建つ「舘氷川神社の図像板碑」の写真を見ていたこともあり、敷地内のどこかに建てられているハズと信じ込んでいたξ^_^ξはその板碑を探してウロウロしていたのですが、社殿の左手に大きな石柱が立てられているのに目が留まったの。残念ながら「志木市指定文化財 舘氷川神社修復記念碑 平成7年(1995)1月5日指定 志木市教育委員会」とあり、目的の図像板碑ではなかったのですが、実は、この石碑にはとんでもない事実の証拠が刻まれていることが分かったの。説明には、確かに「現在の志木及びその周辺では」の断り書きがあるのですが、「江戸時代でも殆どの一般庶民が名字を持っていたらしいと云うことが分かります」と云う衝撃の事実。それまでのξ^_^ξの脳味噌と云えば、江戸時代は一般庶民の名字帯刀が許されない時代−として完璧なまでに洗脳されていたの。でも、何故、志木では一般庶民までもが名字を持つことが出来たのかしらね。
〔 舘氷川神社の図像板碑 〕 市内唯一の図像板碑で、輝く光背を負い、雲に乗った蓮台上の阿弥陀如来が来迎する姿が刻まれている。蓮台の下には三具足(祭壇に布を掛け、中央に香炉、向かって右に燭台、左に花瓶を配す)が刻まれ、その下には、この板碑が造立された文明18年(1486)10月23日の日付が見える。三具足の上には、夜念仏供養の文字が僅かに読めるが、その周りの農民の名と思われる文字は磨滅して読むことが出来ない。おそらく後世になって、図像の上部に「正八幡大神」の文字を刻んだ時に、意図的に削り取ったものと思われる。この板碑は、元は志木第三小学校の校地内にあった城山八幡社の御神体として祀られていたものですが、城山八幡社が廃社されたことにより、氷川神社に移されたものである。平成元年(1989)9月30日 志木市教育委員会
実は、この舘氷川神社でのξ^_^ξの一番の目的がこの図像板碑との接近遭遇だったの。残念ながら見つけられずに終えてしまいましたので、現在は、社殿内に収蔵されるようになったのかも知れないわね。その図像板碑ですが、鮮明な画像が気になる方は akisinogawa さんの 板碑探訪記 に掲載されていますので、御参照下さいね。
【風土記稿】には「八幡社 城山にある故に土人は城山八幡と云 神体とてひをくものは念仏供養の石碑にて 地蔵の立像を彫り 其の下に文明十八年二十三日と刻し 左右に供養せしものゝの名を記せり 地蔵の像いかにも古雅にして殊勝なるゆへに 領主より勧請して八幡に祝ひ 小祠をたてゝ此山の鎮護とす 村内長勝院持」とあるの。記述では地蔵を主尊とするとありますが、阿弥陀如来の間違いで、23日の日付があることから、二十三夜講と夜念仏講が習合された夜念仏結衆板碑になるの。二十三夜講は月待ちの一つで、月齢23日の夜に仏堂などに集まり、共に飲食しながら月の出を待ち、月を拝む宗教行事なの。その二十三夜講では勢至菩薩を主尊として祀るのが一般的なのですが、夜念仏講との兼ね合いから阿弥陀如来が彫像されたのかも知れないわね。
ここで、ちょっと気になったのが【風土記稿】の「領主より勧請して八幡に祝ひ」の記述なの。領主より勧請するなんて何か変よね、何かの誤りじゃないのかしら−と思ったの。But 調べてみると決して誤りじゃなかったの。その訳はこの城山八幡の開創縁起に由来するのですが、元和年中(1615-24)、当時この辺りの地頭を務めていた山中与五兵衛の夢枕に八幡神が現れると、社殿を建立するようにとのお告げがあり、その意を受けて正保2年(1645)に八幡社が創建されたの。そんなことから以後は修築などの費用は全て領主の負担で行われる習わしになっていたのだとか。と云う訳で、歴代領主が管掌&崇敬する八幡社から移譲・遷座されたので、領主より勧請云々の表現になったのでしょうね、きっと。若し、異なる理由からだとしたらゴメンナサイ。m(_ _)m
19. 行屋稲荷神社 ぎょうやいなりじんじゃ 15:05着 15:10発
舘氷川神社の次に足を向けたのがこの行屋稲荷神社ですが、一面の芝生に囲まれてある社殿なんて珍しいわよね。加えて、鳥居の前に建てられている石柱の文様に御注目下さいね、龍が彫り込まれているのですが、精巧な細工で、他ではあまり見掛けないものね。社殿にしても、小さいながらも拝殿と本殿が分かれてあるなど、ちょっと変わったお稲荷さんよ。その社殿右手には鉄製の不動明王像を祀る不動堂が建てられていたの。その不動明王像には「汗かき不動尊」のお話が伝えられているの。
そうして宮原家では益々信仰を深めていったと云うことじゃが、その鉄製のお不動さまには不思議なことが起こるようになってのお、源右衛門の子・與左衛門が名主を辞めさせられたときも、また、その子供の延勝が病に臥したときも、全身に汗をかいておったそうじゃ。それからと云うもの、このお不動さまは「汗かき不動」と呼ばれるようになってのお、その後もお不動さまが汗をかくと決まって宮原家では悪い事が起きるので、延勝の子・仲右衛門はとうとうお不動さまを厨子の中に封じ込めてしまったそうじゃ。それからと云うもの、宮原家では何事も起こらなくなったと云うことじゃ。鉄製のお不動さまが不吉の相を現すと思われてしまったようじゃが、鉄で造られていることから季節の変わり目などで水滴がつくことがあったようじゃのお。とんと、むか〜し、昔のお話じゃけんども。
それにしても鉄製の不動明王像とは。源右衛門さんは鉄製なら容易に盗まれる心配も無いだろうと考えたのかしらね。この行屋稲荷神社の敷地に接して宮原家の墓地がありましたが、科学的な知識の乏しかった当時のことですので、仲右衛門さんの行動を一概に責めるわけにもいきませんが、今は納得の上で草葉の陰から信仰を寄せてくれているかも知れないわね。その鉄製の不動明王像が安置される不動堂の背後には志木市の文化財に指定される「行屋稲荷の庚申塔」があるの。
〔 行屋稲荷の庚申塔 〕 この庚申塔は、庚申講と云う庚申待を行う信仰集団によって建てられたものである。庚申待とは、庚申(かのえさる)の晩に限り人が眠るのを待って体から抜け出し、天帝にその人が犯した罪を告げると云う三尸( さんし:三種類の虫 )が体から逃げ出さないように、夜を徹して身を慎むといった行事。行屋稲荷の庚申塔は、正保5年(1648)に造立されたもので、近世の石仏・石神の中では、市内で最も古く、六面に六地蔵を配しており、地蔵信仰と庚申信仰が一緒になった珍しい六面単制石幢である。平成元年(1989)9月30日 志木市教育委員会
庚申塔や庚申待のことが気になる方は 庚申信仰 の頁を御覧下さいね。
少しだけど、分かりやすく解説してみましたので御笑覧下さいね。CMでした。
20. 城山貝塚 しろやまかいづか 15:19着 15:21発
縄文早期末葉は内海としての奥東京湾が形成され始めた時期であり、志木市域でも海水侵入が進み、この城山貝塚が形成された頃(縄文時代前期中葉)が縄文海進の最盛期で、温暖化が進み海水面が上昇、現在よりも5mも高かったと推定されているの。当時は、志木市域のみならず、荒川や旧荒川流域の低地部の殆どが奥東京湾と化していたみたいね。その奥東京湾で主として獲れていた貝がヤマトシジミだそうよ。城山貝塚のものではないのですが、埼玉県富士見市にある水子貝塚の資料館&展示館を訪ねたときに、貝塚から発掘されたと云うヤマトシジミの貝殻を頂いて来たのですが、ξ^_^ξ達が普段目にするシジミの大きさと同じだと思ったら大間違いよ。
その縄文中期に始まる気候変動は縄文時代後期末から晩期にかけてが最も寒冷化が進み、志木市域を流れる河川流域では土砂の堆積が更に増し、湖沼を埋めたために淡水系の魚介類を採取することも出来なくなり、縄文人達は生活に適さなくなった土地から皆離れていってしまったようね。そうして縄文人達の姿の消えてしまった志木市域ですが、一方で、低湿地と化した河川流域は稲作には最適の土地になるの。勿論、そのためには更なる時の流れが必要とされるのですが。
21. 柏の城跡 かしわのしろあと 15:24着 15:25発
その後、大石氏は北条氏康に服属したが、天正の頃は大石越後守直久が城主だった。直久は顕重の曽孫・大石定仲の長男で、天正9年(1581)から北条氏の指令に基づき、駿河国獅子浜城の城代となっていた。柏の城が豊臣勢に攻められて落城したのは、武蔵国の他の諸城と同じ時期の天正18年(1590)。徳川家康が江戸へ入府すると、家臣・福山月斎が新しい地頭として、この城地に居住した。昭和54年(1979)10月1日 志木市教育委員会
史跡「柏の城跡」と云っても、本丸跡には志木市立第三小学校が建てられていて、上掲の案内板も校地を囲むフェンス脇に申し訳なさそうに立っていたの。気がつかなければ、そのまま通り過ぎてしまうかも知れないわね。それはさておき、参考までに郷土資料館にあった解説も転載しておきますね。
〔 柏の城 〕 現在の志木第三小学校の場所には、保元元年(1156)に田面長者藤原長勝(たのものちょうじゃふじわらながかつ)と云う豪族が館を築いて以降、荏柄平太胤長(えがらへいたたねなが)等の武将がいたとも云われている。柏の城は文明年間(1469-87)に大石信濃守顕重(おおいししなののかみあきしげ)によって築かれたものと思われる。この城は2回落城しており、一回目は、永禄4年(1561)に上杉謙信が北条氏の小田原城を攻めた時、柏の城も攻略されたようである。二回目は、豊臣秀吉が小田原攻めの時で、秀吉軍は天正18年(1590)小田原に殺到し、このため3月から6月にかけ北条方の武蔵の多くの城は次々に落城したが、柏の城が落城した正確な時期は分かっていない。昭和55年(1980)に志木第三小学校の向い側の場所で発掘が行われ、幅12.5m、深さ4.7mの大堀が発見され、その一角が城郭であったことが実証された。志木市立郷土資料館
【風土記稿】の舘村の條には「古蹟 舘迹 長勝院の東の方にありて、同寺の境内へも少くかゝかれり 今は畑となりしかど 廢堀のあと土手の状などわづかに殘りて 當時のさま彷髴として見るべし 土人云 遠からず世までも土手堀など全く存せり 其後林をひらき 畑をおこせし時、こぼてりしにより 古の状更に變ぜり 今八幡祠のある所舘のありし所なりとぞ いかさま北の方に崖ありて 廣さ二町に二町半ばかりの要害の地なり 昔大石越後守こゝに居れり 此人は小田原北條家の家人なりしが 天正18年(1590)太閤秀吉の爲に亡びしと 按に大石越後守は多摩郡瀧山城主大石信濃守が一族なるべし 天正9年(1581)北條武田兩家の間和議破れける時 駿河國分國境目の押へとして 同國獅子濱の城に越後守を籠をきしこと小田原記に載せたり 同10年(1582)上方の大軍小田原の城を攻し時も この人同じ城にありて 終に寄手のために城を明渡しけるよし【北條五代記】等の書に見えたり されば此時をのが舘も敵の爲にうち亡されしならん」とあるの。舘=柏の城と云うことなのですが、「舘」は中世に於ける武士の館(やかた)を意味する語だそうよ。
その舘と館の違いですが、【舘村旧記】の田面長者以來年數荒間敷之亊の段に「當村をたて村と云ふに付きて、舘と館との二字これあり。或人の云はく、館の字は高官の御方の旅行へ御出でありて、お泊まりなどの旅館の時に館(たびや)の字を書する也。又、舘と云ふ字は高官の御方のその所に御殿など建ちて御住居ありたる所を舘といふ也と。故に村里の村名に舘の字付きたる所は、必ず位高き御方の御舘(みたち)ありし故に舘(たて)云ふ也。然れば當所は 柏城の西の丸に侍り、殊に亭(ちん)の建ちたる所などこれあり、則ちその下の田所を今に亭の下と字を呼ぶ也。さればこそ舘村と名づけたるも尤もにて理(ことわり)也」とあるの。どちらにしても高官であることが絶対条件のようですので、仮にξ^_^ξがジャンボ宝くじで5億円を当て、豪邸を建ててみたところで、その痕跡を地名に残すことには決してならないようね。
22. 長勝院跡 ちょうしょういんあと 15:27着 15:32発
〔 柏の城西の曲輪跡 〕 柏の城は、関東管領・山内上杉家の重臣・大石氏一族の戦国初期からの居館と云われていますが、その築城年代などは一切不明です。江戸時代の享保12年(1727)から同14年(1729)にかけて舘村( 現在の志木市柏町・幸町・館地区付近 )の名主・宮ヶ原仲右衛門仲恒により執筆された【舘村旧記(たてむらきゅうき)】に依ると、志木第三小学校地に本城が、その東側に二の曲輪、市道を挟んだ南側に三の曲輪が、そしてこの辺りには西の曲輪があったとされています。この辺りは嘗て亭の台(ちんのだい)とも呼ばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であると云う伝説も伝わっており、古来よりこの地域を統括するような有力な人物に関係する何等かの施設があったらしいことが推測できます。また、舘村八景の一つに「亭の下の夕照(ちんのしたのゆうしょう)」とあるように、この付近は秩父連山から富士山まで眺望できる景勝の地としても有名な所でした。平成6年(1994)2月25日 志木市教育委員会
先程紹介した【舘村旧記】の田面長者以來年數荒間敷之亊の段の冒頭には「當村は田面郡司長勝殿の頃より享保年中に及んで凡そ年數九百餘年に及びけれども、夫より以來當所に百姓町人等住居せし亊又は守護人誰人といふことなど云い傳へ侍らざる也。然れども古昔は人家多くこれありと聞こへて、所々に墓所の跡多くこれある也。さて亦當所柏城、文明年中の頃田面長者の住居ありし跡を城に築きて大石信濃守殿居城となれり。而も相州小田原北條家の幕下にして、小田原附十一ヶ城の内也」とあるの。その田面郡司長勝ですが、地元では平安末期の郡司と伝えられてはいるのですが、史実としての実在性は疑わしいようで、伝説上の人物と見做すのが順当のようね。決して歴史浪漫に水を差す積もりは無いのですが。But 結果的には水を差しちゃったわね。
23. 小橋の石橋供養塔 こばしのいしばしくようとう 15:38着 15:39発
〔 小橋の石橋供養塔 〕 この石橋供養塔は、嘗て川越街道の裏街道の役割を果たしていた江戸道が江川堀( 現在の志木市民体育館の場所にあった大堰溜を水源とし、周辺の水田の落ち水を合わせた大排水 )を横断する地点に架けられた小橋と云う名の石橋の供養のために、宝暦9年(1759)5月に造立されたものです。造立にあたっては舘村宮原弥吉・中野村三枝定八・引又宿三上幸助他30人が願主となり、舘村・中野村・引又宿・宗岡三組(以上、志木市)を始め、現在の富士見・ふじみ野・三芳・川越・新座・朝霞の各市町域にあたる44ヶ村からの助成を得ていることが碑文から分かります。これ程多くの村々が関与したのは、この石橋がこれらの村人の生活にいかに大きな意味を持っていたかを端的に示すものであると云うことが云えます。尚、昔は橋には霊魂が宿ると信じられており、新設や修復に際し、その橋が長く破損や危険から免れるように供養塔を造立する風習がありました。この供養塔は、志木ロータリークラブより志木市に寄贈されたものです。平成23年(2011)12月 志木市教育委員会
散策の最後に柳瀬川の畔を歩きながら柳瀬川駅へと向かいましたが、富士見橋の少し手前に「小橋の石橋供養塔」が建てられていたの。今では辺りを見渡してみたところで、富士見橋の他には、橋の「は」の字も見えませんが、写真に写る排水機場の辺りに架けられていたのかも知れないわね。今では堰堤も整備され、柳瀬川の畔をめぐる遊歩道は地元の方には絶好のお散歩コースになっているの。歩道脇には桜の木が植樹されていることから、季節にはお花見の名所にもなるの。次に訪ね来るときは満開の桜を愛でながらのお散歩にしたいわね。
24. 柳瀬川駅( 東武東上線 ) やなせがわえき 15:46着
最初は、世界に一本しか無いと云う長勝院旗桜に惹かれて訪ねた志木市ですが、帰宅後に調べてみると、他にも見るべきものが多くあることを知ったの。そこから今回のぶらり歴史散策となった訳ですが、いざ足を向けてみれば、新たな知見と情報を得て、再び再訪の必要性を感じてしまうと云う悪循環(笑)。加えて、地元志木市の皆さんがとってもフレンドリーなの。脳天気な旅人の、どうでも良いような質問に時間を割いてまで資料を調べて下さった郷土資料館の方や、すっかりお茶してしまった旧村山快哉堂のボランティア職員の方、遠くから良く来てくれましたね、是非登山していって下さい−と田子山富士を案内して下さった保存会の方など、決して多くの方々に接した訳ではないのですが、サービス精神溢れる方々ばかりだったの。それはきっと、志木市が住む方々にとって誇りある街だと云うことよね。そんな志木市を、あなたも一度、訪ね歩いてみてはいかがですか。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
〔 参考文献 〕
吉川弘文館刊 佐和隆研編 仏像案内
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
角川書店刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版江戸名所図会
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々- 日本の神霊たちのプロフィール
田子山富士保存会発行 田子山富士のナゾ【歴史編】
志木市教育委員会発行 しきし歴史まっぷ〜志木編〜
志木市教育委員会発行 しきし歴史まっぷ〜宗岡編〜
志木市教育委員会発行 文化財まっぷ 伝説編I
志木市教育委員会発行 文化財まっぷ 伝説編II
志木市編集発行 「志木市史」通史編上 原始・古代・中世・近世
志木市編集発行 「志木市史」中世資料編
その他、現地にて頂いてきたパンフ&栞など
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