≡☆ 洗足池公園のお散歩 ☆≡
2020/03/25

桜の名所としても知られる洗足池公園ですが、池畔にはこの地を愛した勝海舟所縁の事跡や、日蓮聖人が立ち寄った際に袈裟懸けしたと伝えられる「袈裟懸けの松」なども残されているの。ここでは 前頁 では画像のみの紹介で終えたものも含め、主な見処を詳しく御案内していますので、お出掛け時の参考にして下さいね。尚、掲載する画像は幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

洗足池公園

1. 公園入口 こうえんいりぐち

都指定名勝・洗足池公園 所在地:大田区南千束2丁目1番4号 他53筆 指定:平成31年(2019)3月15日
区立洗足池公園は、清水窪湧水などを主な水源とする淡水池の佳景で、古くから良く知られています。洗足の名は、日蓮聖人が手足を洗ったと云う伝承に因むと云われています。江戸時代には数多くの文芸作品や絵画作品に取り上げられ、浮世絵師・歌川広重が描いた「名所江戸百景・千束の池袈裟懸松」は殊に有名です。明治23年(1890)頃には、晩年の勝海舟が東岸に別荘「洗足軒」を築き、後に夫妻の墓地も造られました。公園近くの国登録有形文化財「旧清明文庫」は、昭和初期に海舟の遺蹟の保存などを目的に建てられ、現在は区立勝海舟記念館として活用されています。

昭和5年(1930)に都市計画法に基づく風致地区に指定されると、同8年(1933)には地元有志が社団法人洗足風致協会(現・公益社団法人洗足風致協会)を設立し、現在まで積極的に環境保全活動を続けています。池の周辺には【平家物語】に登場する源頼朝の愛馬・池月の伝承がある千束八幡神社の他、国登録有形文化財の妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂)、厳島神社のある弁天島、三連太鼓の形状が印象的な池月橋、樹林帯の桜山・松山があり、23区内でも有数の散策地として親しまれています。令和2年(2020)3月建設 東京都教育委員会

入口に立てられていた公園マップに依ると、洗足池公園は池の面積だけでも約40,000m²あるということなので、東京ドームと比べると少し小さいのですが、それでも入口から見た洗足池は奥行き感があり、数値以上に広く感じられるの。また、池の畔を一周すると1.2km程の距離となり、所要時間も約20分と案内されていましたが、運動のための散策なら未だしも、色々と観て歩くにはとても時間が足りないわね。公園全体では約77,000m²もの広さがあり、今回の散策では勝海舟の墓所や妙福寺などにも立ち寄ったことから2時間半程を費やしているの。未体験で終えた勝海舟記念館(旧清明文庫)の見学時間などを加えると、更に時間が必要ね。追体験される場合には余裕を以てお出掛け下さいね。尚、ここでは公園マップにある現在地を以て公園入口として紹介していますが、公園への入口はあちらこちらにあり、どこからでも自由に入れるの。

2. 中原街道改修記念碑 なかはらかいどうかいしゅうきねんひ

〔 中原街道改修記念碑 〕  我中原街道は郡の中部を縱貫して神奈川縣下に通ずる大動脈にして交通上無二の要路たり。然るに、從來沼部石川千束等の急坂相前後して中間に起伏し峻屹嶮難、往來の苦困名状すべからず。沿道諸般の事業は、爲に時代の進運に伴ふこと能はずして文明の惠澤に浴せざるもの甚寡からず。府會議員森田節氏深く之を憂ひ、奮起卒先して是が改修の事に膺り、或は府廰當局と折衝し、或は關係町村有志を策励し、拮据經営着着工を進め、遂に忽にして這の壯業を完成し、坦坦砥の如き現在の道路を見るに至らしめたり。回顧すれば府制實施以來悠悠四十年、其間府政に參畫したるもの頗る多し。

而も未だ曾て一として本街道の嶮難を顧みたるもの無く、長く沿道庶民をして徒に怨嗟の聲を傳へしめしが、今や幸にして同氏の恩眷に接し、宿昔の憂患を除く事を得たるは、眞に長夜の夢を破りて初めて曙光を仰ぐの感に堪へず。沿道の地方一帯に於ける諸般の事業、是より應に必ず發達進展の實を擧ぐぺし。豈欣快の至ならずや。乃ち、茲に此事蹟を録して厥の慶福を記念し、以て之を不朽に傳ふと云爾。大正12年(1928)4月

3. 池月橋 いけづきばし

畔をしばらく歩いていると、どこかの名勝庭園にでも架設されているような、風情ある佇まいの三連太鼓橋が見えてきたの。それがこの池月橋で、橋の名は名馬の池月発祥伝説(伝説は次の千束八幡神社の項で御案内しますね)に因んで名付けられたものなの。橋は傷みもないことから近年新たに架設されたものと知れたのですが、確かに架け替え工事で新しくなったのは平成28年(2016)と、最近のことですが、初代の池月橋が架設されたのは平成7年(1995)だそうよ。架設するにあたり、無味乾燥なコンクリート製の橋ではなくて、木造の三連太鼓橋にしたと云うこだわりぶりが素敵ね。それでも、さすがに老朽化して傷みも激しくなり、新造されることになったとのことですが、部材こそ木材ではなくなったものの、構造や外観などは初代の雰囲気をそのまま踏襲しているみたいね。やるじゃないの、大田区!−よね。

4. 千束八幡神社 せんぞくはちまんじんじゃ

〔 千束八幡神社 〕  御祭神:品陀和氣之命(應神天皇)
当社は千束八幡神社と稱し、平安前期の貞観2年(860)に豊前国宇佐八幡を勧請し、往時の千束郷の総鎮守としてこの巒上に創建せられ、今日に至る。遠く千百余年の昔より、この地の氏神として尊崇せられ、普く神徳を授けてこらる。承平5年(935)、平将門の乱が起こる。朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり。乱後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき。館が池の上手に当たるに依りて池上氏を呼称、この9代目の子孫が日蓮を身延から招請す。之池上康光なり。

また、八幡太郎義家奥羽征討の砌、この地にて禊を修し、社前に額づき戦勝祈願をなし出陣せりと伝えらる。源頼朝も亦鎌倉に上る途次、この地を過ぐるに八幡宮なるを知り、大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉、近郷より将兵集まりて鎌倉に入る事を得。旗挙げ八幡の稱あり。名馬池月を得たるも此処に宿営の折りなりとの伝承あり。尚、境内に武蔵国随一と云われし大松ありしが、大正13年(1924)惜しくも枯衰し、今はその勇姿を見るすべもなし。古歌に「日が暮れて足もと暗き靜かさに空に映れる千束の松」と詠まれて居り、老松の威容が想像されよう。斯くの如く当八幡神社は城南屈指の古社にして亦名社なり 宮司 恵良彰紀 識

ねえねえ、「千束」って書いてあるけど、「洗足」の間違いじゃないの? 洗足池の名前が良く知られているので、どうしてもそう思ってしまうわよね。でも、間違いじゃないの。
傍目には「千束」と「洗足」が混在しているように見えるけど、地元の人達は器用に使い分けているみたいよ。
ねえねえ、どうしてそうなっちゃったの? そうね、ちょっと長くなってしまうので、纏めてお話するわね。
この辺りは古くは荏原郡千束郷と呼ばれていたの。

千束という地名は、刈り取られた稲の内1,000束分が租税免除されていたことに由来すると云われているの。減免の理由としては、洗足池、当時は未だ「千束の大池」と呼ばれていたんだけど、その大池の水が稲作の灌漑用水として利用されていたから−と云う説と、千僧会(1,000人の僧侶を集めての法要)を営む際の費用を賄うための免田だったから−と云う説があるの。それはそれとして、その千束で「洗足」が使われるようになったのは、弘安5年(1282)に当地に立ち寄った日蓮聖人が大池で足を洗い休息した故事に因み、大池が洗足池と呼ばれるようになってからなの。その「洗足」が広く知られるようになったのは、大正11年(1922)に分譲が始まった高級住宅地の「洗足田園都市」が切っ掛けなの。と云っても、宅地開発の方はお隣の目黒区のお話しになってしまうけど。地名に大田区側では千束が、目黒区側では洗足が多く使われる理由は、そんなことが背景になっているようね。

〔 池月發祥傳説 〕  治承4年(1180)8月、源頼朝は石橋山に敗れて安房に逃れ、この地の豪族・上総介廣常等の参陣を得て再び鎌倉へ向ふの途次、ここ千束郷の大池に軍を駐め、八幡丸の丘を本陣として近隣よりの味方の集まるを待つ。この時何處方よりか一頭の野馬飛来り、嘶く聲は天地を震わすばかりであった。郎党之を捕らへて頼朝に献ずるに、馬体あくまで逞しく青き毛並みに白き斑点を浮かべ、恰も池に映る月影の様であったので、池月と命名して自分の乗馬とした(池月發祥)。寿永3年(1184)春、宇治川の合戦に池月を頼朝から賜った佐々木高綱は磨墨に乗る梶原景季と先陣を競ひ、遂に一番乗りの功名を立てた。史書に云ふ宇治川先陣物語である。当八幡神社を別名旗上げ八幡と云ふはこの故事に依る。平成2年(1990)11月吉日

社殿の左手には名馬・池月を描いた大きな奉納絵馬が立てられていたの。その傍らに建てられていた池月発祥伝説記を引いておきましたが、実は、社頭にも少し長めの由来記が掲示されていたの。大意としての違いは無いのですが、折角ですので(笑)そちらも転載しておきますので、参考にして下さいね。

〔 池月発祥伝説の由来 〕  池月とは宇治川先陣物語にある名馬の名である。治承4年(1180)8月、源頼朝は相州石橋山の合戦に敗れ、この地の豪族、千葉常胤・上総介広常等の参向を得、再挙して鎌倉に向かう途次、ここ千束郷の大池に宿営し、八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ。折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし、何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かひて飛来り嘶く声、天地を震わすばかりであった。郎党之を捕らへて頼朝に献ずるに、馬体あくまで逞しく青き毛並みに白き斑点を浮かべ、恰も池に映る月影の如くであった為、之を池月と命名して自らの料馬とする。頼朝、先に磨墨を得、今またここに池月を得たるは、之征平の軍既に成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之を伝えて征旗を高く掲げ、歓声止まざりしとか。当八幡宮の別名を旗上げ八幡と稱するはこの故事に依る。寿永3年(1184)春、頼朝木曽義仲を京師に攻む。義仲宇治、勢田の両橋を撤し、河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす。この時鎌倉出陣に際し、各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季(かげすえ)は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ち跨がり、共に先陣を争った。史書に云ふ宇治川先陣争いである。池月一代の晴れの場所で、この一番乗りの功名が、今に至るまで名馬の誉れを伝えている。この池月の誕生地が当八幡であって、即ち池月発祥伝説の起こりである。古くより里人の間に語り継がれ、大井町線の駅名(今の北千束駅)に、また町会名にもなっていたが今はない。遠き治承の昔より光芒既に八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとす。尚、磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存す。氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり、毎年9月の祭日に奉納されている。
池月の 蹄の音か 揆の冴え( いけづきの ひづめのおとか ばちのさえ 管理人注 )
平成4年(1992)3月 千束八幡神社・洗足風致協会

5. 名馬池月の像 めいばいけづきのぞう

〔 名馬池月の由来 〕  治承4年(1180)源頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中、ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。或る月明かりの夜に、何処からか一頭の駿馬が陣営に現れ、その嘶く声は天地を震わすほどであった。家来達がこれを捕らえて頼朝に献上した。馬体は逞しく、その青毛はさながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを池月と命名し、頼朝の乗馬とした。寿永3年(1184)有名な宇治川の合戦に、拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた−と、史書に伝えられている。平成9年(1997)10月吉日 洗足風致協会創立65周年記念 社団法人 洗足風致協会

千束八幡神社から少し離れて「名馬池月の像」が建てられていたの。池月発祥伝説は既に紹介済みですので冗長となりますが、台座に記されていた由来記を引いておきますね。名馬池月の活躍が語られるのは【平家物語】巻九の宇治川先陣争いの段で、「佐々木四郎の給はれたりける御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめて太うたくましきが、馬をも人をも傍を払つて食ひければ、生食とは附けられたり。八寸の馬とぞ聞えし」とあるの。気になるのは、池月ではなくて生食と記されていることね。馬でも人でも近づこうものなら噛みつくので生食と名づけられた−と云うのですから、当初はかなり凶暴な馬(笑)だったみたいね。

馬の背丈は前足から肩まで四尺あるを標準とするとのことなので、四尺八寸(≒145.4cm)あった生食は大形の馬だったのではないかしら。それはさておき、池月と生食、どこでどう変わってしまったのかしらね。千束が日蓮聖人の故事に因み洗足と名を変えたように、池月の身の上にも何かエポックメイキングな出来事でも起きたのかしら?

6. 弁財天社 べんざいてんしゃ

洗足池辨財天(厳島神社)御由緒
 
一、御祭神
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 宇賀神・宗像神・辨天様とも申し上げる。
一、御神徳
福徳財宝授けの神/音楽・舞踊・芸能上達の神/水神・水路・海上安全の神/交通安全の神/商売繁盛の神、特に水商売繁盛の神)
一、由緒沿革
創建の年代は不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多の人々の夢枕に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和9年(1934)7月洗足風致協会の手に依り築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。

洗足池に突き出るようにして造られた小島に祀られていたのが洗足池弁財天社で、朱塗りの社殿が景観にアクセントを添えていましたが、略縁起には厳島神社として市杵嶋比売命を祀るとあるの。But 当社も元々は弁財天が祀られていたような気がするわね。それに、別称として宇賀神や宗像神の名が挙げられていましたが、本来は別々の神さま達なの。他の頁でも御案内していますのでご記憶の方もいらっしゃるかも知れませんが、弁才天は時代と共にその姿を変えてきたの。弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。

saras は水を指し、sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。河の流れの妙なる水音は人々を心豊かにすることから福徳を齎す女神となり、穀物の豊作を齎す豊穣の女神ともなるの。やがてそのサラスバティーが同じ女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、河のせせらぎが弁舌にも繋がるの。そのサラスバティーが仏教に取り入れられて弁才天となり、そこでは川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。

一方、田植えの時期になると現れる蛇は田畑を潤し豊穣を齎す神の化身として古来より崇められていたのですが、宇賀神とも習合したの。宇賀神はその名から連想されるように、稲荷神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一視されてもいたの。宇迦之御魂神は食物を司る神でもあり、豊作を祈願する農耕の神でもあったの。蛇の水神信仰と結び付いた宇賀神は人面蛇身となると、やがて鎌倉時代に隆盛する弁才天信仰に習合していくの。元々の琵琶を抱えた弁才天が妙音弁才天なら、宇賀神と習合した弁才天は宇賀弁才天と呼ばれ、八臂の像容となるの。

時を経て、乱世の世が遠のき、庶民の生活が豊かになった江戸時代では、妙音弁財天が琵琶を抱えることから、技芸上達を願う浮世絵師や歌舞伎役者などの芸人達にも広く信仰されていくの。同じ弁財天でも宇賀弁財天ではなくて、妙音弁財天が人々に好まれるようになるの。略縁起に記される祭神は宗像三女神(多紀理毘売命・市杵嶋比売命・田寸津比売命)の一柱、市杵嶋比売命となっていますが、それは明治期の神仏分離令発布を受けて強制的に神社にさせられてしまったからではないかしら。市杵嶋比売命(=市寸島比売命 or 市杵島姫命 いちきしまひめのみこと)の名は、元々は斎(いつ)き祀る嶋の巫女−の意なの。宗像神社(福岡県)では玄海灘に浮かぶ沖の島と陸地の中間点にある大島に祀られることから中津宮と呼ばれるようになり、宗像三女神の中でも、とりわけ容姿端麗とされるようになったのが、この市杵嶋比売命なの。弁財天が市杵嶋比売命と同一視されるようになったのは必然かも知れないわね(笑)

7. 留魂祠 りゅうこんし

〔 留魂祠 〕  祭神 南洲西郷隆盛先生  例祭 毎年9月24日
明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の街を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが、勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治10年(1877)の西南戦役により、故郷鹿児島に於いて子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑され、更に明治16年(1883)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。

留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。この留魂祠は、元東京南葛飾郡大木村上木下川(現・葛飾区東四ツ木1-5-9)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正2年(1913)年、石碑と共に現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、今尚相並んで我国の将来を見守っておられるのです。南洲会

水生植物園をめぐり、池畔を離れて桜広場の東側を歩いていると、陵墓を思わせるような雰囲気のエリアがあり、参道を進んだ先にはこの留魂祠が建てられていたの。上掲の案内文では祠は勝海舟が建てたことになってはいるのですが、大田区教育委員会に依る案内板では、明治16年(1883)の西郷隆盛七回忌の際に、勝海舟から留魂詩碑(後述)のことを知らされた同志達がこの留魂祠を建立して西郷隆盛の霊を祀ったとあるの。大義名分としては勝海舟だけど、実態としては門下生をはじめとした有志によるものなのかも知れないわね。

勝海舟追慕碑 南洲先生建碑記 徳富蘇峰詩碑

勝海舟追慕碑
大正2年(1913)に勝海舟門下生の富田鐡之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志により留魂祠が建てられたことが記されています。
南洲先生建碑記
留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建てたものです。留魂詩が明治12年(1879)7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。尚、勝海舟追慕碑に依ると、当地への運搬建設も群鶴が実施しています。
徳富蘇峰詩碑
昭和12年(1937)、数名の者が計画し、勝海舟門下生の一人であった徳富蘇峰(1863-1957)に詩を書いて貰い建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されています。

〔 西郷隆盛留魂詩碑 〕  勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死を悼み、詩とその筆跡を残すため、三回忌にあたる明治12年(1879)に自費で建てたものです。元は葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い、当地に移設されました。内容は、西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。「願留魂魄護皇城」の文言から留魂詩と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されています。大田区教育委員会事務局 文化財担当

留魂祠に向かって左手には都合4基の石碑が建てられていましたが、中心となるのはやはり西郷隆盛留魂詩碑よね。碑面に刻まれている漢詩は、西郷隆盛が国父・島津久光の怒りを蒙り、沖永良部島へ流罪となった際に詠まれたもので、背面には碑建立の動機が記されているの。文末には「嗚呼、君は我を能く知り、而して君を知ること我に若くは莫し。地下に若し知る有らば掀髯を将って一笑せんか」(原文は漢文)とあるの。平易な文章に置き換えるとしたら、君は私のことをよく知っているし、同じように、君のことを知る者としては私の右に出る者はいまい。草葉の陰で君がこの碑のことを知ったら、きっと君は頬髯を上げて一笑するのかも知れないな−と云ったところかしら。

勝海舟と西郷隆盛は、方や幕府陸軍総裁として、方や倒幕軍の参謀として江戸無血開城に尽力し、明治維新の立役者として知られますが、立場を越えた二人の親交は以後も続くの。留魂詩碑に寄せた海舟の撰文には「君は之を容れ、更に令して、兵士の驕傲を戒め、府下百万の生霊をして塗炭に陥らしめざるなり。是れ何等たる襟懐ぞ、何等たる信義ぞ」とあり、江戸無血開城の交渉を通して隆盛の気質に心酔していった様子が窺えるの。一方の隆盛と云えば、一度は明治新政府に与しますが、後の「西南の役」では結果的にその新政府に反旗を翻すことになってしまったの。その間の詳しい経緯等は他のサイトにお任せしますが、その「西南の役」で隆盛は敗死してしまうの。嘗て両肩に大きすぎるほどの荷を負いながら己が生を賭して対峙した者同士、海舟にとって隆盛の死はまさに「巨星墜つ」だったのかも知れないわね。海舟は隆盛の亡き後もその名誉回復に奔走し、隆盛の遺児の面倒をみるなど、厚情は終生続いたの。

主義主張は異にしても、人が人に信頼を寄せる姿は羨ましくもあるわね。御案内が前後してしまい恐縮ですが、最後に留魂詩碑に刻まれる漢詩を紹介しておきますね。因みに、筆跡は隆盛自身のものだそうよ。名は体を現す−じゃないけど、豪気な性格がそのまま表れているような気がするわね。

朝蒙恩遇夕焚坑
朝に恩遇を蒙り 夕に焚坑せらる あしたにおんぐうをかうむり ゆふべにふんかうせらる
人世浮沈似晦明
人世の浮沈は晦明に似たり じんせいのふちんはくゎいめいににたり
縦不回光葵向日
縦ひ光を回らさざるも 葵は日に向ふ たとひひかりをめぐらさざるも あほひはひにむかふ
若無開運意推誠
若し運を開く無きも 意は誠を推さむ もしうんをひらくなきも いはまことをおさむ
洛陽知己皆為鬼
洛陽の知己皆鬼と為り らくようのちきみなきとなり
南嶼俘囚独竊生
南嶼の俘囚独り生を竊む なんしょのふしうひとりせいをぬすむ
生死何疑天付与
生死何ぞ疑はむ 天の附与なるを せいしなんぞうたがはむ てんのふよなるを
願留魂魄護皇城
願はくは魂魄を留めて皇城を護らむ ねがはくはこんぱくをとどめてくわうじょうをまもらむ

【意訳】( 俗に、でっちあげとも云う(笑) )
朝に主君から厚遇を得たとしても、夕べには焚書坑儒のときのように厳しく断罪されることもある。
人の世の浮き沈みというものは、交互にめぐり来る昼と夜のようなものだ。
一方、向日葵(ひまわり)はと云うと、たとえ陽射しが無かろうとも、いつも太陽の方角を向いている。
同じように、自分の運がこのまま開けることなく尽きることになったとしても、誠の心だけは保ち続けていたい。
京にいた同志達は信に殉じて鬼籍に入り、皆帰らぬ者となってしまった。
南海の小島に流され、囚われの身となった私ひとりが、今はこうして不様な生き恥を晒している。
人の生死と云うものは、天から与えられた定めであることに疑いの余地などありはしないだろう。
ただ、願わくば、このままここで死期を迎えることになったとしても、吾が魂だけは永くこの世に留まり、天皇の御座所である京の都を御護りしたいと思う。

8. 東京奠都70周年記念碑 とうきょうてんとななじゅっしゅうねんきねんひ

慶應3年(1867)12月、王政古に復し 翌明治元年(1868)2月大總督熾仁親王勅を奉じ 錦旗東征せられ 3月15日を期して江戸城を攻めしむ 城兵決死一戦せんとし兵火将に全都に及ばんとす時に 勝安芳幕府の陸軍總裁たり 時勢を明察して幕議を歸一せしめ 14日大總督府参謀西郷隆盛と高輪の薩藩邸に會商して開城の議を決し 4月11日江戸城の授受を了せり 都下八百八街數十萬の生霊因て兵禍を免れ 江戸は東京と改稱せられて車駕此に幸し 爾来三朝の帝都として殷盛比なし 是れ一に髏キ安芳の両雄互に胸襟を披きて邦家百年の大計を定めたるの賜なり 今や東亜大有為の秋に方り 當年両雄の心事高潔にして識見卓抜なりしを追慕し景仰の情切なり 茲に奠都70年に際し 両雄の英績を貞石に勒して之を顕彰し永く後昆に傳ふ 昭和14年(1939)4月 東京市長従三位勲一等 小橋一太 慎識

昭和14年(1939)、東京奠都70周年を記念して当時の東京市長小橋一太により建てられました。勝安房(海舟)と西郷隆盛の対話によって江戸が戦火を免れ、その結果東京として大いに発展出来たことを称えています。大田区教育委員会事務局 文化財担当

次の勝海舟夫妻墓に向かう途中に建てられていたのがこの東京奠都70周年記念碑で、碑には遷都ではなく奠都とあるのが味噌醤油味ね。奠には「定める・決定する」の意味があり、それとは別に、神前や仏前にお供え物をする意もあるのですが、この場合は奠都とあることから新たに都を定めたの意ね。面倒くせえな、遷都でいいじゃねえかよ〜と思われるかも知れないわね。でも、当時は(当初は大坂が候補地だったの)遷都の話が持ち上がると、それまでの公家達や京都の人達からは猛反対されたの。遷都はそれまでの都を廃止して新たな都に遷ることになるので、それを認めれば中枢機能を失い、京都が忘れられた存在になってしまう可能性大よね。

そこで新たな都・東京とそれまでの都・京都の並立が図られたの。東京は新たに造りおる都じゃばって、奠都でごわっそ。遷都ではありもはん−と云うわけ。そうは云っても、明治天皇が東京に入り、新たな政府機関が矢継ぎ早に開設されるなど、実態としては遷都よね。But 公式発表では今以て東京遷都の文言が使われたことは無いのだとか。巷では奠都よりも遷都として語られることが多いような気がするけど。その前に、ξ^_^ξは初めて奠都と云うことばを知ったりするけど(笑)。コラコラ

9. 勝海舟夫妻墓所 かつかいしゅうふさいぼしょ

〔 勝海舟夫妻墓所 〕大田区指定史跡
勝海舟は、官軍の置かれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、洗足軒と名付けました(今の大森第六小学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻・民子が死去し、青山墓地に葬られましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました。 大田区教育委員会事務局 文化財担当

〔 勝海舟について 〕  文政6年(1823)、江戸に生まれ、諱は義邦、通称を麟太郎、後に安房または安芳と改め、海舟と号しました。幕臣として万延元年(1860)に咸臨丸で渡米、後に軍艦奉行となるなど「日本海軍の生みの親」とも云われます。慶応4・明治元年(1868)には幕府側の代表として江戸無血開城に尽力しました。維新後は海軍卿、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙せられます。徳川家存続のために奔走したり、西南戦争で逆賊扱いされた西郷隆盛の名誉回復に努めたほか、旧幕臣とその家族への援助にも励みました。また、漢詩や書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟と共に幕末三舟と称されました。洗足池とその周辺の風光を愛し、【飛川歌集】には洗足軒にて詠まれた歌も掲載されています。大田区教育委員会事務局 文化財担当

墓前にある手水石については「勝海舟が亡くなった直後の明治32年(1899)6月に、勝を慕う人々によって墓前に奉納されたものです。背面には嘉納治五郎、榎本武揚、津田真道、赤松則良ら著名な人々50余人の名が刻まれています」と案内されていたの。歴史を大きく動かしてきた人物が故に、人望も人一倍あったようですが、女性関係でもかなりの発展家(笑)だったみたいね。「打ち廻る島の埼々 かき廻る磯の埼落ちず 若草の妻持たせらめ」状態で、あちらこちらに愛妾を囲い、一時は自宅で愛妾2人が同居、民子さんは我が子の2男2女に加え、愛妾らの2男3女を含めて分け隔て無く育てたと云うの。

女性関係に苦労させられた民子さんとしては、夫・海舟の傍らではなく、早逝した嫡男・子鹿の側に葬られることを望んでいたみたいね。詳しくは 幕末偉人伝 を御参照下さいね。2011/01/21の見出しに「最期に夫に愛想をつかした良妻・勝民子」と云う記事があるの。他にも西郷隆盛をはじめ、歴史上の名だたる人物が網羅される一方で、一般には余り名の知られていない人物にもスポットを当てているの。その詳細且つ圧倒的な情報量にはただ驚嘆でしかないの。必見よ。But リンク切れの際はごめんなさいね。

10. 勝海舟記念館 かつかいしゅうきねんかん

残念ながら閉館中で見学することは出来ませんでしたが、幕末から明治期と云う大変革の時代を駆け抜けた勝海舟の人物像と足跡が、史料を交えて広く、そして深く解説されているの。咸臨丸の公開を再現したCG映像や、大型モニターを使用しての映像展示などもあると云うので、幕末の歴史好きの方には必見の施設かも知れないわね。開館したのは令和元年(2019)と最近のことですが、建物は旧清明文庫〔国登録有形文化財〕を保存の上で一部を改修・増築しているの。なので外観的には清明文庫開館当初のものがそのまま踏襲されているの。

清明文庫は昭和8年(1933)に財団法人清明会が、海舟の墓所や洗足軒の保存をはじめ、海舟に関する資料収集と展示閲覧を目的に造られたもので、設立当初は勝家からのみならず、第三者からも5,000冊に及ぶ資料の寄贈を受けたと云うのですから、凄いわね。その清明文庫も清明会を主管する宮原六郎氏の体調不良から僅か2年余で活動終結となるの。寄贈を受けた資料は元の寄贈者に返還されたようね。一方、勝家から寄贈を受けていた洗足軒の建物のその後ですが、清明文庫の所有者が代わりながらも継承はされていたようですが、戦後間もなく焼失してしまったのだとか。今に残されていたとしたら国の有形文化財に指定されていたかも知れないわね。

11. 妙福寺 みょうふくじ

妙福寺は元々は持法院日慈〔 寛永6年(1629)示寂 〕が日本橋馬喰町に開基(年代不詳)したもので、明暦3年(1657)の大火で堂宇は灰燼に帰したことから浅草永住町に移転するのですが、大正12年(1923)の関東大震災で罹災し再び烏有に帰してしまったの。翌年には仮本堂が建てられたのですが、昭和2年(1927)に現在地に移転し、当初からこの地にあった御松庵と合併したの。そうなると、元からあったと云う御松庵の開創縁起が気になるわよね。その創立は千束八幡神社の項でもちらりと触れましたが、日蓮聖人が大池(洗足池)で足を洗い休息した際の故事に由来するの。実は、足を洗っただけじゃなかったの(笑)。

日蓮聖人が傍らの老松に袈裟懸けして大池の水で手足を洗っていると、水中から七面天女が現れたの。七面天女って、何それ−と思うわよね。鎌倉を離れて身延山にあった日蓮聖人が集まった人々を前にして説法をしていたときのこと、見目麗しい美女が法話に耳を傾けていたの。山深い身延の地にあって凡そ不釣り合いな出で立ちに弟子達が訝しく思っていると、日蓮聖人はそれを慮り、妙麗の女性に向かい「みながそなたの姿を怪訝に思うておる。そろそろ正体を現してみてはどうじゃ」と勧め、求めに応じて花瓶の水をかけてやったところ、忽ちその姿を龍に変じて居並ぶ者達を恐ろしい形相で見下ろしたと云うの。

そして「吾は七面山に住す七面天女なり 人皆法華經を讀誦し 吾を祀らば吾身延と法華經を堅護せん」と告げて七面山に飛び去ったというの。そうして七面天女は身延山(久遠寺)と法華経を護持していたのですが、日蓮聖人が旅立ちしたのに伴い、その道中を守護するために随行してきた旨を告げたの。聖人の読経を受けて七面天女は再び池の中に姿を消したと云われ、その故事に因み、土地の人達が小堂を建てて七面天女を安置したのが御松庵のはじまりだと伝えられているの。御松庵の名は袈裟懸けの松を護る護松堂から由来しているみたいね。洗足池には今でも七面天女が潜んでいるかも知れないのでお気をつけ下さいね(笑)。

〔 馬頭観世音供養塔 〕  天保11年(1840)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。光背を付けた馬頭観世音像の下は、角柱型の道標を兼ねており、各面には「北 堀ノ内碑文谷道」「東 江戸中延」「南 池上大師道」「西 丸子稲毛」と云うように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。この銘文から元は中原街道と碑文谷−池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成13年(2001)に現在地に移設された。江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。昭和49年(1974)2月2日指定 大田区教育委員会

「袈裟懸けの松」の少し手前には馬頭観音が陽刻された供養塔が建てられていたの。 仏教では馬頭を戴き忿怒の形相をする馬頭観音は日本人には余り好まれなかったみたいね。古代インド神話の中では、天輪王が宝馬に股がり、須弥山を疾駆するかの如き勢いで衆生摂化するさまを現したもの−と云ってみたところで、庶民にすれば何のこっちゃ?よね。ところが、馬頭の馬が、農耕馬や人や物を運ぶ馬などと単純に結び付けられて馬の守り神となり、転じて農耕の神、あるいは旅の安全の守り神として庶民の間で崇められるようになると、多くの彫像が作られるようになるの。今と違い、車やトラクターがあった訳ではないので、馬は大事な働き手。飼馬が丈夫でいてくれることが、貧しい日々の暮らしの支えだったの。

〔 日蓮聖人袈裟掛けの松由来 〕
弘安5年(1282)、日蓮聖人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し、傍らの松に袈裟を掛け、池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えからこの松を袈裟掛けの松と称することとなり、また、千束池を洗足池とも称されるようになったと云われる。天保期(1830-43)の【嘉陵紀行】に依れば、初代の袈裟掛の松は「枝四面に覆い長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。尚、現在ある松は三代目であると伝えられる。御松庵 社団法人・洗足風致協会


実際に目の当たりにする前までは、ξ^_^ξは日蓮聖人が袈裟懸けした松がそのまま残されているものとばかり思っていたの。いざ目にしてみれば幹周りも細くて、むしろ傍らの松の木の方が立派に見えたことから何かの間違いではないかしら−と思ってしまったくらいよ。帰り際に門前の案内板(上掲)に「現在ある松は三代目」とあるのを見つけて合点がいったのですが、実は3代目の傍らには6代目の袈裟懸けの松が植えられていたの。石碑には6代目の松が植樹された背景が記されていましたので引いておきますが、それはさておき、3代目の後継がいきなり6代目と云うのも変よね。4代目と5代目の松はどうしちゃったのかしら、枯れてしまったの?

〔 御松庵第六代御袈裟懸松由来 〕日蓮聖人初代御袈裟懸松は【新編武蔵国風土記稿】に依れば、文永の頃のものにて−と記されており、約650年間その御尊影を保ちきたれり。然るところ明治大正昭和と漸時植え継がれきたれども、樹勢芳しからず。仍って茲に樹齢約150年の第六代目御袈裟懸松を奉納植樹することを発願するに至る。維時宗祖生誕775年の歳なり。平成8年(1996)丙子文月吉日
洗足風致協会初代会長・綱嶋家第9代綱嶋傳蔵 第10代 己之助 第11代 滋

12. 洗足軒跡 せんぞくけんあと

〔 勝海舟別邸(洗足軒)跡 〕  勝海舟(1823-99)の別邸は戦後間もなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。鳥羽伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。その会見により江戸城は平和的に開け渡され、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と云えるでしょう。その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田山(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治24年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し、次のような歌を詠んでいます。

池のもに 月影清き今宵しも うき世の塵の跡だにもなし

晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、楓・桜・松・秋の草々などを移し植え、次のようにも詠んでいます。

うゑおかば よしや人こそ訪はずとも 秋はにしきを織りいだすらむ

明治32年(1899)77歳で没しましたが、富士を見ながら土に入りたい−との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。石塔の「海舟」の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻・たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。平成11年(1999)3月 勝海舟没後百年を記念して 公益社団法人 洗足風致協会

残念ながら当時を偲ばせるものは何も無く、跡地であることを知らせる案内版が立つだけなの。今でこそ跡地に建つ大森第六中学校をはじめ、周囲には大田区立洗足池図書館や紹介した勝海舟記念館などがありますが、海舟が別邸を建てた頃は周囲には畑しかなかったみたいね。明治維新後の海舟は、旧幕臣としては異例の、新政府の要職を歴任しますが、辞退や辞任することも多く、寧ろ嘗て自分が仕えた徳川慶喜の名誉回復や、旧幕臣達の経済的な支援に努めているの。そこには幕府終焉を決定づけた者として、名誉や禄を失い、路頭に迷う旧幕臣達を救わなくてはならないと云う、海舟なりの「義」があったのかも知れないわね。

明治31年(1898)には念願の慶喜の明治天皇への拝謁が実現し、朝敵の汚名がようやくぬぐい去られたの。加えて、海舟は長男の子鹿が早逝していたことから慶喜の10男・精(くわし)を婿養子にも迎えているの。そこには為すべき事をやり遂げた安堵感があったのかも知れないわね、その翌年の一月、風呂上がりに胸が苦しいからとブランデーを口にした海舟はそのまま意識を失ってしまったの。死因は脳溢血で、享年77歳の波乱に満ちた生涯を終えたの。最期のことばは「これでおしまい」だったと伝えられているの。

















洗足池 池の畔を歩けば名馬・池月の発祥伝説や、日蓮聖人の故事に由来する洗足池の名など、多くの逸話が残されていたの。とりわけ印象に残るのは西郷隆盛留魂詩碑で、嘗て命を賭して相対峙した二人が維新後に親交を深めていく姿には惹かれるものがあるの。海舟が民子さんの懐の深さに甘えて多くの愛妾を抱えたことは許せないけど、新政府の許でも主君・徳川慶喜の名誉回復や、旧幕臣達に対する経済的な支援に努めるなど、幕府を終焉に導いた当事者であるが故の責務と考えていたのかも知れず、利己に走らず義に生きた海舟もまた最後の「武士」だったのかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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どこにもいけないわ