狭山市奥富にある広福寺の境内には御詞之梅( おことばのうめ )と呼ばれる梅の木があり、季節になると見事な花を咲かせ、訪れる参詣客の目を楽しませてくれると知り、訪ねてみたのですが、二年越し、それも都合三度目の訪問でようやくその艶姿を瞼に焼き付けることができたの。
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〔 広福寺山門 〕市指定文化財・建造物 昭和48年(1973)3月1日指定
広福寺山門は、広福寺所蔵の古記録によると、文化2年(1805)に完成したと考えられます。山門と鐘楼が一体化した構造の鐘楼門で、袴腰は漆喰白壁塗り、上層部は格天井の鐘楼で勾欄( 手すり )をめぐらし、屋根は入母屋造りの瓦葺きという総ケヤキ材の珍しい竜宮造りの建築様式です。この山門をくぐった本堂の前には紅梅がありますが、徳川三代将軍家光が鷹狩りの際の休息の折に、その美しさを賞賛したことから「 御詞之梅 ( おことばのうめ )」と云われ、梅の側にある井戸も、その水で家光にお茶を入れたことから「 梅之井 」と云われたと伝えられています。また、幕末には尊王攘夷に身を捧げた清河八郎をはじめ、中村貞太郎( 北有馬太郎 )や、西川練造等、多くの勤皇の志士達がこの山門をくぐったと云われています。平成25年(2013)3月 狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会
興福寺の縁起について【新編武蔵風土記稿】には次のように記されているの。ここで気になるのが「 此梅いと老て枯盡し 今は蘗より枝葉生出たり 」の一文で、そのことからすると、今目にすることが出来る御詞之梅は家光が愛でた梅の木そのものではなくて、世代交代したものと云うことのようね。考えてみれば家光の来遊は400年余り前のことなので当たり前のことかも知れないわね。今ある御詞之梅が何代目に当たるのかはξ^_^ξには分かりませんが、家光の賞賛を受けたと云う御詞之梅の血脈の良さは間違いなく受け継がれてきているのではないかしら。この見事さはこれからも後々の代まで引き継がれていって欲しいものね。
〔 廣福寺 〕天臺宗 仙波中院末 薬王山地蔵院と號す 開山尊榮永祿11年(1568)當寺を草創して 天正12年(1584)7月11日寂せり 其後元和9年(1623)11月7日大猷院殿川越御放鷹の時 當寺へ渡らせ給ひしより以來 此邊御遊歴の時は渡御ありしを 定例とし給ひしゆへ 寛永元年(1624)11月15日 同2年2月11日 同3年2月8日 同4年2月13日 同7年2月15日の6度までに及びしとなり 其比の御休足の間を賜はるにより 客殿に用ゆべき旨命を蒙るの由 領主松平伊豆守信綱より傳へしかば 則此を客殿に用ひしかど 後回祿に逢て烏有となりしと云 本尊は薬師を安ず 樓門 樓上に安永3年(1774)9月鋳成の鐘をかけり 梅樹 門を入て右にあり 昔大猷院殿御遊歴の時 折しも此花盛なりしかば 其の花色を賞翫ありしにより 今に御詞の梅と稱して敬畏し 埒をゆひ廻らして人をして近くことを得ざらしむ 此梅いと老て枯盡し 今は蘗より枝葉生出たり 天神稻荷合社
紹介した御詞之梅ですが、リアルな開花情報が得られない中で、お休みやお天気などのこともあり、タイミング良く訪ねることが出来ず、今回ようやく満開の時期に訪ねることができたの。最初に訪ねたときはとうに見頃を過ぎていて、時期を早めて期待して訪ねた二度目は一、二輪の開花で徒労に終えていたの。足を運ぶこと三度目にしてようやくこの景観を目にすることが出来たのですが、正直に云うと、ここまでの見事さを期待していたわけではなかったの。But いざ正に今を盛りにと咲き誇る御詞之梅の姿を目の前にした途端、ことばを失ってしまったの。皆さんも是非一度お出掛けになってみて下さいね、必見よ。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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