今回の散策では幸手市内の寺社巡りをしてみましたので紹介しますね。以前、権現堂桜堤で行われた「桜まつり」に出掛けたことがあるのですが、その時に桜堤の外にも多くの見処があることを知ったの。掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 東武日光線・幸手駅 さってえき 7:24発
再訪するにあたり、下調べをしているときに 埼玉体験旅くらぶ の頁に、シリーズ 埼玉旧街道を歩く「日光街道 幸手宿から栗橋宿へ8Km」の参加者の募集記事があり、予定ではAM9:00に幸手駅を出発し、PM5:00に栗橋駅に到着するプランが紹介されていたの。それを見習い、ξ^_^ξも栗橋駅までを歩く積もりで早起きして出掛けてみたのですが、やはり途中で挫折してしまったと云うわけ。But コース内容は「埼玉体験旅くらぶ」のそれとは大きく異なるので御注意下さいね。
2. 東さくら通り ひがしさくらどおり 7:35着発
3. 常光寺 じょうこうじ 7:38着 7:44発
雲光山瑠璃光院常光寺と云い、天台法華円宗のお寺です。本尊は大日如来ですが、薬師如来・観音菩薩・地蔵菩薩・不動明王も祀られています。開山は延宝8年(1680)顕海に依って行われたと伝えられており、銅鑼・妙鉢・半鐘と云った寺宝があります。お参りする人は、病気平癒・商売繁盛と云った祈願をすることが多いそうです。幸手市教育委員会
4. 擔景寺 たんけいじ 7:45着 7:58発
法林山擔景寺と云い、浄土真宗のお寺です。開基である順覚は元和元年(1615)に没したと伝えられ、中世末期の創建と思われます。本尊の阿弥陀如来は平安時代中期の名僧、源信(恵心僧都)の作と伝えられます。寺の行事は、報恩講(四月の第一日曜日)・永代経(十一月の第一日曜日)で、読経・法話があります。また、ここには明治23年(1890)から12年間にわたり、幸手高等小学校で教職を務めた青木濱女先生を讃える祈念碑があります。幸手市教育委員会
境内左手には御覧の鐘楼があるのですが、傍には「夫逝きて身に沁み思ふ「愛別離苦」仏前にひとり正信偈誦す」の句を刻む石碑が建てられていたの。句碑からはそれ以上のことは読み取れませんが、喜怒哀楽を共にしてきた連れ合いを失った寂しさは察するに余りあるわよね。あるアンケート調査の結果に依ると、今のパートナーと最期まで添い遂げたいと思っていらっしゃる方が半数以上で、年齢が上がるに連れてその割合も増えているのだとか。どちらが先に旅立つことになったとしても辛いものがあるわよね。思わず目頭を熱くさせられた句碑でした。
5. 陣屋稲荷(一色稲荷神社) じんやいなり 8:07着 8:08発
ここで再び駅前通りに戻り、立ち寄ってみたのが陣屋稲荷で、一色稲荷神社とも呼ばれているの。お隣には棟方志功が描いた饅頭姫と「うまい! うますぎる! 十万石まんじゅう」のCMコピーで知られる十万石幸手店があるので、場所は直ぐに分かると思うわ。陣屋稲荷は最初に訪ねてみても良かったのですが、次に紹介する天神神社と共に一色氏ゆかりの神社なの。陣屋稲荷の詳しいことは下記の案内板の説明に譲りますが、現在は幸手駅のある場所が館跡地に比定されているみたいね。
一色館跡と陣屋稲荷 所在地 幸手市中1-15-31
幸手駅附近一帯に、城山又は陣屋と云う地名が残っているが、ここは古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡と云われている。一色直朝は天文年中(1532-55)に足利晴氏、義氏に従い、後、田宮庄(幸手庄)に住したと云う。直朝の子の義直も幸手庄に父と共に住したが、小田原の北条氏没落後は徳川家康に仕え、幸手庄の内に於いて5,160石余の領地を与えられている。現在は昔をしのぶ土塁跡などは見ることが出来ない。ただ、館跡と思われる位置から巽(南東)の方向に祀られている陣屋稲荷は、別名一色稲荷とも呼ばれ、一色氏の守り神として祀られた氏神であると伝えられている。今でも地元の人々の信仰を集めており、毎月22日の縁日と、初午祭などの祭りが行われている。昭和62年(1987)3月 埼玉県・幸手市
6. 天神神社 てんじんじんじゃ 8:10着 8:15発
所在地 幸手市中1-16-23 天神神社は、元は裏町天神と云われ、祭神は菅原道真である。この神社の創建については明らかではないが、戦国時代の幸手庄の領主一色氏に依って創建されたものと伝えられる。一色氏は学問の神様である天神信仰に帰依されて、幸手地方に多くの天神社を造営した。特に裏町・天神島・平須賀・神扇・上高野の五社は一色五天神と称されている。この裏町天神は一色氏館の鬼門に位置していたとも云われ、館の守護神として祀られたと伝えられている。以前は、裏町も天神社にあやかって天神町(現在は住民表示に依り中一丁目)と呼んでいたことがある。昭和63年(1988)3月 埼玉県・幸手市
文字がかすれて判別出来ないところもあるのですが、鳥居の左手にはもう一つの案内板が立てられているの。転載するにあたり、独断と偏見で文字を補ってみましたが、間違っていたらゴメンナサイね。But ■■の二文字はどうしても分からないの。
天神神社由緒 御祭神 菅原道真公 例大祭 10月25日
此天神神社の創建については詳らかでありませんが、幸手が田宮の庄と云われた応永年間(西暦1400年頃)幸手城主一色氏に依ってこの地に建立されたと伝えられております。一色氏は代々文武の道に励み、戦国の武将として勇名を残しております。学問の道には特に精進され、学問の神・天神信仰に帰依され、鎌倉の荏柄天神社より分神を勧請して幸手附近に五天神社を建立しました。当天神神社は一色五天神の一社であり、俗に裏町荏柄天神と申しております。近世江戸時代になり、一般庶民の間に学問が盛んになり、寺子屋で習字手習をする人々の間に天神講が行われ、当社には幸手宿の熱心な信者の方々の社殿修復の記録が残されております。裏町荏柄天神は久しく裏町満福寺の管理の下にありましたが、慶応4年(1868)神仏分離に依って寺から離れ、裏町の氏神として面目を一新し、学■■信仰の神として益々崇敬を深め、裏町も天神神社にあやかり町名も天神町と改め、爾来星霜百年今日の隆昌発展を見るに至ったことは神徳の然らしむところであります。昭和53年(1978)1月1日 天神神社奉賛会 小路精蔵撰文 中村素光謹書
参道を進むと正面に天神神社の社殿が建ちますが、その左手にはもう一つの社殿が建てられていたの。それが猿田彦大神を祀る猿田彦神社で、傍らには略縁起を記した案内板がありましたので、併せて紹介してみますね。尚、記述にある庚申信仰が気になる方は こちら を御参照下さいね。それにしても庚申塔のみならず、神社を造ってしまうなんて、当時の庚申信仰の隆盛を窺わせる神社よね。
猿田彦大神は庚申さまとも申します。庚申とは暦の十干干支(えと)の組合せによる60日目に1回めぐってくる庚申(かのえさる)の信仰を云います。この庚申は古く中国から渡来してきたものですが、日本では佛説と神説に分かれ、青面金剛を祀る庚申塔は佛説であります。猿田彦大神を祀る庚申さまは神説として知られております。猿田彦大神は道案内の神、方位方角の神として信仰され、明治以前までは庚申の晩は、人々は集い、夜もすがら語り明かした庚申待と云ふ行事が伝えられています。天神町も裏町と云った当時、この庚申待の行事は盛んであったそうです。安部谷助氏は信仰心厚く、地元の発展と繁栄を願い、猿田彦神社の建築を発心し、有志の方々の賛同を得、昭和5年(1930)伊勢の猿田彦本社より分神を頂き、ここに猿田彦神社を建立したわけであります。昭和55年(1980)は60年目に巡り来る庚申の年であります。由来を略記し、参考と致します。撰文 小路精蔵
7. 満福寺 まんぷくじ 8:20着 8:29発
【風土記稿】には「新義眞言宗 内國府間村正福寺末 荏柄山と號す 本尊如意輪觀音 開山秀榮元和2年(1616)7月25日寂せり 當寺も一色氏の開基と云 按に郡中天神嶋村天神社別當をも檜柄山萬福寺と號す 且かの社傳に 當所の天神社等すべて五ヶ所に天神を勸請せしと云ときは 當寺恐はもと天神社の別當寺にてありしにや」と記されるように、この満福寺は一色氏の祈願所として創建され、一色五天神の別当をも務めていたと云うのですから、一色氏の幸手支配を支えた宗教的な大黒柱でもあったわけね。
満福寺は、荏柄山満福寺と称し、真言宗智山派に属する寺で、本尊は如意輪観世音菩薩である。この寺は、一色氏発願寺の祈願として戦国期に建立されたと云われ、その後、裏町天神や八幡香取社の別当を務めた時もあった。本尊の観世音菩薩は、安産子育てに御利益があると云われている。例年8月9日、10日の四万六千日の御縁日には俗に朝観音と云い、早朝から参詣する人が多く、特にお産前のお腹の大きな御婦人の参詣が目立っている。昭和63年(1988)3月 埼玉県 幸手市
門柱を過ぎて最初に建つ鐘楼には、いわれのある釣鐘が掛けられていたの。
当満福寺の梵鐘は「そだての鐘」と申します。この梵鐘の由来を記しますと、文政4年(1821)からあった古い梵鐘は、戦中強制供出を命ぜられ、鐘楼堂は空になっておりました。幸手市御出身で、東京に於いて女子商業教育に専念し、成功なされた先生(名秘)は、お若い頃より満福寺本尊観世音菩薩の熱心な信仰者でありました。東京は空襲によって灰燼に帰し、更に敗戦、先生はこの厳しい戦後の混乱の中に、早くも学校再建の意図を目指されました。先生は秘かに日頃信仰されている満福寺観世音の法力にお縋りすべく念じ、堅く決心なされたそうです。学校再建は悪条件の中にも悪戦苦闘、不眠不休、その努力が実り再建に成功しました。先生には、これは観世音の御加護の賜と痛く感激し、昭和34年(1959)8月梵鐘を再鋳造の上奉納なされました。先生の御発想で「そだての鐘」と命名されました。先生には床しくも名を秘められました、珠算大人とのみ記させて頂きました。「そだての鐘」は、以来毎日欠かすことなく朝の祈り夕べの感謝を込め、撞き継がれております。合掌 満福寺
その鐘楼に続いて延命地蔵堂、観音堂があるの。訪ねたときにはその観音堂の前で頭を垂れる地元の方の姿もあり、ここでは確かな信仰が今でも続いているの。その他、満福寺の詳しいことは 幸手観音満福寺 を御参照下さいね。
8. 幸宮神社 さちのみやじんじゃ 8:35着 8:50発
幸宮神社は、昔、八幡香取社と云っていたが、明治42年(1909)に神社の合祀が行われたのを機に、幸手の総鎮守となり、幸宮神社と改めたと云う。本殿には彫刻が施され、拝殿には江戸時代の絵師・宗文の画いた絵馬が一対奉納されている。当社の祭礼は、元旦祭、年越祭、春秋2回の例祭が行われ、多くの参詣客で賑わっている。境内には、大杉神社、八坂神社、稲荷社が祀られており、大杉神社の神輿は6月27日に渡御されている。また、八坂神社の夏祭りは、各町内から山車がくり出し、神輿が担がれ、盛大な祭りである。八坂神社の古い記録には、貞享2年(1685)6月八坂神社を浪寄天王山に勧請すると記されている。そして寛保2年(1742)7月大洪水があって、浪寄の八坂神社の神輿は上高野に流されると記されており、祭りの古さを物語っている。以前は7月14日、15日の両日行われていたが、現在は7月の第3土曜日、日曜日に行われている。昭和63年(1988)3月 埼玉県・幸手市
先程の裏町天神も一度はこの幸宮神社に合祀されたのですが、大正10年(1921)に再び分祠されて現在に至っているの。天神町の人達は裏町天神が幸手の総鎮守となるよりも、以前のように近くにいて欲しかったのでしょうね、きっと。
大杉神社は古く詳ではありませんが、悪病除の神様として信仰厚く、茨城の阿波大杉神社の分神で、祭神は大物主櫛甕主命(おおものぬしくしみかたまのみこと)です。毎年6月27日は県下のトップで御神輿の全町渡御が行われたのが夏祭です。寛政8年(1796)の頃に盛大に渡御した記録があります。
町名改称により区制となり、道路を境として大杉町三つに区分、これに従った氏子一同の合意により奉賛会組織す。奉賛会結成15周年記念に当り、昭和58年(1983)神殿再復す。神殿周囲コンクリートの改装、茅地板の張替、銀黒の屋根瓦と金箔の鬼瓦の焼付、最新式の棟瓦模様、美観となる。氏子寄付金の御芳名南側に掲額す。
昭和58年(1983)10月 大杉神社奉賛会長 野村精二謹書
大杉神社の総社とされるのが茨城県稲敷郡桜川村に鎮座する阿波大杉神社。杉は古くから造船の材料として用いられたことからその神霊を祀ったのがそのルーツとされるの。一方、東北・関東地方の太平洋沿岸部では船霊(ふなだま)さまの親神とされる阿波(あんば)さまが漁民達の守り神として信仰されていたのですが、その「あんばさま」が大杉神社の信仰と融合するの。因みに、「あんば」は漁網に付ける浮子を「あば」と呼ぶことに由来するのだとか。その「あんばさま」ですが、江戸時代に疱瘡が大流行した際に大杉神社では大和国(現:奈良県)より三輪明神(大物主命)を勧請して祀ったところ疫病が治まり、以後は疫病除けの神としての信仰も集めるようになり、霊験灼かなことから各地に勧請されたの。当大杉神社がいつ頃から鎮座するようになったのかは分かりませんが、恐らくは権現堂川河岸の水運隆盛に合わせて勧請されたものでしょうね。元は海上交通安全・豊漁など漁業神的な存在だった「あんばさま」が、疫病除けの守り神としての性格を持ち合わせるようになった理由がお分かり頂けたかしら?
9. 雷電神社 らいでんじんじゃ 8:54着 9:08発
中世の幸手は田宮庄または田宮町といい、その中心がこの神社で、日本武尊の伝説も残されている、幸手で最も古い神社の一つです。田の中に金色の雷神が落ち、これを祠り田の中の宮、田宮としました。雷神は、水との関係が深く、特に農家の人々の信仰を集めました。また、社の裏には瘤神社・疣権現・疱瘡宮と書かれた石が建てられていて、皮膚病に悩んだ人々の、素朴な信仰の姿も見ることができます。この神社は、明治以前は幸手宿の総鎮守でした。幸手市教育委員会
【風土記稿】には「幸手宿は 田宮庄と唱へ 古は田宮町と號す・・・〔 中略 〕・・・庄名に付て俗説あり 往古民家も稀なりしとき 水田中に雷電の神體立てるを見て 村民等奇異の思をなし 宮を建て安置せり 此宮のみ田中にありて又他の民家もなければ 見る人田宮といひしより遂に此邊の地名となれりと云」とあり、雷電社の条にも「宿の鎭守なり 寶持寺の持 神體は長七寸餘黄金を以て作る像なり 故に盜難を慮りて今は寶持寺に置き 本地觀音・不動・藥師の三體のみを安せり 相傳ふ 垂仁天皇十年に 一日天地震動雷鳴し 彼像田中に下れり 依て其所に社を建て土人田宮と呼しより 後此邊の庄名となれり」と、田宮の地名の起こりが記され、雷神像と地名が深〜いところで結びついていることが知れるの。
雷電神社の御神体は金銅製の雷神像で、雷除け・雹除けに霊験灼かとされ、その一方で、雷神は恵みの雨をもたらしてくれる神さまでもあり、この雷電神社でも昭和30年代頃までは降雨祈願の雨乞い神事が行われていたようよ。社殿裏手には瘤神社と疣大権現の石祠などもあり、疱瘡などの皮膚病に悩んだ当時の人々の信仰の姿も見えてくるの。参考までに次に訪ねる宝持寺に収蔵される【田宮雷電社末社瘤癒神略縁起】を紹介してみますが、雷電神社と瘤神社の関係が分かったような、分からないような・・・
夫当社は往古伊弉諾尊衣を投け給しより顕れ給ふ瘤※神也 其後素戔鳴尊の禁制に随ひ給ふ 過て則改に憚ることなかれと邪横の心を改め 今より後世葦原の中津国に於て 蒼生の子孫に疣瘤※の煩にて憂る輩 忽ち平癒させん事を素戔鳴尊に誓ひ給し御神なり 其後人皇11代垂仁天皇御宇に当り 御本社裂雷神幸手領惣社雷電宮と鎮座し奉りし時 則末社に鎮め奉り御本社と倶に天下泰平・五穀成就・国家安全を守護し給しなり 雖然誰として瘤※神と唱るものなし 不思議になるかな近世瘤※神明らかに現れ給ひ頻に誰唱るとなく 瘤※癒神と鎮め祭り奉り 此年殿屋建立成就し 神徳日々に新にして月々に盛んなり 依りて御本社雷電宮信仰の輩は利益を蒙さるはなし 一度再拝の道俗子孫に疣瘤※の煩ひなからしめんとの請願なり 尚神験数多有といへども茲に略す 田宮雷電宮 氏子謹白之 丙寅正月
※本当は「广+嬰」の字が正しいのですが、表示不能ですので代用文字で御容赦下さいね。
因みに、「こぶ」と訓みます。
10. 宝持寺 ほうじじ 9:31着 9:43発
宝持寺 禪宗曹洞派 遠江國石雲院末 金龍山と號す 本尊釋迦を安す 又前にいふ雷電の神體を置り※開山季雲大永6年(1526)2月15日寂す 開基一色宮内卿公保寛政5年(1464)2月17日卒し 法諡を寶持寺殿孝嚴相公庵主と號す <中略> 明應7年(1498)宮内卿公保子石堂四郎義房 父の菩提の爲一寺を建て養康を佳さしめ 則公保の法諡を取て寶持寺と號し 七堂伽藍の道場とす 夫より養康一色の家臣金子淡路守勝則を倶にし 遠州に到り師季雲を請し開山とし 其身は第二世を嗣き 天文18年(1549)4月25日102歳にて寂せり【風土記稿】※現在は雷電神社の社殿内に戻されているようよ。
宝持寺の現在の山号は龍興山で、石雲院(静岡県榛原町)末の曹洞宗寺院ですが、寺伝に依ると実質的な開山は太安養康(一色頼氏の三男)で、開基は幸手一色氏の祖とされる一色公深(公保)とされているの。と云うのも、公深の子・石堂四郎が明応7年(1498)に父の菩提供養のために太安養康を住持として招来して開創したことに依るの。
その太安養康(幼名・力丸)ですが、父・頼氏の下で勇猛果敢な若武者に育つとやがて初陣で数多くの首級を挙げるのですが、いざ首実検の段になるとその中に自分と同じ年頃の若武者の首があることに気付くの。戦の定めとはいえ、力丸は深く傷付き、自責の念に駆られた力丸はやがて剃髪して名のある高僧の下で修行に努め、後に太安養康と名乗るようになったとも伝えられているの。伝承ですので史実如何は不明ですが、思わず立ち止まって手を合わせたくなる逸話よね。
11. 正福寺 しょうふくじ 9:53着 10:12発
この正福寺で忘れてはいけないのが説明にもある義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)なの。少し長くなってしまいますが、改めて御案内してみますね。【風土記稿】の褒善者知久文左衛門の条には「當所久喜町を開きし帶刀の子孫なり 名主及宿の問屋を勤む 天明3年(1783)信州淺間山燒のとき 此邊おしなべて其餘灰に埋り 窮民多かりければ 近郷の富家に謀り 飢人に食物を施すこと 翌正月より三月に至り 夫より七月までは宿内萬福寺境内にて粥を施すこと百五十日 依て村民餓死を免れり」とあるの。
記録的な大噴火となった天明3年(1783)の浅間山大噴火は麓の鎌原村(現・群馬県吾妻郡嬬恋村)のみならず、堆積した火山礫や火山灰は土石流となって利根川流域に押し寄せ、権現堂川にも夥しい量の漂着物が流れ着いて川面を埋め尽くし、水位が上昇。噴煙で太陽光が遮られ、盛夏にも関わらず綿入れが必要なほど気温が低下した為に作物も実らず、江戸三大飢饉の一つに数えられる「天明の大飢饉」が発生し、この幸手宿でも飢えに苦しむ人々が巷に溢れたの。そこで宿場内の名主や富裕商人等21名が金品を供出して窮民の救済をはかったの。それを伝え聞いた関東郡代・伊奈半左衛門(忠尊)は彼らを江戸に招き、その美挙を褒め称えたの。But 頼みとする麦は未だ実らず、宿内には相変わらず餓死者が絶えずにいたことから、先の有志21名は麦が稔る迄の間、萬福寺で施粥することにしたの。その美挙は後に儒学者・松村延年の撰文により石碑に刻まれ、後世の人々に永く伝えられるようになったの。それがこの義賑窮餓之碑と云うわけ。出来ればその碑文を転載したかったのですが、漢文に加えて、碑面に苔が浸食して判別出来ない文字も多くあり、やむなく断念。並々ならぬ探求心をお持ちの方は現地にて御確認下さいね。
【風土記稿】は更に続けて「同7年(1787)飢饉して民心安からず 或は黨を結て亂をなすに至らんとす 文左衞門年頃貯置し雜穀を賣て窮人に貸與ふること六十金 又米商に教諭し米價を賤くせしむ 宿内是が爲に彼の黨に加はらざることを得たり 此地水災多く 廢田となりしをば 文左衞門土人を諭し 力を合せて若干の田を起復し 寛政4年(1792)より其貢を收めしかば 時の御代官小出大助其精力を感じ 言上しければ褒賞ありて白銀を賜へり 翌年又田若干を再墾せり 其後故有て數多の百姓を下野國都賀郡乙女村に移住せしむることありける時 粕壁宿の民喜藏といへるものと心を合せ 彼地に至り己が財を費して扱ひけり・・・〔 中略 〕・・・同5年(1793)洪水のおりは 近郷富家の人とはかりて金二百兩を集め 食料及耕種の料として貸しあたふ 又權現堂川屡水溢ありしを さまざまにはかりて是を防ぎ 堤の缺たるは私に修理を加ふ 且毎年七月十二日には宿の貧者に米穀を與ふ また傳馬役に心をつくし 助成金の法を考てこれを行ひ 夫役に給す 宿内よりて乏からざることを得 これ等のこと官に達して賞せられ 苗字は子孫まで名乘 刀は其身一代帶することを免さる 時に寛政6年(1794)九月なり」と、その善行が記されているの。
But その幸手宿でも天保4年(1833)に始まった「天保の飢饉」の際には正福寺に集結していた500人余の群衆が暴徒と化して宿内の富裕な商家を襲ったの。飢饉の最中に関わらず、米値の値上げを強行した商家に怒りを覚えた群衆は、僅か二日の間に幸手宿内外の23軒を打ち壊してしまったの。「天明の飢饉」では義を重んじた幸手宿の商家の人達も代替わりしたのか、或いは度重なる飢饉に疲弊してしまったのかも知れないわね。余談ですが、大坂ではその「天明の飢饉」の最中にも関わらず、豪商達が米を買い占めて暴利を貪ったと云うのですから、幸手宿の商家の人達ばかりを攻めることも出来ないわね。
境内の一角には寛政12年(1800)の銘を持つ馬頭観音供養塔が残されているの。この供養塔は日光街道の道標を兼ねていて、左側面には「左 日光道中」、右側面には「右 ごんげんどうがし(権現堂河岸)」と刻み込まれているの。元々は日光街道沿いに建てられていたものが、道路改修で境内に移されて来たものみたいよ。
12. 一里塚跡 いちりづかあと 10:13着 10:14発
徳川家康は慶長9年(1604)に、全国の主要な街道に一里塚を築かせました。江戸日本橋を起点として、一里(約4Km)毎に街道の両側へ、五間(約9m)四方の塚を築き、その上に榎等を植えて目印にしました。榎は根が深く広がるので、塚が崩れにくかったのです。一里塚は、大切な距離標だったばかりでなく、荷役人の賃金計算の距離基準であり、旅人の休憩所ともなりました。幸手の一里塚は、明治初めまでここの両側にありました。幸手市教育委員会
ここではその一里塚跡から正福寺の門前を眺め見た写真で御容赦下さいね。本来なら一里塚跡の景観を紹介すべきなのですが、ξ^_^ξが訪ねたときには廃屋が隣り合わせに佇み、凡そ歴史浪漫とは程遠い景観を呈していたの。あれから日にちも経ちますので、現在では或いは改善されているかも知れないわね(未確認モード)。因みに、画面右下に写り込んでいるのが、上に紹介した一里塚跡の案内板なの。
13. 聖福寺 しょうふくじ 10:15着 10:18発
聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺と称する浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来であり、観音像は運慶作と伝えられている。徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、天皇の例幣使や歴代将軍が18回にわたり休憩した。将軍の間、例幣使の間、菊の紋章の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻等も保存されている。また、御朱印状により10石を賜ったことがわかる。境内の左手に二つの石碑があって、一つには「花づか」と彫られている。江戸文化が華やかであった寛政の頃、幸手宿に秋月庵一松という人がおり、遠州流生花を普及させた。その後、日光道中でさかんになり、明治になって遠州流の人達がこの碑を建てたものと云う。もう一つは「金子竹香顕彰碑」である。金子竹香は江戸時代の儒者であり、書家としても有名で、幸手に住んでいた。この碑の碑文は儒者で、折衷学派の亀田綾瀬の撰文と書によるものである。昭和63年(1988)3月 埼玉県・幸手市
聖福寺は応永年間(1394-1427)に安阿聖龍(あんあしょうりゅう)上人が開山したもので、大永年間(1521-27)に乗誉岌伝上人が中興開山となっているの。因みに、元和3年(1617)に徳川家康の遺骸を久能山から日光に移す際にはこの聖福寺に一時安置したとされ、歴代将軍が日光社参の都度、この聖福寺を御殿所(将軍の休憩所)としたのも頷けるわよね。
〔 聖福寺勅使門 〕 幸手市指定有形文化財建造物 この唐破風の四脚門は建造後、約350年の歴史を有します。扉には菊の紋様が刻まれており、勅使門と呼ばれています。嘗ては将軍一行や例幣使(天皇が祭礼に送る使者)が来た時しか、開くことはありませんでした。ここ聖福寺は、日光東照宮に参詣した歴代将軍の休憩所であり、また、東照宮例祭に臨席した例幣使も休憩をとりました。この勅使門は修理の手も加えられていますが、日光道中の宿場として栄えた幸手の隆盛を偲ばせるものです。幸手市教育委員会
余談ですが、享保13年(1728)4/14に徳川幕府第8代将軍吉宗が日光社参の途次に立ち寄った際の昼食(お弁当)の献立を紹介してみますね。意外と質素な内容で、今ならコンビニなどで売られている幕の内弁当の方が遙かに豪華版に思えてしまうわね。尤も、当時は白米を口にすることが出来る人は限られていたみたいなので、庶民にしたらこの内容でもお盆とお正月が一度に来たようなものだったのかも知れないわね。
14. 浅間神社 せんげんじんじゃ 10:26着 10:36発
富士山信仰に基づいた、木花開耶姫を祭神とする神社で、土を高く盛って山に譬えたものの上に建てられています。幸手宿の豪商・長島屋が文久2年(1862)に創建したと伝えられ、明治9年(1876)に再建されました。7月1日は初山と云って、その年に生まれた赤ん坊を参拝させ、額に神社印を押して貰い、ネギ(節のない子に育つように)・うちわ(子供が夏を無事に過ごせるように)・痰切飴(富士山にある本社に登る時のどが楽なように)を買って健康を願う風習が今も行われています。幸手市教育委員会
次の浄誓寺を訪ねる途中で見つけて立ち寄ってみたのがこの浅間神社。拝殿に続く幣殿は覆屋となっていて、内には本殿が収められているのですが、施されている彫刻が見事なの。
今回の散策で一番のロング・アプローチとなるのがこれから訪ねる浄誓寺なの。ξ^_^ξの脚では浅間神社から40分程掛かってしまいましたが、歩道のない車道を歩くことになりますので車には充分気を付けて歩いて下さいね。その浄誓寺門前で市内循環バスのBSを見つけた時は小躍りしたのですが、時刻表を見てみると何と一日に4便しか無いの。せめて片道だけでも歩かずに済ませたい方は 幸手市HP に運行ルートと時刻表が掲載されていますのでトライしてみて下さいね。それはさておき、気になる浄誓寺への道順ですが、浅間神社からは広域農道入口の交差点を目指して、先ずは直線コースを歩いて下さいね。途中には見るべきものが何もないのでひたすら歩かなくてはならず、苦痛に感じてしまうのは否めないわね。But 途中にはコンビニが幾つかあるので飲み物などには不自由せずに済むわよ。そうして進行方向に広域農道入口の交差点が見えて来たらその手前に渡辺指圧治療院があり、更にその手前に浄誓寺への脇道入口を示す案内板が立てられているので見失わないようにして下さいね。
15. 浄誓寺 じょうせいじ 11:16着 11:27発
通光山浄誓寺と称し、浄土真宗の寺で、本尊は阿弥陀如来。境内に高さ3m程の塚があり、頂に風化した五輪塔が立っています。ここに、天慶3年(940)の天慶の乱で、平貞盛・藤原秀郷等の連合軍と幸手で最後の一戦を交え、討ち死した平将門の首が埋められたと伝えられており、市指定史跡となっています。付近にも、将門の血が赤く木を染めたことからつけられた、赤木という地名もあり、将門に関するいわれが多く残っています。幸手市教育委員会
実は、この浄誓寺をどうしても訪ねてみたかった理由が案内板にもある「将門の首塚」なの。左掲がその首塚ですが、頂きには五輪塔が建てられているの。と云っても、空・風・火・水・地輪の内、水輪・地輪のみが元からのもので、他は後世に補修されたものだそうよ。加えて、年号も銘文も無いので、何を以て「将門の首塚」とされたのかも不明なの。But 説明にある赤木の地名由来の他にも、幸手には平将門に関する伝承が残されているの。真偽の程は御覧のみなさんの御賢察にお任せしますが、その幾つかを紹介しておきますね。
浄誓寺を後にして権現堂桜堤に向かいますが、途中の道筋には珍しいマリア地蔵が建てられているの。場所は権現堂集落農業センター脇の広場の一角に並び立つ石像群に混じってあるのですが、浄誓寺からはまたしてもロング・アプローチとなるの。ξ^_^ξの脚では30分程の道程でしたが、広域農道入口の交差点を経て遠回りしてしまった愚かなξ^_^ξでした。今思えば来た道を折り返して幸手警察署入口の交差点を経由すれば良かったのね。その方が少しは時間の節約が出来ると思うわ。余談ですが、地図を片手に歩いていたのですが、神明内には何と香取神社が六社もあり、犬も歩けば(笑)香取神社にぶつかる程よ。地名からすると、嘗ては香取神宮の神領が広がっていたのかも知れないわね。
16. マリア地蔵 まりあじぞう 11:57着 12:02発
さきたま出版会刊 川島恂二著 『関東平野の隠れキリシタン』にはまさに目から鱗の論考がなされているの。
このマリア地蔵を含め、幸手の隠れキリシタンのことが気になる方は是非御一読をお薦めしますね。
17. 熊野神社 くまのじんじゃ 12:13着 12:24発
マリア地蔵を後に権現堂堤に向かいましたが、途中にある北三丁目交差点には熊野神社が鎮座するの。実はこの熊野神社、嘗ては熊野権現社と呼ばれ、権現堂の地名の起こりになっているの。参道脇に建てられた石碑には、その由来が記されていたので、紹介しますね。因みに、参道の左手には今にも倒れそうな絵馬堂がありましたが、奉納された絵馬や額が数多く掛けられているの。残念ながら説明にある権現堂堤修復絵馬は本殿内に収蔵されているみたいで、普段は実物を見ることは出来ないようね。
当社の創建は天正年間(1573-1592)と伝えられ、古くは熊野権現社と号した。順礼伝説の起こりである享和2年(1802)の大洪水により古記録等も流失し、現在の社殿は文政8年(1825)に再興されたものである。江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」権現堂村の項に「村内に熊野・若宮・白山の権現を合祀せし旧社あれば、此村名起れりと云」とあり、村内の権現三社を合祀した古い神社から「権現堂村」と云う名になったことが記されている。柳の会主宰 柳田恭三 撰文
熊野権現社は紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名の起りでもある。元は熊野権現、若宮権現、白山権現の三柱の神を合祀した神社でもあったと云う。この付近は、江戸時代から大正時代にかけて権現堂河岸の船着場として栄えたところで、神社には、船主や船頭、江戸の商人等からの奉納品が数多く保存されている。明治28年(1895)に奉納された権現堂堤修復絵馬は、幸手の絵馬師・鈴木国信の作で、内務省の役人の監督のもとに、地形築(じぎょうつ)きや土端打(どはう)ちの女人足が揃って作業を行っているところを描いている。当時の治水技術を知る上で貴重な資料となっている。また、境内にある庚申塚は自然石に刻まれたもので、この辺りでは珍しいものである。昭和63年(1988)3月 埼玉県・幸手市
権現堂堤は、江戸時代から治水政策に大きな役割を果たしていました。「権現堂堤が切れると東京中が水浸しになる」と云われ、明治26年(1893)に大規模な修理が行われています。熊野神社に納められている権現堂堤修復絵馬には、その時の工事や、当時の河岸場(舟運の荷上げ場)の様子が色鮮やかに描かれています。明治28年(1895)の奉納で、願主は「工事仕立人 武内大次郎」となっており、工事の無事完了を感謝したものと思われます。幸手市教育委員会
18. 権現堂桜堤 ごんげんどうさくらづつみ 12:29着 14:28発
佛子順禮何れの仁なるを知らず 傳享和2年(1802)6月權現堂川汎濫し地方民日夜水防に盡したりしが本流益々加はり 堅固なる堤塘も危險刻々に迫る 折しも親子連の順禮來り 我等人柱となりて萬民を救はんと自ら激浪中に投ず 須臾にして水勢衰ひ 遂に崩壞を免かれたりと云ふ 爾來此處を順禮曲輪と稱せり 亦明治32年(1899)10月洪水あり 順禮樋管決潰し時の町長兼組頭小林幾平 消防員を督勵し防水に努む 偶々勇敢なりし中山伊三郎は激流のため殉職せられたり 今や堤上數里櫻花の絢爛年と共に加はり 關東隨一の稱あるに至りしも 過去を追憶せば轉た今昔の感に堪えざるなり 茲に本會は此等殉難者慰靈の爲 供養塔を建設して其の冥福を祈ると云爾 昭和8年(1933)4月 幸手商工會
余談ですが、平成2年(1990)、桜堤でキャンプ場設営の際に順礼曲輪西側の地から大小二基の卵塔が出土し、各々「延宝五丁巳年(1677)九月十七日 阿闍梨真宣 當寺開山」、「元禄七甲戌年(1694)三月十八日 権大僧都 盈海法印」と刻まれていたの。誰が、いつ、どんな理由から埋めたのかなどは一切分からないのですが、順礼母娘の悲哀伝説と関係がありそうね。
権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年(1875)6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです(現在は国道4号線がその上を通っています)。明治9年(1876)6月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。明治22年(1889)の町村制施行によって高須賀村・外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併して行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成12-17年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、堤が高くなったために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。幸手市教育委員会
権現堂桜堤の御案内の最後に締め括りとして昭和6年(1931)に発行された【幸手町勢要覧】の記述を紹介しますね。
文語調の文体は、どこか叙情的な香りがするわね。
当町の北隅権現堂川の南堤 其名も畏し行幸堤 今本町の名所として 又 旧跡として当町の花形である。利根川の分流権現堂川は数年に亘る改修を終えて さしもの由緒ある権現堂大堤防も 殆ど廃堤同様の有様となった。茲に於いて永久に記念する為 権現堂川行幸堤史蹟保存会を起し 大正九年に長堤四里に桜を植えつけ 爾来繁茂極めて佳良にして爛漫たる花の盛りは蜿蜒たる長堤全く花の雲となす 更に左右十里の武蔵野の平打ち続く麦の線に 菜の花の黄金 さては富士・筑波の遠望宛然一幅の活画の如く 都人士の来遊も頗る多く 関東随一の稍がある。そして栗橋に通ずる国道の傍に在る高さ丈余の記念碑は明治9年東北御巡幸の際 籠駕を駐めさせて給へる天恩を無窮に伝へている。
権現堂桜堤と行幸湖の間を流れる中川に架設された外野橋(そとのはし)は世界に4例しかないと云う珍しい吊り橋よ。
当初は更に足を延ばして史蹟めぐりをしながら栗橋駅までを歩く積もりでいたのですが、時間的にはどうみても無理ね。オマケに疲れたξ^_^ξの脚は勝手に帰路を向いていたりして。仕方なく、栗橋の歴史散策は次回に譲ることにして幸手駅に向かい歩き出したの。But 今にして思えば路線バスに乗車すれば良かったわね。事前調査では運行本数が一時間に一本と、およそあてには出来ない代物だったので、当時はバスへの乗車はすっかり頭の中から消えていたの。BSは桜堤東端から直ぐの場所にありますので、時間が折り合えば充分利用可能ね。気になる徒歩での所要時間ですが、ξ^_^ξの脚でも30分程の道程よ。But 以前、桜まつりの際に一度幸手駅から権現堂堤までを歩いてみたことがあるのですが、そのときは小一時間も掛かってしまったの。もっとも商店街の店先を覗き込んだり、道沿いに咲いている花々を愛でながらのんびりと歩いたせいではあるのですが。
19. 幸手駅 さってえき 15:03着
幸手を訪ねおきながら毎年行われる「桜まつり」を紹介せずに済ませてしまってはいけないわよね。権現堂桜堤は地元の方のみならず、関東近県からも多くの花見客が訪れる関東有数の桜の名所なの。開花期には長さ約850mにわたる桜堤はまさに桜のトンネルになるの。その様子を 幸手権現堂の桜まつり で紹介していますので、宜しければお立ち寄り下さいね。CMでした(笑)。
知人に勧められて出掛けてみた権現堂桜堤のお花見を機に、興味を覚えて訪ね歩いた幸手の寺社めぐりですが、残されている事蹟からは浅間山の大噴火や大水に依る権現堂堤の決壊など、度重なる自然災害にも必死で立ち向かった当時の人々の姿が見えてくるの。人柱となった順礼母娘の物語は悲哀を誘いますが、同様のお話は岩国の錦帯橋を始め、全国各地に点在し、当時の人々の宗教観を窺い知ることも出来るわね。一方、浄誓寺に残る将門の首塚からは将門伝説が、マリア地蔵からは隠れキリシタンの存在が偲ばれるなど、歴史浪漫に彩られた史跡も数多く残されているの。当時の人々にすれば、その多くが生きるか死ぬかの鬩ぎあいの中での出来事ですが、その艱難に思いを馳せるとき、当時を生きた人々の心模様が見えてくるの。いかがですか、今度の週末にでも一度訪ね歩いてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
さきたま出版会発行 秋葉一男編 埼玉ふるさと散歩
埼玉県立図書館発行 埼玉県編 武蔵国郡村誌
幸手市教育委員会発行 幸手市史 通史編
幸手市教育委員会発行 幸手市史 民俗編
その他、現地にて頂いて来たパンフ&資料
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