指扇・歴史街道のお散歩ではJR川越線の北側に残る史跡や寺社を訪ね歩いてみましたが、今回の散策では南側のエリアに足を向けて見たの。But 実際には土屋や馬宮などの地区を対象としていることから、指扇のお散歩とするには難があるのですが、JR指扇駅を起点としたお散歩と云うことで御了承下さいね。掲載する画像は幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたがクリックしてみて下さいね。
1. 馬宮コミュニティ−センタ−BS まみやこみゅにてぃーせんたーばすてい 9:25着発
尤も、どの道を歩くかで所要時間も変わってきますので、追体験される場合には自己責任でお願いしますね。それはそうと、追体験の時期が紫陽花の開花時期とは限らないわよね。今回は指扇氷川神社には立ち寄らずにおくわ−と云う方は、JR指扇駅から9:21発(土曜ダイヤ)の「大宮駅西口」行に乗車して下さいね。運賃:¥180 ( 発車時刻、運賃共に'16.06 現在 ) 上掲の写真では電柱の傍らがバス停になりますが、画面右手の植え込みの中に「土屋陣屋と永田家」のことを記した案内板が立てられているの。お見逃しのないようにね。
〔 土屋陣屋と永田家 〕 永田家屋敷のルーツは、江戸時代初期に遡ります。徳川家康の家臣で、関東郡代の要職にあった伊奈備前守忠次が荒川改修・新田開発を行うために当地に居住、回りに堀を巡らし陣屋( 土屋陣屋 )としたもので、堀は現存しています。新田開発・治水に係わる業績は現在の暮らしにも活かされており、金山神社北側の堀( 通称・代官堀 )もその内の一つです。永田氏は、伊奈氏と共に荒川改修・新田開発に尽くし、陣屋跡地を拝領して現在に至っているものです。明治期に活躍した永田荘作〔 ながたしょうさく・大正9年(1920)没 〕は、大隈重信率いる改進党に属し地域の発展に尽くし、また、漢詩をよくし西里と号して文化活動にも力を注ぎました。その子・二郎〔 昭和46年(1971)没 〕は県内の洋画家の先駆として大正〜昭和期に活躍、馬宮村村長も務め地域の発展に尽力しました。屋敷一帯は、長屋門や松並木が美しく、心落ち着く風景を残しています。さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課
今回の散策エリアには難読の地名が幾つかあるの。
単にξ^_^ξが知らなかっただけのことかも知れないけど、挙げてみますね。
2. 永田家長屋門 ながたけながやもん 9:27着 9:32発
案内板の文責には大宮市教育委員会とありますが、大宮市は平成13年(2001)に浦和・与野両市と合併して現在はさいたま市になっているの。この頁では現地案内板に記載される説明文を紹介していきますが、幾れも記載されるままとしていますので、適宜読み替えをお願いしますね。
ここでちょっと寄り道をしますね。永田家長屋門から少し離れてこの道香院があるの。可次が可清の遺言に従い創建したと云う一宇がこの道香院で、【風土記稿】には「禪宗曹洞派 遊馬村高城寺末 青蓮山と号す 本尊釋迦 當寺は名主庄左衞門が先祖 市太夫可清が爲に其子可次創建せり 由て其諡をもて院號とす」とあるの。遺言により創建されたと云う道香院ですが、可清は何を託そうとしたのかしらね。己が後生、それとも子々孫々の安寧かしら。墓苑にはその可清をはじめ、永田家歴代の墓塔が建ち並んでいるの。また、永田家長屋門からは300m程離れますが、土屋氷川神社があるの。併せて紹介しておきますので、気になる方は足を向けて見て下さいね。
〔 土屋氷川神社 〕 当社は荒川と入間川の合流地点から東に約2Km程離れた自然堤防上に鎮座している。西隣の遊馬村には荒川の乱流を防ぐため大囲堤(おおかこいづつみ)が築かれており、江戸期には遊馬村と組合を結成し維持管理に当たっていた。しかし、川の湾曲点のために水当たりが強く、大雨の際には決壊し、その度に両村で修復を行ったと云う。【風土記稿】には「氷川社 村の鎮守なり 薬王寺持」とある。創建については明らかでは無いが、当地は荒川の氾濫によって、しばしば被害を受けたことから、治水の神として、当社を荒川に最も近い村の西端に祀ったのであろう。別当の天台宗青光山薬王寺は別所村(現・西区指扇領別所)福正寺の末寺である。口碑に依れば、昔の社殿の瓦には卍が刻されていたと云い、当社の創建には薬王寺が関わっていたと思われる。本殿には、神祇管領(じんぎかんれい)吉田家から拝受した宝暦7年(1757)3月21日銘の氷川大明神幣帛(へいはく)と宗源祝詞(そうげんのりと)が奉安されており、この頃には既に村の鎮守として位置付けられていたものであろう。この他に、天保2年(1831)に一宮の氷川神社から拝受した木札が納められており「武蔵国一宮氷川神社御祈啓疫神斎村中安全守護攸大宮神主角井出雲守」との墨書がある。神仏分離後、薬王寺は廃寺となり、当社は明治6年(1873)に村社となった。
3. 高城寺 こうじょうじ 9:38着 10:12発
高城寺は、西遊馬の「宿」と呼ばれる所にあります。天文12年(1543)の開創と伝える古い寺で、御本尊は室町時代の様式をもつ薬師如来坐像です。境内にある観音堂は嘗ては堤外にあったものと伝えられ、荒川の改修に伴い移転したものです。西遊馬の旧家の殆どが当寺に墓地を持っており、地域に密着した寺院です。江戸時代の後期には寺子屋が開かれており、氷川神社( 山門を南へ約50m )境内には高城寺10代の泰範賢州( たいはんけんしゅう )和尚が”先生”をしていたことを伝える天満宮が祀られています。また、明治6年(1873)には遊馬学校が当寺にて開校、現在の馬宮東小学校へと発展していきます。このため、寺紋と馬宮東小学校の校章は同じ”五七の桐”になっています。
記述にあるように、正春が開山だとすると開基は誰なのかしらね。天文12年(1543)と云えば世は戦国時代、この辺りを治めていた武士が開基したと考えられなくもないわね。戦乱で負傷することも、それどころか命を失う可能性も当然あった訳で、薬師如来に疵の治癒を願い、ときには命の長らえを祈願していたのかも知れないわね。それとも、武士に依る開基を離れて、罹病などの流行り病で亡くなる村人達が多かったことなどから、病魔退散の御利益を期待しての開創かしら。今となっては創建された背景を詳しく知る術は無さそうだけど。
〔 高城寺の庚申塔 〕 大宮市指定文化財(有形民俗文化財) 昭和50年(1975)2月7日指定
引き続いて客殿(?)を紹介しますが、御覧のように、アプローチの両側には色とりどりの花々が植えられていたりして、お寺なのに、どこか女性的な気配りが感じられたの。寺院と云えば、日頃、無機的な景観ばかりを見慣れた目には殊の外新鮮ね。この高城寺では煩悩さえも是とするような、そんな優しい時間が流れているような気がするわね。
本堂の左手には墓苑が広がりますが、その前には観音堂があり、白亜の観音像が建てられていたの。先程紹介した【風土記稿】の記述に「觀音堂 此堂元堤外にありしを元和6年(1620)ここに引移せりと」とあるように、元々は高城寺のものではなかったのですが、近年新たに建て替えられ、今ではすっかり高城寺の伽藍の一つとして同化しているの。最後に、その観音像を紹介して高城寺の御案内を終えますね。
4. 西遊馬氷川神社 にしあすまひかわじんじゃ 10:14着 10:22発
この案内板に限らず、地名を指す場合には水判土だけど、その水判土の慈眼寺境内にある観音堂のことを云うときには何故か水波田を当てることが多いの。水判土と水波田の使い分けは何に依るのかしらね。
□御祭神と御神徳
ここで再び地名のお話になりますが、歩いていて不思議に思ったことがあるの。下車したバス停の傍らには馬宮コミュニティ−センターがあり、高城寺の隣には馬宮東小学校があるので、当然、この辺りは馬宮と云う町名なのね−と思うわよね。But 紹介した氷川神社は西遊馬氷川神社になっていたので、道を隔てて西遊馬に変わったのかも−と思った矢先、今度はさいたま市西区の馬宮支所兼馬宮公民館があり、再び馬宮に戻ってしまったの。そんなこんなでξ^_^ξの頭は「何なのよ、ここは。馬宮と西遊馬が入り乱れていて、一体全体ここは何町になるの?それとも飛び地なのかしら?」状態。偶然にも、その疑問に答えてくれる説明が、その馬宮支所の前に立てられていた案内板にあったの。馬宮は町名じゃなくて、地域の名称だったのね。読めば納得ね。
〔 馬宮と荒川 〕 馬宮地区は、大宮市の南西部に位置しており、西遊馬・土屋・二ツ宮・プラザ・湯木町・飯田新田・塚本町・塚本・植田谷本村新田を含んだ地域を指します。明治22年(1889)にこれらの地域が合併した折、西遊馬の「馬」と二ツ宮の「宮」をとって馬宮と付けました。昭和30年(1955)に大宮市へ合併し現在に至っています。公民館・支所の西側を通る道は、大宮と川越を結んだ古い道で、道沿いに集落が出来ました。道と集落は、嘗ての荒川の氾濫土が堆積した自然堤防上にあり、周囲の水田に比べ高くなっています。馬宮の特徴の一つに、荒川が地区の中央を流れ下っていることが挙げられます。元の荒川(現びん沼川)は、馬宮と川越市〜富士見市境を流れていました。改修工事による新しい荒川が、大正末〜昭和初期に馬宮のほぼ中央を貫通するようになり、地区は東西に二分されたものの、毎年のように繰り返された荒川氾濫による被害は最小限のものとなりました。さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課
5. 金山神社 かなやまじんじゃ 10:36着 10:42発
〔 金山神社 〕 佐知川上(かみ)の人々がお守りする社です。創建の詳しいことは分かりませんが、祭神に金山彦命(かなやまひこのみこと)、金山姫命(かなやまひめのみこと)を祀り、明治6年(1873)に村社に列せられました。境内には天神社をはじめとする十三社が祀られています。金山神社は一般的に鍛冶職人が信仰する神社とされています。近年の発掘調査で佐知川から水判土へ至る台地上の古墳跡や、県道沿いで検出された平安時代の住居跡から鉄製品が出土しているので、これら鉄製品を作った職人達の集団が金山神社を祀ったのではないかと推測できます。尚、隣接する金山堂では円哲と彫られた仏像群が発見されています。神社脇を「代官堀」と呼ぶ江戸時代初期に開かれた水路が流れています。井戸尻(プラザ)の水を排水し、水田化するために関東郡代伊奈備前守によって開創されたので、そう呼ばれています。今は都市排水路となり、水も澱みがちで、昔の面影は失われてしまいました。〔 以下省略 〕 平成元年(1989)10月 大宮南西ロータリークラブ
これらのことから、当地で製鉄・鍛冶・鋳造などを行っていた集団が居住していた時代があったことが推測される。往時の別当は、天台宗の金生山覚蔵院正覚寺(明治6年(1873)廃寺)※で、西側の代官堀を隔てて、覚蔵院跡がある。境内には天神社・八雲社・琴平社・厳嶋社・日枝社・八幡社と明治40年(1907)に合祀した字前の神明社、同境内社の三王・荒神・稲荷・御嶽・水神の五社、字前の第六天社、字後谷(うしろや)の一本松稲荷社がある。
※【風土記稿】には「天台宗 水判土村慈眼寺末 金生山正覺寺と號せり 金山社 神明社 山王社 第六天社」とあるの。
6. 金山堂 かなやまどう 10:43着 10:46発
金山神社と境内を接してこの金山堂があるの。傍らの公孫樹の木の根元には二基の庚申塔が建てられていますが、金山神社の境内に立てられていた案内板には「プラザを造成する時に移されたもので、今も「村はずれの庚申様」と信仰されています」とあるので、「昔のまま残っている」とは云うものの、元々は現在地にあったわけではないようね。像容は青面金剛を主尊として三猿を配したもので、とりわけ、左手に建つ庚申塔は笠付きと立派なものね。造立にはそれだけ費用がかさんだハズで、当時の庚申信仰の隆盛が偲ばれる逸品ね。
7. 願満堂 がまんどう 11:01着 11:05発
〔 願満堂 〕 「がまんどう」と呼び親しまれているお堂で、佐知川の人々の墓地となっています。墓地へ入った南側に保存されている板碑は、文永5年(1268)5月造立を最古に、年号の分かる新しいものでは天文12年(1543)のものがあります。幾れも北方にあった覚音院〔 明治6年(1873)廃寺 〕に所在していたものを保存のため移動したものです。また、江戸時代前期の天和2年(1684)、元禄3年(1690)の庚申塔が2基保存されており、佐知川村の人々により建てられたことが彫られています。徳川家康が旗本数騎と共にここで休憩をしようとしたものの、戦機急にして小休止も許さず、当地で休むことを我慢して通りす過ぎたことから「がまんどう」と呼ぶようになったと云う伝説があります。南は、水波田観音、鳶坂(とんびざか)、並木橋を経て、家康が休憩してお茶を飲んだと云う茶堂に至り、更に大宮や与野へと続き、北は金山神社、高城寺、荒川を経て川越へと結ばれています。さいたま市教育委員会・生涯学習部文化財保護課
最初の庚申塔は天和四甲子年(1684)の銘を持つ庚申塔で、佐知川村の人々の手に依るものよ。説明には「天和2年(1684)」とあるけど、天和4年の間違いじゃないかしら。一方の笠付き庚申塔の右手には板碑群が写りますが、明治6年(1873)に廃寺となった覚音院にあったものよ。その覚音院ですが、【風土記稿】には佐知川村の項に「覺音院 天台宗水判土村慈眼寺末 梅林山金藏寺と稱す 本尊阿彌陀を置り」とあるのみで、委細不明なの。
8. 慈眼寺 じげんじ 11:13着 12:02発
曲折を経て天正19年(1591)に徳川家康から寺領10石の寄進と共に朱印状を得ているの。その後、「中興の祖」とされる円海上人が寛文11年(1671)に観音堂を建立するなどして再建がなされたの。更に時を経て、近年では平成に入り「平成諸堂大建立」が行われ、観音堂を初めとした主要な堂宇が改築・新築されたの。新しさの中にも屹然とした佇まいは、時代の荒波に揉まれながらも法灯を守り続けて来た誇り故のものね。
ところで、この山門ですが、古くは単に表門と呼ばれていたみたいよ。と云うのも、本堂は本堂でも仮本堂の扱いだったので、その前に建つ門は単なる表門だったと云うわけ。じゃあ、本当の本堂はどうしたのかと云うと、当時は観音堂がそれに相当する建物として扱われていたみたいね。現在の山門は昭和56年(1981)に建立されたもので、本堂造営に合わせて表門から山門に昇格したみたいね。それから推すと、仮本堂は昭和50年(1975)に一度改築されているので、本堂へ格上げされたのはその時のことかも知れないわね。因みに、山門の右手に建てられている延命地蔵尊は、文政12年(1829)に本尊(千手観世音菩薩)が建立1,000年を迎えたのを記念して上野・寛永寺から寄進されたものだそうよ。
その延命地蔵尊と云えば、この慈眼寺には「寿地蔵尊」の別称で呼ばれるもう一つの延命地蔵尊があるの。残念ながら秘仏と云うことで拝観は出来ないのですが、地元では何と!800歳を迎えた八百比丘尼が当地に立ち寄り、残り200歳の命を領主に差し出すと、自らは紫金の延命地蔵尊像を抱いて亡くなったと伝えられ、当山所蔵の【八百比丘尼縁起】にはその延命地蔵尊像が享保8年(1723)に出土したことが誌されているの。八百比丘尼と云えば、延命地蔵を信仰していたから、或いは、人魚の肉を食べたことから800歳もの長寿を得たと云う尼さんのお話よね。八百比丘尼伝説はこの水判土に限らず、全国各地で語り継がれ、お話の展開にも地域差があるのですが、【風土記稿】がうまく纏めてくれているので、その記述を以て紹介に代えますね。
仁王門をくぐり抜けて来られた方が最初に目にするのがこの観音堂で、華麗な装飾を施された緋色の建物の威容に思わず目を奪われるハズよ。慈眼寺の伽藍の中にあって一際異彩を放つ堂宇ですが、この観音堂こそが慈眼寺のルーツとも云える存在なの。先程本堂の紹介で、仮本堂から昇格したのが近年になってからのことと御案内しましたが、それ以前はこの観音堂こそが本堂で、慈眼寺の中核を成していたの。と云うよりも、この観音堂を中心にして伽藍が発展整備されていったとする方が正しいのかも知れないわね。【風土記稿】には「縁起の略に云ふ 天長年中(824-834)勅願によりて慈覺大師一刀三禮して刻める所なり 脇士の不動毘沙門も同作なり 中古衰廢の砌此像を岩槻の慈恩寺へ遷座せしに 住僧の夢に入て靈意に叶はざるの告ありしかば 後當所へ歸座せしと云」と誌される本尊の千手観世音菩薩ですが、残念ながら秘仏扱いと云うことで普段は拝観出来ないの。
どうしても千手観世音菩薩の御尊顔を拝したいの!と云う方は、次の午年の年までご辛抱下さいね。12年に一度、午年の4/11〜4/17の一週間に限り特別開帳されるの。直近では次回の御開帳は 2026 のことになるけど、随分と先のことね。覚えていられるかしら?
観音堂には回廊が造られているので昇殿させて頂きましたが、その回廊からの景観が秀逸なの。
是非、昇殿されることをお勧めしますね。
9. 林光寺 りんこうじ 12:24着 12:44発
これは内緒のお話だけど、境内を散策していたときに裏口を見つけたの。
御案内の最後に、その鴨川縁の道からの裏口をお教えしますので、お楽しみにね。
縁起が記された案内板でも無いかしら−と境内を探してみたのですが見つからず、ここでは代わりに【風土記稿】の記述を紹介しますが、同著には「新義眞言宗 京都仁和寺末 金剛山華蔵院と称す 古は林臺寺と號せしと云 天正19年(1591)寺領十石の御朱印を賜ふ 開山を本覺大師と云 鎌倉時代の僧といへど示寂の年月を失ふ 本尊は惠心の刻める阿彌陀を安ず 鐘楼 安永年中(1772-81)鑄造の鐘をかく 熊野社 虚空蔵堂」とあるのみで、詳しいことは分からないの。それに、記述では本尊の阿弥陀像を恵心僧都の作としていますが、それはちょっとマユツバっぽいわね。それはさておき、現在は金剛山林光寺華蔵院を号する、真言宗智山派の寺院
善男善女で賑わいます。過ぎた一年を顧みて、新しい年への希望を持って一人ひとり神妙な面持ちで鐘を衝きます。全高:146.4cm 口径:75cm 大宮市教育委員会
〔 林光寺朱印状 〕 大宮市指定文化財・古文書 昭和55年(1980)6月6日指定
天正18年(1590)江戸城に入った家康は、翌年関東の寺院などに寺領の保護を約束しますが、この約束を書き記したのが朱印状です。市内では九ヶ寺が徳川家から寺領を拝領し、その内の七ヶ寺が西部地区に集中しています。林光寺の朱印状には殖絶( 植田谷本のこと )の内に10石の寺領を寄進する旨が記されており、家康を初めとして計12通が現存しています。大宮市教育委員会
〔 林光寺の大ケヤキ 〕 大宮市指定文化財・天然記念物 昭和50年(1975)2月7日指定
「林光寺の大ケヤキ」ですが、説明には「本堂の屋根を覆う姿」を遠望することが出来る−とあるのですが、本堂の屋根を見上げたところで、ケヤキのケの字も見えなかったの。天然記念物に指定されたのは昭和50年(1975)のこととありましたので、既に枯死してしまったのかも知れないわね−と、独り合点して境内を後にしてしまったの。But 帰宅後に改めて調べてみると、ちゃんと生存中のようね。林光寺を訪ねた際には探してみて下さいね。
林光寺の御案内の最後にお約束の裏口を紹介しますね。本堂の右手には御覧の客殿や庫裏などの建物が続きますが、それらの建物の前を通り、石畳の道を辿っていたら鴨川縁の道に出られることが分かったの。右端がその出入口になるのですが、追体験される場合にはこの出入口を探しながら歩いて来て下さいね。御覧のように塀越しに不動堂の瓦屋根が見えますので直ぐに分かると思うわ。実は、林光寺の参道を探しあぐねていたときに、一度この小径に分け入ろうとしたのですが、傍らに民家も建つことから入るのが躊躇われたの。思うに林光寺関係者のための通用門と云うことのようですが、鴨川縁の道を歩いて訪ね来られた場合にはちょこっと利用させて貰いましょうね。但し、この門扉が常に開けられているかどうかは定かではありませんので、御利用は自己責任でお願いしますね。勿論、正面から正々堂々と云う方は無理にはお誘いしませんが。
10. 観音寺 かんのんじ 12:59着 13:02発
11. 足立神社 あだちじんじゃ 13:11着 14:00発
この足立神社は地元では指扇氷川神社と共に紫陽花の名所として知られた存在みたいね。鳥居脇に「アジサイ園入口」の案内がありましたが、飯田・水判土・中野林・植田谷本・三条町の地区の方々がメンバーとなり足立神社アジサイ会を結成、アジサイ園の維持管理を行っているの。園内を巡ると、地区別に植栽エリアが分かれているようで、地区毎に献木者の名と株数を記した案内板なども建つの。ξ^_^ξは未体験ですが、この足立神社でも「あじさい祭」が開かれ、境内には露店などが出て賑わいを見せるそうよ。
そのあじさい園に咲いていた紫陽花を紹介しますね。ここでは撮りためてきたものをスライドに纏めてみましたので御覧意なりたい方は、上の画像をクリックしてみて下さいね。別窓を開きます。
足立神社の御案内の最後に、参考までに鳥居脇に建てられていた力のこもった(笑)「足立神社史」を転載しておきますが、馴染みの無い神さまの名も多くて、どんな御利益があるのか皆目見当も付かないのですが、何だか良く分かんねえけんどもよォ、御利益がいっぱいありそうで良かっぺぇ〜と云うことで御容赦下さいね。
〔 足立神社史 〕 「延喜式」神名帳には武蔵野国足立郡内の神社として水川神社・足立神社・調神社・多気比売神社の4社の名が記されている。これらの諸社の内、足立神社は、古代に於ける殖田郷に鎮座し、この殖田郷を本拠地とした豪族・足立氏が奉斎した神社であったので、長い年月には衰微した時期があり、江戸時代には足立神社と称する社が幾つか出現する状況になったが、殖田郷に鎮座する足立神社は「風土記稿」「神名帳」等にも名主・勘太夫の屋敷内にあり〔 中略 〕式内社として有力なる候補とされて来た社であるが、水判土村にも足立神社が慈眼寺裏手の指扇支台と山王塚の二箇所共に村の鎮守として祀られていたと云う伝説もある。
また、飯田村下組は氷川神社、上組は氷川・八幡合社を鎮守として祀っていたが、明治6年(1873)下組の氷川神社が植水村社となり、明治39年(1906)には政府の合祀政策の発令により、当時の村内にあった村社及び無格社30社を当地の氷川神社に合祀し、その中には、植田谷本・水判土の足立神社も含まれており、この合祀を機に氷川神社の社号を「足立神社」と改め、大正3年(1914)4月には神域を拡大整備し、本拝殿を改築且つ社務所を新築し、名実共に5地区の鎮守として新発足したのである。明治40年(1907)5月14日付で足立神社に合祀された主な神社としては飯田地区では氷川村社・氷川八幡合社。水判土地区では足立神社・厳島社・御嶽社。
中野林地区では十二所神社・天神社・神明社・須賀社。植田谷本地区では足立神社・天満宮・天神稲荷社。三條町地区では十二所神社・稲荷社・社の根神社・以上15社の他、全地域の無格社15社が含まれている。祭神としては次の神々である。天神七代尊として豊雲野神・宇比地邇神・角杙神妹活杙神・意富斗能地神妹大斗乃弁神・游母陀琉神・妹阿夜謌志古泥神・伊邪那岐神妹・尹邪那美神・地神五代神として天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・宇麻志阿斬謌備比古遅神・天之常立神・天照坐大神・須佐之男命・日本武尊・市杵島姫命・多岐都比売命・猿田彦命・大国主神・天手力男神・菊理姫命・倉稲御魂神・応神天皇・菅原道真の24の神々である。
以上、古代よりの資料や記録に依るものであるが、寛政5年(1793)「武蔵の国足立郡谷本の足立神社本跡縁起」の由緒に依ると、当社は「日本武尊」を崇敬し、神祀を建て祀ったものであるとあり、又、この中の「明細帳・郡村誌」に依ると、当社の祭神は「猿田彦命」と明記されている。足立神社
足立神社の紫陽花を独り占めしたところで次の二ツ宮にある阿弥陀堂へと向かいましたが、帰宅後に改めて調べていると、途中に「二ツ宮」の地名の由来となった氷川神社と八幡神社が並び立つ場所があることを知ったの。後日、改めて訪ねてみましたので紹介しますね。今回の散策コースを追体験される場合には、ちょっと寄り道する程度の距離ですので足を向けてみて下さいね。
〔 二ツ宮氷川神社と八幡神社 〕 二ツ宮村の村名の由来は、氷川神社と八幡神社の二社が並び鎮座しているところから名付けられたと云います。氷川神社の御祭神は須佐之男命(素戔鳴尊:すさのおのみこと)で、4月14日の春祭りにはお神楽を奉納、7月14日の夏祭りには御輿の渡御や山車の曳き回しが行われ、村一番の賑わいを見せます。八幡神社の御祭神は応神天皇、脇祭神として神功皇后を祀っています。9月15日は例祭で奉納相撲があります。現在は子供相撲大会、月見踊り等が行われますが、明治の終わり頃には島渡川と云う力士が出て、イギリスからの招待を受け遠征したほどですので、盛大な祭りであったようです。境内には三峰神社、御嶽神社、天神社、第六天社、牛頭大王社、阿夫利神社、笠間稲荷社が合祀されています。また、神社の東側は児童公園とゲートボール場が整備され、四季を通して利用されています。昭和63年(1988)10月1日 大宮南西ロータリークラブ・馬宮郷土史同好会
当社は『風土記稿』に「氷川社 神体は径り二尺許の鏡を置、村の鎮守なり(中略)御手洗池(みたらしいけ)・広さ五畝程、いかなる久旱にも水涸ることなしと云ふ」と記されている。これに見える御手洗池は今の当社東側の児童公園とゲートボール場の辺りにあった池で「氷川様の池」と呼び親しまれ、この辺りの耕地を潤す貴重な水源とされていた。別当については『風土記稿』に「宝蔵寺の持」とあるものの、貞享2年(1685)と天明7年(1787)の本殿造立を伝える社蔵の棟札には「別当一乗院見佳本明」と見える。当社は神仏分離を経て明治6年(1873)に村社となった。
12. 阿弥陀堂 あみだどう 14:14着 14:18発
二ツ宮にある阿弥陀堂にはさいたま市指定有形文化財の木造阿弥陀如来坐像と、二基の板碑が残されている−と知り、訪ねてみたのですが、残念ながらどれもまみえることが出来なかったの。現地に建てられていた阿弥陀堂改築落慶記念碑の由来記にも「墓地には市内最古の正嘉2年(1258)銘と、市内最大級の永仁2年(1297)銘の板石塔婆があり、阿弥陀如来像と共に大宮市指定の文化財となっている」と誌されていたので墓苑の中を探し歩いてみたのですが、見つけられずに終えていたの。
帰宅後に改めて調べてみると さいたま市 の文化財紹介の頁には、阿弥陀如来坐像は一般公開されず、板石塔婆にしても一つはさいたま市立博物館に寄託中で、残る一基も非公開で「見学の際には所有者・管理者の許可を受けて下さい」とあるの。どうりで見つからないハズよね。事前調査の詰めが甘かったと気づいてみたところで After the carnival(笑)。
〔 阿弥陀堂木造阿弥陀如来坐像 〕 大宮市指定文化財・彫刻 指定:昭和48年(1973)1月5日
この仏像は明治5年(1872)に廃寺になるまで阿弥陀堂の東隣に建てられていた宝蔵寺縁の仏像です。念仏する者全てを極楽浄土に導いてくれる上品下生の印を結ぶ来迎像です。来迎相の仏像は浄土来迎思想の隆盛に伴い鎌倉時代に独尊としても多く造られました。寄木造で藤原風の古式な様式を多分に残した鎌倉時代後期の作品ですが、後世に修理が大分行われています。昭和34-35年(1959-60)頃、仏像の頭内部からボロボロになった古文書が発見され、「正応(1288-93)」や「南無阿弥陀仏」などの文字が判読されました。また、墓地には正嘉2年(1258)に造立された将棋の駒のような形の板石塔婆と彫りの鋭い永仁5年(1297)に造立されたものと思われる板石塔婆が残されています。駒形のものは初期のものに見られる特徴を持っており、現在市内最古のものです。永仁5年(1297)のものには阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の梵字が彫られています。共に秩父産の緑泥片岩で造られています。これらの仏像と板碑は、共に極楽浄土の信仰が広まるにつれて浄土教を厚く信じる在地領主に依って建立されたものと考えられます。像高:62cm 髪際高:52.5cm 膝張:49.6cm 平成元年(1989)3月 大宮市教育委員会
この阿弥陀堂の東隣に建てられていたという宝蔵寺ですが【風土記稿】には「天臺宗 水判土村慈眼寺末 瀧光山と號す 本尊阿彌陀を安ず 開山詳ならず 中興開山を全順と云 寶永2年(1705)5月示寂す 阿彌陀堂 天神社 三峰社 辨天社」とあるのみで、詳しいことは分からないの。と云うことで、縁起が不詳なら、文化財との接近遭遇もままならず、労した割には益の無い阿弥陀堂の訪問でしたが、最後に墓苑の中に建てられていた「萬霊観音菩薩」を紹介して今回のお散歩の御案内を終えますね。
ps.去り際にちょっと気になる建物を見つけたの。見るからに廃屋の佇まいでしたが、阿弥陀堂と敷地を接して民家が残されていたの。普通ならそのまま通り過ぎてしまうところですが、ふと玄関入口の上部に「延命不動尊」と書かれた扁額(?)が掛けられているのを見つけたの。と云うことは、例え簡便なものだとしてしても民家じゃなくて堂宇の類のお話しよね。廃寺となった寳蔵寺と何か関係があるのかしら?廃寺は明治5年(1872)だと云うことですので、仮に破却を免れたとしても当時の建物が今に残ることなんて考えられないし、謎の建物なの。どなたか、御存知の方、いらっしゃいます?
13. 二ツ宮新道BS ふたつみやしんどうばすてい 14:19着 14:28発
今回のお散歩は指扇と云うよりも、土屋や西遊馬をはじめとした指扇に隣接する地区を訪ね歩いた散策記なの。犬も歩けば棒に当たるの例えではないけれど、どの地区にも氷川神社が鎮座する光景は一宮(大宮)氷川神社のお膝元ならではのものね。替わってお寺に目を向けると、【風土記稿】には多くの寺院の名が記されながら、現在ではその多くが廃寺となってしまっているの。それでも高城寺や慈眼寺、林光寺などの古刹が時代に翻弄されながらも今に法灯を護り続けているの。圧巻はやはり慈眼寺の観音堂よね。水判土の地に早くから観音霊場がつくられていたとは意外な印象ですが、八百比丘尼伝説が残されていると云うのは更に意外な印象ね。現代の感覚を以てすれば荒唐無稽なお話かも知れませんが、当時の水判土観音はそれを実話として受け止められるような雰囲気にあったと云うことよね。魚籃(ぎょらん)観音ではないけれど、八百比丘尼は千手觀音の化身だったのかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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〔 参考文献 〕
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
現地にて頂いてきたパンフ・栞など
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