幾度か訪ね歩いた越生町ですが、町内全域制覇を宣言するには不完全で終えていることに気付いたの。それが今回紹介する上野地区ですが、多聞寺を見落としていたことを知り、改めて再訪してみましたので紹介してみますね。散策としてはショート・コースになりますが、頁末では後日訪ねたときの越生まつりについても御案内していますので、お祭り見物の前に一汗かくのもいいかも知れないわね(笑)。一部の画像は拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 武州唐沢駅(東武越生線) ぶしゅうからさわえき 14:11着発
2. 多聞寺 たもんじ 14:20着 14:25発
毘沙門天はバイシュラバナ Vaisrovana とも呼ばれ、「仏さまの教えをよ〜く聞く」と云う意から、多聞天の別称由来となっているの。後に福徳富貴の神として七福神の一神にもなるの。みなさんも良く御存知の宝船に乗る毘沙門天は優しいお顔をしていますが、元は仏法守護の役割を担うことから忿怒の形相をしていたの。寺号の多聞寺はその毘沙門天の別称・多聞天に因むもので、山号の福寿山にしても毘沙門天の福徳富貴に由来するの。現在は真言宗智山派で法恩寺末の寺院。
訪ねてみれば、境内は手入れがなされているとは言い難いわね−と云うのが正直な感想ね。境内の左手には二つの小堂が建ちますが、扁額が無ければ何の案内もないの。【風土記稿】にある毘沙門堂と薬師堂がこれになるのかしら?
3. 大宮神社 おおみやじんじゃ 14:36着 14:42発
神社なのに歓喜天が祀られているなんて不思議に思われるかも知れませんが、神仏混淆の名残りね。歓喜天の梵名はナンディケーシュヴァラ Nandikesvara で、そのルーツは古代インド神話に現れるガナパチ・ガネーシャ Ganapati Ganesha なの。何と云ってもユニークなのがその像容で、人身象頭の男女二天が抱き合う双身像(単身像が無い訳では無いのですが)は、男女の抱擁そのものなの。まさに破壊仏の感があり、禁欲を旨とする当寺の僧侶達はさぞ驚いたことでしょうね。秘仏とされるケースが多いのですが、意図するところを理解出来ずに、公開すれば誤解を生むと考えられたのでしょうね、案の定宗教的な解釈など分からない庶民には性愛を司る神として、後に性欲・金銭欲をも肯定する超現世肯定的な神として崇められるようになったの。
歓喜天はその像容が特異ならその由来も極めてユニークなの。
気になる方は「鎌倉歴史散策−鶴岡八幡宮」の 青梅聖天社 の項を御笑覧下さいね。CMでした。
〔 大宮神社の由来 〕 当社は古来文武天皇の文武元年(697)に創立、承和3年(836)丙辰9月従五位下武蔵介当宗宿彌家主が再建したと伝えられている。祭神には猿田彦命、天津碓目命の二座なり。応永10年(1403)癸未6月5日遠江守長隆(当国七党の一つ児玉氏)が修営した。天文6年(1537)丁酉12月1日毛呂土佐守顕家(入間郡毛呂郷住人)が再営し、更に元亀元年(1571)辛未4月19日泉州神馬代官村田大蔵再び修営する(棟札現存)。慶安2年(1649)己丑8月24日三代将軍家光公より社領10石の御朱印を賜る。続いて代々の将軍より賜る。森村大和守を始め、以来森村一家がこの社を護持していた。嘉永6年(1629)3月10日炎焼。文久3年(1863)8月26日再建。この本殿は平成12年(2000)町文化財に指定された。
明治維新に至り、明治4年(1871)社領奉還。同5年(1872)社格御制定の折、古社であり産土神であるから村社に列せられる。明治40年(1907)5月8日越生町大字如意字白坂鎮座の村社白坂神社、同所鎮座熊野神社を合祀する。明治40年(1907)6月13日大字上野字諏訪鎮座の村社諏訪神社を合祀したが、戦後旧氏子の希望により返還した。この社の祭神の中には昭和30年(1955)町文化財指定の聖天雙身歓喜天と称する霊験灼かな男女の立像が祀られており、夫婦円満、縁結びの神として信仰が厚く多くの参詣人がある。毎年春季大祭に矢場を設け、桃の弓の歩射を奉納、戦後中止していたが、形を変えて50年目に小学校入学者の祈願祭として歩射を復活した。
4. 虚空蔵尊 こくぞうそん 14:55着 15:00発
さすがは虚空蔵尊が三体祀られるだけのことはあるわね、大判小判がザ〜クザクと云うのですから(笑)。現在の価値にすると大判小判109枚は幾ら位なのかしらね。感覚的には一千万円位のようにも思えるけど、実際にはそんなにはならないかも知れないわね。いずれにしても大金よね。どんな奇特な方が奉納したのか気になりますが、それ以上にその大判小判の行方ね。屋根の葺き替え工事中だったこともあり、或いは工事代金の一部に充てられたかも知れないわね、それとも‥‥‥。自分のお金でもないのにξ^_^ξが心配してもしょうがないことだけど。
その昭和48年(1973)に屋根の葺替工事が行われた虚空蔵堂ですが、石段脇に建てられていた本堂再建記念碑に依ると昭和61年(1986)に不審火で灰燼に帰しているの。その不審火ですが、当時、八高線沿線の寺社が矢継ぎ早に放火されると云う連続放火事件が起きたの。「越生の散策・山吹の里」で紹介している 鹿下越生神社 が付け火されて烏有に帰したのもそのときのことで、都幾川村の慈光寺でも貴重な釈迦堂や蔵王堂などを焼失しているの。犯人は捕まってはいないみたいですが、人々の思いが込められた寺社に付け火するとはとんでもない輩がいたもので、捕まえたら市中引き回しの上、打ち首獄門よ。すさんだ心の持ち主のせいで多くの貴重な文化遺産が灰となって消えてしまったの。一度失なわれたものは二度と元には戻せないのよ。
〔 三満山虚空蔵尊 本堂再建記念碑 〕 再建の趣旨 当三満山虚空蔵尊は古い歴史と伝統をもち、その名声は高く廣く尊び親しまれておりますが、昭和61年(1986)4月7日非情の不審火におそわれ、本堂を焼失しました。信徒64余名は再建の熱意を燃やし、直ちに再建委員会を結成、その再建復興に着手した。多くの人が寄進に参加し布施行を実践すると云い「無主房戒」の戒律の教えに従い、ここに廣く尊敬者2,300有余名の心暖かい浄財の寄進を仰ぎ、立派に落慶の運びとなりました。尊厳なる由緒と御心の法燈を守り、永く後世に継承され、地域の安泰と御芳志賜った多くの各位の倖せを願うものであります。昭和63年(1988)3月 埼玉県知事 畑和教書
無主房戒とは僧侶が僧伽(本寺や本山 or 教団など)の許可無く勝手に堂宇を建ててはならぬ、また、許可を得たとしても決められた以上の大きさの僧坊を建ててはならぬ−と云う戒めのことなの。But 篤志家や寄進者などのスポンサーがいる場合には有主房戒となり、許可は必要だけど、堂宇の大きさには拘らないみたいね。だからと云って、総本山より大きな七堂伽藍を建てたりしたら睨まれたりするかも知れないけど(笑)。ちょっと茶化してしまいましたが、ここでは、本当は小さな草堂で良かったんだけど、それではいけないと、多くの人達が喜捨をしてくれたので、こうして立派な本堂を再建することが出来たんだよ−と云うことね。
冒頭の説明にあるダルマ市ですが、境内の案内を引いておきますので参考にして下さいね。
三満山虚空蔵尊 縁日の日程のお知らせ
縁日の行事は、三月の第二日曜日とその前日午後より行います。
尚、丑・虎年は御本尊の御開帳を行います。
埼玉県越生町上野 三満山虚空蔵尊信徒
この虚空蔵尊ですが、越生・秋の七草めぐりでは桔梗の役割分担なの。「附近には数多くの桔梗は元より他の山野草も自生しており、夏には蛍も飛び交う自然環境に恵まれた里である。近年では自生の桔梗も消滅の危機にあり、自生種を含め、ここに集約し、桔梗の保護活動に取り組んでいる。”皆でそだてよう 皆でふやそう”」ともありましたが、どこに植えられているのかも分からず、ひょっとして知らずにその場所を踏みつけていたかも知れないわ。この虚空蔵尊に限らず、越生・秋の七草めぐりではどこも植生が小さい上に手入れも不十分で、「〜の」と秋の七草を以て形容するには程遠いというのが正直な感想よ。期待感を持たせるのであれば、それに応えてくれないと、今あるものまで色を失いかねないわ。
この虚空蔵尊にあるお手洗いは綺麗でお薦めよ。
石段脇の寺務所兼庫裏(無住) or 集会所の趣をした建物の右手にあるの。
5. 医王寺 いおうじ 15:15着 15:18発
慶安2年(1649)藥師堂領15石の御朱印を賜ふ 眞義眞言宗 今市村法恩寺末 昔は醍醐三寶院の末に屬せしと云 瑠璃山東園院と號す 開山曇秀寛正4年(1463)2月4日寂す 元祿年間(1688-1704)記せし縁起に依に 當寺は昔熊の・三嶋・天神の三社鎭座の地なりしが 行基東國行脚の時此地に來て 自藥師一躯と日光・月光の二大士を彫刻して安置す 藥師立像像長三尺一寸 二大士は各三尺五寸五分 其後承和年中(834-848)草堂を營みて一寺とす 治暦年中(1065-1069)兒玉黨越生の祖 河内守家行此藥師を尊信して 太刀一腰を納めしことなどあり
又 鎌倉右大將頼朝奧州陣の時修理を加へ 其後も足利尊氏等よりも 北方平時子眼疾立願の時修理を命じ 守護佛行基の作勢至の像を寄附す 又遙か後天文年中(1532-1555)當所の地頭 毛呂豐後守・同上土佐守堂舍以下を造營し 彌陀像一躯を納めし由をのす 其後天正18年(1590)小田原陣の時 加賀大納言利家此地に布陣して 松山城主上田上野介朝廣を襲ひし頃 禁制の状を與へしとて今も持傳ふれば 古より大刹なりしこと論なし【風土記稿】
行基云々と云うのは後世に付与された逸話だとしても、この辺りは観音霊場として古くから開かれていたのかも知れないわね。本尊の薬師如来像の制作年代が平安末期から鎌倉期に比定されることから、前・医王寺とも云うべき草堂の類が既に建てられていて、それを室町期に中興開山したのが曇秀和尚と云うところかしら。その薬師如来ですが、正式名称は瑠璃光薬師如来で、大医王仏とも呼ばれるの。山号寺号はその呼称に由来すると云うわけ。境内の左手には年月を経た堂宇が建ちますが、【風土記稿】が「縁起に記せし所の藥師なり」と云う薬師堂かしら?
6. 越生駅 おごせえき 15:34着
今回の散策はこれにて終了ですが、ここで後日訪ねたときの越生まつりの様子を紹介してみますね。その越生まつりですが、元々は越生の散策・五大尊つつじ公園で紹介した 越生神社 の祭礼として行われた祇園祭が始まりなの。その越生神社にしても明治期の神社合祀政策から八坂神社を初め、点在していた諸社が合祀されたのを機に琴平神社から越生神社へと改称したの。八坂神社は古くは祇園社とも呼ばれ、その総社とされるのが京都・祇園社で、祭神は安倍晴明が崇敬したことでも知られる牛頭大王よね。その祇園社のお祭りが祇園祭で、越生まつりはその祇園祭をルーツとするの。土地の人達が今でも越生まつりを親しみを込めて、大王さまと呼ぶのも頷けるわよね。左掲は平成23年(2011)の第23回越生まつりに出掛けた際に頂いてきたパンフですが、興味のある方はクリックしてみて下さいね。
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撮りためてきたものをスライドに纏めてみたの。
動画(虹色の縁取りがあるもの)もちょこっとですが撮ってきましたので併せてお楽しみ下さいね。
But 画質とカメラワークは期待しちゃダメよ(笑)。
Time 00:02.36
Time 00:02.02
Time 00:01.46
Time 00:01.48
以前、雑司ヶ谷界隈を散策したときに神田川に架かる面影橋の傍らに太田道灌の逸話で知られる「山吹の里」碑を見つけたのですが、越生にも逸話の舞台とされる「山吹の里歴史公園」があることを知り、訪ねてみたの。越生の散策も、最初はそれだけで終える積もりでいたのですが、いざ出掛けてみると、訪ねる度に新たな発見や未だ見ぬ見処があることを知り、仲々完全制覇を宣言出来ずにいたの。ようやく、今回の散策を以て一段落出来たの。多少の見残しはあるかも知れませんが、主立ったところは網羅出来たと思うの。今回の散策記を合わせると「越生の散策」も全6回に及びますが、お気に入りのコースがありましたら是非皆さんも一度お出掛けになってみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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[ 参考文献 ]
東京堂出版社刊 神話伝説辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
鳩山町発行 鳩山町史編集委員会編 鳩山の修験
越生町教育委員会編 越生叢書・おごせの文化財
越生町教育委員会編 越生の歴史 全巻
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