以前、雑司が谷界隈を散策したときに神田川に架かる面影橋の傍らに「山吹の里」碑が建てられているのを見つけたのですが、逸話の舞台とされる地が他にもあることを知り、中でも越生の「山吹の里歴史公園」の風情ある佇まいに惹かれて訪ねてみたの。それを機にすっかり越生にはまってしまったのですが、今回は第一弾として、その「山吹の里」を中心に紹介してみますね。掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 越生駅(JR八高線・東武越生線) おごせえき
冒頭でも触れましたが、越生町を訪ねること10数回に及んでいるの。いざ訪ねてみると、歴史が偲ばれる貴重な文化遺産が町のあちらこちらにあることを知ったの。気の向くままにその一つ一つを訪ねてみましたが、時期も違えば当然季節も異なるの。散策のコースも掲載にあたり再構成していますので、実際に歩かれる際には御注意下さいね。左掲は越生町の玄関口になる越生駅の駅舎ですが、JR八高線と東武越生線の共同利用駅になっているの。管轄はJRだけど、利用客の方は圧倒的に東武側みたいね。
小さな駅なので改札口も一つだけなの。改札を出たら駅前のロータリーを南に歩いて直ぐにある踏切を渡って下さいね。後はそのまま真っ直ぐ歩くと越辺川に架かる左掲の山吹橋があるの。踏切からだと距離にして300m位かしら。山吹橋は歩行者と自転車専用の橋で、車は左手に見える山吹大橋を利用することになるの。ここまでくれば「山吹の里歴史公園」は目の前よ。山吹橋を渡り、越生バイパスを横断したところがその入口になるの。
桑原翠邦氏については、越生の散策・あじさい山公園 の 龍穏寺 の項で触れていますので、
宜しければお立ち寄り下さいね。CM でした。
越生は太田道灌ゆかりの地である。龍ヶ谷の戸神には道灌誕生の地と伝えられる山芝庵跡がある。道灌の父・道真が退隠後、居館自得軒を構えた小杉の建康寺周辺には、陣屋、馬場、砦、道灌橋などの名が遺されている。そして、文明年間に道真と道灌が中興した古刹龍穏寺には、父子の墓がある。当地山吹の里は、古くから山吹の自生地であり、嘗ては山吹の小名で呼ばれていた。また法恩寺年譜文明18年(1486)の条や、熊野那智大社米良文書に、山吹という姓が見られることから、中世越生郷に武士団児玉党越生氏一族の山吹氏が居たことも知れる。越生町教育委員会 越生町観光協会
【伝山吹の里】 室町時代、太田道灌が川越の領主であった頃の話である。道灌が父の道真を訪ねた折、この辺りで俄雨にあったので、近くの農家に立ち寄り簔を借りようとした。すると一人の少女が出てきて、黙って山吹きの花を差し出した。道灌は、山吹きの花に因んだ古歌「七重八重 花は咲けども 山吹きの 実の(簔)一つだに なきぞ悲しき」が考えつかず、少女の思いが分からずに恥をかき、後、大いに学問にも励み、文武両道を兼ねた名将といわれるようになったのだと云う。この話は広く知られており、山吹の里と称する所以である。昭和37年(1962)に県指定旧跡となっている。昭和59年(1984)3月 埼玉県
お話しは江戸時代中期に湯浅常山(1708-81)が名将に関する逸話を収録した【常山紀談】を出処とするのですが、ちょっと美談過ぎますよね。幾ら何でも蓑笠を乞う武士を相手にただ黙ってやまぶきの花を差し出したら、「おのれ、このわしを愚弄する気か!」と斬り殺されてもおかしくはないシチュエーションよね。加えて、このやまぶきの一件があってからは和歌にも精進したと云うことになってはいるのですが、他の頁でも触れたように、道灌は関東管領職にある扇谷上杉家の家宰を務めるまでの人物で、血統書付の家柄出なの。
園内の一角には歌碑や句碑などの記念碑が数多く並び建ちますが、立木に無造作に立て掛けられていたのがこの石碑なの。長らく地中に埋もれていたものが、工事の最中に見つかり掘り出されたものみたいで、碑文の一部が欠損するなど傷だらけなの。銘文には「(欠字)の園生は昭和二十二年九月中旬當時の驛長金井鉄次氏の創意により築造せる緑園にして優美たる圓形は眞に平和日本を表現する容裝なり 仍て永遠に記念す 昭和24年(1949)6月30日建之 越生町保勝會」とあるの。この山吹の里歴史公園が造られる以前に、それも終戦間もない時期にここに園地が造られたことを示す傍証よね。どんな園地だったのかは碑文からは分かりませんが、当時の越生駅駅長が造園に関わりを持つなど、時の流れの中に埋もれつつある史実を教えてくれる、貴重な歴史の語り部ね。
歴史と云えば、明治9年(1876)の頃まではこの辺りは山吹の小名で呼ばれ、昔からやまぶきが自生していたそうなの。加えて【武州入間郡越生郷松渓山報恩寺年譜】略して【法恩寺年譜】や熊野那智大社に伝わる米良文書の【児玉党名字書立写】からは、嘗てこの地に山吹姓を名乗る一族がいたことが知れるの。ここでは太田道灌の逸話の舞台としてだけでなく、もっと深いところでやまぶきと関わりを持ちながら歴史の歯車が回っていたみたいね。法恩寺については 越生の散策・五大尊つつじ公園 の 法恩寺 の項で御案内していますので御笑覧下さいね。
逸話に彩られたやまぶきの艶やかさに触れたところで、次は如意にある如意輪観音堂へ向かいますが、ここから先は他のサイトでは殆ど紹介記事を見掛けない寺社めぐりになるの。なので、内容的には急につまらなくなると思うの(笑)。それでもいいから−と云う方はよろしくお付き合い下さいね。如意は秋にも訪ねたことがあるのですが、沿道の草地には曼珠沙華と共に、やまぶきが一輪二輪、季節外れの花を咲かせていたの。用水路沿いの道を歩くと民家の蔭に隠れるようにして観音堂への入口があるので見失わないようにして下さいね。
〔 如意輪観世音の由来 〕 大字如意中央の丘の上にあり老松風致を添へ眺望絶佳なり、等身大の座像精巧を極めたるものとして其の胎内の仏は行基菩薩の作と伝えられ、他方にては呼んでお腹の子と稱す、安産守護の霊験灼かにして婦女子の詣する者多し、蓋し如意の村名はこの観音に因みて名付けたるものなる可し。毎年陰暦9月21日夜、村内の婦女達各自手製の餅を携へて参籠し、月の出づるを待ちてお開きと稱し、携へたる餅を小盆に分ちて差出せば先方よりも又之に載せて返す。斯くして次々に交換し終って、一般参詣の誰彼に与ふる竒習あり、如意観音の取換へ餅と稱して其の名知らる。
取り換え餅、通称・とっかえ餅は元々は旧暦の9/21、より古くは旧暦7/21に行われていた行事で、何をするのかと云えば、夕方、穫れたばかりの新米で作った大福餅を持ち寄ると、それを観音さまに供え、歓談しながら月の出を待つの。やがて月が昇ったのを見届けると持ち寄った大福餅を交換しあって食べながら賑やかに夜を過ごすの。この如意のとっかえ餅に限らず、日本では月の出を待って月を拝む月見や月待の祭祀が広く行われていたの。その多くが稲作や子育安産祈願に関わるもので、男女別や年齢別などで講をつくり、飲食しながら篭もったの。月の出具合でその年の収穫を占うこともあり、とっかえ餅はその月待が姿形を変えて行われていたみたいね。
お月さまでは兎が杵でお餅をついている云々のお話しをこどもの頃に聞かされたことがあると思うの。十五夜のお月見も同じで、月に対する信仰があり、月とお餅の切っても切れない関係ね。エッ?月見はお餅じゃなくて団子だぜ−ですか?月見団子も同じく収穫の象徴ね。今では本来の意味合いが薄れて単なるイベントになってしまったわね。月待にしても各地で行われていた二十二夜待は二夜待、二夜さまとも呼ばれ、女性達だけのものだったの。その多くが如意輪観音を本尊として祀り、お供え物をして子育や安産の祈願をしたの。新しくお嫁さんになった女性が講のメンバーに加わったりすると殊更懇ろに祈願したの。他にも三夜待、三夜さまと呼ばれる二十三夜待も広く行われていたみたいね。
埼玉県指定文化財 木造如意輪観音半跏像 一軀
(種別・種類)有形文化財 彫刻 (指定年月日)昭和39年(1964)3月27日
本像は胎内に「応保2年(1162)大歳壬午十一月十日甲辰 檀越長春 僧良仁」の墨書銘を持つ関東地方最古の在銘像である。応保2年(1162)は平安時代末期に当たるが、顔の表現や量感ある像容は奈良時代以来の古式をとどめた作風を伝えている。製作技法は、頭部と体部を一本のカヤ材から彫り出し、途中で前後に割り内を刳り抜いた後に再び組み立てる「割矧造(わりはぎづくり)」によっている。県内の代表的な古代仏像彫刻であり、美術史上極めて重要な作品である。なお、当地の大字名・如意(ねおい)は本像に由来している。平成元年(1990)3月31日 埼玉県教育委員会 越生町教育委員会 如意輪観世音信徒
如意輪観音の如意は如意宝珠を指し、一切の願いや希みを叶えてくれると云う不思議な珠のことを云うの。輪は車輪のことで、車輪を持つ如意宝珠の意から、車輪が何処へでも転がって行くように意のままに現れ、六道の衆生の苦しみを取り去り、利益を与えてくれる菩薩とされるの。説明にもあるように、地名はこの如意輪観音に由来するのですが、地名の方は「にょい」ではなくて「ねおい」と読むので要注意よ。
地名と云えば、如意を流れる赤衣川も由来の元は同じなの。【風土記稿】には「赤井川 昔 行基菩薩閼伽に用ひしゆへ閼伽井川と書すべきを改めて赤井川と書して小名となせり 又 此邊 百姓庄藏が宅地の内に井あり 〔 中略 〕 いかなる旱魃にも水涸れることなし 昔 行基菩薩如意寺の本尊を彫せし頃 加持の水に用ひし井なりと これ等 皆 土人の傳る儘を書せり」とあるように、赤は仏さまに供える水を意味する閼伽に由来し、嘗てはこの川の水を観音さまに供えたという云い伝えも残されているの。
余談ですが、この如意輪観音、【寺院堂庵明細帳】には、飯能の観音寺にあったものを太田道灌が当地に移したとの伝承を紹介し、箕和田村に売り渡された後に如意村の本尊となり、文政12年(1829)に再建された観音堂に遷した旨の記述があるの。更には那智(和歌山県)から運ばれて来たとの云い伝えもあるのだとか。那智と云えば熊野三山で、熊野修験の総本山よね。現在は大宮神社(越生町大字上野字宮附)に合祀され、地名に熊野の名を残すのみなのですが、嘗てはこの如意にも熊野社が鎮座していたの。先程「山吹の里」でちらりと触れた【法恩寺年譜】には、文明18年(1486)に越生次郎左衛門尉定光が如意村の熊野神領の田畠を法恩寺へ寄付し、更にその後、法恩寺の第4世・頼曇和尚が神主の山吹氏に寄付したことが記されているの。そこからは、如意の地に熊野修験に関係する所領があり、熊野社が勧請されて山吹姓を名乗る神主がいたことが知れるの。那智から運ばれて来た云々の伝承は、そんな背景から後世に付与されたものではないかしら。早い話がでっち上げとも云う(笑)。
熊野白山三島社が遷されて来たと云うとったが、熊野社と白山社は分かったけんどもよお、
三島社はどした?相模の古巣へけえっちまっただか?
痛いところをついてくるわね。
ξ^_^ξも調べてはみたんだけど、分からないの。ごめんなさい。
〔 龍台寺本堂庫裡再建之碑 〕 当山は御嶽山不動院と号し栄仁法師が応永年間前に開山し、その後徳川の宗教政策に依り法恩寺末となり、永年の歳月に大伽藍の本堂は老朽化し昭和41年(1966)9月24日の台風26号(風速41m)の来襲に敢無く25日未明倒壊したのである。その後先祖代々之精霊菩提を願う篤信の檀家並びに建設関係者各位の熱意により本堂再建を発願し、昭和51年(1976)3月吉晨を卜して三ヶ年を要し落慶したのである。又、庫裡の老朽も著るしく昭和53年(1978)3月再建に着工し四ヶ月の短時日で7月8日落慶したのである。
古社と聞いて多少の古雅を期待して訪ねてみたのですが、脳天気な旅人の我が儘でしたね。それはさておき、この春日神社は(伝承の域を出ないのですが)延暦元年(782)の創建と伝えられることから、越生では一番の古社とされるの。先ずは境内に掲示されていた縁起を紹介してみますね。
延暦元年(782)当地内裏山獅子岩の傍らに祭祀されたるを、征夷大将軍坂上田村麻呂、東夷征伐の際現在の地に遷し宮殿を増築し、内裏大明神と称す。平将門が内裏を置いたとされる。後、延喜年中(901-923)常陸大掾平国香(将門の伯父)が修繕。松山城主上田能登守の再建を経て、元禄4年(1691)春日神社と改称し、越生十六郷の総鎮守と定むる。慶安3年(1650)将軍徳川家光より社領を賜う。明治4年(1871)上地令に依りこれを奉還し、明治5年(1872)社格制定の節、越生総社に列せられる。
内裏大明神と称するは藤原季綱公、越生郷に居住し阿諏訪山に遊猟せし時、氏神、秩父郡高山の峰に光を放ち、季綱公これを謹み拝し当地に祀れると伝承されている。内裏と称するは古きことにして文書に残るもの、越生郷内裏宮常住明応3年(1494)とある。昭和20年(1945)以降国家の庇護を離れ、氏子崇敬者奉斎の基とし現在に至る。現在の社殿は今上陛下御大典の折改修されたものである。
ここで気になるのが内裏大明神ね。文面からすると藤原季綱が崇めていた氏神さまと云うことになるのですが、越生町のお隣、毛呂山町の出雲伊波比神社の毛呂明神と同一神だとされるの。毛呂明神のことは 乙女の湖・鎌北湖 で既に御案内済みですが、改めて紹介してみますね。【長昌山龍穏寺境地因縁記】略して【龍穏寺縁起】には面白い逸話が記されているの。
毛呂越生の守護 小野宮藤原季綱親王 此の地に居住す 其の因縁は藤原親王 内裏庭前の鞠の會に行幸あり 遊履四本踔遊す 時に履脱げて藤の枝に掛かり 此の時大地を踏む 其の罪に依りて遙か東に流される 時に 紫藤・實藤の兩臣も下りて相伴い奉り 此の所 毛呂越生の郷に落ち着けり 今 毛呂郷の紫藤の先祖是なり 此の時 内裏の氏神 季綱王の跡を慕ひ 飛び來たりて 高山不動の大堂に光を放つ 此の時 季綱王 阿諏訪山に鹿獵りに出つ 俄に震動し 雷電して雨暗くして頻りに降り 東西更に分たず 時に實藤 弓に矢を架して 虚空に向いてこれを射落とさんと欲す 紫藤 押さえて射させず 其の間に天氣漸く晴れ 雲中より光を放ちて 明神の形を現し 季綱王と對面す 王謹んで拜せられる 則ち毛呂明神是れなり 其の時より 越生内裏の明神と 毛呂自胎の明神と 一體兩所に祝い奉る
毛呂明神は飛来明神とも呼ばれることから、飛来は天神(菅原道真)の別称・火雷(ひらい)のこととする見方(越生町教育委員会編【越生の歴史】)もあるの。そうなると、毛呂明神=飛来明神=内裏明神=天神さま、と云うことになるわね。加えて、東京大学名誉教授の義江彰夫さんの説に依ると、平安時代から東国武士の間では菅原道真の怨霊への信仰があり、その天神信仰を通じて東国武士を結集、八幡神と天神が一緒に祀られることもあった−と云うの。今ではすっかり学問の神さまとして定着した天神さまですが、嘗ては平将門、崇徳上皇と共に日本三大怨霊だったの。その猛威の程は、既に他の頁で折に触れて紹介済みですので、ここでは省略させて下さいね。
後で知ったことですが、春日神社では嘗て流鏑馬が行われていたそうなの。その歴史は古く、坂上田村麻呂が東征の折に奉納したのが始まりだとか。面白いのは、この春日神社に納められていた大般若経と、最勝寺(越生町堂山)で行われていた流鏑馬を交換した云々の伝承があると云うの。【風土記稿】には「近戸權現別當最勝寺古當社の別當職を兼し頃 當社の寶物大般若經を所望し 神職及氏子に請て最勝寺に送りし時 彼近戸權現の舊例に行はるる流鏑馬式と易しより 以來當社にて行ふと云ふ」と記され、最勝寺が別当職を務めていたことから般若経が狙われた(笑)みたいね。いつのことかは分からないのですが、仮に伝承が正しいとすると、坂上田村麻呂云々はウソになってしまうわね。その流鏑馬神事ですが、昭和41年(1966)に台風で中止されてからは中断したままになっているそうなの。奉納神事の流鏑馬がそんなに簡単に止められるものとも思えないので、それなりの理由があったのかも知れないわね。But 今以て行われずにいるところをみると、もはや復活することも無さそうね。
記述にある近戸権現は、明治40年(1907)に梅園神社(旧小杉天神社)に合祀されるまでは大字堂山に鎮座していた近戸神社のことなの。【風土記稿】には引き続き「されど今も社内に大般若經二三卷あるは そのかみ最勝寺へ移せし時 たまたま取遺せしならん」とあるのですが、案外確信犯だったかも知れないわね。現在でも残された大般若経数巻とやらは春日神社にあるのかしら?
こんぴら山公園の琴平神社もその金刀比羅宮から分祠勧請したものね。本来なら海上安全の守護神なのだけど、目の前を流れる越辺川では嘗て川魚の漁も行われていたでしょうし、今と違い、水量もあり、荷を載せた舟の往来も多かったのではないかしら。金毘羅神は海神龍王と同一視されることもあったので、水難除けに祀られたのかも知れないわね。社殿脇には御覧のベンチとテーブルが置かれていたので、こちらで暫時の休憩タイム。ベンチには地元の中学生と思しき女の子達の可愛らしい落書きが。この若さが羨ましいわね(笑)。
次に足を向けたのがこれから紹介する大亀沼ですが、ことひら山公園からはかなりのロング・アプローチになるの。途中の道筋にはこれと云ってみるべきものも無いので、ちょっと退屈かも知れないけど我慢して下さいね。大亀沼にしても、訪ねる前までは多少なりとも期待するものがあったのですが、労した割には報われずに終えた印象なの。興味の対象も人それぞれなので一概には云えないのですが、これから御案内する内容を参考にして下さいね。勿論、自分の目で確かめないことには気が済まないと云う方は無理にはお引き留めしませんよ(笑)。
越生町では「ヘルスロード」として町内に16の周回コースが設定されているのですが、ここがその中の大亀沼コース 3.6Km の起点になっているの。画面を見る限りでは案内板が進行方向右手に立つかのように思われるかも知れませんが、実際には画面奥から手前に歩いて来たの。なので、何の案内なのかは通り過ぎてから初めて分かったと云うわけ。案内板の右手には左掲の「昭和47年(1972) 野田宇太郎 文学散歩踏査の地 大谷が原万葉公園」と記された碑があるの。
伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 比可婆奴流 和爾奈多要弥
入間路の おほやが原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね
大谷ヶ原萬葉公園の名は紹介した萬葉集巻14に収められる東歌に因むの。入間路のおおやが原の「いわいづら」のように、引けば素直になびき寄るように、私から離れないでいて欲しい−と、ちょっとネバネバした(笑)内容ですが、歌に詠まれたおおやが原はこの大谷ヶ原のことだとされているの。そのおおやが原に生える「いわいづら」をめぐっては、蓴菜(じゅんさい)説、藺(いぐさ)説の他にも諸説があるの。でも、糸を引くような歌の感覚からすると蓴菜説が断然有利よね。
萬葉集巻一四の東歌にうたわれているこの歌は、越生町大谷も大亀、高砂の二つの沼と、大谷ヶ原の地名がある、この附近をうたったものと云われています。室町時代の史料に、大谷に水田があったことを示す記述があり、この辺りでは以前から水稲が作付けされ、灌漑用の沼が必用であったと思われます。文政7年(1824)に刊行された【武蔵名所考】には、「萬葉にイワヰツラをよみたるは此池より生ぜる藺なるべし」(藺・・・いぐさ)とあり、明治初年に編纂された【武蔵国郡村誌】には「於保屋我波良 俗に大谷ヶ原と云う」と記されています。現在でも、この沼の水は水田用水として重要な役目を担っています。今では絶えてみることが出来ませんが、昭和30年頃迄は「じゅんさい」が自生していました。昭和61年(1986)から4年間の工期で堰堤の改修工事が行われて現在の姿になり、平成4年(1992)から3年をかけて公園として整備されました。萬葉の昔を偲ぶ憩いの場として散策していただきたいと思います。平成16年(2004)10月吉日 越生町観光協会 大谷ヶ原萬葉公園整備推進協議会
説明では一部の引用で終えていますが、【武蔵名所考】には次のように記されているの。
今入間郡に大谷村あり 村より十余町山をのぼりて原あり おほやの原と云ひ伝ふ 俗にはおほやっ原と云ふ 近き頃までも木立ちなかりしに 今は松など多く植えて原は狭りたれど 猶十余町が程ははれやかなる地にして 赤城 日光 筑波の諸山見えて極て勝景なり 原の中に高砂の沼と云ひて 十間に弐間ばかりの池 又 大亀の沼とて五反ばかりの池あり 中島に弁財天の社あり 蓴菜多く 鯉など産すれど弁天の池なればとて 土人これを捕らず 萬葉にいはゐつらをよみたるは此池より生ぜる藺なるべし云々
実は、この大谷ヶ原の他にも、幾つかの候補地が挙げられているのですが、中でもこの大谷ヶ原に関する記述には誌面が多く割かれているの。越生町でも複数の候補地があるのは認めながらも「ヌルヌルの語感に合うのは嘗て大亀沼にも自生していた蓴菜であり、萬葉の浪漫に相応しいのはなだらかな丘陵が沼々を包み込むこの景勝の地をおいてない」と強気なの。But 一方では「考古学的には積極的な証拠に乏しい」としているのは正直ね。武蔵名所考】は 埼玉県立図書館 のデジタルライブラリーを参照させて頂きました。
次の目的地・鹿下越生神社へは直線距離では500m足らずと至近距離にあるのですが、間には山林が立ちはだかり、両者を結んでくれる道も無いの。なので大きく回り込まなければならず、ξ^_^ξの遅い脚では一時間程掛かりました。獣道でも構わないので、誰か両者を結ぶ道を造ってくれないかしら。そうすればヘルスロード大亀沼コースにも見処が増えて、集客力アップに繋がると思うのですが。
今回の散策の最終目的地がこの鹿下越生神社。実は、越生町にはもう一つ、大字越生にも 越生神社 が鎮座するのですが、越生町で普通に越生神社と云うと、そちらを指すことになるの。なので、ここでは便宜的に地名を冠して鹿下越生神社としておきますね。石段の参道を上ると右手に建つ大きな石碑が目に留まりましたが、来歴が細かに記されていたの。他では得られない内容ですので、全文を転載しますので御参照下さいね。尚、一部加筆&修正していますので御了承下さいね。
尚 祭神・大山祇神は山の神で 大雷神は雨の神であり 高龗社は龍の古字で、祭神は龍神で水の神として尊敬され 稲穀の豊作を願う庶民的信仰に発しているように思われる。尚 根本神社とは山の根方の祠にある神社と云う意味と思われます。大山咋尊は大歳神素戔鳴尊の子で日枝山王社の祭神で穀物の神です。日枝神社は天台宗比叡山延暦寺守護神として祭祀されたのがその起こりとも云われております。また、口碑に日枝神社よりも根本神社の方が古いのでこちらに合祭になったと云う。昭和34年(1959)には同敷地内にありました末社・愛宕大神 鬼神大神を合祀しております。埼玉県神社庁長 横田茂 拝書
【越生神社再建について】再興してより580年と云う歴史あるこの神社が 昭和60年(1985)2月19日 雪の降る午後4時30分 放火と見られる火災により焼失してしまいました。伝統ある越生神社の由来を思うとき、この災難を乗り越え、一日も早く再建を実現することこそ私達の責務と痛感し 同年4月再建委員会を結成 建設に取り組むことと致しました。しかし 神社の建設には多額の資金が必要であり、何の準備もなく仕事に取り組む無謀さを思うと 再建の前途も誠に多難と申す外はありませんでしたが、氏子並びに関係各位のご支援ご協力で 裏面に刻名した通りのご寄付と工事の日程によりまして ここに完成することが出来ました。
境内の周囲は緑濃く清閑な自然環境に恵まれ、すぐ下の沼は学頭沼と云い、豊かな水は四季折々の景観を映しております。前方は広く開けて当地区を一望に納め、誠に風光明媚な境内でございます。この敷地を一大造成して玉石積で高台に広い平坦地を造り、石段にて参道を延長、拝殿の位置を焼失前より20m後方に建築し、伝統ある神社にふさわしい風格ある千木小狭木舞を特徴とした神明造りの構造と致しました。
斯くの如く自然と調和のとれた神威にふさわしい荘厳な神社が完成し、永遠に私達の守護神としてこれからの世代に引継がれて行く事でしょう。これら工事の過程をご理解戴くため、この記念碑を建立致しました。昭和63年(1988)12月吉日 撰文 岩鼻照雄 書 福田明
鹿下越生神社と隣り合わせにしてあるのがこの学頭沼。灌漑用水の溜池で、慈光寺(埼玉県比企郡都幾川町)第60世住持の性尊和尚が江戸城に登城するため江戸に赴く途次、村人達から古池修理の嘆願を受け、それを幕府に取り次いだところ、無事修理が行われたの。性尊和尚は学頭職(教理教学の責任者)にあったことから、それからは学頭沼と呼ばれるようになったと伝えられているの。慶長8年(1603)のことなので、性尊和尚の江戸城への登城は征夷大将軍に任じた徳川家康への祝賀挨拶では−とされているみたいね。
先立つこと天正19年(1591)には、家康から寺領100石の朱印状が安堵されるなど、慈光寺は優遇された環境にあったみたいね。加えて【風土記稿】の鹿下村の項には「此村は御打入の頃より御料の地なりしに云々」とあるので、当時は幕府の直轄領だったみたいね。そうで無ければ、幾ら性尊和尚の口添えでも修理の実現は不可能だったのではないかしら。案外、村人達にしたら、何てったって天領なんだから、ねじ込んだら修理してくれるんじゃねえか−との思いがあったのではないかしら。けんどもよお、オレ達が頼み出たところで聞いては下さらんじゃろう。お、そうじゃ、そうじゃ。何でも慈光寺の学頭さまが近々江戸城に登城されると云う話しじゃで、学頭さまに口添えを頼んでみべえ。んだ、んだ、そうすべえ(笑)。
10. 里の駅・おごせ さとのえき・おごせ
学頭沼からは県道R30を南に歩いて越生駅に向かいましたが、越生町役場の信号まで来たときに見つけたのがこの里の駅・おごせ。越生町の観光センターで、観光案内がメインなのですが、コーヒーや軽い食事をすることも出来るの。実は、今回の散策コースでの一番の困りものが、後半ではトイレ休憩出来る場所が見当たらなかったことなの。越生駅に戻るまで諦めるしか無さそうね−と思っていただけに、この里の駅の存在は有難かったわね。それはさておき、トイレ休憩も済ませてコーヒーも飲んで落ち着いたところで見つけたのが「渋団扇発祥の地」標。
江戸末期から昭和40年(1965)頃迄は盛んに作成され、越生の渋団扇として名高かった−とありましたが、現在では作り手も、里の駅から越生駅方面に数100m歩いたところにある「うちわ工房しまの」さんだけになってしまったの。その「しまの」さんでは団扇作りを体験しながら自分だけのオリジナル団扇を作ることが出来るのですが、事前予約が必要なの。詳しいことは HP を御覧になって下さいね。ドサクサ紛れに里の駅周辺のプチ見処(全て道沿いにあるの)も併せてアップしておきましたので、上掲の画像をクリックしてみて下さいね。
11. 越辺川橋梁 おっぺがわきょうりょう
中央橋のところでガタンゴトンと電車が橋梁を渡る音が聞こえて来たの。ここまで来れば越生駅は目と鼻の先なので、ちょっと寄り道してみたの。特に何かを期待した訳ではないのですが、越生では全ての川が最終的にはこの越辺川に流れ込むと云うので、興味本位で足を向けてみたの。汚れで河底の見えない川を見慣れた眼には、たとえコンクリートの護岸でも、越辺川の流れは清流に見えるわね。橋梁脇の茂みではボケとやまぶきが赤白黄色の競い咲きをしていたの。
12. 越生駅 おごせえき
越生散策の第一弾は「山吹の里」と題してはみたのですが、やまぶきが観賞出来たのは最初に訪ねた「山吹の里歴史公園」だけでしたね。後はいつもながらの寺社めぐりで、独りよがりな内容になっていますが、御容赦下さいね。越生町はξ^_^ξが住む居住地区分だけの小さな町とは違い、その面積は40Km²に及ぶの。幾ら手許に地図があるからと云っても当然迷うの。街中と違い、地元の方の姿を見掛けることはそう多くは無かったのですが、それでも見掛けて訊ねたときには皆さん誰もが丁寧に教えて下さいました。それに励まされて訪問回数を重ねることが出来ましたが、脳天気な旅人にも優しい地元の人達にめぐり遇えたればの越生散策なの。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
東京堂出版社刊 神話伝説辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
岩波書店社刊 岩波文庫 湯浅常山著 森銑三校訂 常山紀談
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
越生町教育委員会編 越生叢書・おごせの文化財
越生町教育委員会編 越生の歴史 全巻
山吹の会発行 尾崎孝著 道灌紀行
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