今回は首都圏からのお手軽な行楽散歩として房総の鋸山と日本寺めぐりを紹介してみますね。
一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 久里浜港 くりはまこう 9:20発
公共の交通手段を利用せざるを得ないξ^_^ξとしては、普通ならJR内房線を走る特急「さざなみ号」を利用するところですが、今回の散策では趣向を変えて東京湾の海上遊覧を加えてみたの。と云っても、既にお分かりのように、リッチなクルージングではなくて、東京湾フェリーへの乗船よ。料金にしても ¥700 と、お財布にもトコトン優しいの。乗船時間僅か40分余の船旅ですが、海上を行き交う貨物船や陸地側の景観の変化などを眺めながら過ごす時間は楽しいものね。それだけでも日常から解き放たれた気がしてくるの。
2. 金谷港 かなやこう 10:00着 10:07発
左掲はフェリーターミナルを後にして歩き始めたところで見つけたハイキングマップですが、とっても分かり易いの。イラストマップなので正確な距離や方角を知るには不向きですが、歩く際の目印となる建物や施設などはしっかりと網羅されているのでこれなら迷うこともないわね。尤も、今回は鋸山ロープウェイを利用しての登頂ですので、山麓駅入口までは単に国道R127を歩くだけの一本道。これを迷うようであればどこにも出掛けられないわね(笑)。
ξ^_^ξはこのイラストマップで初めて鋸山をめぐる「関東ふれあいの道」があることを知ったの。
いつか踏破にチャレンジしてみたいわね。
以前訪ねたときには2Fに素敵な喫茶店があったの。
TheFish
3. 本覚寺 ほんかくじ 10:25着 10:28発
4. 金谷神社 かなやじんじゃ 10:29着 10:34発
呼称の大鏡鉄ですが、【房總志料續篇】には「平田篤胤が玉手綴巻五十一丁此鐵尊明神の考有り」とあり、篤胤は【玉襷】の中で「王の東征し給ふに 軍衆の乗りたる船はなほ数艘ありて 其の船毎に大鏡を懸けたるが中に沈みたるものありて 其に懸けたる鏡にやと思はる」としているの。ここでの王とは日本武尊のことで、当時は船の舳先に大鏡を懸けて航海するのを常としていたので、座礁或いは沈没した船が懸けていた大鏡ではないか−と推考しているの。But 日本武尊云々は神話の世界でのお話しなので単純に史実とみなすわけにもいかないのですが、少なくとも呼称の由来についてはお分かりいただけたのではないかしら。
5. ロープウェイ山麓駅 ろーぷうぇいさんろくえき 10:36着 10:45発
ロープウェイは僅か4分程の乗車ですが、上るに従い、眼下には金谷の街並みと雄大な東京湾の景観が広がってくるの。鳥にでもなった積もりで、しばしの空中散歩をお楽しみ下さいね。ゴンドラからの景観を幾つかアップしておきましたので、気になる方はクリックしてみて下さいね。因みに、平成24年(2012)12/21からはゴンドラも新たにスイス製の新型が導入され、より一層ワイドな景観が楽しめるようになったみたいよ。乗車券:¥500( 片道 )15分毎発
6. ロープウェイ山頂駅 ろーぷうぇいさんちょうえき 10:49着 11:14発
山頂駅の建物内には石切り資料コーナー(見学自由)があり、鋸山の成り立ちや、産出する凝灰岩が房州石と呼ばれて、嘗ては建築資材として盛んに利用されたことなどが案内されているの。この後紹介する百尺観音や地獄のぞきはいずれもその石切場跡を利用したものなの。他にも鋸山の山中には房州石を切り出した後の断崖絶壁があちらこちらに残されているみたいね。コーナーには当時の作業風景などを収めた貴重な写真も展示されているので、是非御覧下さいね。
〔 鋸山の地質 〕
鋸山は第3紀中新世の頃、海底に堆積した火山灰から出来た凝灰岩である。
これは房州石と云い、2つの種類がある。
〔 鋸山・石切りの歴史 〕
7. 日本寺西口管理所 にほんじにしぐちかんりしょ 11:23着発
〔 参道改修記念碑 〕 鋸山日本寺は、正しくは乾坤山日本寺と称し、聖武天皇の勅詔と光明皇后の令旨とに基づき、皇后の感得されし東方薬師如来を拝祀する「日本の寺」として、神亀2年(725)6月8日行基菩薩に依って開創された関東最古の勅願所である。初め法相宗に属し、次いで天台・真言宗を経て、徳川三代家光将軍治世の時、曹洞禅宗となって今日に及んでいる。山中現存の古碑銘にある如く、曽ては七堂十二院百坊を完備し、良弁僧正・弘法大師・慈覚大師等の名僧知識が相次いで来山留錫した我が国希有の古道場であったが、数次の兵禍に罹って衰微し、養和元年(1181)源頼朝公に依って復興を見、更に貞和元年(1345)足利尊氏公に依って修復されしも、時の流れと共に漸次朽廃し、徳川幕府の倒壊王政維新の成るに及んで廃仏毀釈の流弊は当山に致命的悲運をもたらし、全山全て荒廃に帰し、安置した仏像の多くが破壊されたのも実にこの間のことである。不運と試練はこれに止まらず、昭和14年(1939)11月26日、全く諦め切れぬ原因の失火に依って、僅かに残された薬師本殿・法堂・庫院・鐘楼等の堂宇数棟と、貴重な御下賜品・国宝・仏像等の寺宝悉くが烏有に帰し、更に日華事変に続く大戦の勃発は衆生済度の仏縁を断って全山を要塞と化し、あたら名刹も絶勝も荒蕪寂寥に委され、ここに復興の気運を大きく遅らせた。
然れども鋸山々中十万有余坪に亘る寺域は昔に変わらぬ霊境で、北に瑠璃・日輪・月輪の三峰を擁し、鬱蒼たる古木全山を蔽い、太古よりの風蝕に依って神鐫鬼斧を加えられた危峭霊窟の間には御丈31mの大薬師仏をはじめ釈迦・弥勒・観音・地蔵・羅漢等の1,500余躰の石像を安置し、古来天台の雁塔に比せられている。更に山頂十州一覧台の眺望たる、東を臨めば房総の山波画図の如く、西は東京湾を眼下に富嶽に対し、箱根・天城・大島を指呼す。北は筑波・日光・秩父の諸山共に黛の如く、南は近く房州沿岸の地盆景に似、遠く目を放てば水天髣髴その極るなし。真に関東第一の名を空しくせず。これ当山拝登山者の年々累加する所以である。
然るに、当山往時の参道は当山の石(第三紀層の凝灰岩山塊)にて造成されしもの故、石質甚だ軟弱なために多年の風水の浸蝕及び多数の参詣者の通行に依って摩滅損傷凹凸激しく、殆んど全域に亘って通行極めて難渋の状態にあり、関係者の久しく憂うる処であった。この度その参道が世界救世教の寄進に依り階段数2,639段、踊場数159、総延長2,700mに亘って大改修され、その殆んどが御影石・鉄平石張りの堅固なものとなり、且、排水施設・安全施設等も万全に整備された。ここに於て、当山の参道は旧時の面目を全く一新し、階段数・延長・美観皆共に日本第一の参道となった。蓋しこれ、当山復興の嚆矢ならん。然して其の因る所は、当寺と世界救世教教祖岡田茂吉氏との深き結縁にして、人智の図り知られざる計である。ここに参道改修の竣工を記念し、之れを刻して天下後世に伝える。昭和56年(1981)12月8日 当山曹洞21世 宕嶺徳禅 撰 〔 一部修正加筆 〕
管理所脇に建つ参道修復記念碑の碑文を引いておきましたが、行基の開創はマユツバものね。と云うのも行基が活躍したのは専ら畿内のことで、関東に下向して来たことを示す傍証は何もないの。この日本寺に限らず、関東でも多くの寺院が行基との関連付けを以て開創縁起を語るけど、いずれも寺格を高めるために後世に付与されたものなの。譬え嘘でも信ずるものには事実−の世界ですが、確かな記録が残されていない以上、誰が開創したのか分からないのも事実のようね。それはさておき、記述にある堂宇や寺宝の悉くが烏有に帰したと云う昭和14年(1939)の大火は入山者の失火が原因だそうよ。同じ過ちを二度と繰り返さないためにも、拝観時には歩行中の喫煙などは絶対にお止め下さいね。拝観料:¥600
≪十州一覧台≫ じゅっしゅういちらんだい 11:32着 11:42発
ねえねえ、十州ってなあに?
州とは国のことなの。江戸時代には箱根の関所から東、白河・勿来関の南にかけて関八州と呼ばれる八ヶ国が存在していたの。現在の関東地方に当たるエリアで、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野国があったの。ここでの十州は、その関八州に伊豆と駿河を加えたものを指すの。伊豆と駿河は今の静岡県ね。
十州一覧台を後にして次は百尺観音へ向かいましたが、道すがらの景観を幾つかアップしておきますね。
≪百尺観音≫ ひゃくしゃくかんのん 11:51着 11:58発
昭和41年(1966)5月、6ヶ年の歳月を費して完成した大観音石像です。発願の趣旨は、一つには世界戦争戦死病没殉難者供養のため、また一つには近年激増する東京湾周辺の航海、航空、陸上交通犠牲者供養のためです。当山山頂に切りたつ、険しい崖に囲まれた雄大な勝地に安置される大観音像は、交通安全の守り本尊として、多くの人々の尊崇を集めています。
切り立つ岩壁に挟まれた道を抜けると、空にポッカリと穴の開いたような広場に出ますが、壁面の大きな窪みに陽刻されているのがこの百尺観音なの。その名は磨崖仏の高さが百尺( 約30m )あることに由来するのですが、この窪みもまた石を切り出した跡なの。それも良質の石材を求めて切り出した跡みたいよ。普通なら足下から切り出すのですが、敢えて横穴を開けるようにして縦切りしているの。鉱山に例えれば優良な鉱脈が見つかったと云うところね。その石切場跡を活用したにもかかわらず、彫像に6年もの歳月をかけているのは凄いわね。
広場には北口管理所があるの。
自力で登山道(観月台コース)を登って来られた方はこちらで拝観受付をして下さいね。
百尺観音を前にして左手を見上げれば、名所「地獄のぞき」が空中に突き出しているの。高所から地上を見下ろすのも怖いかも知れないけど、下から見上げる「地獄のぞき」の姿形にも充分に怖いものがあるわね。そんなに多くの人が載ったりしたらその重さで岩が崩れ落ちてしまうんじゃないの−と。
≪地獄のぞき≫ じごくのぞき 12:11着 12:14発
百尺観音から来た道を戻り、今度は左端の急な石段を登ると「地獄のぞき」の迫力ある景観が目に飛び込んでくるの。その「地獄のぞき」に立つ前に展望台で予行演習を。先程の観音広場を端から見下ろすと、休憩する方々の姿が何と小さなことか。防護柵があると分かってはいても、思わず膝に震えがきてしまうの。
≪山頂展望台≫ さんちょうてんぼうだい 12:14着 12:20発
≪西国観音≫ さいごくかんのん 12:25着 12:29発
〔 東海千五百羅漢 〕 当山曹洞第9世・高雅愚伝禅師の発願に依り、上総桜井(現・木更津市)の名工・大野甚五郎英令が安永8年(1779)から寛政10年(1798)に至る前後21年間、門弟27名と共に生涯をかけて1,553体の石仏を刻み、太古よりの風蝕に依って出来た奇岩霊洞の間に安置し奉ったものです。これは実に、比べるものがないと云われた中華民国懐安大中寺の八百羅漢を凌ぐもので、鋸山は世界第一の羅漢霊場として遠く海外にも知られています。海を経て伊豆から運ばれた石材に真心を込めて彫刻された千態万状の尊像は、全て久遠の慈容を湛える驚くべき名作です。当山の貴重な寺宝であることは勿論、わが国の文化財としてもかけがえのないものですが、惜しくも明治維新の排仏毀釈以来、荒廃したままで現在に至り、目下「羅漢様お首つなぎ」を初め、全山の復興に努力しております。〔 日本寺栞より 〕
≪通天関≫ つうてんかん 12:30着 12:32発
西国観音前から続く石段を下ると隧道が見えてきますが、それがこの通天関なの。こちらも岩盤を刳り貫いて造られたもので、山門よろしく両袖には仁王像が脇侍しているの。その名の如く、通天関は天に通ずる関所の意で、ここからの石段道は天国に通じる階段だそうよ。そうとは知らずに石段を降りて来てしまったξ^_^ξはどこへ・・・
≪百躰観音≫ ひゃくたいかんのん 12:36着 12:38発
栞の記述にもあるように、明治期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐は御多分に漏れず、この日本寺にも襲いかかるの。中でも千五百羅漢の破壊は凄まじく、一時は首なし羅漢と揶揄されるほどの惨状だったと伝えられているの。But 壊滅的な損壊を被った理由が他にもあると云うの。それは何かと云うと巷に流布していた迷信なの。となると、どんな迷信かが気になるわよね。今でも「いろいろな表情の羅漢さまがいらっしゃるので、あなたに良く似た羅漢さまが見つかるかも知れませんよ」などとガイドさんに云われることがあるわよね。当時はそれ以上に、自分が想いを寄せる人と良く似た羅漢さまを見つけたら人に知られずにその首を持ち帰り、密かに供養するとその願いがかなう−などと云われていたの。また、羅漢像の欠片を飲めば博打に強くなれる−との噂が博徒達の間に流布していたの。鎌倉ではお地蔵さまの首がターゲットにされていたけど同じ理由ね。
≪あせかき不動≫ あせかきふどう 12:40着 12:41発
≪大野甚五郎英令の墓≫ おおのじんごろうえいれいのはか 12:50着 12:53発
この日本寺ですが、最初から鋸山の中腹に開創された訳ではなくて、元々は山麓の元名村字寺畑にあったとされ、それを現在地に移転させたのが中興の祖とされる高雅愚伝禅師なの。安永3年(1774)のことで、遅れて羅漢像の造立が始まるの。その制作過程は前述の通りなのですが、禅師自ら石材を求めて伊豆に出向くなど、並々ならぬ力の入れようなの。請われて羅漢像の彫像にあたった英令もまたしかりね。羅漢像の完成を見て肩の荷を降ろしたのか、48歳の若さで没してしまうの。紹介した「英令の墓」も実は弟子達が建てた供養塔みたいね。一門が刻んだ羅漢像も実際には1,553体の内の1,200体程だそうよ。残りの53体は古仏で、300体は後世に加えられたものだとか。だからと云って彼らの功績が色褪せるわけでは決してないけれど。
≪宝篋印塔≫ ほうきょういんとう 12:54着 12:55発
≪日牌堂≫ にっぱいどう 12:56着 13:01発
≪薜蘿洞≫ へいらどう 13:02着 13:03発
案内板には「薜蘿掛って錦の如く 洞中龍の蟠るに似たり」とあり、薜蘿を「べきら」と訓ませていたけど、本当は「へいら」と読むのが正しいみたいよ。調べてみると、薜蘿は元々は薜茘(へいり)や女羅(じょら)などの、かずらやつる状に伸びてまつわりつく植物の総称で、薜茘はテイカズラやツルマサキを指し、女羅はサルオガセ科の植物の総称で、下苔(さがりごけ)とも呼ばれ、ブナや針葉樹の枝や幹に互いに絡まって群生する植物なの。門外漢のことなので、より詳しいことは他のサイトを参照していただくとして、薜蘿には転じて「隠者の服」の意もあるのだとか。薜蘿纏いて錦の如く−であれば、さしずめボロは着てても心は錦−と云ったところね。ちょっと違ったかしら。
≪無漏窟≫ むろうくつ 13:04着 13:08発
御多分に漏れず、この日本寺も鎌倉後期から南北朝期にかけての戦禍を受けて荒廃するのですが、それを再興したのが足利尊氏なの。その尊氏が国家の安寧を願い、一時期この無漏窟に参籠したとも伝えられているの。優柔不断の割にはひとたび立ち上がると向かうところ敵なしの感がある尊氏ですが、十方の諸仏が背中を押していたのかも知れないわね。
≪維摩窟≫ ゆいまくつ 13:11着 13:12発
≪聖徳太子像≫ しょうとくたいしぞう 13:13着 13:15発
聖徳太子は法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書【三経義疏】を著わすなど、仏教への深い造詣もあり、十七条憲法では「篤く三宝を敬へ 三宝とは仏法僧なり 則ち四生の終帰 万国の極宗なり」と、最大限の奨励をしているの。そんなことから日本仏教の始祖と仰がれてもいるの。案内板に「法中の王最も高勝」と記される所以ね。その聖徳太子像の先には天台石橋が架かり、右手に続く石段を上ると不動滝があるの。残念ながら今となっては瀑布と呼ぶには程遠い流水量ですが、嘗ては滝水に打たれる行者達の姿があったのかも知れないわね。その不動滝の案内板には「茫々たる宇宙人無数 幾箇の男児が是れ丈夫」とあるのですが、宇宙人無数−と、切らずに読んでしまったξ^_^ξはエッ?宇宙人?何なの、これ−状態(笑)。
≪護摩窟≫ ごまくつ 13:22着発
≪小林一茶句碑≫ こばやしいっさくひ 13:25着発
阿羅漢の 鉢の中より 雲雀かな
≪大仏≫ だいぶつ 13:34着 14:11発
〔 薬師瑠璃光如来 〕 この大仏さまは、宇宙全体が蓮華蔵世界の浄土であることを現し、人々の本性の限りない解脱自由と、世界平和万世太平の大象徴であります。原型は天明3年(1783)に名工・大野甚五郎英令を頭梁として彫刻完成されましたが、惜しくも江戸時代の末期に、自然の風蝕と岩石の亀裂に依って著しく崩壊し、その後荒廃にまかされておりました。昭和40年(1965)、二紀会審査員(故)八柳恭次氏の指導を受けて復元工事に着手し、昭和44年(1969)6月に現在のお姿に彫刻再現されました。名実共に日本最大の磨崖仏であります。
大仏広場には拝観グッズの売店もあり、飲料水の自販機も設置されていますので、歩き疲れた方は傍らにある休憩処で一息入れて下さいね。それと、ここから先は保田駅までお手洗いが無いのでトイレ休憩も忘れずにね。
≪大黒堂≫ だいこくどう 14:21着 14:22発
〔 大黒堂 〕 弘法大師一夜彫刻爪彫大黒天を祀る
≪薬師本殿≫ やくしほんでん 14:24着 14:26発
薬師本殿(医王殿):当寺本尊薬師瑠璃光如来を祀る
≪源氏不動≫ げんじふどう 14:27着 14:28発
≪乾坤稲荷≫ けんこんいなり 14:28着 14:30発
≪頼朝蘇鉄≫ よりともそてつ 14:32着 14:37発
道なりに進むと見えてきたのが御覧の頼朝蘇鉄。樹齢800有余年の大蘇鉄で、源頼朝が御手植えしたものと伝えられているの。石橋山の合戦に敗れ、真鶴から房総に逃れ来た頼朝が戦勝祈願をした際に植樹したものみたいね。この日本寺を参詣した背景には薬師如来が戦傷の治癒にも霊験灼かとされていたことが関係しているみたいね。戦勝と戦傷治癒の双方の功あってか頼朝は後に諸堂の再興をしているの。その頼朝蘇鉄に護られるようにして達磨石や長谷川馬光の句碑も建てられているの。
引きおろす 鋸山の 霞かな
以前訪ねた際には紹介した頼朝蘇鉄に対面して仮本堂が建てられていたのですが、古い建物も取り壊されて、愈々新しい本堂の建設の運びになったみたいね。と云っても、現在( ′12.05 現在 )は御覧のように新たに盛土した基壇が造成されたところで中断しているの。ここから先は参詣者の入山料や篤志家の喜捨次第みたいね。替わって画面左手には梁川星巌の漢詩を刻む石碑が建てられ、頼朝蘇鉄の背後に建つ鐘楼には国指定重要文化財の釣鐘が架かるの。合わせて紹介しておきますね。
「鋸山に遊ぶ」 梁川星巌
流丹万丈芙蓉を削る 寺は磅唐の第幾重にか在る 地を捲くの黒風海角より来り 時有りて微雨山容を変ず 三千世界孤掌に帰し 五百の仙人一峰を共にす 怪しみ得たり残雲の腥気を挟むを 老僧夜降す石潭の龍
梁川星巌は幕末、神田お玉ヶ池に玉池吟社を開き、江戸詩壇を風靡した漢詩人。
美濃(岐阜県南部)の人
≪心字池≫ しんじいけ 14:40着 14:41発
説明には「心にかかるちりもなし 心の池に心あらいて 濁りなき心の水にすむ月は 波もくだけて光とぞなる」とあるのですが、残念ながら目の前にした池水は説明とは裏腹の透明度で、池底には折れた枯枝や木の葉が降り積もっている状態なの。清流を流して−などと我が儘は云う積もりは無いけど、もう少し手を入れて欲しいわね。そんなことを云うておるお前は修行が足りん!−かしら。心眼を以てすれば濁り水もまた七色に輝く生命(いのち)の水に見えるじゃろうて。喝〜〜〜ッ!(笑)
≪観音堂≫ かんのんどう 14:43着 14:45発
安房国札第八番 十一面千手観世音菩薩
はるばると のぼれば日本の 山おろし まつのひびきも みのりなるらん
観音堂の左手には表参道管理所があり、正攻法で参詣される方はこちらからの入山になるの。
But そんな殊勝な方にはついぞ出会うことなく参詣を終えてしまいましたが。
≪仁王門≫ におうもん 14:45着 14:48発
≪弘法井≫ こうぼうのい 14:49着 14:51発
江戸末期の天保3年(1832)に著された【房總志料續編】には「四丁目 左の方茶店あり 六丁目に又茶店あり 七丁目仁王門額有り」とも記されるので、当時はこの弘法井の湧き水が或いは利用されていたのかも知れないわね。単なる想像でしかないけど。
≪表参道入口≫ おもてさんどういりぐち 14:57着発
千葉県指定名勝 鋸山と羅漢石像群 昭和29年(1954)12月21日指定 管理者 日本寺
自然の中にあって、ひときわ光彩を放っているのが千五百羅漢の像で、日本寺の後背をなす中腹の至る所に、数多くの石仏を安置している。この石仏群を総称して東海千五百羅漢と云う。羅漢建像の由来は、日本寺曹洞第9世の高雅愚伝禅師が安永9年(1780)6月8日に発願し、安房・上総・江戸をはじめ各地の信者の浄財をもとに建立されたものと云い、愚伝禅師は自ら伊豆の石山を尋ねて石材を求めたと云い、上総国桜井(現在の木更津市桜井)の大野甚五郎英令らがこれを彫った。それらの像は奇岩・怪石・霊洞の間に安置されている。その数と質は、羅漢尊者応現の道場として名高い中国懐安大中寺の八百羅漢をしのぎ、世に羅漢山の別名がある。昔中腹の岩壁に彫った大仏の復元工事は、県・町の補助事業で、昭和44年(1969)3月完了し、往時の偉容が再現された。像高21.3mの日本寺大仏は、奈良の大仏より総て一廻り大きく、一大偉観と云えよう。尚、此処は南房総国定公園に指定されている。千葉県教育委員会 鋸南町教育委員会
8. 保田遊歩道 ほたゆうほどう
9. JR保田駅 ほたえき 15:37着発
10. 保田海岸 ほたかいがん 15:41着 16:17発
11. JR保田駅 ほたえき 16:22着 16:38発
今回の散策もこれにて全ての行程を終了よ。今にして思えば日本寺での見残しも幾つかあることに気付いたのですが、再び訪ねることが出来たときの楽しみとして残しておくことにしますね。それはさておき、保田駅からの帰路ですが、内房線と総武線を乗り継いで東京駅まで戻る正攻法にしたの。歩き疲れた身にはフェリーへの乗船は乗り換えが面倒だし、何よりも列車の揺れは心地良い眠りへの誘いよね。加えて各駅停車の普通列車とあれば、時間は充分過ぎるほどあるわ。とは云え、少しでも早くお家に帰ろうと、さすがに千葉駅では快速列車に乗り換えたけど(笑)。乗車券(山手線内迄):¥1,890( ′12.05 現在 )
12. JR千葉駅 ちばえき 17:59着 18:11発
13. JR東京駅 とうきょうえき 18:52着
今回の散策は以前訪ねたことのある鋸山と日本寺めぐりのリメーク版になるの。天候にも恵まれて雄大な浦賀水道の大海原を目の前にして南房総や対岸の三浦半島の景観をも楽しむことが出来ましたが、紹介しましたように、全行程をのんびりと歩いたとしても5時間余の行程なの。交通手段に依る移動時間を含めても充分に日帰り圏内よね。日本寺の千五百羅漢はちょっとひけちゃうかも−と云うあなたも、展望台からのパノラマ・ビューだけは是非訪ねた上でその目に焼き付けて下さいね。事は思い立ったが吉日、いかがですか、今度の週末にでも一度お出掛けになってみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように・・・・・
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
洋泉社刊 山本博文監修 あなたの知らない千葉県の歴史
鋸南町教育委員会発行 鋸南町史編纂委員会編 鋸南町史
千葉日報社刊 沼田有紀著 海いこ山いこ のこぎり山
昌平社刊 川村優編 郷土史事典 千葉県
房総叢書刊行会編 改訂房総叢書
日本寺で頂いて来たパンフ 他
TOP | INDEX | どこにもいけないわ |