今回の毛呂山町の史蹟散歩では街中に戻り、毛呂本郷エリアを中心に歩いてみましたが、毛呂氏が最初に移り住んだ地でもあり、全てを訪ねてみたわけではありませんが、縁りの事蹟が多く残されているの。そして毛呂本郷、否、毛呂山町で忘れてはいけないのが出雲伊波比神社よね。最後にその伊波比神社も訪ねてみましたのでお楽しみ下さいね。一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. 毛呂駅(JR八高線) もろえき
村田和泉守館跡では「ここに来て10年以上経つけど聞いたことねえな。角にある幼稚園の園長先生が村田と云う地元の人だから何だったら聞いてみたら?」と云われてしまったの。斎藤氏館跡にしても然りで、それらしき場所を探し出してはみたものの、素人が見てもそれと分かるような遺構がある訳でも、案内板が立てられている訳でも無いの。なので、毛呂山町の歴史に並々ならぬ興味をお持ちの方でも無い限りはお薦め出来ないの。さしずめ、今回御案内する散策コースは主な見処のみをピックアップして纏めたダイジェスト版と云ったところかしら。
2. 大師堂 だいしどう
〔 大師堂の由来 〕 大師堂は江戸時代初期寛永9年(1632)上野寛永寺の第8番直末寺として「南光山教王院圓福寺」と唱え、建立されました。当堂には、天海大僧正の開山印認許状、元三(がんさん)大師の画軸(町指定文化財)が継承されて居り、誠に由緒ある格式高き名刹であります。元三大師とは、平安中期の名僧・良源(912-985)であります。近江の国に生まれ、12歳で比叡山に上り、天台教学を学び、横川に住し、18代天台座主となり、衰退していた比叡山を復興整備し、多くの弟子を育成した天台中興の祖と云われ、在命中に大僧正になった勅諡慈恵大師であります。圓福寺は、明治6年(1873)に廃寺となりました。その後は近隣の人々の厚い信仰の許に堂宇の補修が行われ、護摩札の修業が続き、大師堂と崇められて今日迄守られて参りました。毎年正月三日の護摩札修業(元三会)は現在も行われており、近在の守り本尊であります。開山以来、13代の住職が続き、川崎大師・川越大師と肩を並べる格式を持つ天台教学修業の別格寺でありました。この度、念願であった大師堂再建に当たり、御本尊正観音像も修復なされて安置されて居ります。御本尊修復の過程で、享保3年(1718)銘のある胎内経が発見されました。再建には、旧地権者方々の御協力と、地元有志の厚い信仰心に基づく御支援を得て完成致しました。当大師堂は、近世の文化財(天海大僧正直筆の文物等)を多く継承する由緒あるお堂であります。町指定の文化財は、毛呂山町歴史資料館に収蔵されて居ります。平成11年(1999)10月吉日 大師一区・二区大師堂世話人敬白 岩上香清謹書
その圓福寺ですが、元は圓能房上人が幽棲のために建てた草庵を前身とするの。川越喜多院の住持を務めたことでも知られる天海僧正は、徳川家康の信任を得て政治顧問(笑)を務めるなど、当時は宗教界の頂点に立っていた僧侶ですが、圓能房上人もまた、その天海僧正から厚い信頼を得ていたのでしょうね、天海僧正自ら開山の印許状を認(したた)めているの。それも上野寛永寺直末としての開山を許しているのですから、超破格の扱いよね。But 隠棲を楽しむ積もりでいたのに、再び表舞台に担ぎ上げられてしまった感のある圓能房上人ですが、どんな経緯があったのかしらね。それとも、このまま朽ちるには惜しいと、我が意を得たり−の上人だったのかしら?(笑)
「天海大僧正寺号免許状」
武州山根新地建立 至神妙依之號圓福寺 令補東叡山直末者也
彌佛事勤行國家安全 御祈祷無怠惰抽精誠 者三季出仕不可闢者也 仍件如
寛永9年(1632)霜月吉日 山門三院執行探題大僧正天海 朱印
余談ですが、明治期の廃寺と聞いて多くの寺院がそうであるように、圓福寺もまた廃仏毀釈の嵐の中で廃寺を余儀なくされたものと想像したのですが、毛呂山郷土史研究会発行の「あゆみ17号」に収録される小川喜内氏の論考「故事を拾って」の中に「右住職淨泉坊と申者元治元子年住職と相成り 慶應元丑年 同二寅年 住職中隣家入曽善藏 市川柳助 荻野和佐藏三人の者に金錢借用致し 又は米麥借受借財相嵩候に付 慶應二年缺落仕り候に付 協議の上右寺買添地所金主方へ相渡云々」と云う古文書が収められているのを見つけたの。委細は省略しますが、借金が返済出来ず、代わりに寺領の田畑などを譲渡しているの。明治5年(1872)5月のことで、更に地区長からは明治6年(1873)1月付で「右寺之儀は無壇にして無住に御座候間云々」の理由から廃止願いが出されているの。江戸幕府の終焉で為政者側の後盾や利権を失い、圓福寺もまた財政が逼迫し、借財して当座を凌ごうとしてはみたものの、遂には破綻してしまったと云うことかしら。住持の浄泉坊と云う方のその後の動向も気になるわね。
3. 山根城跡 やまねじょうあと
4. 妙玄寺 みょうげんじ
このお寺は両宮山妙玄寺と云い、曹洞宗に属し、御本山は福井県永平寺と神奈川県総持寺の両大本山である。天文3年(1533)毛呂顕季夫人(顕繁の母)の創建で、毛呂山町小田谷長栄寺の二世忠室良勲大和尚を開山として迎える。山号を両宮山と云い、本尊に聖観音菩薩を安置する。開基の顕季夫人は天文23年(1554)に卒し、法名を以三妙玄大姉と云う。慶安2年(1649)寺領8石の朱印を下付され、歴代将軍家よりの直筆の朱印状は今も現存されている。裏手墓地内にある毛呂氏数代の供養塔は町指定文化財で、俳人川村碩布翁の墓及び句碑、国学者権田直助・年助の墓などがある。〔 以下省略 〕 平成5年(1993)6月吉日 妙玄寺24世住職 山田龍昌
しかしながら、平成7年(1995)に行った調査により30基を超える数となることが確認され、一部に五輪塔が含まれるものの、そのほとんどが宝篋印塔であったことからも、これらが墓としてよりも供養塔として建てられたことが窺われます。毛呂顕繁夫人は法名を以三妙玄大姉と云い、天文23年(1554)に没していますが、供養塔の中には妙玄寺創建を120年程遡る「本空禅尼 応永21年(1414)2月1日」と刻まれているものもあり、開山以前からの毛呂氏の墓所であった可能性もあります。これら妙玄寺の供養塔は、長栄寺(小田谷)の供養塔と共に、毛呂郷の在地領主であった毛呂氏に関係する貴重な文化財です。平成8年(1996)2月2日 毛呂山町教育委員会
毛呂氏はその季清の子・季光(すえみつ)が毛呂冠者を称したことに始まるとされ、【吾妻鏡】の治承4年(1180)12/12の条には「庚寅 天晴 風靜なり 亥尅 前武衞將軍 新造の御亭に御移徙の儀有り 景義の奉行として 去る十月事始め有り 大倉郷に營作せしむるなり 時剋 上總權介廣常が宅より新亭に入御す 御水干・御騎馬(石禾栗毛) 和田小太郎義盛最前に候す 加々美次郎長清御駕の左方に候す 毛呂冠者季光同じく右に在り 北條殿・同四郎主(義時)・足利冠者義兼・山名冠者義範・千葉介常胤・同太郎胤正・同六郎大夫胤頼・藤九郎盛長・土肥次郎實平・岡崎四郎義實・工藤庄司景光・宇佐見三郎助茂・土屋三郎宗遠・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱以下供奉す 畠山次郎重忠最末に候す」とあり、源氏一門や北条氏を始め、勲功著しい武士達の中で頼朝の直ぐ右手で供奉するなど極めて異例の扱いなの。加えて総勢311名もの大集団よ。それだけの武士達をさしおいて重要なポジションを勤めているのですから、普通なら考えられないわね。
更に、文治2年(1186)2/2の条では「毛呂太郎藤原季光国司の事」として「是太宰權師季仲卿の孫なり 心操尤も穩便にして賢慮に相叶ふか 旁々理運の間 御分國たるに就きて 豐後國に擧し申さしめ給ふ」とあるように、頼朝の推挙で豊後国の国司にも任じられているの。当時の豊後国は頼朝の知行国(直轄地)の一つで、他の知行国の国司は源氏の一族が当てられた中で異例の扱いなの。【吾妻鏡】にはその後も季光の名が数多く登場しますが、頼朝は清和源氏の一族で、熱田大宮司藤原季範の女を母に持つなど血統書付きの家柄で、その血脈の良さから、同じく高貴な藤原氏の血筋を引く毛呂氏を殊の外重用したと云うわけ。上洛時などは重臣に混じって季光も供奉するなど、頼朝の傍らには常に季光ありき−だったみたいね。
墓苑には毛呂山町の史蹟散歩 Part.1の 川角八幡神社 の項で紹介した川村碩布のお墓があるの。詳しくは同項を御笑覧頂くとして、碩布は天保14年(1843)に齢94歳で没しているの。当時の感覚からすれば、大往生と云っても過言ではないわよね。良く云えば俳諧に全人生を捧げた傑人、悪く云えば家業や家族のことなど顧みずに好きなことをして生涯を終えた自由人。ξ^_^ξにしたら川村家歴代のお墓にこうして並んでいられること自体が不思議な位よ。墓石には梅翁碩布居士と刻まれていますが、俗名は金左衛門(後、七郎兵衛と改む)になるの。逕顔楢却大姉とあるのは妻の「やう」さんのことで、文政九丙戊年(1826)十月四日没と記されますが、生前は心労が絶えずにいたでしょうね、きっと。「エッ、また、蔵を一つお売りになったんですか?そんなことをしていたら酒造りなんて出来なくなりますよ。手代達の御給金も払わなくてはいけないのに。私はもう知りませんよ!」碩布さん、来世では今度は奥さまを自由人にしてあげて下さいね(笑)。
5. 高福寺 こうふくじ
6. みたらせ池 みたらせいけ
御手洗池 俗称ミタラセ 正しくはミタラシイケで、古代から水は神聖視され、邪悪なものを祓い、不浄なものを清め、人とものの生命を再生すると考えられていた。そして、池・沼・湧水地の水は農業生産等人間生活の実利にも大きな力を持っていた。このミタラセは当神社の由来を記した「臥龍山宮伝記」にも「倭建命が景行天皇53年(123)御東征の折、山麓のこのミタラセで禊ぎをされてから毛呂周辺を領有していた出雲臣一族の祖神を祀る山上に詣で東征成功を祈られ、やがて龍が戦陣に出現、その力を得て東国を鎮定。その龍がこの山に臥したと云う伝説があり、臥龍山の名が付いたとする。命は凱旋の際もここで禊ぎの後、山上に社を建てられ、大名牟遅神を祀られたと記されている。古式流鏑馬執行の際にはここで騎者の禊ぎ、祭馬の漱ぎをし、不浄なものを清めて祭事に臨むのである。昭和61年(1986)8月 延喜式内出雲伊波比神社 宮司 紫藤啓治 撰文並書
ここでもう一つ、今回の散策コースからは外れますが、同じく流鏑馬神事の際に河原で祓を行うと云う重殿淵を訪ねてみましたので紹介してみますね。But 期待して訪ねたξ^_^ξがいけなかったわね(笑)。
重殿 じゅうどの 毛呂の「古式流鏑馬」祭事には大祭前日「河原の祓」と云って出雲伊波比社東北にある当地に祭人・祭馬が到来、注連を張り順に従って馬の口を漱ぐ。ここから前久保の焼米の饗応へと向かう。重殿の本来の意味は不詳であるが、群馬県佐波郡東村に水殿(ずうどの)と呼ばれる所三、新田郡新田町に重殿二、城殿(じょうどの)一、太田市沖野に増殿(ぞうどの)一があり、いずれも湧水地を呼んでいる(新田荘を開削した新田義重を讃え、重に殿を付けたとする名に因む説もある)。新田町市野井の重殿には石祠があり、水乞いの時湧水の周りで神輿を担ぎ廻ると云う。
毛呂の祓・新田の神輿共に湧水水源に殖産・興業・土地開拓の神たる大名牟遅神(おおなむちのかみ)、攘災・食物の神 須佐之男命(すさのおのみこと)を祀ったところからくる祭祀行事と思われる。いずれにしても重殿とは、生活・農業用水の水源である自然湧水・池沼を崇めるところから発した祭祀・信仰を示す名称であったと推量される(スイドノ・ズイドノ→ズウドノ→ジュウドノと変化したものであろう)。昭和61年(1986)8月 延喜式内出雲伊波比神社 宮司 紫藤啓治 撰文並書
7. 出雲伊波比神社 いずもいわいじんじゃ
気を取り直して最後に訪ねたのがこれから御案内する出雲伊波比神社なの。と云っても幾度か訪ね来ていて 乙女の湖・鎌北湖 でも紹介済みですので、御覧頂いた方もいらっしゃるかも知れませんね。内容は大きく変わりませんので、同頁をお読み頂いた方は心おきなく読み飛ばして下さいね。と云っても、後はもう帰途につくだけですが。と云うことで、最初に境内に掲示されていた略縁起から紹介してみますね。
出雲伊波比神社 埼玉県入間郡茂呂山町岩井2915鎮座
昭和61年(1986)8月 宮司 紫藤啓治 撰文並書
説明書きでは触れられていませんが、更に昭和58年(1983)には拝殿や瑞垣の新改築、祝詞門及び境内摂社の八幡社の修復なども行われているの。その瑞垣に阻まれて社殿の全容を収めるのがかなり難しいのですが、神さまの鎮座する御神域とあらば致し方の無いことかも知れないわね。ところで、この出雲伊波比神社には説明書きにある神さまの他にも伊弉冉尊・伊弉諾尊、素戔鳴尊や天鈿媛命などなど、全部で40柱近くもの神さまが合祀されているの。
実は、明治40年(1907)の神社合祀政策を受けて境内摂社末社のみならず、近在各所から諸神が集められて合祀されたの。本殿の右手に嘗て八幡神が鎮座していたお社が建ちますが、現在は八幡神を本殿に遷座して、代わりに諸神が祀られているみたいね。それにしても小さな社殿に押し込まれて、さぞ窮屈な思いをされているのではないかしら(笑)。ここでちょっと気になるのが社名の由来にもなっている出雲伊波比と云う神さまね。一神のように思われるかも知れませんが、大名牟遅神と天穂日命の二柱を合わせた呼称なの。
その出雲伊波比神ですが、説明書きで触れられている宝亀3年(772)の太政官符(天理図書館所蔵)には出雲伊波比神が関与したとされるとんでもない事件が記されているの。それに依ると、本来なら朝廷から幣帛(神さまへのお供えもの)を受けて当然なのだがこのところ滞っているとはけしからんーと怒った出雲伊波比神が郡家内外の雷神を引き連れて入間郡の正倉(租税の稲籾を納めた倉)4宇を焼き払い、糒殻10,500石余を焼き、百姓10人に重症を負わせ、更に2人を頓死させたと云うの。神さまの所業にしてはちょっと生々しい嫌いがありますが、それもそのハズで、実は、郡司の稲籾横領の証拠湮滅を謀った放火事件ではないかと解されているの。当時はこの入間郡に限らず、正倉が神火に遭うことは決して珍しいことでは無かったようで、収穫量の不足隠蔽や、着服を誤魔化すために郡司自らが放火することがあったみたい。他にも郡司の失脚を狙う連中が放火するケースもあったようよ。
郡司は郡衙に勤務する官吏のことで、地域の有力豪族が任命されることが多かったの。
尤も、それだけは執務をこなせずに賦役で駆り出された非常勤の職員も動員されていたの。
事件の詳しい経緯や背景などが気になる方は森田悌著【古代の武蔵】吉川弘文館刊を御参照下さいね。実は、この入間郡の神火事件は決して郡司が証拠隠滅を謀ろうとした訳ではないようね。じゃあ、どういうことなの?となるのですが、ことはそう単純ではなくて、氏は関係史料を元に検証される中で真犯人と云うか、黒幕の正体までも暴き出されているの。その思わぬ展開に皆さんもきっと驚かれると思いますよ。是非、御一読下さいね。
この伊波比神社は嘗ては飛来明神とか毛呂明神とも呼ばれていたの。飛来からは白鳥を稲の精霊と見做す伝承に加えて、稲荷神が連想されますが、稲荷神と云えば秦氏の氏神さまがそのルーツとも云われているの。同じくこの伊波比神社も中世になると毛呂氏の氏神的性格を強めたの。社に残る【毛呂記録】や【長昌山龍穏寺境地因縁記】には毛呂氏の氏神となった毛呂明神が高山不動方向から飛来したと伝えるの。更に伝説では毛呂氏の祖となる藤原季綱が当地に下向して来ると季綱を慕って一羽の鳥となり、この地に飛来してきたとも云われているの。この辺りになると藤原季綱と毛呂季綱がミックスジュース状態の感があるわね。【風土記稿】でも、飛来は蓬莱の誤伝ではないか−ともしているの。蓬莱が飛来に化けていつしか逸話が付与されて遠大な叙述詩がつくられたと云うわけよね。真偽の程は皆さんの御賢察にお任せですが、その【因縁記】の記述を紹介しておきますね。
毛呂越生の守護 小野宮藤原季綱親王 この地に居住す その因縁は藤原親王 内裏庭前の鞠の会に行幸あり 遊履四本踔遊す 時に履脱げて藤の枝に掛かり 此の時大地踏む 其の罪に依りて遙か東に流される 時に 紫藤・実藤の両臣も下りて相伴い奉り 此の所 毛呂越生の郷に落ち着けり 今 毛呂郷の紫藤の先祖是なり 此の時 内裏の氏神 季綱王の跡を慕ひ 飛び来たりて 高山不動の大堂に光を放つ 此の時 季綱王 阿諏訪山に鹿猟に出つ 俄に震動し 雷電して雨暗くして頻りに降り 東西更に分たず 時に実藤 弓に矢を架して 虚空に向いてこれを射落とさんと欲す 紫藤 押さえて射させず 其の間に天気漸く晴れ 雲中より光を放ちて 明神の形を現し 季綱王と対面す 王謹んで拝せられる 則ち毛呂明神是れなり 其の時より 越生内裏の明神と 毛呂自胎の明神と 一体両所に祝い奉る
埼玉県指定無形民俗文化財 出雲伊波比神社の流鏑馬 夕的の騎射
〜流鏑馬の里をめぐる〜出雲伊波比神社の流鏑馬 出雲伊波比神社の流鏑馬は平安時代の後期、源頼義・義家親子が奥州平定のため当社にて戦勝祈願を行い、凱旋途中の康平6年(1063)、再び立ち寄り、流鏑馬を奉納したのが起源と伝えられています。毎年11/3に行われる秋の流鏑馬は、毛呂山の晩秋の風物詩として親しまれています。三つの当番区の三人の小中学生が乗り子となり、騎射を行う全国的にも珍しい民俗行事です。乗り子は約10日間稽古・精進を重ね本番に臨みます。流鏑馬は午前の朝的、午後の夕的の二回行われ、特に夕的では勇壮な騎射のほか、ムチ・ノロシ・扇子といった馬上芸が次々と披露され、凛々しい少年騎士達の姿を見ることが出来ます。平成22年(2010)9月 毛呂山町教育委員会
8. 東毛呂駅(東武越生線) ひがしもろえき
今では意外に思われるかも知れませんが、出雲伊波比神社の社伝からは出雲系の人々が早くからこの地に住み着いて開発を進めたことが窺え、当地が地方政治の中心地としても機能していたことが知れるの。また、毛呂氏が最初に移り住んだとされる毛呂本郷には縁の事跡が今でも残されているの。その一つ一つは気を付けていないと見過ごしてしまいそうな控えめな佇まいですが、丁寧に訪ねてみれば、そこには当時を生きた人々の確かな証しが刻まれているの。時の流れの中で大きく姿を変えてしまったものが多いのも事実ですが、想像力を逞しくして訪ね歩くのもまた歴史散策の楽しみよね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
毛呂山町歴史民俗資料館発行 第12回特別展 芭蕉のこころ−毛呂山ゆかりの文人・川村碩布と野口有柳−
毛呂山町歴史民俗資料館発行 常設展示解説目録 −山と平野の里 歴史と文化−
毛呂山町教育委員会刊 毛呂山町史料集 第4集 毛呂山町の文化財
毛呂山町教育委員会刊 毛呂山町・神社と寺院
毛呂山町教育委員会刊 春秋庵・川村碩布
岡野恵二著 毛呂山町の寺を訪ねて
毛呂山町発行 毛呂山町史
毛呂山町歴史民俗資料館で頂いて来たパンフ&資料
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