≡☆ 見沼のお散歩 ☆≡
2021/11/13

以前、久喜市の菖蒲地区を訪ねた際に見沼代用水路のことを知り、付随して見沼通船堀などにも足を向けてはいたのですが、見沼には他にも関連する事蹟や興味を覚える寺社などもあることから、今回改めて歩いてみたの。尚、掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

見沼たんぼ

1. JR東浦和駅 ひがしうらわえき 9:18着 9:19発
Map : さいたま市緑区東浦和1

今回紹介するお散歩コースは 見沼たんぼ に紹介されている散歩道マップの「見沼通船堀と水風景コース」に「農と見沼代用水の原風景コース」を加えた、ちょっと欲張りな行程になっているの。But 一部省略したものもあれば、興味の赴くままに足を伸ばして訪ねてみたものもあるので、必ずしも同一の内容と云うわけではありませんので、ご注意下さいね。それと、実際に歩いてみるとお分かりになるかと思いますが、お散歩と称してはいますが、内容的にはかなりの強行軍よ。追体験される場合にはその積もりでお出掛け下さいね。尚、掲載する画像は以前訪ねたときのものを含めて掲載していますので御了承下さいね。

駅前の一角で気になるものを見つけたの。それがこの「見沼の龍神」像で「 この辺りから北に向かって広大な見沼という沼がありました。沼は干拓されて見沼田んぼとなり、干拓と同時に沼の主の龍神は天に昇ったと云います。見沼周辺には沢山の龍神伝説があります。浦和東ロータリークラブ 創立40周年記念事業 」と案内されていましたが、この先、あちらこちらに龍神伝説が残されていたの。散策コース内にある見所と併せて、その龍神伝説についても紹介していきますのでお楽しみ下さいね。

駅前でもう一つ、気になるものを見つけたの。それが 見沼たんぼの桜回廊 の案内板で「桜の下を散策出来る日本一の桜回廊!」とあるの。これも実際に歩いてみて分かったことですが、見沼代用水路沿いには桜の木が数多く植えられていて、桜の開花期には大いに期待が持てそうよ。お花見には是非とも来なくちゃね。

見沼代用水沿いには、元々団体や市民による桜の植樹が行われ、見事に咲き誇る桜回廊が約18.2Kmもありました。その活動を継承し、更に植樹することで総延長20Kmを超える日本一の桜回廊を目指すため、平成25年度に「 サクラサク見沼たんぼプロジェクト 」をスタートさせました。市民・団体・企業など沢山の方々に寄付や賛同を頂きながら、桜の植樹や散策環境の向上に取り組んできました。その結果、平成39年(2017)3月に見沼代用水西縁( にしべり )・東縁( ひがしべり )・見沼通船堀に連なる桜回廊の総延長は20Kmを超え、「 桜の下を散策できる日本一の桜回廊 」となりました。

2. 見沼通船堀公園 みぬまつうせんぼりこうえん 9:26着 9:30発
Map : さいたま市緑区大字大間木

最初に訪ねたのがこちらの見沼通船堀公園ですが、通船堀( 西縁 )の水路沿いに竹林があり、その中に遊歩道が廻らされているの。なので公園と云うよりも、通船堀の見学路と云ったところかしら。その通船堀の水路にしても、残念なことに、国指定史跡と云う割には自然に任せた放置状態で、川底にはペットボトルやゴミが投げ捨てられていたりと、お世辞にも綺麗だとは云えないの。But 幸いにも令和3年(2021)から西縁の再整備工事が始められていて、訪ねたときには未だ未だこれからの印象でしたが、工事完了の暁には東縁のそれに準じた景観になるようよ。

〔 見沼通船堀 〕国指定史跡 昭和57年(1982)7月3日指定
見沼通船堀は、江戸時代中頃に築造された閘門式運河です。徳川幕府の命を受けて、見沼の新田開発を行った幕府勘定方井澤弥惣兵衛為永によって、享保16年(1731)東西の見沼代用水路( 農業用水路 )と排水路である芝川の間に開かれたのが見沼通船堀です。見沼代用水路と芝川の間の、3mの水位差を調整するために、東西とも二ヶ所ずつの閘門が設けられていました。通船堀の開通によって、江戸からの船が見沼代用水路縁辺の村々へ、また見沼代用水路縁辺の村々から江戸へと舟運が発達しました。この運河は、大正末年に使われなくなりましたが、その遺構は、我が国の土木技術や産業交通の発達を知る上で、極めて貴重な物と云えます。平成24年(2012)3月 さいたま市教育委員会

園内にはもう一つ案内板が立てられていたの。
冗長になりますが、参考までに引いておきますね。

〔 見沼通船堀 〕見沼通船堀は、享保16年(1731)に幕府勘定吟味役井澤弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古の閘門式運河です。通船堀は代用水付近の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶ形で八丁堤の北側に造られたものです。東縁側が約390m、西縁側が約645mもありますが、代用水と芝川との間に水位差が3mもあったため、それぞれ関を設けて、水位を調整し船を上下させました。関と関の間が閘室となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門を持つことが見沼通船堀の大きな特徴となっており、技術的にも高く評価されています。

通船堀を利用して江戸に運ばれたものは、年貢米の他、野菜・薪炭・酒・柿渋などの代用水付近の村々の生産物で、江戸からは、肥料・塩・魚類・醤油・荒物などが運ばれました。船を通すのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の二ヶ月程と短くなりました。通船は、明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達等によって廃れ、大正時代の終わり頃には利用が無くなり、昭和6年(1931)の通船許可の期限切れとともに幕を下ろしました。見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な文化財のため国の史跡に指定されています、また、通船差配( 船割役 )の鈴木家住宅も併せて指定され、保存されています。文化庁・埼玉県&浦和市教育委員会

紹介が前後して恐縮ですが、公園に来る途中の水路沿いで最初の龍神伝説の案内板を見つけたの。それが下掲の「 見沼の笛 」伝説ですが、お話の中では「 見沼の主 」としているだけで、龍神としている訳ではないので、このお話を以ていきなり龍神伝説とするには無理があるかも知れないわね。But 御安心下さいね。この頁を読みすすめていくと、色々なことが見沼に棲む龍神の仕業であることが分かるの。人前に姿を現すときは、美しい娘であったり、村の女性の出で立ちであったりするの。勿論、大蛇としてその正体をあらわすこともあるけど、意外と優しいのよ、見沼の龍神は(^^;。

〔 見沼の笛 〕昔、この辺りの見沼が、まだ満々と水をたたえていた頃のこと。夕暮れになると、沼の畔のどこからか、美しい笛の音が流れてきます。そしてその笛の音に誘われるかのように、村の若い男達が一人、また一人と、沼の畔から消えてゆきました。村の若者は段々少なくなって、お百姓もできなくなるほどになりました。困った村人達は、これはきっと見沼の主が、何かを怒ってなされるに違いない、見沼の主の心を鎮め、いなくなった若者達を慰めるため供養塔を建てることにしました。そして大きな石の塔を建て、懇ろに供養しました。それ以後は、不思議な笛の音はぴたりと止んで、行方不明になる若者もなくなり、再び村は平和になったと云うことです。昭和59年(1984)3月 さいたま市

3. 附島氷川女体社 つきしまひかわにょたいしゃ 9:34着 9:41発
Map : さいたま市緑区大字大間木1522

次に訪ねたのがこの附島氷川女体社ですが、女体の意味するところを知らず、女体社だなんて何だか艶めかしい名前のお社ね、どんなお社なのかしら−と気になり、立ち寄ってみたの。境内に立てられていた案内板の解説を転載しておきますが、当社がさいたま市緑区宮本に鎮座する氷川女体神社から分祀されたものであることは分かったものの、相変わらず女体の意味するところは分からず終い。帰宅後に改めて調べてみると、ξ^_^ξが想像していたような下衆(笑)な世界のお話ではなくて、もっと崇高な意味合いから付けられていたことが分かったの。

氷川神社の総社とされるのが同じくさいたま市にある大宮氷川神社ですが、嘗てはその大宮氷川神社を男体社、緑区宮本に鎮座する氷川女体神社を女体社、そして見沼区中川にある中山神社を簸王子社と称して、この三社を同一体とみなして氷川社としていたの。祭神もそれぞれ素戔鳴尊(夫)、奇稲田媛命(妻)、大己貴命(=大国主命・子)が祀られるの。これで、ようやく女体社の意味するところが理解できたわよね。そうなると、今度は緑区宮本に鎮座する御本家の氷川女体神社を訪ねてみない訳にはいかないわよね。今回は無理だけど、次回、見沼のお散歩の第二弾で訪ねてみようと思っていますので、乞う御期待よ(笑)。

〔 氷川女体社 〕嘗て、東京湾が大宮台地の辺りまであった頃、当社の北側の崖の下は入り江であったと伝えられる。附島と云う地名も、こうした太古の海の名残りの一つで、江戸時代には一村であったが、規模が小さかったことから、明治9年(1876)に大間木新田と共に大間木村に合併され、その一小字となった。この附島の地に、氷川女体神社が祀られるようになったのは、恐らく三室村( 現・緑区宮本 )に鎮座する氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連するものと思われる。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領20石分の替地が、附島村内に与えられたのは寛永6年(1629)以降のことであるから、当社の創建は、その時期よりやや降る頃と推測される。【風土記稿】によれば、当社は江戸後期には女体明神社と呼ばれ、村民の持ちであったとされている( ※補 )。  附島は、元来は吉田一家( 一族 )の集落であったと云われ、今でも住民の1/3は吉田姓であるが、その本家とされるのが吉田喜蔵家である。従って、ここで云う村民とは、現在の吉田喜蔵家の先祖のことと思われる。尚、江戸時代の中頃に同家の当主であった治郎左衛門は修験者で、明和年間(1764-72)から安永2年(1773)にかけて東北から四国に至る諸国を巡礼しており、その納経帳が現存している。

※補  【新編武蔵風土記稿】( 以降、風土記稿と略す )の足立郡見沼領・大間木村の条には「 石神社・熊野社・神明社・女體明神社・稲荷社四宇 村民の持 」とあるの。

〔 附島氷川女体社本殿一棟 〕市指定有形文化財( 建造物 )  昭和56年(1981)4月4日指定
一間社流造りの小本殿です。身舎の間口が69.0cm、奥行61.0cm、向拝の出が51.0cmあります。土台上に建ち、身舎柱は円柱で、長押で固められています。柱上は舟肘木造出しの桁がのります。妻飾りは豕扠首です。向拝柱は角柱の大面取りで、柱上は出三斗で桁を受けています。身舎とは繋虹梁で結ばれていますが、左右の向拝柱を結ぶ虹梁は省略されています。身舎の正面は板唐戸で、縁板は正面のみに向拝柱まで張られていて、「 見世棚造り 」となっています。木階はその前面につきます。

軒は二重繋垂木で、屋根はこけら葺きとなっています。この建物には建立年代を伝えるものは残っていませんが、江戸時代初期と考えられます。平成11年(1999)2月 宗教法人・氷川女体社 浦和市教育委員会

神社建築の用語には読み仮名がふられていたのですが、構造が理解出来る方なら読み仮名は不要よね−と云うことで読み仮名は省略よ。それはさておき、ここで気になったのが、社殿前の左右に置かれた切株なの。嘗て境内に聳え立っていた御神木かも知れないわね。

4. 大間木稲荷社 おおまぎいなりしゃ 9:43着 9:46発
Map : さいたま市緑区大字大間木1914

〔 稲荷社 〕8代将軍・徳川吉宗の命により、見沼干拓のために紀州から呼び寄せられた伊澤弥惣兵衛為永は、この難事業を享保12年(1727)に成し遂げた。この事業によって失われた見沼溜井に代わる用水として開削されたのが見沼代用水で、その竣工は享保16年(1731)である。見沼代用水は、農業用水として利用されただけでなく、舟運にも利用され、陸上交通が発達する昭和初期まで、江戸と用水縁辺の村々との間の物資の輸送に重要な役割を果たしてきた。当社の鏡座する八丁は、この見沼通船の会所が設けられ、重要な荷揚げ場となっていた所で、船頭など舟運に係わる人々も多く居住し、正に見沼通船の基地であった。

【明細帳】には、当社の由緒について「 創立享保十六亥年九月其他不詳 」と記されているが、この創立年から、当社は、見沼干拓による新田開発に伴ってこの地に住み着いた人々が勧請した神社であると思われ、本殿には勧請の際に受けた神璽などを納めていたものらしき筥が残っている。また、境内には天保2年(1831)3月大吉日に氏子中が幟立を奉納していることや、天保6年(1835)2月初午に氏子の鈴木粂之助が手水鉢を奉納していることから、この頃境内の整備が図られたことが推測される。更に、拝殿内の額から、明治28年(1895)に参道の敷石や幟竿及び幟竿置場の奉納があったことが分かる。

次の鈴木家住宅に向かう途中に鎮座していたのがこちらの大間木稲荷社ですが、先程紹介した【風土記稿】の記述にもありましたように、大間木村には稲荷社だけでも4社があったことが知れるの。村が見沼通船で経済的に潤っていた証しでもあるわね。舟運で賑わいを見せていた頃は、2月に行われる初午のお祭りでは、西新井から囃子連を呼んでお囃子を奉納し、舞台の上からお餅やミカンを投げたりしてお祝いをしたそうなの。その境内も現在は八丁稲荷児童遊園と名付けられ、滑り台や鉄棒などの遊具が設置されていましたが、そこには子供達の姿もなくて。村の鎮守さまで行われる村祭りも、境内で鬼ごっこや隠れんぼなどして遊ぶ子供達の姿もみな昔話になってしまったのかも知れないわね。

5. 鈴木家住宅 すずきけじゅうたく 9:53着 10:11発
Map : さいたま市緑区大字大間木1889

東に向かい道なりに歩いているとやがて前方に立派な建物が見えてくるの。それが鈴木家住宅で、見沼通船堀での通船業務の差配役を勤めた鈴木家のお屋敷よ。鈴木家と共に高田家も同じく通船業務に当たってはいたのですが、高田家の方では江戸に留まったまま指示を出していたみたいね。鈴木家では現場で陣頭指揮した方が効率が良かろうと、大間木村へ移り住んできたようね。建物は修復の手を経てはいるものの、概ね当初の形を留めているの。今でも重厚な構えを見せて貫禄十分だけど、当時の村人達からすると、お屋敷ならぬ御殿に見えたのではないかしらね。補:公開時間 毎週土・日曜日 10:00 - 16:00

〔 鈴木家住宅 〕国指定史跡・見沼通船堀の内  昭和57年(1982)7月3日指定
享保12年(1727)鈴木家は高田家と共に井澤弥惣兵衛為永に従って、見沼干拓事業に参加しました。享保16年(1731)の見沼通船堀の完成と同時に、鈴木・高田両家は幕府から差配役に任じられ、江戸の通船屋敷で通船業務を司り、八丁堤などには通船会所を持っていました。鈴木家は、各船に対する積荷や船頭の割り振りなどの船割りを行い、文政年間(1818-30)以降は八丁会所に於いて船割りにあたり、住まいも八丁に移しました。現在残る鈴木家住宅は、この頃の建立となり、見沼通船の船割り業務を担っていた役宅として貴重な建物です。平成9年(1997)3月 さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課

〔 鈴木家住宅付属建物 〕鈴木家は高田家と共に見沼通船の差配役に任じられ、文政年間(1818-30)頃から八丁で事務を執るようになりました。現在の鈴木家住宅はこの頃に建てられたものと考えられ、昭和57年(1982)に通船堀と合わせて国指定史跡に選定されました。鈴木家の付属建物は米蔵と納屋があり、大正12年(1923)の関東大震災で大破しましたが、その後修復されたものです。しかし、大幅な改変はなく、建設当時の姿を保っているため、傷んだ部分の取り替えなどを行い修理しました。往時の面影が偲ばれます。

〔 米蔵 〕蔵造り、梁間2間半、桁行き4間 ( 4.56m×7.28m ) 、棟が東西方向に向き、入口が南側に二ヶ所あり、入口の上部には小窓を持っています。間取りは板壁によって2室に分かれ、いずれも土間となっています。入口からみて左側は中二階となり、床は板張りとなっています。外壁は漆喰塗り仕上げとなっており、腰壁は着脱可能なささら子下見板壁です。屋根は瓦葺きで、入口の建具は土戸、腰付き格子戸が二重になった片引き戸で、窓は半間の片引板戸になっています。

〔 納屋 〕 梁間2間半、桁行き6間半 ( 3.64m ×11.83m )、棟が東西方向に向き、入口が南側に2ヶ所あります。間取りは3室に分かれ、右側が板の間、中央と左側が土間となっています。中央部分は天井が低く、土台の両端部に継ぎ手が見られることや、北側の柱に建具の釣金具らしきものが残っていることなどから、嘗ては通り土間であったと思われます。外壁は漆喰塗り仕上げとなっており、腰壁はささら子下見板壁となっています。屋根は切妻屋根で、瓦葺き。建具は腰付き格子戸の片引戸となっています。

〔 艜船 ひらたぶね 〕 展示の船は、江戸から八丁堤までのオヤブネと呼ばれる船を想定して1/2に復元したものです。船の荷物を積むところをドウノマと云い、ドウノマのヘサキ寄りの方をセイジと云います。セイジは関東の川船だけに見られ、寝泊まりできるように屋根が付いていました。ドウノマには板のスノコを敷いて上に荷を載せ、雨が降ると荷の上にトバ( カヤやスゲ、ワラなどを編んだもの )を掛けて濡れるのを防ぎました。ドウノマには、積み荷の他にヤイビ、コヤイビ( ヤイビの小さなもの )と櫓を積んでいました。ヤイビは、荷物の積み降ろしのときに船と岸の間に渡した板で、約9尺( 約2.7m )あります。

船べりの側板の上縁につけた板をコベリと云い、この上を船頭が歩いて竿をさしました。船は帆掛け船と帆のない船があり、帆掛け船は帆柱を取り外せます。江戸( 明治以降は東京 )へ上るときは、芝川では竹竿を使い、荒川に出ると艪を漕いだと云います。帰りは川口まで櫓で、芝川からは竿と二本の綱で曳き、南風があるときは両川とも帆を使って運行しました。平成10年(1998)3月 さいたま市教育委員会

〔 見沼通船と船頭 〕見沼通船に使われた船は艜船と呼ばれる底が平らな小型船で、大きさは記録に残っている天保6年(1835)の船を例にとると、長さ6間3尺2寸( 約12m )、深さ2尺6寸5分( 約80cm )、幅は最も広いところで7尺7寸( 約2m )ありました。船には大小ありましたが、普通、米俵を100〜200俵を積むことができました。嘗ては八丁河岸に多くの船頭が居住し、現在も八丁橋の脇にある水神社は水難防止を祈願して祀られたものです。市の無形民俗文化財にも指定されている「 見沼通船舟歌 」は、船頭が江戸との往復の際に、船の操作に合わせて口ずさんで歌った仕事歌です。地元の地名などが織り込まれ、船頭やその家族の暮らしぶりが窺えます。現在は、地元の婦人会を中心とした保存会に歌い継がれています。

見沼通船舟歌( 一部 )
千住出てから まきのやまでは 竿も櫓かいも 手につかぬ
千住じまいは 牛若丸よ こいをだいたり かかえたり
一に仲田屋 二に竹吾妻 三に相模屋でとどめさす
押せよ押せ押せ 二丁櫓で押せよ 押せば港が 近くなる
船は千くる 万くる中に わしの待つ船 まだ来ない
船乗り稼業は もうやめしゃんせ 苦労するのを やめるよう
船は新らし 船頭さんは若い 積んだ荷物は 米と酒
船が着いたよ 八丁の河岸に 早く出てとれ おもて綱
八丁出るときゃ 涙も出たが どうぞご無事で 帰りゃんせ
八丁山口は 船頭でくらす かかあふもとで しらみとり

6. 八丁堤 はっちょうつづみ 10:15着 10:16発
Map : さいたま市緑区大字大間木1885-17

〔 八丁堤 〕八丁堤は、関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた人工の堤である。この堤は、長さが八町( 約870m )ほどあるのでその名がつけられた。徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水工事に力を尽くし、利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池をつくるなど、関東地方の治水事業を次々に完成させた。見沼溜井もその一つである。寛永6年(1629)、伊奈忠治は、両岸の台地が最も接する旧浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に八丁堤を築き、灌漑用水池をつくった。その面積は1,200haに及ぶ広大な溜井であった。

この溜井は、下流地域221ヶ村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと氾濫したり、旱魃のときは水が足りなくなったりするなど、色々不都合が出て、享保12年(1727)8代将軍吉宗の命を受けた井澤弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。また、この八丁堤は、寛永6年(1629)に伊奈忠治が陣屋を構えた赤山に通ずる赤山街道の一部である。昭和58年(1983)3月 さいたま市

掲載した画像は芝川に架かる八丁橋からの景観を写したもので、八丁堤ではないの。ごめんなさいね。嘗ての八丁堤は現在は県道となっていて、実は今迄歩いて来た道がそれだったりするの。幾ら旧蹟だからといって、アスファルト舗装された車道を撮してもねえ−と云うことで、代わりの映像で御容赦下さいね。

〔 関東郡代伊奈氏 〕伊奈氏は清和源氏義家の流れをくむ藤原氏の出自で、徳川家康の関東入国以後は関東代官頭( 関東郡代 )として武蔵国の幕府直轄地の統治を行いました。代官としての伊奈氏の統治の中で最も注目されるのが伊奈忠治の河川改修工事で、新田開発の用水を確保するために、利根川や荒川の瀬替え( 流路変更 )を積極的に推進しました。しかし、その結果、芝川の流量が減ってしまったため、寛永6年(1629)に忠治は見沼溜井を造成して、新田開発の用水源にしようとしました。伊奈氏の代官陣屋は当初小室陣屋( 現・伊奈町 )でしたが、寛永6年(1629)に赤山( 現・川口市 )に移りました。以来、伊奈忠尊( いなただたか )の改易まで160年以上にわたって関東の幕府直轄地支配と多くの治水・水利事業を実施する拠点として赤山陣屋は営まれました。

お話の順序が前後してしまい恐縮ですが、伊奈忠治の名が出てきたところで、見沼たんぼの歴史について少しお話しておきますのでお付き合い下さいね。嘗て八丁堤の北側には縄文海進※でできた広大な沼があり、見沼と呼ばれていたの。名称の由来は、その形が三つの沼からなっていたとする三沼説や、見沼が嘗てはさいたま市緑区宮本に鎮座する氷川女体神社の御手洗瀬としての神領であったことから御沼と呼ばれ、そこからの転化だとする説などがあるみたいね。それはさておき、江戸時代の寛永6年(1629)、幕府の命を受けた関東郡代の伊奈忠治はその見沼を灌漑用水池として活用すべく、八丁堤を築いて広大な溜井を造成したの。云うなれば八丁堤は治水ダムと云ったところね。その見沼溜井の完成で八丁堤南側の新田開発が大いに進められたのですが、一方で見沼沿岸の村ではそれまでの水田が水没してしまうなどの不都合も生じたの。加えて、溜井の水深が浅かったことから水量の増減を充分に吸収できず、大雨が続くと増水氾濫して洪水を招き、逆に旱魃時には水不足となるなど、必ずしも目論み通りにはいかなかったみたいね。それらを纏めて解決すべく行われたのが井澤弥惣兵衛為永による見沼の干拓と見沼代用水路の開削ですが、それについては後程見沼通船堀の項で改めて御案内しますね。

※  縄文時代前期頃( 約5,000年前 )は気候が温暖で、現在に比べて平均気温が2°C程高かったことから極地の氷が溶け、海水面が平均で3m程上昇していたの。そのため内陸深くまで海水が浸入し奥東京湾が形成されていたの。縄文前期中葉が縄文海進の最盛期で、温暖化が更に進んで海水面が上昇、現在のそれよりも5mも高かったと推定されているの。その縄文海進も縄文時代前期終末頃から後退に転じ、縄文時代後期末から晩期にかけて更に寒冷化が進むと、奥東京湾の海水面も低下して、河川が流出する土砂がやがて低湿地を形成するようになるの。見沼もまた長い年月を経て造成された気候変動の産物の一つね。

7. 水神社 すいじんじゃ 10:16着 10:19発
Map : さいたま市緑区大字大間木2395

〔 水神社 〕水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保17年(1732)6月の創建と伝わります。祭神は、水の神である罔象姫命 みづはのめのみこと をお祀りしています。享保16年(1731)伊澤弥惣兵衛為永によって開削された見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水路縁辺の村々との物資輸送が可能になりました。船は、代用水路縁辺の河岸で荷物( 江戸時代に於いては年貢米が主でした )を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできました。荷物の積み降ろしをする河岸場は、芝川と東西の用水路沿いに59ヶ所あり、ここ八丁にも河岸場がありました。

八丁河岸周辺には、河川輸送に携わる人達が住んでおり、水神社は、そのような仕事につく人たちが、水難防止を祈願して祀ったものです。尚、本殿は大正12年(1923)9月1日の大地震により全壊し、同13年(1924)に再建されたものです。また、境内は国の史跡・見沼通船堀の一部になっています。平成24年(2012)3月 さいたま市

八丁橋を渡りきったところにあるのがこの水神社で、鳥居の傍らには右掲の再建記念碑が建てられているの。それに依ると、見沼通船堀の通船権は開通当初は高田茂右衛と鈴木文平の両名に与えられたものの、文政3年(1820)以降は高田家が支配したとあるの。更に明治7年(1874)には田貢平が通船堀と附属地の払い下げを受けて見沼通船会社に一切の権利を移譲。大正2年(1913)には岡村俊太郎・鈴木順太郎・小嶋藤七の尽力により、船子連が払い下げを受け、当社地も鈴木順太郎氏以下25名の所有となったことが記されているの。鈴木家住宅が今に残ることから通船堀の運営は鈴木家がメインで行っていたのかと思いきや、高田家もしっかりと関わりを持っていたようね。否、記述からすると、むしろ高田家の方が中心になって事を進めていたときもあったような雰囲気にあるの。それはさておき、大正12年(1923)の関東大震災では社殿が全潰し、周辺の家屋も30数戸が倒壊したと云うのですから、地震はやはり恐いわね。水難だけじゃなくて地震などの自然災害からの除災祈願もあったのでしょうね、翌年の大正13年(1924)には社殿を再建しているの。

碑には漢文が刻まれているの。紹介した内容以外のことも書かれていますので、参考までに転載しておきますが誤りがあるかも知れませんので、そのときはごめんなさい。訓み下し文も By your self(笑)でお願いしますね。

抑當通船堀者見沼代用水路開掘後享保十五年井澤惣弥兵衞爲永之所設 計也連絡東西代用水路與中悪水路築造閘門於上下各二ケ所宛翌十六年 竣工共得許圖自深谷至東京廻米之便當時此水路之通船権者高田茂右衛 鈴木文平両者之所有而両者被給通船屋敷于江戸神田花房町及武尾間 木村文政三年以後田氏之支配也隆而明治七年田貢平氏受通船堀及 附屬地之拂下于埼玉縣令后一切之権利移施見沼通船會社爾後依岡村俊 太郎氏鈴木順太郎氏小嶋藤七氏之盡力大正二年船子之者受之拂下而又 守護神當水神社之鎮座敷地者鈴木順太郎氏外二十五名所有也偶遇大正 十二年九月一日之大震災也社殿全潰八町山口之倒潰家屋亦及三十余戸 然救水難神威遂揺諸氏至得協賛大正十三年起工令十四年落成四月三日 擧行御遷宮式茲記念運河閘門之遺蹟並水神社再建設碑以梗概傳永久焉 昭和四年十月 槁佐平謹書 大工 石塚与四郎 秋本雄太郎 鐫

8. 見沼通船堀 みぬまつうせんぼり 10:20着 10:30発
Map : さいたま市大字東内野

〔 見沼通船堀 〕見沼通船堀は、江戸時代中頃に築造された閘門式運河の遺構です。享保13年(1728)、徳川幕府は井澤弥惣兵衛為永に命じ灌漑用水路である見沼代用水路を開削しました。その3年後の享保16年(1731)、物資輸送を目的に、為永によって東縁用水、西縁用水とその中央を流れる芝川を結んで造られたのが見沼通船堀です。見沼通船堀は、東西二つに分かれており、東縁側が約390m、西縁側が約650mあります。東西の各用水と芝川との水位が3mもあったため、閘門を用いることによって水位を調節し、船を通しました。ここ東縁通船堀は、ほぼ直線となっていて当時の様子が良く分かります。通船の時は、堀の土手から船に付けた綱を引いて通しました。この時船頭は勿論のこと、近所の人々の大きな助けが必要でした。平成24年(2012)3月 さいたま市教育委員会

今回の散策コースの中では一番の名所がこの見沼通船堀なの。上掲の説明にもあるように、通船堀には西縁側とこの東縁の二ヶ所があるのですが、整備されているのが東縁側なので、見沼通船堀と云えば専らこちらの東縁側のことを指すようね。But 訪ねたとき ( 2021 ) には西縁側の復元整備工事も始められていましたので、完成したら変わるかも知れないわね。ところで、先程八丁堤のところで伊奈忠治に依る見沼溜井の造成について触れましたが、お話しには続きがあるの。

享保元年(1716)、第8代将軍となった徳川吉宗は幕府財政再建のため新田開発を奨励、見沼も再開発されることになったの。その陣頭指揮にあたったのが幕府勘定方( 後に勘定吟味役 )井澤弥惣兵衛為永で、堰き止めていた八丁堤を切ると芝川を利用して溜井の排水をし、干拓を推し進めて新田開発を行ったの。そうなると見沼溜井の代わりとなる灌漑用水が必要になるわよね。そこで為永は享保12年(1727)、新たに利根川から取水すべく用水路を開削するの。それが見沼代用水路で、約60Kmにも及ぶ大工事にも関わらず、僅か6ヶ月と云う短期間で完成させているの。

見沼代用水路の開削工事ですが、人員だけでも延べ900,000人、工賃も当時のお金で15,000両にも及ぶ大工事だったようよ。更に、伏越や掛渡井などの構造物の費用に5,000両が投入されているの。他にも、目に見えないところでの出費が相当あったのではないかしらね。

〔 井澤弥惣兵衛為永と見沼代用水路 〕井澤弥惣兵衛為永は、井澤弥太夫の長子として紀州溝ノ口村( 現・和歌山県海南市 )で生まれました。幼少から数学に精通し、紀州藩では5代の藩主に仕え、亀池の掘削、新川の改修工事を行いました。享保元年(1716)に徳川吉宗が将軍につくと、その才能を買われて江戸に呼ばれ、多くの土木工事を行いました。吉宗は幕府財政再建のために年貢増収の手段として新田開発を奨励し、その一環として為永が行った見沼の干拓は、伊奈氏の関東流とは異なり、既存の沼を廃して新たに用水路を開削し、用水と排水を分離する紀州流と呼ばれるものでした。

享保12年(1727)8月に工事は開始され、利根川の取水口( 行田市下中条 )から約60Kmに及ぶ見沼代用水路を開削し、享保13年(1728)2月、着工から6ヶ月と云う短期間で完成しました。為永は元文3年(1738)に没し、心法寺( 東京都千代田区 )に葬られました。その死後も為永の功績を称え、関係する各地に祠や碑が建立されています。

〔 通船のしくみ 〕見沼通船に使われた船は「 ひらたぶね 」と呼ばれる底の平らな長さ11m、幅2m程のもので約60Kgの米俵100-150俵積みの小型船でした。江戸から来た舶が八丁河岸に着くと船頭は、近所の人に声をかけ人々を集めます。凡そ20人位の人々が土手から綱を引いて一の関まできます。一の関では水門から勢いよく流れ出る水の上を一気に引き上げます。このとき二の関は水位を保つために閉められています。船が一の関の中に入ると「 枠抜き 」の人が角落板を一枚ずつ積み上げます。

板を10枚近く積み上げると水位は二の関の敷板の高さまで上がり、二の関まで船は曳かれ、一の関と同様に船は引き上げられ、水位が上がると船は代用水まで引かれ通船は終わります。代用水から芝川へ船が下がるときは、この逆の手順で行い、関に積み上げられた角落板が一枚ずつ鈎でかけられ、外されて、落差を少なくして関を通過させていきます。このように通船堀に船を適すには、大勢の人々と手慣れた船頭さんの力が必要でした。

通船堀を利用して江戸に運ばれたものは年貢米の他にも、野菜・薪炭・お酒・柿渋などが、一方、江戸からは肥料や塩・醤油・魚・雑貨類などが運ばれていたようね。But 通船は通年営業かと思いきや、専ら田圃に水を必要としない時期に限られ、通常、秋冬のお彼岸に挟まれた期間( 後に冬場の2ヶ月間 )のみだったの。代用水路の目的が灌漑にあるので仕方がないとは云え、ちょっと不便だったのではないかしらね。通船は明治時代になっても通船会社が設立されるなどして盛んに行われたのですが、陸上交通の発達と共に衰退し、昭和6年(1931)には通船許可が期限切れを迎えたことを機に、その幕を閉じることになったの。

通船堀の代用水路東縁側には縮尺1/300スケールの「 見沼通船堀全体模型 」が設置されているの。
周囲を含めた当時の通船堀の様子が良く分かるので必見よ。お出掛けの際には忘れずにね。
そうそう、同じく東縁側には「 お休み処 」もありますので、トイレ休憩も忘れずにね。

9. 下山口新田厳島神社 しもやまぐちしんでんいつくしまじんじゃ 10:32着 10:34発
Map : さいたま市緑区大字下山口新田78-3

次の稲荷社に向かう途中で代用水路を隔てた向こう側に小さな社が建つのが目に留まったの。それがこの厳島神社で、民家の傍らで僅かな敷地を得て鎮座していたの。現在は厳島神社としていますが、嘗ては弁天社として祀られていたものが、明治期の神仏分離でそれまでの習合が解かれ、祭神がそれまでの弁財天から市杵島比賣神に替えられてしまったみたいね。ここに弁財天が祀られるようになった由来が記されているかもしないわね−と期待して石段脇の石碑を覗き込んだのですが、超難読漢字の羅列に思わず絶句。内容も残念ながら由来を誌したものではなかったの。

帰宅後に改めて調べてみると、この厳島神社にも見沼の龍神伝説が残されていることを知ったの。
それが「 馬方と弁天さま 」のお話ですが、面白いので昔話風にアレンジした上でお届けしてみますね。

とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども、村には平吉と云う若者がおってのお、頼まれると飼馬に荷物や人を乗せて駄賃をもらう馬方の仕事をしておったそうじゃ。そんなある日のことじゃった。平吉が頼まれて野菜を千住に届けた帰り道のことじゃったそうな。陽も暮れかかってきておったのじゃが、ふと気がついて目をこらして前を見ると、足を引きずるようにして歩いている若い娘の姿があったそうじゃ。道中で怪我でもしたのか、それとも長旅で疲れてしまったのかも知れんのお、それにしても若い娘の一人旅とは不用心じゃのお、そう思うた平吉は娘に追いつくとそれとなく訊ねてみたそうじゃ。「娘さん、どこまでいきなさるお積もりじゃ。見たところ歩くにも難儀しておるようじゃし、もうすぐ陽も暮れてしまうに」「ええ、見沼の畔にある木曽呂まで。用向きを終えて家に帰る途中なのです」。それを聞いて人の良い平吉は「おお、それならちょうど良かった。木曽呂ならおらの帰り道じゃ。馬の背も空いているから良かったら乗っていきなされ、駄賃はいらねえから」。そう応えたそうじゃ。平吉の勧めに娘も「用向きがあったとは云え、慣れぬ遠出をして足を痛めてしまい、正直、難儀していたところです。とても助かります」。そうして馬の背に乗る娘の手助けをする平吉じゃったが、間近に見る娘の姿は美しくて、まるで弁天さまのようじゃったそうな。そこは互いに若い者同志、道々での話も弾んでのお、陽もどっぷりと暮れたところで沼の畔に着いたそうじゃ。娘は馬から降りると「おかげで不案内な夜道を歩かずにすみました。とても助かりました。ありがとう。」と平吉に礼を云うたそうじゃ。そうして岸辺から沼に歩みを進めたかと思うと、そのままスーッと水面の上を滑りながら遠ざかっていったそうじゃ。それには平吉も腰を抜かさんばかりに驚いてしまってのお。「な、なんと、本物の弁天さまじゃったとは。」

それからというもの、平吉は娘のことがどうしても忘れられんでのお、一日の仕事を終えると、あの日娘が消えた沼の畔に毎日のように通うておったそうじゃ。じゃけんども、いくら平吉が思いを募らせてみたところで、娘に会うことはできんでのお。その日も娘に会うことが出来ずに、あの日娘が消えた水面を静かに見つめておった平吉じゃったが、ふと思いついて岸辺に生えておった竹で笛をつくると、その竹笛を吹いてみたそうじゃ。その日はそのまま何事もなかったのじゃが、次の日の晩のことじゃった。夜空には綺麗な満月が浮かんでおったそうじゃ。その満月に誘われるようにして平吉が沼の畔で笛を吹いておったときのことじゃった。月明かりに照らされた水面に舟が浮かんだと思うたら、あの娘が琵琶を抱えて現れたそうじゃ。そうしてしばらくは平吉の奏でる笛の音に琵琶の妙なる音色が唱和しておったそうじゃ。やがて娘は平吉に「いつぞやは助けていただき、本当にありがとう。けれど、あなたにはもう再び会うことはできないのです。あのときの、せめてものお礼にこの手箱を差し上げましょう。この手箱はきっとあなたにたくさんの福をもたらしてくれることでしょう。でも、決して手箱の蓋を開けてはなりません。それだけはお約束下さい。」と云って、平吉に手箱を渡すと、娘の乗った舟は再び水面を滑っていったそうじゃ。平吉が娘と会えたのはそれが最後で、その後二度と会うことはなかったそうじゃ。

手箱を受け取ってからというもの、不思議なことに平吉のやることなすこと全てがうまくいくようになってのお、気がついたときには平吉は大金持ちになっておったそうじゃ。じゃけんども、ふとした折に、あのとき出逢うた娘のことが思い出されのお、寂しい思いをしておったそうじゃ。会えぬとあっては寂しさは一層増すばかりで、寂しさに堪えきれなくなったある日のこと、平吉はとうとう娘に貰った手箱の蓋を開けてしまったそうじゃ。中からは一匹の白い蛇が現れたかと思うと、そのまま沼の方へと去っていってしまったそうじゃ。一瞬の出来事に我を忘れておった平吉じゃったが、ふと我に返って手箱の中を覗いてみると、そこには銀色のウロコが一枚残されておったということじゃ。白蛇と共に福運も平吉のもとから立ち去ってしまったようじゃのお、しばらくすると平吉も元の馬方の仕事に戻ってしまったそうじゃ。じゃけんども、元々欲のない平吉は「馬方をする今の暮らしの方がおいらには性にあってるってもんだ。おいらが出逢うた弁天さまは、本当は龍神さまだったのかも知れねえな。」そう思うたそうじゃ。それに、残されたウロコのおかげで、いつも龍神さまに見守られているような気がしておってのお、平吉は以前にも増して馬方の仕事に精を出すようになったそうじゃ。それから間もなくしてからのことじゃが、平吉は貯めたお金で娘と最後に出逢うた沼の畔に社を建てると、手箱に残されたウロコを納めてお祀りしたそうじゃ。そのお社というのが、この山口弁天だということじゃ。その後平吉も嫁を貰って、平穏に暮らしたということじゃ。ほんに、むか〜し昔のお話じゃけんども。

いかがでしたでしょうか、お楽しみ頂けましたでしょうか。ところで、読めない、書けない、意味も分からない−の三拍子がそろった超難読文字が刻まれた左掲の石碑の件ですが、好学に燃える方があるいはいらっしゃるかも知れませんので、参考までに碑文( 漢文 )を掲載しておきますね。但し、目視拓本ですので解読文字に誤りがあるかも知れません( と云うか、絶対あると思う )ので、その際は御容赦下さいね。ちらりと読んだ限りでは、地元・大間木村出身の大熊元吉と云う人の顕彰碑のようですが、内容は御覧のみなさんの御賢察にお任せです。お問い合わせはくれぐれも無用に願いますね(^^;

〔 大熊志水居士之碑 〕 志水居士諱元吉字明道姓大熊氏號志水居士又號化陽庵武 藏國北足立郡大間木邨人父大熊五郎右衞門朝祝母大熊氏 名美喜子以文化四年生家世郷望族居士天資温良謹敏夙夜 勉作業及居士之世大起家産重義軽財好施與先鰥寡天保四 年癸巳及七年丙申歳荐饑輙發金穀救濟數千百人生平守儉 素痛斥奢侈凢遇有當費曾不恡情有餘暇則學文演武就稻垣 玄節翁學天經皇典及撃劍精力絶人學通和漢旁渉天文地理 兼善詩文及和歌以至俳諧圍棊之細皆莫不究其妙事親純孝 與兄弟友惟樂其志片言隻行無悖父母之意與人交信而敬赴 人緩急風雨疾病不爽晷刔小事如是况於大事乎故隣里郷黨 景慕如神天保十三年壬寅九月二十一日罹病而卒享年三十 有六卒之日吊者數千人無不哭泣者葬于本邨先塋之次如居 士之才之コ假令立於廟堂則為蒼生霖雨以澍天下矣嗟夫天 烏優其コ而嗇其壽乎部z石關氏擧二男二女長曰正名克紹 先業不墜家聲頃者將鐫先考之遺徳於貞a以之下山口里嚴 島神祠傍以傳不朽作状索余銘之正名第三子駿二有才學幼 遊余之門義不可辤為之銘曰
高雅丰釆  嚝達器宇  勤儉興家  純孝事父  俛焉治生  欝中興祖  賑窮救饑  甘露膏雨 
學通和漢  驗今考古  濟世之才  修文講武  草奔遺賢  郷里規矩  千載徳望  春風和煦
明治二十一年十月 神道管長從六位平山省齋譔并書

10. 下山口新田稲荷社 しもやまぐちしんでんいなりしゃ 10:36着 10:40発
Map : さいたま市緑区大字下山口新田18

説明にもあるように、当社もまた緑区宮本にある氷川女体神社とは深〜い関係にあるの。見沼溜井が干拓される前までは、女体社で行われる御船祭のときには、当地が神輿を留め置く御旅所となっていたの。現在は芝川第一調節池となっていますが、当時はその辺りが見沼でも一番深いところで、御船祭のときにはそこへ4本の竹を立て、女体社から御座船で移動すると、沼の主である龍神に御神酒を献じていたの。調節池建設の際に行われた発掘調査( 四本竹遺跡 )では、790本もの竹と、数多くの古銭が出土しているのですが、一回の祭祀で4本の竹が使用されたとすると、200回近くの祭祀が行われた計算になるわね。古銭にしても、一番古いものでは、中国の唐時代の開通元寶が発見されたのだとか。説明にある磁器片も、御神酒を入れていた陶器片じゃないかしら。因みに、先程紹介した「 馬方と弁天さま 」のお話の中で、平吉が出逢った娘が帰っていったのも、四本竹の水底かも知れないわね。

11. 木曽呂の富士塚 きそろのふじづか 10:44着 10:51発
Map : 川口市大字東内野596

〔 木曽呂の富士塚造営物 〕
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燈籠

鳥居
御手洗石 

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墓誌( 築造富士由来 )
石仏
地蔵尊像
富士登山三十三度修行( 高津粂之助 )碑 
伊勢太々碑
鹿島太々碑

13.登山隔年修行碑
14.富士登山三十三度( 真行明山 )碑
15.経碑
16.石宮
17.シモガミ

国の重要文化財に指定される富士塚だと云うので訪ねてみたのがこの木曽呂の富士塚なの。富士塚は、その名の如く、富士山を模したもので、富士山を霊地として崇める富士信仰に由来するの。キリスト教やユダヤ教のエルサレム巡礼ではないけれど、実際の富士登山が本来の姿なのですが、健康上の理由や経済的な事由などで誰もが簡単に出来るわけではないわよね。そこで代理登山や、富士塚に代参することで信仰の証としたの。勿論、実際に登山することもあり、説明にある富士登山三十三度碑は33度目の登山達成を記念して建立されたものね。

説明では塚の頂上にお鉢めぐりをするための火口が掘られていることになってはいるのですが、埋め戻されてしまったみたいね。同じく、胎内くぐりの入口も現在は塞がれているの。こちらの方はそれらしき痕跡がみてとれますので、お出掛けの際に探してみて下さいね。But 訪ねたとき( 2021 )には擁壁の改修工事が行われていましたので、完成時には富士塚の様子も変わっているかも知れないわね。


次の川口自然公園まではちょっと Long-Distance になるので、頑張って歩いて下さいね。
訪ねたときには、代用水路の縁には御覧のような皇帝ダリアも咲いていたの。

12. 川口自然公園 かわぐちしぜんこうえん 11:16着 11:23発
Map : 川口市大字差間沼内1355

今回の散策コース上にあることから、ふらりと立ち寄ってみたのがこの川口自然公園なの。入園( 無料 )すると最初に大きな池が目に飛び込んでくるの。畔では多くの太公望達が釣り糸を垂れていましたが、何が釣れるのかしらね。湿地や樹木が繁茂する自然豊かな景観は、沼池が広がっていた頃は、普通に見られた光景だったのかも知れないわね。自然公園とあるように、園内には自然と触れあいながらの散策ができる遊歩道が廻らされているの。聞いたところでは園内には昆虫や小鳥だけじゃなくて、タヌキもいるみたいよ。残念ながら時間の関係で散策せずに終えていますので、タヌキとの接近遭遇(^^;は未体験ですが。

13. 東沼神社 とうしょうじんじゃ 11:27着 11:48発
Map : 川口市差間2-15-45

創立 不詳
祭神 木花咲耶姫命( 安産・子育・縁結びの神 )/ 素戔嗚尊( 厄除・災難除去の神 )
倉稲魂命( 農・工・商繁栄の神 ) / 菅原道真公 ( 知識・学問の神 )
由緒 ・木花咲耶姫命を奉斎した浅間神社として天正元年(1573)以前に創立される。
・明治40年(1907)5月29日、差間村の菅原社・稲荷社、間宮村の大白天社・氷川社、北原村の稲荷社、行衛の稲荷社・天神社の合社により、社名を東沼神社と改称される。

・明治44年(1911)11月2日、大門村社、神饌幣帛料供進神社に指定される。
・昭和27年(1952)3月1日、宗教法人・東沼神社として神社本庁に所属する。
・昭和59年(1984)5月3日、第四期神社振興対策モデル神社に神社本庁より指定される。
・昭和61年(1986)3月29日、現社殿竣工により遷座祭、5月31日、竣工奉祝祭が施行される。
境内社 御嶽社 木花咲耶姫命の父・大山祇命を祀る

明治以前の縁起が気になるところですが、残念ながら【新編武蔵風土記稿】( 以降、風土記稿と略す )にも「 富士淺間社 社地は村内宗信寺の舊地にして 當社は則境内鎭守なりしと云 社は丘上にて下に御手洗池あり 今も宗信寺持 」とあるだけで、詳しいことは分からず終い。

その宗信寺ですが「 日蓮宗 荏原郡池上本門寺末 長陽山と號す 古は前の淺間社の所にあり 彼所の小名を富士原と云故に 富士山光妙寺と號せしなり 開山日興は日蓮の弟子六老僧の一にて 永仁3年(1295)正月七日寂せり 其後此寺故ありて退轉し 延龍坊とて僅の草菴となりしが 寛永6年(1629)村民土屋治郎右衞門が父豐前守追福のため 今の地に移し 本寺19世の僧日豐を請して中興開基せり 則父豐前守が法諡及び己が逆修の法号を取て 長陽山宗信寺と號すと云( 以下省略 )」とあり、浅間社とは習合状態にあったと云うことね。But 現在は 川口市上青木2-31-8 に移転しているようね。

〔 力石( 大磐石 )〕江戸時代・明治・大正・昭和の初めにかけては、村祭りには相撲と力くらべが盛んでした。右の石は今から2-300年前に氏子が奉納し、力くらべをして楽しんだ石です。左の石は、当町703番地に生まれた森田豊三氏〔 明治32年(1899)1月死去 〕が若い頃、川口市峯八幡神社での力くらべで持ち上げ、東沼神社に運んできて奉納した石です。土に埋まっていたものを見つけて、ここに復元しました。昭和59年(1984)11月吉日 東沼神社・宮司

境内にはあちらこちらに参拝に際しての細々とした注意書きが立てられていましたので、さぞや気難しい神主さんではないかしら−と思いきや、決してそんなことはなかったの。と云うのも、この力石を写真に収めていたら気さくに声をかけて下さったの。何でも以前お相撲さんが何人かやってきたことがあり、力試しに持ち上げようとしてみたのですが、持ち上げられずに諦めてしまったことがあったそうよ。持ち上げるには力だけじゃなくて、やはりコツがいるみたいだよ−などと教えて下さったの。注意書きにもありましたが、神社は神さまをお祀りしているわけですから、いきなり境内をウロウロするのではなくて、先ずは神さまに御挨拶しなければダメよね。参拝時の基本的なマナーが守られていれば、神主さんも決してめくじらをたてたりはしないと思うの。

〔 悠仁様御誕生記念・富士山復元 〕「 見沼の東に富士山あり 」いつ頃富士山が造営されたか定かではないが、天保11年(1840)の絵馬に富士山が描かれている。風雨により崩れた富士塚を1/500の富士の山に復元した。霊験現たかなる富士山信仰の先達、扶桑教丸岩一信講大教正は、53度ここから歩いて富士吉田口より富士山登頂を成し遂げた。総勢20人から200人程、先人の足跡を記す。近隣川口市、さいたま市、越谷市、草加市で唯一の富士山であり、頂上からは富士山、秩父連山を望み、日の出を拝むことができる。永久に美しい富士山である。標高8m、裾野30m 平成23年(2011)7月1日
杜深き東沼神社あれかしこ 守り幸わふ見沼の富士よ

東沼神社で忘れてはならないのがこの富士塚ですが、登山路が設けられていますので、登頂体験してみて下さいね。山頂には御覧の石祠と「 浅間大神 」と刻む石碑が建てられていましたが、説明に依ると、石祠の方は明治から大正期にかけて存在した富士講と丸岩講の両講中から、石碑の方は丸岩講単独で奉納されたもののようね。丸岩講は岩槻が発祥の地で、明治〜大正期にかけて隆盛し、一時は百人講中になるほどの勢いをみせたそうよ。その後は交通手段の発達などにより富士山への登山が容易にできるようになると、富士登山に対する信仰の意味も薄れ、紹介した丸岩講に限らず、富士信仰そのものが衰退してしまったようね。

上掲の富士山復元の説明には、嘗て53回もの富士登山を成し遂げた大先達がいたことが記されていましたが、いくら信仰心のなせる業とは云え、驚嘆に値する精神力の持ち主よね。それも一切の交通手段を利用せずに、その都度、ここから歩いて行ったのよ。信じられる?

川口市指定有形民俗文化財 浅間神社参拝図絵馬 平成24年(2012)9月5日 指定
東沼神社は、見沼の東岸に鎮座し、明治時代の神社合祀以前は浅間神社と称していました。また、当社は江戸時代より富士講の一派丸岩講を主催し、嘗て地域の富士山信仰の拠点となっていました。絵馬左側に記された墨書名に「 奉納御宝前 天保十一年庚子年□□吉日 当所 賀る 里か かね の与 志斗 まつ いさ 森田良助 」と記されており、天保11年(1840)に、当地区の先達と女性信者7名により奉納されたことが分かります。大きさは、縦81.0cm、横91.0cmで、杉材3枚をもってつくられています。

絵柄は、当時の神社境内が鮮明に描かれており、最も奥に本殿、手前に赤鳥居、左手には見沼代用水路東縁と、その脇に富士塚、他に摂社末社3棟と手水鉢があり、白装束姿の参拝者8人に服装の違う参拝者一人が描かれ、その内3人が富士塚を見上げています。当絵馬は、女人講中による奉納であり、当時の地域の富士山信仰の様相を窺い知ることが出来る貴重な文化財です。川口市教育委員会  補:画像は 文化遺産オンライン より

14. 見沼自然の家 みぬましぜんのいえ 11:56着発
Map : 川口市大字行衛649

「 見沼通船堀と水風景 」のコース・マップ上に立ち寄りポイントとしてあげられていて、川口市が管理する古民家−と案内されていたので、ちょっとだけ寄り道をしてみたのがこの「 見沼自然の家 」なの。事前に予備知識を得ていた訳でもなくて、単に「 古民家 」に惹かれて訪ねてみただけなのですが。確かに、建物自体は江戸時代末期に建てられたものだったのですが、施設の目的は建物の展示にあるのではなくて、見沼たんぼの自然観察&環境保全活動の拠点としての利用がメインだったの。現在は グラウンドワーク川口 のメンバーの方々が中心になって、子供達の農作業の体験学習なども行われているみたいね。

この「 見沼自然の家 」の入口がある道沿いに、見沼代用水のことを記した案内板が立てられていたのですが、ちょっと気になることが書かれていたの。前半部分は普通に見られる内容なのですが、後半にはちょっとショッキングなことが記されていたの。何と、昭和初期に、当時の東京市が見沼たんぼを水道用水の貯水池にすべく計画を立ち上げたのだとか。地元の強固な反対運動で最終的には計画は白紙撤回されたものの、溜井だ!、否、今度は干拓して農地を増やせ!−と、歴史に翻弄されてきた見沼の人達のことを思うと、やるせない気がするわね。それ以上に、現在、東京に住む側の人間として、過去の出来事とは云え、見沼に住む人達のことを深く考えもせずに勝手な言い分を通そうとしたことがとても恥ずかしいの。普通なら「 何で、東京のためにオレ達の田圃が水没させられちまうんだよ。東京は東京で、自分達のところでやりゃあいいじゃんか。何でオレ達が東京のために泥をかぶらなきゃなんねえんだよ 」となるわよね。

〔 見沼溜井と見沼代用水 〕見沼溜井は、寛永6年(1629)に伊奈半十郎忠治によって、足立郡木曽呂村( 現・川口市 )と附嶋村( 現・さいたま市 )の間に八丁( 864m )にわたる堤を築き造成された。下流域の谷古田領外七ヵ領221ヵ村の用水源とするためで、堤の東西二ヵ所に用水取入樋が設けられ、5,000haの水田を灌漑した。この溜井は、周囲10里余( 約40Km )に及ぶ広大なものであったが、水深が浅く、用水量も少なかったために、下流の農民達は絶えず水不足に悩まされた。

約100年後の享保12年(1727)に、江戸幕府は勘定吟味役格の井澤惣兵衛為永に命じ、この下流域の水不足を解消し、併せて見沼を干拓し、用水源を利根川に求める「 見沼代用水路 」の開削に着手させ、翌13年(1728)の春に完成をみた。その規模は、埼玉郡下中条村( 現・行田市 )の利根川取入口より延々60Kmにわたる大用水路で、途中、元荒川を埼玉郡柴山村( 現・白岡町 )地内で伏越で潜り( 当初は掛渡井 )、綾瀬川を足立郡上瓦葦村( 現・上尾市 )地内で掛渡井で渡り、それより東西の用水路に分岐して、見沼の水田地帯に達するものであった。このよう水路の開削に伴い、元の見沼溜井は約1,200haの肥沃な耕地となり、用水路沿いの他の地域でも約600haの新田が造成された。総灌漑面積15,000haにも及ぶ見沼代用水路は、昭和の今日に至るまで、県南部の穀倉地帯を潤す大動脈として重要な役割を果たしてきた。

ところが、昭和の初期になり、当時の東京市が、この見沼溜井地域に着目し、市民の水道用の貯水池にしようと計画したことから、この広大肥沃の耕地が水没の危機にさらされることになった。昭和9年(1934)9月、この計画が明らかにされると、先祖伝来の耕地が失われると反対する農民や、水没予定地を抱える市町村がこぞって反対に立ち上がり、地域の死活問題として幾度か協議が重ねられた末、埼玉県知事への陳情、東京市への計画白紙撤回、測量の中止が申し入れられた。こうした一連の阻止運動は、昭和9年(1934)10月貯水池設置反対期成同盟会( 会長・神根村助役・石井至 )の本部が神根村( 現・川口市 )役場内に置かれ、近隣13市町村( 浦和市・大宮町・原市町・尾間木村・三室村・大門村・野田村・七里村・春岡村・片柳村・大砂土村・芝村・神根村 )の農民がこぞって参加したのをみても、その規模の大きさや強力さを窺うことが出来る。地元民の死力を尽くした反対運動もあり、昭和14年(1939)9月、東京市はこの計画を遂に断念した。以後、見沼代用水は肥沃な水田地帯の灌漑用水として、地域の人達に親しまれ、今日の姿を留めているところである。昭和61年(1986)3月 埼玉県

15. 無量寺 むりょうじ 12:07着 12:21発
Map : さいたま市緑区北原1603

〔 無量寺の由緒 〕当山は、福聚山光明院無量寺と号し、真言宗智山派に属す。寺伝によれば、大坂城落城の折、東国に下向した武士の一党が当村落に入植し、先住者と共に村興しを始めた元和元年(1615)8月、現在地( 旧・北原村大字本村 )に源慶法師によって、村の要として開山されたと云う。旧・北原村は往古日光御成道第3番目の宿場町として賑わった大門宿の南西に位置す。旧中山道と日光御成道を大門宿で結ぶ主要地方道浦和越谷線が当村の南側を貫通し、西の端には見沼代用水( 東縁 )の見沼通船荷揚場を有する好立地のもと、自助努力により顕著な発展を遂げ、周辺地に当村の領域を盛んに拡張す。

寛永10年(1633)には旧・行衛( 現・川口市北原台 )を合併し、延政7年(1792)には当村の南方の見沼新田内に行衛北原村新田( 現・川口市行衛 )を飛地として保有、また、差間、間宮の二村、下山口新田の見沼新田、大門宿、下野田村及び北高畑村内にも飛地を有した。当寺は江戸期幕府領内にあって、密蔵院( 川口市安行原 )、長福寺( 浦和市間宮 現在廃寺 )につらなり、見沼田圃を見下ろし富士の霊峰を遠望しつつ、隆盛と安寧を念じた当村落の信仰の中心地位を担った幕府縁の古刹である、当山御本尊として如意輪観音像を奉安す。

また、境内に連立安置せし六阿弥陀像、並びに表面に「 六阿弥陀三番 」裏面に「 寛政十戌年八月十五日敬白 」刻銘のある石塔婆は、現在類例が稀で、往時の阿弥陀信仰の貴重な証左である。本日、真言宗中興の祖・興教大師850年遠忌記念事業として、真言宗本尊・金胎両部を具えた大日如来像を造顕・奉安せし大日殿を建立落慶す。この浄業により、当山は菩提上果・祈願招福を成就する霊山となれり。茲に当山の由緒を撰述し、願わくは当山末資並びに檀信徒の法志を扶養せん。平成8年(1996)11月30日 無量寺住職 中興一世 北林照喜 資料提供者 坂田悦夫 資料構成 金剛寺副住職 岡野忠正 無量寺副住職 北林照隆

石段脇には羅漢像が並び立ちますが、その表情はと云えば、
羅漢さまと云うよりも古代ギリシャの哲人達の趣きよ。

本堂の左手には七福神が祀られていたの。

〔 七福尊天 〕七福の神は、古来別々に信仰されていた神々が、室町時代末期から江戸時代にかけて、七福神として纏められ、福富の神・財をなす神として信仰されるようになったと云われています。当時、生活が豊かになった庶民は息災延命・商売繁盛と云う現世で救われることを望みました。そこで現世利益をもたらす七つの福の神を祈りの対象として造り上げたのが七福尊天の信仰であります。この原典となったものが仁王経と云う経典です。七難即滅・七福即生の経文「 般若経 」現在の般若心経を読誦すれば、災難は忽ちに消滅し、より多くの福徳に転ずると云う考え方から七福尊天への信仰が生まれてきたのです。

これらは庶民によって造られた民間信仰で、神社仏閣どの宗派にも祀られているところに特徴があります。当山では、みなさまが七福尊天の御加護が頂けますよう「 健康歩道 」を造り、”無心”にお参りが出来るように致しました。必ず走る事無く、ゆっくりと心安らかに歩き、七福尊天の御利益を頂いてください。〔 以下省略 〕当山 山主


ここで、揚げ足取りの話題を一つ。次の国昌寺に向かう途中、無量寺からだと10分程歩いたところに大崎橋がありますが、その傍らに見沼代用水路の案内板が立てられていたの。内容的には既に御案内済みの事柄ですので、改めて取り上げる程のものではないのですが、気になる間違いを見つけてしまったの。先ずは、その案内文から紹介しますね。

〔 見沼代用水路 〕見沼代用水路は、8代将軍吉宗の時、幕府が治水技術者として知られた井澤弥惣兵衛為永に命じて見沼溜井を干拓し、見沼に代わる用水源として利根川から開削したもので、延長約60Kmに及ぶ関東平野最大の農業用水路です。その昔、縄文時代の海進によってできた見沼は、氷川女體神社( 緑区宮本 )の手洗とされていた広大な沼沢地でしたが、江戸時代初期の寛永6年(1629)、関東郡代伊奈忠治によって八丁堤( 緑区大字大間木、下山口新田 )が築かれるとともに溜井として造成され、灌漑用水地として下流の村々を潤していました。その面積は1,200町歩( 約1,200ha )に及びました。江戸時代の中頃、享保年間(1716-1736)には、幕府の財政立て直しを図るため、徳川吉宗は各地の沼沢地を新田開発しますが、見沼もその一環として開発されました。享保12年(1727)8月、為永は用水路工事に着手し、僅か6ヶ月で工事を完成させました。この用水路は、現在の行田市下中条で利根川から引水し、途中、「 伏越 」( 白岡町柴山 )で元荒川を越し、「 掛渡井 」( 上尾市瓦葺 )で綾瀬川を越し( 現在は「 伏越 」に改変 )、東縁と西縁に分岐して、見沼田圃を潤しました。尚、この用水路は見沼に代わる用水路と云う意味で、見沼代用水と呼ばれるようになりました。平成24年(2012)3月 さいたま市

案内文では、見沼が氷川女体神社の「 お手洗( おてあらい )」になってしまっているの。But この場合は「 み手洗( みたらし )」とするのが正解よね。因みに、み手洗は、体を清める禊ぎをするための場所のことを云うの。と云うことで、ここでは「 み 」と記さなければいけないの。「 お 」では清浄な場所が不浄の場になってしまうわよね。たぶん、原稿執筆の段階では「 み 」だったけど、案内板製作の時点で「 お 」に替えられてしまったのではないかしら。「 み 」じゃなくて、「 お 」の間違いじゃねえのか、これ。直しておくべか。(^^;。以上、ことばじりを捉えての戯れ言でした。

16. 国昌寺 こくしょうじ 12:51着 13:09発
Map : さいたま市緑区大字大崎2378

〔 國昌寺 〕國昌寺は曹洞宗の寺院で、大崎山國昌寺と云います。天正年間(1573-1592)、見沼区染谷にある常泉寺の第8世住職であった心巌宗智大和尚が開山しました。二世( 中興開山 )は能書家としても著名な大雲文龍です。文龍は、名僧智識としてその名は朝廷にまで達し、特に書に秀でていたため、後陽成、後水尾両天皇から三度も召され、宮中で書を指南しています。寺には、寺宝として大雲文龍書の「 大辯才尊天号 」の軸物( 市指定有形文化財 )が伝わります。山門は、江戸時代中期( 宝暦頃 )の建築で、市の有形文化財に指定されています。

欄間の龍は、左甚五郎の作と伝えられるもので、棺を担いでこの門をくぐりぬけると、龍に中身を喰われて軽くなるという伝説を持っています。また、この龍は元々見沼に住んでいて作物を荒らしたので、日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい、釘付けにして門に収めたと云う伝説もあります。また、境内には、鎌倉時代の大型の阿弥陀一尊種子板石塔婆( 市指定有形文化財 )の文化財もあります。平成28年(2016)3月 さいたま市

〔 国昌寺門 一棟 〕浦和市指定有形文化財( 建造物 )
この門は、薬医門に属し、間口3.03m、奥行1.98mで、屋根は切妻となっている。断面矩形の本柱と、断面方形の控柱が前後に並び、本柱と控柱は地覆と貫で繋ぐ。本柱上に冠木をのせ、控柱上は虹梁で繋いでいる。控柱から冠木上に梁を組み架け、梁は前方に持ち出され、大斗肘木で妻虹梁と組み合わせた桁を受ける。妻は太瓶束で棟木を受ける。冠木上には、左甚五郎作と伝えられる堂々とした龍の彫刻が収められ、また、妻の羽目板の内側には、唐獅子の線彫りが見られるなど、装飾が豊富である。

妻虹梁の絵様や太瓶束に取り付けた笈形などに活気ある手法が見られ、これらから、江戸時代中期の建立になると思われる。軸部の材の多くはケヤキを用いており、堅固な作りである。尚、この門には「 開かずの門 」と「 釘づけの龍 」の伝説がある。平成7年(1995)9月 浦和市教育委員会・国昌寺

ここで、説明にもある、国昌寺の山門に纏わる龍神伝説を改めて紹介しますね。
例によって昔話風にアレンジしてお届け。

むか〜し、昔のお話しじゃけんども、見沼にはそれはそれは恐ろしい龍が棲んでおってのお、田畑を荒らしては村人達が丹精込めて育てた作物を食い荒らすなど、乱暴のかぎりを働いておったそうじゃ。村人達もどうしたものかと、ほとほと困り果てておってのお、そんなある日のことじゃった。左甚五郎と云う名のある彫り物師がこの村を通りがかってのお、何でも日光での大仕事を終えて江戸へ帰る途中のことじゃったそうな。甚五郎は村人達の困り果てている姿を見かねて訊ねてみたそうじゃ。村人達が答えて云うには「 昔からこの見沼に棲んでいる龍が、どう云うわけか、この頃は田畑を荒らすようになりまして、お供えをするなどして鎮まるようお願いをしているのですが、一向に乱暴が止まず、どうしたものかと思案しているのですが、良い知恵が浮かばずに困り果てているところです 」と。

それを聞いた甚五郎は「 それならこの儂に任せるが良い。その乱暴な龍とやらを封じ込めてやろう 」と村人達に告げると、手にした鑿で彫り物を始めたそうじゃ。それから幾日か過ぎた頃じゃった。目を見開いて今にも動き出しそうな見事な龍の彫り物が出来上がってのお、それを手にした村人達は甚五郎の指示もあって、早速、国昌寺の山門に掲げてみたそうじゃ。それからと云うもの、不思議なことに、龍が暴れ回ることもなくなってのお、作物が食い荒らされることもピタリとなくなったそうじゃ。龍は甚五郎の手で彫り物の中に封じ込められてしまったのかも知れんのお。ほんに、むか〜し、昔のお話しじゃけんども。

「 釘付けの龍 」伝説を紹介しましたが、お話には続きがあるの。この山門に龍の彫り物が掲げられてからと云うもの、お弔いの際に棺を担いで山門をくぐると、棺がふわりと軽くなってしまい、村人達は「 これはきっと、山門に封じ込められた龍が、腹をへらして棺の中の亡者を喰べてしまうからに違いない 」と恐れるようになり、お弔いの時は通れないようにと、山門を閉めるようにしたの。それが倣いとなって、いつしか閉じられたままとなり、開かずの門になってしまったのだとか。

〔 阿弥陀一尊種子板石塔婆 〕さいたま市指定有形文化財  昭和43年(1968)3月31日指定
高さ1.90mのやや大型の板石塔婆で、緑泥片岩製である。二条線の下に阿弥陀如来を表す種子「 キリーク 」を薬研彫りで雄渾に刻んでいる。下部に「 月日 」とあるが、他の銘文は何らかの事情で磨り消されている。鎌倉時代も早い頃の造立と考えられる。平成3年(1991)1月 国昌寺・浦和市教育委員会

〔 センダンバノボダイジュ 〕市指定天然記念物  指定年月日:昭和46年(1971)2月12日
センダンバノボダイジュ( Koelreuteria paniculata )は、ムクロジ科の落葉高木で、葉がセンダンに似て、実が数珠玉になることからその名がある。寺院などに植えられるが、類例の少ない樹木である。この木は高さ約8m、幹周り1.45mで、樹勢は旺盛である。6月頃、黄色い穂状の花をつける。平成3年(1991)1月 国昌寺・浦和市教育委員会

But 2021/11/13 に訪れた際には伐採されてその姿は無かったの。枯死してしまったのかも知れないわね。画像は以前訪ねたときのものを使用しています。

〔 書跡・大雲文龍書大辯才尊天号 〕市指定有形文化財  昭和43年(1968)3月31日指定
縦39cm、横31.5cmの料紙に大弁才尊天、大日輪、大月輪と大書し、「 三勅沙門文龍道人 」とある。文龍は当寺で出家し、各地に遊学し、戻って二世となった。三度勅を受け宮中に参内し大字や歌書を書き、功により紫衣と仏日金蓮禅師号を授けられた。この書は、小品ながら剛壮な筆致で桃山文化の気風が窺える。尚、文龍は守光院や明照寺( いずれも浦和市内 )をはじめ、多くの寺院の中興または開山となっている。平成3年(1991)1月 国昌寺・浦和市教育委員会
  ( 補:本文と画像は無関係よ )

去り際に気になるものを見つけたの。それが三つ目の白い象の置物よ。と云っても、かなり大きなもので、鐘楼の後ろにある小さな建物の中から放たれる視線を感じ、一瞬、生きた本物の象さんかと思ってしまったの。仏教では、お釈迦さまのお母さんが、空から降りてきた白い象が自分の身体の中に入る夢を見たことからお釈迦さまの懐妊を知ったと云われているのですが、その逸話と関係するのかしら。だとしたら、何故ここに?

国昌寺を後にして見沼代用水路縁の元来た道に戻ったところで、国昌寺橋の傍らに「 見沼の龍神 」の案内板が立てられていたの。お話は後程萬年寺の項で改めて紹介しますが、ここでは予告編と云うことで。(^^;

〔 見沼の龍神 〕=見沼の伝説= 将軍吉宗の命を受けた井澤弥惣兵衛為永は、この辺りの見沼を干拓し、利根川から代わりの水を引く工事をしていました。ある晩のこと、為永は夢を見ました。見沼の主である龍神と云う美しい娘が現れ「 私の住むところがなくなる。新しい住処を探すまで工事を中止して欲しい 」と云います。来春の稲の作付けに間に合わせるため、工事は一日も休めません。その内、工事に負傷者や障害が続出し、為永も病に倒れてしまいました。するとまた夢に先程の美女が現れ「 お前の病を治してあげるから、私の頼みも聞いて欲しい 」と、毎夜やってきては、夜明けに姿を消します。為永の病気は俄に良くなりましたが、家来が為永の部屋を覗くと、蛇身の女が為永の体をなめ回していました。家来の者もそれには気を失い、為永もその話を聞くと肝を冷やしました。為永は詰所を萬年寺( 見沼区片柳 )に移しました。萬年寺でも、棺が門を潜ろうとすると、中に舞い上がると云うようなことが起こったため、人々は龍神が為永の仕打ちを怨んでの仕業に違いないと云い合ったと云います。平成24年(2012)3月 さいたま市

17. 見沼龍 みぬまりゅう 13:20着 13:21発
Map : さいたま市緑区大崎2239-1

龍神・マルコ&エコ.エコの活動 #美しい見沼田んぼを目指して
NPO法人エコ.エコ は2012年12月に活動を開始しました。クズに覆われた場所を手入れし、様々な希少種を保護しています。冬の虫たちを守るために野焼きはしていません。ここ見沼では江戸時代中頃、沼だったところを干拓し、新田開発が行われました。見沼には龍伝説があり、絵本「 見沼の龍 」には生きものを大切に思う龍のことが出てきます。〔 中略 〕多くの生きものが棲むことの出来る空間を少しでも増やしたいと願ってこの地に龍神・マルコに登場して貰いました。龍神・マルコは生物多様性のシンボルとしてエコ.エコの活動を見守ってくれています。NPO法人 エコ.エコ

龍神・マルコの少し手前で、水路に釣り糸を垂れている方がいたの。何が釣れるのか気になり訊ねてみたところ、モッコが釣れるのだとか。何でも以前この場所で200匹位釣り上げたことがあって、あのときは入れ食い状態だった−と、仰っていましたが、残念ながらこの日の釣果は期待薄のようで(^^;。 問わず語りに伺ったところでは、この辺りにはミミズクもいるし、鷹( 鷲だったかしら )も二羽ほど棲みついているのだとか。先日の台風でどうなったかわかんねえけど−とも仰っていましたが、それだけ自然が豊かな証拠ね。因みに、おじさんが云うところのモッコの正体が気になりますが、モツゴのことみたいね。

18. 緑のトラスト保全第一号地 みどりのとらすとほぜんだいいちごうち 13:28着 13:34発
Map : さいたま市緑区大字南部領辻

〔 緑のトラスト保全第一号地 〕この斜面林は、緑のトラスト保全第一号地として、「 さいたま緑のトラスト基金 」により取得・保全したものです。ここは、見沼代用水沿いにある斜面林の中でも、周辺の景観と一体となって、最も見沼らしさを残している埼玉の原風景の一つです。この原風景を末永く、みんなで保全してきましょう。埼玉県・財団法人さいたま緑のトラスト協会

〔 緑のトラスト運動について 〕緑のトラスト運動は、広く県民の皆様から頂いた「 さいたま緑のトラスト基金 」を財源として、埼玉の優れた自然や、貴重な歴史的環境を取得・保全していこうという運動です。現在、この運動の推進組織である「 さいたま緑のトラスト協会 」と「 さいたま緑のトラスト基金 」が一体となって運動を推進しております。一人でも多くの皆様の御理解と御協力をお願いします。

四阿の傍らには可愛らしい竹細工の数々が展示されていたの。
その造形に思わず拍手よ。それにしても、良くこういった細工の発想が出来るわね。

19. 総持院 そうじいん 13:35着 13:38発
Map : さいたま市緑区大字南部領辻2944

この総持院ですが、どこかに縁起を記した石碑でもないかしら−と境内を探してみたのですが、残念ながら何も見つけられなかったの。頼みとする【風土記稿】にも「 惣持院 新義真言宗 倉田村明星院末 阿日山寶袋寺と號す 開山良秀は天正5年(1577)5月9日寂す 本尊は地蔵を安ず 八幡社 観音堂 」とあるのみで、委細不明なの。参道を上った先には珍しい鐘楼門が建ちますが、明治期の火災でも唯一焼失を免れた建物で、他の堂宇は後に再建されたもの。本堂前のぼたん園には650株程のボタンが植えられていることから、別名・ボタン寺としても知られ、開花期には素敵な花園が広がるそうよ。


余談ですが、代用水路に架かる総持院橋の袂で、素敵な散文詩を見つけたの。
身近に自然とふれあっていた子どもの頃の記憶に誘ってくれるの。

農業用水は / お米や野菜を育てる / お母さんです / お姉さんです
農業用水は / 故郷の緑を守る / お父さんです / お兄さんです
農業用水は / 小魚君・カエル君・ゲンゴロー君 / ホタル君・シジミ君・タニシ君
トンボ君も入るかな / まだまだ沢山の仲間達の / 楽しい 学校です
見沼代用水土地改良区

20. 鷲神社 わしじんじゃ 13:46着 13:53発
Map : さいたま市緑区大字南部領辻2914

〔 浦和市鷲神社社叢ふるさとの森 〕昭和56年(1981)3月20日指定
身近な緑が姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この社叢が「 ふるさとの森 」に指定されました。社叢は、神社の歴史的遺産と一体となり、本県でも有数のふるさとを象徴する緑です。伝えによると、新羅三郎義光が奥州に下向の折、奇瑞を感じたところがこの地であり、それに因んで神社が造られたとされています。境内には、ヒサカキ・アカシデ・アカマツ・スダジイ・エゴノキなどが生育しています。今後も皆様の手でふるさとの森を守り、育てて下さるようお願いします。昭和56年(1981)12月 埼玉県
※この指定は平成23年(2011)4月1日に解除となりました。

〔 南部領辻の獅子舞 〕さいたま市指定無形民俗文化財 平成15年(2003)4月30日指定
この獅子舞は、八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光が奥州へ兄を助けに向かう途中、兵士の士気を鼓舞するために舞ったものを、土地の人たちが習って伝えたものと云われます。所謂「 三頭一人立ち 」の獅子舞で、毎年5月と10月に鷲神社に奉納される他、5月の奉納後には地域を回り、氏子の庭先でも舞われます。地域の「 厄払い 」のために舞われると云う本来の姿をよく伝える獅子舞で、太夫( 大獅子 )を中心にした三頭の獅子が勇壮に舞います。平成15年(2003)12月 さいたま市教育委員会

本来ならここで「 南部領辻の獅子舞 」の演舞を up したいところなのですが、残念ながら未体験ですので、代わりに youtube などで検索してみて下さいね。尚、鳥居の左手には朽ち果てるに任せたような小舎がありましたが、嘗ては獅子小屋として使われていたものみたいね。以前はここに関連グッズが納められていたのかも。

〔 南部領辻の獅子舞獅子頭、衣裳及び道具類 〕さいたま市指定無形民俗文化財 平成4年(1992)3月25日指定
天狗、弓持ち、お守り持ち、笛( 二人 )、簓( 二人 )、太夫、中獅子、女獅子の10人分の衣裳及び道具類からなります。笛方、簓方が被る花笠( オゼン )の一つには、明和5年(1768)に岩槻の林藤町で作ったことが墨書されています。獅子頭をはじめ、弓や天狗面に至るまで、制作は優れており、激しい舞にもかかわらず、良好な保存状態を保っています。尚、これらの衣裳及び道具類を納める長持及び長持覆い一式が付けたり指定となっています。平成15年(2003)12月 さいたま市教育委員会

21. 代山八幡社 だいやまはちまんしゃ 14:03着発
Map : さいたま市緑区代山115-1

22. 上野田氷川神社 うえのだひかわじんじゃ 14:08着 14:13発
Map : さいたま市緑区大字上野田78

※【風土記稿】には「 氷川社 村の鎭守なり 照光寺持 末社雷神社 諏訪社 同持 」とあるの。

23. 照光寺 しょうこうじ 14:18着 14:22発
Map : さいたま市緑区上野田134

嘗ては上野田氷川神社の別当を務めていたと云う照光寺の名を地図上に見つけて訪ねてみたの。【風土記稿】にも「 曹洞宗 片柳村萬年寺末 桃谷山と號す 本尊地藏を安ぜり 開山喜山全悦寂年を傳へず 二世北佳享保14年(1729)3月5日寂すといへば 舊きよりの草創には非るべし 秋葉社 古碑三基 近き頃農民の宅地を堀しとき出しと云 一は嘉元3年(1303) 一は嘉應(1169-71) 一は明徳3年(1392)と彫れり 」とあるのみで、足を向けてみれば寺史を語る石碑が建てられているかも知れないわ−と期待したのですが、残念ながら何も見つけられずに終えてしまったの。

24. 深井家長屋門 ふかいけながやもん 14:25着 14:28発
Map : さいたま市緑区大字上野田

深井家長屋門を正面から見ると、前述の通り立ち隠れがあり、堅固な門構えに両開きの扉を吊っています。規模が大きいこともあって、江戸時代には上野田村天領分の名主役を勤めた深井家として、必要な格式を備えた表門であると云えます。しかし、背後から見ると、殆どの部分が開放となっていて、嘗て同家で盛んに行っていた渋柿作りをはじめとした各種の農作業にあたって、欠くことの出来ない作業場であったことが分かります。格式と実用性とを巧みに両立させた建築と云えます。市内に残る長屋門の中でも、江戸時代に遡るものは少なく、更にその多くは屋根などの外観に変更を受けています。その中で深井家長屋門は当初の姿を伝え、建立年代も判明している貴重なものです。また、近世農村の名主家屋敷に於ける門の位置付けを伝える資料でもあります。平成14年(2002)1月 さいたま市教育委員会


ここで、本来の散策コースからは大きく離れてしまいますが、見沼代用水路の開削を陣頭指揮した井澤弥惣兵衛為永が、工事の際には詰所を設け、境内には事蹟を誌した顕彰碑も残されていると云う萬年寺に足を延ばしてみたの。深井家長屋門からだと、ちょっとロングアプローチになってしまいますが、頑張って歩いて下さいね。あともう少しのハズよね−と、萬年寺脇の緩やかな坂道を上っていると、右手には シクラメンの生産直売所 ノブヒロ園芸 のビニールハウスが並び立ち、中では色鮮やかなシクラメンが競い咲きしていたの。同園では、珍しい品種の生産や品評会での受賞など、シクラメンにはかなりこだわって育成しているみたいよ。来園できなくても地方発送にも対応して頂けるようなので、お問い合わせしてみて下さいね。因みに、同園とは何の関係もありませんので、念のため。(^^;

25. 萬年寺 ばんねんじ 14:43着 14:52発
Map : さいたま市見沼区片柳1-155

最初に萬年寺の略縁起を紹介したいところなのですが、境内にはそれらしきものが見当たらず、代わりに【風土記稿】の記述を引いておきますね。同著には「 萬年寺 禅宗曹洞派 入間郡龍ヶ谷村龍穏寺末 長昌山と號す 中古は長松山と記せしが 近き頃再ひ古に復して 今の如く昌の字に改しと云 當寺は永正6年(1509)の草創にて 開山は龍穏寺七世節庵良筠天文13年(1544)11月28日寂す 慶長年中(1596-1615)20石の御朱印を賜ふ 中興開基初鹿野傳右衛門昌吉と云 寛永元年(1624)11月15日卒す 法名花岳浄蓮居士境内に石碑を建り 葬所は土呂村の内初鹿野氏の采地にあれど 中興開基たるによりここも碑を建しと云( 下段に続く )

又昌吉の室は當寺に葬れり 捐粧心月慶芳大娣寛永元年(1624)11月26日卒す 馬場美濃守娘とあり 此外傳右衛門信吉以下の墓あり 鐘楼 寛永4年(1627)鋳造の鐘をかく 白山社 地蔵堂 」と記されているの。入間郡龍ヶ谷村龍穏寺とあるのは埼玉県越生町にある龍穏寺のことで、同寺は嘗ては江戸幕府の命を受けて下総国総寧寺( 千葉県 )、下野国大中寺( 栃木県 )と共に関東僧録司を務め、国内23ヶ国の曹洞宗の寺院を管掌したの。その龍穏寺の第七世が開山しているところからしても、血脈の良さが窺えるわね。為永が詰所を構えたのも、必然だったのかも知れないわね。

〔 萬年寺木造釋迦如来坐像 〕大宮市指定文化財( 彫刻 ) 昭和55年(1980)6月6日指定
像高:52cm 髪際高:44.6cm 膝張:42cm  曹洞宗の萬年寺は入間郡越生町龍穏寺の七世節菴良均を開山として永正6年(1509)に建立された名刹です。山号は長昌山と称し、古くは長松山とも号したと云います。歴代の住職は宗門の名僧が就任しましたので、寺風は大いに興隆したと云います。この仏像は寺の開創よりも遙かに古い鎌倉時代中期の仏像様式により彫られ、しかも、その中に藤原様式をも残しています。胎内に「 承応二年(1653) 」と墨書銘が記されていることから、この時代に一度修理されたことが窺えます。

寄木で造られ、大きく盛り上がった肉髻、水平を示す髪際、伏目がちのうちにやや鋭い目、刀の入りは浅いけれども写実性の認められる衣紋など、端正なお姿で坐しています。澄んで濁りのない眼差しから弘く衆生を救って下さる慈悲と智慧の徳が伝わってきます。平成元年(1989)3月 大宮市教育委員会

〔 萬年寺と井澤弥惣兵衛為永 〕萬年寺は、見沼を望む台地上に位置する曹洞宗の寺院です。永正6年(1509)に開山し、天正19年(1591)に徳川家康から寺領20石を拝領した古刹です。江戸時代初期、見沼溜井造成に際し、寺域が水没したため伽藍を現在地に移したと伝わります。江戸時代中期には、溜井の干拓及び見沼代用水路の開削事業に際して、工事を担当した井澤弥惣兵衛為永が詰所を当寺に設けたと伝わり、文化14年(1817)になって、見沼代用水路沿線の通船関係者が、為永ゆかりの当寺に顕彰碑を建立し、事績を偲びました。尚、見沼周辺には、井澤弥惣兵衛為永と見沼の龍神に纏わる伝説が数多く残っています。この他、境内には、瘤地蔵、庚申塔、当寺の中興開基となる初鹿野伝右衛門昌久の墓などがあります。幕末から明治にかけては寺子屋が開設され、村の子弟の教育にあたりました。さいたま市

説明には為永が当寺に詰所を設けたことが記されていますが、溜井の干拓に着手した当初は天沼( さいたま市大宮区天沼町1-387 )にある大日堂を詰所としていたの。それが何故萬年寺に移されてきたかと云うと、為永の夢枕に女性に姿を変えた龍神が現れて干拓の中止を求めてきたことに始まるの。実際のところは工事を指揮するのに現地へのアクセスが容易で、地理的に見ても萬年寺の方が適地と見做されたからかも知れませんが、龍神起因説の方がおもしろい(笑)ので、そちらを紹介しますね。例によって、昔話風にアレンジした上でお届けしますので、お楽しみ下さいね。

とんと、むか〜し昔のお話じゃけんど、見沼溜井を干拓して新しく田圃をつくろうと云うことになってのお、その工事を陣頭指揮しておったのが井澤弥惣兵衛為永じゃった。中には干拓に反対する者達もおってのお、弥惣兵衛は村人達の説得に努め、段取りも済ませていよいよ明日からは工事を始めようとしておったのじゃが、その晩のことじゃったそうな。その頃は未だ天沼にある大日堂を詰所にしておったのじゃが、その詰所に一人の女が訪ねてきたそうじゃ。工事をめぐっては幾度となく村人達と話し合いを続けてきた弥惣兵衛じゃで、村人達の顔は皆見知っておったそうじゃが、身なりこそ村人のようじゃったが、女のしぐさやことばづかいには育ちの良さが感じられてのお、弥惣兵衛も居住まいを正して次のことばを待ったそうじゃ。すると女は「 わたくしはこの見沼に住む者ですが、今夜は弥惣兵衛さまに是非ともお聞き届け頂きたいお願いがあって参りました。弥惣兵衛さま、どうか、見沼の干拓を思いとどまっていただきたいのです。」そう懇願したそうじゃ。じゃけんども、工事の開始を明日に控えて、今更無かったことにすることなぞ出来ぬ相談じゃでのお、弥惣兵衛は「 此度の見沼溜井の干拓は、見沼だけのことじゃのうて、江戸のためにもどうしても必要な工事なのじゃ。そなたの頼みを聞くわけにはまいらぬのじゃ。」そう応えたそうじゃ。頑な弥惣兵衛の態度に女も諦めたのか、その晩は静かに帰っていったそうじゃ。

そうして工事が始められたのじゃが、いざ工事が始まると、不思議なことに強風や大雨が降り続くなどしてのお、怪我をしたり病に倒れる者が次々に出てきてしまい、工事もはかどらんかったそうじゃ。そんな中で、疲労と心労が重なったせいじゃろうのお、弥惣兵衛も高熱を出して病に伏せってしまったそうじゃ。そうして、ある晩のことじゃったそうな。熱も一向に冷めやらぬ弥惣兵衛じゃったが、小康を得てうとうとと眠っておったときのことじゃった。あの晩の女がまた訪ねてきたそうじゃ。そうして夢うつつの弥惣兵衛に向かってこう告げたそうじゃ。「 工事の差し障りとなっている大雨や嵐はわたくしが鎮め、そなたの病も治して差し上げましょう。その代わり、わたくしの願いも聞き届けてくださいますように」と。すると、不思議なことに、弥惣兵衛の病も忽ちの内に癒えてしまったそうじゃ。じゃがのお、その晩、病に伏せっておった弥惣兵衛のことを心配して訪ね来た家来がおってのお、家来が寝所の襖を開けてみると、何と弥惣兵衛の枕元で大蛇がとぐろを巻いて、赤い舌をチロチロさせ、弥惣兵衛の身体を舐め回しておったそうじゃ。これには家来も腰を抜かさんばかりに驚いてしまってのお、その姿を見られたことを知って、大蛇もまた姿を消してしまったそうじゃ。

翌朝、弥惣兵衛が目覚めてみると、熱も無く、病はすっかり癒えておったそうじゃ。じゃがのお、夕べのことを家来から聞いた弥惣兵衛は肝を潰してしまってのお、また、この詰所に女に化身した大蛇が訪ね来るんじゃなかろうかと、さすがに恐ろしくなってきてのお、それまでの大日堂からこの萬年寺に詰所を移したそうじゃ。そうして改めて工事に取り組んだそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

いかがでしたでしょうか、お楽しみいただけたかしら。
実は、お話には続きがあるの。その前に、境内に建つ井澤弥惣兵衛為永顕彰碑を紹介しておきますね。

〔 井澤弥惣兵衛為永と見沼代用水 〕この碑は、見沼代用水を開いた功労者・井澤弥惣兵衛を讃えたものです。井澤弥惣兵衛は、江戸時代の寛文3年(1663)に紀伊国( 和歌山県 )溝口村( 海南市 )に生まれ、土木技術に才能を発揮し紀州藩主5代にわたり仕えました。その後、8代将軍徳川吉宗に招かれ、幕府勘定方に着任し、享保12年(1727)から埼玉県に広がる見沼の開発に着手しました。見沼の開発は、利根川の水を下中条( 行田市 )から引き入れ、距離60kmに及ぶ見沼代用水路を掘り進め、周辺に新たな水田を開くという大がかりなものでした。着手してから半年という短期間で用水路を掘りあげたと伝えられています。

尚、弥惣兵衛は見沼代用水の工事のため萬年寺境内に工事事務所を置いていました。また、見沼代用水と芝川を利用して江戸とを結ぶ水運の便をはかり、米をはじめとする物資の輸送を効果的に行えるようにしました。浦和市にある国指定史跡の閘門式運河・見沼通船堀が広く知られています。この碑の他、利根川から取水口近くに井澤祠、白岡町柴山常福寺には墓石があり、井澤弥惣兵衛の功績を現在に伝えています。現在でも見沼で工事を行う際にはこの碑に参拝して工事の安全祈願をすると云われています。尚、弥惣兵衛は元文3年(1738)に75歳で没し、江戸麹町( 東京都千代田区麹町 )の心法寺に葬られています。平成29年(2017)12月 長昌山萬年寺

その弥惣兵衛、龍神と約束した憶えなどないわ−とばかりに工事を進めますが・・・

詰所がこの萬年寺に移されて来てからと云うもの、寺では不思議なことが起こるようになってのお、お弔いのときに棺を担いで山門をくぐり抜けようとすると、担いでいた棺がいきなり宙に舞い上がるようになったそうじゃ。仕方なく、それからは山門は閉めておくようにしたそうじゃが、村人達は普請が続けられていることに腹を立てた龍神が怒ってそうしているのだと噂しておったそうじゃ。

そんなある日の晩のことじゃったそうな。弥惣兵衛のところにあの女が再び訪ねてきたそうじゃ。「 弥惣兵衛、われはそなたの希み通りに雨風を鎮め、そなたの病も治した。なのに、何故われとの約束を守らぬ。」と、女は怒りの目を向けながら問うてきたそうじゃ。女の正体を改めて見極めようとする弥惣兵衛じゃったが、ふと見ると、行燈の薄明かりに照らされた女の身体から伸びた影は龍の形をしておったそうじゃ。「 われは、そなたが思うておるように、見沼に住む龍神じゃ。溜井の水が涸れてしまうと、われだけじゃなく、見沼に棲む多くの生きもの達が皆住み処を無くしてしまうのだ。普請が止められぬとあらば、せめて我等が他の土地に移り住むまで待てぬのか。」龍神の問に弥惣兵衛は「 それは出来ぬ相談。田植えが始まる前までにこの普請を終わらせねばならぬのです。それが叶わぬときは米が作れず、見沼のみならず江戸の人々も糧を失い、飢え死にする者がでるやも知れませぬ。溜井を干拓して出来た田には利根川より水を引き入れるべく、新たに水路を切り拓く普請をしております故、見沼が涸れることはないのです。見沼で米作りが続けられていけば、見沼に棲む生きもの達もまた住み続けることが出来ましょう。どうか、これからも見沼で自然と共に、村人達の暮らしも見守っては下さらぬか。」と、龍神に頭を下げたそうじゃ。

しばらくは頭を垂れたままの弥惣兵衛を見下ろしておった龍神じゃったが、やがて「 弥惣兵衛、われはそなたを信ずることにした。そなたの頼みも聞こう。」そう告げたそうじゃ。そのことばに顔を上げた弥惣兵衛じゃったが、既にそこには龍神の姿は無く、瞬間、裏手にある竹藪の竹が大きく揺らいだそうじゃ。その後は普請も滞りなく進められ、無事に工事を終えたそうじゃ。弥惣兵衛は龍神へ感謝すべく、萬年寺の境内に観音堂を建てると、龍神燈を寄進したそうじゃ。すると、不思議なことに、誰が点すのか、その龍神燈に毎晩明かりが灯るようになってのお。ある晩のことじゃったそうな。明かりを点す女の姿を見掛けた寺の者が声を掛けてみたそうじゃ。ところが女は「 姿を見られたとあっては二度とここへは来られませぬ。これからは寺で明かりを灯して貰えませぬか 」そう告げると姿を消してしまったそうじゃ。その話を聞いた弥惣兵衛は、龍神の思いに報いるために、寺に永代灯明料を奉納したそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

26. さぎ山記念公園 さぎやまきねんこうえん 15:10着 15:20発
Map : さいたま市緑区大字南部領辻359-1

本来の散策コースに戻ったところで最初に訪ねたのがこちらの「 さぎ山記念公園 」で、嘗てはこの辺り一帯に「 野田の鷺山 」と呼ばれるサギの繁殖地が広がっていたの。一時は国の特別天然記念物にも指定され、昭和40年代の最盛期にはその数何と40,000羽にも達するサギの群れを見ることが出来、多くの観光客を集めたの。営巣の様子を見学するための鷺山タワーと云う代物まであったのだとか。その鷺山も環境の変化から営巣には適さなくなり、サギの飛来も無くなってしまったの。天然記念物の指定も昭和59年(1984)を以て解除。その「 野田の鷺山 」を記念して造られたのがこの公園で、池の畔にはサギのモニュメントが建てられ、園内にはさぎ山の歴史やサギの剥製を展示する「 さぎ山記念館 」があるの。

記念館の入口脇に気になるものが置かれていたの。それが下掲の「 巨象の置物 」ですが、置物と云ってもかなり大きなもので、高さだけでもξ^_^ξの身長の倍位あるの。どんな経緯からここに展示されるようになったのかしらね。

原産地:タイ国チェンマイ西方インタノン山麓のジャングル
樹 齢:1,500年以上 彫刻に6年3ヶ月
原 木:直径3,160mm
材 質:チーク材
重 量:1,320Kg
大きさ:2,740H × 1,100W × 2,400L
浦和北ライオンズクラブ寄贈

ここで、館内に掲示されていた「 野田のさぎ山の歴史 」を、剥製と併せて紹介しますね。
サギの投げかけてくる目線が、悲しげ&恨めしげに見えてしまうのはξ^_^ξだけかしら。

野田の里にサギが巣を作るようになったのは、享保年間(1716-1735)徳川8代将軍吉宗の頃です。当時江戸への食糧供給を目的に行われた見沼干拓事業により沼が浅い水田となり、サギの格好な餌場が俄に出現したことが原因の一つであると考えられます。その頃のさぎ山( サギが集団で巣をつくり、その繁殖地として群生している林や森をさぎ山と呼んだ )は、現在地よりも北に約700mのところの上野田宝永地区、当時の新染谷村にありました。その当時、浦和・大宮周辺は紀伊徳川家の鷹場となっており、さぎ山は紀伊殿御囲鷺として保護されていました。

10代将軍徳川家治は、日光家康廟への参詣の途中、このさぎ山に立ち寄り上覧しました。その後80年程すると、さぎ山は荒れ始め、やがて寺山地区から代山、上野田地区へ移りました。こちらへ移ってからも御囲鷺として保護されていました。その様子を描いた絵巻物も現存しており、当時の盛んだった様を今に伝えています。

明治・大正の頃は、御猟場として禁漁区という形で保護され、昭和13年(1938)には文部省から野田村鷺繁殖地の名で天然記念物に指定されました。そして、昭和27年(1952)、文化財保護委員会から特別天然記念物に指定されました。指定地の面積は、1.4ha 程で、5軒の農家の屋敷林にサギが巣をかけていました。屋敷林はケヤキ、イチョウ、それに竹などで構成されています。ここに現れたサギは5種類で、チュウダイサギ・チュウサギ・コサギ・ゴイサギ・アマサギなどです。サギは集団繁殖する鳥で、毎年3月末から4月にかけてこの地に集まり、やがて配偶関係( 夫婦になること )が決まり、樹上に営巣します。巣が出来ると直ぐに産卵が始まり、雌雄交代で卵を抱え、4週間程たつと雛が生まれます。

雛は約一ヶ月で巣立ち、そして7月中旬から帰り始め、10月下旬には殆ど姿を消します。5種類のサギの内、コサギは年間を通じてこの辺りで見られますが、チュウダイサギなどはフィリピンやインドシナ方面から渡ってきます。サギの餌は、水中に棲むドジョウ・フナ・エビガニ・カエルなどの小動物です。その採食範囲は半径12Km程と云われています。この地のサギの生活も長くは続かず、昭和32年(1957)の盛んなときは巣の数6,000個という時もありましたが、昭和40年(1965)頃から減り始め、昭和44年(1969)には約500個、そして昭和47年(1972)には遂にゼロとなりました。この間、竹木の枯死に対する補植や個体数を維持するための落サギ・落ヒナの飼育養育、餌不足に対する給餌等続けたにも関わらず、減少をくい止めることは遂に出来ませんでした。

昭和47年(1972)春にはサギの飛来はありましたが営巣はせず、ここより少し離れた三室の山崎地区内に新しい繁殖地を作るに至りました。ここも6年程続きましたが、昭和52年(1977)を最後にいなくなりました。さぎ山の荒廃原因については色々挙げられますが、何と云っても都市化により水田が減少し、餌が少なくなったことが最も大きな理由と云えます。その他、竹の枯死、農薬、騒音などが挙げられます。このような状態からサギを野田に人為的に戻したとしても、将来にわたって維持していくことは殆ど不可能な状況となり、昭和59年(1984)7月6日付で特別天然記念物及び天然記念物指定の解除となり、天然記念物として45年、特別天然記念物として32年の歴史を閉じることになったものです。

見沼の新田開発で突如として約1,200haもの水田が出来たことが鷺をこの地に集める切っ掛けになったのなら、その衰退もまた都市化の波を受けて餌場としていた水田が減ったことが大きな要因となっているの。以前、佐渡を旅した際に佐渡博物館を訪ねたことがあるのですが、最初に二羽の朱鷺の剥製( 複製 )が出迎えてくれたの。その朱鷺も平成7年(1995)には雄のミドリが死亡し、日本産最後の朱鷺でもある雌のキンも平成15年(2003)には死亡し、絶滅してしまいましたが、似たような出来事がこの「 野田の鷺山 」でも起きていたとは知らずにいたの。自然保護の重要性を充分認識しながら、一方で我が身の生存そのものが則ち自然破壊に繋がると云う負の連鎖に、保護の難しさを改めて感じてしまうわね。

ここで、気分を替えてCMよ。このさぎ山公園では夏になると池の畔でハイビスカスがいっぱい咲くの。以前訪ねたとき( 2019 )の様子をスライドに収めてありますので、気が向いた方は さぎ山記念公園のハイビスカス を御笑覧下さいね。

27. 見沼自然公園 みぬましぜんこうえん 15:31着 15:32発
Map : さいたま市緑区大字南部領辻450-1

〔 井澤弥惣兵衛為永 〕見沼代用水路の開祖
井澤弥惣兵衛為永は紀州溝ノ口村( 現・和歌山県海南市 )に生まれ、その年を明確に表すものはありませんが、徳川幕府が寛政年間に纏めた系譜集に依ると、承応3年(1654)になっています。為永は幼少の頃より学問、特に算術に秀でており、若くして紀州藩に仕え、水利事業にその才能を発揮し、紀ノ川水系に造成された亀池は、代表的な施設として現在でもその姿を保っています。

享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍になった頃の幕府は財政状況が大変苦しく、財政改革に乗り出した吉宗は、紀州徳川藩主当時、治水事業に能力を発揮していた為永を享保7年(1722)江戸に召し出し、紀州流といわれる土木技術により多くの新田開発をし、財政改革に大きく貢献しました。為永は享保10年(1725)新田開発のため見沼溜井を視察し、干拓後の水源を見沼に代わって利根川より水を引くこととし、享保12年(1727)より工事を開始し、元荒川の底を通す伏越、綾瀬川の上を通す掛渡井等を構築し、翌年の春に完成させ、総延長約60Kmに及ぶ見沼代用水路を僅か半年にて完成させました。

これにより見沼溜井約1,200haの新田開発と八丁堤下流の水源を確保することとなりました。また、見沼代用水の開削に合わせ小林沼( 菖蒲町 )等の、数多くの沼地を開墾し、黒沼・笠原沼用水・天久保用水・高沼用水を始めとする多くの用水路を手掛けています。そして閘門式運河としての通運施設を開発し、芝川と東縁・西縁用水路を結ぶ通船堀を享保16年(1731)に完成させています。これは当時の我が国の技術レベルの上でも、世界の通運史上からみても特筆されるものであり、現在通船堀遺跡は国指定史跡となっています。為永は晩年美濃郡代を兼ね、元文3年(1738)3月にその生涯を閉じたとされています。尚、見沼代用水路の名称については、見沼に代わる水源としての用水路との理由から命名されたものです。

28. 見沼くらしっく館( 旧坂東家住宅 ) みぬまくらしっくかん 15:41着 16:03発
Map : さいたま市見沼区大字片柳1266-2

今回の散策で最後に訪ねたのがこの見沼くらしっく館なの。復原された旧板東家住宅〔 さいたま市指定有形文化財( 建造物 )〕を活用して当時の農家の暮らしぶりや年中行事などが再現・展示されているの。博物館と云うことで、不定期ですが、見沼の自然や歴史について学べる講座や、昔の暮らしを体験する体験学習なども行われているみたいね。youtube には、さいたま市に依るプロモーション動画が up されていますので御参照下さいね。御覧になるには こちら から。

板東家は加田屋新田( 現・見沼区 )で代々名主を務めたの。But 元々は紀州( 現・和歌山県 )名草郡加田村の出身で、江戸の商家だったと云うのは意外ね。最初に初代・助右衛門尚重が見沼溜井の一角に新田開発を行ったのですが、水利に問題が生じたのでしょうね、下流側の村人達の反対にあい、溜池に戻されてしまったの。その後、三代目・助右衛門尚常の代になり、好機到来。江戸幕府に依る新田開発奨励の大号令の下、見沼溜井が干拓され代用水路が完成すると、尚常は再開発に乗り出すの。そうして新たに造られた新田は、板東家の屋号「 加田屋 」をとって、加田屋新田と呼ばれるようになったの。当初は代用水路の見廻り役などもしていたようだけど、名主となったのはその頃のことみたいね。

住居内の見学は自由−と云うことでしたので、ウロウロさせて貰ったの。
掲載する画像は、ξ^_^ξが気に留めたものよ。

2番目の画像は女性の奉公人が使用したと云う「 おんなべや 」よ。いかにも屋根裏部屋の趣きですが、それもそのハズ、明治期になって新たに増築された「 はちじょう 」の間の二階にあるの。梯子で上るようになっているのですが、慣れないと危険なくらいの急傾斜よ。それはさておき、明治期に増築したと云うことは、それ以前は「 おんなべや 」がなかったことになるわよね。だとしたらどこで寝泊まりしていたのかしら。まさか、男性の奉公人が寝泊まりしていた「 おとこべや 」に同居していたわけじゃないわよね。それとも、女性の奉公人はいなかったのかしらね。But 炊事など細々とした仕事があったハズだもの、そんなことはなさそうよね。と云うことで、謎は深まるばかり(笑)。因みに、「 おとこべや 」は厩と隣り合わせにしてあるの。

替わって、右端は「 ざしき 」の押入下の土中から発見されたと云う一分銀よ。
400枚あるので100両だそうよ。今のお金に換算したら幾ら位になるのかしら。

〔 一分銀 〕150年以上も昔、この家が建てられた頃に使われていたお金です。床の下から発見されました。4枚で小判1枚( 一両 )に相当する銀貨です。旧板東家住宅からは、400枚発見されたため、小判100枚( 100両 )に相当します。また、一分銀の鋳造は、天保8年(1837)に始まり、安政6年(1859)と明治2年(1869)に改鋳されています。やすりがけの具合や額縁の小桜模様★の違いなどから、これらの時期を見分けることができます。当住宅の一分銀は、天保一分銀が3枚、安政一分銀が397枚とみられます。

左端は「 かって 」に設けられていた囲炉裏よ。開館時には毎日午後になると実際に火を入れてくれるの。間もなく閉館時間を迎えることもあり、火勢は既に無くなっていましたが、火のくべられた囲炉裏を囲むだけでも、昔の暮らしを追体験しているような気分になるの、不思議ね。そう云えば、囲炉裏の煙は茅葺き屋根にもいいみたいよ。萱葺きは囲炉裏で煮炊きすれば、その煙で燻され、70年位はもつので、萱替も70年に一度で済むのだそうよ。当館がその辺りのことも意識して火入れしているのかどうかは分からないけど。

29. 三崎台BS みさきだいばすてい 16:04着 16:16発
Map : さいたま市見沼区片柳






















見沼通船堀 今から400年も昔、江戸幕府により新田開発が奨励され、見沼でも広大な沼池が干拓されて1,200haにも及ぶ見沼たんぼが開発されたの。替わって昭和初期には東京の水道水をまかなうための貯水池化が計画されるなど、時代に翻弄されてきた感がしないでもないわね。But 残された事蹟をたどれば、時代に翻弄されながらも逞しく生きた当時の人々の暮らしぶりも見えてくるの。印象に残るのは、今でも多くの龍神伝説が語り継がれていることね。その舞台となると、多くが広大な沼と湿地が広がりを見せていた頃のことで、当時の人々が自然に畏敬を感じていた証でもあるわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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【 参考文献 】
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
埼玉県神社庁刊 埼玉県神社庁神社調査団編 埼玉の神社
浦和市発行 浦和市総務部市史編纂室編 浦和市史 通史編2
さきたま出版会刊 井上香都羅著 みむろ物語・見沼と氷川女体社を軸に
さきたま出版会刊 野尻靖著 大宮氷川神社と氷川女體神社 その歴史と文化
さいたま市発行 さいたま市都市局都市計画部見沼田圃政策推進室編 見沼たんぼ見どころガイド 2018
旧板東家住宅見沼くらしっく館編集・発行 くらしっく館から見沼たんぼへの散策案内〜見沼の龍の伝説〜
さいたま市立博物館編集・発行 第43回特別展図録 見沼〜水と人の交流史〜
その他、現地にて頂いてきたパンフ・栞など






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