≡☆ 散策閑話−斎藤別当実盛 ☆≡
 

斎藤別当実盛の「実盛公染鬚の場」に因む逸話を紹介しますね。
But 多分に脚色を含みますので読み物としてお楽しみ下さいね。

斎藤別当実盛は板東武士の鑑とされたの。

それでは、はじめますね。現在は妻沼と呼ばれるこの地も嘗ては長井庄と呼ばれる庄園の一部だったの。実盛から遡ること二代前の実遠は「前九年の役」に子息の実直と共に参戦して戦功を挙げ、当時源氏の庄園となっていた長井庄を安堵されるの。斎藤氏は元々は越前国に分派する一族ですが、実遠が長井庄を領したことで新たに長井斎藤氏が派生したの。その実遠は当時白髪神社が鎮座していた大我井の地に館を構えたの。現在は妻沼小学校が建つ辺りだそうよ。その実遠は邸内に経塚を築き、朝夕に読誦するなど信仰の篤い人だったみたいね。天治元年(1124)、その実遠が没するのですが、齢89歳と云うのですから大往生よね。実直もまた養父・実遠の信仰を引き継ぎ、その菩提供養のために新たに経塚を造営して冥福を祈ったの。

その二年後の大治元年(1126)、一族の越前吉原斎藤次郎則盛に男子・助房が生まれるのですが、実直の養子となるの。そうして養父からは「実」を、実父からは「盛」の一字を貰い受けて実盛と称したの。永治元年(1141)にその養父・実直が亡くなると、若干16歳で長井庄の庄司となり、名実共に長井斎藤別当実盛が誕生したの。いつ頃迎えたのかは分かりませんが、実盛は久安5年(1149)に妻を亡くしているの。それ以外は概ね平穏な暮らしぶりだったようね。But 時代の流れは俄にうねりを見せ始め、やがて歴史の表舞台へと駆り出されてゆくの。

久寿2年(1155)、相模国を本貫地とする源義朝と武蔵国比企郡大蔵の源義賢との間に不和が生じ、義朝は鎌倉に下向していた嫡男・義平に義賢の追討を命じるの。異母とは云え、義朝・義賢は兄弟、義平も義賢にすれば甥叔父の関係で、まさに同族戦なの。その義平は義賢の居館・大蔵館を襲撃すると義賢を討ち取ってしまうの。But 義賢の嫡男・駒王丸の所在が分からず、畠山重能に見つけ出してその首をはねるよう厳命して鎌倉へ帰還するの。重能は探索の末、義賢の側室・小枝御前と駒王丸、そして下郎の孫太郎の三人が潜むところを見つけ出したのですが、いざ駒王丸を目の前にしてみれば僅か二歳の子供、刃を向けるには余りにも幼すぎて、ましてや源家の棟梁・八幡太郎義家の血筋、このまま殺してしまうには口惜しい、いざ、助けまいらせん−と思ったの。かと云って重能が庇護する訳にもゆかず、頼りにしたのが実盛だったの。

実盛も当初は義朝の麾下にいたのですが、義賢につき、その義賢を失うと再び義朝の麾下に戻るの。その中で二人の接点が出来ていたのかも知れないわね。それはさておき、駒王丸を預かってはみたものの、周りを見渡せば源氏の息の掛かった連中ばかり。いずれは事が露見して義朝の耳に入るやも知れず、そこで白羽の矢を立てたのが乳母夫の信濃権守中原兼遠なの。その兼遠の庇護の許で育てられた駒王丸こそが、後の木曽義仲なの。

途中の経緯は端折りますが、「平治の乱」では義朝の麾下として参陣奮戦する実盛ですが、義朝も討たれて源氏一門は敗退してしまうの。長井庄に戻った実盛は領地の安堵を条件に今度は平宗盛の家人となるの。まあ、しかし世渡り上手な人ね。実盛にしてみれば領地を護ることに一所懸命だったのかも知れないけど、周りもそれを許したと云うことは、人徳があったからかも知れないわね。実盛は改めて妻を迎え、永万元年(1165)には実途が、仁安2年(1167)には実長が生まれ、しばらくは平穏な日々が続いたの。時を経た治承3年(1179)、その実途が十五歳となり元服を迎えたのを機に、実盛は守り本尊としていた歓喜天像を白髪神社に祀り聖天宮と改称、改めて長井庄の総鎮守としたの。これが妻沼聖天院の始まりなの。But 哀しいかな、平穏な日々はそう長くは続かずに、源頼朝が挙兵すると源平の合戦の火蓋が再び切って落とされるの。

実盛も今度ばかりは源氏側の誘いを断り平家方に組したの。【平家物語】などには実盛の奮戦の様子が描かれていますが、中でも有名なのが富士川の合戦時のことよね。実際には平家側は戦わずして逃げ帰ったと云うのですから合戦とは云えないのですが、平家方の陣営にあって実盛のドスの効いた声が今にも聞こえて来そうね。「富士川の事」の段からその一部を紹介してみますので、お楽しみ下さいね。

大將軍權亮少將維盛 東國の案内者とて長井の齋藤別當實盛を召して 「汝ほどの強弓精兵 八箇國にいかほどあるぞ」と問い給へば 齋藤別當あざ笑つて「さ候へば 君は實盛を大矢と思し召され候ふにこそ僅か十三束をこそ仕り候へ 實盛ほど射候ふ者は八箇國には幾らも候 大矢と申す定の者の十五束に劣つて引くは候はず 弓の強さもしたたかなる者の五六人して張り候 かやうの精兵どもが射候へば鎧の二三領はたやすうかけず射通し候 大名と申す定の者の五百騎に劣つて持つは候はず 馬に乘つて落つる道を知らず 惡所を馳すれど馬を倒さず 軍は又親も討たれよ子も討たれよ 死ぬれば乘越え乘越え戰ふ候 西國の軍と申すはすべてその儀候はず 親討たれぬれば引退き佛事孝養し忌明けて寄せ 子討たれぬればその愁へ嘆きとて寄せ候はず 兵糧米盡きぬれば 春は田作り 秋刈り收めて寄せ 夏は熱しと厭ひ 冬は寒しと嫌ひ候 東國の軍と申すはすべてその儀候はず〔中略〕」と申しければ これを聞く兵ども 皆震ひ慄き合へりけり

時を同じくして北陸道を手中に収めて京へ攻め込む機会を窺っていたのが、木曽義仲なの。それを知った平維盛・通盛・忠度の連合軍は寿永2年(1183)、10万余騎の大軍を率いて義仲の追討に向かうの。その中に実盛の姿と共に、28年前に駒王丸こと幼き義仲を助けて実盛の元へと送り届けてきた畠山重能の姿もあったの。平家方も一時は善戦するも結局は惨敗してしまい、敗走する平家軍の最後尾で一人その場に踏み止まり奮戦する者がいたの。それが実盛だったの。それを見た信濃国諏訪の住人・手塚太郎光盛が実盛に勝負を挑んできたの。【平家物語】には

手塚太郎進み出て「あなやさし いかなる人にて渡らせ給へば 御方の御勢は皆落行き候ふに ただ一騎殘らせ給ひたるこそ優に覺え候へ 名乘らせ給へ」と詞をかけければ「先づ かう云ふわ殿は誰そ」「信濃國の住人手塚太郎金刺光盛」とこそ名のつたれ 齋藤別當「さては互によき敵 但し わ殿を下ぐるにはあらず 存ずる旨があれば名乘ることはあるまじいぞ よれ 組まう 手塚」

とあるのですが、実盛は既に「心は猛う思へども 軍にはし疲れぬ 手は負うつ」状態で、老いの身とあっては若い光盛の敵ではなかったの。実盛の首を手にした光盛は陣中に戻り、義仲にその時の様子を告げるの。今度は【源平盛衰記】からの転載よ。

光盛癖者の頸取て候 名乘れと申せば 存する旨あり名乘らまじ 木曾殿は御覽じ知るべしと計りにて名乘らず 侍かと見れば錦の直垂を著たり 大將軍かと思へば列く者なし 京家西國の者かとすれば坂東聲也き 若き者かと思へば面の皺七十餘に疊めり 老者かとすれば鬢鬚黒くして盛りと見ゆ 何者の首なるらんと申す 木曾打ち案じて 哀に武藏の齋藤別當にや有るらん 但其は一年少目に見しかば白髮の糟尾に生まれたりしかば 今は殊の外に白髮に成りぬらんに 鬢鬚の黒きは何やらん 面の老樣はさもやと覺ゆ 實に不審也 樋口は古同僚 見知りたるらんとて召されたり 髻を引き取りて仰て一目打ち見てはら/\と泣き あな無慙や實盛にて候ひけりと申す

何に鬢鬚の黒はと問ひ給へば 樋口 されば其の事思ひ出られ侍り 實盛日頃申し置き候しは 弓矢取者は老體にて軍の陣に向はんには 髮に墨を塗らんと思ふ也 其の故は合戰ならぬ時だにも 若き人は白髮を見てあなづる心あり 況んや軍場にして進まんとすれば古老氣なしと惡み 退き時は今は分に叶はずと謗られ 實に若人と先を諍ふも憚りあり 敵も甲斐なき者に思へり 悲しき者は老いの白髮に侍ふ されば俊成卿述懷の歌に「澤に生る若菜ならねど 徒らに歳をつむにも袖はぬれけり」と讀み侍るとかや

人は聊の物語の傳へにも 後の形見にことばをば殘し置くべき事に侍り 云しに違はず墨を塗て候けり 年來内外なく申しゝ事の哀しさに 樋口次郎兼光 水を取り寄せて自ら是を洗いたれば 白髮尉にぞ成りにける さてこそ一定實盛とは知りにけれ 大國の許由は耳を潁川の水に濯きて名を後代に留め 我が朝の實盛は髮を戰場の墨に染めて 悲しみを萬人に催しけり

木曾宣けるは親父帶刀先生をば惡源太義平が討たりける時 義仲は二歳に成りけるを 畠山に仰て尋ね出して必づ失ふべしと傳へたりけるに 如何が稚者に刀を立んとて 我は知らざる由にて情深く此の齋藤別當が許へ遣はして養へと云ひければ 請け取りて養はんとしけるが 七箇日置きて東國は皆源氏の家人也 我人に憑まれて此の兒を養ひ立ざらんも人ならず 育ておかんもあたりいぶせしと案じなして 木曾へ遣しける志 偏へに實盛が恩にあり 一樹の陰 一河の流れと云ふためしも有なれば 實盛も義仲が爲には七箇日の養父 危く敵中を計らひ出しける其の志 爭ひ忘るべきところなれば此の首よく孝養せよとて さめ/゛\と泣きぬれば 兵共も皆袖を絞りけり






どこにもいけないわ