埼玉県熊谷市妻沼にある聖天院の本堂・聖天堂が平成24年(2012)に国宝に指定されたの。建造物としては埼玉県初の国宝指定で、熊谷市では初の栄誉なの。その聖天院を始め、周辺の寺社を訪ね歩いてみたので紹介してみますね。一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. JR熊谷駅 くまがやえき 10:10発
実はこの妻沼の聖天院を訪ねたのは初めてではないの。冒頭でも御案内しましたが、聖天堂が国宝に指定されたのは平成24年(2012)ですが、8年間にも及ぶ「平成の大改修」を終えて一般公開されたのは前年の6月のことだったの。TVのスポットニュースで流れた絢爛豪華な色彩が蘇った聖天堂の映像に目を奪われ、是非ともこの目で見てみたいと思ったの。その時はまだ聖天堂の他には足を向けることもなかったのですが、いざ出掛けてみると、知らずにいた事物や事蹟があることを知り、興味を覚えて再訪したの。
どこへ行くにも公共の交通手段に頼らざるを得ないξ^_^ξとしては、この日もJR熊谷駅北口6番乗場から発車する朝日バスの「太田駅南口」行に乗車しましたが、同じ運行系統で「西小泉駅」行や妻沼聖天前を終点とするバスもあり、どれでもOKなので御都合に合わせて御乗車くださいね。所要時間:約30分 ¥450
2. 妻沼聖天前BS めぬましょうてんまえばすてい 10:39着発
3. 大我井神社 おおがいじんじゃ 10:44着 10:57発
今でこそ木綿は「もめん」と読み、綿花から作られた糸を指しますが、綿織物が一般化するのは室町時代以降のことで、当時は同じ木綿でも「ゆふ」と読み、楮(こうぞ)の皮を剥いで作られた糸のことを指していたの。その糸を編んで作られたのが木綿襷(ゆふたすき)で、神事を行う際に肩に掛けたの。その「ゆふたすき」が平安中期以降、「懸ける」や「懸かる」の枕詞に転化して本来の意味を失うの。光俊の本歌では「ゆふたすき」なのですが、収録される【夫木和歌抄】の復刻出版が繰り返される中で誤訳された「夕たすき」が常態化してしまったの。じゃあ「夕たすき」は何を表していることになるの?それはみなさんの御賢察にお任せよ。
敬神尊王帝國大典亦我國民通牲也故古今不乏 其事蹟盖福石玉垣造營其一事也謹按之由來當
天明二年關東大洪水山靈流下巨石而停字森下 地先人々感其奇蹟祀神稱福石神社爾來靈驗不
淺庶民仰其徳故官下諭告合祀村社大我井神社 是實明治四十二年十月也矣雖然神體巨石■在
神庭森下荒井氏子等竊憂迹神慮偶今上陛下行 給即位大禮■大當大義哉其■奉祝情不能禁■
諮畫福石玉垣造營以爲永久不滅紀年事業是實 可謂敬神尊王兩行今竣工茲記其概要以傳■■
云爾時大正四年星次乙卯十一月也 社掌 橋上福高篆額 勳八等 井田諄謹書
■の部分ですが、汚れで読み取りが出来なかったり、崩字や簡略字などが使われていたりして分からないの。
他にも間違いがあるかも知れませんが、気付いても目を瞑って下さいね。
〔 大我井神社唐門の由来 〕 当唐門は明和7年(186年前)若宮八幡社の正門として建立された。明治42年(1909)10月八幡社は村社大我井神社に合祀し、唐門のみ社地にありしを大正2年(1913)10月村社の西門として移転したのであるが、爾来40有余年屋根その他大破したるに依り社前に移動し、大修理を加え 両袖玉垣を新築して全く面目を一新した。時に昭和30年(1955)10月吉晨なり
But ξ^_^ξが思うに、聖天堂に安置される本尊は聖天さまこと大聖歓喜天で、それも雙身像よ、習合を解いたからといってそれを伊弉冉尊・伊弉諾尊とみなすのは端から無理よね。確かに、聖天さまを祀りながら神社を称している事例も少なくないけど。戯れ言を書いてしまいましたが、大我井神社の主祭神として伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱が祀られる理由がこれでお分かりよね。その後、明治政府の神社統合政策を受けて明治42年(1909)には近在の神社が合祀され、現在に至っていると云うわけ。社殿も明治2年(1869)に造営されたもので、その後幾度かの改修を経て、現在の社殿は平成11年(1999)の「平成の大修理」を経てのものなの。
富士信仰の総本山は静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社。
御神体は云うまでもなく富士山よね。
4. 板石塔婆 ばんせきとうば 11:09着 11:10発
妻沼町指定文化財 指定年月日 昭和40年(1965)3月16日
聖天院を訪ねる前に、本坊があると云うので先にその本坊を訪ねることにしたの。途中には花蔵院と云うお寺もあり、嘗ては聖天院の塔頭の一つだったのでは−と気になり寄り道してみたのですが、然したる収穫も得られずに本線に復帰。ビルのようでいてパゴダのような本堂を御覧になりたい方はお立ち寄り下さいね(笑)。それはそれとして、本坊の少し手前の木立ちの蔭に仰々しく護られて板石塔婆が立てられていたの。元は妻沼小学校の敷地(大我井の森)に立てられていたもので、その妻沼小学校と云えば、嘗て斎藤別当実盛の邸が建てられていた場所であることから、一説にはその斎藤別当実盛の供養塔ではないか−との噂もあるの。噂よ、あくまでも噂(笑)。
5. 妻沼聖天院本坊 めぬましょうてんいんほんぼう 11:11着 11:14発
それはさておき、気になるのが白髪神社のことなの。実は聖天院の前身はその白髪神社(しらかみのかみのやしろ)だと云うの。安永元年(1772)に根岸伊兵衛が著した【武乾記】には「往古は白髮神社にして延喜式に載する所の古社也 別當實盛信仰し 治承に至り越前國金ケ崎城より聖天宮御像を當社に持來り合祀す 故に社名を聖天宮と申し奉る 後に白髮神社は別に祠を建て 尊を奉ぜりと云ふ」とあり、治承3年(1179)に斎藤別当実盛が守り本尊として歓喜天像を白髪神社に合祀して聖天宮と称えたことが記されているの。
そうして気が付いたときには聖天さまだけが名を馳せていて、白髪大明神の方は居場所を失っていたの。白髪大明神にしたら聖天さまに軒先を貸した積もりがいつの間にか母屋を乗っ取られてしまったと云うところね。そこで再び新天地を求めて遷座したのが妻沼字女体に鎮座する白髪神社だと云われているの。更に歴史を遡ると承和8年(841)に教與上人なる僧が大我井の地に最初に祀ったのは弁財天だと云うの。2/8のことで、それより遅れること僅か9日後でしか無いのですが、引き続き白髪神社が祭られたの。弁才天のルーツは古代インド神話ではサラスバティー河を神格化したもので、水とは深〜い繋がりのある神さまよね。一方の白髪神社ですが、渡来人達が崇めていた祖霊神に由来するとの噂があり、そこからは渡来人達がこの地に入植して農地を開拓していった様子が垣間見えて来るの。
一方、先程触れた現・白髪神社の地には元々和銅4年(711)に勝道上人が勧請したと云う高岡稲荷明神社があり、白髪神社は合祀されたことになるの。その稲荷神にしても元々は五穀豊穣などを祈願するために祭られた農耕神で、そのルーツは同じく渡来系の秦氏の祖霊神だと云われているの。三神が共通の目的を以て祭られたことが分かるわね。同じ渡来系と云うことで祀る方も、祭られる方も親和性が良かったのかも知れないわね。尚、ここでは虚実(想像も含む)が入り乱れていますので呉々も鵜呑みしないで下さいね。だったら書くな!だったかしら(笑)。
歌碑は平仮名で刻まれているのですが、漢字交じり文を併せて紹介してみました。
宛字には異説もあるのですが、ここではξ^_^ξの個人的な好みで決めていますので御了承くださいね。
6. 聖天院 しょうてんいん 11:20着 12:25発
一、 |
年は老ゆとも しかすがに としはおゆとも しかすがに 弓矢の名をばくたさじと ゆみやのなをばくたさじと 白き鬢髭墨にそめ しろきびんひげすみにそめ 若殿原と競ひつつ わかとのばらときそひつつ 武勇の譽れを末代まで ぶゆうのほまれをまつだいまで 残しし君の雄雄しさよ のこししきみのおおしさよ |
二、 |
錦かざりて歸るとの にしきかざりてかえるとの 昔の例ひき出でて むかしのためしひきいでて 望の如く乞ひ得つる のぞみのごとくこひえつる 赤地錦の直垂を あかじにしきのひたたれを 故郷のいくさに輝かしし こきょうのいくさにかがやかしし 君が心のやさしさよ きみがこころのやさしさよ |
「齋藤實盛」の歌とやらを聴いてみたい−と思われた方は現地へお御足をお運びくださいね。「このサウンドモール實盛公は唱歌齋藤實盛をAM7:00-PM9:00の時間内にこのスイッチを押すと聴くことができる施設です。規定時間外は利用できませんのでご注意下さい」とのこと。残念ながらξ^_^ξが試したときには故障中で、待てど暮らせど反応が無くて試聴は諦めたの。なので感想は?ですので、みなさんの耳でお確かめ下さいね。m(_ _)m
普通ならそこで命脈が尽きるのを待つだけだと思うわよね。But そこには父・実盛のしたたかな生き様がDNAとして良応に引き継がれていたみたいね。建久4年(1193)、征夷大将軍となっていた源頼朝が下野国に向かう途次、入間野で狩りをし、その折に当地へ立ち寄り聖天宮に詣でたの。良応はその機を捉えて頼朝に聖天宮の修復と別当寺建立のため、関東八ケ国の勧進を願い出たの。 頼朝の裁許を得た良応は錫をひいて喜捨を募り、国平等の後援もあり、建久8年(1197)、遂に聖天宮の修復と別当坊歓喜院長楽寺の建立を成し遂げたの。国平もまた実家・実幹と共に十一面観音菩薩像と歓喜天の御正躰錫杖頭を鋳造して奉納して本尊としたの。その錫杖の柄の部分には「奉鑄 武藏國永井聖天堂錫杖御正躰建立氏人 宮道國平 平氏 藤原實家 藤原實幹」とあるの。時に良応31歳、実家11歳、実幹9歳で、良応にしたら万感の思いがあったのではないかしら。
実家、実幹の二人のその後ですが、【斎藤家譜】〔富山県砺波市・斎藤氏蔵〕に依ると、実家の方は「長井庄西野郷に住す 宮道傔仗国平の女を室とし長井庄総領となる」とあり、実幹は「長井太郎義兼の養子となり 弥藤五と称す」とあるの。因みに、実父の実途ですが、平維盛から息・六代の養育を託されていたのですが、その六代が捕らえられて斬首されると自らもまたその使命を終えたとして自刃しているの。時に実途、35歳。彼もまた義に生きて義に死した東国武士の一人だったの。
熊谷市指定文化財 種別:建造物
門柱には色々な木札が掛けられているの。列挙してみると・・・
ぼけ封じ 関東三十三観音霊場 第十六番札所
関東八十八ヵ所霊場 第八十八番 妻沼聖天山
弘法大師八十八ヶ所霊場 幡羅新四国第十三番札所 第七十六番合祀
彩の国 武州路十二支霊場 午年の寺 聖天山歓喜院
東国花の寺百ヶ寺
−とあるの。
日本三大聖天さまの一つとして知られる妻沼聖天院は福運厄除祈願の信仰を広く集めているのですが、とりわけ縁結びには霊験灼かとされてきたの。その聖天院境内にあって特別な存在がこの中門で、嘗てはお見合いの待ち合わせ場所として利用されていたの。恋愛結婚が当たり前の今ではその姿を見掛けることもなくなりましたが、今のおじいちゃんやおばあちゃん達が適齢期を迎えていた頃は未だお見合い結婚が多かったの。この中門が貴惣門と仁王門の間で両者を取り持つようにしてあることから、お仲人さんはその縁にあやかり、待ち合わせ場所にしてお見合いをする二人の顔合わせをしたの。双方が顔をそろえたところで中門を潜ると、本殿に詣でてご縁がありますようにと聖天さまに縁結びを願ったの。その後は後述の千代桝さんあたりでお見合いの席が設けられ、社交辞令で適当な時間が過ぎたところで後はお二人で−となる段取りだったようね。
その中門右手に割烹料理の千代桝さんがあるの。店先には「千代桝(割烹)残雪の家 文豪田山花袋 残雪の舞台となる 妻沼町教育委員会」と案内する石碑があり、作品は読んだことはないのですが、田山花袋の名だけは知っていたので暖簾を潜ろうと一度は思ったのですが、「当店自慢の一品 うな重定食 ¥2,000」の案内を見て直ぐに諦めモード(笑)。後で知ったことですが、作品に登場する部屋は残念ながら焼失してしまい、現在は無いそうよ。
正清は幕府作事方棟梁を務めた平内政信の子孫と云う血脈を有し、全霊を傾けてその造営に着手するの。But 絵図面は精緻を極める一方で、資金が思うように集まらなかったのでしょうね、実際に着工出来たのは15年後の享保20年(1735)のことで、正清も既に還暦を迎えていたの。正清は絵師に狩野探幽の流れを汲む狩野金信を迎え、彫刻には親交のあった石原吟太郎を棟梁に門弟等の参加を求めたの。そうして延享元年(1744)、中殿の半ばまでの完成を以て遷宮・開帳が行われたの。と云うのも資金面で事業継続が出来なくなってしまったの。
そういった自然災害が無ければ、完成はもっと早まっていたのかも知れないわね。でも、裏を返せばそういった逆境の中でも支え続けてくれたからこそ完成に漕ぎ着けられたわけよね。今回の「平成の大改修」は公的機関の資金提供が得られたからこそなし得た事業で、自分のことを棚に上げておいて怒られそうですが、信仰心の薄れた今となっては市井の援助だけでは実現不可能なお話しなのかも知れないわね。
〔 聖天堂の彫刻彩色 〕 奥殿大羽目彫刻 奥殿の壁に嵌め込まれていた彫刻です。厚さ20cm余りの銀杏の厚板を矧ぎ合わせて、一枚の板に仕立てています。これを高肉透彫(たかにくすかしぼり)で仕上げています。大羽目彫刻の題材は、当時流行していた七福神信仰が基本となっています。西面は三枚が一連の題材となっており、中央間に囲碁打ちに興ずる恵比寿と大黒、脇間にそれぞれの持ち物で遊ぶ唐子達を配しています。福徳と豊穣を象徴する神々、平和や子孫繁栄を体で表現しているかのような子供達は、聖天堂ならではの生き生きとした親しみのある彫刻となっています。
「平和の塔」の前のお祭り広場には「歴史探訪トイレ」があるの。と云っても特別な仕掛けがあるわけでもなくて、普通のお手洗いなのですが、入口には妻沼の地名由来が記されていたの。それに依ると「その昔、利根川の乱流で台地を挟み二つの沼が出来ました。上の沼の近くに男体様(今の男沼天神社境内に東向きに立つ祠)があり、下の沼の辺りに女体様(今も聖天の北東にあり西向きに建つ)があったことから、上の沼を男沼(おどろま−泥沼の意)、下の沼を女沼(後に妻沼)と読んだのが地名の起こりと云われています」とのこと。
余談ですが、その妻沼では昔から松を植えることを忌み嫌い、お正月の門松も樫を使う程だったのだとか。何でも聖天さまが松の葉で目を突かれたことに由来し、突かれた目を雉に嘗めて貰ったところ、忽ち治癒したことから、以後雉が聖天さまの眷属とされたとも、否、目を突かれたのは聖天さまではなくて斎藤別当実盛だとの伝承もあるの。他にも聖天さまはこの地に移られる前に須賀村の熊野社の境内に間借りしていたのですが、聖天さまの方が盛んとなり、このままでは境内を乗っ取られてしまうと危惧した熊野社の氏子達は聖天さまを松葉燻しにしたの。聖天さまはやむなく大我井の森へ移転したのですが、それからと云うもの、聖天さまは松を嫌うようになったとか、聖天さまに願いごとをすれば忽ち叶うことから「待つことが無い」が転じて松は嫌いとなった−などの伝えもあるのですが、聖天さまと松の繋がりが今一つはっきりしないわね。伝承が生まれた背景が気になるわね。
また、雉(きじ)は聖天さまの眷属なので捕まえたりしていけない、殺すようなことでもあると目が潰れ、雉肉を食べると目玉が飛び出すと云われていたのだとか。そのお陰で雉には誰も手出しをしなかったことから境内には多くの雉が住み着いていたようよ。残念ながら今では雉のキの字も見掛けられないけど。
空海上人は帰国に際して216部461巻もの経典類を持ち帰りますが、その中に含まれていたのが大聖天歡喜雙身毘那夜迦法なの。真言密教の奥義を学んだ上人ですが、師事した中に北インド出身の牟尼室利(むにすり)と云う僧がいたの。恐らくは彼からインド秘伝の修法教示を得たものなのでしょうね。その像容ですが、大聖歡喜雙身毘那夜迦天形像品儀軌に依ると−此相抱像表六處之愛 六處之愛者 一者以鼻各觸愛背 二者以臆合愛 三者以手抱愛腰 四者以腹合愛 五者以二足蹈愛 六者著赤色裙−と記すように男女の抱擁そのものなの。禁欲を旨とする当時の僧侶達はこの像容にさぞ驚いたことでしょうね。秘仏とされるケースが多いのですが、その意図するところを理解出来ずに、公開すれば誤解を生むと考えられたのでしょうね。案の定、高度な宗教的解釈など分からない庶民には性愛を司る神として、後に性欲・金銭欲をも肯定する超現世肯定的な神として崇められるようになったの。その像容が特異ならその由来も極めてユニークなの。興味津々のあなたに(笑)ちょっと紹介してみますね。
とお〜い遠い昔のことなの。印度のある国に一人の男がいて国王にも良く仕えたことから忠臣として重用されていたの。けれど宮殿に出入りしている内に王妃とも親しく心を通わすようになり、とうとう王妃と関係を結んでしまったの。それを知った国王は殊の外激怒して、その男を殺そうと毒でもある象の肉を美味だからと騙して食べさせるの。男が象の肉を二口三口飲み込むのを見届けた国王は−我が妃をたぶらかしおって!お前のような奴は象肉を喰らい死ぬがよかろうて!!と高笑いするの。男は騙されたことに気付くのですが既に毒が廻りはじめ、気分が悪くなってきたの。
事の次第を知らされた王妃は男の許へ駆けつけると−愛しいひとよ。象肉を食べさせられるとは何としたことでしょう。人伝てに聞くところに依れば油の池で沐浴し、鶏羅山に生える蘿蔔根を食すれば助かると聞きます。わたくしの愛馬にて直ぐに鶏羅山に向かいなさい。そなたの罪はわたくしの罪。さすればわたくしも国王から罪を問われ獄中に捕らわれの身となることでしょう。そなたとは二度と会えますまいが生きてこの世の覇者となられんことを−そう告げたの。
男は王妃に背中を押されるようにしてその場を離れると王妃の愛馬を駆って鶏羅山へと向かうの。そうして云われた通りに油の池で沐浴し、生えていた蘿蔔根を食べてみたところ身体から毒が消えてゆき、一命を取り留めることができたの。けれど男は国王を深く恨み、国王の領地領民に害をなさんとの思いから大魔神・毘那夜迦王に変じてしまったの。その姿は人身象頭で十万七千(!)の眷属を率いて悪事の限りをはたらくの。やがて国中に悪鬼が蔓延り、国王も領民もすっかり疲弊してしまうの。それを見兼ねて毘那夜迦王の説得に乗り出したのが観音さま。見目麗しい女性に姿を変えて毘那夜迦王を訪ねるのですが、その美しさに感嘆した毘那夜迦王は欲情して何と(!)観音さまに情交を迫るの。
蘿蔔根はダイコンのこと。白ダイコンと云うよりもラディッシュに近いかしら。
歓喜天の供物にダイコンが捧げられるのはこの逸話に由来するの。
ところが観音さまは−あなたが仏法に帰依して善神となるのならその望みを叶えてあげてもいいわ−と答えるの。そうして毘那夜迦王は仏法への忠誠を誓い、人身象頭の姿となった観音さまと抱き合ったの。双身像は観音さまが毘那夜迦王の脚を踏みつけているケースが多いのですが、それは悪心を封じ込める象徴なの。そうして歓喜を得た毘那夜迦王は歓喜天となり、男女陰陽の両極が結合された宇宙万物の象徴として広大無辺の神通力を持つようになったの。禁欲を説く仏教の中ではまさに歓喜天の双身像は破壊仏の感があるのですが、仏教とは深遠な世界よね。But 記述は多分に脚色を含みますので鵜呑みにしないで下さいね。
7. 玉洞院 ぎょくどういん 12:44着 12:48発
文中には行基云々とあるのですが、行基が実際に東国に下向して来たと云う傍証は何も無く、この略縁起もまた後世に付与された逸話の匂いがプンプンするのですが、それはそれとして、当時の人々にしたら「信ずる者には事実」のお話しを紹介しますね。
天平勝寶元己丑歳 菩薩乘白牛到于此地時 於沼上忽然見美女容 行基向彼問曰 汝是何人 女對曰 我是辨財天也 此地者是如意輪觀音之靈洞也 言于不見其形 行基作奇異思 四顧森々緑樹枝頭連珠 叢々碧草花唇吐香 恰似入于蓬莱山島 於茲行基閑座而志念爲末世之衆生化縁 更示女體 辨財天與觀音同一體手自奉彫刻如意輪菩薩三尊形新造立一宇安置于茲 今之玉洞院是也
熊谷市指定文化財(彫刻)玉洞院 風神・雷神像
風神・雷神は自然現象である風・雷を神格化したもので、日本では上半身裸形の青鬼、赤鬼の形で表現される。玉洞院の像は、両像とも高さ1.78mの寄木造り。眼光は鋭く、髪型は焔髪。風神は風袋を背負い、雷神は太鼓を背負い、手に桴(ばち)を持つ。彩色は褪せてはいるが、勢いのある作風で室町時代の作とされる。この像は、現在堂内に安置されているが、嘗ては山門に置かれていた。熊谷市教育委員会 昭和34年(1959)4月17日 妻沼町指定
8. 利根川 とねがわ 13:07着 13:10発
ここで時間に余裕がありましたので利根川まで歩いてみたのですが、残念ながら記念写真のみで終えてしまい、景観を御案内することが出来ないの。御容赦下さいね。
9. 瑞林寺 ずいりんじ 13:22着 13:25発
良応が最初に隠棲したのは聖天院から更に南に下った上根地区だと云うので
この瑞林寺との直接的な繋がりは無いみたいだけど。
此処に祀る塔碑は、昭和44年(1969)墓地改修を機に、境内及び地区内に点在していたのを合祀したものである。奥左側の板碑は中央に阿弥陀種子が蓮台に載り、その下に正嘉二年(1258)戌午九月の紀年銘、左右に右志者為慈父幽儀 右男女同心合力と云う偈がある。手前左の板碑は上部が大きく欠けているが、涅槃経の一節と中央に文永八年(1271)辛未八月八日諸孝子敬白、右に右志者為悲母幽霊十三年、左に出離生死往生極楽也とある。いづれも亡父の為、亡母十三回忌の為の供養塔として建てられたものであろう。
前列の五輪の塔は当山開基瑞光院殿来阿大禅定門、俗名大河内孫十郎政信〔貞和4年(1348)5月23日没〕の供養塔と伝えられている。往古、当山は天台宗の寺として開創されたが、慶長年間(1596-1615)に太田市恵林寺五世大庵文恕大和尚が曹洞宗として再興したものである。二十二夜月待ち信仰の本尊・如意輪観音、阿弥陀経千部供養塔、新四国霊場七十三番の碑等を合わせてここに祀り、先代18世住職が生前文化財の保護調査に努め、石碑の風化を憂いていたことに応え、これ以上の風化防止を発願し協力者を得、上屋を建築したものである。ここに先人の文化と信仰の証である石碑を永く保護し、後世まで此地の人々の誇りと心の糧に資するよう念願するものである。平成5年(1993)秋彼岸 瑞林寺19世 晴府 誌
最初に【風土記稿】の記述を御案内しましたが、五輪の塔に関しては「たまたま墓所に古き塔あるをもて 推當に政信の墳といひ出たるならん」とあるように疑義が持たれるのですが、ここでは原文のままを転載しておきました。住持の方の志を非難するものでは決してありませんので、御容赦下さいね。
10. 妻沼聖天前BS めぬましょうてんまえばすてい 13:28着 13:56発
妻沼聖天前BSまで戻ったところで目の前にある梅月堂さんでお土産を買うことにしたの。最初は店名や店構えから和菓子専門に見受けられたのですが、店内には和菓子のみならず、洋菓子のサブレやショート・ケーキなどもあるの。勿論、そのどれもが梅月堂さんのオリジナルで、全て手作りの逸品よ。店先には紅い毛氈を敷いた縁台も用意されているのですが、店内には喫茶コーナーもあるの。残念ながら席は一組だけの用意しかありませんが、コーヒー付のケーキ・セットが¥400で楽しめちゃうの。
他に来客が無いのを良いことにバスを待つ間の時間潰しに利用させて頂きましたが、ξ^_^ξのお勧めは野菜のスティック・ケーキよ。妻沼産の野菜を練り込んだケーキで、野菜を20%配合していながらそれを感じさせないの。これなら野菜嫌いの方でも平気よ。因みに、ニンジン、ホウレンソウ、カボチャの三種類があるので、お好みでどうぞ。野菜嫌いでも何でも無いξ^_^ξは一度口にしたら止まらなくなっちゃう(笑)。
11. JR熊谷駅 くまがやえき 14:26着
妻沼にはもう一つの見処に「あじさい寺」として知られる能護寺があるの。
日を改めて紫陽花の咲く頃に出掛けてみましたので、番外編として紹介してみますね。
寺格を高めたい気持ちは分からなくはないけど、ちょっとやりすぎね。行基にしても彼が活躍したのは専ら畿内のお話しで、関東に下向して来た事実は無いの。ごめんなさいね、寺伝にケチを付けてしまって。
熊谷市指定文化財
(二)格天井の十六羅漢
境内には50種類800株の紫陽花が咲くと案内されていましたが、ここではほんのさわりだけを紹介しておきますね。植えられている株数では他のあじさい寺に負けてしまいますが、本堂を取り囲むようにして鉢植えの紫陽花が置かれ、一つ一つ種類が異なるの。さしずめ紫陽花の見本市会場といったところかしら。個人的には境内を彩る紫陽花よりも、個性豊かに、それでいて楚々と咲く鉢植えの紫陽花の方が好きだったりするの。ξ^_^ξが幾らここで云々してみたところで百聞は一見にしかず。一年中見られる訳ではないのですが、みなさんも季を捉えてお出掛けになってみて下さいね。
今回のお散歩では妻沼聖天院を中心に紹介してみましたが、ξ^_^ξが最初に訪ねたときは改修工事を終えてはいたものの、国宝に指定される前のことで、参詣者の姿も決して多いとは云えなかったの。指定を機に多くの人達に関心を持って頂けたらうれしいわね。また、訪ねたときには聖天院と関わりを持った多くの人達の心模様にも思いを馳せてみて欲しいの。否、聖天院に限らず、路傍で朽ち果てるのを待つだけのものであっても、そこには当時を生きた人々の思いが込められているの。But こちらからその存在に気付いて声を掛けない限り、彼らの方から語りかけてくることはないの。お出掛けの際にはガイドマップと併せて、沢山の疑問符を握りしめながら歩いてみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。
〔 参考文献 〕
新人物往来社刊 森田保著 利根川事典
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
随想舎刊 日下部高明・菊地卓著 新編足利浪漫紀行
さきたま出版会刊 さきたま文庫 妻沼聖天山《熊谷》改訂版
国書刊行会発行 稲村坦元編 新訂増補【埼玉叢書】第三巻
妻沼町発行 妻沼町誌編纂委員会編 妻沼町誌
角川ソフィア文庫 佐藤謙三校注 平家物語
聖天山歓喜院発行 妻沼聖天山
岩波書店刊 龍肅訳注 吾妻鏡
その他、現地にて頂いて来たパンフ&資料
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