埼玉県越谷市にある久伊豆神社には県の天然記念物にも指定される樹齢200年余の大藤があるの。江戸時代の国学者・平田篤胤(1776-1843)の門人・川鍋国蔵が下総国流山(現・千葉県流山市)から移植したもので、篤胤遺愛の藤とも云われているの。補:掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。
ここでは、ξ^_^ξが撮りためてきたものをスライドに纏めてみましたのでお楽しみ下さいね。
お花見の後は、境内をひとめぐり。別途、現地案内板の説明を引いておきましたので御参照下さいね。
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♠ 神池 ♠
この句は吾山が江戸に旅立つときの句であったらしく、後世において、越ヶ谷の人々は吾山を忘れることなく、その徳を慕って建碑したものとみられる。平成18年(2006)8月 越谷市教育委員会
♠ 祖霊社 ♠
〔 久伊豆神社祖霊社 〕 久伊豆神社では、日本古来の生活規範でもあり、神社信仰の根幹でもある敬神崇祖の順風美俗をより強固なものとすべく、当神社に縁の方々のご先祖の御分霊を鎮祭する祖霊社を建立致しました。この祖霊社は当神社の境内にある神池の南側の一画に建てられ、ご本社とは勿論、他の境内摂末社とも截然と区別された森厳なる域内に設けられております。古来、敬神崇祖が神道の根本的信仰であることは、我が国最古の古典とされる【古事記】に「参神造化の首と作り陰陽斯に開けて二霊群品の祖と為れり」と記されていることからも窺われますが、我が日本の国土や神々、そして青人草たる人間も、総ては祖たる伊邪那岐神・伊邪那美神の二神がムスビの神の霊力に拠ってお生みになられたものであり、その信仰を江戸時代初期の神宮学者である中西直方は「日の本に生まれ出でにし益人は神よ出でて神にいるなり 死道百首」と詠っています。また、近世の代表的な神道国学の研究者である本居宣長も「父母はわが家の神わが神と心つくしていつけ人の子 玉鉾百首」と詠い、その歿後の門人である平田篤胤も「玉襷かけて祈らな世々の祖 祖の御祖の神の幸いを玉襷」と詠んでいますように、敬神崇祖は神道信仰の中核であり、一体不可分のものです。
この長い歴史を持つ神道信仰の要である敬神崇祖は、今日にも脈々と受け継がれ、全国の神社を包括する神社本庁が定めた敬神生活の綱領の第一条には、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむことと謳われています。このように神を敬い、祖先を崇めて生きること、即ち、敬神と崇祖は、古来日本人が一体のものとして信仰してきた美風であり、神道信仰の根本であります。このような趣旨から、当神社では遠く【古事記】の時代以来、日本人が実践してきた神の恵みと祖先の恩とに感謝して生きる、生活の精神的信仰的基盤としての祖霊社を建立致しました。
越谷の氏神様である久伊豆神社のご祭神は大国主命であり、この世に幸いを賜る神であると共に、氏子崇敬者の幽界を司る神でもあります。ここを以て「人死すれば体皃地に帰すといへども魂気は永く産須那神の左右にありてその子孫を擁護す」と京都神祇管領の吉田良熈が平田篤胤の高弟六人部是香の産須那社古伝抄の序に述べていますように、氏神様のお側にご先祖の御霊が鎮まるために、当久伊豆神社の祖霊社は建立されました。ご祭神・大国主命の御神徳、それを慕った平田篤胤とのご縁など、当久伊豆神社の祖霊社は、日本古来の敬神崇祖の生活実践に育まれて建立されたものであり、広く氏子崇敬者の皆様方の豊かな生活に寄与するものと確信しております。平成19年(2007)9月吉日 久伊豆神社
皃の字ですが、実際には左側に「白」偏がついているの。
表示不能ですので、代用文字で御容赦下さいね。
奉納 幄舎(あくしゃ)一宇 大野光政
一角には、「越谷の木遣歌」記念碑と、大きな「神徳灯籠」が建てられているの。
♠ 本社 ♠
久伊豆神社は、祭神として大国主命、事代主命など五柱が祀られ、例祭は毎年9月28日である。当社の創立年代は不詳であるが、社伝に依ると平安末期の創建と云い、鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市(きさい)党の崇敬を受けたと云う。古来、武門の尊崇を集めて栄え、室町時代の応仁元年(1467)に伊豆国(静岡県)宇佐見の領主・宇佐見三郎重之がこの地を領したとき、鎮守神として太刀を奉納すると共に社殿を再建したと伝えられる。江戸時代には、徳川将軍家代々の信仰が厚かった。当社は、除災招福・開運出世の神として関東一円は云うまでもなく、全国に崇敬者がある。また、家出をしたり、悪所通いをする者に対して、家族の者が”足止め”と云って狛犬の足を結ぶと必ず帰ってくると云われている。境内には、県指定旧跡となっている幕末の国学者・平田篤胤の仮寓跡や、篤胤の門人が奉納したと云われる県指定天然記念物の藤の老樹が枝を広げている。尚、当社は昭和59年(1984)度に県から「ふるさとの森」の指定を受けている。昭和60年(1985)3月 埼玉県・越谷市
向かって左側に天手力男神(あめのたぢからおのかみ)、右側に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、中央に岩戸の隙間から漏れる天照大神(あまてらすおおみかみ)のまばゆい光が描かれている。全体は【古事記】【日本書紀】に依って描かれているものの、天宇受賣命が持つ大鈴や桶を逆さにした舞台といった細部の描写は、【古語拾遺】に依るものと思われる。この天岩戸の図は、平田篤胤大人の越谷との深縁、また、古学・神道を考究した広い学識を窺うことが出来るものである。尚、平成25年(2013)の複製作業は山端寿一氏に依るものである。
掲載する画像では分かり難いかと思いますが、天宇受賣命が手に持ち振りかざしているのは「招霊の木」なの〔 補:左手にしているのは天香具山の小竹葉(ささば)〕。「招霊の木」はモクレン科オガタマノキ属で、オガタマノキとするのが学術的には正しいみたいですが、神社では専ら「招霊の木」ね。招霊(おがたま)は招魂(おきたま)が転訛したものとも云われているの。ところで、天の岩戸神話は御存知の方も多いと思いますが、そんなの、知らないわ−と云う方のためにかいつまんでお話ししておきますね。弟神の素戔鳴尊(すさのおのみこと)の度重なる悪さに耐えきれず、天照大神は遂に岩戸にお隠れになってしまったの。すると、たちどころに全ては闇に覆われてしまったからさあ大変。八百万(やおよろず)の神々が群集して善後策を講ずるのですが、一計を案じて岩戸の前で舞を演じたのが天宇受賣命なの。その時に命が手にしていたのが緋い実を沢山付けたオガタマノキなの。花が咲いた後に緋い実をつけ、試してみた訳ではありませんが、乾くとマラカスのようにシャラシャラと音がするのだとか。今では神前には榊が普通ですが、嘗てはオガタマノキも神聖なものとして供えられていたの。天宇受賣命はマラカス状態になったオガタマノキを振りながらダンスをしたと云うわけね。ちゃんとお立ち台もあったのよ。
ちょっと茶化してしまいましたが、天宇受賣命の舞は神楽の原型とも云われ、オガタマノキの実は神楽鈴の起源にもなったと伝えられているの。神社で巫女さんが鈴を鳴らしていたらそれは招霊で、神さまをお呼びしていると云うわけ。その光景に出会えたら天宇受賣命のことと共に、オガタマノキのことも思い出してみて下さいね。余談ですが、【日本書紀】では天宇受賣命の舞う姿を「巧(たくみ)に作俳優(わざをき)す」と記すことから俳優の元祖とも云われているの。神の御霊を招き寄せ、自らも神懸かりして舞うなど、神さまを楽しませるのが本来の俳優の役割だったわけね。
樹齢を重ねて今では「臥龍の藤」の佇まいを見せる久伊豆神社の大藤ですが、その始まりは平田篤胤の門人・川鍋国蔵が下総国流山から移植したことに始まり、篤胤と当社の深い関わりが元になっているの。生前には550人もの門人を擁したと云う篤胤ですが、当地に訪ね来る度に近在から参集し、篤胤の話に耳を傾ける門人達の姿があったのかも知れないわね。【古事記】には藤に纏わる面白い逸話も記されているの。秋山下氷壮夫( あきやまのしたびおとこ )と春山霞壮夫( はるやまのかすみおとこ )の兄弟二神が見目麗しい女神の伊豆志袁登売神( いづしおとめのかみ )と結婚しようとして恋の鞘当てを演じるのですが、篤胤も話の余興に、藤の花を前にして門人達に披露していたかも知れないわね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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