≡☆ 秋色に染まる小石川後楽園 ☆≡
2021/11/28

東京ドームやドームシティに足を向けることがあっても、その直ぐお隣にある小石川後楽園を訪ねてみたことがある方は、そう多くはいらっしゃらないかも知れないわね。今回はその小石川後楽園に秋の彩りを求めて訪ねてみたので紹介しますね。

小石川後楽園

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ここでは撮りためてきたものをスライドに纏めてみましたので御笑覧下さいね。参考までに、小石川後楽園と、園内最古の建物と云われる得仁堂の由来を現地案内板から引いておきますね。そこからは光圀が築庭に寄せた想いが伝わってくるの。

〔 特別史跡・特別名勝 小石川後楽園 〕  小石川後楽園は、旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後園で、林泉美に富む廻遊式築山泉水庭園である。江戸時代初め、徳川御三家の一つであった水戸家の祖・徳川頼房は、寛永6年(1629)に将軍家からあたえられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。水戸家二代藩主光圀も本園の築庭には力を注ぎ、当時隣国明の遺臣で我が国に亡命していた朱舜水 しゅしゅんすい の意見を用い、今見るような中国趣味豊かな手法を加味した。因みに、後楽園の名は、光圀が朱舜水に命じて選んだもので、宋の范仲淹 はんちゅうえん の【岳陽楼記】中「 士当先天下之憂而憂 後天下之楽而楽 」からとったものである。その後もたびたびの改修や震災・戦災で創築時代の壮観さこそ失われたものの、逐次手が加えられるなど幾多の時代の変遷を経て現在に至っている。本園は、土の香漂う奥深い山地と樹林に包まれた静寂な水面の中に、日本と中国各地の名所を写し、自然の美と人工の砂とを兼ね備えた庭園芸術の粋を見せている。また、園内は数々の園亭祠堂があり、梅・桜・藤・花菖蒲など四季折々の花が豊富な都会では貴重な緑として訪れる者に憩いの場を提供している。尚、本園は、大正12年(1923)3月、国の指定名勝に、また、昭和27年(1952)3月、文化財保護法により、特別史跡及び特別名勝に指定された。

水戸光圀ゆかりの得仁堂と木像「伯夷・叔斉」  小石川後楽園の造営を完成させた水戸二代藩主徳川光圀(1628-1700)は、得仁堂を創設し、泰伯 たいはく・伯夷 はくい・叔斉 しゅくせい 像を安置しました。光圀が堂をつくり三像を祀ったことには、その徳を慕い、手本としていた光圀の強い思いが示されています。三像のうち伯夷・叔斉像は現存しています。「伯夷・叔斉」とは、中国古代・殷代の小国の王子兄弟の名前です。二人は、跡継ぎになることを互いに譲り合い、国を去ったといわれています。これに対し国民は「聖の清なるもの」と誉め称えました。兄弟は善政を行っていると評判の文王を慕い、周の国へ行きましたが、時の王は亡くなり、子の武王が継いでいました。武王が父の葬儀も済まないうちに殷の君主を征伐しようとすることを知り、父子の道、君臣の道に背くと諫めたが聞き入られませんでした。そこで二人は、「周に仕えて俸禄を受けるのは恥」として山に籠もり、ワラビで命をつないでいましたが、遂に餓死したといわれています。光圀は6歳の時に兄をさしおいて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身の上と重ね、18歳で「伯夷・叔斉」の物語を読み、非常に感銘を受けました。光圀は「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂を建立し、伯夷・叔斉の木像を納め、参詣したといわれています。












紅葉 受付を済ませて園内に一歩足を踏み入れてみればそこは別世界、まさに喧騒渦巻く大都会に残された貴重なオアシスの雰囲気にあるの。築庭当時の建物は、その多くが関東大震災や戦禍を受けて烏有に帰してしまったとのことですが、清水観音堂の跡地や通天橋から眺め見た紅葉は、京都のそれを思い起こすに充分なシチュエーションにあるの。光圀が見たらどんな感想を持つか気になるところですが、摩天楼のごとく聳え立つ文京シビックセンターやドームホテルの景観も、それはそれで絵になる光景かも知れないわね。余談ですが、お土産には「徳川将軍珈琲」がお薦めよ。実は、普段ξ^_^ξが愛飲するマンデリンがベースになっていたりするの。製造元の SAZA COFFEE さんの頁にはその誕生秘話が掲載されていますので、珈琲の香りとともに、お話にも耳を傾けてみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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