≡☆ 新井宿のお散歩 ☆≡
2017/03/11

平成27年(2015)9月8日付の朝日新聞(夕刊)に、川口市新井宿にある源長寺のことが掲載されていたの。梅の名所とも案内されていたことから、梅の開花を待って足を向けてみようかしら−と思っている内にタイミングを逃してしまい、今回一年越しでようやく実現したの。補:掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

新井宿のお散歩

1. (埼玉高速鉄道)新井宿駅 あらいじゅくえき 12:18着 12:26発

今回のお散歩の一番の目的は、やはり、源長寺の境内に咲く梅の花を観ることにありましたが、近距離圏内に他にも寺社が点在することを知り、併せて訪ねてみることにしたの。最初に訪ねる源長寺の最寄り駅となるのが左掲の新井宿駅ですが、御覧のように地下鉄の駅そのものなの。体験乗車にしても、乗車する前までは、当然、高架上を走るでしょうから車窓からの景色も楽しめるのでは−と期待していたのですが、実際には暗闇の中をひたすら走り続けるだけで。(^^; それはさておき、今回のお散歩は 1110city.com に掲載されるグリーンセンターコース観光ルートマップを参考にしているの。と云っても、実際に歩いたのはその一部だけですが。

2. 源長寺 げんちょうじ 12:35着 13:16発

県道R161から脇道に折れると視線の先に大きな杉木立が見えて来ますが、源長寺の境内に立つ保存樹木のヒマラヤスギになるの。それにしてもかなりのロングアプローチね、表通りから山門までの距離は300m位あるんじゃないかしら。今でこそ道の両脇には民家が並び建ちますが、寺勢を隆盛させていた頃は、敷石が置かれた参道が続いていたのかも知れないわね。実は、この源長寺、元々は関東郡代を務めた伊奈家の菩提寺として二代伊奈忠治が元和4年(1618)に再興したものなの。伊奈家の後盾を得て寺領47石を有するなどして隆盛したのですが、寛政4年(1792)に12代伊奈忠尊(ただたか)が家督相続問題から関東郡代を罷免、伊奈家が改易させられてしまうと、伊奈家と云う最大の檀家を失い、寺領も11石余となり、寺運を衰退させてしまったの。

昭和9年(1934)頃の源長寺と云えば、筵4畳、畳8畳の部屋の奥に本尊のみが安置される状態で、戦後間もない頃はお化け屋敷と呼ばれるほど荒れ果てていたみたいね。それを現在ある姿に復興させたのが先代住職の広誉定海和尚で、境内にはその紆余曲折を誌した石碑が建てられていましたので紹介しますね。

〔 源長寺の由緒と沿革 〕  當源長寺は関東郡代伊奈半十郎忠治公が居城に近い赤山の地にあった古寺を再興して伊奈家の菩提寺として創建し、両親の法名から周光山勝林院源長寺と寺号を定め、両親の菩提寺である鴻巣勝願寺の惣蓮社円誉不残上人を特請し、開山として迎えた。ときに元和4年(1618)であった。二代住職玉蓮社日譽源貞上人は忠次の三男で、寺運の伸展と興隆に努めた。寄進を受けた50石の広大な寺領の外に寺域を整え、諸堂を建て寺観を一新して、江戸初期から中期にかけて武蔵国では高い格式を誇る寺とし、近隣に数ヶ寺の末寺を持ち、木曽呂の阿弥陀堂もその一つであった。源貞は後に迎えられて檀林勝願寺の6世となり、更には鎌倉の大本山光明寺38世の座に就き、遂には京都の知恩院に晋董した高僧であった。しかし、広大な寺領を持ち、権勢を誇り続けてきた源長寺にも漸く濃い翳りが出始めた。大檀那伊奈氏の12代忠尊のときに失意の退陣を余儀なくされ、代々の所領は没収され、赤山の館は解体を強いられて、伊奈氏の経済的失調が決定的となった。

この頃から源長寺の斜陽化・衰退は始まった。中興源貞の建てた諸堂にも朽廃が目立ち、営繕の期を迎えても伊奈氏の経済不如意から放任され、大伽藍の維持に困難を生じ、段階的に規模を縮小して難局を越えてきた。その頃、寺運を回復する器量の住職おらず、苦境は深刻化した。江戸中期以降、明治にかけて源長寺は重大な時期を迎えたときに21世忻譽大念は寺外で没した〔 明治18年(1885) 〕。この頃、鐘楼堂をはじめ、寺宝の多くを失い、加えて、多くの離檀者があって窮状は加速して源長寺の暗黒時代となった。広大な寺領も一部の者に次第に蚕食され、境内に隣接した土地を残して多くの寺領を失ってしまった。僅かに残った二町歩余の農地も、終戦後の農地解放の政令に従い全てを手放し、境内墓地の寺域約一町歩(1ha)が残ったに過ぎなかった。

この未曾有の難局に陥っても本尊仏に異常なかったことは洵に幸いであった。當山に安置する阿弥陀如来は秩父より招来された火難除けの仏さまとの伝承があり、相好円満の温顔、均整のとれた藤原期・定朝様式を忠実に受け継いだ作品と鑑定され、先の伊奈家の頌徳碑〔 昭和48年(1973)指定 〕に続いて市文化財としての指定〔 昭和53年(1978) 〕を受けたことは有り難いことであった。現住・廣譽定海、仏縁を以て昭和13年(1938)24代の法灯を継いでも、当時は十数戸の檀家、正に少禄微檀、僅かに残った萱葺き一棟も10坪余に過ぎず、寺としての外観体裁はなく、辛うじて雨露を凌ぐのみで、廣譽が常在して本尊に給仕するには大きな決意が求められた。

廣譽は土地の古老に伝承を聞き、古書から盛時を偲びつつ教檀生活を続けて、秘かに時機の到来を待った。昭和47年(1972)退職入寺した廣譽は、寺運の再興、伽藍の再建を発願決意した。荒蕪地同然の寺域を墓地として造成分譲し、広く有縁の檀越を募り、大方の協力を得ることを方策として樹てる。幸いにして機運円熟し仏天の加護を受けて着工し、父祖以来の宿願、本堂・庫裏の新築、境内の植栽整備も同時進行して、昭和63年(1988)5月15日全檀信徒参集して浄土宗三上人の遠忌正当の記念法要に併せ、落慶のお勤めが盛大に厳修され、住職廣譽の生涯の大吉祥日となり、永年の悲願成就を泉下の諸霊に慶びの報告をした。

本堂の左手には墓苑が広がりますが、大きな石碑に見守られながら、伊奈家一族の墓塔が並び立つの。

〔 伊奈家頌徳碑 〕  川口市指定有形文化財 昭和48年(1973)5月24日指定
頌とは褒め称える、人の功績を称えると云う意味があります。この石碑は、寛文13年(1673)に伊奈家五代半十郎忠常が初代半左衛門忠次(ただつぐ)から四代半左衛門忠克(ただかつ)に至る伊奈家4代の功績を称え、その数々の事跡を後世に伝えると共に、その徳を称えるために、菩提寺である周光山源長寺の境内に建立したものです。碑には根府川石が用いられ、碑台の正面には亀趺(きふ)が彫られています。趺とは足の甲の意味で、台石を表し、宋代には亀は贔屓(ひいき)であるとの伝説があります。贔屓は龍の九つの子の一つです。中国ではこの時代、皇帝は親としての龍であり、高位高官の者を子として贔屓に見立てたと云います。この頌徳碑が亀趺碑であると云うことは、江戸幕府にあっていかに伊奈氏代々が重用されていたかを物語っています。碑文は、弘文学士院林之道甫(林羅山の子鵞峯のこと)の撰により、漢文1,928文字が刻まれています。その内容は、初代忠次が東照神君(徳川家康のこと)に従っての数々の勲功や開墾に努めた民政上の功績、二代忠政が大坂の役に於ける功績、三代忠治が武州七千石を領しての功績、四代忠克(ただかつ)が治水事業といったように、伊奈家代々の事跡が克明に記されており、関東郡代伊奈氏を知る上で貴重な資料となっています。その後、伊奈家は寛政4年(1792)12代忠尊(ただたか)が改易に処せられるまで、代々関東郡代職を歴任し、幕政に寄与しました。川口市教育委員会

源長寺の寺史を紹介したところで、梅の観賞へと進みたいところですが、梅林の前には釈迦涅槃像が置かれていたの。涅槃像は、余り多くはありませんが、他でも見掛けることがありますよね。But この源長寺を訪ねる前までは、ξ^_^ξはただ単に涅槃像は、お釈迦さまが入滅される際のお姿を模しただけのもの−と思っていたの。傍らには先代住職の広誉定海和尚が誌した案内文が掲示されていましたので紹介しますが、ドラマチックなエンディングはお釈迦さまの、お釈迦さまたる由縁ね。

〔 大恩教主 釈尊涅槃像 〕  2月15日は涅槃会、お釈迦さまが80才の生涯を終えられた日である。29才で出家、苦行6年、35才で悟りを開かれ、鹿野苑で最初の説法をされてから以後45年間、時には祇園精舎で、王舎城で、そして最後は霊鷲山で法華経を説かれ、広いインド各地で多くの人々に布教して廻られた釈尊であったが、80才になって余命のないことを知り、「私はもう老い朽ちた。私の肉体は古い車がやっと動いているようなものだ」と語っていたと云う。死期の近づいた釈尊の足の運びは日毎に重くなっていた。各地で「阿難よ、これが見納めかと思うと名残りが惜しい」と見送る村人達との別れを惜しんでいたと云う。故郷忘れ難くと云うが北の方、生れ故郷を目指して重い歩みを続けていた。

その道すがら受けた食事の後、烈しい腹痛と下痢に苦しみながら漸くクシナガラ城の見える跋提河の辺りに辿り着く。釈尊はこの頃になると痛みを抑えての歩行で、体力の消耗は極限に達していた。釈尊は喘ぎながら阿難よ、あの林は静かそうでよい。あの木の下で休ませてもらいたい≠ニ阿難に云われた。衰弱している釈尊のお姿をみて、阿難は最期の近いことを知り、悲しみに耐えながら沙羅樹の根元に床を用意する。頭を北に、右脇を下にして手を枕に両足を重ねて釈尊は静かに横になった。お供してきた弟子達も釈尊の枕辺に集まり、涙を堪えて見守る。

阿難は悲しみのあまり、その場を離れようとしたとき、釈尊に呼ばれ次のことを聞く。「すべて愛する者と別れるのは此の世の定め、生ある者は必ず死す、諸行は無常、生者必滅は自然の理である。阿難よ、汝は私のために良く仕えてくれた。その心を忘れずに今後は修行しなさい」。また、他の弟子達にも今まで私が説いてきた教えと戒律(いましめ)は私の亡き後お前達の拠所となるのだ−と諭された。釈尊最後の説法であった。阿難は流れる涙を堪えて「教えは必ず守ります」と申し上げると、半眼の釈尊は頷かれた。父が母がわが子に諭し終えて安堵するように、釈尊は静かに眼を閉じられたと云う。

涅槃像 中天にかかる月は煌々と釈尊の身を照らして、寂として声なく見守る弟子達からやがて鳴咽の声がおこリ、次第に慟哭へと変わっていった。このとき、風は死し、林の音は止み、流れは静まり、鳥獣は声を断ち、百花は同時に萎み、緑葉は一斉に赤ばみ、沙羅樹は低く枝を垂れた、と悲しみの様子を大般涅槃経には説かれている。平成8年(1996)2月 周光山源長寺 24世 廣誉 誌す

お釈迦さまの思いに触れたところで、背後に広がる梅林の様子を紹介しますね。撮りためてきたものをスライドに纏めてみましたので、御覧になりたい方は、左掲の画像をクリックして下さいね。

3. 花卉園 かきえん 13:23着13:37発

ハナモモ 源長寺を後にして次の子日神社に向かう途中で、ピンク色の花が咲き乱れる光景が目に飛び込んできたの。それが御覧の花卉園で、植栽された花桃が一斉に開花していたの。源長寺で触れた梅の香の余韻を楽しみながら歩いていたら、今度はそれとは対照的に艶やかな世界が目の前に現れたと云うわけ。この花卉園に限らず、今回の散策コース上ではあちらこちらで色々な種類の花卉が栽培される光景を目にしたの。何でも、この辺り一帯では、江戸時代から梅や桜などを植えて切枝を出荷するなど、花の生産が盛んに行われてきたのだとか。ハナモモへの接近遭遇も試みてみましたので、彼女達の艶姿に触れてみて下さいね。御覧になりたい方は、左掲の画像をクリックよ。

4. 子日神社 ねのひじんじゃ 13:42着 13:48着

〔 子日神社御由緒 〕  当初は隣の西新井と一村であったが、元禄年間(1688-1704)以前に分村し、しばらくは西新井宿村に対して当地を東新井宿村と呼んでいた。この東西の新井宿村は、日光御成街道を境として分けられ、文化3年(1806)の『日光御成道分間延絵図(ぶんけんのべえず)』を見ると、街道の東側に当村の鎮守・子聖権現(当社)と別当・多宝院、街道の西側に西新井宿村の鎮守・氷川明神と別当・宝蔵寺と云う形で、両村の社寺が街道を挟み、対面して描かれている。当社は『風土記稿』に「子日權現社 村の鎭守なり 天神山王稻荷の三神を合祀せり 多寶院持なり」と記されている。

社名の子日についてであるが、一般に旧暦10月初めての子の日には、子祭りと称して収穫祭が行われる。このことから、当社で現在10月5日に行っているお日待(ひまち)が、子の日の子祭りの名残とも考えられる。当社はまた、近在の人々からも腰から下の病、特に足の神として信仰され、古くから病気平癒の願掛けの際には鉄製や藁製の草鞋を社殿の格子に下げるのが習わしで、今でも草鞋のほか、スリッパや下駄などを奉納する人が見受けられる。〔 以下省略 〕

5. 多宝院 たほういん 13:49着 13:53発

子日神社と境内を接して多宝院があるの。と云っても、最初から知っていて訪ねた訳ではなくて、廃寺の佇まいにありながらも近年に本堂を再建していることなどが窺え、興味を覚えたの。加えて、その位置関係からして嘗ては子日神社の別当を努めていたのかも知れないわね、と云うよりも、神仏習合状態で、両者は敷地を一にしていたのかも知れず、どこかに縁起を誌した石碑でもないかしら−と思い、境内に足を踏み込んでみたと云うわけ。残念ながら期待したものは見つけられずに終えてしまいましたが、平成23年(2011)3月に再建されたと云う本堂の左手には、「奉献上 石燈籠一基 東叡山嚴有院殿尊前 延寶九年辛酉年五月八日」と刻まれた石灯籠が残されていたの。

この厳有院殿と云うのは、江戸幕府第四代将軍・徳川家綱 〔 寛永18年(1641)-延宝8年(1680) 〕 の院号で、延寶九年辛酉年五月八日と刻むことから、家綱の一周忌にあたり、奉献されたものみたいね。因みに、気になる縁起ですが、『新編武蔵風土記稿』にも「多寶院 新義眞言宗 西新井宿村寶藏寺門徒なり 戒光山と号す 本尊不動を安ず」とあるだけで、委細不明なの。

〔 道標(庚申塔)〕  川口市指定有形文化財・歴史資料 平成25年(2013)3月28日指定
この庚申塔は、文政3年(1820)11月に東新井宿村の庚申講が共同で造立したもので、道標の機能を併せ持ち、材質は安山岩で、山状角柱型石塔の正面中央に庚申塔の文字が陰刻され、上部に日月の陽刻、台座正面に三猿の浮彫、台座両側面には世話人と講員20人の氏名が刻されています。道標の銘文は、右側面に日光御成道を南へ鳩ヶ谷宿に向かう道の「南はとがや」、左側面には、御成道を北へ大門宿に向かう「北大門道」と、御成道を真乗院の手前で右折し、赤山街道千住道から日光道中千住宿へ至る道筋の「東千住道」が刻まれています。本塔は、江戸時代の重要な幹線道路であった日光御成道と赤山街道千住道の数少ない道標の一つとして貴重な文化財です。川口市教育委員会

6. 氷川神社 ひかわじんじゃ 13:54着 13:59発

〔 氷川社御由緒 〕  当地は、元禄年間(1688-1704)以前に新井宿村から分村し西新井宿村と称するようになった。近世の新井宿村と西新井宿村は今も川口市の大字として継承され、日光御成街道(県道大宮・鳩ヶ谷線)が両大字の境界となっている。当社はこの日光御成街道に面して鎮座し、すぐ隣には旧別当真言宗宝蔵寺がある。その立地から見て、当社の創建は日光御成街道が整備された江戸初期のことと考えられ、宝蔵寺の僧が関わっていたものであろう。宝蔵寺は『風土記稿』に「寛文2年(1662)6月8日寂せし源海と云僧より以上の世代を伝えず」と記されている。文化3年(1806)の『日光御成道分間延絵図』を見ると、街道の西側に西新井村の鎮守・氷川明神と別当・宝蔵寺、東側に新井宿村の鎮守・子聖権現(現・子日神社)と別当・多宝院と云う形で、両村の社寺が街道を挟み対面して描かれている。また、両社の鳥居の傍らには高札が立ち、街道を往来した人々が足を止めた所であったことが分かる。文久元年(1861)に本殿が改築され、同3年(1863)には拝殿が改築されたと伝えられる。明治6年(1873)に村社となり、明治末年までに新井宿の村社子日神社をはじめ、大字西新井宿内の雲井社・比叡社・飯縄(いいづな)社・稲荷社・姥神社の計6社が合祀された。尚、子日神社は昭和23年(1948)に復祀された。〔 以下省略 〕

車道を隔てて子日神社と対峙するかのようにして鎮座していたのがこの氷川神社で、図らずも、子日神社と多宝院&氷川神社と宝蔵寺の4者間の関係が由緒書きに記されていたと云うわけ。境内には末社の稲荷社と、同じく雲井社と天満宮が相殿する社がありましたが、合祀されたと云う比叡社・飯縄社・姥神社はどこへいっちゃったのかしらね。因みに、こちらの氷川神社の祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)・大巳貴命(おおなむちのみこと)と案内されていましたが、倉稲魂命は稲荷神のことで、早い話がお稲荷さんよね。

7. 宝蔵寺 ほうぞうじ 14:00着 14:06発

氷川神社と境内を接してあるのがこの宝蔵寺。どこかに縁起を誌した石碑でもないかしら−と境内を探しても見つからず、詳しいことは分からず終い。先程の氷川神社の由緒書きでも引用されていましたが、『風土記稿』にも「寶藏寺 新義眞言宗 西新井村總持寺末 青龍山無量壽院と号す 寛文二年六月八日寂せし源海と云僧より以上の世代を傳へず 本尊は大日を安ぜり 阿彌陀堂」とあるのみで。また、山門前には下記の案内板が立てられていたので、これも境内にあるものと思い探してみたのですが、見つからなかったの。それもそのハズ、帰宅後に改めて調べてみると、一般公開されてなかったと云うわけ。その二十一仏板碑の像容ですが、気になる方は 川口市立文化財センター で、川口の文化財 > 種類で探す > 歴史資料 と、リンクを辿ってみて下さいね。

〔 永正15年銘二十一仏庚申待供養板碑 〕  川口市指定有形文化財・平成21年(2009)5月21日指定
当板碑は、永正15年(1518)11月の銘が刻されており、宝蔵寺末寺多宝院より出土しました。庚申信仰により造立された板碑で、その特色は、本尊として21の仏・菩薩を刻んでいることです。この仏・菩薩は、比叡山麓の日吉大社を総本山とする有力社殿山王二十一社の本地仏であり、これらへの信仰を二十一仏信仰と呼んでいます。本地仏とは、神仏習合思想に於いて、神道の神の本来の姿が仏であることを意味しています。このような二十一仏板碑の分布は武蔵国と下総国との境界地帯に限定されており、本市域はその西端に当たっています。そして、山王の神使が猿であることと、庚申の「申(さる)」が結びつき、二十一仏を本尊とした庚申待板碑が当該地域に分布しているのです。当板碑は本市域の持つ地域性を如実に示している貴重な歴史資料です。川口市教育委員会

宝蔵寺の紹介の最後に、境内に咲いていた桜(だと思うのですが)をご覧に入れますね。
十月桜のような気もするのですが、違っていたらごめんなさいね。

8. 河津桜 or 江戸彼岸桜 ? カワズザクラ or エドヒガンザクラ 14:13着 14:15発

竹の下グリーントンネルの少し手前で、とある民家の庭先に植えられた桜の木に目が留まったの。訪ねたのは3月中旬のことですので、この時期に咲く桜としてはξ^_^ξは河津桜くらいしか知りませんので、ここでは河津桜と云うことにしておきますが、河津桜の一方の親種とされているエドヒガンザクラかも知れないわね。あるいは、他の品種かも知れず、その特定は御覧の皆さんの御賢察にお任せすることにして次に進みますね。

9. 竹の下グリーントンネル 14:15着発

トンネルの向こう、正面に見えている建物が川口市立医療センターになるの。隧道を抜けたところでも一本の桜が見頃を迎えていたの。さすがは「枝もの」栽培が盛んな地ね、ソメイヨシノが咲く前から、あちらこちらで満開の桜を目にすることが出来たの。梅と花桃に加えて、桜まで一度に愛でることが出来てしまう今回のお散歩コースは春先にはお薦めのコースね。

10. 花卉園 かきえん 14:18着 14:25発

付近の園芸農家の花卉園では、桜の他にも木瓜などが栽培されていたの。

11. 川口市立医療センター かわぐちしりついりょうせんたー 14:33着 14:34発

運行本数は一時間に一本と、お世辞にも利便性が良いとは云えないのですが、この川口市立医療センターを始発とする赤羽駅東口行のバスがあると云う個人的な理由から、今回の散策はこの医療センターへの到着を以て終了としているの。勿論、ここから新井宿駅にバスで戻ることも、また、川口駅や西川口駅へ出ることも、蕨駅に抜けることも出来るので、お帰りはみなさんのご都合次第。新井宿駅までなら歩いても15分余りの距離なので、健脚のあなたならバスを待つ間に歩いてしまう手もありね。更に、時間の余裕と気力 (^^; があれば、グリーンセンターと見沼代用水東縁に沿って整備されているふれあい歩道を辿りながら、妙蔵寺まで足を延ばしてみるのも一案ね。


ここでスペシャル・プレゼントよ。以前、グリーンセンターを訪ねたときの園内の様子をスライドに纏めてみましたので、興味のある方は御笑覧下さいね。But 今回の散策が梅の開花時期に合わせたものなら、紹介するグリーンセンターの訪問記は花菖蒲や紫陽花が咲く初夏のことなの。季節が異なるのが玉に瑕ですが、御容赦下さいね。

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最初に訪ねた観賞温室ではカトレアの展示が行われていたの。グリーンセンターでは昭和39年(1964)頃から栽培が始められ、昭和44年(1969)には元大正製薬会長・上原正吉氏のカトレア・コレクションが寄贈され、現在では約1,000品種4,000鉢のカトレアが育成されているのだとか。
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バードセンターではインドクジャクが見事な羽根を広げてくれたの。また、緑のアトリエ(旧・緑の展示館)では貴重な「夜の女王」の開花に御対面。サボテン温室・水生温室・熱帯温室からなる大温室では珍しい植物に出会えたの。
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ξ^_^ξが訪ねたときには、花菖蒲や紫陽花が見頃を迎えていたの。園内には他にもぼたん園やつつじ山、つばき・さざんか園、バラ園などがあり、四季を通じて楽しむことが出来るようになっているの。お出掛け前には開花情報などを忘れずに御確認下さいね。












嘗ては関東郡代を務めた伊奈家の菩提寺として寺勢を隆盛させながら、後盾を失い、お化け屋敷と呼ばれるまで荒廃してしまった源長寺。現在は先代住職の労により伽藍が整備され、境内には梅の香も漂うの。今回のお散歩は、数奇な歴史を辿ってきた源長寺のことが気になり思い立ったものですが、訪ねるのなら梅の花が咲く頃にと思っていたの。いざ訪ねてみれば、江戸時代から「枝物」を特産としてきた地でもあることから、梅以外にも、周辺の花卉農園ではハナモモやサクラなども咲いていたの。グリーンセンターにしても、その前身は戦後に造られた指導用の農園にあると云うのですから、季節毎に色々な草花が咲き乱れるのも頷けるわね。そんな新井宿の、歴史あり花あり−のプチ散歩。今度の週末にでもお出掛けになってみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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