≡☆ 川越歴史散策・川越まつり ☆≡
2014/10/18

蔵造りの町並みが続く小江戸・川越は普段でも多くの行楽客を集めて賑わいを見せていますが、毎年10月に行われる川越まつりでは絢爛豪華な山車が曳き廻されて町を極彩色に彩るの。今回は 川越歴史散策 の番外編として、その川越まつりを紹介してみますね。尚、掲載画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能ですので、気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

川越まつり

〔 川越氷川神社例大祭(川越祭)〕  川越氷川神社の例大祭は、毎年10月14、15日の二日間行われる。十数台の山車が市内を練り歩き、川越氷川祭として広く知られているものである。この祭は、慶安元年(1648)川越城主松平信綱が、御輿等を寄進したことに始まる。元禄11年(1698)に最初の踊屋台が出てから年々盛んとなり、文政9年(1826)の祭から意識的に江戸の天下祭の形式を採り入れ、各町毎に笠鉾、造り物、練子等が出るようになった。天保15年(1844)には一本柱の山車に統一されたが、文久2年(1862)にはもう二重鉾の山車が出現している。明治以後は山車と踊屋台が中心となり、大火以後は山車だけの祭になった。しかし、二重鉾の山車はいよいよ豪華絢爛となり、廻り舞台の工夫もなされた。山車の構造はもとより、人形は著名な江戸の人形師の作で、囃子は神田囃子と、全て天下祭に見られた江戸文化の伝統を残していることがこの祭の特徴で、最近は全市をあげての観光行事になっている。昭和58年(1983)3月 埼玉県

川越氷川神社(以後は単に氷川神社と略記します)の境内に立てられていた案内板の記述を転載してみましたが、お分かりのように、川越まつりは氷川神社の神幸祭がそのルーツになっているの。現在では川越市を始め、地元の観光協会や商工会議所の後援のもとに、川越まつり協賛会が主催する形にはなっていますが、氷川神社の祭礼であることに変わりなく、山鉾巡行は氷川祭の山車行事として、平成17年(2005)には国の重要無形民俗文化財に指定されているの。

川越まつりの開催日ですが、説明には「毎年10月14、15日の二日間」とあるのですが、最近は日にちにはこだわらずに、10月第3土・日曜日に行われているの。土日も仕事だぜ−と云う方は別ですが、お休みの日なら気兼ねなくお出掛け出来るのでうれしいわよね。開催スケジュール等、詳しいことは 川越まつり公式サイト を御参照の上でお出掛け下さいね。

役に立つか立たないかは別にして、各画像毎に短いコメントを付記しておきました。併せて、隠し画像を随所に散りばめておきましたので、是非クリックの上でお楽しみ下さいね。それでは、御一緒にお祭り見物に出掛けましょうね。

最初に目にした仲町の山車ですが、鉾上には見慣れぬ姿形をした羅陵王が立つの。羅陵王は古代中国(北斉)の皇族出身の武将・高長恭(541-573)の王号で、長恭は戦陣に出撃すれば勇猛果敢にして戦功著しく、後に主君の猜疑心を生むほどだったの。一方で、才色兼備ならぬ音容兼美の名将としても知られ、女性的とも云える美貌と、併せて美声の持ち主でもあったの。それが故に、兵士達が見惚れて士気が上がらず、また、敵勢に侮られては−と、出陣の際には獰猛な仮面をつけて戦陣に赴いたとされているの。史実としては、当時の多くの武将が防御用に鉄製の仮面を被っていたことに併せ、猜疑心から主君より服毒死を命ぜられて亡くなるなど、貴種流離譚とも云える境遇から後に羅陵王の名の許に伝説化されたみたいね。と云うことで、ξ^_^ξ個人としては仮面の下の素顔が大いに気になるところですが、次回開催時には素顔の羅陵王像を誰か用意してくれないかしら。

次に上って来たのが御覧の連雀町の山車ですが、主君から服毒死を命ぜられた羅陵王を掲げた山車との対面直後に太田道灌像を掲げる山車に出会うとは、ちょっとニュアンスが違うけど、類は友を呼ぶの世界ね。と云うのも、文部両道に秀でた太田道灌もまた嫉妬と猜疑心から主君の上杉定正に謀殺されているの。それはそうと、本来なら鉾上にあるべき太田道灌像が見当たらないの。実は、空中を這い伝う電線やケーブル類が邪魔して鉾上げ出来ずにいるの。一方で、仲町交差点から北側の蔵造りの町並みが続く一番街は、伝統的建造物群保存地区に指定されたこともあって平成4年(1992)には電線の地中埋設化を終え、二重鉾を迫り上げての巡行が可能となっているの。勿論、一番街以外の場所でも巡行に支障をきたす電線やケーブルが無ければ人形を掲げた勇姿を観ることが出来るのですが、巡行見物の際には電柱有無の事前確認が必須かも知れないわね。

沿道には御覧のような特設の囃子台を見掛けることもありますが、事情で山車をお祭りに参加させることが出来ない場合などに設けられる居囃子台なの。お囃子も舞も折角練習してきたのにお披露目する機会が無くては残念よね。幟提灯には住吉囃子連とあるので末広町が設けた居囃子台みたいね。本来なら末広町も高砂を掲げた山車を曳いてお祭りに参加するハズなのですが、それはさておき、五人囃子にしても舞い手にしてもこの日は年に一度の晴れ舞台。白髪の天狐も跳んだり跳ねたり−と大いにお祭りムードを盛り上げてくれるの。その様子を四コマ漫画風に纏めてみましたので御笑覧下さいね。But スライドは完全マニュアル動作ですので御協力下さいね。

歩みを進めると前方右手に埼玉りそな銀行川越支店の瀟洒な建物が見えて来ますが、その前で二基の山車が縦列駐車(笑)していたの。下掲がその山車ですが、何と二基とも幸町のものだったの。新造するとなると一基あたり二億円!は下らないだろうとされる山車を二基も保有するなんて、幸町は何てリッチな町かしら−と思いきや、元は南町と鍛冶町に分かれて夫々が保有していたみたいね。因みに、手前側が元・鍛冶町の「小狐丸(こぎつねまる)の山車」で、後に続く山車が元・南町の「翁(おきな)の山車」になるの。小狐丸は霊狐で稲荷神の化身だそうよ。余談ですが、山車の車輪を新調したところ何と一本 ¥1,200,000 も掛かったそうよ。エ〜ッ、車が買えちゃうじゃない。

蔵造りの町並みが終わる札の辻交差点で目にしたのが元町一丁目の「牛若丸の山車」なの。牛若丸は御存知のように義経の幼名よね。なので改めての説明は不要よね。代わりに、川越まつりに登場する山車の特徴についてお話してみますね。川越は小江戸を冠して呼ばれるように、江戸の香りを色濃く残しているの。山車もまた然りで、その多くが江戸型と呼ばれる構造をしていて、二層の鉾の上に人形(御神像)が乗る形を採るの。

更に、その二層の鉾がエレベーター式に上下する仕組みになっているのですが、本来は城の門をくぐるための仕掛けだったの。嘗ては天下祭として知られた神田祭(神田明神)や山王祭(日枝神社)でも多くの山車が巡行し、将軍に拝謁するために江戸城に入ることが許されてもいたの。鉾が迫り上がる構造はそのためには無くてはならない仕組みだったと云うわけ。時を経て、江戸から東京へと変わると町の様相も一変し、街中に市電が通るようになると、背の高い山鉾の巡行は更に難しさを増し、替わって御神輿が祭りの主役になっていくの。行き場を失った山車は各地に譲渡されるようになり、この川越でも多くの山車が引き取られているの。だからと云って当時の姿をそのまま留めているわけでもなくて、欄間形式の囃子台を唐破風のものにしたり、回り舞台に改造するなど、手が加えられているの。明治以降に新たに造られたものも含め、元々は江戸のそれに倣う形で作られていたものが、今では独自の進化を遂げ、唐破風の囃子台と回り舞台を併せて江戸系川越型山車の特徴の一つにもなっていると云うわけ。

ここでお祭り見物を中断して神幸祭の模様をお伝えしますね。と云っても神幸祭もまた川越まつりのイベントの一つなのですが。と云うよりも、川越まつりのルーツがこの神幸祭にあり、本来のお祭りの姿でもあるの。この神幸祭に先立ち、氷川神社では例大祭が執り行われるのですが、例大祭は産土神を迎えて感謝と祈りをする神事でもあるの。産土はうぶすなと訓み、うぶは産なり則ち土なり−と云うことで、生まれた土地に宿る神さまを指し、氏神さま、或いは地域の人々の共通の守護神として祀られるようになるの。その例大祭後に行われる神幸祭では、氷川神社の産土神が神輿に乗って町中を練り歩き、その姿を目にした人々はその御神徳に感謝し、五穀豊饒や日々の幸せを祈願していたの。その御神幸に付き従う形で町衆が山車や屋台を繰り出して随行したのが祭礼の始まりで、現在の山車行事へと発展したの。神幸祭が祭祀なら、祭礼は神さまと人との交歓行事と云うわけ。

因みに、神幸は掘書店刊『神道辞典』に依ると「神輿・鳳輦などに駕御され、神職供奉、氏子などが榊・旛旗・神宝の類を捧持し、古例の服装、または礼装に威儀を正して供奉するのが普通である」とのこと。まさに、時を超えて定石通りの時代絵巻が目の前に繰り広げられていると云うわけ。それに、川越氷川祭の山車行事が国重要無形民俗文化財に指定された決め手になったのが他ならぬこの神幸祭の存在みたいよ。『神道辞典』には引き続き「その道筋も慣例により一定し、みだりに変更を許さない」とあるの。ならば、事前に決められたルートの変更はあり得ないわね−と云うことで、時の鐘を素通りして市民会館入口側に先回り。神幸祭の追っかけをしてみたの。

その市民会館入口側での神幸の様子が気になる方は こちら を御笑覧下さいね。
スライド風にまとめてみましたが、絵的にはダントツで蔵造りの町並み側がお勧めよ。

その神幸祭の一団に随行して山車行列が続いたの。その山車行列がどこへ向かうのかと云えば川越市役所の庁舎前広場で、他のルートを経由して集まり来たものも含めると広場には最終的に9基もの山車が勢揃いしたの。

川越市民の何10倍、否、何100倍もの見物客が集まったのではないかしら−と思わせるような人混みを縫うようにしてようやく川越市役所の本庁舎前広場に辿り着いたのですが、人、人、人の波に加えて、背景となる庁舎が生憎の改装工事中とやらで無粋な防音幕に覆われていたの。脳天気な旅人の我が儘を云わせて貰えば、せめてお祭りの期間中だけでも何か見た目を良くする手立てがなかったのかしらね−と云うのが正直な感想ね。それはさておき、9基もの山車が勢揃いしたさまは、やはり圧巻よね。鉾上に立つ人形の単独画像をアップおきましたので、気になる方はクリックしてみて下さいね。

川越まつり 鉾上の人形ばかりに目がいってしまいますが、囃子台での演舞やお囃子も山車巡行の見どころ・聞きどころよね。ここではオカメ、ヒョットコ、天狐の舞などを短く纏めてみましたので御笑覧下さいね。途中からはそれぞれの山車が「猩猩の山車」に仁義を切るところよ。要は「曳っかわせ」なのですが、さすがは川越市所有の山車よね、多くの山車が「猩猩の山車」にお囃子を披露してから街中に散るの。と云うのはξ^_^ξの創り話ですが、その「曳っかわせ」も連続写真風に纏めてみましたので、気が向いた方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。 Festival-s02.mp4
Time:00:06.21

CoffeeBreak

街中に散った山車は街角で居囃子を披露するなどして宵山の出番を待ちますが、ξ^_^ξもその時間を利用してぶら歩きしてみたの。お腹も空いたことだし、露店めぐりに加えて暫時の休憩タイム。下掲はそのときに見掛けた「日本武尊の山車」と、休憩中(路上駐車中とも云う)の「牛若丸の山車」の化粧板に彫り込まれていた彫刻なの。お祭りを離れて、しばし逸話の世界に遊ぶなどしてみなさんも宵山までの暫時の休憩タイムをお楽しみ下さいね。

そして、陽が西に傾き始めると再び川越の街が色めき立ってくるの。もう、ここまで来ると改めての説明など不要よね。山車巡行の模様をドド〜ンとアップしておきますのでご随意にお楽しみ下さいね。

埼玉りそな銀行川越支店の前では・・・

ここで居囃子を終えて巡行モードに入った「小狐丸の山車」の後を少し追ってみることにしたの。一番街の北端・札の辻交差点を過ぎても更に北に向かうので、どこまで行く気なのかしら−と思っていると、ふと東に進路を変えて脇道に入ったの。

川越歴史散策 で勝手知った街の地図を思い浮かべてみると、向かう先には氷川神社があることに気付いたの。何か、面白そうなことが起こりそうな予感がするわ、見届けなくてはいけないわね−と云うことで、追っかけを続けたの。結果、氷川神社の鳥居前では「日本武尊の山車」との曳っかわせに遭遇し、奉納囃子を観ることも出来たの。その曳っかわせにしても神前で行われるだけあって、どちらの山車にも気合いが入っているの。勿論、奉納囃子は他の場所では観ることが出来ない貴重な体験よね、お出掛けの際には是非、足を向けてみて下さいね。

ここで奉納囃子の様子を少しですが紹介しますね。

奉納囃子 折角だもの、音声付きの映像が見たいわよね。そこで、ちょこっとだけ動画を撮って来ましたのでアップしておきますね。御覧になりたい方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。但し、グリコのオマケモードですので画質は期待しないで下さいね。

20:00を過ぎて、宵山も愈々クライマックスを迎える時間帯となるのですが、残念ながら川越と離れて暮らす身にはそろそろ帰宅時間でもあるの。川越まつりのご案内の最後に、川越駅に戻る道すがらの様子を掲載して THE END としますね。
Festival-s03.mp4
Time:00:01.52

















いかがでしたでしょうか、お楽しみ頂けましたでしょうか?川越まつりは一年に一度の限られた日にしか見ることが出来ませんが、絢爛豪華な山車が街中を巡行するさまはやはり圧巻よね。嘗ては江戸の天下祭と呼ばれて隆盛を見た山鉾巡行が江戸の町から姿を消して久しい今も、この川越では江戸のそれを今に伝えているの。提灯に明かりが灯され、宵闇に山車の姿が浮かび上がる頃になると、懐かしいお囃子の音色と共に、艶やかな彩りが街中に甦るの。それは忘れかけた日本人の心の原風景かも知れないわね。みなさんも是非一度、お出掛けになってみて下さいね。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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どこにもいけないわ