≡☆ 小江戸・川越のお散歩 Part.2 ☆≡
 

散策の後半は川越夜戦の舞台として知られる東明寺を始め、市街西側に点在する寺社を訪ねてみたの。補:掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。但し、スライドは完全マニュアル動作ですので御協力下さいね。(^^;

川越寺社めぐり〔 後編 〕

10. 東明寺 とうみょうじ 12:22着 12:34発

東明寺は、時宗( 開祖一遍上人 )の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩である。お寺の位置は、川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。この辺りからは、新河岸川を境として川越の町の北側を入間川を主流とする分流が幾筋も流れ、水田地帯を形成しており、古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団が存在した。東明寺は、こうした土豪の一人河越氏の荘園の東端に連なる広い寺領を有していた。その寺領は、東明寺村・寺井三ヶ村・寺山村などに及び、広大な境内を有して、その惣門は今の喜多町の中ほどにあったと伝えられている。このことから、喜多町の古名を東明寺門前町と称したと云われている。天文15年(1546)4月に戦われた上杉、北条軍の川越夜戦は、一名東明寺口合戦と云われ、この地の要路・松山街道を含んだ東明寺寺領と境内で争われたものである。昭和57年(1982)3月 埼玉県

訪ねてみれば、往時の隆盛今いずこ−と云うのが正直な感想ですが、嘗ての寺領と云うのがすごいの。案内板の説明では東明寺村・寺井三ヶ村・寺山村などに及び−と、さらりと済ませていますが、東明寺村だけでも現在の志多・神明・宮元・御成・城下町からなる地域に相当し、全体としては西は寺山、北は府川、東は伊佐沼にかけての地を寺領としていたと云うのですから半端じゃないわね。出来ましたらお手許の地図等でお確かめ願いたいのですが、その広さを頭に入れておかないと「東明寺寺領と境内で争われた」と云う川越夜戦のスケール感が伝わらないの。その川越夜戦とやらですが・・・

天文6年(1537)の戦いで、北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上杉憲政、古河晴氏と連合して総勢八万余騎を以て、同14年(1545)10月に川越城を包囲した。一方、福島綱成の率いる城兵は、僅か三千で立て籠もっていたが、翌15年(1546)には既に食糧も尽きて非常な苦戦に陥っていたところ、北条氏康が八千騎を率いて援軍として駆けつけ、4月20日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。これに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので、東明寺口を中心に激しい市街戦となった。多勢をたのんで油断しきっていた上杉・古河の連合軍は、北条方の攻撃に耐えられず散々となって松山口に向って敗走を始め、この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ち延びたと伝えられている。敵に比べて問題にならないくらい少ない兵力で連合軍を撃滅したこの夜戦は、戦略として有名である。昭和58年(1983)3月 埼玉県

参道を進むと大公孫樹の傍らに鳥居が建つのが見えて、お寺の境内に神社があるなんておかしいわね、どんな神さまが祀られているのかしら−と社殿の隙間窓から中を覗かせて貰ったの。それがこの稲荷社で、嘗ては東明寺稲荷と呼ばれ、【入間郡誌】に依れば「東明寺の本尊(虚空蔵菩薩)を荷い来たりし赤白二匹の狐」を祀るものだったみたいね。その東明寺稲荷が祀られていたとされる塚ですが、元々は古墳だった可能性が大のようね。現在の地勢からは知る由もありませんが、東明寺の周辺には在地豪族の古墳が多くあり、その一つの「塚穴に老狐の住みし巣ありて それ故に塚の上に稲荷を祀」ったのが始まりみたいよ。

残念ながら室町期の戦禍を受けて古記録の類を焼失してしまい、詳しいことは分からないのですが、遊行寺第二世の他阿真教上人がこの東明寺を開基する以前に、既に前・東明寺とも云うべき寺院が存在していたのでは−とする説もあり、稲荷社が祀られたのも案外その頃のことなのかも知れないわね。【風土記稿】には

稻荷諏訪天滿宮三社 塚上にあり この塚は天文十五年當所夜軍の記に 難波田弾正が東明寺口の古井に陷て死せしと見えたるは 此所にて廢井を埋みてその上へ築きし塚なりと云 三社の内諏訪明神は 難波田が靈を祀りしなりと云 この塚のわたり七間ばかりもあるべし 又云寳暦の頃まで境内の南の方に塚ありしを 住僧隠宅をつくるとてその塚をこぼちしに 髑髏四五百ばかり出たりと云 この諏訪の社もその塚の上に建てしなりとぞ よりておもふに難波田が落いりし井戸も 今の所にてはあらざるか

とあるの。今となっては元の鎮座地も分からなくなってしまいましたが、時を経て現在は三社合祀の上でこの地に遷座していると云うわけ。因みに、東明寺の山号・稲荷山はこの稲荷社に由来しているの。

〔 虚空蔵菩薩 〕  鎌倉時代以前に創立されたと云われる当山、稲荷山称名院東明寺の本尊は虚空蔵菩薩です。この菩薩は智慧と福徳を大空(虚空)のように無尽蔵に持つところから虚空蔵菩薩と名付けられた。わが国では平安時代から信仰され、求聞持法(ぐもんじほう)と呼ばれる、頭脳を明晰にし記憶力を増すための修行をするときの本尊ですが、後世になって、一般大衆に広く仏教が広まるに従い、福徳の面が一層強く信心されるようになり、現在のように学問と福徳を授ける菩薩として広く崇敬され、信仰されるようになった。尚、この菩薩は、十三仏の一仏で、十二支の丑寅生まれの方々の守り本尊でもあり、亦、毎月十三日が縁日です。〔 一部修正加筆 〕

11. 広済寺 こうさいじ 12:37着 12:55発

次ぎに訪ねたのがこの広済寺ですが、蔵造りの町並みが続く観光メインストリートの延長線上にありながら、それも300mと離れずしてあるにも関わらず、訪ね来る人を見掛けたことがないの。But いざ訪ねてみれば、境内には腮無(あごなし)地蔵尊や嚏(しゃぶき)婆塔など、ユニークで、お面白いもの(そう思うのはξ^_^ξだけ?)が残されているの。車道から少し奥まったところに山門が建ち、堂々とした造りは上級武家屋敷のそれを思わせますが、それもそのはず、この広済寺は当時の川越城主・大道寺駿河守政繁が菩提寺として建立したものなの。山門の先に見える本堂にしても入口屋根は唐破風で、伽藍は後世に再建されたものとは云え、血脈の良さを今に伝えているの。

残念ながら境内には縁起を記すものは何も無いのですが、【風土記稿】には「曹洞宗 多磨郡根ヶ布村天寧寺末 鷹山慈願院と號す 寺傳によるに昔大道寺駿河守政繁當所在城の頃 世々の菩提寺として起立し 僧廣庵芸長を開山とす 時に天文17年(1548)8月20日なり 此後芸長久しく住して天正元年(1573)6月6日寂す 政繁は同18年(1590)7月19日歿せり 其後上州の人本田右近親氏と云もの中興す 元和4年(1618)11月14日親氏歿して證眞院其阿經範と諡す云々」とあるの。天寧寺(青梅市)は当時から曹洞宗の名刹と知られ、芸長はその第五世だったの。その芸長を開山に迎えているのですから、政繁にも余程の拘りがあったのかも知れないわね。まさか力づくで連れて来た (^^; 訳でもないでしょうし、その経緯や背景が気になるところね。

そんなことから歯の病を取り除き、歯痛に霊験灼かなお地蔵さまとして人々の信仰をあつめるようになったものだそうよ。一方の嚏婆塔は荒縄や紐でがんじがらめに撒かれて縛られ地蔵の趣きですが、嚏は訓読みでは「くさみ」と読み、くしゃみや鼻づまりを意味するのだそうよ。なので、この嚏婆塔も「おしゃぶきさま」ね。古来より珍しい姿形や紋様などがある石には神霊が宿ると信じられ、石が「しゃく」とも訓めることから癪に通じ、咳止めや風邪に霊験ありとされたの。ふきは吹きのことで、烈しく咳き込む様子を指したものでしょうから、おしゃぶきさまを漢字混じりにすると御癪吹きさまと云うところかしら。

替わって山門左手には御覧のように立派な石鳥居が建てられていたの。あれ〜変よね、お寺の境内なのに何でこんな立派な鳥居があるの?これじゃあ完全に神社じゃないの−状態。その鳥居を抜けると、これもまた立派な社殿が建てられていたの。寺側では金毘羅堂と称してはいますが、提灯には金毘羅大神とあり、今以て神仏混淆状態にあると云うことね。金毘羅は金比羅・金刀比羅などとも書かれますが、讃岐国(現・香川県)の金刀比羅宮(琴平神社)に祀られる祭神で、本来は海上安全の守護神なの。現在は大物主命を祭神としますが、明治期の神仏分離以前は象頭山金刀比羅大権現と称していたの。

琴平神社の背後にある象頭山は古来より瀬戸内海を航行する漁民達の信仰を集め、航海の無事を祈願していたのですが、後に仏教が伝えられ、現在の琴平神社が建つ地に松尾寺が創建されると、象頭山の海上守護神が金毘羅神に習合されて寺院の守護神にされたの。金毘羅はサンスクリット語の Kumbhira の音訳で、元々はガンジス川に棲む鰐を神格化したものと云われているの。その金毘羅信仰が為政者や讃岐地方の有力者の庇護を受けて隆盛し、江戸時代には金毘羅参りがお伊勢参りと並んで庶民の間でも広く行われるなど、全国的な信仰を集めたの。

その金毘羅神も明治期の廃仏毀釈からその多くが大物主命に姿を変えさせられたのですが、この広済寺では今もなお神仏習合状態にあるというわけね。現在の建物は焼失・再建等を経て、平成14年(2002)の修復工事では江戸時代末頃のものに復元されたのですが、当初の建物はその棟札から同じ江戸時代でも安永9年(1780)の創建であることが分かっているのだそうよ。これは門外漢の勝手推論モードでしかないのですが、金毘羅参りの流行に合わせて金毘羅神が当地に勧請されたのかも知れないわね。因みに、左掲は谷文晁が描いた向拝の天井画なの。文晁と云えば当時の江戸画壇の第一人者よね。そこからは当時の川越の人々の財力の程が窺えるわね。

〔 中島孝昌墓 県指定・旧跡 〕  中島孝昌は幼名を徳三郎と云い、のち徳右衛門と改め、家業を継ぐと共に五代目絹屋与兵衛を名乗り、川越鍛冶町の名主役を務めた。極めて好学の人で海保青陵や伊藤恒庵について学び、字を済美、諱名を孝昌と唱えた。和歌、俳諧をよくし桜斉其馨(きけい)・酔春亭・桜曙園などと号し、また狂歌を鹿都部真顔に師事し、桜戸の茂躬(しげみ)・栗下庵などと云った。更に川越の地誌として最も秀れた【三芳野名勝図絵】三巻を著わし、後人を裨益するところ多大なものがあった。文化5年(1808)正月10日、43歳で歿した。広済寺の墓石には「啓宗其馨居士」とあり、「消えてこそまことなりけり雪仏」と云う辞世の句が刻まれている。平成5年(1993)3月 川越市教育委員会

御案内が前後してしまい恐縮ですが、車道に面して建つ門柱脇の石塀には「天狗の羽団扇絵」が彫り込まれているの。何でそんなもの (^^; が描かれているのかと云えば、川越で火事がおきると、決まって広済寺の老杉に天狗が現れ、手にした羽団扇(はねうちわ)で火の手を遮り、火災から町を守ってくれたと伝えられているの。それが「広済寺の天狗さま」のお話ですが、広済寺を後にする前に、少しだけ耳をお貸し下さいね。(^^;

むか〜し昔のお話しじゃけんども、その頃は未だ川越も蔵造りの町並みじゃのおて、ちょっとでも火が出ると途端に燃え広がって大火事となるもんだで、皆困っておったそうじゃ。その頃の広済寺じゃが、当時の境内は今と違って鬱蒼とした木々に覆われておってのお、中でも一際高い老杉が聳え立っておったそうじゃ。何でもそこには天狗さまが住んでおったということじゃが、ある年のこと、町中からパッと火の手があがって、あわや大火になろうとした時のことじゃったそうな。老杉の梢に天狗さまが現れると、手にした羽団扇で風をおこして火の手を町の外へと追いやってしまったそうじゃ。それからと云うもの、川越の町で火事がおきるというと、決まって広済寺の天狗さまが現れて火災から町を救ってくれたと云うことじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

広済寺を後にして次へと向かいましたが、今回の散策では蔵造りの町並みを避け、西側に点在する寺社を訪ねてみたの。蔵造りの町並みについては小江戸・川越のお散歩 Part.3 で御案内していますので、御笑覧下さいね。CM でした。

12. 大蓮寺 だいれんじ 13:00着 13:06発

この大蓮寺ですが、【風土記稿】には「來迎山紫雲院と號す 開山は本山(蓮馨寺)と同人(鎭蓮社感譽存貞上人)にて 開基は大道寺政繁が母蓮馨尼なり 本尊は彌陀三尊坐像にて 長三尺ばかり 首のみは惠心の作なりと云」と記されているの。当時川越城に在城していた大道寺駿河守政繁の御母堂・蓮馨尼が永禄10年(1567)に没するのですが、その菩提を弔うために感譽存貞上人が蓮馨寺建立の後、この大蓮寺を創建したと伝えられているの。その感譽存貞上人ですが、蓮馨寺の項には「大道寺某の姪」とあるの。この某が誰を指すのかξ^_^ξには分かりませんが、開山・開基ともに大道寺一族とあれば私寺として開創されたものと云っても過言では無いわね。

境内右手には地蔵尊を祀るお堂が建てられているの。扁額には子育延命地蔵尊とあるので、安産や子育に御利益のあるお地蔵さまとして信仰されてきたものね。医療技術が発達した今日では考えられないかも知れませんが、当時は出産で命を失うこともあり、まさに命懸けでもあったの。ようやく産まれ来た乳幼児にしても然りで、新たな命を宿したお母さん達は、わが子が無事に生まれ来ることを願い、あるいは健やかな成長を願い、このお地蔵さまの前で頭を垂れていたのでしょうね、きっと。ところで、【風土記稿】には他にも太子堂を初めとして八幡社・三峰社・秋葉金毘羅社の名をあげているのですが、どこへ行ってしまったのかしら?

13. 六塚稲荷神社 むつづかいなりじんじゃ 13:08着 13:12発

新河岸川に架かる高澤橋東詰に位置してこの六塚稲荷神社があるの。境内には由来を記すものが何も無いのですが、【風土記稿】には「六塚稻荷又六丘稻荷とも呼ぶ 相傳ふ昔太田道眞この地に住せし時 荒野を開かんとして 古丘六つを穿崩して そのあとへ稻荷六社を建てしが 其後五社をば廢してこの一社に合祀すと 又云さにはあらず 道眞當所在城の頃 建立せし六所の稻荷と云は 今も猶存せり それは同心町・本町・志義町・城内下川又左衛門が屋敷の内・うき島以上の五社と當社とをあわせて六社なり ゆへに六塚の名ありといへり」とあるの。

先程、東明寺の項でも触れましたが、当地には在地豪族のものとされる古墳が多く点在していたことを考え合わせると、塚はその古墳のことだと思うの。真偽如何は御覧の皆さまの御賢察にお任せですが、感覚的には前者に利がありそうな気がするわね。(^^; 因みに、この六塚稲荷神社ですが、六軒町にもあるの。場所としてはカトリック教会の北側よ。ξ^_^ξが知る限りでは菅原町にある菅原神社の境内にも末社として鎮座しているの。その六塚稲荷社にしても後世に遷座してきたもので、元々は朝日生命ビルが建つ辺りにあったと云う塚の上に祀られていたものだそうよ。創建も天文18年(1549)のことだと云うの。案外探せば他にもあるのかも知れないわね。

社殿の右手には鳥居の先に末社の琴平・三峰・八幡神社の三社が並び建ちますが、それらとは別に、一社だけ離れて境内の片隅に鎮座する社を見つけたの。右端がその社で四塚稲荷神社とあるの。六塚稲荷神社の境内に四塚稲荷神社があると云う摩訶不思議。何だかな〜よね。常識的には合祀してしまうのが普通じゃないのかしら。それを敢えて合殿とはせずにいるには何か特別の事情がありそうよね、それとも他に何か・・・。それにしても、四だの六だのと出てくると分からなくなってしまうじゃないの。(^^; 分からないと云えば、左掲の「懐中石」とやらも使途不明の代物で、こんなに大きな石を懐に入れるなんて出来ないわよ。何なの、この石?−状態よ。

14. 本應寺 ほんのうじ 13:16着 13:23発

高澤橋を渡ると右手に本應寺があるの。【風土記稿】には「日蓮宗 甲斐國身延久遠寺末 長久山と號す 元は江戸谷中感應寺末にて 此邊の觸頭なりしが 當山七世日容の時より身延に屬す 開山日春寛永3年(1626)草創し 感應寺の日長を勧請して開山とす云々」とあり、寛永3年(1626)の開創を記しますが、寺側では元和元年(1615)の創立とするなど、若干の差違があるの。それはさておき、盛時にはこの本應寺から小湊誕生寺や身延山久遠寺の法主に転任するケースもあり、高僧を輩出する格式のある寺院だったみたいね。明治期に吸収合併する形で本應寺に統合されてしまいましたが、嘗ては塔頭として圓乗坊・眞善坊・東漸坊・西之坊の四坊を抱えるなど、隆盛したようよ。

その塔頭の一つ、圓乗坊ですが、【風土記稿】には気になる記述があるの。「讀經祖師坐像八寸なるを安ず 是は比企郡松山の城主に仕へし長澤某が持し像にて 天正18年(1590)松山落城の時 彼長澤は遁れ来て河越鴨田村に住せり 其後厨子の扉を釘もて打付此寺に納めしに 或時厨子の内にて讀經の聲有ければ 圓乗坊偶開き見て始て祖師なることを知る 因て讀經祖師と號し 其後は人の拝することも許せり」とあるように、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い松山城が落城すると城主・上田周防守憲定の一族も滅亡するのですが、上田氏に仕えていた長澤久右衛門がこの川越に落ち延びてきたの。その時携えていたのが上田家から託されたと云う祖師像だったの。今は亡き主君のため、上田家一族のためにと、時節到来をひそかに願い、ようやく長久山本應寺を創建したと伝えられているの。山号の長久山は長澤久右衛門の名に由来すると云うわけ。

あれ〜変よね、本應寺の開山を日春&日長上人と記しながら、一方で長澤久右衛門に依る創建が窺えるなど、食い違いがあって良く分からないわね。圓乗坊が塔頭であることからすると本應寺の方が先に創立されたと考えるのが順当ですが、これでは圓乗坊が先に開創されていたような印象を受けてしまうわよね。それとも「厨子の扉を釘もて打付此寺に納めしに」とあることから、前・本應寺と呼ぶべき僧堂の類が既に存在していたのかしら?

上記は単純にξ^_^ξの理解が足りないだけかも知れないので、余り深く追究しないで下さいね。
時系列を含め、詳細は御覧の皆さまの御賢察にお任せモードよ。

〔 一切経蔵 〕  川越の蔵造り様式に基づくこの建物は、一切経蔵と云う。中には輪蔵と呼ばれる、八角形・極彩色の回転する経蔵が奉守され、その内部にお釈迦さまが説かれた経典の全てが大切に格護されている。重要文化財として申請中の、古く珍しい貴重な宝物である。輪蔵に納められている経典は、身延山法主で日蓮宗の初代管長・新居日薩上人所蔵本で、縁あって明治初年当山第22世智定院日延上人の代に格護することとなり、この一切経蔵もまたその時全檀徒の寄進を受けて建立された。爾来百有余年、風雨に極度に破損せしを日蓮聖人御入滅第七百遠忌御報恩記念事業の一端として大修復工事に着手し、昭和53年(1978)7月、その完成をみたものである。昭和53年(1978)8月13日 長久山本應寺

〔 高山繁文墓 〕  高山伝右衛門繁文は川越城主秋元喬朝の家臣で国家老を務め、殖産興業の方面で功績を残している。また、俳号を麋塒(びじ)と称し、松尾芭蕉の門人であった。川越転封前は甲州谷村にいたが、芭蕉庵を火事で失って甲州に来遊した芭蕉の世話をしたことが近年になって判明した。麋塒の句には天和2年(1682)の「武蔵曲(むさしぶり)」と同3年(1683)の「虚栗(みなしぐり)」に各5句、貞享4年(1687)の「続虚栗」に一句が知られ、真跡の短冊も4枚ほど残っている。66歳のとき剃髪して幻世と号を改0め、享保3年(1718)2月7日享年70歳で世を去った。墓碑に融心院幼世常爾居士と誌されている。平成2年(1990)2月 川越市教育委員会

15. 濯紫公園 たくしこうえん 13:25着 13:32発

〔 濯紫公園(たくしこうえん)の由来 〕  昔、ここに柳沢吉保の家臣・山東小市郎の別荘があり、濯紫園(たくしえん)と呼ばれる大変美しい庭園がありました。その後、唯心と云う僧がここで唯心庵を営んでいました。明治2年(1869)には水村氏により水車が造られ、この水車は通称・いおりの水車と呼ばれ、人々に親しまれていました。いおりの堰の上流側は子供達の絶好の水泳や水遊び場だったそうです。その後、新河岸川周辺の農地には住宅が建ち並び、水車も必要とはなくなり取り壊され、川も改修工事によって現在の姿になりました。この公園は新河岸川の親水拠点として地元の人々と行政が協力し、川と公園を一体的に整備したものです。この公園の名は嘗ての濯紫園に因み、濯紫公園としました。平成元年(1990)3月

この濯紫公園ですが、休憩を兼ねて立ち寄ってみたの。訪ねたのは休日のことなのに、園内にはお掃除をされている方以外には人の姿が無くて。目の前を新河岸川の疏水が流れ、ちょっとした癒やしの空間になっているの。町中の喧騒を離れ、ほっと一息つくには恰好の場所ね。望むらくは、清流とまではいかなくても、水遊びが出来る位の清らかな水の流れが欲しいところね。

16. 観音寺 かんのんじ 13:37着 13:43発

新河岸川に架かる高澤橋の東側に位置してこの観音寺があるの。【風土記稿】には「天台宗 東叡山(上野・寛永寺)の末 高澤山妙智院と號す 開山長盛寛永18年(1641)12月朔日寂す 本尊正観音は立像にて長七寸二分 弘法大師の作 左右に百観音を安置せり 大日堂 大日は坐像にて長一尺二寸 これも弘法大師の作なり云々」とあるのですが、寺伝に依れば、その開創は更に時代を遡った平安時代初期の大同2年(807)のことで、諸国を巡錫していた弘法大師が当地に訪ね来た際に創建したものとしているの。開山の長盛上人にしても中興開山なの。But 弘法大師云々は寺格を高めるために後世に付与されたものと考えた方が良さそうね。(^^;

〔 石原のささら獅子舞 県指定・無形民俗文化財 〕  由緒の明らかな川越地方を代表する獅子舞で、本来は4月の18日に演じられていたが、最近では隔年の4月の第三土・日曜日に行われている。慶長12年(1607)が始まりと伝えられ、寛永11年(1634)川越城主・酒井讃岐守忠勝が若狭国小浜に国替えになった時に、雌雄二頭を連れ去り中断してしまったが、宝永6年(1709)に、高沢町(現・元町二丁目)の井上家より獅子頭が奉納され再興された。この獅子舞の曲目は12切という12の部分からなり、先獅子(雄)中獅子(雌)後獅子(雄)の三頭が軍配を持った天童に誘導され、笛太鼓に合わせたササラッコ(花笠を付けた少女4人)のささらの伴奏で舞う。

中でも、二頭の雄が咬み合いを繰り返しながら雌を争う場面は、最も特色ある場面である。本来は、17日はソロイと云って練習の総仕上げをする。18日には観音寺で一庭奉納し、次に町内廻りに出て町境で一庭舞う。夕方になって井上家に上がり一庭、終わって観音寺に戻り半庭舞った後「千秋楽」をあげて終わる。川越市教育委員会

東日本各地で行われる「ささら獅子舞」ですが、何と、そのルーツはこの観音寺にあるみたいね。慶長12年(1607)、開山の長盛上人が「ささら獅子舞」を考案し、観音祭のときに披露したのが始まりで、恒例行事として継続されるようになったの。酒井重忠以降、川越城歴代城主もこれを厚く保護し、城内でも演舞されるようになったそうよ。各地に伝播した「ささら獅子舞」も、現在では信仰的な意味合いが薄れてしまった感がありますが、獅子は観世音菩薩の威神力の象徴で、三頭の獅子はそれぞれ悪魔除・安産・子育に対する観世音菩薩の慈悲深い妙智力を表したものだとか。因みに、簓(ささら)とは、竹先を細く割って束ねたリズム楽器のことなの。音出しはその竹を両手に持ち、互いにこすり合わせて行うのですが、ことばだけでは分からないわよね。気になる方は、隔年の4月の第三土・日曜日に行われると云う「石原のささら獅子舞」をご観覧下さいね。(^^;

「越生の散策−越生梅林梅まつり」の 梅園神社 の項では埼玉県越生町に伝わる「ささら獅子舞」を紹介しています。石原のものと丸っきり同じと云う訳ではありませんが、多少は参考になると思うの。少なくても簓の姿形だけはお分かり頂けますので、よろしかったらお立ち寄り下さいね。CMでした。(^^;

17. 見立寺 けんりゅうじ 13:45着 13:53発

観音寺から見ると新河岸川の対岸にあるのがこの見立寺で、大きなヒマラヤ杉に覆われて緩やかに続く坂道を上ると最初に「旅立ちの法然さま」像があるの。像容は紅顔の美少年ですが、それもそのはず、13歳当時のお姿だそうよ。傍らの案内板には「美作国(岡山県)で武家に生まれた浄土宗の宗祖・法然上人は、9歳の時、父を夜襲で失いました。その時の遺言は「汝、決して敵(かたき)を討つ事なかれ、出家して悟りの道に進むべし」と云うものでした。そして4年間岡山で仏教の基礎を学び、その後本格的に仏道を進んで行く為、京都の比叡山へ旅立つことになったのです。「誰もが平等に救われる仏の教えを見つけたい」その一歩を踏み出す、その時のお姿です」とあるのですが、敵を討つなと遺言するあたりは、やはり「この親にしてこの子あり」の世界かも知れないわね。

【風土記稿】には「壽昌山了心院と號す 浄土宗 當所蓮馨寺の末寺なり開山感譽後に遊行して終る所をしらず 故に其首途せし天正2年(1574)5月18日を以て 暫く命日とす 感譽俗姓は北條氏にて氏康の子なり 城主大道寺駿河守政繁が母 法諡實泡院柔譽光澤蓮馨とて 永禄10年(1567)8月12日卒す この人蓮馨寺起立の時 假堂をかの境内に建置しが 蓮馨財をすてて永續せしめ其菩提を祈りしとぞ 其頃は寺號も建立寺とかきて かの寺の塔頭なれども 火災をさけて後にこの所へうつりしなり云々」とあるの。感譽は先程大蓮寺の項でも紹介しましたが、感譽存貞上人のことなの。蓮馨寺の項では「大道寺某の姪」とされ、ここでは「北条氏康の子」になっているの。

この見立寺に関して云えば、当時伝肇寺(小田原)の住持をしていた上人を蓮馨寺の塔頭の一つであった建立寺に招き、現在地に寺地を移して見立寺としたの。その感譽上人も永禄6年(1563)には増上寺第10世となるのですが、永禄9年(1566)に当寺の住持として再び就任しているの。存命中の感譽上人は各地に寺院を開創、弟子は600人を超え、その弟子の中から寺院の開山に関わる人材を輩出するなど、高僧として知られたみたいね。【風土記稿】が「遊行して終る所をしらず 〔 中略 〕 暫く命日とす」と記す背景は、そんなところにもあるのかも知れないわね。

〔 徳本上人名号碑 〕(念仏教化の記念碑)  この名号碑は、徳本上人が亡くなる一年前に、川越へ布教に来たときに造られた記念碑である。独特の丸い文字は徳本文字として名高い。名前の徳本の下にある落款は「鬼くだく 心を丸く 田の中に 南無阿弥陀仏と 月のおもかげ」と云う意味が含まれていると云う。徳本 宝暦8年(1758)−文政1年(1818) 江戸時代末期の浄土宗僧侶。和歌山県に生まれ、幼少より信心が篤く、両親に出家を請うも許されず、26歳(1784)にようやく母の許しが下りて出家する。ひたすらに念仏を唱え、礼拝をし膝が薬研のごとく割れたとまで云われている。念仏弘通の為に全国を廻り、説法をし、名号札を配って歩いた。それを求める人は、「まるで朝市が開かれているようだ」と、形容されるほど多くの人が列をなしたと云う。

小江戸川越七福神 第六番 布袋尊
布袋尊は唐の禅僧で名は契此と云いました。小柄で太鼓腹。大きな袋を背負って放浪し福徳を施したと云い、世人は弥勒菩薩の化身とも云って尊びました。
秋の七草=葛 山の辺ににほひし葛の房花は 藤波よりもあはれなりけり 斎藤茂吉
葛は昔大和の国栖(くず)の人がくず粉を売り出したので出た名と云われ、根から葛粉がとれます。また、葛根湯は風邪薬になります。花言葉 = 根気、努力
小江戸川越七福神霊場会・(社)小江戸川越観光協会

去り際に気になるものを見つけたの。境内に立つ指標に「赤穂浪士 矢頭右衛門七(やとうえもしち)妹の墓」とあることに目が留まり、赤穂浪士と云えば「忠臣蔵」で知られる元禄赤穂事件ですが、赤穂=兵庫県の呪縛から逃れられず、例え妹のお墓だとしても、何でこの川越に彼女のお墓があるのかしら−と、不思議に思ったの。指標に導かれて足を向けた先に建てられていたのが左掲の墓塔で、多加谷家 照光院好誉妙相大姉 明和5年(1768)3月23日歿−と案内されていたの。右衛門七には三人の姉妹がいたのですが、この妹とは次女の「さよ」さんのことみたいね。

詳しい経緯などは省きますが、右衛門七を失い、女所帯となった一家は、叔母の嫁ぎ先であった奥州白河藩の多加谷家に身を寄せることになり、後に、さよさんはその多加谷家の一人に嫁いでもいるみたいなの。その後、白河藩々主の移封に合わせて多加谷家も上州厩橋(現・前橋市立川町)、そしてこの川越へと移住してきたみたいね。墓塔には没年齢が記されず確かなことは分かりませんが、70歳代であったと推定されているの。歴史の表舞台では決して語られることのないさよさんの生涯ですが、病没と伝えられるものの、晩年は穏やかで心安らかなものであったと思いたいものですね。合掌

18. 栄林寺 えいりんじ 14:00着 14:04発

この栄林寺は慶長15年(1610)に当時の川越城主・酒井忠利が叔母の玉室榮淋大姉の菩提供養のために源昌寺の巻岑文舒(かんしんぶんじょ)を開山に迎えて創建されたもので、当初はその法号に因み、玉室山榮淋寺を号していたの。場所にしても、現・元町一丁目に建てられたものだとか。それが何故ここにあるのかと云えば、本寺・源昌寺の変遷に由来するの。寛永11年(1634)、川越城主・酒井忠勝が若狭小浜(現・福井県小浜市)に国替えになると、源昌寺は酒井氏の元領地であった紺屋村(現・埼玉県坂戸市)に移り、後に江州浮気村(現・滋賀県守山市)に移転したの。源昌寺もまた士族寺( or お伴寺)だったと云うわけね。

その源昌寺跡地が末寺であった榮淋寺に下賜され、後に城主・松平信綱が行った新しい町割りに合わせて地所の交替が行われ、現在地に移転してきたの。現在は雲興山榮林寺を号していますが、雲興は小浜城の異名だそうよ。源昌寺跡地を下賜された縁と併せて、若狭小浜に国替えとなった酒井忠勝の威徳に因み、改称されたものみたいね。左掲の山門は元は川越城の蓮池門で、明治2年(1869)に移築されているの。その山門右手には「安井政章墓」の案内板が建てられていたのですが、ξ^_^ξが訪ねたときには墓苑に香華する方の姿もあり、物見遊山で立ち入るのも憚られ、見学せずに終えているの。なので御案内が出来ませんが、御了承下さいね。

〔 安井政章墓 市指定・史跡 〕  安井政章は天明7年(1787)7月川越で生まれ、安井久道に養われ安井姓となる。通称与左衛門または珍平と云った。幼くして儒学を学ぶと共に、槍術の宝蔵院流師範となる。松平大和守斉典(なりつね)の家臣で、川越藩の郡奉行を務め、二百石を給せられ、治水、開墾、植林などに多くの功績を残した。ことに、弘化2年(1845)比企郡川島領の堤防が二度も決壊し、領民が大いに苦しんだとき、藩主の命で43ヶ村、150余町の間に土手を築き、多年の水害の災いから藩民を免れさせた。嘉永6年(1853)6月19日、病のため齢67歳で没した。平成6年(1994)3月 川越市教育委員会

19. 十念寺 じゅうねんじ 14:07着 14:14発

【風土記稿】には「時宗にて相模國藤澤清浄光寺の末なり 清谷山と號す 開山泰禪天文元年(1532)10月18日寂せり 三尊の彌陀を安ず 當寺も初は代官町(現・喜多町)にありしを元和元年(1615)今の所へ移されしと云へり 熊野権現社 瘡守稲荷社 この稲荷はいかなる故にや 秋元但馬守が家人長谷川徳右衛門なるもの 甲斐国より持来りて 始は己が住宅の内に置きたりしを 明和年中(1764-71)爰へ移せしとなり」とあるの。創建年代については触れられてはいないのですが、開山の泰禅上人が天文元年(1532)に示寂していることから室町時代中期の文亀年間(1501-03)の創建に比定されているの。

山門をくぐり抜けると正面の本堂に向かい参道が延びますが、境内の右手には御覧の慈母観音像や瘡守(かさもり)稲荷社(だと思うの)が建てられているの。観音像の台座には「惜別の 悲しさ消えて 一筋に つのる思慕の情 御仏の父母」とあり、後方に並び立つ墓塔には香華する身寄りの者もなく、今となっては無縁仏となってしまった感があるのですが、刻まれた戒名には何故か○○信女と誌すものが多いの。嘗てはその腕に抱かれたであろう我が子の姿もまた時を経て同じようにして過去のものとなり、歴史の片隅で、市井に生きた女性達の生きた証しも今は静かに土に還り行くのを待っているの。

替わって、慈母観音像の右手で緋い鳥居を構えて建つのが、【風土記稿】に長谷川徳右衛門が甲斐国より持ち来たったと記される瘡守稲荷。当初は自邸内に祀られたことからすると、瘡守と云うよりも守護神として勧請されたのかも知れませんが、それはさておき、瘡は疱瘡のことで、天然痘や痘瘡を指すの。当時は現在のように疫病に対する知識もなく、医療技術も発達していなかったので、流行病も悪霊や悪鬼のなせる業と信じられていたの。中でも死亡率が高かったのが疱瘡で、躰に水疱が現れるなど、症状が見た目にも明らかなことから最も恐れられたの。人々はその脅威から身を守って下さるようにと、この稲荷社の前で頭を垂れていたのでしょうね、きっと。

背負い厨子 本堂内には本尊の阿弥陀三尊像と共に背負厨子に納められた地蔵菩薩像が祀られているの。
〔 背負厨子入り子育延命地蔵尊 〕 本像は子育て延命を司る地蔵菩薩が背負い厨子に納められた特殊な様式の尊像です。厨子の背面に取り付けられた背負い紐から、往時にはこれを背負って各地を巡っていた様が推察されます。漆塗りの厨子を彩る華やかな飾り金具は、正面上段より月に雲・宝珠・竹虎・宝相華(ほうそうげ)・波千鳥、背面上段より宝相華・蝙蝠(こうもり)が模(かたど)られています。今回、出来るだけ多くの皆さまに拝んで頂ければと荘厳整備を行った結果、厨子内から書状が発見されました。それによると、明治25年(1892)に長野県飯山市の仏師・清水和助(しみずかずすけ)の手で現在の姿に整えられたことが判明しました。原型が作られたのは今から300年程前、江戸中期頃ではないかと思われますが、詳細は定かではありません。

20. 妙養寺 みょうようじ 14:16着 14:20発

【風土記稿】には「蓮信山と號す 日蓮宗 甲斐國身延久遠寺末 相傳ふ 昔日蓮諸國行脚の時 仙波尊海僧正と 曾て叡峯同學の好あるにより 其室を尋んとして此地に投宿せしとき 旅宿の夫婦の者深く歸依しけるにより 日蓮法名を授けて 夫をば蓮信と云ひ 婦をば妙養と云 後終に宅を捨て寺とし 勤行怠らず 終焉を遂けるとぞ 其後荒廢せしを遙の後天文7年(1538)僧日在再興して 法華の道場となし 彼夫婦の者の法名を以山號寺號としけるとなり 其かみは松郷の内久保町の北側に有て 〔 中略 〕 其後當寺の此地へ移りし年代は詳ならず 或は云元亀元年(1570)のことなりと されど確かなる證蹟あらざれば いかゞはあらん云々」とあるの。

盛時には客殿や鐘楼の他にも文殊堂や三十番神堂などの諸堂を従え、武家寺として隆盛していたみたいね。その妙養寺も文政8年(1825)の大火で類焼し灰燼に帰してしまったの。本堂(仮本堂)をはじめとして一部の堂宇が再建されたのですが、武家寺故の悲しさね、明治維新を迎えると多くの檀家が国元に帰ってしまったの。本堂がようやく再建されたのは昭和2年(1927)のことで、書院や庫裏に至っては昭和39年(1964)のことだそうよ。現在の本堂は平成3年(1991)に再建されたものですが、長い道程を経て今日があると云うわけ。因みに、通用門側の一角には忘れ去られた風情で佇む妙見堂と七面堂が並び建つの。次なる再建候補ね、きっと。(^^;

21. 妙昌寺 みょうしょうじ 14:23着 14:30発

散策の最後に訪ねてみたのがこの妙昌寺。と云っても、境内に祀られる川越七福神の一つ、弁財天がお目当てだったりしますが、それでは妙昌寺さんに失礼なので、寺史を少し紹介しますね。
当山は日蓮宗大本山池上本門寺の末寺として法眞山と号し、室町時代永和元年(1375)現在の幸町に開創。諸堂は旧多賀町及び旧本町にあり、総門は旧江戸町にあったが、江戸時代寛保元年(1741)松平伊豆守信綱公が川越城を改修するため、当寺を現三光町の旧浅場孫兵衛侍屋敷跡地に移築したものです。平成4年(1992)10月本堂客殿を落慶、平成14年(2002)4月立教開宗750年慶讃事業として辨天堂の改修、水屋の新設等境内整備を行いました。〔 以降省略 〕

異説では、南北朝後期の永和元年(1375)に池上本門寺の第4世・日山上人がそれまであった草庵を改め、開山したとも伝えられているの。その草庵とやらがどの程度のものであったのかはξ^_^ξには分かりませんが、開山は開山でも中興開山と呼べなくもないわね。それ以上に勧請開山(師を名目的に開山として招来すること)だった可能性大かしら?(^^; 以上、戯れごとでした。

〔 経ヶ嶋辨財天 〕  室町時代、時の地頭が小石に法華経を書写し、塚を築いて辨財天を祀って守護神としたのが始まりです。江戸時代、長禄元年(1457)に太田道灌が川越城を築城する際、辨財天の社が川越城の裏鬼門に向いていたことから、鬼門除けの守護神として尊崇(信仰)厚かったと伝えられています。当地はその昔、螢の名所としても知られていました。
辨財天に寄せた和歌(江戸時代)
・宝をもうち出す神の徳ゆへか つちのとの巳にまつる御社 阪月
・弁天の影向(ようこう)なれや燕子花(かきつばた) 池のおもても紫の雲 茂躬
・この神の恵みに茂れ蛇復盆子(へびいちご) 如松

・秋の七草 藤袴(ふじばかま)  宿りせし人のかたみか藤袴 わすられがたき香に匂ひつつ 紀貫之
花が藤色で、弁の形が筒をなしているからついた名と云います。
乾燥させたものは薬用で利尿・通経・黄疸に効果があると云います。花言葉−思いやり、落ちつき
小江戸川越七福神霊場会・(社)小江戸川越観光協会

余談ですが、弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。saras は水を指し、sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。河の流れの妙なる水音は人々を心豊かにすることから福徳を齎す女神となり、穀物の豊作を齎す豊穣の女神ともなるの。やがてそのサラスバティーが同じ女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、河のせせらぎが弁舌にも繋がるの。そのサラスバティーが仏教に取り入れられて弁才天となり、そこでは川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。その弁才天信仰が庶民の中に広まるとその現世利益的な側面が強調されて福運の最たるものとして金銀財宝が持ち出され、弁才天は弁財天として更にパワーアップするのですが、弁才天は金銀を纏う前、弁財天は財宝を手にしてからのことね。

22. 川越駅 かわごええき 15:25着

川越駅 弁舌・芸術・財福の幾れからも遠い距離にいるξ^_^ξですが、少しはそのおこぼれに預かれないものかしら−と弁天さまにお願いしたところで妙昌寺を後にしましたが、ここから先は気の向くままの街歩き。お土産品(と云っても専ら自分用ですが)の Get や Window-shopping もあって小一時間ほどの浪費。なので、ここでの所要時間は参考にしないで下さいね。普通に歩けば30分とかからずに辿り着けるはずよ。因みに、西武線を御利用の方なら本川越駅が、東武線を御利用の方なら一駅手前の川越市駅が最寄り駅となるの。きょうは歩き疲れたので少しでも早くお家に帰りたいの−と云うあなたにはこちらの二駅がお勧めよ。


小江戸・川越のお散歩の第二弾は川越城趾を起点にして市街の北側をひとめぐりしてみましたが、為政者の庇護の許、寺勢を隆盛させた寺院も今はその名残りを僅かに留めるのみとなっているの。嘗ては武家の菩提寺として開創された士族寺もまた然り。けれど、いざ訪ねてみれば、観光案内などには載ることのない事蹟や遺物が境内に残されていたりするの。その多くが実は名も無き人々の信仰をあつめていたものだったりするのですが、それらは皆、人々の祈りの中で醸成されたものでもあるの。その心模様に触れたとき、穏やかな祈りのことばが妙なる音色となってあなたの耳にも聞こえてくるかも知れないわ。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
岩波書店刊 日本古典文学大系 伊勢物語
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
東京堂出版社刊 大野達之助編 日本仏教史辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
川越市教育委員会発行 川越市教育委員会社会教育課編 続・川越の伝説
川越市教育委員会発行 川越市教育委員会社会教育課編 川越の伝説
川越市教育委員会発行 川越市文化財保護課編 川越市の文化財
信州信濃浄土出版会発行 百瀬千又編 平成小江戸川越古寺巡礼
川越市文化財保護協会刊 川越の文化財 第42・44・45・61号
川越市立博物館刊 川越市立博物館・常設展示図録
川越氷川神社刊 山田勝利著 柿本人麻呂と川越
川越市市史編纂室編 川越市史 第二巻 中世編
有峰書店新社刊 新井博著 川越の民話と伝説
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など。






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