≡☆ 小江戸・川越のお散歩 Part.1 ☆≡
 

幾度か季節を違えながらも訪ね歩いたことのある川越ですが、いつも中途半端な形で終えていたの。そこで今回は一大奮起。普通の方なら足を向けることも無いようなマイナーな見所を含めて、川越をしらみつぶしに歩いてみようと思ったの。今回はその第一弾として仙波町界隈を中心にして歩いてみたので紹介しますね。補:掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。但し、スライドは完全マニュアル動作ですので御協力下さいね。

川越寺社めぐり〔 前編 〕

1. 川越駅 かわごええき 6:21着 6:24発

川越駅

いざ意気込んではみたものの、気がつけば季節は猛暑の真っ只中。TVのお天気情報のコーナーでは、お出掛けの際はこまめに水分補給をするなど熱中症対策をしっかりして下さいね−が、すっかり合言葉になっていて。さりとて、ここで諦めてはまたいつのことになるか分からなくなるわね−と、我が身の気力と体力を信じて出掛けてみることにしたの。とは云え、朝早く出掛けるのに越したことはなさそうね−と、鶏なみの出発時間にしたのですが、余りにも早すぎたみたいね。コンビニではないけれど、寺社にはいつでも入れるものと思っていたの。深夜はともかく、早朝はお勤めがあるのでどこの寺院でも早起きしていると勝手に早合点していたξ^_^ξがいけなかったわね。

2. 妙善寺 みょうぜんじ 6:30着 6:33発

最初に訪ねたのがこの妙善寺なのですが、さすがに早すぎて未だ門扉が閉じられたままになっていたの。なので、左掲の画像はきょう一日の散策を一通り終えてから帰り際にもう一度訪ねたときのものなの。幸いにも川越駅からの所要時間が6分と云う至近距離のおかげで再訪する気にもなったのですが、そうでなければ素直に諦めていたかも知れないわね。と云うことで、訪ねる時間はもう少し遅めにした方が良さそうね。残念ながら妙善寺では毎朝何時頃に門扉が開けられるのかは分からないのですが、常識と良識を以てお出掛け下さいね。エッ、非常識なお前に常識云々されたくはない?ごめんなさい。以上、何の参考にもならない失敗談でした。

戯れ言はこの位にして真面目にレポートしますね。これはお願いですが、この妙善寺に限ったことではないのですが、掲載する画像は以前訪ねたときのものを交えて掲載していますので、季節感や時系列が異なる場合もありますので御容赦下さいね。尚、建物の改築など、旧観と大きく異なる場合は現状( ′14.08 現在 )を最優先で掲載しましたので御安心下さいね。

妙善寺は江戸時代初期の寛永元年(1624)に中院(後述)の尊能法印が父母の菩提供養のために開山したもので、正式名称の道人山三心院妙善寺は尊能法印の父母の法名に由来するの。父親の法名・道仙三心からは山号院号を、母親の法名・妙善大姉からは寺号を得ているの。現在はコンクリート製の近代的な建物になってはいますが、以前は天明8年(1788)に伽藍を焼失して以来、再建されることもなく、ずっと仮の堂宇を以てして営まれて来たのだとか。昭和53年(1978)に再建された現本堂には智証大師作と伝えられる不動明王が本尊として祀られ、その不動明王に脇侍して阿弥陀如来と観世音菩薩、毘沙門天が安置されているの。現在は天台宗寺院で中院末よ。

七福神 妙善寺(天台宗) 菅原町9-6
・小江戸川越七福神 第一番 毘沙門天
毘沙門天は仏教の守護神で、多聞天とも呼ばれています。鎧、兜に身を包み、左手に持つ宝塔から宝物を授け、右手の鉾で邪を払うという、物心共々の福を施す神であります。
・秋の七草 女郎花(おみなえし)
手にとれば袖さへ匂ふ女郎花 この白露に散らまく惜しも 山上憶良
オミナエシのオミナは女で、姿のやさしさを現した名。根は漢方で敗醤といい利尿・解毒に用います。花言葉−美人 小江戸川越七福神霊場会・(社)小江戸川越観光協会

七福神の画像は Harumi's Home Page さんに掲載されていたものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・

穏やかな表情の神さまが多い七福神の中で唯一武神の面影を残す毘沙門天ですが、仏教では多聞天の名でも呼ばれているの。元々はインドの古代神話に登場するクベラをルーツにしてヒンズー教の神を経て仏教の護法神となったの。毘沙門天の呼称はサンスクリット語の ヴァイシュラヴァナ Vaisrovana に由来するのですが、仏教では世界の中心にあるという須弥山の四方を守護する神として、持国・増長・広目天と共に天部に祀られるの。その毘沙門天が民間信仰の中で福の神へと変身し、右手の鉾で邪鬼を祓い降魔の徳を衆生に与え、左手に持つ宝塔からは財物などの福徳がもたらされると信じられるようになったの。

境内の一角には「さつまいも地蔵尊」が祀られていたの。
傍らにはその建立由来記が誌されていましたので併せて紹介しますね。

川越と云えばサツマイモと云われるほどイモの町として有名です。その歴史は約250年以上あります。寛政の頃(1789-1801)江戸の町に焼き芋屋が現れ、その焼き芋用のイモとして川越いもは発展し、有名になりました。過去に於いて飢饉や戦争での食糧難を救ったサツマイモですが、現在は美容食・健康食・宇宙農作物として見直され、広く人々に愛されています。瀬戸内海の島々には、江戸期、サツマイモで飢饉を乗り越えたことから、イモを伝えた先人の徳を偲び、芋地蔵が各地につくられ残っています。今は飢えることはなくなりましたが、逆に健康を願う人々は増えました。サツマイモを食べて健康になろう−の祈りを込め、現代版の芋地蔵の建立を、平成7年(1995)9月に地元川越のサツマイモ関係者の間で思い立ちました。今、川越のマチを歩いてみますと、各種のサツマイモ商品が溢れていますが、昔、この妙善寺周辺でも美味しい川越いもがつくられていました。10月13日はサツマイモの日ですが、その日には、この川越いも地蔵を中心に、イモに感謝を表す「いも供養」(いもの日まつり)が妙善寺で催されます。平成17年(2005)10月13日 さつまいも伝来四百年記念 川越いも友の会・川越サツマイモ商品振興会・川越さつまいも地蔵尊奉賛会・社団法人小江戸川越観光協会

3. 菅原神社 すがわらじんじゃ 6:35着 6:46発

地図上にその名を見つけて足を向けてみたのがこの菅原神社なの。その名称から天神さまこと、菅原道真を祀る社ではないかしら−と予想は出来たのですが、妙善寺とは至近距離にあることから何か関係があるのでは−と気になったの。境内に立てられている案内板には、妙善寺を開山した尊能法印に依り勧請されたことが記されてはいたのですが、それ以上の関係となると詳しいことは分からず終い。妙善寺の開山と同時期に勧請されていることからすると、寺院の守護神として祀られたものだとは思うのですが、尊能法印が菅原道真をここに連れて来た(笑)理由が知りたいわね。今でこそ学問の神さまとして知られる道真公ですが、当時は必ずしもそうとは限らなかったの。

祭神:
菅原道真公 学問の神として知られる。
創建:
寛永元年(1624)妙善寺開山尊能法印により勧請され天神社と称する。
 
大正2年(1927)、稲荷神社が合祀され、菅原神社と改称される。
社殿:
拝殿 昭和16年(1941)改築、本殿 昭和21年(1946)改築
例祭:
毎年4/15及び10/14-10/15に行う。
替わって、境内右奥で申し訳程度の社地を得て鎮座していたのが末社の六塚(むつづか)稲荷神社で、説明には旧菅原神社本殿とあるので、可哀想に社殿はお下がりみたいね(笑)。

祭神:
保食命(うけもちのみこと)別名・稲倉魂命(うかのみたまのみこと)
 
正一位六塚稲荷大明神と云われる。五穀豊穣・商売繁昌の神として知られる。
創建:
天文18年(1549)、現在の朝日生命ビル附近にあった塚上に勧請される。
 
大正2年(1913)、天神社に合祀、その後昭和26年(1951)に現在地に奉還される。
社殿:
建築年代不詳( 旧・菅原神社本殿 )
例祭:
毎年3/14 宵宮祭(びしゃ講)15日 本祭

お話しが前後して恐縮ですが、参道入口脇には開郷記念碑が建てられているの。開郷とあることから新田開発か何かの記念碑で、菅原神社のことは何も触れられてはいないと早合点して無視していたのですが、再訪したのを機に改めて斜め読みしてみると、少しだけ縁起が記されていたの。どうせならと全文を解読してみましたので、時間ならたっぷりあるぜ−と云う方は御一読下さいね。それにしても、当時の川越市長が撰文し、衆議院議長までもが関わりを持つなど、建立に際してはかなりの力の入れようよね。But 読んでみたところで、開郷300年の重みが理解出来ずに、当時の一圓は今ならいったい幾ら位かしら−などと下世話なことしか思いつかないξ^_^ξです。

〔 開郷三百年記念碑 〕 當所は人皇第107代後水尾天皇の御代 徳川家光の臣酒井備後守忠利同忠勝の領にして元大仙波と一村なりしを 寛永2年(1625)3月分離して大仙波新田と稱す 當時鎌田氏の開拓なり 寛永15年(1638)堀田加賀守 同16年(1639)松平伊豆守 元禄7年(1694)松平美濃守 寳永2年(1705)秋元但馬守 明和5年(1768)松平大和守 慶應3年(1867)松平周防守の領となし 明治4年(1871)入間縣管地となり 同6年(1873)熊谷縣の所轄 同9年(1876)埼玉縣管轄となり 明治22年(1889)町村制施工の際仙波村に編入す 大正11年(1922)12月1日仙波村を廢し川越町と合併し市制を布かれ 當地字菅原の稱あるを以て菅原町と改稱す

無格社天神社は奉祭年代不詳なるも 當字地名天神脇に奉祭ありしを 慶安元年(1648)現在の地に奉遷せり 無格社稲荷社は古老の説に依れば 天文7年(1538)北條上杉両氏川越合戰の際 戰歿者の塚にして川越六塚の一なりと云ひ 西町停車場入口道路敷に在りたるを 大正2年(1913)5月天神社へ合社し菅原神社と敬稱す 明治13年(1880)7月仙波學校前身菅原學校創立に付 金壹千圓を寄附し 時の縣令白根多介閣下より銀盃壹組を授與せらる 大正12年(1913)西町停車場に通する道路曲折を延長して貳線の道路と成す為 敷地500坪餘工事費金1,500圓を菅原會員より寄附せり 大正14年(1925)開郷300年に相當するを以て 菅原會員是を計り記念碑を建立す 大正14年(1925)3月 衆議院議長勲二等粕屋義三篆額 川越市長正五位勲五等武田熊蔵撰文 栗原英仙書 〔 一部修正加筆す 〕

4. 仙波浅間神社 せんばせんげんじんじゃ 6:54着 7:11発

当神社は康平年間(1058-1065)、源頼義が奥州征伐の途次に分霊したことに始まり、長禄元年(1457)に太田道灌が再営し、永禄9年(1566)に北条氏の臣・中山角四良左衛門が再興したと云う。文政11年(1828)、川越南町の山田屋久兵衛が近郷富士講中並びに有志老若男女の助力を受け、拝殿一棟の再建と一丈余の岩室の上に更に一丈有余を新築したと棟札に記されている。岩室前の石猿に天保4年(1833)の銘があることや、石碑類の多くが天保年間に造営されていることから、文政から天保年間に現在の形が整えられたと考えられる。この岩室は、大正12年(1923)の関東大震災により崩壊し間もなく再建したとの柵石がある。拝殿の天井は、中央部が折上格天井になっており、江野楳雪(1812-1873)による百人一首歌仙像の絵が組み込まれている。

神社の祭神には木花咲耶姫命が祀られている。江戸中期、関東一円に浅間信仰が起こり、富士浅間神社を分霊した当神社には、近郷の多くの村々が講を作り、寄進したことが石碑や柵石に刻まれている。毎年7/13の初山には、子育ての神が転じて子宝に恵まれる神としても信じられ、新婚夫婦・幼児を抱いたお母さん方など、毎年一万人にも及ぶ参拝客が訪れている。参拝客は、暑さに向かう夏の健康を願いあんころ餅を、夏の難病と厄病を追払い、毎日を健やかに過ごすようにと団扇を買い求め、お仲人や近親者に配る習わしになっている。平成22年(2010)1月吉日 浅間神社総代一同

先の東日本大震災は筆舌に尽くし難いほどの甚大な被害を各地にもたらしましたが、この仙波浅間神社でも社殿の倒壊こそ免れたものの、かなりの被害を蒙ったの。ここでは鳥居脇に建てられていた復興記念碑の内容を紹介しますが、浅間神社総代はもとより、仙波氷川神社や愛宕神社の総代諸氏が復旧委員として名を連ねているの。仙波氷川神社や愛宕神社からすれば本来は他人事のハズなのに、地域の人達がまとまっている証しでもあるわね。

〔 復旧の経緯 〕 当神社の本殿は、文政11年(1828)一丈余の岩室の上に更に一丈有余を嵩上げし、天保4年(1833)・大正12年(1923)・昭和6年(1931)に地震の被害を受け修復した。平成23年(2011)3月11日の東日本大地震で、石垣と岩室の本殿・五体連座の末社等が大きな被害を受けた。神社関係者がこれを憂い協議した結果、地震前の原状に復旧させることにした。仙波三神社・六自治会・近隣住民事業者等の方々から絶大なる御支援・御寄進を賜り、立派に完成した。ここに後世に伝承する。崇敬者に御加護あらんことを願う。平成24年(2012)1月吉日 浅間神社本殿等復旧委員一同

ところで、この仙波浅間神社ですが、古墳の上に建てられているの。地元ではこの小山を通称・母塚と呼んでいるみたいね。その母塚ですが、現在は川越市の文化財として保存史跡になっているの。なので「山の中(鉄条網の内側)へは絶対に入って遊んではいけません」とあるのですが、こども達よりも、心ないことをする大人達がいることの方がξ^_^ξとしては心配ね。

〔 浅間神社古墳 市指定・史跡 〕 円墳で、その規模は高さ約5m、周囲42mである。現在この古墳の頂上には浅間神社が祀られており、この為かなり削り取られて墳頂部は平坦になっている。古墳の裾の部分に低いところが見られることから周溝が巡っていたと考えられる。愛宕神社古墳と共に仙波古墳群の中では規模も大きく、群集墳が発生した初期の頃に築造されたものであり、6世紀の中頃のものであろう。仙波地域一帯が農業を専業とする人々によって村落が形作られ、その指導者の墓として作られたものであり、川越市内では、的場古墳群・南大塚古墳群・下小坂古墳群に次いで残っている仙波古墳群の一つである。昭和63年(1988)3月 川越市教育委員会

去り際に石段の参道左手に石碑が二基並び建てられているのを見つけたの。大きい方が「占肩の鹿見塚」碑で、その隣に位置する小振りの石碑は当地・仙波町の略史を刻むものだったの。ξ^_^ξとしては簡略すぎて略史には興味が湧かなかったのですが、扱いが不公平になるのも気が引けますので、併せて転載しておきますね。先ずは、その仙波町略史碑から紹介しますが、文中にある父塚とは、後程訪ねる愛宕神社古墳のことなの。母塚の方は御案内済みよ。エッ、もう忘れちゃったの?

〔 仙波町略史 〕 仙波は仙波郷であり、其の東端は往古に入江でありしと伝え、地名に仙波と称された。また、台地に上代の古墳遺跡があって、父塚・母塚・鹿見塚等がある。鎌倉時代には村山党の高家が仙波氏と稱して此の処の堀ノ内に居館し、永く領知した。江戸時代には川越城附であり、また寛文元年(1661)に仙波東照宮の御神領地となった。天保年間(1830-1844)の郷帳に石高843石余と記され、更に新田も開拓があり、発展を見ている。明治11年(1878)の頃、仙波河岸がつくられ舟運の便も拓け、河岸街道が開設された。大正11年(1922)12月1日仙波村は川越町と合併し、県下で最初の市制施行地と発達した。畑地耕地整理 昭和4年(1929)6月8日起工 赤間川新掘割 昭和13年(1938)5月竣工 題字 川越市長 伊藤泰吉書 川越市文化財保護委員 岸傳平 撰文書

続いて本命の「占肩の鹿見塚(うらかたのししみづか)」碑を紹介するわね。
おいおい、公平な扱いなんか全然してねえじゃんかよお〜。

〔 占肩の鹿見塚 県指定・旧跡 〕 万葉集巻十四の
・武蔵野に 占へ肩灼きまさでにも 告らぬ君が名 うらに出にけり
むさしのに うらへかたやき まさでにも のらぬきみがな うらにでにけり
という歌は、古代日本人が多く住んでいた鹿を持し、その肩を焼いて吉凶を占った習慣にこと寄せた情緒深い歌であるが、この誕生地が長いこと謎だった。この仙波の地には、父塚・母塚も含めて古墳群が形成されていた。しかし、この鹿見塚は大正3年(1914)に東上線が開通する際、破壊され消滅してしまったが、土地の小名にも「シシミ塚」「シロシ塚」などと記録されている。シシとは鹿のことである。建碑の場所は便宜上浅間神社の前を選んだのである。平成4年(1992)3月 川越市教育委員会

実は、この歌にはこの地に結びつくものは何も詠み込まれていないの。あくまでも広義の意味での武蔵野であり、特定の場所が指し示されているわけではないの。じゃあ、どうしてここにこんな石碑が建てられているの?それはあくまでも「占へ肩灼きまさでにも」から連想される状況証拠からなの。

この浅間神社から西側に200m程離れて東武東上線が走りますが、鹿見塚はその東上線と川越街道が交差する辺りにあったみたいね。鹿見塚はかなり大型の円墳だったみたいですが、説明にもあるように、線路敷設時に跡形も無く削りとられてしまったの。それはさておき、土地の小名にシシミ塚の呼称が残されているからと云って、この東歌が詠まれた万葉の時代に鹿見塚の呼称が既に存在していたのかどうか、確たる証拠など何も無いのですが、それでもシシは「鹿」を、ミは「見」に通じることから、塚は鹿を相手に狩をするときの見張り場として利用されていたのでは?と云うことは、この辺りでは鹿の狩猟が盛んに行われていた証拠でもあり、捕らえられた鹿の骨を利用した占いもまた日常的に行われていたと考えても差し支えないのでは?そうなると、夢は古の万葉に浪漫を求めて遙かなる「とき」を遡るの。ふと気がつけば、歌に詠まれた武蔵野の地が鹿見塚のあった当地以外には考えられなくなるの。

ねえねえ、歌の意味を教えて。これでは何を云ってるのか分からないわ。 これは占いにこと寄せて女性が想いを募らせている男性のことを詠んだ恋の歌なの。意訳すると「この武蔵野で、鹿の肩骨を焼いて占ってみたところ、口に出しては告げずにいたあなたの名前が、占いにはっきりと出てしまい、思わず辺りを見回してしまったの」と云ったところかしら。周囲の人達には内緒で想いを通わせていた男性が防人として遠く離れた九州へ赴いてしまい、今はただ役務を終えて帰り来るのをひたすら待ちわびている乙女心を詠みあげたものかも知れないわね。

5. 仙波氷川神社 せんばひかわじんじゃ 7:17着 7:29発

次に訪ねたのがこの仙波氷川神社ですが、縁起などを知る術が何も無いの。由来が記された案内板や記念碑の類が境内のどこかに絶対あるハズよ−と探し歩いてみたのですが、どこにも見当たらないの。普通は何かしら見つかるものなのですが、ここまで徹底されてしまうともうお手上げね。その名称から推して大宮氷川神社から分祀分霊されたものであることは分かるのですが、創建年代やこの地に勧請された背景など、詳しいことは分からず終い。境内には樹齢を重ねてきたと思われる巨木も多く、その佇まいからすれば古社とは云えないまでも、それなりの歴史を有する社だとは思うのですが。

燈籠が建てられているこの小山は実は古墳(円墳)なの。直径は約15m・高さ約2mほどの小規模なものであることに加え、何の案内も無いので、云われなければそれと気付かずに終えてしまいそうね。現在は氷川神社古墳と云えばこの一基のみを指すのですが、嘗ては他にも数基の古墳が境内に存在していたそうよ。境内の三方を国道R16を初めとした道路に接していることからすると、あるいは道路開削や整地の際に先程御案内した鹿見塚と同じように削られてしまったのかも知れないわね。But 推論モードですので、くれぐれも鵜呑みにはしないで下さいね。だったら書くな!−だったかしら(笑)。

燈籠には「慶應三丁卯禾(1867)6月吉日 石尊大権現 大天狗・小天狗」と刻まれていたのですが、素人目で見ても新旧の造作が混在しているように見受けられるわね。ところで、この石灯籠ですが、この後訪ねる仙波河岸史跡公園との位置関係からお分かりのように、元々は燈明台として使われていたものみたいね。

6. 仙波河岸史跡公園 せんばかししせきこうえん 7:30着 7:59発

〔 仙波河岸のむかし 〕 昔、この場所には仙波河岸(せんばがし)と云う河岸場(かしば)がありました。仙波河岸が出来たのは明治の初め頃のことです。これまでにも新河岸川(しんがしがわ)の下流には既に数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが新河岸川舟運(しんがしがわしゅううん)と云われているものです。仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し、一番新しく出来た河岸場です。しかし、明治の中頃から東京との間に鉄道が整備され始めました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸川舟運も終わりを迎えました。

新河岸川舟運は寛永15年(1638)、焼失した仙波東照宮(後述)の再建資材を江戸市中から運搬したことに始まるの。仙波河岸は愛宕神社のある台地上に降った雨が崖下の湧水となって現れることから、それを溜めておく沼をつくり、そこへ水路を繋げたの。積み荷は川越からは米や麦、穀物などの農産物を、勿論、「川越いも」と呼ばれたサツマイモもね。替わって江戸からは主に日用雑貨品を運んだの。But 説明にもあるように、その舟運も鉄道や道路にとって替わられてしまい、大掛かりな河川改修工事などもあり、昭和6年(1931)には遂に通船停止の県令が出されてしまったの。

明治42年(1909)の仙波河岸・丸川水運回漕店の広告には
・早船 壹艘ヅゝ當河岸毎日午后二時半出帆翌朝八時東京着 東京毎日午后六時出帆三日目當河岸着
・並船 三艘ヅゝ毎日出帆三日目東京着
とあるの。帆に風を受けてはしる高瀬舟にしては割と早いんじゃないの−と云うのがξ^_^ξ個人の感想ですが、みなさんはどう思われます?エッ、三日も掛かってたのかよお〜、何時間の話しじゃねえのかよ−ですか?それは無理よ、今みたいに強力なエンジンを搭載した船じゃないもの。

滝

〔 仙波の滝の水音 〕 昔この場所には「仙波の滝」と呼ばれる滝がありました。これは愛宕神社の崖下からの豊かな湧水による滝で、昭和の中頃まで流れていたそうです。「仙波河岸(せんばがし)」は明治の初め頃にこの仙波の滝を利用して開設されました。写真は仙波の滝で憩う人々の様子を写した明治34年(1901)頃の写真です。
河岸開設当初からあったと云う滝ですが、嘗ては豊富な水量を誇ってはいたものの、宅地造成・整地などの理由から昔日の面影を失い、現在はポンプで水を汲み上げて水量を確保しているの。その滝の景観を紹介しますが、傍らには倶利伽羅龍王や水天宮が祀られているの。

十方庵敬順著【遊歴雑記】には、文政2年(1819)頃の当地のことが記されているの。
お話しの序でに、その一部を紹介してみますね。

社内廣く大仙波のあたごと稱す 此東の崖際より眺望すれば 東南の耕地を一面に見晴し その見渡す廣さ凡二三里四方絶景いふばかりなし 此地高き事凡三四丈社地の樹石天然にして面白し 愛宕の社は左りの方石階三十三段を登りて宮造りす 大さ三間 愛宕山と竪に認めし額は左文山の筆也 本殿の北後へ廻りて見れば古繪馬の數々ある中に 寳永貳年の古繪馬あり 猩とかやいふ獣の左右に立て中央には酒をたたえし壺を置 後には松竹梅を彩色に畫し様惣體の畫風古雅に見ゆ 此山の廣さ頂上に漸く六七間四方 山下みな一面熊笹明間なく生茂れり 東の方山下 棧に瀧二すじ漲り落 但し樋貳筋より逬り流る 是垢離場にして瀧下には貳間に五間の箱を埋めたり 深さ凡三尺ばかり水一盃に湛て四方より溢れ流る 左の方に腰の物かけ衣服の置處行人の腰かけ處等あり 又瀧の落口にはくりから龍の古碑を建てその備へ一風ありて面白し 是より棧を登り半腹より右の細路壹町ばかりに氷川明神の社あり

7. 延命地蔵尊 えんめいじぞうそん 8:03着 8:07発

「仙波の滝」の先に見えている愛宕神社への坂道を上ると、途中で道が二手に分かれますが、右手に続く道を辿ると道奥にこの延命地蔵尊が建てられているの。
この延命地蔵尊は、今から270年前の元文元年(1736)に祀られました。延命地蔵尊は延命・利生を請願する地蔵菩薩であります。新しく生まれた子を護り、短命・夭折(若死に)の難を免かせると云う。お姿は、左足を垂下する半跏像が多いと云われていますが、ここの延命地蔵尊も半跏像であります。片足を他の足の腿の上に組んで座っておられます。歴史を訪ね、先人の信仰の篤かったことを偲びながら、拝観するのも意義あることでしょう。

8. 仙波愛宕神社 せんばあたごじんじゃ 8:08着 8:32発

鳥居の先で石段が社殿に向かい上っているのでお分かりのように、この愛宕神社もまた古墳の上に鎮座しているの。なので、その古墳のことから御案内しますね。
〔 愛宕神社古墳(市指定・史跡)〕 仙波台地の東南端上に築かれたもので、嘗てこの付近一帯には六つ塚稲荷の名称から考えても多くの古墳群が存在していたことが窺える。高さ6m、東西30m、南北53mを有し、基壇のある二段築成の円墳で、幅約6mの周溝が東南の斜面を除いて巡っている。6世紀中葉期のものと思われる。現在は愛宕神社が祀られている。昭和63年(1988)3月 川越市教育委員会

元禄7年(1694)8月15日、芭蕉が伊賀国上野赤坂(現・三重県)で月見したときの作品と云われている。伊賀の赤坂も川越の仙波も、ともに台地の突端で眺望が良いところから選句されたと云われている。ここ川越の仙波地域は江戸後期から俳句が盛んで、愛好する人達が安政4年(1857)に建てたものである。芭蕉は、この句を詠んだ日から二ヶ月に満たない10月12日に亡くなってしまったと云われている。

名月に 麓の霧や 田の曇

元禄7年(1694)元旦、江戸で詠まれた句である。蓬莱飾りにそっと耳を寄せてみると、伊勢からの初便りが聞こえて来るようである。蓬莱は正月の飾り物の蓬莱飾りのこと。三方に松竹梅を立てて白米・しだ・昆布・ゆずり葉を敷き、橙・蜜柑・柚・橘・かちぐり・野老・梅干・ほんだわら・ころがき・伊勢海老などをその上に飾る。ここ川越の仙波地域は江戸後期から俳句が盛んで、愛好する人達が建てたものである。芭蕉は、この句を詠んだ年の10月12日に亡くなったと云われている。

(蓬莱に 聞)はや伊勢の 初便り

目にした芭蕉句碑を続けて紹介しましたが、個人的に気になったのはむしろ「伊勢の初便り」句碑の背後に置かれていた、この謎の石積みなの。みたところ、燈籠の頭の部分だとは思うのですが、損壊したまま放置されていると云うよりも、廃棄するわけにもいかず、そのままにしてある−と云った風情なの。境内は最近整備されたようで、以前訪ね来たときと比べると様相は大分変わりましたが、この石積みは以前のままに、置かれている場所も変わらずにあるの。恐らくは、名だたる人物が献納したものか、あるいは名工と呼ばれた石匠の手になるものなのかも知れないわね。そうでなければ、とうの昔に廃棄されているハズよね。ね、やはり気になるでしょ?