≡☆ 小江戸・川越のお散歩 Part.1 ☆≡
幾度か季節を違えながらも訪ね歩いたことのある川越ですが、いつも中途半端な形で終えていたの。そこで今回は一大奮起。普通の方なら足を向けることも無いようなマイナーな見所を含めて、川越をしらみつぶしに歩いてみようと思ったの。今回はその第一弾として仙波町界隈を中心にして歩いてみたので紹介しますね。補:掲載する画像は一部を除いて拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。但し、スライドは完全マニュアル動作ですので御協力下さいね。
川越寺社めぐり〔 前編 〕
1. 川越駅
かわごええき
6:21着 6:24発
いざ意気込んではみたものの、気がつけば季節は猛暑の真っ只中。TVのお天気情報のコーナーでは、お出掛けの際はこまめに水分補給をするなど熱中症対策をしっかりして下さいね−が、すっかり合言葉になっていて。さりとて、ここで諦めてはまたいつのことになるか分からなくなるわね−と、我が身の気力と体力を信じて出掛けてみることにしたの。とは云え、朝早く出掛けるのに越したことはなさそうね−と、鶏なみの出発時間にしたのですが、余りにも早すぎたみたいね。コンビニではないけれど、寺社にはいつでも入れるものと思っていたの。深夜はともかく、早朝はお勤めがあるのでどこの寺院でも早起きしていると勝手に早合点していたξ^_^ξがいけなかったわね。
2. 妙善寺
みょうぜんじ
6:30着 6:33発
まさか、一日に二回も詣でることになるとは。
これが問題の早朝に訪ねたときのものよ。門扉が固く閉ざされていて・・・
最初に訪ねたのがこの妙善寺なのですが、さすがに早すぎて未だ門扉が閉じられたままになっていたの。なので、左掲の画像はきょう一日の散策を一通り終えてから帰り際にもう一度訪ねたときのものなの。幸いにも川越駅からの所要時間が6分と云う至近距離のおかげで再訪する気にもなったのですが、そうでなければ素直に諦めていたかも知れないわね。と云うことで、訪ねる時間はもう少し遅めにした方が良さそうね。残念ながら妙善寺では毎朝何時頃に門扉が開けられるのかは分からないのですが、常識と良識を以てお出掛け下さいね。エッ、非常識なお前に常識云々されたくはない?ごめんなさい。以上、何の参考にもならない失敗談でした。
戯れ言はこの位にして真面目にレポートしますね。これはお願いですが、この妙善寺に限ったことではないのですが、掲載する画像は以前訪ねたときのものを交えて掲載していますので、季節感や時系列が異なる場合もありますので御容赦下さいね。尚、建物の改築など、旧観と大きく異なる場合は現状( ′14.08 現在 )を最優先で掲載しましたので御安心下さいね。
女郎花(おみなえし)の花が見られるとは思ってもいなかったの。
妙善寺は江戸時代初期の寛永元年(1624)に中院(後述)の尊能法印が父母の菩提供養のために開山したもので、正式名称の道人山三心院妙善寺は尊能法印の父母の法名に由来するの。父親の法名・道仙三心からは山号院号を、母親の法名・妙善大姉からは寺号を得ているの。現在はコンクリート製の近代的な建物になってはいますが、以前は天明8年(1788)に伽藍を焼失して以来、再建されることもなく、ずっと仮の堂宇を以てして営まれて来たのだとか。昭和53年(1978)に再建された現本堂には智証大師作と伝えられる不動明王が本尊として祀られ、その不動明王に脇侍して阿弥陀如来と観世音菩薩、毘沙門天が安置されているの。現在は天台宗寺院で中院末よ。
妙善寺(天台宗) 菅原町9-6
・小江戸川越七福神 第一番 毘沙門天
毘沙門天は仏教の守護神で、多聞天とも呼ばれています。鎧、兜に身を包み、左手に持つ宝塔から宝物を授け、右手の鉾で邪を払うという、物心共々の福を施す神であります。
・秋の七草 女郎花(おみなえし)
手にとれば袖さへ匂ふ女郎花 この白露に散らまく惜しも 山上憶良
オミナエシのオミナは女で、姿のやさしさを現した名。根は漢方で敗醤といい利尿・解毒に用います。花言葉−美人 小江戸川越七福神霊場会・(社)小江戸川越観光協会
七福神の画像は Harumi's Home Page さんに掲載されていたものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・
優しさに加えて美人ですか。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿はユリの花、想いを寄せる姿は女郎花
穏やかな表情の神さまが多い七福神の中で唯一武神の面影を残す毘沙門天ですが、仏教では多聞天の名でも呼ばれているの。元々はインドの古代神話に登場するクベラをルーツにしてヒンズー教の神を経て仏教の護法神となったの。毘沙門天の呼称はサンスクリット語の ヴァイシュラヴァナ Vaisrovana に由来するのですが、仏教では世界の中心にあるという須弥山の四方を守護する神として、持国・増長・広目天と共に天部に祀られるの。その毘沙門天が民間信仰の中で福の神へと変身し、右手の鉾で邪鬼を祓い降魔の徳を衆生に与え、左手に持つ宝塔からは財物などの福徳がもたらされると信じられるようになったの。
境内の一角には「さつまいも地蔵尊」が祀られていたの。
傍らにはその建立由来記が誌されていましたので併せて紹介しますね。
さつまいもを愛おしむようにして大事そうに抱えているの。
川越と云えばサツマイモと云われるほどイモの町として有名です。その歴史は約250年以上あります。寛政の頃(1789-1801)江戸の町に焼き芋屋が現れ、その焼き芋用のイモとして川越いもは発展し、有名になりました。過去に於いて飢饉や戦争での食糧難を救ったサツマイモですが、現在は美容食・健康食・宇宙農作物として見直され、広く人々に愛されています。瀬戸内海の島々には、江戸期、サツマイモで飢饉を乗り越えたことから、イモを伝えた先人の徳を偲び、芋地蔵が各地につくられ残っています。今は飢えることはなくなりましたが、逆に健康を願う人々は増えました。サツマイモを食べて健康になろう−の祈りを込め、現代版の芋地蔵の建立を、平成7年(1995)9月に地元川越のサツマイモ関係者の間で思い立ちました。今、川越のマチを歩いてみますと、各種のサツマイモ商品が溢れていますが、昔、この妙善寺周辺でも美味しい川越いもがつくられていました。10月13日はサツマイモの日ですが、その日には、この川越いも地蔵を中心に、イモに感謝を表す「いも供養」(いもの日まつり)が妙善寺で催されます。平成17年(2005)10月13日 さつまいも伝来四百年記念 川越いも友の会・川越サツマイモ商品振興会・川越さつまいも地蔵尊奉賛会・社団法人小江戸川越観光協会
3. 菅原神社
すがわらじんじゃ
6:35着 6:46発
社殿(拝殿)は最近新しく建て替えられているの。
以前の社殿は放火で焼失しまったそうなの。ひどいことをするわね。
この小振りの社殿が本殿になるの。
地図上にその名を見つけて足を向けてみたのがこの菅原神社なの。その名称から天神さまこと、菅原道真を祀る社ではないかしら−と予想は出来たのですが、妙善寺とは至近距離にあることから何か関係があるのでは−と気になったの。境内に立てられている案内板には、妙善寺を開山した尊能法印に依り勧請されたことが記されてはいたのですが、それ以上の関係となると詳しいことは分からず終い。妙善寺の開山と同時期に勧請されていることからすると、寺院の守護神として祀られたものだとは思うのですが、尊能法印が菅原道真をここに連れて来た(笑)理由が知りたいわね。今でこそ学問の神さまとして知られる道真公ですが、当時は必ずしもそうとは限らなかったの。
樹齢を重ねた欅の木に護られるようにして鎮座するの。
この欅の木もまた精霊が宿る面持ちね。
高層マンションなんかに負けるな!> 欅の木
- 祭神:
- 菅原道真公 学問の神として知られる。
- 創建:
- 寛永元年(1624)妙善寺開山尊能法印により勧請され天神社と称する。
-
- 大正2年(1927)、稲荷神社が合祀され、菅原神社と改称される。
- 社殿:
- 拝殿 昭和16年(1941)改築、本殿 昭和21年(1946)改築
- 例祭:
- 毎年4/15及び10/14-10/15に行う。
替わって、境内右奥で申し訳程度の社地を得て鎮座していたのが末社の六塚(むつづか)稲荷神社で、説明には旧菅原神社本殿とあるので、可哀想に社殿はお下がりみたいね(笑)。
六塚(むつづか)稲荷神社
- 祭神:
- 保食命(うけもちのみこと)別名・稲倉魂命(うかのみたまのみこと)
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- 正一位六塚稲荷大明神と云われる。五穀豊穣・商売繁昌の神として知られる。
- 創建:
- 天文18年(1549)、現在の朝日生命ビル附近にあった塚上に勧請される。
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- 大正2年(1913)、天神社に合祀、その後昭和26年(1951)に現在地に奉還される。
- 社殿:
- 建築年代不詳( 旧・菅原神社本殿 )
- 例祭:
- 毎年3/14 宵宮祭(びしゃ講)15日 本祭
大仙波新田開郷三百周年記念碑−だそうよ。
お話しが前後して恐縮ですが、参道入口脇には開郷記念碑が建てられているの。開郷とあることから新田開発か何かの記念碑で、菅原神社のことは何も触れられてはいないと早合点して無視していたのですが、再訪したのを機に改めて斜め読みしてみると、少しだけ縁起が記されていたの。どうせならと全文を解読してみましたので、時間ならたっぷりあるぜ−と云う方は御一読下さいね。それにしても、当時の川越市長が撰文し、衆議院議長までもが関わりを持つなど、建立に際してはかなりの力の入れようよね。But 読んでみたところで、開郷300年の重みが理解出来ずに、当時の一圓は今ならいったい幾ら位かしら−などと下世話なことしか思いつかないξ^_^ξです。
〔 開郷三百年記念碑 〕 當所は人皇第107代後水尾天皇の御代 徳川家光の臣酒井備後守忠利同忠勝の領にして元大仙波と一村なりしを 寛永2年(1625)3月分離して大仙波新田と稱す 當時鎌田氏の開拓なり 寛永15年(1638)堀田加賀守 同16年(1639)松平伊豆守 元禄7年(1694)松平美濃守 寳永2年(1705)秋元但馬守 明和5年(1768)松平大和守 慶應3年(1867)松平周防守の領となし 明治4年(1871)入間縣管地となり 同6年(1873)熊谷縣の所轄 同9年(1876)埼玉縣管轄となり 明治22年(1889)町村制施工の際仙波村に編入す 大正11年(1922)12月1日仙波村を廢し川越町と合併し市制を布かれ 當地字菅原の稱あるを以て菅原町と改稱す
無格社天神社は奉祭年代不詳なるも 當字地名天神脇に奉祭ありしを 慶安元年(1648)現在の地に奉遷せり 無格社稲荷社は古老の説に依れば 天文7年(1538)北條上杉両氏川越合戰の際 戰歿者の塚にして川越六塚の一なりと云ひ 西町停車場入口道路敷に在りたるを 大正2年(1913)5月天神社へ合社し菅原神社と敬稱す 明治13年(1880)7月仙波學校前身菅原學校創立に付 金壹千圓を寄附し 時の縣令白根多介閣下より銀盃壹組を授與せらる 大正12年(1913)西町停車場に通する道路曲折を延長して貳線の道路と成す為 敷地500坪餘工事費金1,500圓を菅原會員より寄附せり 大正14年(1925)開郷300年に相當するを以て 菅原會員是を計り記念碑を建立す 大正14年(1925)3月 衆議院議長勲二等粕屋義三篆額 川越市長正五位勲五等武田熊蔵撰文 栗原英仙書 〔 一部修正加筆す 〕
4. 仙波浅間神社
せんばせんげんじんじゃ
6:54着 7:11発
この浅間神社は古墳の上に鎮座しているの。
先の東日本大震災でこの浅間神社も被害を蒙り、修復されているの。
幸い、倒壊には至らなかったみたいだけど。
残念ながら、経時変化による天井画の退色はいかんともし難いみたいね。
当神社は康平年間(1058-1065)、源頼義が奥州征伐の途次に分霊したことに始まり、長禄元年(1457)に太田道灌が再営し、永禄9年(1566)に北条氏の臣・中山角四良左衛門が再興したと云う。文政11年(1828)、川越南町の山田屋久兵衛が近郷富士講中並びに有志老若男女の助力を受け、拝殿一棟の再建と一丈余の岩室の上に更に一丈有余を新築したと棟札に記されている。岩室前の石猿に天保4年(1833)の銘があることや、石碑類の多くが天保年間に造営されていることから、文政から天保年間に現在の形が整えられたと考えられる。この岩室は、大正12年(1923)の関東大震災により崩壊し間もなく再建したとの柵石がある。拝殿の天井は、中央部が折上格天井になっており、江野楳雪(1812-1873)による百人一首歌仙像の絵が組み込まれている。
神猿に護られて宮殿があるの。
社殿の背後に造られていたのがこの富士山の噴火口(写)
初山(7/13)の際にはこの穴に向かい、開運や安産祈願をするのだそうよ。
神社の祭神には木花咲耶姫命が祀られている。江戸中期、関東一円に浅間信仰が起こり、富士浅間神社を分霊した当神社には、近郷の多くの村々が講を作り、寄進したことが石碑や柵石に刻まれている。毎年7/13の初山には、子育ての神が転じて子宝に恵まれる神としても信じられ、新婚夫婦・幼児を抱いたお母さん方など、毎年一万人にも及ぶ参拝客が訪れている。参拝客は、暑さに向かう夏の健康を願いあんころ餅を、夏の難病と厄病を追払い、毎日を健やかに過ごすようにと団扇を買い求め、お仲人や近親者に配る習わしになっている。平成22年(2010)1月吉日 浅間神社総代一同
先の東日本大震災は筆舌に尽くし難いほどの甚大な被害を各地にもたらしましたが、この仙波浅間神社でも社殿の倒壊こそ免れたものの、かなりの被害を蒙ったの。ここでは鳥居脇に建てられていた復興記念碑の内容を紹介しますが、浅間神社総代はもとより、仙波氷川神社や愛宕神社の総代諸氏が復旧委員として名を連ねているの。仙波氷川神社や愛宕神社からすれば本来は他人事のハズなのに、地域の人達がまとまっている証しでもあるわね。
左から、大黒・弁天・疱瘡・金毘羅・風神を祀る末社
〔 復旧の経緯 〕 当神社の本殿は、文政11年(1828)一丈余の岩室の上に更に一丈有余を嵩上げし、天保4年(1833)・大正12年(1923)・昭和6年(1931)に地震の被害を受け修復した。平成23年(2011)3月11日の東日本大地震で、石垣と岩室の本殿・五体連座の末社等が大きな被害を受けた。神社関係者がこれを憂い協議した結果、地震前の原状に復旧させることにした。仙波三神社・六自治会・近隣住民事業者等の方々から絶大なる御支援・御寄進を賜り、立派に完成した。ここに後世に伝承する。崇敬者に御加護あらんことを願う。平成24年(2012)1月吉日 浅間神社本殿等復旧委員一同
ところで、この仙波浅間神社ですが、古墳の上に建てられているの。地元ではこの小山を通称・母塚と呼んでいるみたいね。その母塚ですが、現在は川越市の文化財として保存史跡になっているの。なので「山の中(鉄条網の内側)へは絶対に入って遊んではいけません」とあるのですが、こども達よりも、心ないことをする大人達がいることの方がξ^_^ξとしては心配ね。
〔 浅間神社古墳 市指定・史跡 〕 円墳で、その規模は高さ約5m、周囲42mである。現在この古墳の頂上には浅間神社が祀られており、この為かなり削り取られて墳頂部は平坦になっている。古墳の裾の部分に低いところが見られることから周溝が巡っていたと考えられる。愛宕神社古墳と共に仙波古墳群の中では規模も大きく、群集墳が発生した初期の頃に築造されたものであり、6世紀の中頃のものであろう。仙波地域一帯が農業を専業とする人々によって村落が形作られ、その指導者の墓として作られたものであり、川越市内では、的場古墳群・南大塚古墳群・下小坂古墳群に次いで残っている仙波古墳群の一つである。昭和63年(1988)3月 川越市教育委員会
大きい方が「占肩の鹿見塚」碑になるの。
去り際に石段の参道左手に石碑が二基並び建てられているのを見つけたの。大きい方が「占肩の鹿見塚」碑で、その隣に位置する小振りの石碑は当地・仙波町の略史を刻むものだったの。ξ^_^ξとしては簡略すぎて略史には興味が湧かなかったのですが、扱いが不公平になるのも気が引けますので、併せて転載しておきますね。先ずは、その仙波町略史碑から紹介しますが、文中にある父塚とは、後程訪ねる愛宕神社古墳のことなの。母塚の方は御案内済みよ。エッ、もう忘れちゃったの?
〔 仙波町略史 〕 仙波は仙波郷であり、其の東端は往古に入江でありしと伝え、地名に仙波と称された。また、台地に上代の古墳遺跡があって、父塚・母塚・鹿見塚等がある。鎌倉時代には村山党の高家が仙波氏と稱して此の処の堀ノ内に居館し、永く領知した。江戸時代には川越城附であり、また寛文元年(1661)に仙波東照宮の御神領地となった。天保年間(1830-1844)の郷帳に石高843石余と記され、更に新田も開拓があり、発展を見ている。明治11年(1878)の頃、仙波河岸がつくられ舟運の便も拓け、河岸街道が開設された。大正11年(1922)12月1日仙波村は川越町と合併し、県下で最初の市制施行地と発達した。畑地耕地整理 昭和4年(1929)6月8日起工 赤間川新掘割 昭和13年(1938)5月竣工 題字 川越市長 伊藤泰吉書 川越市文化財保護委員 岸傳平 撰文書
続いて本命の「占肩の鹿見塚(うらかたのししみづか)」碑を紹介するわね。
おいおい、公平な扱いなんか全然してねえじゃんかよお〜。
〔 占肩の鹿見塚 県指定・旧跡 〕 万葉集巻十四の
・武蔵野に 占へ肩灼きまさでにも 告らぬ君が名 うらに出にけり
むさしのに うらへかたやき まさでにも のらぬきみがな うらにでにけり
という歌は、古代日本人が多く住んでいた鹿を持し、その肩を焼いて吉凶を占った習慣にこと寄せた情緒深い歌であるが、この誕生地が長いこと謎だった。この仙波の地には、父塚・母塚も含めて古墳群が形成されていた。しかし、この鹿見塚は大正3年(1914)に東上線が開通する際、破壊され消滅してしまったが、土地の小名にも「シシミ塚」「シロシ塚」などと記録されている。シシとは鹿のことである。建碑の場所は便宜上浅間神社の前を選んだのである。平成4年(1992)3月 川越市教育委員会
実は、この歌にはこの地に結びつくものは何も詠み込まれていないの。あくまでも広義の意味での武蔵野であり、特定の場所が指し示されているわけではないの。じゃあ、どうしてここにこんな石碑が建てられているの?それはあくまでも「占へ肩灼きまさでにも」から連想される状況証拠からなの。
武蔵野に 占へ肩灼きまさでにも 告らぬ君が名 うらに出にけり
この浅間神社から西側に200m程離れて東武東上線が走りますが、鹿見塚はその東上線と川越街道が交差する辺りにあったみたいね。鹿見塚はかなり大型の円墳だったみたいですが、説明にもあるように、線路敷設時に跡形も無く削りとられてしまったの。それはさておき、土地の小名にシシミ塚の呼称が残されているからと云って、この東歌が詠まれた万葉の時代に鹿見塚の呼称が既に存在していたのかどうか、確たる証拠など何も無いのですが、それでもシシは「鹿」を、ミは「見」に通じることから、塚は鹿を相手に狩をするときの見張り場として利用されていたのでは?と云うことは、この辺りでは鹿の狩猟が盛んに行われていた証拠でもあり、捕らえられた鹿の骨を利用した占いもまた日常的に行われていたと考えても差し支えないのでは?そうなると、夢は古の万葉に浪漫を求めて遙かなる「とき」を遡るの。ふと気がつけば、歌に詠まれた武蔵野の地が鹿見塚のあった当地以外には考えられなくなるの。
ねえねえ、歌の意味を教えて。これでは何を云ってるのか分からないわ。
これは占いにこと寄せて女性が想いを募らせている男性のことを詠んだ恋の歌なの。意訳すると「この武蔵野で、鹿の肩骨を焼いて占ってみたところ、口に出しては告げずにいたあなたの名前が、占いにはっきりと出てしまい、思わず辺りを見回してしまったの」と云ったところかしら。周囲の人達には内緒で想いを通わせていた男性が防人として遠く離れた九州へ赴いてしまい、今はただ役務を終えて帰り来るのをひたすら待ちわびている乙女心を詠みあげたものかも知れないわね。
5. 仙波氷川神社
せんばひかわじんじゃ
7:17着 7:29発
画面右手にチョコッと見えている小山を覚えておいて下さいね。
左手に建つのが氷川神社で、右手の小社は末社なの。
この拝殿背後には覆屋に護られた本殿があるの。
稲荷神社と八坂神社の相殿よ。
次に訪ねたのがこの仙波氷川神社ですが、縁起などを知る術が何も無いの。由来が記された案内板や記念碑の類が境内のどこかに絶対あるハズよ−と探し歩いてみたのですが、どこにも見当たらないの。普通は何かしら見つかるものなのですが、ここまで徹底されてしまうともうお手上げね。その名称から推して大宮氷川神社から分祀分霊されたものであることは分かるのですが、創建年代やこの地に勧請された背景など、詳しいことは分からず終い。境内には樹齢を重ねてきたと思われる巨木も多く、その佇まいからすれば古社とは云えないまでも、それなりの歴史を有する社だとは思うのですが。
燈籠が立つこの小山は実は古墳なの。
燈籠が建てられているこの小山は実は古墳(円墳)なの。直径は約15m・高さ約2mほどの小規模なものであることに加え、何の案内も無いので、云われなければそれと気付かずに終えてしまいそうね。現在は氷川神社古墳と云えばこの一基のみを指すのですが、嘗ては他にも数基の古墳が境内に存在していたそうよ。境内の三方を国道R16を初めとした道路に接していることからすると、あるいは道路開削や整地の際に先程御案内した鹿見塚と同じように削られてしまったのかも知れないわね。But 推論モードですので、くれぐれも鵜呑みにはしないで下さいね。だったら書くな!−だったかしら(笑)。
燈籠には「慶應三丁卯禾(1867)6月吉日 石尊大権現 大天狗・小天狗」と刻まれていたのですが、素人目で見ても新旧の造作が混在しているように見受けられるわね。ところで、この石灯籠ですが、この後訪ねる仙波河岸史跡公園との位置関係からお分かりのように、元々は燈明台として使われていたものみたいね。
6. 仙波河岸史跡公園
せんばかししせきこうえん
7:30着 7:59発
公園内に残されている河岸跡
こちらの四阿(あづまや)で一休み・・・
散策やジョギングなど、思い思いに過ごされる地元の方々の姿があったの。
親水公園でもあり、木橋の回廊をめぐりながら散策することも。
〔 仙波河岸のむかし 〕 昔、この場所には仙波河岸(せんばがし)と云う河岸場(かしば)がありました。仙波河岸が出来たのは明治の初め頃のことです。これまでにも新河岸川(しんがしがわ)の下流には既に数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが新河岸川舟運(しんがしがわしゅううん)と云われているものです。仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し、一番新しく出来た河岸場です。しかし、明治の中頃から東京との間に鉄道が整備され始めました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸川舟運も終わりを迎えました。
新河岸川舟運は寛永15年(1638)、焼失した仙波東照宮(後述)の再建資材を江戸市中から運搬したことに始まるの。仙波河岸は愛宕神社のある台地上に降った雨が崖下の湧水となって現れることから、それを溜めておく沼をつくり、そこへ水路を繋げたの。積み荷は川越からは米や麦、穀物などの農産物を、勿論、「川越いも」と呼ばれたサツマイモもね。替わって江戸からは主に日用雑貨品を運んだの。But 説明にもあるように、その舟運も鉄道や道路にとって替わられてしまい、大掛かりな河川改修工事などもあり、昭和6年(1931)には遂に通船停止の県令が出されてしまったの。
明治42年(1909)の仙波河岸・丸川水運回漕店の広告には
・早船 壹艘ヅゝ當河岸毎日午后二時半出帆翌朝八時東京着 東京毎日午后六時出帆三日目當河岸着
・並船 三艘ヅゝ毎日出帆三日目東京着
とあるの。帆に風を受けてはしる高瀬舟にしては割と早いんじゃないの−と云うのがξ^_^ξ個人の感想ですが、みなさんはどう思われます?エッ、三日も掛かってたのかよお〜、何時間の話しじゃねえのかよ−ですか?それは無理よ、今みたいに強力なエンジンを搭載した船じゃないもの。
〔 仙波の滝の水音 〕 昔この場所には「仙波の滝」と呼ばれる滝がありました。これは愛宕神社の崖下からの豊かな湧水による滝で、昭和の中頃まで流れていたそうです。「仙波河岸(せんばがし)」は明治の初め頃にこの仙波の滝を利用して開設されました。写真は仙波の滝で憩う人々の様子を写した明治34年(1901)頃の写真です。
河岸開設当初からあったと云う滝ですが、嘗ては豊富な水量を誇ってはいたものの、宅地造成・整地などの理由から昔日の面影を失い、現在はポンプで水を汲み上げて水量を確保しているの。その滝の景観を紹介しますが、傍らには倶利伽羅龍王や水天宮が祀られているの。
今はポンプを使用して湧水を再現しているの。
水路の水は埋設された水管を通して画面左手にある「滝」に流れ込むの。
これが「仙波の滝」よ。
左手は水神を祀る水天宮で、右は倶利伽羅龍王よ。
龍王が巻きついている剣が倶利伽羅剣。
倶利伽羅龍王は不動明王の化身とも云われているの。
十方庵敬順著【遊歴雑記】には、文政2年(1819)頃の当地のことが記されているの。
お話しの序でに、その一部を紹介してみますね。
社内廣く大仙波のあたごと稱す 此東の崖際より眺望すれば 東南の耕地を一面に見晴し その見渡す廣さ凡二三里四方絶景いふばかりなし 此地高き事凡三四丈社地の樹石天然にして面白し 愛宕の社は左りの方石階三十三段を登りて宮造りす 大さ三間 愛宕山と竪に認めし額は左文山の筆也 本殿の北後へ廻りて見れば古繪馬の數々ある中に 寳永貳年の古繪馬あり 猩とかやいふ獣の左右に立て中央には酒をたたえし壺を置 後には松竹梅を彩色に畫し様惣體の畫風古雅に見ゆ 此山の廣さ頂上に漸く六七間四方 山下みな一面熊笹明間なく生茂れり 東の方山下 棧に瀧二すじ漲り落 但し樋貳筋より逬り流る 是垢離場にして瀧下には貳間に五間の箱を埋めたり 深さ凡三尺ばかり水一盃に湛て四方より溢れ流る 左の方に腰の物かけ衣服の置處行人の腰かけ處等あり 又瀧の落口にはくりから龍の古碑を建てその備へ一風ありて面白し 是より棧を登り半腹より右の細路壹町ばかりに氷川明神の社あり
7. 延命地蔵尊
えんめいじぞうそん
8:03着 8:07発
元文元年(1736)に建立されたと云う延命地蔵尊
「仙波の滝」の先に見えている愛宕神社への坂道を上ると、途中で道が二手に分かれますが、右手に続く道を辿ると道奥にこの延命地蔵尊が建てられているの。
この延命地蔵尊は、今から270年前の元文元年(1736)に祀られました。延命地蔵尊は延命・利生を請願する地蔵菩薩であります。新しく生まれた子を護り、短命・夭折(若死に)の難を免かせると云う。お姿は、左足を垂下する半跏像が多いと云われていますが、ここの延命地蔵尊も半跏像であります。片足を他の足の腿の上に組んで座っておられます。歴史を訪ね、先人の信仰の篤かったことを偲びながら、拝観するのも意義あることでしょう。
8. 仙波愛宕神社
せんばあたごじんじゃ
8:08着 8:32発
この愛宕神社もまた古墳の上に社殿が建てられているの。
鳥居の先で石段が社殿に向かい上っているのでお分かりのように、この愛宕神社もまた古墳の上に鎮座しているの。なので、その古墳のことから御案内しますね。
〔 愛宕神社古墳(市指定・史跡)〕 仙波台地の東南端上に築かれたもので、嘗てこの付近一帯には六つ塚稲荷の名称から考えても多くの古墳群が存在していたことが窺える。高さ6m、東西30m、南北53mを有し、基壇のある二段築成の円墳で、幅約6mの周溝が東南の斜面を除いて巡っている。6世紀中葉期のものと思われる。現在は愛宕神社が祀られている。昭和63年(1988)3月 川越市教育委員会
名月に 麓の霧や 田の曇 〔 芭蕉 〕
元禄7年(1694)8月15日、芭蕉が伊賀国上野赤坂(現・三重県)で月見したときの作品と云われている。伊賀の赤坂も川越の仙波も、ともに台地の突端で眺望が良いところから選句されたと云われている。ここ川越の仙波地域は江戸後期から俳句が盛んで、愛好する人達が安政4年(1857)に建てたものである。芭蕉は、この句を詠んだ日から二ヶ月に満たない10月12日に亡くなってしまったと云われている。
名月に 麓の霧や 田の曇
(蓬莱に 聞)はや伊勢の 初便り 〔 芭蕉 〕 But ( )内は欠損しているの。
元禄7年(1694)元旦、江戸で詠まれた句である。蓬莱飾りにそっと耳を寄せてみると、伊勢からの初便りが聞こえて来るようである。蓬莱は正月の飾り物の蓬莱飾りのこと。三方に松竹梅を立てて白米・しだ・昆布・ゆずり葉を敷き、橙・蜜柑・柚・橘・かちぐり・野老・梅干・ほんだわら・ころがき・伊勢海老などをその上に飾る。ここ川越の仙波地域は江戸後期から俳句が盛んで、愛好する人達が建てたものである。芭蕉は、この句を詠んだ年の10月12日に亡くなったと云われている。
(蓬莱に 聞)はや伊勢の 初便り
燈籠の一部だとは思うのですが。
この狛犬さん、恐そうでいて、どこかユーモラスな表情をしているわよね。
狛犬らしくない表情の狛犬でしょ?
新しく造られた手水舎よ。覆屋が無いので手水鉢かしら。
この少女趣味的なところが大好きよ。
目にした芭蕉句碑を続けて紹介しましたが、個人的に気になったのはむしろ「伊勢の初便り」句碑の背後に置かれていた、この謎の石積みなの。みたところ、燈籠の頭の部分だとは思うのですが、損壊したまま放置されていると云うよりも、廃棄するわけにもいかず、そのままにしてある−と云った風情なの。境内は最近整備されたようで、以前訪ね来たときと比べると様相は大分変わりましたが、この石積みは以前のままに、置かれている場所も変わらずにあるの。恐らくは、名だたる人物が献納したものか、あるいは名工と呼ばれた石匠の手になるものなのかも知れないわね。そうでなければ、とうの昔に廃棄されているハズよね。ね、やはり気になるでしょ?
石段を上るとこの拝殿があるの。
バオバブの木じゃないんだから。これはやりすぎじゃない?
これが本殿よ。背後に立つ黒ずみの木に御注目下さいね。
落雷に依るものみたいね。延焼を免れたのはさすが火防の神の御神威ね。
〔 愛宕神社 〕 地形は高さ6m、東西30m、南北53mの円墳で、父塚と云われ、川越市の指定文化財になっています。鎌倉時代(1182-1331)、今から7-800年前、武蔵七党の一つの村山党に属した仙波七郎高家の墓と云う説があります。祭神は火産霊命(ほむすびのかみ)で、文禄2年(1593)正月、山城国(現・京都)の愛宕山に鎮座する愛宕神社から分霊を奉祭したものと伝えられています。古来より火防の神、麻疹(はしか)の神として信仰されてきました。麻疹が軽く済むようにと母親が子供を抱いて社殿櫓の下をくぐり抜ける習わしがあります。その祭礼は7/24で、7/13の浅間神社(母塚・・・初山)の後に行われます。
9. 天然寺
てんねんじ
8:43着 8:59発
七福神の一神、寿老人が祀られる天然寺
天然寺は天文23年(1554)に栄海和尚が開山したもので、現在は自然山大日院天然寺を正式な山号寺号とする天台宗寺院で中院末になっているの。寿老人が祀られることから小江戸川越七福神めぐりの二番霊場として親しまれ、武蔵国十三仏霊場の一番霊場にもなっていることから不動明王も祀られているの。十三仏は冥府で亡者の生前の善悪所業を審判する、閻魔大王をはじめとした十王に加え、その後の審理を司る王達の本地とされる仏さま達で、不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦如来・大日如来・虚空蔵菩薩の十三仏を指すの。
十三仏は先祖の成仏を願うξ^_^ξ達の願いを聞き届けて下さる仏さまであり、転じてξ^_^ξ達自身の十方三世の守り本尊にもなっていると云うわけ。因みに、その十三仏が勢揃いした「十三佛偕同の塔」が本堂左手に建てられていますのでお立ち寄り下さいね。ところで、十王の裁きとやらが気になった方は、鎌倉歴史散策−北鎌倉編の 円応寺 の項を御笑覧下さいね。但し、くれぐれも日頃の行いに自信のある方だけにして下さいね。
〔 木造大日如来坐像 市指定・彫刻 〕 像高159.8cm、寄木造(よせぎづくり)、彫眼(ちょうがん)、漆箔(しっぱく)。胸前で智拳印(ちけんいん)を結び、結跏趺坐(けっかふざ)する。頭部内刳部(うちぐりぶ)に建武2年(1335)、体部背板に永禄13年(1570)の修理銘がある。様式・形制から11-12世紀頃の造立と考えられる。後補の部分が多く、面部も大幅に削り直しを受けているが、市内に現存する仏像としては、最も古い作例の一つである。平成4年(1992)4月16日指定 川越市教育委員会
この小堂の中に寿老人が祀られているの。
三千年の寿命を持つと云う玄鹿がいないのがちょっとさみしいわね。
・小江戸川越七福神 第二番 寿老人
寿老人は中国の神様で老人星の化身、福禄寿と同体異名であると云われ、富財・子宝・諸病平癒と御利益は多岐に亘っており、特に長寿の神として信仰されております。
秋の七草の「桔梗」よ。
・秋の七草 桔梗
桔梗の花咲く時ぽんと云ひそうな 千代女
秋の七草の朝顔は桔梗を云います。根にはサポニンが多量に含まれており、去痰剤として薬用に用いています。
花言葉−変わらぬ愛
小江戸川越七福神霊場会 (社)小江戸川越観光協会
本堂裏手の高みに立つ慈母観音
あざやかなピンクのアメリカ芙蓉
蓮の花が見られるなんて、きっと早起きのおかげね。
10. 長徳寺
ちょうとくじ
9:04着 9:09発
川越観音の名でも知られる長徳寺
川越観音の名でも知られる長徳寺は、開山は慈覚大師こと円仁と伝えられ、長徳元年(995)、本尊の阿弥陀如来像が突如不思議な浄光を放つと山麓に霊泉が湧出し、その奇瑞に随喜した里人達が堂宇を整備、一条天皇からは冷水山長徳寺の山号寺号を賜ったと云われているの。その後、天文年間(1532-1554)に堂宇を焼失、寛文元年(1661)に再建するも、安政元年(1854)に再び焼失するなど、罹災を繰り返しながらも都度再建されてきているの。永正11年(1514)の中興開山に喜多院第14世実海大僧正の名も見え、安政4年(1857)にはその喜多院にあった常念仏堂(常行三昧堂)を移築するなど、喜多院との関係もかなり強固なものであったことが窺えるわね。
現在は冷水山清浄土院長徳寺を正式な山号寺号とする天台宗寺院で喜多院末。
〔 仙波氏館跡 市指定・史跡 〕 川越市指定史跡 昭和33年(1958)3月6日指定
大仙波の長徳寺は天台宗の末寺で、【新編武蔵風土記稿】に依ると「永正甲戌(1514)天台沙門實海」の名が古い過去帳に記されていたと云う。境内に、元若干の土塁と堀があったと云われ、小字に「堀の内」と云う地名も残っているところから、仙波氏の館跡だと推定されている。
山門脇に立つ傳教大師(最澄)像
【保元物語】に仙波七郎高家、【吾妻鏡】に仙波平太・同太郎・次郎・弥三郎・左衛門尉などの名が見え、在名を以て氏としたことが考えられる。但し、郷庄の唱えでは、この大仙波村は山田庄に属し、仙波庄を唱うる村は、これより南部の市内高階地区と上福岡・大井・富士見・三芳の各市町に拡がっているものが多く、仙波氏の支配した荘園と考えられる。昭和56年(1981)11月 川越市教育委員会
嘗ては境内の北側と南側にそれぞれ100mと150m、また、東西には700mにわたる堀が廻らされていたと伝えられているの。加えて境内の東側は湿地帯が広がり、自然の城塞となっていたみたいね。お城というと石垣が廻らされた強固なものを想像しがちだけど、そこまでのものでは無かったにしろ、当時の長徳寺は寺院でありながら、お城でもあったわけね。長禄元年(1457)には川越城が築城されますが、それまで仙波氏一族は仙波城とも呼ぶべきこの長徳寺に仮寓していたと云うわけ。時を経て、山門右手に立つ傳教大師(最澄)が参詣者を監視(笑)する境内では四季折々の花が咲き、可愛らしい表情の稚児(いもっこ)観音が祀られるなど、優しい雰囲気にあるの。
11. 龍池弁財天
たついけべんざいてん
9:26着 9:33発
地元の方に訊ねながらようやく辿り着けたの。
喜多院の前身となる無量寿寺は、当初、現在は龍池弁財天が祀られる双子ヶ池畔に建てられたと知り、興味を覚えて訪ねてみたの。長徳寺からは新河岸川沿いの道を歩きましたが、問題なのはどの道から分け入るかなの。当たりを付けて幾度か民家脇の道を突き進んではみたのですが、その都度行き止まりに阻まれてしまい、地元の方の姿を探し求めても仲々見つからず、それでもようやく見掛けて道を訊ね、かろうじて辿り着いたと云うわけ。一番簡単なアプローチは新河岸川沿いの道を止めて、バス通りを歩くことかも知れないわね。気がつけば龍池弁財天はバス通りの道路脇にあったの。最初から知っていたらξ^_^ξもそうしたんだけど。
この小堂に龍池弁財天が祀られているみたいよ。
霊蹟と聞き、多少の古雅を期待して訪ねてはみたのですが・・・
〔 龍池辨財天 〕 遙かな昔、この辺りは大きな入江(海)だったと云われています。仙芳仙人がここを霊地(神聖な場所)と感じ、お寺を建てようとしましたが、適当な土地がありません。ある日、仙芳仙人は、この入江の主で龍神の化身である白髪の老人に会い、その老人にお寺を建てる土地を必要としていることを告げると、老人は袈裟を差し出し、この袈裟の広がっただけの土地を授けようと云いました。そこで仙芳仙人が、その袈裟を投げると、みるみる袈裟は広がり大きな入江を覆ってしまいました。龍神は驚き、自分の住む所が無くなってしまうと嘆いたので、龍神のために小さな池を残して辨財天を祀りました。それがこの辨天池と云われています。平成17年(2005)3月吉日 喜多院
水量は決して多くはないのですが、涸れずに今も湧き出しているの。
開発の波が押し迫り、龍神の住み処とするには可哀想なくらいね。
嘗てはムサシトミヨも棲息していたそうよ。
【武州入東郡仙波郷星野山無量寿寺喜多院縁起】等に依ると、喜多院の前身となる無量寿寺の開創は、湖水から祥雲が立ち昇るのを見た仙芳仙人が、毘婆尸(びばし)仏が説法を行った霊蹟であると感得、湖水に住む龍神の助けを得て一宇を建立したものと伝えるの。毘婆尸仏はお釈迦さまが生まれる前にこの世に現れ、衆生を救ったとされる過去七仏の第一仏なの。But 仙芳仙人だけなら未だしも、毘婆尸仏までをも登場させてしまうと、さすがにやり過ぎの感は否めないわね。それに、手にした袈裟が大海原を覆うほどに広がるとは誰も思わないわよね。軒下を貸す積もりで軽く応じたのに、いきなり母屋を乗っ取られてしまうとは、幾ら法威のなせる業だとしても龍神を欺したようなお話しで、これでは元々住んでいた龍神があまりにも可哀想よね。
石柱には「寳暦十庚辰歳三月吉祥日」と刻まれているの。
開創縁起にイチャモンをつけてしまいましたが、ごめんなさいネ。その龍神を祀ったのがこの龍池弁財天なのですが、龍神も時の流れの中で宇賀神へと変わり、宇賀弁財天を経て今にあると云ったところかしら。現在は喜多院の管理下にあることもあって建物も仏堂の面持ちですが、傍らには損壊して放置されたままにはなってはいますが、寳暦十庚辰歳三月吉祥日と刻まれた鳥居も残されているの。祭神も市杵島比売神(いちきしまひめのかみ)に変えられずに弁財天のままでいることからすると、明治期の廃仏毀釈の嵐も無事に乗り越えてきたみたいね。エッ?喜多院のルーツとなる霊蹟故にメンツにかけて守り通した?
12. 三変稲荷神社
さんぺんいなりじんじゃ
9:38着 9:41発
方墳とあるけど、見た目は完全なる円墳よ。
〔 三変稲荷神社古墳 市指定・史跡 〕 当古墳は、四世紀後半(古墳時代前期)に、この地域の首長墓として築造された一辺約20m余りを測る方墳で、入間郡最古の古墳の一つとされる。近隣から表採された鼉龍鏡(だりゅうきょう)と碧玉製石釧(へきぎょくせいいしくしろ)は、呪術的な首長の権威の象徴として、畿内王権から下されたものである。古墳周溝からは、墳丘を囲うように樹立していた壷形埴輪が出土している。平成12年(2000)4月指定 川越市教育委員会
読めない、書けない、何なのか分からない−の三拍子が揃った鼉の字ですが、元々は中国の長江に棲息していた長江鰐を指すことばだったみたいね。その長江鰐が龍と合体して架空の動物、鼉龍となったの。エッ、余計分からない?
一時期荒廃していた無量寿寺(喜多院)を中興開山した尊海僧正に因む逸話が残されていると聞き、足を延ばしてみたのがこの三変稲荷神社ですが、石鳥居の脇に建てられている棒標には三變土田稲荷とあるの。訪ねる前までは三変とはちょっと変わった地名よね−と思っていたのですが、土田稲荷とあることからすると土田を地名とするのが妥当な気がするわね。But そうなると三変の意味が分からなくなってしまうの。
樹齢を重ねたムクノキが今は静かに社を見守るの。
むか〜し昔のお話しだけど、荒れ果てていた無量寿寺に慈光寺から尊海僧正と云うえら〜いお坊さんがやって来たの。その尊海僧正ががこのお稲荷さんにお参りをしていたときのことよ。一尾の白狐が現れると「わたしはこの稲荷神の使いの者よ。年を経ること天竺に千年、唐(から)の国に千年、そしてこの日本にも既に千年住んでいるので、世の中の出来事で、わたしが知らないことなど何も無いわ。今までお詣りしてくれたお礼に、あなたが知りたいと思うことがあれば、何でも教えてあげるわ」と告げたの。これには、さすがの尊海僧正もびっくり。それでも「わしは僧侶の身故弘法以外に改めての望みなど無いのじゃが、一つだけ、釈尊が説法教化しておった当時の様子が知りたいものよのお」と応えたの。
勿論、その希みが叶えられようとは思いもしなかった尊海僧正でしたが、予想に反して「それならお安い御用よ」と、返事があったの。「但し、それには一つだけ条件があるの。今から当時の様子をお目に掛けるけど、何を目にしても決してことばを発してはいけないわ、ひとこともよ。約束できる?」半信半疑の尊海僧正でしたが、それでも約束を守ることにしたの。すると、それまでの見慣れた景色が、みるみるうちに遙か昔の異国の風景に変わったの。それはまさしく経文に描かれた天竺を思わせる景観で、中央には端座合掌しながら説法するお釈迦さまの姿があり、幾千もの弟子や修行者達が取り囲む光景が金色(こんじき)の光を放ちながら尊海僧正の目に飛び込んできたの。
ところが、その神々しさのあまり、尊海僧正は先程の約束を忘れて思わず「南無・・・」と声を発してしまったの。尊海僧正が目にしていた曼荼羅世界さながらの荘厳な景観は忽ち消え失せ、ふと気がつくと息も絶え絶えに苦悶する白狐の鳴き声だけが聞こえていたの。その白狐も、尊海僧正が介抱する間もなく死んでしまったの。約束を忘れて思わず声を発してしまったことを悔いた尊海僧正は、白狐の亡骸を鄭重に葬ると、その後寺の住職となる者には必ず稲荷神を祀るよう固く申し送りをしたの。むか〜し昔のお話しよ。
物語は脚色を交えて紹介しましたが、三変は白狐がインド、中国、日本と三度住み処を変えつつ生きながらえたことに由来するものなのかも知れないわね。三度住み処を変えた稲荷で三変稲荷。違うかしら?辺りには畑も残りますが、その隣には瀟洒な家々が建ち並ぶなど、ここでも宅地造成の波は確実に押し寄せつつあるみたいね。嘗ての方墳も今ではすっかり円墳に姿を変え、樹齢を重ねたムクノキが今は静かに社を見護るの。千年の時を経た暁には何を語ってくれるのかしら?
13. 小仙波貝塚跡
こせんばかいづかあと
9:49着 9:50発
現在はほんの一部を残すのみですが、かなり大規模な貝塚だったようね。
電柱に隠れて「市指定史跡 小仙波貝塚跡」と記す石標があるの。
中央の草叢が説明にある嘗ての泉跡かしら。
〔 小仙波貝塚跡 市指定・史跡 〕 小仙波3・4丁目
小仙波貝塚は荒川右岸の台地端上に形成された古東京湾に臨む最も奥の貝塚跡である。縄文時代前期の頃は北半球が温暖となり氷河が溶けて海水面が上昇した時期で、川越を始め上福岡市※・富士見市にも貝塚が確認されている。小仙波貝塚は、昭和の初期に道路建設により破壊され多くは存在しないが、現存する一部からヤマトシジミ・カキ貝が出土している。現在の指定地は、元清水が湧き出ていた場所で、この泉を中心として縄文時代前期の集落が営まれていた。縄文時代中期以降になると海は退きはじめ現在の東京湾に近づいていった。
網の目状のエリアが貝塚跡なの。かなりの広範囲に及んでいることが分かるわね。
仙波台地は、約6,000年前の貝塚の残された時代から引き続いて弥生・古墳・奈良・平安の各時代の集落が形成された地域である。平成3年(1991)3月 川越市教育委員会
※説明にある上福岡市ですが、平成17年(2005)に入間郡大井町と合併し、現在はふじみ野市になっているの。
右掲は説明板に掲載されていた貝塚跡のエリア図ですが、御覧頂ければお分かりのように、ちょうど先程訪ねた龍池弁財天から三変稲荷、そしてこの場所を結んだ台形状のエリアになっているの。地図ではその広さが分かり難いかも知れませんが、今回は自分の足で歩いた分だけその規模の大きさが実感出来たと云うわけ。But 最初からそうと知って歩いていた訳ではなくて、結果論なんだけど。
14. 浮島稲荷神社
うきしまいなりじんじゃ
10:00着 10:08発
〔 浮島稲荷神社 〕 地元の人々から「うきしま様」と呼ばれ、広く親しまれているこの神社が、いつ頃建てられたのかは定かでない。嘗ては末広稲荷とも呼ばれ、安産の神として麻を奉納する風習が伝えられている。云い伝えに依れば、大昔、星野山(今の喜多院)にあったのを慈覚大師が喜多院を開いたときここに移したとか、また一説には、太田道灌の父・道真が川越城を築城した際に、城の守護神としてこの地に祀ったものとも伝えられている。現在ある社殿は大正4年(1915)に改築したものである。
今ではこの一帯もすっかり様子が変ってしまったが、以前は七つ釜といって、清水の湧き出る穴が七つもあり、一面葦の生い茂った沼沢地であった。そのため遠くから神社を眺めると、ちょうど島のように浮かんで見えたところから浮島神社と呼ばれるようになったと云う。また、伊勢物語を初めとして、昔からしばしば和歌に歌われた「三芳野の里」や「たのむの沢」は、この辺りを指すのだとも云われている。昭和57年(1982)3月 川越市
浮島稲荷神社周辺 片葉の芦叢生乃所碑
〔 浮島稲荷神社周辺 片葉の芦叢生乃所碑 〕 昔、神社の裏側には清水町と呼ばれた湧水の地があり、川越城七不思議に数えられる夜奈川と云う流れや、七つ釜と云われる泥深い所もあり、社域は水中に浮かぶが如く、川越きっての景勝の地で、浮島と云う社名もそこから起こったものと思われる。その後、水は涸れ埋め立てられて市街化し、今は以前の面影はないが、古くは「片葉の芦」と称する芦が叢生し、和歌にも詠まれ、いとも風雅であった。もはや古しえを偲ぶよすがもないが、せめて碑を建て思い出とし語り草とする。昭和56年(1981)文化の日建立 勲四等 卆壽 山崎喜七
ここで皆さんにも「七ツ釜と片葉の葦」のお話しを紹介しますね。
創り話しだとは分かってはいても、どこか切なくて哀しくなるお話しよ。
この池は七ツ釜の名残かしら?
むか〜し昔のお話しじゃけんども、それまではお城に住んで何の不自由もなく暮らしておった姫さまじゃが、城主さまが戦さに破れてしまってのお、落城も時間の問題じゃで、せめて姫さまだけでも−と周囲の勧めもあって乳母に連れられて城を落ち延びたそうじゃ。そうしてこの浮島神社近くの七ツ釜と呼ばれておった沼地に逃げ込んで来たんじゃが、その頃の七ツ釜は葦も沢山生えておってのお、湿地には大小の沼が点在しておったのじゃ。闇に紛れて逃れて来たもんじゃで足元もよう見えんでのお、あろうことか、姫さまは誤ってその七ツ釜の一つに落ちてしまったのじゃ。
これがその「片葉の葦」・・・みたいね。
乳母は敵の目を逃れる身であることも忘れて大声で助けを求めたんじゃが、誰一人として助けにくる者などおらんかった。もとより老いた女手の乳母の力ではどうしようも出来んでのお。そうこうしている間にも、姫さまの体は浮きつ沈みつつあり、姫さまはただもがくばかりじゃった。それでも近くに葦の葉を見つけ、必死にしがみついて這い上がろうとしたんじゃが、葦の葉はもろくも千切れ、姫さまはその片葉を握りしめたまま水底に沈んでいってしまってのお、哀れな最期を遂げられたそうじゃ。それからと云うもの、この七ツ釜に生える葦はみなどれも片葉の葦になったと云うことじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。
浮島神社碑
〔 浮島神社碑 〕 此社地一帯を稱して昔は多能武澤といひ 三芳野里の内にして眺望殊に勝れ 古より雁の名所として詩歌により名高く武蔵名所考にも記載あり 而して川越史蹟にして附近に夜奈川七ッ釜片葉の葦等の傳説あり 境内は所謂浮島にて小丘に稲荷社を祀る 傳云太田道真川越城之守護神として祀り崇敬有しと 御祭神倉稲魂命にて古来より尊崇篤く安産乃神として霊験灼かにして麻を納むるの風習あり 社記云 元は浮島末廣稲荷神社と稱し別當福壽坊祭祀を司る 文政9年(1826)久保町より石華表※を奉納し天保11年(1840)社殿の再建有 又 神泉を清め石橋を設け浄水盤石を寄進せり
明治維新之後浮島稲荷神社と改稱し 大正4年(1915)御大典紀念に本社拝殿等改築 同7年(1918)社務所を新築 昭和6年(1931)社有地と隣地との無償交換成立し 以て境内の擴張を計り 其神域を清浄に整備し 植樹献燈風致を添え 崇敬者常に協力一致其神徳をたかめたり 今茲に皇紀二千六百年を祝福し 社祠之概要を記し 以て後世に傳へる乃巳 昭和16年(1941)10月建設 久保町町内會 川越史料嘱託 岸傳平 撰文書 題字 西村梧雲 筆 〔 一部修正加筆 〕
※華表:元々は宮殿や陵墓などの前に建てられた石柱のことで、ここでは神社のことを云っているので、鳥居のことになるの。
15. 火除稲荷神社
ひよけいなりじんじゃ
10:18着 10:20発
建物に挟まれて申し訳程度の敷地に建てられていたの。
この火除稲荷神社ですが、最初からその存在を知って訪ねたわけではなくて、地図を見ると次に訪ねる出世稲荷の直ぐ近くにあることから念のために足を向けてみたの。訪ねてみると御覧のように細い路地の奥まった場所に、それも建物に挟まれた申し訳程度の敷地に建てられていたの。来歴を語る石碑でも無いのかしら−と境内を見回しても、それらしきものは見当たらず、詳しいことは分からず終いなの。これは想像でしかないのですが、過去に起きた大火の際に危ういところで被災を免れた家があり、その理由として、家主が日頃からこの稲荷を崇敬していたことから罹災せずに済んだとされたのかも知れないわね。
燃えさかる炎を象ったものよね、これは。
そうして、いつの頃からか火除稲荷として人々の信仰をあつめるようになったのかも。かもよ、かも。因みに、川越では主だったものだけでも、寛永15年(1638)・弘化3年(1846)・明治2年(1869)・明治26年(1893)の大火があげられるの。中でも明治26年(1983)の川越大火は家屋1,300戸を焼き尽くすほどの猛火で、以後に蔵造りの商家が多く建てられるようになる切っ掛けにもなったの。現在は建物にも防火・耐火の建築資材が多く使われるようになりましたが、だからと云って火災が発生しないわけでは決して無いわよね。奉納された絵馬からは火の怖さを知る地元の方々の祈りが伝わってくるの。
16. 出世稲荷神社
しゅっせいなりじんじゃ
10:22着 10:36発
画面両袖に大きな公孫樹の木があるの。
〔 稲荷神社由来 〕 祭神:宇迦之御魂大神・佐田彦之大神・大宮能売ノ大神
当稲荷神社は天保2年(1831)地主・立川氏が屋敷鎮守として京都・伏見稲荷大社本宮より分社したるものなり。古来、稲荷神社は和銅4年(711)元明天皇創建以来、農民による稲作、穀物の豊作祈願の神として祭られたもので、宇迦之御魂大神を穀神、佐田彦之大神を地神、大宮能売ノ大神を水神と説明する。天慶4年(942)朱雀天皇より正一位を賜る。中世から近世にかけて庶民信仰が広まり、五穀豊穣のみならず衣食住・商工業・開運出世・進学・就職・縁組・安産等諸々の願い事が叶う神様として、幅広い神徳が仰がれるようになった。大祭は毎年4月10日 平成15年(2003)3月吉日 稲荷神社
この大公孫樹に因み、いちょう稲荷とも呼ばれているの。
〔 イチョウ 市指定・天然記念物 〕 いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。樹齢は600余年と推定され、見事な美しさと枝張りを示し、樹勢も極めて旺盛である。公孫樹は日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋には鮮やかに黄葉する。雌雄異株で、種子は所謂ギンナンで食用となる。昭和33年(1958)3月6日指定 川越市教育委員会
ここで、この出世稲荷に纏わる昔話を紹介しますね。
やはり、霊験灼かと云えども普段からの信仰無くして出世はあり得ないみたいよ。
むか〜し昔のお話しじゃけんども、今では出世稲荷とか、いちょう稲荷と呼ばれておるんじゃが、昔は窪稲荷と呼ばれておった頃のお話しじゃ。この窪稲荷を熱心に参拝する魚屋が近くにおってのお、その日は商いで桶川の宿まで出掛けたんじゃが、帰る頃にはすっかり陽が暮れてしまってのお、仕方なく一泊することにしたそうじゃ。明日は早くから商いに出なければならんで、朝早く宿を発とうと準備をして、その日は早々と床に入ったそうじゃ。ところがじゃ、魚屋の夢枕に狐が現れて、宿を早立ちすると災いがある−とのお告げがあったそうじゃ。そこは普段から稲荷に信仰を寄せておった魚屋じゃ、お告げのままに陽が昇るのを待って昼過ぎに宿を出たそうじゃ。
果たして川越に向かう道の途中で大勢の人が群がり騒いでおったそうじゃ、見ると若い娘さんが狼に襲われたあとじゃったそうな。あのお告げがなければ朝早く宿を出ていて、自分が狼に襲われておったかも知れんのお、あの狐こそ稲荷さまのお使いで、窪稲荷さまが自分を心配して下さったのかもしれん、ありがたいことじゃ−そう思うた魚屋は前にも増して窪稲荷を篤く信仰にするようになったそうじゃ。それに合わせて商いも増え、店も大きくなって繁昌したそうじゃ。それからと云うもの、誰云うとなく、この窪稲荷を出世稲荷と呼ぶようになったそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。
実はお話しには続きがあるの。この出世稲荷に願を掛けるときには、良いお嫁さんをお世話しますので、どうか出世させてください−と祈るのだそうよ(笑)。そうして女性の姿を画いた絵馬や人形を納めると良いのだとか。出世祈願が凡そ俗っぽい願いなら奉幣もまた思いっきり俗っぽいわね。それで本当にお稲荷さんの心を動かすことが出来るのかしら。残念ながらξ^_^ξが訪ねたときには境内を探してみても絵馬は一つも無かったけど。
17. 成田山川越別院
なりたさんかわごえべついん
10:47着 11:09発
成田山と云えば成田山新勝寺よね。その別院が何故川越に?
〔 成田山川越別院 〕 成田山川越別院は成田山川越別院本行院と称し、いつの頃からか「久保町のお不動様」とも呼ばれるようになった。本尊は不動明王で、内外の諸難や汚れを焼き払い、人々を守ると云われ、願をかける時などに奉納する絵馬のため、境内には絵馬堂も建立されている。当寺は、江戸時代も末の嘉永6年(1853)、ペリーが黒船を率いて浦賀に来航した年に、下総の国新宿(現葛飾区)の石川照温が、廃寺となっていた本行院を成田山新勝寺の別院として再興したのが始まりと云われている。石川照温については、次のような話が伝えられている。
この広さは大型バスが大挙して押し寄せてきても平気な位ね。
農家に生まれた石川照温は、30歳の頃に目が見えなくなってしまった。光明を失くした照温は、ある日のこと、自ら命を絶とうとしたが、その時不思議なことに光を失った眼前に不動明王が見えたので、俄に仏道に目覚め、それまでの生活を改めるとともに、有名な成田山新勝寺のお不動様を熱心に信仰するようになった。その甲斐あってか、失明した目もいつか昔のように見えるようになったので、愈々仏道に励み、当地に寺を建立し、多勢の信者から慕われるようになったとのことである。尚、照温の碑が近くの中院墓地に建てられている。昭和57年(1982)3月 川越市
大師堂を囲むようにして新たに御砂踏の霊場が造られたの。
〔 四国霊場御砂踏みについて 〕 四国霊場とは弘法大師(空海)ゆかりの寺々を発心の道場(阿波・徳島)修行の道場(土佐・高知)菩提の道場(伊予・愛媛)涅槃の道場(讃岐・香川)の四国に配し、札所の数は八十八ヶ寺その全行程は1,400kmに及びます。御砂踏とは八十八ヶ寺、霊場各々の境内から頂戴してきた御砂を足元に埋め込み、その上に立って各寺の御本尊を巡拝することによって直接四国霊場を巡ったと同様の御利益が得られると云われております。どうぞ皆様には、お大師様と同行二人ご自由に参拝下さるようにおすすめ致します。
ドライバーを睨みつけるがごとく、仁王立ちならぬ不動立ちしているの。
宝剣は不動明王の象徴ね。
大師堂の裏手、車道側には宝剣塔と不動明王像が建てられているの。宝剣は不動明王の象徴よね。一方の不動明王像ですが、その多くが憤怒の形相に加えて宝剣(三鈷剣)と火焔を背にした姿で彫像されますが、宝剣と火焔には一切の邪悪と罪障を滅ぼす力があるとされているの。因みに、不動明王の梵名は Acalanatha で、阿遮羅嚢他と音訳されているのですが、元々は不動のものを意味し、そこから不動明王と名付けられたようね。ヒンズー教ではシバ神の異名とされていたのですが、仏教に採り入れられると大日如来の忿怒身として最高の明王に迎えられ、ヒンズー教最強のシバ神が仏教でも最強の守護神として祀られるようになったの。
開運出世稲荷大明神ともあるの。期待しちゃう?
大師堂の次に位置してこの稲荷神社があるの。扁額には荼枳尼天尊とあるので仏教系のお稲荷さんね。尚、荼枳尼の荼は実際には咤の右側のウ冠を外した字になっているの。But 表示不能ですので通常の荼枳尼としていますので御了承下さいね。その荼枳尼天ですが、元々はヒンズー教の神さまで自在の神通力を持つと云われたダーキニー神 Dakini が仏教に習合され、荼枳尼と音訳されたの。その荼枳尼天が更に稲荷神と習合されてゆくの。ダーキニー神は自在の神通力を持ち、人間の生死を半年前に見抜き、その心臓を喰らう鬼女だったのですが、大黒天に敗れた後は眷属となり、仏教の守護神になったの。
その荼枳尼神も古代インドではジャッカルの背に乗る姿で描かれるのですが、中国では似た姿形の狐を使いとしたの。供物にしても元々はネズミを油で揚げたものだったのですが、仏教では殺生を禁じられていたのでその代用とされたのが油揚げなの。と云うことで、お狐さまも精進料理に替えられてしまったと云うわけ。嘘みたいなホントのお話しよ。
社殿には地元川越の名工・野本民之助の彫刻が施されているの。
限られた板厚の中で、この立体感と躍動感はやはりみごとよね。
〔 郷土川越の名匠野本民之助の彫刻 〕 野本民之助義明は天才肌の彫工として世に認められ、短い生涯の内に川越から関東一帯に多くの名作を残している。大正8年(1919)に川越市指定文化財幸町「翁」の山車彫刻を完成し、翌大正9年(1920)、当成田山本行院の改築に際して、本堂・山門などの彫刻を28歳で請け負い、本堂の水引虹梁上の「目抜き龍」を始め数々の名作を彫り上げ、若くしてその名声を不動のものとした。大正11年(1922)請われて製作した日清紡績川越工場屋敷稲荷社殿は、永く社運を守ってきたが、平成21年(2009)工場撤収のため空宮となり、当山の出世稲荷大明神の社殿に遷座した。
円熟期に入った民之助30歳、入魂の傑作である。日清紡時代の保存は極めて良く、88年の星霜を過ぎた今も繊細な鑿の躍動が冴え、間近に見てもみごとである。奥の脇障子は、旧鍛冶町の山車の由来である三条小鍛冶宗近作刀の図である。天は二物を与えぬと云うが、民之助は36歳で夭折した。類稀なる名匠の死を悼み、多くの皆さまのご鑑賞を願うものである。平成22年(2010)3月吉日 川越市文化財保護協会
稲荷社に引き続き、川越七福神の一神・えびすさまを祀る小堂があるの。
この成田山川越別院は川越七福神めぐりの四番札所でもあるの。
祭神は御存知えびすさま。
あらあら、えびすさまだけではなくて大黒さまも一緒よ。
・小江戸川越七福神 第四番 ゑびす天
恵比須様は「福の神」の代表で、農村では田の神、街では市神、福利を招く神として
鯛を抱いた福々しい相好で馴染み深く、人々から深い信仰が寄せられています。
・秋の七草 撫子
なでしこが花見る毎にをとめらが ゑまひのにほひ思ほゆるかも 万葉集巻十八
河原撫子は河原辺に生える可憐な花の意味で、美しい淡紅色の花を開かせます。花言葉−貞節
小江戸川越七福神霊場会・(社)小江戸川越観光協会
恵比須さまの隣には「めめ」(実際には片方が反転)の文字が描かれた不思議な絵馬が沢山掛けられている堂宇があったの。最初にその絵馬に目が留まったξ^_^ξは「何なの?この変な絵馬は」状態。その疑問に答えてくれたのが傍らに建つ開創縁起を記した案内板だったと云うわけ。
これは本行院を再興した石川照温師を祀る開山堂なの。
文字だからいいけど、絵で描かれていたらこわいかも 。
〔 開山堂 〕 成田山川越別院本行院は江戸時代末期に石川照温師によって開創されました。師は幼い頃から波乱に富んだ生活を送る中、両眼を失明しました。絶望の末に三度も自殺を図ったが果たされず、これは神仏が未だ自分をお見捨てにならないからだと信じ、千葉県の成田山新勝寺に於いて断食の苦行に入りました。この修行で見えなかった両眼が少しずつ見えるようになり、遂に満願の頃には全く平癒することが出来たのであります。そのため不動明王の大慈悲に心から感激した師は一生を不動明王に捧げようと新勝寺で出家得度しました。
その後不動明王の御霊徳を世に広めるために諸国順礼の旅に出ると、各地で師の徳を慕い集まってくる人が増えました。そこで地元の有力者が、師にここ川越の地に安住していただこうと、廃寺になっていた本行院を再興しました。そして嘉永6年(1853)に成田山貫首照輪上人が御本尊不動明王の御分霊を照温師に授与せられました。これが成田山川越別院本行院の起源となり現在に至ります。
改築したのはいいけど、このアンバランスはちょっと極端よね。
通用門と呼ぶには立派すぎるわね。But 何と呼ぶのかは分からないの。
道路側に小堂が勢揃いしているの。
本堂の右手にこの弁天池があるの。
弁財天は弁財天でも縁結七福弁財天だそうよ。御縁がありますように。
水掛不動尊よ。水を掛けたら怒られそうな形相だけど。
石段を上った右手にお賓頭盧尊者が端座しているの。
撫仏のお賓頭盧尊者
〔 お賓頭盧(びんづる)さま 〕 お賓頭盧さまはお釈迦さまの偉いお弟子の一人で、正しくは ビンズルハラダ Pindola Bharadvaja と云い、後に中国人がこれに漢字を当てて賓頭盧頗羅堕と書くようになった。お賓頭盧さまは幼い頃から賢く頭の良い人で、お釈迦さまに従い出家して悟りを開き神通力を得た。しかし、生きの身は何かと罪をつくるもので、その罪滅ぼしに自分の死後はお寺の軒先に居て、病気を治したり悩みを解決することを誓った。このようなことからお賓頭盧さまの身体に手を触れ、それを自分の身体につければ、病気が治り、頭が良くなる仏様として多くの人々に親しまれている。
18. 川越歴史博物館
かわごえれきしはくぶつかん
11:10着 11:35発
成田山川越別院の向かい側にあるのがこの川越歴史博物館で、地元・川越に纏わる歴史資料が展示されているの。建物もこじんまりとしていて博物館と云うよりも史料館の趣きなのですが、それでも1Fには十手を初めとした捕り物用具や灯火具が、2Fでは埴輪などの出土品や川越城に関連した品々を、また、3Fには兜や甲冑などの武具が展示されているの。中でも甲冑が数多く展示されているのはさすが川越城下だけのことはあるわね。But ξ^_^ξの目を引いたのは御覧の十手と灯火具なの。
TVの時代劇などで目にする十手は短いものばかりで、長い刀を相手に本当に太刀打ち出来たのかしら−と思ってしまいますが、やはり最初の頃は長い十手がちゃんとあったのね。松灯蓋にしても然りで、油を燃やす時代劇の舞台はあくまでも裕福なお家と云うことだったのね。
・川越藩村方役人所用 打払い十手・棒十手(江戸時代前期) まだ世の中が乱れていた時代、刀と対等に立ち向かえる長さと捕り物に用いる武器として使われた稀少な、十手の初期の形である。南畑村大久保 大沢家伝来
これは時代劇などで見掛ける普通の長さの十手よね。
長刀と変わらない長さがあるの。
幕末から大正期に掛けて使用された灯火具を展示したコーナー
これは松灯蓋(まつとうがい)と呼ばれるもの。
・松灯蓋(まつとうがい)昔は一般の家庭では苦しい生活の中で油やロウソクは高価で貴重な物でした。そこで松やにを多く含む松の根を乾燥させ小さく切り皿の上で燃やして灯りとして用いたのです。今では数少ない貴重な資料です。
巫女のみが使用を許されたと云う六鈴鏡
そして、もう一つ気になるものを見つけたの。それがこの六鈴鏡なの。天岩戸神話では、素戔嗚尊の悪さに耐えかねた天照大神が天岩戸に隠れてしまい、八百万の神々を前にして舞を舞う天細女命ですが、そのとき命が手にしていたオガタマノキの実が神楽鈴の起源だとも云われているの。オガタマノキは「招霊の木」とも書かれ、招霊は招魂の転訛だとも云われているの。そのオガタマノキですが、花が咲いた後に緋い実を付け、乾くとマラカスのようにシャラシャラと音がするのだそうよ。天細女命はその緋い実を沢山付けたオガタマノキを振りながら神楽を舞い、天照大神の登場を願ったの。と云うことで、鈴の音は神さまを招来するための、まさに呼び鈴なの。
・六鈴鏡 古墳時代 児玉郡出土 鈴鏡(れいきょう)とは鏡の回りに鈴がついている鏡を云う。古墳時代に巫女が腰に下げたり持ち歩いたり祭儀などに使用し、鏡を振って音のする所に神が降りてくると思われていた。巫女しか持つことが出来なかったので、他の古墳時代の鏡に較べ、数は極めて少なく貴重である。