梅雨明けと一週間後に控えた海開きの間隙をぬって外房の勝浦を歩いてみたので紹介しますね。前日は折角の七夕も雨模様でしたが、当日は天候にも恵まれて素敵な散策を楽しむことが出来ました。梅雨時は部屋干しに甘んじていたお洗濯物が思いっきり外干し出来るようになった気分ね。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。
1. JR新宿駅 しんじゅくえき 7:19発
新宿からは外房に出掛ける際のお決まりコースにしている「新宿わかしお号」に乗車しましたが、房総方面へ向かう特急は東京駅の地下、それも京葉線ホームからの始発が基本なの。ここでは「新宿わかしお号」を紹介していますが、他の列車を利用される場合には御注意下さいね。因みに、「新宿わかしお号」は秋葉原と錦糸町に停車しますので、二駅へのアプローチが容易な方はそちらから乗車されてみては?東京駅での長〜い連絡通路を歩かずに済む分だけ朝寝坊出来るんじゃないかしら。乗車券:¥1,890 特急券:¥1,300 ( ′07.07 現在 )
2. JR勝浦駅 かつうらえき 9:08着 9:27発
勝浦の散策コースには幾つかのバリエーションがあるのですが、今回はちょっと手抜きをして駅前からタクシーに乗車して官軍塚に向かい、そこを起点に歩き始める行程を組んでみました。なので、前半は太平洋の大海原を眺めながらのパノラマビューが楽しめるのですが、後半は神社仏閣を中心とした歴史散策となるの。歴史なんて興味無いわ−と云う方には後半は苦痛(笑)かも知れないわね。その場合は適宜読み飛ばして下さいね。それでは出発よ。と、その前に駅前にある観光案内所で忘れずにイラスト・マップをゲットしましょうね。タクシー料金:¥820( ′07.07 現在 )
3. 官軍塚 かんぐんづか 9:45着 10:06発
現在では官軍塚周辺一帯が展望園地として整備され、訪時には植栽された紫陽花がまさに見頃を迎えていました。勝浦駅に降りた時には曇り空が広がり、先行きに一抹の不安を抱えての出発でしたが、ここに来て眩しい程の陽射しが降り注ぎ、加えて紫陽花の花が見られるなんて、予想外の展開にすっかり感激。紫陽花には雨がお似合いかも知れないけど、散策するにはお陽さまが欲しいわよね。紫陽花の花にしてもお天気の方が色鮮やかに見えて綺麗よね。
歴史的な背景から、朝廷(天皇)に逆らうとはとんでもねえ野郎だ−と云うことで、官軍に敵対した旧幕府側の軍勢は賊軍扱いになってしまったの。因みに諺の意味は、理屈がどうであろうと勝利者側が正しく、敗者は悪者で、勝利者の論理が常に優先されることの喩えで、要は勝たなくてはダメと云うことね。余計なことをグダグタと書いてしまいましたが、肝心の記念碑には何が書いてあるのか早く教えろ!と云う方のために全文を転載してみますね。尚、一部修正加筆していますので御了承下さいね。
明治のはじめ、幕臣榎本武揚は新政府に反抗して北海道五稜郭に立てこもった。朝廷は弘前藩主・津軽承昭(つがるつぐあきら)に命じ討伐させたが容易に鎮圧できなかった。これを知った弘前藩主の実兄・熊本藩主・細川韶邦(ほそかわよしくに)は進んで援軍を決意し、明治2年(1869)1月2日藩兵三百数十名を品川沖から出航させた。しかるに翌夜暴風雨に遭い、不幸この地根中岩礁に難破した。この時川津村民は村を挙げて決死的救助に努めたが遂に二百余名の溺死者を出すに至った。村民深くこれを哀れみ、ここ花立台に葬り、官軍塚と称し香花を絶やすことなかった。たまたま太平洋戦争中、沿岸警備陣地となり旧態を失ったが、昭和38年(1963)県史蹟に指定、本年遭難百年に際し、改めて碑を建て往時を回想するものである。昭和44年(1969)1月3日 撰文 千葉県知事 友納武人 題字 細川護立
園地内にはこの記念碑の他にも二つの案内板があり、それぞれに記載内容が異なるの。中でもξ^_^ξが気になったのが溺死者の数で、官軍塚之碑では200余名とされているのですが、駐車場脇に設置されていた説明板では130数人となっているの。詳しいことは門外漢のξ^_^ξには分かりませんが、新たな史料の発見などから訂正されたものかも知れないわね。どちらにしても数多くの尊い命が失われた訳で、救助にあたった川津の方々の労苦が偲ばれる逸話ですよね。
4. 平和観音入口 へいわかんのんいりぐち 10:16着発
前述の事由から未体験で終えていますが、慰霊碑の丘には小さな観音像が立てられていると聞きました。時代を違えても、そこには敵味方の区別無く、出征した我が子や兄弟が無事に帰還することを願う家族の姿があったハズよね。与謝野晶子に限らず、皆「君死にたまふことなかれ」が本当のところだったのではないかしら。中には日本の昨今の世情を平和ボケだと非難する向きもあるけれど、寄せては返す波のように、穏やかな日常が永遠に続くことを願わずにはいられませんよね。平和だからこそ、こうして脳天気な旅を楽しむことが出来るわけだもの。
道すがら岩場に釣り人の姿を認めて撮したものですが、荒磯には石を切り出したような痕が数多くあるの。姉妹編の 尾名浦海岸と鵜原理想郷 の勝浦海中展望塔 の項をお読み頂いた方は既にお分かりでしょうが、実は、これ、生け簀なの。と云っても、現在では使用されてはいないのですが、カツオやマグロを釣り上げる時の餌にするイワシを活かしておくためのものだったの。中には伊勢エビを捕まえる囮漁法の生け簀なんてものもあったのよ。
勝浦港に水揚げされるカツオの漁獲高は県内随一を誇るのですが、その漁場となると今では遙か沖合に移ってしまい、沿岸部では殆ど漁が出来なくなってしまったの。昭和30年頃(〜1955)までは実際に使われていたとのことですが、漁場の移動と漁法の変化を受けて生け簀も無用のものとなったの。貴重な歴史遺産と云ったら大袈裟かも知れないけど、勝浦周辺ではあちらこちらでこの生け簀跡を見ることが出来ますので、気にとめておいて下さいね。
5. 勝浦燈台 かつうらとうだい 10:25着 10:32発
生け簀が見えた場所から5分程歩いた所に建つのがこの勝浦灯台で、左掲の写真を収めるのに反対側の脇道に入り込んだのですが、その際に丘の斜面に石碑らしきものが頭だけ出しているのが見えたの。その正体を確かめようとしたのですが、残念ながら生い茂る竹や草木に阻まれて接近遭遇出来ずに諦めたの。 勝浦市HP によると、富安風生と云う方の句碑だったみたいね。ホトトギス派を代表する俳人で、碑には「鶯や 礁へ落とす 萱の径」と刻むとのことですが、その方面には完璧に!疎いξ^_^ξですので、記した以上のことは他のサイトを御参照下さいね。
これもまた帰宅後に知ったのですが、その脇道は無線方位信号所に通じる道で、普通の方には無縁の道路よね。ξ^_^ξは灯台を写したくて分け入ったことから石碑の存在を知り得たのですが、そうでなければ気付かずに終えてしまったと思うの。何故そんな場所に句碑を建てたのか、ちょっと気になるわね。ξ^_^ξならこれみよがしに思いっきり目立つところに建てた上で、地べたは草木が生えないようにコンクリートで塗り固めてしまうけど。そこは俗人とは違う俳人の世界ですから、その心情に配慮して件の立地となったのでしょうけれど、その背景が知りたいわね。どなたか御存知の方、いらっしゃいます?
灯台入口の傍らには案内板がありましたので紹介してみますね。
外房で最も東に突き出た「ひらめヶ丘」は海抜70m、眼下は遙か太平洋。この丘上に建つ白色八角形の勝浦灯台は北の犬吠埼灯台や南の野島崎灯台と並んで県内を代表する灯台であり、外洋航路の安全に重要な役割を果たしています。大正6年(1917)2月に竣工し、3月1日に初めて光が灯されました。灯高は21m、光度は14万燭光の白色閃光。毎秒221kmで、実に千葉〜東京間を照らし続けています。また、この丘上から望む日の出は県内随一とも称され、勝浦湾の落日と並び、雄大であり、絶景です。環境省 千葉県
ひらめヶ丘の部分ですが、実際の案内板ではひらめきヶ丘と記されているの。ガイドブックなどではひらめヶ丘となっていましたので、多数決の原理で、ここではひらめヶ丘に修正の上で転載してみたのですが。個人的には灯台があるのですから、ひらめ(閃)きヶ丘とする方が自然のような気がするんだけど。本当はひらめヶ丘で、灯台のイメージに騙されて案内板の作成者が、何だ、一字足んねえじゃねえのか、この原稿はよお〜と、意図的に「き」を補ってしまったのかも知れないわね。どちらが正しいかは御覧の皆さんの御賢察にお任せですが、さっきから、なに、一人でこだわってんだよ〜、そんなの、どっちでもいいじゃんかよ〜だったかしら?
入口は門扉が閉じられ、車両の進入は出来ない状態でしたが、関係者以外立入禁止の注意書きが無いことをよいことに失礼して立ち入らせて貰っちゃいました。かと云ってフェンスを乗り越えた訳では無いのよ。先人達が踏みしめた小径があったの。それが無ければ諦めていたと思うわ。俗に云う「赤信号、みんなで渡れば怖くない」かしら。灯台と云えば所轄は海上保安部で、この勝浦灯台は銚子海上保安部の下部組織となる勝浦海上保安署の管轄なの。御上(笑)の管轄区域に踏み込むのですから、覚悟の上で見学させて貰いましょうね。
この灯台は大正6年(1917)3月1日設置点灯されました。それ以来、船舶の安全な航海を願い、この南房総の海上を照らし続けています。私たちは今更ながら歴史の重みを感じないではいられませんが、特に昭和20年(1945)、第二次世界大戦末期の2月25日から8月15日の終戦までの間、20数回にわたり米海軍艦載機の襲撃を受け、灯台と当時この構内にあった宿舎に相当な被害のあったことが記録されています。その後、数回にわたり機器の改良が行われ、昭和58年(1983)3月にタイル貼りの灯塔に改造されたのが現在の灯台です。
でも、ξ^_^ξが推薦するとしたら先程紹介した官軍塚の方ね。高台に立地することから洋上方向には障害物は何も無いの。加えて駐車場もお手洗いもあるし、広い園地ですから大勢で押しかけても押し合いへし合いせずに済みますね。オマケに公共施設ですから不法侵入者になるわけでは無いので、誰に気兼ねすることなく正々堂々としていられるの。もう一つはこの後紹介する八幡岬公園ね。残念ながら、その幾れの場所でも実際に初日の出を見たわけではありませんので無責任モードですので、お出掛けの際には自己責任でお願いしますね。
勝浦灯台を過ぎると道は陸地側に大きく湾曲しますが、左手には御覧の景観が広がるの。洋上に突き出た岬は次に訪ねる八幡岬ですが、この景観は今回の散策コースで見ることが出来る一番の絶景ではないかしら。ξ^_^ξの拙い写真では目にした時のあの感動をお伝えすることが出来ませんので、皆さんも是非御自身の目で追体験してみて下さいね。
6. 鳴海神社 なるかじんじゃ 10:45着 10:53発
八幡岬の景観を左手に見やりながら歩くこと10分余り。右手に続いていた木々の間にぽっかりと穴が開いたような場所がありました。入口脇の草むらには杭が建ち、何か記されてはいたのですが殆ど判読不能で、加えて鎖で通行止めになっていたの。そうなると余計に何があるのか気になり、失礼して不法侵入(笑)させて貰いました。そうして見つけたのがこの鳴海神社だったの。実はガイドブックに掲載されていた地図にその名が記されていたことから存在が気にはなっていたのですが、鳥居も無く、こんなところに社殿があるとは夢にも思わなかったの。
境内に出てから気付いたのですが、社殿は勝浦湾に向かって建てられていたの。当然、鳥居も湾内に向けて建つ訳で、ξ^_^ξは裏口から入って来てしまったことになるの。でも、不思議なの。社殿前に建つ鳥居の先に本来ならあるべき参道が無いの。鳥居の僅か数メートル先は草に覆われた斜面となり、これでは草木を頼りに握りしめて四つん這いでよじ登らなければ参詣出来ないわ。そんなの、変よね。その斜面上から捉えた画像を併せて掲載してみましたが、御覧のように、右手は桜の木が植栽された草地となり、左手は柵で囲まれて駐車場のような広場になっていたの。その疑問はさておき、この鳴海神社の境内から眺め見た勝浦湾の景観は素敵でしたよ。前置きが長くなりましたが、この鳴海神社について紹介してみますね。と云っても手許に史料が無いので、境内に立つ由緒略記の転載なの。イージーなやっちゃな〜(笑)。
鳴海神社の鳴海ですが、ここでは「なるか」と訓んで下さいね。「なるみ」と読みたいのが山々なのですが、この勝浦周辺の海が嘗ては「奈流迦の海」とも呼ばれていたときの名残りみたいね。その奈流迦が転じて、いつの頃からか鳴海の字が充てられるようになったようね。But 門外漢の勝手な推論ですので鵜呑みにしないでね。
勝浦領主・植村土佐守泰忠公、戦功に依り勝浦城に封せられ在城の砌、守護神に五柱稲荷大神の社殿を建立して祀る 春祭には凶歳無きを祈り豆粥を施し年中行事となす 天正18年(1590)在城治世中根古屋に於て朝市を開き現在に至る 慶長12年(1607)剃髪し二位法院と号す 同16年(1611)卒し出水覚翁寺に葬る 六代恒朝公に至り封を幕府に奉遷し居を江戸に移したる後、領民泰忠公夫妻の霊を祀る五柱稲荷大神の分霊を東京都墨田区緑町4丁目に祀る 植村土佐守泰忠公、清和源氏にして美濃国土岐氏より出ず 居を遠江国上村に移る因て氏となす 後植村と姓を改む 従祖父三河国鳳来寺の僧二位法印教円に養われ土佐と称し薬師寺別当と成り安養院と号し遷俗して二位法印植村土佐守泰忠と称す 白玉姫命 本多出雲守忠朝公の女にして泰忠公の夫人と成る 平成8年(1996)2月29日 主催 勝浦市勝浦区
冒頭に登場する植村土佐守泰忠公のことは、もう少し先のところで御案内しますので、今しばらくお待ち下さいね。代わりに、ここでは祀られている神さま達のことをちょっと紹介してみますね。鳴海神社は所謂お稲荷さんなのですが、普通のお稲荷さんと違い、五柱の神さまが列座する最強のお稲荷さんになっているの。これだけの神さま達が見守るのですから勝浦の朝市が活気づくのも当たり前よね。
最近ではその機会も少なくなりましたが、デパートの屋上などで小さな鳥居やお社を見掛けることがありますよね。その神徳から今では稲荷神に同化してしまい、すっかりお稲荷さんにされてしまったケースもあるのですが、元々はこの神さまを祀るものだったの。稲荷神が食物を司る神さまなら、大宮比売神は収穫された野菜や穀物などを売る市場の守護神として祀られたの。デパートならどちらを祀るべきかは自明の理よね。
7. 浜勝浦展望広場 はまかつうらてんぼうひろば 10:55着発
石碑は昭和55年(1980)3月に建立されたものですが、【上総の勝浦】と題された詩が刻まれているの。その全文を紹介してみますが、掲載に際しては編集の都合上、独断で体裁を変更させて頂きましたので、御了承下さいね。
おお美しい勝浦
山の緑の 優しい両手を伸ばした中に 海と街とを抱いてゐる
此処へ来ると 人間も船も鳥も 青空に掛かる円い雲も すべてが平和な子供になる
大洋で荒れる波も この砂の上で 柔らかな鳴海絞りの袂を 軽く拡げて戯れる
それは山に姿を仮りて 静かに抱く者があるからだ
おお美しい勝浦 此処に私は「愛」を見た
無条件での賞賛ぶりですが、文中の鳴海絞りは掛詞になっているみたいね。愛知県の伝統的な染物生地の有松鳴海絞りのことで、現在では主に浴衣地などに使われて人気を得ているの。但し、こちらはなるみと訓んで下さいね。その鳴海絞りのことが気になる方は 有松・鳴海絞会館 を御参照下さいね。
鳴海神社のところで触れましたが、この辺りの海岸は白砂青松の景勝地として知られ、奈流迦の海とも呼ばれていたみたいなの。夫木和歌抄(ふぼくわかしょう=略して夫木集、藤原長清撰に依る鎌倉後期の私撰和歌集)に収録される平祐擧の和歌を紹介してみますが、実際にはどの辺りを指して詠まれたものなのかは諸説紛々なの。眼前に広がる景観には今でこそ人工的な建造物が建ち並びますが、それでも当時の奈流迦の海に思いを馳せるには充分ですよね。尚、夫木集では万葉仮名での収録ですが、ここでは平易な仮名交じり文にしてみたの。
弓張の 月の宿れる 底を見て 奈流迦の海に 海人の入るらん
鳴海神社前に広がる、凡そ無意味と思える広さの駐車場と、何でそんな場所に詩碑があるのか不思議に思い、その手掛かりを得ようと帰宅後にネット検索してみたのですが、鍵となる記事をようやく見つけました。それに依ると駐車場になっている場所には嘗て鳴海(なるか)荘と云う国民宿舎があったみたいね。いつ頃閉鎖されたのか迄は分かりませんでしたが、平成19年(2007)2月発行の勝浦市議会だより第120号に記載されている内容を抜粋して紹介してみますね。
Q.旧鳴海荘跡の公園化については?
A.この地は、勝浦を代表する眺望に優れた場所なので、平成19年度において簡易な駐車場整備を計画しています。
Q.絶好な眺望ポイントなので、駐車場だけではなく、眺望台も設置して花と海を眺められる拠点づくりを考えられたらどうか?
A.まず駐車場整備をすすめ、将来的には休憩所としての東屋の設置、そして展望台をも視野にいれて検討していきたい。
と云うことのようですので、展望園地として早く整備されることを期待したいわね。
8. 八幡岬公園入口 はちまんみさきこうえんいりぐち 11:02着発
ここには、一千年前の天慶年間(938-947)、上総守興世王が築城したと伝えられる勝浦城跡があります。勝浦城は戦国時代に至り、正木氏の代々の居城となりました。天正18年(1590)に落城。お万〔 徳川家康の側室。天正5年(1577)勝浦城主、正木頼忠の姫としてこの地で生誕 〕の銅像は、小高い丘の上にあります。
この興世王(おきよおう)と云う人物のことが気になりますが、平将門の乱で有名な平将門の参謀役を務めた人物なの。と云うよりも、積極的に嗾けた乱の推進役と云った方が適切かも知れないわね。一説には桓武天皇の血脈に通じるとも云われるのですが、定かでは無いの。天慶元年(938)、武蔵国に権守(ごんのかみ=守の代理。乱暴な云い方だけど現在の副知事にあたる職掌)として赴任するのですが、略奪と云うか、利権獲得を目指して政争が起きるの。
紆余曲折の中で急速に接近していった相手が平将門で、意気投合した興世王は常陸介を京に追い返してしまった将門を前にして、たかが常陸の一国を討っただけじゃねえかと云ってみたところで、朝廷はただじゃ済ましてくれねえよ。この際だからいっそのこと、板東八ヶ国を全部纏めて手中に収めてみちゃあどうでえ?俺も手伝うからよお−と嗾けるの。すっかりその気になった将門は常陸国にあきたらず、周辺国の国衙を次々に襲撃してしまうの。そうして興世王は板東八ヶ国を手中に収めた将門を新皇としてまつりあげ、自らは上総守を名乗ったの。
早い話しが、二人はこの東国にもう一つの朝廷を作り上げてしまった訳で、本家の朝廷にすればとんでもねえ野郎どもだ、直ぐさまイテコマシタレ!と云うことになるわよね。残念ながら将門の我が世の春も長続きせず、天慶3年(940)に追討軍が派遣される中で、下野国の押領使・藤原秀郷と従兄弟の平貞盛の連合軍に敗れ、将門は討ち死にし、興世王もまたその数日後には敗死しているの。当初は一族の内紛から端を発した将門の利権争いですが、興世王と出会ったことで朝廷に対する反逆者としての階段を上り詰めてしまった?のかもね。
あらましなどは大いに端折っていますし、独断での記述ですので、呉々も鵜呑みにしないで下さいね。
ここでは興世王の人物像と時代背景が漠然と御理解頂ければうれしいな。
と云うことで、案内板にある上総守は自称なの。その興世王が築城したと云う勝浦城にしても、砦や柵の類だったのでしょうね。勝浦城がその後どのような経緯を辿ったのかは皆さんの御賢察にお任せですが、公園内にあった説明板の記述を引き続き紹介してみますね。城跡と聞くと普通は石垣を積み上げ、堀割を周囲にめぐらせた城郭を想像してしまいますが、残念ながらそういった遺構があるわけでは無いの。加えて「慶長元禄年間の地震海嘯に依り旧態を変ず【夷隅郡誌】」とのことですから、地勢も大きく姿を変えてしまったみたいね。
勝浦城は天文11年(1541)の頃、勝浦正木氏の初代、正木時忠が入城。それ以前は、真里谷武田氏の砦のようなものであったろうと云われています。その後、二代時通、三代頼忠の居城となります。しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉により安房里見氏が領地の一部を没収されると、里見氏と親交のあった勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、安房に逃れます。なお、頼忠の娘は、後に徳川家康の側室(お万の方)となり、紀州徳川頼宣と水戸徳川頼房をもうけます。また、絶壁を布を伝わって下りたというお万の布晒し伝説は、神社裏の断崖絶壁が舞台です。平成12年(2000)3月 勝浦市
このお万の布晒し伝説が気になったあなたへ、もう少し解説してみますね。お万は天正5年(1577)に勝浦城主・正木頼忠の娘として生まれるのですが、天正18年(1590)の落城時には炎上する城を後にして40mはあろうかと云う断崖絶壁から白布を垂らすと、幼い弟を背負いそれを伝い下りたと云われているの。そうして母親と一緒に小舟で安房へ逃れると、母方の伝てを頼りに伊豆に渡ったの。後に徳川家康に見初められて側室となり、徳川御三家の紀州、水戸家の祖となる頼宣・頼房の二子をもうけるのですが、「布晒し」での脱出劇が無ければその後の歴史も大きく変わっていたでしょうね。
9. 八幡神社 はちまんじんじゃ 11:06着 11:12発
10. アスレチック広場 あすれちっくひろば 11:13着 11:16発
11. 八幡岬展望台 はちまんみさきてんぼうだい 11:18着 11:36発
アスレチック広場から続く石段を登るとあるのが八幡岬展望台で、敷石と地面を這うハイビャクシン(這柏槇)が日本庭園を思わせ、設けられた四阿(あづまや)からは太平洋の大海原が見渡せるの。展望台にはお万の方の銅像が建てられ、訪ね来る人達を穏やかな表情で出迎えてくれるの。像は法衣を纏うお万の方さまを象ったものですが、家康が死去した元和2年(1616)、自らもまた剃髪して仏門の人となった−と傍らの案内板にはありました。彼女のその後を引き続き記述に求めると・・・
法華教に帰依した於萬は諸寺を建立したが、八日市場市の飯高檜林堂もその一つである。生涯は仁慈貞潔のことば通りで、家康によく仕え、子弟の教育に尽し、信仰の心篤く、病める者には医薬を恵み、貧しい者には依財を与え、刑罰にあう者には命乞いを行うなど数々の優れた業績を残したが、晩年は落飾して蓮華院と号し、承応2年(1653)8月22日、享年77歳の生涯をとじた。
勝浦駅構内には銅像の原型が展示されていますので
お帰りの際にはお見逃しのないようにネ。
八幡岬公園に関する事柄はその多くを園内に建てられていた説明板の記述を元に御案内してみましたが、勝浦城のことも、お万の方さまのことにしても実際には分からないことが多いみたい。史実とは異なる事柄が多く伝えられ、逸話だけが一人歩きしている嫌いもあるようね。地元勝浦の 海辺の宿 黒鼻荘 の頁では、お仕事の傍らで地道な探求を続けられている御主人の詳細な研究成果が特別寄稿されているの。理解を深めたい方は是非御一読されることをお勧めしますが、呉々も探求心の坩堝に引きずり込まれないようにお気を付け下さいね。※残念ながら紹介した 海辺の宿 黒鼻荘 はリンク切れになっているの。削除されてしまったのかしら?※
最後に展望台から眺め見た周囲の景観を幾つか紹介してみますね。左端は先程訪ねた八幡神社ですが、木立ちの中からは屋根しか見えないわね。神社裏の断崖絶壁に辿り着くには容易では無さそうな雰囲気でしょ?因みに、社殿の両脇から天に向かう鉄塔は船舶無線のアンテナ塔みたいね。この位置から見ると神さまが降臨するために天から下された一条の光のように見えなくも無いわね。案外、神さまもこのアンテナ塔があるのを幸いに、ちゃっかりと天空と交信してたりして。そんなわきゃねえだろう!
12. 昼食 於:濱扇 はません 12:11着 13:12発
勝浦港は県内でも銚子漁港に次ぐ水揚げ高を誇る漁港で、中でもカツオの漁獲高は千葉県一なの。地元ではなまり節などの水産加工も盛んに行われているの。となれば新鮮なカツオのお刺身が食べたくなるわよね。加えて初夏を迎えて初鰹の美味しい季節。市内に戻る途中で濱扇に立ち寄り、お腹を満たしてから次の遠見岬神社へと向かいました。
13. 遠見岬神社 とみさきじんじゃ 13:22着 13:37発
訪ねたのが七夕の翌日のことでしたが、参道の入口脇には七夕行事の由来が掲示されていました。一年に一度の行事とは云え、身近に行われるお祭りですので、改めてその由来を気にすることもありませんが、折角ですのでその由来記を紹介してみますね。
七夕といえば牽牛星と織姫星が年に一度七月七日に天の川をはさんで逢うことができるという伝説が有名です。この伝説から織姫星をお祭りして裁縫や習字などが上達するように祈る行事「乞巧奠(きこうでん)」が生まれました。
これら中国から伝来した伝説と行事が日本に古くから伝わる棚機女(たなばたつめ−神衣を織る乙女)の伝説と結びつき、奈良時代には宮廷や貴族の間に取り入れられて、民間にも普及していきました。因みに笹竹に色紙や文字を書いた短冊をつけて軒先に立てるしきたりは江戸時代になってからのことと云われています。また、七夕の日には髪を洗ったり子供や牛馬を水浴びさせる風習が各地に残されていることからお盆を控えての穢を祓い清める行事であったとも解釈されています。つまり、七月七日「七夕」の行事というのはいくつもの要素が合わさり、その結果できあがったといえます。
七夕もさることながら、参道の石段を雛壇に見立てて飾られるひな人形は有名よね。地名が取り持つ縁からビッグひな祭りを主催する徳島県勝浦町から7,000体のひな人形を譲り受け、それを元にこの勝浦でも町を挙げてひな祭りを行うようになったの。この遠見岬神社の石段は60段程あるのですが、ひな祭りの開催期間中には1,200体ものひな人形が飾られるの。今では市内各所のイベント会場におひなさまが飾られ、その数23,000体と云うのですから驚きよね。お祭りの内容など詳しいことは 勝浦市HP を御参照下さいね。
後日、その 勝浦ビッグひなまつり に出掛けてみたの。
興味のある方は御笑覧下さいね。CMでした。
石段を登り切ると正面に福徳稲荷を始めとする境内摂社が並び立ちますが、傍らには庚申塔も建てられ、ちょっと変わったところでは獣魂碑なんて云うものもありました。遠見岬神社の本殿へは更に右手に続く石段を登らなくてならないのですが、参道の途中からは御覧のように勝浦市内が一望出来るの。今では勝浦漁港を抱えて外房一の賑わいを見せる街並みになっていますが、嘗てはのどかな漁村の風景と、背後に広がる田圃では秋になると絨毯を敷き詰めたように黄金色の稲穂が風に揺れていたのかも知れませんね。
遠見岬神社の祭神は天富命(あめのとみのみこと)と云う神さまなのですが、余り聞き慣れない神名よね。ですが、南房総の各地にその名を残しているの。何気なく使用している房総の呼び名も、実はこの天富命に大いに関係するの。【千葉県夷隅郡誌】には遠見岬神社の由来記が記されていますが、【古語拾遺】の記述をふまえながら、天富命がこの地に至り来た背景も説かれているの。飽く迄も社伝と云う断り書きが付されてはいるのですが、興味を引かれる内容ですので、紹介してみますね。
神武天皇の御宇 天富命 忌部の諸氏を率ゐて此地に来り 沃壌を求めて 麻穀を播殖す
好麻の生ずる所を総の国といひ 穀木の生る處を結城郡といひ 阿波の忌部の居る所を安房郡といひ
勝占の忌部の居る處を勝占郷といひ 麻殖の忌部の居る所を麻殖の郷といふ
天富命 勝占の忌部 須須立命を留めて 土民に農漁の業を教へ給ふ
既にして天富命 忽焉 之く所を知らず
是に於て 神祠を居跡富貴嶋に造りて 之を祀る
其後 年月を経るに従ひ 滄桑之変によりて 地盤海中に陥没して 今は僅に暗礁となりて存す
而して社殿は海嘯の為漂流し その着止する處に再造営す 今の宮の谷なり
この、社殿が海嘯の為に漂流と云うのは、慶長9年(1604)の大地震&津波の時のことかしら。宮の谷に再建された後も幾度かの遷宮を経て、最終的に現在地に鎮座したのは文化11年(1814)のことのようね。社殿にしても嘉永2年(1849)に造営されたものが修復を経て今日に至っているの。余談ですが、記述にある滄桑之変(そうそうのへん)と云うのは中国の神仙伝に由来する故事で、蒼海原が桑畠に変わることを云い、凡そ有り得ないと思っていたことが現実になる、世の中の移り変わりの激しいさまを喩えているの。本当はξ^_^ξも知らずにいたのですが。
慶長9年(1604)の大地震&津波のことが気になり調べてみたのですが、【房総治乱記】には「慶長六年辛丑十二月十六日 大地震 山崩れ海埋みて岳となる この時安房上総下総の海上俄に潮引き 三十余町干潟となりて 二日一夜なり 同十七日子の剋 沖の方夥しく鳴りて潮大山の如くに巻き上げ 浪村山の七分に打ちかくる」とあり、凄まじい規模の津波に襲われたことが想像出来ますよね。
【治乱記】では慶長9年(1604)ではなくて、慶長6年(1601)の出来事として記されていますので、果たして同じものかどうかの最終判断がξ^_^ξには出来ませんが、取り敢えず、12/16と云う日にちから同じものと考えてみました。因みに、【武江年表】でも慶長6年(1601)の出来事として記されているの。但し、日にちの方が今度は10/16になっていて、一体全体どれが正しいの?補足ですが、ここでの記載は全て和暦の旧暦表示ですから慶長9年12月16日をちゃんとした(?)西暦表示に換算すると1605/02/03となるの。余計にややこしくなってしまいましたね、ごめんなさい。m(_ _)m
長くなり序でに、当初天富命が祀られた富貴島のことが、同じく【夷隅郡誌】に記されていましたので、最後に紹介しておきますね。記述に従えば、一町十二間と云うことですから、八幡岬の先端から120、30mの位置ね。展望台を訪ねた際には海面を凝視して発見にトライしてみて下さいね。但し、【夷隅郡誌】の刊行は大正11年(1922)のことで、奇しくもその翌年には関東大震災が起きているの。八幡岬周辺の地勢も多分にその影響を受けていると考えられますので、見つけられなくても怒らないで下さいね。
勝浦町浜勝浦の南方八幡岬より一町十二間の海中に暗礁あり 富貴嶋と名く もと岬にして遠見岬と云ひ 天富命を祀りたる遠見岬神社の在りし處 慶長元禄の海嘯地震により壊蝕し 今は暗礁となる 伝へ謂ふ 天富命此に居住し給ひ 旦暮に安房国の御祖神太玉命の祠(安房神社)を遠望し給ひし所 故に遠見岬と名くと 今は波間に隠見し惟富貴嶋の名を存するのみ
14. 長寿山本行寺 ちょうじゅさんほんぎょうじ 13:38着 13:46発
寺伝では、大同2年(807)に空海上人(弘法大師)が創建したものとされているの。となれば、本来は真言宗のハズですが、現在は日蓮宗寺院になっているの。と云うのも、暦応2年(1339)に、日続上人がそれまで真言宗だったものを日蓮宗に改宗してしまったの。何故そんなことになったかと云うと、法華経の布教を掲げて各地を巡教していた日続上人がこの地に来ると、本行寺の住持と法論を戦かわせ、打ち負かせてしまったの。そうして日続上人は自ら住持となり、敗れた住持もまた改宗して日続上人の弟子となったの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
本行寺は勝浦ではこの後に紹介する覚翁寺と共に古刹に数えられる寺院ですが、中でも寛政5年(1793)に建立された重層の釈迦堂は市の有形文化財に指定されているの。加えて、その釈迦堂の中央に安置される厨子には日蓮上人の歯が収められていると云うの。お釈迦さまの歯なら仏牙舎利となるのですが、上人の歯は何と表現したら良いのかしらね。日蓮上人に親不知があったかどうかは知る由もありませんが、仮に4本揃っていたとしても歯は全部で32本。どちらにしても貴重品よね。
本行寺釈迦堂 勝浦市指定有形文化財 昭和47年(1972)2月8日指定
日蓮宗寺院の多い千葉県にあっても重層建築の釈迦堂は稀である。享保8年(1723)の五十座に際し、東京・池上本門寺より日蓮聖人の御歯骨を分与され、この御歯骨を奉安するため建てたところから、舎利塔の意も含んで重層としたのであろう。釈迦堂は、三間堂、重層方形造りで、棟上に擬宝珠をのせている。上層は唐様式が加味され、扇棰(おおぎだるき)が美しく、斗栱(ときょう)は三手法、周辺には和様高欄を設けている。下層三方の間は両開桟唐戸で、中央奥に釈迦如来が祀られ、その前中央の厨子に御歯骨が奉安されている。天井は鏡板に彩色でタチバナの紋を画いた格天井。よく整った貴重な建物である。
そんな貴重な歯がどう云う背景から下されたのかが気になるところですが、そのキーワードが記述にある五十座ね。その意味が分かれば下賜された理由も明らかになるかしら?とネット検索してみたの。そうして見つけたのが 日蓮宗現代宗教研究所 にある記述なの。直リンクしたいのが山々なのですが、それではネチケット違反よね。当該記事は削除される可能性がありますが、トップ頁〜資料集〜1999/11/20付日蓮宗新聞 へとリンクを辿ってみて下さいね。※残念ながら当該記事は削除されてしまったみたいなの。※
15. 延命地蔵堂 えんめいじぞうどう 13:50着発
覚翁寺の門前に小さなお堂を見つけて何がお祀りされているのか気になり、少しだけ中を覗かせて貰いました。中央には金ピカの大きな光背を背にした仏像が祀られていましたが、幟には延命地蔵尊とあることから地蔵菩薩ね。左手には大小二体のお地蔵さんが前立して並びますが、実はお地蔵さんもまた地蔵菩薩なの。元々は全ての生きとし生けるものに恵みを与える大地を神格化(仏格化?)したもので、お釈迦さまが入滅して弥勒菩薩が出現する迄の56億7千万年(!)の間に現われて、六道の普く衆生を救済して下さると説かれたの。
お寺の入口などで六体のお地蔵さまが並び立つ姿を見掛けることもありますよね。平安時代の中頃から鎌倉時代に掛けて末法思想が隆盛すると、地蔵菩薩は貴賤を問わず、人々の身近な信仰対象となり、江戸時代になると当初の教軌を離れて、延命の他にも子育や身代わり地蔵など、現世利益を施して下さる有り難い仏さまとしてあちらあこちらで祀られるようになったの。賽の河原で石を積む幼子をも救済して下さると云うことから水子供養の対象にもなるのですが、お地蔵さんが子供の姿で彫られていたり、赤い「よだれかけ」を掛けていたりするのはこれに由来するの。
16. 覚翁寺 かくおうじ 13:51着 13:52発
延命地蔵堂の背後に建つのがこれから紹介する覚翁寺なのですが、残念ながら訪ねた時には本堂の瓦屋根の葺替工事中でした。加えて、その本堂を前にして中庭では椅子を並べて法事が営まれていましたので、敬虔な祈りを妨げるのも憚られ、山門を潜り抜けたところで踵を返してしまいました。なので、写真を交えての御案内が出来ませんので御了承下さいね。最初に山門脇に掲示されていた由緒書を紹介してみますが「当山は慶長16年 上総国夷隅の郡 当城主 植村土佐守源朝臣泰忠公の開基にして 植村家歴世の菩提所なり」とあるの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
確かに浄土宗は南無阿弥陀仏を唱和することでのみ極楽浄土に往生出来ると云う分かり易い教えで単純明快なのですが、縁起となるとこれでは余りにも淡泊よね。なので、少し修飾してみますね。調べてみると、前身となる浄林寺と云う寺院が最初に創始されたみたいね。由緒書にもあるように、勝浦城主の植村泰忠が慶長16年(1611)に信譽南光上人を開山に迎えて開基したもので、当初は勝浦城内にあり、植村家歴代の菩提所として創建されたと云うの。後に二代目城主の植村泰勝が死去したのを受けて寛永11年(1634)に現在地に移り、寺号も泰勝の幼名・覚翁丸に因み、覚翁寺に改称したの。現在は出水山覚翁寺を正式な山号寺号とする浄土宗寺院。
室町期の康正年間(1455-1457)に日實上人が創建したと伝えられる他は詳しい縁起などは分かりませんが、高照寺の名が広く知られる理由が境内に立つ大公孫樹なの。普通は大樹と聞けば垂直方向に幹を伸ばした姿を想像しますが、この高照寺の大公孫樹は水平方向に枝を伸ばすの。それも海風を受けて生長を阻害されてしまい、全ての枝が山側の一方向になびいているのですが、寺域を囲む白壁が水盆のようにも見えて遠目には大きな盆栽のような風情を醸し出しているの。境内にはその大公孫樹の由来記が掲示されていましたので紹介してみますね。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
高照寺ノ乳公孫樹 千葉県指定天然記念物 昭和10年(1935)3月26日指定
この樹には100以上の乳柱があるといわれ、大きなものは周囲が約2m近くもある。根回りは10mあり、樹齢は不明だが、昭和の初期ここを訪れた牧野富太郎博士は、千年をこえると推定された。本樹にまつわる寺伝では「千余年の昔一聖僧この地で法華経読誦により里人の乳不足で悩める婦人を治し、乳飲み子の成長を容易にしたという。僧の死後、里人徳を偲び墓上にイチョウ一樹を植えしところ、成長するに応じ乳柱を生じて乳汁不足の者は来り詣でこれを治すに効能顕著なり」とある。昭和63年(1988)7月 千葉県 & 勝浦市教育委員会
18. JR勝浦駅 かつうらえき 14:24着 15:26発
ホントは勝浦駅前の漁協の直売所でお土産を買い求めた上で、15:03発の特急列車に乗車する予定だったのですが、散策の途中で落とし物をしてしまい、駅前の交番に立ち寄っていたりして時間を逃してしまったの。交番には3人のおまわりさんがいらしたのですが、総出で親身な対応をして下さいました。そのお陰で諦め掛けていた落とし物も無事手許に戻ることが出来たのですが、職務以上に地元勝浦に住む方々の人の温もりが感じられたひとときでした。お世話にならずに済めばそれに過ぎることは無いのですが、不幸にして同じような経験をされた場合にはお立ち寄りになってみては?
19. JR千葉駅 ちばえき 16:46着 17:00発
20. JR東京駅 とうきょうえき 17:42着
勝浦は以前にも幾度か訪ねたことがあるのですが、おざなりの物見遊山で終えていたの。時を経て改めて訪ねて見れば多くのことに気付かずに通り過ぎていたことを思い知らされたの。それは自然の営みが築き上げた造形美であったり、歴史の流れの中で営まれてきた人々の軌跡であったりしますが、時間を掛けながら丁寧に辿れば、その一つ一つが鮮やかな彩りの中に浮かび上がって来るの。気が付けば路傍に咲く名もない花にも目を留める自分がいたりして。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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〔 参考文献 〕
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説歴史散歩事典
東京堂出版社刊 大野達之助編 日本仏教史辞典
東京堂出版社刊 朝倉治彦 井之口章次 岡野弘彦 松前健 共編 神話伝説辞典
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
風間書房社刊 山田清市・小鹿野茂次著 作者分類 夫木和歌抄 本文篇
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
平凡社刊 斎藤月岑著 金子光晴校訂 増訂 武江年表
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
国書刊行会刊 川名登編著 千葉県の歴史100話
房総叢書刊行会 改訂 房総叢書 第三輯
山と渓谷社刊 新版 千葉さわやか散歩
吉川弘文館刊 佐和隆研編 仏像案内
講談社刊 再現日本史 平安B
その他、現地にて頂いてきたパンフや栞など。
Special Thanks
【千葉県夷隅郡誌】&【房総治乱記】については下記のサイトを参照させて頂きました。
千葉県立図書館〜資料の森(電子図書館)
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