≡☆ 葛飾あやめまつり ☆≡
2009/06/14

TVでは梅雨入りを間近に控えて紫陽花や菖蒲の花の開花が季節の話題に挙げられていましたが、そう云えば紫陽花は時折見掛けるけど、菖蒲は遠い昔に潮来(茨城県)のアヤメまつりに出掛けたっきりよね、気軽な日帰り圏内で菖蒲が観賞出来るところはないかしら?と探して出掛けてみたのが、今回紹介する葛飾菖蒲まつりなの。補:掲載画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

堀切菖蒲園〜南蔵院(しばられ地蔵)〜水元公園〜帝釈天(題経寺)

1. 京成・堀切菖蒲園駅 ほりきりしょうぶえんえき 09:38着 09:43発

葛飾菖蒲まつりパンフ(表表紙) 葛飾菖蒲まつりパンフ(裏表紙) 葛飾菖蒲まつりは堀切かつしか菖蒲まつり運営協議会と水元公園葛飾菖蒲まつり実行委員会の共同主催で、地元の商店街はもとより、葛飾区や観光協会も後援するなど、葛飾区を挙げてのお祭りになっていて、力の入れようが分かるわね。訪ねたのが土曜日でしたので、残念ながら未体験で終えていますが、堀切地区では期間中の毎週日曜日には特設会場や路上で、和太鼓の演奏や阿波踊り、ブラスバンドの演奏やパレードなどの各種イベントが行われたの。なので、お出掛けするなら日曜日がお勧めかも。因みに、水元公園側では土曜日でもイベントが開催されていましたよ。参考までに、訪ねたときに頂いてきたパンフレットを載せておきますね。

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2. 紫陽花の小径 あじさいのこみち 9:58着発

菖蒲園入口の手前100m余にわたる道筋には紫陽花が植えられ、御覧のような小径が旅人を迎えてくれました。手作りの案内板には「皆様ようこそおいで下さいました。今日は あじさい 皆様に逢えて嬉しくて精一杯の笑顔でお迎えさせて頂いています。やさしく接して 思い出に沢山お写真にお納めていただけましたら幸せです。育ての親より」と、ありましたが、文面からは紫陽花に寄せる思いと日頃の丹精の程が偲ばれるの。紫陽花にしても一株二株の話しではないので、育ての親もおそらく沿道に住まう複数の方々だと思うの。そこには紫陽花を温かく見守る地元の方々の後姿も垣間見え、観る者もまた幸せな気分に浸れる小径でした。

3. 堀切菖蒲園 ほりきりしょうぶえん 10:12着 11:14発

見頃を迎えて入口は出入りする来園者の数珠繋ぎで、周囲には露店も立ち並び、黒山の人だかりなの。見ていると観光名所としてツアーに組み込まれているようで、大型の観光バスが乗り付けるなど、かなりの人気スポットみたいね。敷地面積は7,700m²あると云うのですが、さすがにこの時期は通路を埋め尽くす人出なので、差程広くは感じられないの。左掲は入口横の公園事務所前に掲げられていたディスプレイですが、あやめまつりと云うよりも、気分はすっかり夏まつりね。

【 葛飾区指定史跡 堀切菖蒲園 】 所在地 葛飾区堀切2-19-1 指定年月日 昭和52年(1977)3月19日
この地に初めて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではありませんが、一説によると、室町時代堀切村の地頭・久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて培養させたのが始まりとも、文化年間(1804-1817)堀切村の百姓・伊左衛門(小高氏)が花菖蒲に興味を持ち、本所の旗本・万年録三郎から「十二一重」を、花菖蒲の愛好家・松平左金吾(菖翁)から「羽衣」「立田川」などの品種を乞い受け、繁殖させたのが始まりとも云われています。堀切で最初の菖蒲園は、江戸末期に開園した小高園で、明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園などの菖蒲園が開園しています。この堀切菖蒲園は堀切園の跡です。堀切の花菖蒲の様子は「江戸百景」に数えられ、鈴木春信・安藤広重などの著名な浮世絵にも描かれています。また、明治には「東京遊行記(明治39)」「東京近郊名所図絵(明治43)」などに次々と堀切の菖蒲園が紹介され、全盛期は明治中期から大正末期頃だと思われます。園内では「十二一重」「酔美人」「霓裳羽衣」など希少な品種も多くみられます。葛飾区教育委員会

【 区・史跡 堀切菖蒲園の歴史 】 菖蒲園のある堀切は綾瀬川に沿った低湿地で、この附近は染井・向島などと共に、昔より特に花菖蒲の栽培に適している所とされています。この地に初めて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではないのですが、一説には、室町時代の頃、堀切の地頭・久保寺胤夫と云う人が、家臣・宮田将監に命じて奥州郡山附近の安積沼から種子を持って来て自邸に培養させたのが始めと云われ、また、一説としては、寛文・延宝(1661-1680)の頃、堀切村の小高伊左衛門が各地の花菖蒲を収集し、自庭に植えたのが始めとも云われています。享和年間(1801-1803)には、花菖蒲の収集家として知られた松平左金吾と云う人の秘蔵の花菖蒲を小高伊左衛門が譲り受け、更に万年録三郎の逸品「十二一重」を始め、相模・土佐などから十数種類を集め、天保末の頃には園内では数多くの名花が咲き競うようになったと云われています。また、春信・広重の錦絵や名所案内・紀行文にもこの地の菖蒲園のことが記され、江戸時代には広く知られていたことが分かります。戦前までは武蔵園・観花園・小高園・堀切園等がありましたが、閉園・廃園などにより、その菖蒲田は埋められ、殆どが宅地に替り、家が建ち並んでいます。現在の菖蒲園は、堀切園が堀切菖蒲園と改称したもので、昭和34年(1959)5月、東京都に買収され、翌年6月1日から東京都立堀切菖蒲園として公開され、その後、昭和54年(1979)4月葛飾区に移管され、現在、区が管理しています。現在、園内には200種、6,000株の花菖蒲が植えられており、毎年6月の開花時には訪れる人の目を楽しませています。区史跡指定年月日 昭和52年(1977)3月19日 東京都葛飾区教育委員会

立て続けに案内板の説明を転載して紹介してみましたが、より詳しく知りたい方には 加茂花菖蒲園 の「花菖蒲の歴史と資料」の頁がお勧めよ。目から鱗の蘊蓄話も目白押しなの。それもそのはず、日本花菖蒲協会の事務局もその加茂花菖蒲園の中に置かれているほどよ。※残念ながら、紹介した加茂花菖蒲園の「花菖蒲の歴史と資料」の頁ですが、削除されてしまったみたいね。ごめんなさい。※それはさておき、園内の様子を纏めて紹介してみますね。先ずは景観写真を29枚ほど纏めてアップしておきましたので御笑覧下さいね。因みに、園内に植栽される花菖蒲の種類ですが、その後も増え続け、現在は234種だそうよ。

天日に 菖蒲の花の 白まぶし 【松野自得】
本名・松野貞安 明治23年(1890)2月17日生 昭和50年(1975)7月7日没
氏は高浜虚子に師事。「ホトトギス」に投句。
昭和3年(1928)6月俳紙「さいかち」を創刊する。
【自得俳句集】ほか多数著書がある。

※使われている石は長野県霧ヶ峰産だそうよ。

園内を歩いていたら愛らしい花を咲かせている木を見つけましたが、この〜木何の木、気になる木ですから〜と某社のCM状態。傍らに立つ説明書きにはフェイジョアとあり、「フェイジョアはフトモモ科の常緑性低木で南米ウルグアイやパラグアイ、ブラジル南部が原産地です。19世紀末にヨーロッパに伝わり、次いで北アメリカに伝わりました。日本にはアメリカから昭和5年(1930)頃に初めて入って来ました」と案内されていましたが、実は食用にもなるみたいね。

菖蒲をしょうぶと読むか、あやめと訓むかで対象が分かれるなど、何かとややこしい菖蒲ですが、色や形を変えて園内に咲き誇る花菖蒲の姿もまた「いずれがアヤメかカキツバタ」の世界で、容易には見分けが出来ないわね。その慣用句の起源とされる説話が【源平盛衰記】の菖蒲前(あやめのまえ)の段に記されているの。そのお話しを紹介してみますので、花菖蒲を観賞しながらで結構ですのでしばらくお付き合い下さいね。その前に、読むのは面倒−と云うあなたにあらすじを御案内しておきますね。時は平安時代に遡るの。

鳥羽院に仕える女房達の中に菖蒲前という、それはそれは美しい女性がいたのですが、鵺退治でも知られた源頼政が一目惚れをしてしまうの。頼政は恋文をしたためては菖蒲前に送るのですが返事は貰えなかったの。そうしている内にはや三年の月日が過ぎてしまい、ことが鳥羽院に知られてしまうの。鳥羽院は菖蒲前に訊ねるのですが、肝心の菖蒲前と云えば、顔を赤らめて俯いてしまうだけでどう思っているのか本当のところが分からず、頼政にしても菖蒲前の美しさに惹かれているだけで、心から想いを寄せているわけではあるまいて。この際だから頼政を呼び出して試してみよう−と云うことになったの。そこで鳥羽院は菖蒲前と良く似た女性二人にも同じ着物を着せて並ばせると、頼政に三人の中から菖蒲前を見分けて二人で退出するよう命じたの。けれど頼政にしてみれば、畏れ多くも鳥羽院の寵愛を受ける女房をどうして申し受けることが出来よう、見分けるにしても顔をちらりと見初めただけなので自信もない。もし間違えでもしたら当座の恥どころか末代までの笑いものにされてしまう。困り果てて躊躇しているところへ鳥羽院からの催促が。そこで頼政は「五月雨に 沼の石垣 水越えて 何れかあやめ 引きぞ煩らふ」という和歌を鳥羽院に献上したの。鳥羽院は頼政の詠歌に感心すると自ら菖蒲前の手をとり、頼政に引き渡したの。

あらすじがお分かり頂けたところで、以下に読み下し文を掲載してみますが、誤りがあるかも知れません。
御指摘頂けると幸いです。

広重画 殊に名をあげ 面目を施しける事は 鳥羽院の御中に菖蒲前とて世に勝たる美人あり
ことになをあげ めんもくをほどこしけることは とばいんのおんうちにあやめのまえとてよにすぐれたるびじんあり
心の色深くして 形人に越えたりければ 君の御糸惜も類なかりけり
こころのいろふかくして かたちひとにこえたりければ きみのおんいとほしみもたぐひなかりけり
雲客卿相 始は艶書を遣し 情を係くる事隙なかりけれ共
うんかくけいしやう はじめはえんしょをつかはし なさけをかくることひまなかりけれども
心に任せぬ我身なれば 一筆の返事何方へもせで過しける程に
こころにまかせぬわがみなれば ひとふでのかへりごといづかたへもせですごしけるほどに
或る時頼政 菖蒲を一目見て後は いつも其の時の心地して忘るゝ事なかりければ
あるときよりまさ あやめをひとめみてのちは いつもそのときのここちしてわするることなかりければ
常に文を遣しけれども 一筆一詞の返事もせず
つねにふみをつかはしけれども ひとふでひとことばのかへりごともせず

頼政こりずまゝに 又遣し/\なんどする程に 年も三年に成りにけり
よりまさこりずままに またつかはしつかはしなんどするほどに としもみとせになりにけり
何にして漏れたりけん 此の由を聞食すに依て 君菖蒲を御前に召し
いかにしてもれたりけん このよしをきこしめすによりて きみ あやめをおんまへにめし
実や頼政が申す言の積なるや と綸言ありければ 菖蒲顔打あかめて御返事詳ならず
まことやよりまさがまうすことばのつもるなるや とりんげんありければ あやめかほうちあかめておんへんじつまびらかならず
頼政を召して御尋あらばやとて 御使有りて召されけり 比は五月の五日の片夕暮許也
よりまさをめしておたずねあらばやとて おんつかひありてめされけり ころはさつきのいつかのかたゆふぐればかりなり
頼政は木賊色の狩衣に 華に引繕て参上 縫殿の正見の板に畏つて候ず
よりまさはとくさいろのかりぎぬに はなやかにひきつくろひてさんじゃう ぬいどののむかひのいたにかしこまつてこうず

院は良遥許して御出ありけるが じつはふの者には物仰せにくければとて 殊に咲を含ませ御座
いんはややしばらくしておんいでましありけるが じつはふのものにはものおほせにくければとて ことにゑみをふくませおはします
何事を仰出されんずるやらんと思ふ処に 誠か頼政 菖蒲を忍び申すなるは と御諚あり
なにごとをおほせいだされんずるやらんとおもふところに まことかよりまさ あやめをしのびまうすなるは と ごぢゃうあり
頼政大いに色を失ひ 恐れ畏つて候ひけり 院は憚思ふにこそ 勅諚の御返事遅かるらめ
よりまさおほいにいろをうしなひ おそれかしこまつてさぶらひけり いんははばかりおもふにこそ ちょくぢゃうのおんかへりごとはおそかるらめ
但菖蒲をば誰彼時の虚目歟 又立舞ふ袖の追風を徐ながらこそ慕ふらめ
ただし あやめをばたそかれときのそらめか またたちまふそでのおひかぜをよそながらこそおもふらめ
何かは近付き 其験をも辨ふべき 一目見たりし頼政が 眼精を見ばやとぞ思食ける
いつかはちかづき そのしるしをもわきまふべき ひとめみたりしよりまさががんせいをみばやとぞおぼしめしける
菖蒲が歳長色貌少しも替わらぬ女二人に菖蒲を具して 三人同じ装束同じ重になり 見すまさせて出されたり
あやめがとしたけいろかたちすこしもかはらぬおんなふたりにあやめをぐして さんにんおなじしゃうぞくおなじかさねになり みすまさせていでだされたり
三人頼政が前に列居たり 梁の鸞の並べるが如く 窓の梅の綻たるに似たり
さんにんよりまさがまえになみゐたり うつばりのつばめのならべるがごとく まどのうめのほころびたるににたり
頼政よ 其中に忍申す菖蒲侍る也 朕占め思召女也 御免有ぞ 相具して罷出よ
よりまさよ そのなかにしのびまうすあやめはべるなり ちんまろしめおぼしめすおんななり おんゆるしあるぞ あいぐしてまかりいでよ
と綸言有りければ 頼政いとゞ色を失ひ 額を大地に付て実に畏入たり
とりんげんありければ よりまさいとどいろをうしなひ ひたいをだいちにつけてまことにかしこまりいりたり

思ひけるは、十善の君はかりなく思食さるる女を 凡人争か申しよるべかりける
おもひけるは じゅうぜんのきみはかりなくおぼしめさるるおんなを ぼんにんいかでかもうしよるべかりける
其上縦ひ雲の上に時々なると云ふとも 愚なる眼精及なんや
そのうえたとひくものうえによりよりなるといふとも おろかなるまなこざしおよびなんや
増してよそながらほの見たりし貌也 何を験何ぞなるらん共覚えず
ましてよそながらほのみたりしかほなり なにをしるし いかなるらんともおぼえず
綸言を蒙り賜らざるも尾籠也 見紛つゝよその袂を引きたらんもをかしかるべし
りんげんをかふむりたまわざるもびろうなり みまがひつつよそのたもとをひきたらんもをかしかるべし
当座の恥のみに非ず 累代の名を下し果ん事 心憂かるべきにこそと
とうざのはじのみにあらず るいだいのなをくだしはてんこと こころうきかるべきにこそと
歎入たる景色顕也ければ 重ねて勅諚に 菖蒲は実に侍るなり 疾く給て出よ とぞ仰下されける
なげきいりたるけしきあらはなりければ かさねてちょくじゃうに あやめはまことにはべるなり とくたまはつていでよ とぞおほせくだされける
御諚終らざりける前に 掻繕ひて頼政かく仕る
ごぢゃうおわらざりけるまえに かきつくろひてよりまさかくつかまつる
五月雨に 沼の石垣 水越えて 何れかあやめ 引きぞ煩らふ と申たりけるにこそ
さみだれに ぬまのいしがき みずこえて いずれかあやめ ひきぞわずらふ ともうしたりけるにこそ
御感の余に竜眼より御涙を流させ給ひながら 御座を立たせ給ひて 女の手を御手に取りて 引立おはしまし
ぎょかんのあまりにりゅうがんよりおんなみだをながさせたまひながら ござをたたせたまひて おんなのてをみてにとりてひきたておはしまし
是こそ菖蒲よ 疾く汝に給ふ也 とて 頼政に授けさせ給ひけり
これこそあやめよ とくなんじにたまふなり とて よりまさにさずけさせたまひけり
是を賜つて相具して 仙洞を罷出でければ 上下男女歌の道を嗜まん者
これをたまわつてあいぐして せんたふをまかりいでければ じゃうげだんじょ、うたのみちをたしなまんもの
尤もかくこそ徳をば顕すべけれ と、各々感涙を流しけり
もつともかくこそとくをばあらわすべけれと おのおのかんるいをながしけり

実に頼政と菖蒲とが志 水魚の如くにして二心無き中也けり
まことによりまさとあやめとがこころざし すいぎょのごとくしてむにのしんちゅうなりけり
三年の程心ながく思ひし情の積にやと やさしかりし事共也ければ 京童部申しけるは
みとせのほどこころながくおもひしなさけの積もりにやと やさしかりしことどもなりければ きょうわらんべもうしけるは
二人の志わりなかりけるこそ理なれ 媒が痛く見苦しくもなければ とぞ咲ひける
ふたりのこころざしわりなかりけるこそことわりなれ なかだちがいたくみぐるしくもなければ とぞわらひける
伊豆守仲綱は 即彼菖蒲が腹の子也
いずのかみなかつなは すなわちかのあやめがはらのこなり

いかがでしたでしょうか、お楽しみ頂けたかしら。女性からすればモノじゃないのよ−と云いたくもなりますが、自らが寵愛する女性を臣下や家臣に与える例は他にも見受けられ、非常に厚い信任を得ていたことの証でもあるの。因みに、紹介した内容とは少し異なりますが、同じお話しが【太平記】にもあるの。【源平盛衰記】では3人の中からの選択を迫られた頼政ですが、【太平記】では何と12人に増えているの。それも3,000人もの侍女の中から選び抜かれた美女達よ。お話しが気になる方は御一読下さいね。

江戸末期から戦前に掛けての堀切には、この堀切菖蒲園の他にも幾つかの菖蒲園が造られて賑わいを見せ、あやめと美女の競演状態にあったみたいよ。安政4年(1857)に刊行された歌川広重作の【絵本江戸土産】には「堀切の里 花菖蒲 綾瀬川の東にあり 数万株の花菖蒲 その色 更に数を知らす 眺望類ひあらされば 毎年卯月下院より皐月に至りて 遠きを厭はす 舟に乗り 箯に駕して都下の美女競ふときは いつれか花と見紛ふはかり 水陸の遊観なり」と案内されているの。

4. シャトルバス発着所 しゃとるばすはっちゃくじょ 11:30発

かつしか菖蒲めぐりバス 残念ながら菖蒲まつり開催期間中の土日だけの運行で、本数も一日5便しかないのですが、訪ねたときには堀切菖蒲園・しばられ地蔵尊前・柴又帝釈天を結ぶ、かつしか菖蒲めぐりバスが運行されていたの。京成バスが委託を受けて運行しているものですが、車体には菖蒲園や水元公園などの写真がラッピングされているの。事前情報を得ていた訳でもないのに、偶然にも期間限定のバスに乗車出来、おまけに堀切菖蒲園を見終えた時点で帰宅する積もりでいたところを、更に水元公園にまで足をのばせるとは大いに得した気分。是非、毎年運行させて欲しいものよね。

5. しばられ地蔵尊前BS しばられじぞうそんばすてい 11:55着

ξ^_^ξはてっきり水元公園まで乗り入れてくれるものと思っていたのですが、残念ながらしばられ地蔵尊前BSで降ろされてしまったの。ここから水元公園までは歩かなくてはならないのですが、どこをどう行けば良いのかも分からず、他の方々の後に従うことに。バス停で下車した後、最初に左折する道の傍らには「江戸名所縛られ地蔵尊入口」と刻まれた石柱が建てられていたの。見ていると皆さん誰もがその方向に向かって歩きはじめるのでξ^_^ξも右に倣えを。後で知ることになるのですが、水元公園はそのしばられ地蔵尊の背後に位置していたと云うわけ。次に紹介するしばられ地蔵尊に会うことが出来たのも、このバス停で降ろされたからこそね。

6. 南蔵院 なんぞういん 12:01着 12:24発

山門の傍らに立つ案内板には「【史跡 しばられ地蔵尊】当山は業平山東泉寺南蔵院と号し、貞和4年(約600年前)林能法師の開創に成い、境内の地蔵堂にはしばられ地蔵尊が安置されている。しばられ地蔵尊は昭和4年(1929)、旧本所区中之郷(墨田区吾妻橋三丁目)から寺と共に移転してきた。大岡政談の一つとしても有名であるしばられ地蔵尊は昔より、盗難除け・足止め・厄除け・あらゆる願いごとを叶えるとして祈願するものが多く、祈願者は先ず地蔵尊を荒縄で縛り、成就の暁にはこれを解く風習となっている。南蔵院」とあるのですが、調べてみるとかなりの紆余曲折を経て現在地にあるみたいね。

開創にしても実は諸説があるの。【東京府志料】では貞和4年(1348)林能法師開山とあるのですが、【東京府寺院明細帳】には「創立不詳 中興開基権僧都林能法師 貞和4年(1348)中卒す」とあるように、草創については分からないとしているの。何に依拠したのかは不明ですが、鈴木棠三・朝倉治彦校注【江戸名所図会】角川書店刊の注記には「貞和4年(1348)林能和尚が社辺に草庵を営み、神供を献じ、第九世良海霊夢により南蔵院と号したという」ともあるの。元々の寺地にしても、本所小梅と云うので、現在の墨田区向島一、二丁目辺りに建てられていたみたいね。元禄11年(1698)に水戸藩下屋敷用地となると中之郷八軒町に移転。更に、大正11年(1922)に起きた関東大震災の被災を受けて、昭和元年(1925)に現在地に移転して来たの。

山号の業平山は中之郷八軒町(現:墨田区吾妻橋三丁目辺)にあった際に業平天神社と境内を接していたことに由来するの。ξ^_^ξが思うには、南蔵院が別当職を務めていたのではないかしら。その業平天神社ですが、帰京する途次にあった在原業平がこの地で亡くなり、その霊を鎮めるためにつくられたものとされていたの。他にも幾つか在原業平に因む逸話が残されているのですが、【江戸名所図会】は「いずれも証とするに足らず 後世に附会せしものならん」と一蹴しているの。それでも、人の口に戸は立てられないわよね。噂話はさも史実かのように一人歩きを始めるの。【遊歴雑記】には

寛永年間 大猷院君本所隅田川辺御成の砌 有原の業平の住し古跡あるやと 処々村々御たづね廻しける 〔 中略 〕 此日還御の砌 小梅の辺御通りありて此南蔵院へ御立寄あり 有原の業平の古跡やある 此辺にはなきやと尋賜ふに 寺僧小さき束帯の座したる木像を持出 先年土中より掘出せし由を言上し 上覧に入しかは 是有原の業平天神ならんと上意ありしに依て 業平八幡宮と勧請し 夫より山号を業平山と名付けたるとかや

とあるの。何と、天下の江戸幕府第三代将軍徳川家光のお墨付きまで手にしてしまったのですから、世人は皆右に倣えよね。移転するにしても、御上の御威光はそのまま継承したいわよね。困ったのお、移転せねばならぬが社殿までは持っては行けん。何か良い方法がないじゃろうか。そうじゃ、名義だけなら簡単じゃ、山号として使わして貰おう、ほなら簡単じゃ。きょうからは業平山南蔵院じゃ。ええ響きじゃのお〜と云うわけ。

現在地にしても、元は聖徳寺の境内地だったみたいね。その聖徳寺ですが、【新編武蔵風土記稿】に「天台宗 隅田村木母寺門徒 金海山正福院と号す 本尊聖徳太子」とあるのみで不詳なの。左掲は昭和53年(1978)に再建された本堂ですが、燈籠脇には聖徳の松と呼ばれる樹齢350年の老松が立ち、更に右手には聖徳太子を祀る太子堂が建つなど、聖徳寺の名残りを今に留めているの。因みに、聖徳太子は法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書【三経義疏】を著わすなど、仏教への深い造詣もあり、十七条憲法では「篤く三宝を敬へ 三宝とは仏法僧なり 則ち四生の終帰 万国の極宗なり」と、最大限の奨励をしているの。そんなことから日本仏教の始祖と仰がれてもいるの。

お待たせしました。この南蔵院を世に広く知らしめているのがこれから紹介するしばられ地蔵尊なの。顔も見えなくなるまでぐるぐる巻きにされて、我が身に代えてまで人々を艱難辛苦から救って下さると云うお地蔵さんを、どうして荒縄で縛り付けてしまうの、可哀想じゃない。これじゃあ、助けて頂こうにもお地蔵さん自身が身動き出来ないじゃん−と思ってしまうわよね。聞けばこちらのお地蔵さん、願いごとをする際に荒縄で縛り、願いが叶った暁には縄を解いてあげるのだとか。端から見たらお地蔵さんに無理強いしているようにも見えるのですが、決して最初から縛られていた訳でもないようよ。

大岡裁きで知られた江戸町奉行・大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が、ある事件でこのお地蔵さまを召し捕ってしまったの。そんな馬鹿な、天下の名奉行とされた大岡越前守がお地蔵さんをしょっ引くわけねえだろう−と思うわよね。お話しの序でに殊の経緯&顛末を紹介してみますね。

時は吉宗公が将軍をされておった享保年間(1716-35)のことじゃ。江戸は日本橋小伝馬町の木綿問屋・上総屋徳兵衛の手代に佐助と云う若者がおってのお、ある夏の昼下がりのことじゃった。佐助はいつものようにサラシの反物を満載した荷車を引いておったのじゃが、このところの寝不足もあってのお、荷車を南蔵院の門前に寄せると、境内の公孫樹の木陰でちょいと一寝入りすることにしたんじゃ。そうして一刻もしたじゃろうか、目を覚ました佐助はびっくりして飛び上がってしもうた。何と門前においてあったはずの反物の山が荷車ごと無くなっておったのじゃ。しもうた、寝ている間に荷車ごと盗まれてしもうた、旦那さまには何と云って詫びよう、いやいや、土下座して詫びたところで済まして貰える訳もねえ、何とかして取り返さにゃ。こうしちゃあおられん、先ずは町奉行さまんところへ行ってみべえ。そう思うた佐助は奉行所に飛び込むと、名奉行としてきこえた大岡越前守さまに訴え出たんじゃ。

しばらくは佐助のことばに耳を傾けておった越前守さまじゃったが、突然何を思うたか、寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙認するとは何事ぞ、地蔵も同罪である。直ちにそれなる地蔵を捕らえてここへ連れてまいれ−と配下の者に命じたのじゃ。一同皆呆れておったのじゃが越前守さまの命令じゃ、訳も分からぬまま、云われた通りにお地蔵さまを荒縄で縛り付けると奉行所に運び込んだそうじゃ。それを見とった町の連中も、さては何事が始まるかと皆して奉行所に押し寄せて来たんじゃ。そうして今か今かと首を伸ばしてお白州が始まるのを待っておったのじゃが、いきなり奉行所の門が閉じられてしまってのお、町のもんはびっくりしてしもうた。そこで越前守さまは皆を前にして「お白州に乱入するとは不届き千万。罰として各自反物一反の科料を申し付ける」と命じられたのじゃ。そうして各々が決められた日時まで持参するようにと指示されたそうじゃ。

それから数日後のことじゃった。町のもんが持ち込んだ品物の中から盗まれた反物が見つかってのお、それがきっかけで当時江戸市中を騒がせておった盗賊団の一味を捕らえることが出来たそうじゃ。お地蔵さまの霊験に感謝した越前守さまは立派な地蔵堂を建てると盛大に縄解きの供養をしたそうじゃ。それからと云うもの、このお地蔵さまはしばられ地蔵と呼ばれるようになってのお、盗難除け・足止め・厄除けに限らず、縁結びに至るまで、あらゆる願いごとに霊験灼かとされるようになったのじゃ。そうしていつの頃からか、願いごとのある者はお地蔵さんを荒縄で縛り、願いが叶うたらその縄を解くようになったそうじゃ。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。

左掲は境内の一角に建つ鐘楼ですが、昭和50年(1975)に建立されたもので、架かる釣鐘も本山の比叡山延暦寺より鐘霊を招来して鋳造された開運の鐘だそうよ。傍らには珍しい青銅製の宝篋印塔が建ち、その背後には何故が釣鐘がポツネンと置かれていたの。銘文までは控えては来ませんでしたが、龍頭の造りなどからすると嘗ての聖徳寺の梵鐘だったのかも知れないわね。

7. 水元公園 みずもとこうえん 12:30着 13:25発

水元公園には約100種類・14,000株あまりの花菖蒲が咲き乱れると云う、都内有数の規模を誇る菖蒲園があるの。堀切菖蒲園では来園者の数の前では負けてしまいそうな佇まいの花菖蒲でしたが、水元公園は全然平気よ。因みにこの水元公園、江戸を水害から守るために江戸幕府が享保14年(1729)に紀州藩の土木技術者・井沢弥惣兵衛に命じて造らせた小合溜井(こあいためい)が基になっているの。平時には江戸川上流の松伏領(現在の埼玉県北葛飾郡松伏町)の溜井から引いた水を東葛西領上下之割50余ヶ町村の灌漑用水として利用していたの。その水源地に当たることから水元の名が起きたと云われているの。

花菖蒲を愛でたところで昼食にしましたが、園内には露店が立ち並びますので、手ぶらで来ても平気よ。ベンチこそありませんが、菖蒲園を少し離れ、小合溜井の水面を前にしてひと休み。溜井と云うので池沼の類を想像されるかも知れませんが、見た目は完全な湖よ。食事を終えたら特設会場でイベントを楽しむことも、気が向けば広い園内をお散歩することも出来るのですが、時間に余裕がありましたので、先程乗車したかつしか菖蒲めぐりバスを利用して、柴又帝釈天へと足を延ばしてみることにしたの。

8. しばられ地蔵尊前BS しばられじぞうそんばすてい 13:40着

9. 柴又帝釈天前BS しばまたたいしゃくてんまえ 13:51着

10. 帝釈天参道 たいしゃくてんさんどう 13:53着発

柴又と云えば帝釈天、帝釈天と云えば渥美清さんが演じた【男はつらいよ】を思い出される方も多いのではないかしら。でも、帝釈天のある柴又が寅さんの生まれ故郷だとは知っていても、意外と帝釈天のことは知らずにいたりするの。実はξ^_^ξもなの。

「私 生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎。人呼んで、フーテンの寅と発します」の口上は誰しも一度位は耳にしたことがあるわよね。スクリーンに出てくる景色が本当の柴又なのかは別にして、柴又のイメージはすっかり頭の中に出来上がってしまっているの。普通は裏切られることが多いのですが、昔の面影を店先に残すなどの努力もあり、ξ^_^ξのような脳天気な旅人の期待を受け止めてくれるのはうれしいことよね。

寅さん 参道両脇に軒を連ねるおみやげ屋さんの店先を覗きながら歩いていると、どこか見覚えのある姿がひょいと傍らを通り過ぎていったの。瞬間の出来事で、即座に事態が飲み込めずにいたのですが、慌てて収めたのがこの一枚。足早に通り過ぎて行かれましたが、路上パフォーマンスだったのか、それともイベント会場に向かう積もりだったのかは分かりませんが、予期せぬ出合いでした。渥美清さんが亡くなられて既に15年も経つと云うのに、柴又に来られる方の多くが未だにその面影を求めてしまうのは寅さんの魅力のなせるわざよね。

左掲は 男はつらいよ の第一作から第四作までの撮影で寅さんの実家として使用された「とらや」さん。第五作目からは大船撮影所でのセットを使用した撮影に切り替えられたそうですが、お店の方も老朽化したことから平成元年(1990)に建て替えたそうなの。店先には撮影当時のお店の写真がありましたが、よく見ると看板には「食事処 草だんご・柴又屋」とあるの。聞くところに依ると40作目の撮影に前後して松竹側の反対を押し切り、柴又屋の屋号からそれまで架空の設定だった「とらや」の商号に変えてしまったのだとか。端では分からない事情があるみたいね。

参道を突き進むと正面に見えて来るのがこの帝釈天こと、題経寺の二天門。傍らの案内標には寅さんのセリフも記されているの。ここでは第20作目の【寅次郎頑張れ!】から「もう、矢も盾もたまらなくなってよ。とびおりて一目散に帰って来た帝釈天の参道だ。お寺の山門、おみやげ屋の家並、せんべい屋の婆さん、ここだけは昔と一ツも変わってやしないよ」が引用されているの。帝釈天の参道は寅さん抜きには語れませんが、48作全てを観た訳でもないξ^_^ξが云々するのもおかしいわよね。詳しいことは 葛飾柴又寅さん記念館 を御参照下さいね。

11. 題経寺 だいきょうじ 14:02着 15:23発

帝釈天の名ですっかりお馴染みですが、正式な山号寺号は経栄山題経寺で、現在は中山法華経寺末になるの。その縁起は【新編武蔵風土記稿】に依ると「法華宗 下總國葛飾郡中山村法華經寺末 經榮山と號す 相傳ふ古は草庵のごとくなりしを 寛永6年(1629)本山19世禪那院日忠草創せしよりこの僧を開山とす 萬冶3年(1660)10月16日寂せり 其後延寶年中(1673-81)本山の塔頭正善坊 後院と號す 日遼 當寺を兼帶して其功ありしより中興と稱す」とあるの。地理的に市川の国府台や江戸川堤などを控えていたことから物見遊山の行楽地として江戸や近郷から多くの参詣客を集め、民間の 庚申信仰 とも結びつき、縁日には多くの参詣客で賑わいを見せたの。

縁起の略に云 當寺に日蓮彫刻せし祈祷本尊とて 寺寶にありしよし古へより云傳へしか 其在所を知らす 然るに安永8年(1779)本堂再建の時棟上より長2尺5寸 幅1尺5寸 厚さ5分許の板出たり 水をもて其煤塵を清めしに 片面は病即消滅の本尊を彫し 片面には帝釋天の像を刻せり 板の小口は松に似て脇の方は檜に類し 堅く重きこと尋常ならす 是即ち言傳へし日蓮自刻の寺寶なりとて 本山に達しかの帝釋天は庚申に因あり 又屋根裏より出たるも庚申の日なれは 其日を縁日とせしより次第に近郷の土人信仰なし 江戸にても信ずる者多く 又其像を乞へは板の兩面を摺寫して與ふ 今假に本堂に安し 社は未だ造立ならず 其の圖右記の如し【武蔵風土記稿】

帝釈堂前には見事な黒松が臥龍の如く、枝を左右に伸ばしているの。瑞龍松と名付けられていましたが、毎年2月末には根本に日本酒を注ぐ「御神酒あげ」が行われるそうな。奉納された日本酒の有効利用をしようと、題経寺に出入りする植木職人さん達の発案から始められたもので、30年近く続けられているのだとか。瑞龍松の樹齢は分かりませんが、酒は百薬の長とも云われるくらいですから、毛艶ならぬ葉艶や木肌にも良いのでしょうね。樽酒を振る舞われた瑞龍松、左右に枝を広げて身を捩らせて立つ姿は千鳥足のようにも見えるわね。てやんでぇ〜べえろう〜。境内の一角には帝釈天出現由来碑が建てられ、次のように案内されていたの。

帝釈天 〔 葛飾区指定有形民俗文化財 帝釈天出現由来碑 〕 指定年月日 昭和57年(1982)2月13日
この碑は安永8年(1779)題経寺本堂改修の時発見した日蓮上人自刻の帝釈天板本尊を後世に伝えるため、弘化2年(1845)俳人・鈴木松什及び壇徒・石渡忠右衛門等が協力し、その由来を記し、併せて帝釈天の功徳を述べている。碑の総高1.48m、撰文は宮沢雉神遊、書は萩原翬、刻者は窪世昌である。題経寺縁起の整ったものは、明治29年(1896)に作成されたが、本碑はそれ以前における由緒資料として貴重である。葛飾区立教育委員会

であれば、碑にはどう書かれているのか気になるわよね。But 肝心の石碑となると刻まれた文字も不鮮明で、おまけに漢文なの。それを見た瞬間にξ^_^ξは読むのを諦めました。それでも何が書かれているのか、向学心に燃える方のために調べて来ましたので、意のある方はトライしてみて下さいね。文末には「考妣得淨土 女兒得長生」とあるように、そこには亡き母の成仏を願い、娘が長生きしてくれるようにと祈る忠右衛門の姿があるの。それは、子として、子を持つ親として、今も昔も変わらない姿よね。

板刻帝釋天像 右手執寶劍 査開左手 蓋忿怒相也 相傳 高祖日蓮大士手刻 而今世祷穰者奉之有驗 是即除病延壽之本尊 伏魔守護之眞形也 其版藏幸于柴又題經寺 而久失其所在 大士滅後五百年 安永某月庚申日出現 肇印染布世 以使善男女結勝縁 頃香火益盛 奇驗益靈 邨民石渡忠右衞門者 尊奉殊篤 今茲五月尓同邨鈴木松什者 請餘記其由來 其意欲刻石 使衆人知所尊奉之實 我聞 帝釋天者 身長一拘盧舍 在須彌山頂上忉利天 具大神通力 觀下界衆生 所作福善罸惡 是其威福可不祇敬乎 信心輩宜喜捐香花 尊奉拜禮焉乎 忠右衞門 荒隅一邨夫而己 能擧此美事 可以見其爲人也 餘外家遠祖兒玉時國 奉迎大士於其家 受化導事 詳載高祖年譜 則餘亦有些佛縁者 因書尊像之由來 以與之 願以此功徳 考妣得淨土 女兒得長生 弘化二年乙巳五月 宮澤雉神遊 撰 萩原翬 書 石渡忠右衞門 建立 窪世昌 鐫

こちらは本堂ですが、昇殿すると順路に従い、帝釈堂のみごとな彫刻や庭園( 彫刻ギャラリーと邃溪園のセット拝観料:¥400 )を見せていただくことが出来るの。因みに、右手にチラリと写る建物は釈迦堂で、後世に手を加えられてはいるのでしょうが、文化・文政期(1804-1830)に建てられたものだとか。現在は中興開山の日忠上人を祀る開山堂としても使われているみたいね。

〔 葛飾区登録有形文化財 題経寺(柴又帝釈天)諸堂内及び二天門建築彫刻一括 〕 登録年月日 平成4年(1992)2月5日
帝釈堂・祖師堂・二天門には多くの木彫による建築浮彫装飾が施されています。特に帝釈堂は設計林門作、棟梁坂田溜吉の指揮のもとに作られました、内陣外側の胴羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・石川銀次郎・加府藤正一・山本一芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作されました。大正12年(1923)9月、それぞれの彫刻師のもとに運ばれていた欅の彫刻材は、関東大震災によって、すべて焼失しました。その後欅材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費やし、10枚の胴羽目彫刻は昭和9年(1934)に完成しました。彫刻の下絵は高山栄州が描いています。胴羽目の寸法はそれぞれ縦1.27m、横2.27m、厚さ20cm襖一枚の大きさです。他堂や二天門の内外に、施された彫刻も、同じように貴重なものです。葛飾区立教育委員会

彫刻 彫刻

〔 帝釈堂の木彫について 〕 帝釈堂の内外には数多くの木彫が施されているが、特に帝釈堂内陣の外側にある10枚の胴羽目彫刻は、佛教経典の中でも最も有名な法華経の説話を選び出して彫刻したものである。この法華経説話彫刻は、当山第16世観明院日済上人の発願になるもので、篤信者鈴木源次郎氏の丹精協力を得て、大正末期より昭和9年(1934)に至る10数年の歳月を費して完成したものである。因みに大正11年(1922)まず加藤虎之助師が「法師守護の国」を完成したが、師の発案によって残りの9枚を東京在住の名人彫刻師に依頼することが決まり、大きな欅の彫刻材が各師のもとに運び込まれた。しかるに大正12年(1923)折からの関東大震災に遭って彫刻材を焼失したのである。そこで改めて欅の原材を全国に求め、昭和初年ようやく巨大な欅材を得て、本格的な彫刻工事が始められたのである。従って、得難い彫刻材と云い、木彫技術についても希有のもので文化的価値の極めて高いものである。法華経説話彫刻を中心に堂の最上段には「十二支の国」その下に「天人図」「説話彫刻図」「千羽鶴図」階下には「花鳥図」最下段には「亀図」が彫刻されている。作者は複数の彫刻師によって刻まれたが、ことに「千羽鶴図」「花鳥図」「亀図」等は、千葉県鴨川出身の名人高石仙蔵師の彫りに成るものである。従来、木彫は、風雨塵埃にさらされ、金網等があり鑑賞しにくかったので、この度、堂周りに、新たに廻廊をめぐらし、総ガラス張りの「彫刻ギャラリー」を完成したのである。願くは参詣各位において充分に鑑賞されることを望むものである。平成3年(1991)春 帝釈天題経寺第18世 望月日翔

昭和4年(1929)に信徒の接待所として建てられたと云う大客殿は、東京都選定歴史的建造物にもなっているのですが、部屋への入室こそ禁止されてはいますが、一般客でも回廊伝いに見学することが出来るの。庭園などを見せて頂きましたが、途中で御覧のような彫刻下絵を見つけました。下絵は法華経の絵解きの図を参考にして高山英州師が描いたものだそうですが、下絵と云っても一枚当たりの板の大きさは 2.27m * 1.27m ほどもあり、厚さにしても20cm位あるの。勿論、使われているのは欅材よ。因みに、左掲の下絵は「龍女成仏の図」と案内されていたもの。

大客殿奥の院にある頂経の間では、日本一の大きさを誇ると云う、大南天の床柱を見ることが出来ました。樹齢1,500年と伝えられ、元々は近江国(現:滋賀県)伊吹山山麓春照村で庄屋を務めていた的場家にあったもので、大正6年(1917)の台風が原因で枯れてしまい、しばらくは浅草の花屋敷に持ち込まれていた由。それが大客殿の改築に合わせて奉納されたものだそうよ。見た目の幹周りは15cm余ですが、普通に見掛ける南天の太さを考えると立派よね。枯死することなくあったら、間違いなく天然記念物になっていたでしょうね。

帝釈堂背後に広がる庭園がこの邃溪園(すいけいえん)で、大客殿から続く回廊をめぐりながら観賞することが出来るの。昭和40年(1965)に庭師・永井楽山の手により造られた池泉式庭園ですが、表の賑わいからは想像できない静けさがありました。残念ながら庭園内に降りることは出来ませんが、回廊に続いて渡り廊下が庭園の外周を巡りますので、順路に従い、観賞するようになっているの。風情ある佇まいのお茶室などもあり、閑雅にしばし身を委ねてみてはいかがかしら。題経寺に御参詣の際には是非御覧になってみて下さいね。

12. 京成・柴又駅 けいせい・しばまたえき 15:37着

帝釈天の参道を歩きながら柴又駅へと向かいました。駅前の広場には寅さんの銅像が建てられ、台座には山田洋次監督の寄せ書きが添えられているの。その寅さんの思いに寄り添いながら今回の散策も終了よ。(寅さんの口調で)じゃ、どこか知らない旅の空の下でまたお会いするかも知れませんが、元気でお過越し下さい。それじゃ、また・・・

寅さんは損ばかりしながら生きている
江戸っ子とはそういうものだと 別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家族思いで 金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
そんな無欲で気持ちのいい男なのに なぜかみんなに馬鹿にされる
もう二度と故郷になんか帰るものかと 哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことを
いったい何十辺くり返したことだろう でも 故郷は恋しい
変わることのない愛情で自分を守ってくれる 妹のさくらが可哀想でならない
――― ごめんよさくら いつかはきっと偉い兄貴になるからな ―――
車寅次郎はそう心に念じつつ 故郷柴又の町をふり返るのである 1999年8月 山田洋次

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〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 国史大系 続日本紀
新人物往来社刊 水原一考定 新定源平盛衰記
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
東京堂出版刊 朝倉治彦 他 共編 神話伝説辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
角川書店社刊 室伏信助 他共著 有職故実 日本の古典
角川書店社刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版 江戸名所図会
葛飾区郷土と天文の博物館刊 葛飾区古文書史料集II 堀切と花菖蒲
葛飾区郷土と天文の博物館刊 かつしかブックレット13 花菖蒲II
学生社刊 入本英太郎著 東京史跡ガイド22 葛飾区史跡散歩
葛飾区発行 葛飾区史
その他、現地にて頂いてきた栞やパンフ。






どこにもいけないわ
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