≡☆ 東松山・大谷のお散歩 ☆≡
 

東松山市大谷には比企氏一族に纏わる逸話が今でも語り継がれているの。陽射しの温もりが恋しくなり始めた一日、伝説の地に里山の秋を訪ねてみましたので紹介しますね。補:掲載画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

甲山古墳〜根岸家住宅〜大谷瓦窯跡〜大雷神社〜宗悟寺〜串引沼〜比丘尼山

1.冑山BS かぶとやまばすてい 9:13着発

冑山BS

今回の散策では東武東上線の東松山駅から国際十王バスの熊谷駅行に乗車。当初は一つ手前の藤山BSで下車する積もりでいたのですが、下調べをしている際に、近くに甲山古墳と根岸家住宅があることを知り、少しだけ足を延ばしてみることにしたの。その冑山ですが、地割りとしてはお隣の熊谷市になるの。ちょうどこの辺りが市境になっているみたいね。余談ですが、バス停の時刻表を覗き込んでいたときに気付いたのですが、平日の早朝限定ながらも、この冑山BS始発のダイヤが2便組まれていたの( 2012.11 現在 )。どうでも良いことだけど、ちょっとした発見。

2.甲山古墳 かぶとやまこふん 9:13着 9:28発

埼玉県指定文化財 史跡 甲山古墳
指定:平成元年(1990)3月17日 所在:大字冑山字賢木岡西
甲山古墳は、比企丘陵の北東部に位置し、標高約51mの丘陵上に構築された古墳です。古墳の形がちょうど冑の様な形からこの名が付けられました。この古墳は、墳形が中段にテラスを持つ円墳で、規模は南北径が約90m、高さが約11.25mあります。円墳としては、さきたま古墳群の丸墓山古墳(径105m)についで県内第二位の大きさを誇っています。墳頂には、八幡様の本殿が、また、墳丘東側には冑山神社が設けられ、これを繋ぐ石段や参道で一部墳丘が変形しているように見えます。

この古墳の正式な発掘調査はなされていませんが、江戸時代の地誌である【新編武蔵風土記稿】には「この塚を掘った時に、石槨の中より甲冑や馬上の塑人(埴輪)・玉・鏡・折れた大刀などが出土した」と記載されており、この遺物の内容や、近年大里村教育委員会が採集した円筒埴輪の破片から、築造時期は古墳時代後期(六世紀頃)と推定されています。この甲山古墳と共に、北へ約1Km先の大字箕輪にも、とうかん山古墳と呼ばれる全長74mの前方後円墳があり、当時、この地域にはこれらの巨大な古墳を造れる、大きな勢力が存在していたと考えられています。平成4年(1992)3月 埼玉県・熊谷市教育委員会

かぶとやまですが、この案内板に限らず、地名には冑山を、
古墳を指す場合には甲山の字を充てているみたいね、理由は分からないけど。

3.根岸家住宅 ねぎしけじゅうたく 9:36着 9:51発

次に寄り道したのがこれから紹介する根岸家住宅で、根岸武香の生家と知り、訪ねてみたの。甲山古墳の案内板にもその記述が引用されていますが、【新編武蔵風土記稿】は江戸幕府主導の下、昌平坂学問所地誌調所が編纂した武蔵国の地誌で、全266巻から成る大事業なの。その【風土記稿】を世に広く知らしめたのが根岸武香で、明治17年(1884)に当時の内務省地理局から80冊からなる活字翻刻本として出版したの。その後発刊された諸本の多くがこのときの内務省本を底本とするなど、武香の果たした功績は計り知れず、当サイトでも随所に【風土記稿】の記述を引用転載しているの。そんな関係から興味を覚えて生家を訪ねてみたと云うわけ。

熊谷市指定建造物 根岸家長屋門 昭和54年(1979)5月指定 熊谷市教育委員会
−構造−根岸家長屋門の構造は入母屋造りの瓦葺きで、壁材は土壁です。外壁は下部の腰壁部分が板張り、それより上部は漆喰仕上げで、門部分は壁面より後退し、右側に潜り戸を有しています。脇部屋には出格子窓に似た窓が配され、両脇部屋は使用人住居や倉庫、剣術道場として使われました。屋根裏部屋には与力窓を両脇に各々二箇所備えています。
−規模−長屋門の規模は桁行24.15m、梁間5.78m、棟高約7.3m、面積約140m²です。建築年代については定かではありませんが、天保11年(1840)の屋敷絵図には既に長屋門が描かれていることから、江戸後期の建築と思われます。平成15年(2003)3月

〔 根岸友山・武香の功績 〕 根岸家は、中世に活躍した熊谷次郎直実の末裔と云われ、戦国時代には、小田原北条方の松山城主・上田氏に仕え、後に帰農し甲山村に土着したと伝えられる。根岸家は、江戸時代中期、享保元年(1716)甲山村の名主となり、宝暦4年(1754)には箕輪村の名主を兼ね、総計80町歩以上を所有する豪農となった。

根岸友山は、文化6年(1809)に生まれ、幼名房吉。友山は号である。16歳で11代目伴七を襲名するが文武に励み、剣を北辰一刀流千葉周作、学問を芳川波山、林大学に学ぶ。友山は自邸内に私塾「三餘堂(さんよどう)」と剣術道場「振武所(しんぶしょ)」を設け、近郷の子弟の就学の機会を与えた。また、名主として治水築堤に尽力するが、天保10年(1839)荒川堤修復に際し、農民が川越藩へ訴え出る騒動(蓑負騒動)が起き、友山は農民側に与したため、江戸十里四方追放の刑を受ける。赦免後、尊王攘夷に傾倒し、寺門静軒や安藤野雁らの文人や長州・薩摩藩士との交流を深め、文久3年(1863)清河八郎らと共に浪士組に参加し、京へ上洛する。その後、一時近藤勇らと行動を共にするが、帰郷し江戸警護の新徴組に加わる。明治新政府になってからは息子・武香と共に文化活動に努めた。明治23年(1890)12月没す。享年82歳。大正元年(1912)、生前の功績により従五位を追贈される。墓地は県指定旧跡。

根岸武香は、天保10年(1839)に友山の二男として生まれる。幼名新吉。剣を千葉周作、学問を寺門静軒、安藤野雁に学ぶ。明治元年(1868)地方大惣代に任ぜられて以降、地方行政に係わり、初期学制の確立に尽力した。同12年(1879)の埼玉県議会開設と共に県議会議員に選出され副議長となり、翌年第二代議長となる。同27年(1894)には貴族院多額納税者議員となる。一方、考古家として同20年(1887)東京帝国大学の大学院生・坪井正五郎と吉見百穴の発掘を行い、日本の考古学に多大な貢献を果たした。また、考古遺物や古銭、古美術品、古文書等の収集に努め、一般に公開した。更に同17年(1884)、江戸幕府が編纂した【新編武蔵風土記稿】を内務省地理局から全80冊の刊行を実現した。明治35年(1902)12月没す。享年64歳。

このように、根岸友山・武香父子は大里町の近世・近代に多大な功績を残した。よってここに二人の功績を称え、町の偉人として後世に末永く伝えるものである。平成16年(2004)3月 熊谷市 根岸友山・武香顕彰会

現在は熊谷市の文化財(建造物)に指定される根岸家の長屋門ですが、西室は根岸家の歴史を始め、友山・武香父子に纏わる史料などを展示する友山武香ミュージアムとして無料開放されているので、是非、お立ち寄り下さいね。係員の方がいらっしゃる訳ではありませんので質疑応答は不可ですが、その分気兼ねなく時間を掛けて見学することが出来るの。因みに、この西室は嘗て振武所として利用されていたところだそうよ。

熊谷市史跡 三餘堂跡 平成19年(2007)6月建
三餘堂は友山が自邸内に設立した私塾です。三餘とは「年の余り、月の余り、日の余り」のことで、農閑を利用した寺子屋と、来遊する学者による学塾を兼ねていました。例えば友山と交流の深かった漢学者の寺門静軒(1796-1868)や、国学者の安藤野雁(1799-1876)等が公儀を行っています。また、友山・武香父子は振武所と云う道場も自邸内に開設し、近郷の子弟に剣術を教えました。二人とも北辰一刀流の千葉周作(1794-1855)の門人であったことから、千葉道場から師範が派遣されることもありました。

木の根元に三餘堂跡の案内標が立つのですが、
実際の三餘堂はこの木ではなくて、榧の木の後方に建てられていたみたいよ。

4.冑山共同墓地 かぶとやまきょうどうぼち 9:51着 10:00発

根岸家住宅とは道を隔てた冑山共同墓地に、根岸友山・武香父子のお墓があるの。仏式の墓塔が並び立つ墓苑なのに鳥居が建つ妙。その鳥居をくぐり抜けた右手には小さなお堂が建ちますが、祖霊社と案内されているの。苑内には根岸家墓所の入口を示すもう一つの鳥居があり、その先に根岸家奥都城と刻む石標が建てられているの。普通は奥都城の「都」に「津」の字を充てることが多いのですが、元々は「〜の」の意で、「奥の城」から墓所のことなの。なので、辺境や端のイメージを連想させる「津」よりも「都」の字を充てて奥都城とした気持ちは良く分かるわね。

〔 素山居士之墓 〕 素山居士は甲山(冑山)地蔵庵に住した僧である。文化5年(1822)武州埼玉郡平方村(現・越谷市)に生まれ、廃疾のため幼にして僧となった。性慈、志の高い人で、俗化した佛家に背を向け、終身資格を求めなかった。庵生活に甘んじ、児童を教育して倦むことを知らず、読書を唯一の楽しみとし、詩を賦し淡々としていた。そして安政4年(1857)4月24日当地で没した。寿五十、法名を法蓮社燈譽礙光傳大徳と云う。墓誌は文通の友、寺門静軒の撰文である。有志某建立 昭和55年(1980)□月□日

〔 根岸友山翁 〕 翁は文化6年(1809)信保の長男として生まれ、通称伴七、晩年友山と号した。儒学を山本北山と寺門静軒に学び、剣を千葉周作に習い北辰一刀流に長じた。邸内に私塾三餘堂を設け、学者を招いて郷党を育成すると共に、勤王の志士、浪士、村民に剣を授け、また、郷土の治水に努力し、多大の功績を残している。維新の際は急ぎ上洛して「吐血録」を建白して国事に奔走した。晩年は悠々自適、農事に親しみ、明治23年(1890)82歳で没し、従五位を追贈せられた。その墓は県史跡として指定保存されている。

〔 根岸武香翁 〕 翁は、弘化元年(1844)友山の二男に生まれ、幼名新吉、通称伴七、また、榧園(ひえん)と云う。父の志を継いで儒学を寺門静軒に、剣を千葉周作に学び、和歌をよくし、考古学に精通した。明治元年(1868)初の地方大惣代となり、同12年(1879)最初の県議会議員、次いで副議長、議長の重責に推され、本県の治水・教育・産業の発展に尽粋した。同27年(1894)本県二人目の貴族院多額納税議員に勅撰され憲政の発展に努めた。考古学者としては、吉見百穴の発掘保存を図り、また、【新編武蔵風土記稿】を刊行し蒐集した。古文書【冑山文庫】として埴輪類と共に上野図書館に保存されている。明治35年(1902)世人哀悼の中に没した。

〔 寺門静軒翁 〕 翁は儒者であるが、一面奇行、美行、超風脱俗の諸要素の混在した通人でもあり、変わり種でもあった。死ぬ19年前に自分の墓誌を書いているが、その墓誌によると寛政8年(1796)江戸に生まれ、名は良、諱名は子温、又の名を弥左衛門と称した。静軒はその号である。幼にして父母を失い、生母の実家に引き取られて人となった。「長じて磊落俊、邁家、道頓に寒し」と誌されているから、彼の性行の一端が窺える。その後、大いに発憤して勉学し、各地を周遊して見聞を広め、学識の向上に努めた。

天保(1830-44)の頃、彼の著書【江戸繁昌記】が幕府の忌諱に觸れて江戸を追われ、儒者として立てなくなってから、新潟毛武地方をはじめ、各地に漂泊の旅を続け、万延元年(1860)妻沼町に居を移して「両宜塾」を開いて塾生の薫育に努めた。静軒が旧知の間柄であった冑山の根岸友山に迎えられたのは没前一年程のことであった。【静軒待選】の中に「天保丁酉(1837)夏、武州冑山に遊び、易を根岸氏の三餘堂に於いて講じ、これを賦して別を留む」という題詩はよくその間の消息を物語っている。三餘堂は根岸家邸内にあって、友山の開いた私塾である。静軒は明治元年戊辰(1868)3月24日病没、73歳。その円筒形の墓標は根岸家の墓地内にある。熊谷市指定旧跡

5.藤山BS ふじやまばすてい 10:06着発

当初の予定では、この藤山バス停を起点にして歩く積もりでいたの。これから訪ねる大谷瓦窯跡へは、このバス停から少し戻った所にあるローバーのカーショップ脇の道を辿るのですが、角地に立つ電柱脇には 大谷の伝説コース Oya Legend Course と記された道標があるので迷うこともないわね。後は道なりに歩けば、視界の左手に大谷瓦窯跡のある小山が見えてくるの。途中の景観を交えて大谷瓦窯跡までの道案内をしますので、気になる方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。But スライドは完全マニュアル動作ですのでご協力願いますね。

6.大谷瓦窯跡 おおやかわらかまあと 10:25着 10:32発

大谷瓦窯跡(おおやかわらかまあと)昭和33年(1958)10月国指定
瓦が多量に生産されるようになるのは、寺院建築が盛んになる飛鳥時代からです。奈良時代から平安時代には、各国に建立された国分寺やその他の寺院が盛んに建立されたので、各地で瓦が生産されるようになります。大谷瓦窯跡もその頃つくられたものです。瓦を焼く窯は「登り窯」です。傾斜地を利用し斜めに高く穴をあけ、下の焚き口で火をもやし、環元熱を応用し、高熱を得るよう工夫されています。この窯跡も30度の傾斜角を有しています。

更に、高熱に耐えられるよう、焚き口の火床は粘土を積み固め、側壁は完型の瓦を並立して粘土で固定し、床面は粘土と粘板岩の細片を混ぜて固め段を作るなど、補強工作が慎重に行われています。大谷瓦窯跡は昭和30年(1955)5月に、二基調査されました。保存がほぼ完全であった一号窯跡が保存されています。出土遺物は平瓦が大部分で、竹瓦が数個と蓮華文のある瓦当一個が発見されています。昭和48年(1973)3月 文化庁 埼玉県・東松山市教育委員会

国指定史跡 大谷瓦窯跡 昭和33年(1958)10月8日指定 東松山市教育委員会
大谷瓦窯跡は、昭和30年(1955)5月に発掘調査が行われ、検出された二基の瓦窯跡の内、保存の良い一基が昭和33年(1958)に国指定史跡になりました。瓦窯跡は、瓦を専門に焼いた窯のことで、瓦の製造は飛鳥時代(7世紀頃)以降盛んになる寺院建築とともに始まったものです。この瓦窯跡は、山の斜面を利用した「登窯」とよばれる半地下式のもので、全長は7.60mあります。窯は、焚口部・燃焼部・焼成部・煙道部の各部から成っています。この窯跡の特徴としては、焼成部に瓦を利用して階段状に13の段が造られていることがあげられます。出土遺物は、軒丸瓦・平瓦・丸瓦等があり、こうした瓦から窯跡は、7世紀後半頃と思われます。付近一帯は周辺に瓦窯群が埋没しており、昭和44年(1969)に県選定重要遺跡に選定されています。

道筋にあった大谷瓦窯跡(北)信号のところで、ふと気付いたのですが、瓦窯跡の案内板では「瓦窯跡」を「かわらかまあと」と読ませていたけど、信号機の標識には「gayouseki」とあったの。読み方としてはどちらもありのような気がするけど、窯の字を「よう」とは読めなかったξ^_^ξとしては断然「かわらかまあと」派よ(笑)。その大谷瓦窯跡(北)信号から少し歩いたところで市内循環バスの瓦窯跡入口BSを見つけたのですが、時刻表を覗いてビックリ。何と一日5便だけの運行なの。今回の散策に利用出来たかも−と見掛けた瞬間は期待したのですが、日中は12時台に一本のみでは利用するのは難しいわね。
大谷瓦窯跡入口信号機
10:39着発

〔 オランダ風車 〕  古くからヨーロッパなどでは、風車は自然の風を動力エネルギーとし、製粉、灌漑、そして揚水などに利用されています。現在では、環境の保護を目的に、クリーンなエネルギー資源として風力も見直されており、地球規模で更なる利用の実用化が取り組まれています。風車にも色々な種類や形があり、オランダの風車がよく知られているところです。東松山市はウォーキングの日本スリーデーマーチの開催地として、オランダのインターナショナルフォーデーズ開催地のナイメーヘン市と姉妹都市提携を結んでいます。 大岡市民活動センター
10:52着

ウォーキングの国際大会を通じ両市の交流が深められており、このことから大岡市民活動センターのイメージシンボルとして、又、オランダの古い落ち着いたレンガ造りの街並みをイメージした建物に合わせて、オランダ風の風車をモデルとして建てました。建物は鉄筋コンクリート造で、地下一階地上3階建です。高さは約13m。羽根の直径は11.2mです。地下1階は野外活動で使用する道具や資材を収納する倉庫となっています。地上1階は、市民や子どもたちのミニギャラリーとして使用できます。尚、2・3階は機械室です。平成14年(2002)9月 東松山市 大岡市民活動センター
10:58発

雷電山古墳入口
11:03着発
農林公園
11:17着 11:49発
雷電山古墳入口
12:06着発
石仏
12:13着 12:16発

ここで次の大雷神社に向かう前に農林公園まで足を延ばしてみたの。以前訪ねたときにはポピーの花が咲き乱れ、丘の上から見下ろすと、絨毯を敷き詰めたようで、艶やかな景観が広がっていたの。今回も、季節は異なるけど、何かの花々が、或いは咲いているかも知れないわ−と淡い期待を持ちつつ足を向けてみたの。それに、公園には東屋があり、ベンチも置かれていることを知っていたので早めの昼食タイムとトイレ休憩を兼ねての寄り道と云うわけ。訪ねてみれば、やはり−と云うか、案の定と云うか、季節外れ故に、花を愛でることは出来ずに終えてしまいましたので、桜やポピーの花が咲く時期以外はあまりお勧め出来ないわね。それでもお弁当を広げるには良いところよ。

ポピーが咲く頃の景観が気になる方は 東松山農林公園のポピー を御笑覧下さいね。
CMでした。

お腹を満たして一息入れたところで再び雷電山古墳入口まで戻って来たの。道路脇には「←雷電山古墳」と書かれた大きな案内板が建てられているのですが、道を挟んで反対側に立つ「←川越カントリークラブ」の案内板の方が目立つかも知れないわね。案内板の矢印に従い、脇道に入りますが、傍らを通り過ぎる車は皆プレーをしに来た方か、ゴルフ場の関係者のものばかり。このまま歩いていたらクラブハウスの前に出てしまうのじゃないかしら、大雷神社へはどこかで更に脇道に入らなくてはいけなかったのじゃないかしら−などと不安になりつつ歩いていると、小さな覆屋を見つけたの。中には左側から珍しい像容の宇賀弁財天に、如意輪観音、馬頭観音にお地蔵さまと、この地域の人々の嘗ての信仰模様が窺える石仏たちが鎮座していたの。それはさておき、辺りを見渡すと数軒の民家があるので、ゴルフ場の敷地は未だ先のことと知り、もう少しだけ道奥を目指してみたの。

7.大雷神社 だいらいじんじゃ 12:22着 12:40発

気が付けば道の両側にはグリーンが広がり、完全にゴルフ場の敷地内なの。クラブハウスでも見えてきたらその時は諦めて引き返そうと思いながら歩いていると、ようやく車道から離れるようにして小径があるのを見つけたの。それが大雷神社の参道だったの。入口前にあった三千塚古墳群の案内板に依ると、大雷神社は雷電山古墳の墳頂部に鎮座していることになるの。雷電山古墳は三千塚古墳群の中心的な存在で、大雷神社も古くから地域の信仰を集めるなど、この辺りは特別なパワースポットとみなされていたみたいね。

三千塚古墳群 昭和31年(1956)2月市指定史跡
大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。三千塚古墳群は、明治20年-30年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。三千塚古墳群からは、古墳時代後期(6-7世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・管玉など)が出土しています。雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に作られています。この古墳は、高さ8m・長さ80mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから5世紀初頭(今から1,500年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、6世紀初頭から7世紀後半にかけて、造られつづけた古墳であると思われます。昭和52年(1977)3月 東松山市教育委員会

ゴルフ場

三千塚古墳群は丘陵の最高所に築造された雷電山古墳を中心にして、嘗ては250余基の円墳が尾根上に造られていたのですが、ゴルフ場の造成で現在は200基程に減ってしまったのだとか。造成に先立ち、昭和36年(1961)には大規模な発掘調査が行われたのですが、調査対象となった29基の古墳全てが既に盗掘で荒らされていて、出土品も期待したものが得られず、内部の遺構にしても破壊が酷い古墳が多く、残念な結果に終わったようね。百歩譲って、開発は致し方のないことだとしても、盗掘とは悲しい所業ね。一握りの人間の、お金欲しさのために、貴重な歴史遺産が逸失されてしまうとは。

明治百年記念之碑 大雷神社由緒沿革
当神社は伊邪那美命の御子大雷命を奉斎し、御創建は今から1,110餘年前清和天皇の御代貞観元年(859)巳酉4月12日と社伝に云い伝えられている。貞観6年(864)辛亥7月22日には武蔵従五位下大雷神従五位上を授けられ、三代実録武蔵風土記等の古文献にも記載されている如く、古代より有名な神社である。古代より当地は山間の地にして水利の便非常に悪く、五穀良く稔らず、大神を祭祀してより五穀豊穣が伝えられ、盛夏干旱の時、村民挙げて降雨の祈願をし、遠近郷の農民も降雨の祈願に詣でて深く信仰された社殿は、雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し、社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く、古考の説に、此の地は武蔵国司の墓と伝承され、附近一帯には陪臣の墓と思われる数百の古墳の群が散見せられた。

この大雷神社はみまくり(水配り)の神が祀られることから別名・水分(みまくり)神社とも呼ばれ、旱魃の際には雨乞い神事が行われたの。残念ながらゴルフ場の造成時に埋め戻されてしまったのですが、神社前には旱魃時にも水涸れしなかったと云う古井戸の御神井があり、その水を神前に供えて神職が降雨祈願をした後、竹筒に入れ、杉の葉で蓋をして持ち帰り、再び降雨祈願をすると必ず雨が降ったそうよ。それでもかなえられないような大干魃の時には村人が総出で大雷神社にお百度参りをしたの。併せてこの後に紹介する串引沼でも雨乞い神事が行われたの。

串引沼は大雷神社の御神池とされ、祝詞をあげてもらい、有志数名が幣束(御神体)を手に沐浴潔斎したの。その後、沼畔に設けられた斎場に続き、神社の斎場でも降雨祈願をしたの。また、あるときは御神井の水を全て汲み上げ、竹筒に入れて持ち帰ると降雨祈願のタネ水に利用し、残りは全て境内に集まった村人たちに浴びせたの。因みに、御神井の引き綱は2Kmも離れた神光谷まで届いたと云い伝えられ、さすがにそれはマユツバものですが、御神井が旱魃時にも涸れない貴重な水源だったのは間違いないようね。

寛政10年(1798)壬午4月25日再建の社殿は村内はもとより、大神の御神徳を称える近郷近在の人等によって上遷宮が執行された。寛政の頃には、関東取締役人の御沙汰によって行なわれた特殊神事の奉納相撲は両関が揃い盛大に開幕され、明治以前まで続けられ、大谷のぼた餅相撲と名高かった。寛政10年から59年後の安政4年(1857)、近くの山火事より類火して本社火災の折、御神体と奉斎せる幣串自から社外に飛び去りしより、神顕の広大さに村民崇敬者益々畏敬の念を深め、この幣串を今も御神体として奉斎する。安政4年(1857)の火災後5年の歳月を経て現本殿が再建された。昭和43年(1968)10月23日 大谷氏子中

大雷神社祭礼相撲場跡 市指定史跡
旧大谷村の総鎮守大雷神社の社殿を中心に、辻(相撲場)が二ヶ所あり、一の辻・二の辻と呼ばれ、一の辻は大相撲に、二の辻は草相撲に使用されていました。辻には300席ぐらいの桟敷席が、傾斜地を巧みに利用して造られていました。現在は二の辻だけが残っています。大雷神社の相撲は、江戸時代中頃から行なわれていたと伝えられています。相撲の興業には、領主だけでなく関東取締役の特別の許可が必要でした。相撲興業には、近在の人々が大勢集まり、関東三代辻相撲の一つと云われる程に賑わいました。この日、祝酒とともにぼたもちを相撲見物の人たちにふるまったことから大谷のぼたもち相撲とも呼ばれ、大変親しまれていましたが、明治20年頃を最後にその姿を消しました。昭和61年(1986)3月 東松山市教育委員会

相撲は元々はその力と技を競い合い、五穀豊穣や豊年を占う神事として行われたものなの。現在の大相撲が格闘技として職業化されたものなら、各地で行われていた奉納相撲は神さまに感謝と祈りを捧げる神事でもあったの。とりわけ、この大雷神社で行われていた祭礼相撲は半端じゃなかったみたいね。因みに、神社前方にあったと云う大相撲用の一の辻ですが、御神井と同じく、昭和37年(1962)のゴルフ場造成時に削られてしまったの。

ここで、大雷神社を後にする前に地元に伝えられる不思議なお話しを一つ紹介してみますね。
それが雷電山の山姫伝説なの。

この大岡の辺りでは雷電山に住む山姫さまが秋晴れの日に年に一度の踊りをすると云い伝えられておってのお、その日は耳を澄ますと楽の音が山からの風に乗り、麓の村々にも聞こえて来たそうじゃ。その妙なる調べに村の若いもんは山姫さまの踊りはさぞかし美しかろうて、是非ともこの目で一度は見てみたいものよと思うておったそうじゃ。その山姫さまじゃが、お気の毒なことに一本足じゃそうで、二本足がそろうた者を見ると呪いをかけるそうな。そんなんで、山姫さまの踊りを見るんには同じように一本足で歩いて雷電山に登らねばならず、おまけに途中で年に二度も実をつけるという栗の木を見つけて17個ずつ栗を拾って神前に供えなくてはならぬそうじゃ。こん17個と云うんは山姫さまの歳に因んだ数だそうじゃが、山姫さまはいっつも17歳のまんまで年を取らぬそうじゃ。それはさておき、一年に二度実をつける栗の木などあるわけがなかろうて。そんなんで山姫さまの踊りを見ようと山に登ろうとする者は誰一人おらんかったそうじゃ。

そんな、ある年のことじゃった。一人の若者が一本足で雷電山に登ると17個の栗を拾い集めて大雷神社にお供えしたそうじゃ。じゃがのお、若者は陽もすっかり暮れたと云うんにその日は家にも帰らず、心配した村人達があっちこっち探してみたんじゃが、次の日に、ようやく家の屋根の棟にしがみついたまま眠りこけておった若者の姿を見つけたそうじゃ。そうして皆して若者を屋根から降ろしたんじゃが、着物の裾には一匹の大きな蝦蟇蛙が食らいついておったそうな。若者はその後も三日三晩眠り続け、目が覚めても何も喋ることなく、とうとうそのまま年老いてしまったそうじゃ。すっかり老いてしまった若者が、一度だけ山姫さまの踊りの日に山姫さまの姿を描いたことがあるそうじゃが、見ると足は片足で、それも蝦蟇蛙の足のようじゃったそうな。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

最近は見掛ける機会も少なくなりましたが、田圃の中に立つ一本足の案山子は元々は農耕神としての神霊の投影でもあるの。一方で、春になると雪解けと共に里に降りてきて田の神となり、秋には再び山に帰ると信じられていた山の神もまた農業神でもあるの。蝦蟇蛙のような一本足をした山姫さまの姿は山の神さまと雖も些か妖怪じみていますが、神霊達が神聖さを失い、妖怪化した例はこの大岡に限らず、日本各地に残されているの。裏を返せば一本足の姿は元々は山の神さまであったことの証でもあるの。ここでは山姫さまと、女性神として語られていますが、必ずしも山の神=女性神とは限らないようで、男神として語られることもあるの。尤も「我が家の山の神云々」と云うときは専ら女性神だけど。(^^; それはさておき、大岡を訪ねる際には、くれぐれも蝦蟇蛙にはお気をつけ下さいね。

蝦蟇蛙(がまがえる)とはヒキガエルのことよ。略して蝦蟇とする場合もあり、
アメリカ原産のウシガエルが伝えられる前までは、大きな蛙を表す代名詞でもあったの。


抜け道入口
12:43着発
大雷神社一の鳥居
13:01着 13:03発
雷電橋
13:03着 13:06発

地図を眺めていると元来た道を戻らずとも、麓の大谷に出る近道がありそうな予感がしたの。狭いながらも一応は舗装路で、右手にはゴルフ場の芝生が広がり、プレーする方の姿も見受けられた安心感もあり、出たとこ勝負で何とかなるんじゃないの、地球は丸いことだし・・・と脳天気な判断で分け入ってみたのが御覧の小道なの。途中ではたわわに実を付けた柿の木が季節が秋であることを改めて知らしめてくれたの。実は、後で知ることになったのですが、この近道は大雷神社の参道でもあったの。麓に抜けたところに大雷神社の一の鳥居が建てられていたと云うわけ。

参道の入口には二基の石灯籠が建ちますが、その前にあるのが角川(すみかわ)に架かる小さな雷電橋。今でこそ参道の左手に舗装路も整備されていますが、嘗てはこの小橋を渡り、村人達はことある毎に大雷神社にお参りしていたのでしょうね、きっと。気付かなければそのまま通り過ぎてしまいそうな小橋ですが、村人達の祈りを陰ながら支え続けて来た橋でもあるの。因みに、この雷電橋の右手一帯の土地の小名が城ヶ谷(じょうがやつ)で、嘗て比企氏の館が建てられていた場所だとされているの。

谷奥(やつおく)にある城ヶ谷沼に向かい、路が延びていましたので後日改めて足を向けてみたのですが、明らかにそれと思われる場所があるわけでもないの。地元の方に訊ねてみても、今となっては漠然とこの辺りにあったと伝えられているだけで、誰も分からないみたいね。左掲右手の景観はその谷奥側から返り見たものですが、それらしく見えてしまうのは歴史ロマンのなせる業かも知れないわね。

また、次に訪ねる宗悟寺の南西に位置して梅ヶ谷があるのですが、昔から梅の木が多く、若狭局が隠棲したところと伝えられているの。こちらも地図上に見つけた梅ヶ谷沼を目印にして後日訪ねてはみたのですが、残念ながらゴルフ場の敷地内にあり、接近遭遇は諦めモードなの。と云う訳で、梅ヶ谷に関しては掲載出来る写真が無いの。ゴメンナサイ。意のある方はチャレンジしてみて下さいね。

8.宗悟寺 そうごじ 13:13着 13:29発

宗悟寺 曹洞宗 豐嶋郡赤塚村松月院の末 慶安元年寺領十五石餘の御朱印を賜はれり 寺傳に當寺は鎌倉將軍頼家 元久元年七月伊豆國修禪寺に於て害せられし後 其妾若狹局當所に來て剃髮染衣の身となり 前にしるせし比丘尼山に草庵を結び 頼家追福の爲として一寺を創草し 則頼家の法謚長福寺殿壽昌大居士の文字 及村名を取て大谷山壽昌寺と號すと云 按に若狹局か當所へ隱棲せしことは 他に所見なけれと 彼局は比企判官能員が女にて 頼家の長男一萬の母なるよし 將軍執權次第に載す 又【東鑑】養和二年十月の條に 比企四郎能員云々 武藏國比企郡を以て請所と爲などみゆれば 頼家沒落後 當所は父能員が舊領なる 因て以隱れ住せしならん【新編武蔵風土記稿】

本堂を前にして左手には森川氏俊二百回忌供養の法界塔が立ちますが、右隣には比企一族顕彰碑が建てられているの。

平安時代末期から鎌倉時代の初期に亘る約100年の間、郡司として比企地方一帯を支配し、一族をあげて源頼朝公を援け、鎌倉武家政権の創立の原動力として大きな役割を果たした比企氏の足跡は、その広さと歴史的意義に於いて、正に私達の郷土の歴史の原点であります。今や、この比企一族滅んで800年、その遠忌に当たる2002年を目前にして、この度東松山松葉町郵便局開局10周年フェスティバルとして行われた歴史劇、湯山浩二作・東松山市民劇場制作「滅びざるもの−乱世に燃ゆる比企一族の記」は多くの人々に深い感銘を与え、この偉大な先人の姿を甦らせました。

ここに郷土を愛し、比企一族を愛する私達有志が相計り、日本歴史の一大変革に果たした郷土の先人の偉業を讃え、永く後世に伝えるため、多くの方々の協賛を得て、若狭局が持ち帰ったと伝えられる二代将軍頼家公の位牌を安置する縁深い扇谷山宗悟寺に、その顕彰碑を建設することとしました。平成6年(1994)11月吉日 比企一族顕彰碑建設委員会 清水 清 撰文 吉田 鷹村 書

【吾妻鏡】の壽永元年(1182)10/17の条には

能員が姨母(比企の尼と號す)當初武衞の乳母たり
而るに永暦元年豆州に御遠行の時 忠節を存ずる餘り
武藏の國比企郡を以て請け所と爲し 夫掃部の允を相具す
掃部の允下向し 治承四年秋に至るまで 二十年の間 御世途を訪い奉る

とあるように、伊豆に配流となった源頼朝に随い、世話をしたのが乳母の比企尼と夫・掃部允(かもんのじょう)に安達盛長なの。殊に比企尼は後に頼朝からは第二の母と呼ばれる程献身的に努めているの。夫君の掃部允が病没すると剃髪出家しますが、三人の娘があるものの、男子には恵まれなかったことから、頼朝のことは吾が子同然に思えたのかも知れないわね。因みに、娘の内の一人は安達盛長に嫁ぎ、伊東祐親の子息・祐清は娘婿になっているの。その後頼朝の死を受けて頼家が鎌倉幕府第二代将軍となるのですが、比企尼の娘婿・比企能員(よしかず)の娘(若狭局)が妻であったことからやがて悲劇が起きてしまうの。事の次第が気になる方は鎌倉歴史散策−小町・大町編の 妙本寺 の項を御笑覧下さいね。

と云うことで、今回の散策で一番のお目当てが実はこの宗悟寺だったの。難を逃れた若狭局が鎌倉より持参したと云う頼家の位牌が今に伝えられるなど、比企氏ゆかりの寺と聞き、大いに期待して訪ねてはみたのですが、残念ながら紹介した比企氏一族顕彰碑があることを除けば、境内にはそれを知らしめてくれるものは何も無いの。ここでは、時を経た今も地元で語り継がれる物語にしばし耳を傾け、定かではないものの、頼家の菩提を弔いながら月日を重ねていた若狭局の胸中に思いを馳せ、散策のよすがとすることにしますね。

本堂の左手に回り込むと墓苑の一角に宗悟寺を中興した氏俊を始め、森川氏累代のお墓があるの。【新編武蔵風土記稿】には「遥の後天正二十年當所の地頭 森川金右衞門氏俊寺を今の地に移して中興し 扇谷山宗悟寺と改號す 故に氏俊が法謚を桐蔭宗悟居士と稱せり 此時の僧を喜山傳悦と云 文祿三年四月廿七日卒す 氏俊は慶安三年七月廿日卒す 本尊釋迦を安ず 白山社 秋葉社 辨天社 稻荷社 鐘樓 寛永十四年鑄造の鐘をかく 銘文考證に益なければ略す」と記され、寺号は氏俊の法名・桐蔭宗悟居士に因み名付けられたものであることが分かるわね。その来歴からすると、宗悟寺は比企氏ゆかりの寺と云うよりも森川氏の菩提寺ね。

森川氏累代のお墓は昭和55年(1980)に東松山市の文化財に指定されているの。
現在は5基の宝篋印塔に石碑一基が横一列に並び立ちますが、左から三基目の墓塔が氏俊のものみたいね。

  一級河川角川起点碑
13:31着発
お地蔵さん
13:38着発

9.串引沼 くしひきぬま 13:46着 13:55発

若狭局の悲話が語り継がれることから宗悟寺の次に興味を覚えて訪ねてみたのがこの串引沼なの。谷奥に向かい歩いていると、やがて視線の先に何やら石碑が建てられているのが見えてきたので、ξ^_^ξはてっきり若狭局の悲話と串引沼の名の起こりを記した由来碑の類かしらんと思い、近づいて碑面に刻まれた文字を目で追ってみたのですが、実はこれ、串引沼の改修記念碑だったの。紹介した大雷神社の項でも触れましたが、この串引沼は神池として雨乞神事が行われた斎場でもあり、一方で水田の灌漑用水の貴重な供給源にもなっていたの。改修工事は昭和42年(1967)完成と比較的新しいものですが、参考までにその碑文を転載しておきますね。

石碑

串引溜池改修記念碑 埼玉県知事 栗原浩題額
古来大谷の水田は用水の源を溜池に依存す 就中串引沼は俗に大沼と称し 受益面積は五十町歩を超え 米作農民の生命たり 爾来水利組合を設けて これが維持管理に万全の策を講じたるも 幾星霜を経て漸く老朽化し 堤塘の侵蝕漏水等の欠陥を生じ 大改修の必要迫る 偶々時代の進歩に伴い 周囲の森林は伐採され ゴルフ場の建設せらるゝにより 貯水上憂慮すべき事態を惹起す 然るに之が改修工事には多額費用と長年月を要する為 極めて困難の実情にありし折 県の指導と責任の下に 国の援助を得て 昭和39年(1964)この工事に着手す

爾来県当局の綿密なる設計に基き 科学的新技術の粋を集め 三年継続事業として着工す その間関係地区民の熱烈なる協同一致の努力により 土地改良区の設置と 殊に川越カントリークラブの絶大なる協力援助は この工事の遂行を促進す かくして総工費1,300餘万円にして 国庫二分の一 県四分の一 地元四分の一負担の理想的大工事は昭和42年(1967)3月完成す これにより貯水量は約55,000tとなり 受益水田は用水の安殆を得たり 更にこれを機として水路300mの改修をも実施し 耕作者の利便に供す 今や関係地区民多年の宿望は貫徹され 長く旱害の患を絶つ 茲にその慶びを共にし 之を誌して後世に伝う 大岡第一土地改良区

〔 串引沼と若狭局の悲話 〕 比企一族の里である当地には幾つかの史蹟や伝承が伝えられています。その一つが若狭局の悲話です。比企能員の息女若狭局は二代将軍源頼家公の夫人になりましたが、夫の源頼家公が幽閉の地、伊豆修善寺で害せられるや位牌を携えて故郷に帰り、比丘尼山の麓に草庵大谷山寿昌寺を結び、夫の菩提を弔ったと伝えられています。若狭局は亡き夫頼家公の唯一の形見である鎌倉彫の櫛を眺めては往時を偲び涙にくれていました。痛ましい孫娘の姿を見るに見かねた比企禅尼は櫛を捨てて思いを断つように云いました。若狭局は泣く泣く櫛を沼に放ちました。この悲話を伝えるのが串引沼です。

比企一族顕彰会では、この悲話を題材にして、紀元2000年のミレニアム記念フェスティバルに於いて四回目になる郷土史劇「滅びざるもの」(湯山浩二作、東松山市民劇場制作)の上演にあわせて創作日本舞踊・若狭(比企一族顕彰会作詞、今藤長龍郎作曲、花柳せいら振付)を制作、発表致しました。また、比企一族顕彰会では紀元2002年の比企一族800年遠忌に際して比企氏を中心に郷土の歴史や伝統芸能、そして比企の山河をコンパクトに纏めた映像「比企讃歌」(斉藤次男演出、朝田健治撮影、和田篤郎読)を制作し上映しました。尚、この地に植樹された頼家桜は伊豆修善寺の篤志家・野田正尚氏より贈られたものです。この案内板は比企氏の800年遠忌に因んで設置致しました。
平成14年(2002)12月吉日 比企一族顕彰会

「庵主さま、きょうは二代将軍頼家さまの御命日。日頃から頼家さまの御心安らかたらんことを御仏にはお願いしてまいりましたが、きょうはとりわけ懇ろにお願いをさせていただきました」

「おお、左様であったな。公がお隠れあそばされて既にひと年が経つとは、いかにも月日の流れと云うものは早いものじゃのお」

「庵主さま、庵主さまのお導きでわたくしも今はこうして仏門に帰依する身ではございますが、一つだけ庵主さまにも隠し事をしておりました。それは生前に頼家さまが御愛用されておりましたこの櫛にございます。わたくしが鎌倉を離れる際に頼家さまの御形見として密かに持ち出し、今日まで肌身離さず保ち続けて来たものにございますが、御命日を迎えたのを機に思いを断ち切らんが為に捨て去ろうと存じます。その捨て場所ですが、庵主さまが普段から穏やかで心を映す鏡のようだと仰る大沼に沈めるのが頼家さまの御心にもかなう場所かと察せられるのですが」

「おお、よくぞ申された。実はのお、そなたが懐からその櫛を引き出しては涙する姿を幾度となく見てきておるのじゃ。心の迷いがその櫛のせいと分かっておっても、そなたの心の内を知れば無碍にも取り上げられんでのお。じゃが、いつかは別れねばならぬ。生あるもの、いずれは滅するのがこの世の理じゃ。そなたも、心の迷いをぬぐい去り、御仏の御心に沿うべく生きることこそが己を救う道と心得よ。ならば、そなたに迷いが起こらぬ内に直ぐにでも出掛けようぞ」

それから四半時もせずして大沼の畔に佇む二人の姿があったの。一人は庵主さまと呼ばれた女性で、源頼朝をして第二の母と称された比企禅尼。もう一人は鎌倉幕府二代将軍源頼家の愛妾・若狭局なの。やがて若狭局は懐紙に包まれた頼家公愛用の櫛を取り出すと手を添えて在りし日の頼家公の面影を偲び、涙にむせんだの。今は互いに仏門にある身とは云え、二人は祖母と孫娘の間柄で、孫娘・若狭局の、そのいじらしい姿に禅尼もまた涙するの。そうして禅尼のことばに促されるようにして若狭局は手にしていた櫛を沼に投げ入れたの。その手を離れた櫛は朝陽の中を緩やかな弧を描いて飛んだかと思うと、小さな水音を立てて水面に降り立ち、その姿を左右に揺らしながらやがて水底深く沈んでいったの。櫛が水面に消えた後には幾重にも折り重なった波紋と、若狭局が発する嗚咽だけが辺りにこだましていたの。それを傍らで見守っていた禅尼もまた然りで、その頬には幾筋かの涙が伝い落ちていたの。その後の二人を詳しく知る者は誰もいないのですが、それからと云うもの、二人が住した草庵のあった山を比丘尼山と呼び、若狭局が櫛を沈めた沼を誰云うとなく櫛引沼(串引沼)と呼ぶようになったの。とんと、むか〜し昔のお話しよ。

10.比丘尼山 びくにやま 13:56着 14:14発

比丘尼山

市指定史蹟 比丘尼山と横穴墓 昭和32年(1957)11月29日指定
比丘尼山は、伊豆に流されていた源頼朝を援助した比企郡司遠宗の妻が、夫の没後、比企禅尼となり、ここに草庵を営んだと云うことから呼ばれています。周辺には、二代将軍頼家の妻・若狭局が頼家亡きあと移り住んだと伝える場所などもあります。また、この丘陵の斜面には、七世紀に出現した横穴墓群が存在します。比企地方では吉見百穴、黒岩横穴群などがあり、市内では、この比丘尼山横穴墓群のみです。これらの横穴墓群は吉見百穴を中心に西に広がっており、同地方に移住した渡来系氏族の壬生吉志氏との関わりあいのある墓制とも考えられています。

串引沼の堰堤に引き続き、比丘尼山の周囲には遊歩道がめぐらされているの。残念ながら草木に覆われた藪の中に分け入る勇気は無くて未確認ですが、【武蔵国郡村誌】には「往時源頼家伊豆国修善寺に於て薨せし時 若狭局遺骨を奉し此村に来り 遺骨を葬り 庵を結び居住せしにより庵を修善寺と呼び 山を比丘尼山と呼ぶと口碑に伝ふ」とあるように、不確かながらもその草庵跡とされる場所がどこかに埋もれているのかも知れないわね。口碑と云うことで、ここでは頼家の遺骨云々と生々しさを増していますが、付近には主善寺の小名が残されていることなどからしても、頼家の菩提供養をするための草庵が山中に建てられていたのは間違いなさそうね。

比丘尼山

一方の横穴墓ですが、【武蔵国郡村誌】の記述は「山腹の軟岩を穿ち、内法高七八尺広八九尺の円形の穴三個あり 土人之を穴居の跡と云と雖も恐くは穴蔵の類ならんか」と冷ややかですが、考古学的な知見が得られていない当時のことなので仕方の無いこともかも知れないわね。横穴墓の数にしても単に三基だけじゃないと思うの。吉見百穴や黒岩横穴群も発掘調査の結果から初めて大規模なものと知れたのですから、比丘尼山横穴墓群にしても実際に発掘してみないとその数が分からないのじゃないかしら。前述の三千塚古墳群と考え併せると、多くの人々がこの地に移り住み、共通の文化圏が早くから形成されていたのは間違いないことのようね。嘗て渡来系の人々が荒れ地を相手に流した多くの涙と汗が、今はこうして稲穂となって秋風に揺れているの。

御案内が前後しますが、串引沼から程なくして道端に鳥居が立てられているのを見つけたの。社殿はと云うと、山の斜面を少し上った先に小さく鎮座する簡素なもので、扁額に荒神社とあるだけで詳しいことは分からず終い。それでも揮毫には大雷神社の宮司さんの名がありましたし、地理的にもそう離れてはいないので大雷神社の境外摂社としての扱いでも良いのかも知れないわね。気になるのは祀られている荒神さまの正体よね。普通、荒神さまと云うと囲炉裏や竈に祀られる竈神(かまどがみ)のことで、荒々しい性格は裏を返せば霊験灼かな神さまであることの証しでもあるの。

竈は炊事の要であり、食は生活の根源をなすものであることから竈神は単に火の神としてしてでなく、食住を支える家の守り神にもなるの。日々の糧が得られるかどうかは人々の最大の関心事。そこから穀物の神、農耕の神にも転じていくの。大雷神社の神さまが農耕に不可欠の降雨をもたらす雷さまなら、この荒神社には田の神さまに姿を変えた竈神が祀られているのではないかしら? But ムセキニン・モードで記述していますので呉々も鵜呑みにしないで下さいね。(^^:

11.森林公園 しんりんこうえん 14:30着

森林公園

県道R307を道なりに歩いて今回の散策の最終目的地・森林公園の中央口に到着です。訪ねた時にはライトアップ・イルミネーションの紅葉見ナイトが開催中でしたので、夕暮れまで園内をぶらり散策した後に紅葉のライトアップを見てから帰宅しましたが、陽射しのある日中ならまだしも、夜間は急に冷え込んで来ますので、イルミネーションの観覧を含めて追体験してみたいなと思われた方はお出掛け時の服装には注意が必要よ。出来たら荷物になるのは覚悟の上で、いざと云う時に羽織れるものを用意した方が安心よ。尚、ライトアップ・イルミネーションは 紅葉見ナイト に以前訪ねたときの様子を掲載してありますので、今回は省略しますね。

余談ですが、ライトアップ・イルミネーション開催時にはこの中央口から発着する森林公園駅行のシャトル・バスがあるのですが、それでも夕暮れ時以降なの。それ以外の場合には園内を歩いて南口にお廻り下さいね。基本的に路線バスは通年を通して南口が発着の起点( but 土日祝日のみ )になっているの。尤も、南口から森林公園駅までは遊歩道が通じていますので、路線バスを頼らずに駅まで歩くと云う健脚をお持ちの方は無理にはお引き留めしませんが。(^^;


比企氏ゆかりの寺院・宗悟寺と串引沼の悲哀伝説に惹かれて訪ね歩いた今回の散策ですが、残念ながらそれを物語る明らかな物証が残されている訳でもないの。それでも、語り継がれてきた物語の舞台に立てば、遙かなる時を経ているにも関わらず、当時を生きた人々の息づかいまでもが聞こえてきそうな気がしてくるの。やはり、印象に残るのは若狭局の悲哀伝説で、串引沼の畔に立てば、若狭局が鎌倉からこの地に逃れ来たのが虚構だとしても、心のどこかでそうであって欲しいと願うもう一人のξ^_^ξがいたりするの。いかがですか、穏やかな秋の一日、あなたも比企禅尼と若狭局の二人の女性の心模様に思いを馳せながら里山を散策されてみては。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
「比企丘陵−風土と文化」刊行会発行 比企丘陵−風土と文化
まつやま書房発行 岡田潔著 東松山の地名と歴史
東松山市発行 東松山市史・資料編
東松山市発行 東松山の歴史
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など






どこにもいけないわ