東松山市大谷には比企氏一族に纏わる逸話が今でも語り継がれているの。陽射しの温もりが恋しくなり始めた一日、伝説の地に里山の秋を訪ねてみましたので紹介しますね。補:掲載画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;
1.冑山BS かぶとやまばすてい 9:13着発
2.甲山古墳 かぶとやまこふん 9:13着 9:28発
この古墳の正式な発掘調査はなされていませんが、江戸時代の地誌である【新編武蔵風土記稿】には「この塚を掘った時に、石槨の中より甲冑や馬上の塑人(埴輪)・玉・鏡・折れた大刀などが出土した」と記載されており、この遺物の内容や、近年大里村教育委員会が採集した円筒埴輪の破片から、築造時期は古墳時代後期(六世紀頃)と推定されています。この甲山古墳と共に、北へ約1Km先の大字箕輪にも、とうかん山古墳と呼ばれる全長74mの前方後円墳があり、当時、この地域にはこれらの巨大な古墳を造れる、大きな勢力が存在していたと考えられています。平成4年(1992)3月 埼玉県・熊谷市教育委員会
かぶとやまですが、この案内板に限らず、地名には冑山を、
古墳を指す場合には甲山の字を充てているみたいね、理由は分からないけど。
3.根岸家住宅 ねぎしけじゅうたく 9:36着 9:51発
〔 根岸友山・武香の功績 〕 根岸家は、中世に活躍した熊谷次郎直実の末裔と云われ、戦国時代には、小田原北条方の松山城主・上田氏に仕え、後に帰農し甲山村に土着したと伝えられる。根岸家は、江戸時代中期、享保元年(1716)甲山村の名主となり、宝暦4年(1754)には箕輪村の名主を兼ね、総計80町歩以上を所有する豪農となった。
根岸友山は、文化6年(1809)に生まれ、幼名房吉。友山は号である。16歳で11代目伴七を襲名するが文武に励み、剣を北辰一刀流千葉周作、学問を芳川波山、林大学に学ぶ。友山は自邸内に私塾「三餘堂(さんよどう)」と剣術道場「振武所(しんぶしょ)」を設け、近郷の子弟の就学の機会を与えた。また、名主として治水築堤に尽力するが、天保10年(1839)荒川堤修復に際し、農民が川越藩へ訴え出る騒動(蓑負騒動)が起き、友山は農民側に与したため、江戸十里四方追放の刑を受ける。赦免後、尊王攘夷に傾倒し、寺門静軒や安藤野雁らの文人や長州・薩摩藩士との交流を深め、文久3年(1863)清河八郎らと共に浪士組に参加し、京へ上洛する。その後、一時近藤勇らと行動を共にするが、帰郷し江戸警護の新徴組に加わる。明治新政府になってからは息子・武香と共に文化活動に努めた。明治23年(1890)12月没す。享年82歳。大正元年(1912)、生前の功績により従五位を追贈される。墓地は県指定旧跡。
根岸武香は、天保10年(1839)に友山の二男として生まれる。幼名新吉。剣を千葉周作、学問を寺門静軒、安藤野雁に学ぶ。明治元年(1868)地方大惣代に任ぜられて以降、地方行政に係わり、初期学制の確立に尽力した。同12年(1879)の埼玉県議会開設と共に県議会議員に選出され副議長となり、翌年第二代議長となる。同27年(1894)には貴族院多額納税者議員となる。一方、考古家として同20年(1887)東京帝国大学の大学院生・坪井正五郎と吉見百穴の発掘を行い、日本の考古学に多大な貢献を果たした。また、考古遺物や古銭、古美術品、古文書等の収集に努め、一般に公開した。更に同17年(1884)、江戸幕府が編纂した【新編武蔵風土記稿】を内務省地理局から全80冊の刊行を実現した。明治35年(1902)12月没す。享年64歳。
このように、根岸友山・武香父子は大里町の近世・近代に多大な功績を残した。よってここに二人の功績を称え、町の偉人として後世に末永く伝えるものである。平成16年(2004)3月 熊谷市 根岸友山・武香顕彰会
現在は熊谷市の文化財(建造物)に指定される根岸家の長屋門ですが、西室は根岸家の歴史を始め、友山・武香父子に纏わる史料などを展示する友山武香ミュージアムとして無料開放されているので、是非、お立ち寄り下さいね。係員の方がいらっしゃる訳ではありませんので質疑応答は不可ですが、その分気兼ねなく時間を掛けて見学することが出来るの。因みに、この西室は嘗て振武所として利用されていたところだそうよ。
熊谷市史跡 三餘堂跡 平成19年(2007)6月建
木の根元に三餘堂跡の案内標が立つのですが、
実際の三餘堂はこの木ではなくて、榧の木の後方に建てられていたみたいよ。
4.冑山共同墓地 かぶとやまきょうどうぼち 9:51着 10:00発
〔 素山居士之墓 〕 素山居士は甲山(冑山)地蔵庵に住した僧である。文化5年(1822)武州埼玉郡平方村(現・越谷市)に生まれ、廃疾のため幼にして僧となった。性慈、志の高い人で、俗化した佛家に背を向け、終身資格を求めなかった。庵生活に甘んじ、児童を教育して倦むことを知らず、読書を唯一の楽しみとし、詩を賦し淡々としていた。そして安政4年(1857)4月24日当地で没した。寿五十、法名を法蓮社燈譽礙光傳大徳と云う。墓誌は文通の友、寺門静軒の撰文である。有志某建立 昭和55年(1980)□月□日
〔 根岸友山翁 〕 翁は文化6年(1809)信保の長男として生まれ、通称伴七、晩年友山と号した。儒学を山本北山と寺門静軒に学び、剣を千葉周作に習い北辰一刀流に長じた。邸内に私塾三餘堂を設け、学者を招いて郷党を育成すると共に、勤王の志士、浪士、村民に剣を授け、また、郷土の治水に努力し、多大の功績を残している。維新の際は急ぎ上洛して「吐血録」を建白して国事に奔走した。晩年は悠々自適、農事に親しみ、明治23年(1890)82歳で没し、従五位を追贈せられた。その墓は県史跡として指定保存されている。
〔 寺門静軒翁 〕 翁は儒者であるが、一面奇行、美行、超風脱俗の諸要素の混在した通人でもあり、変わり種でもあった。死ぬ19年前に自分の墓誌を書いているが、その墓誌によると寛政8年(1796)江戸に生まれ、名は良、諱名は子温、又の名を弥左衛門と称した。静軒はその号である。幼にして父母を失い、生母の実家に引き取られて人となった。「長じて磊落俊、邁家、道頓に寒し」と誌されているから、彼の性行の一端が窺える。その後、大いに発憤して勉学し、各地を周遊して見聞を広め、学識の向上に努めた。
天保(1830-44)の頃、彼の著書【江戸繁昌記】が幕府の忌諱に觸れて江戸を追われ、儒者として立てなくなってから、新潟毛武地方をはじめ、各地に漂泊の旅を続け、万延元年(1860)妻沼町に居を移して「両宜塾」を開いて塾生の薫育に努めた。静軒が旧知の間柄であった冑山の根岸友山に迎えられたのは没前一年程のことであった。【静軒待選】の中に「天保丁酉(1837)夏、武州冑山に遊び、易を根岸氏の三餘堂に於いて講じ、これを賦して別を留む」という題詩はよくその間の消息を物語っている。三餘堂は根岸家邸内にあって、友山の開いた私塾である。静軒は明治元年戊辰(1868)3月24日病没、73歳。その円筒形の墓標は根岸家の墓地内にある。熊谷市指定旧跡
5.藤山BS ふじやまばすてい 10:06着発
当初の予定では、この藤山バス停を起点にして歩く積もりでいたの。これから訪ねる大谷瓦窯跡へは、このバス停から少し戻った所にあるローバーのカーショップ脇の道を辿るのですが、角地に立つ電柱脇には 大谷の伝説コース Oya Legend Course と記された道標があるので迷うこともないわね。後は道なりに歩けば、視界の左手に大谷瓦窯跡のある小山が見えてくるの。途中の景観を交えて大谷瓦窯跡までの道案内をしますので、気になる方は左掲の画像をクリックしてみて下さいね。But スライドは完全マニュアル動作ですのでご協力願いますね。
6.大谷瓦窯跡 おおやかわらかまあと 10:25着 10:32発
大谷瓦窯跡(おおやかわらかまあと)昭和33年(1958)10月国指定
更に、高熱に耐えられるよう、焚き口の火床は粘土を積み固め、側壁は完型の瓦を並立して粘土で固定し、床面は粘土と粘板岩の細片を混ぜて固め段を作るなど、補強工作が慎重に行われています。大谷瓦窯跡は昭和30年(1955)5月に、二基調査されました。保存がほぼ完全であった一号窯跡が保存されています。出土遺物は平瓦が大部分で、竹瓦が数個と蓮華文のある瓦当一個が発見されています。昭和48年(1973)3月 文化庁 埼玉県・東松山市教育委員会
国指定史跡 大谷瓦窯跡 昭和33年(1958)10月8日指定 東松山市教育委員会
大谷瓦窯跡は、昭和30年(1955)5月に発掘調査が行われ、検出された二基の瓦窯跡の内、保存の良い一基が昭和33年(1958)に国指定史跡になりました。瓦窯跡は、瓦を専門に焼いた窯のことで、瓦の製造は飛鳥時代(7世紀頃)以降盛んになる寺院建築とともに始まったものです。この瓦窯跡は、山の斜面を利用した「登窯」とよばれる半地下式のもので、全長は7.60mあります。窯は、焚口部・燃焼部・焼成部・煙道部の各部から成っています。この窯跡の特徴としては、焼成部に瓦を利用して階段状に13の段が造られていることがあげられます。出土遺物は、軒丸瓦・平瓦・丸瓦等があり、こうした瓦から窯跡は、7世紀後半頃と思われます。付近一帯は周辺に瓦窯群が埋没しており、昭和44年(1969)に県選定重要遺跡に選定されています。
〔 オランダ風車 〕 古くからヨーロッパなどでは、風車は自然の風を動力エネルギーとし、製粉、灌漑、そして揚水などに利用されています。現在では、環境の保護を目的に、クリーンなエネルギー資源として風力も見直されており、地球規模で更なる利用の実用化が取り組まれています。風車にも色々な種類や形があり、オランダの風車がよく知られているところです。東松山市はウォーキングの日本スリーデーマーチの開催地として、オランダのインターナショナルフォーデーズ開催地のナイメーヘン市と姉妹都市提携を結んでいます。 大岡市民活動センター
ウォーキングの国際大会を通じ両市の交流が深められており、このことから大岡市民活動センターのイメージシンボルとして、又、オランダの古い落ち着いたレンガ造りの街並みをイメージした建物に合わせて、オランダ風の風車をモデルとして建てました。建物は鉄筋コンクリート造で、地下一階地上3階建です。高さは約13m。羽根の直径は11.2mです。地下1階は野外活動で使用する道具や資材を収納する倉庫となっています。地上1階は、市民や子どもたちのミニギャラリーとして使用できます。尚、2・3階は機械室です。平成14年(2002)9月 東松山市 大岡市民活動センター
雷電山古墳入口
ここで次の大雷神社に向かう前に農林公園まで足を延ばしてみたの。以前訪ねたときにはポピーの花が咲き乱れ、丘の上から見下ろすと、絨毯を敷き詰めたようで、艶やかな景観が広がっていたの。今回も、季節は異なるけど、何かの花々が、或いは咲いているかも知れないわ−と淡い期待を持ちつつ足を向けてみたの。それに、公園には東屋があり、ベンチも置かれていることを知っていたので早めの昼食タイムとトイレ休憩を兼ねての寄り道と云うわけ。訪ねてみれば、やはり−と云うか、案の定と云うか、季節外れ故に、花を愛でることは出来ずに終えてしまいましたので、桜やポピーの花が咲く時期以外はあまりお勧め出来ないわね。それでもお弁当を広げるには良いところよ。
ポピーが咲く頃の景観が気になる方は 東松山農林公園のポピー を御笑覧下さいね。
CMでした。
お腹を満たして一息入れたところで再び雷電山古墳入口まで戻って来たの。道路脇には「←雷電山古墳」と書かれた大きな案内板が建てられているのですが、道を挟んで反対側に立つ「←川越カントリークラブ」の案内板の方が目立つかも知れないわね。案内板の矢印に従い、脇道に入りますが、傍らを通り過ぎる車は皆プレーをしに来た方か、ゴルフ場の関係者のものばかり。このまま歩いていたらクラブハウスの前に出てしまうのじゃないかしら、大雷神社へはどこかで更に脇道に入らなくてはいけなかったのじゃないかしら−などと不安になりつつ歩いていると、小さな覆屋を見つけたの。中には左側から珍しい像容の宇賀弁財天に、如意輪観音、馬頭観音にお地蔵さまと、この地域の人々の嘗ての信仰模様が窺える石仏たちが鎮座していたの。それはさておき、辺りを見渡すと数軒の民家があるので、ゴルフ場の敷地は未だ先のことと知り、もう少しだけ道奥を目指してみたの。
7.大雷神社 だいらいじんじゃ 12:22着 12:40発
気が付けば道の両側にはグリーンが広がり、完全にゴルフ場の敷地内なの。クラブハウスでも見えてきたらその時は諦めて引き返そうと思いながら歩いていると、ようやく車道から離れるようにして小径があるのを見つけたの。それが大雷神社の参道だったの。入口前にあった三千塚古墳群の案内板に依ると、大雷神社は雷電山古墳の墳頂部に鎮座していることになるの。雷電山古墳は三千塚古墳群の中心的な存在で、大雷神社も古くから地域の信仰を集めるなど、この辺りは特別なパワースポットとみなされていたみたいね。
三千塚古墳群 昭和31年(1956)2月市指定史跡
大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。三千塚古墳群は、明治20年-30年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。三千塚古墳群からは、古墳時代後期(6-7世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・管玉など)が出土しています。雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に作られています。この古墳は、高さ8m・長さ80mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから5世紀初頭(今から1,500年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、6世紀初頭から7世紀後半にかけて、造られつづけた古墳であると思われます。昭和52年(1977)3月 東松山市教育委員会
明治百年記念之碑 大雷神社由緒沿革
当神社は伊邪那美命の御子大雷命を奉斎し、御創建は今から1,110餘年前清和天皇の御代貞観元年(859)巳酉4月12日と社伝に云い伝えられている。貞観6年(864)辛亥7月22日には武蔵従五位下大雷神従五位上を授けられ、三代実録武蔵風土記等の古文献にも記載されている如く、古代より有名な神社である。古代より当地は山間の地にして水利の便非常に悪く、五穀良く稔らず、大神を祭祀してより五穀豊穣が伝えられ、盛夏干旱の時、村民挙げて降雨の祈願をし、遠近郷の農民も降雨の祈願に詣でて深く信仰された社殿は、雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し、社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く、古考の説に、此の地は武蔵国司の墓と伝承され、附近一帯には陪臣の墓と思われる数百の古墳の群が散見せられた。
串引沼は大雷神社の御神池とされ、祝詞をあげてもらい、有志数名が幣束(御神体)を手に沐浴潔斎したの。その後、沼畔に設けられた斎場に続き、神社の斎場でも降雨祈願をしたの。また、あるときは御神井の水を全て汲み上げ、竹筒に入れて持ち帰ると降雨祈願のタネ水に利用し、残りは全て境内に集まった村人たちに浴びせたの。因みに、御神井の引き綱は2Kmも離れた神光谷まで届いたと云い伝えられ、さすがにそれはマユツバものですが、御神井が旱魃時にも涸れない貴重な水源だったのは間違いないようね。
大雷神社祭礼相撲場跡 市指定史跡
旧大谷村の総鎮守大雷神社の社殿を中心に、辻(相撲場)が二ヶ所あり、一の辻・二の辻と呼ばれ、一の辻は大相撲に、二の辻は草相撲に使用されていました。辻には300席ぐらいの桟敷席が、傾斜地を巧みに利用して造られていました。現在は二の辻だけが残っています。大雷神社の相撲は、江戸時代中頃から行なわれていたと伝えられています。相撲の興業には、領主だけでなく関東取締役の特別の許可が必要でした。相撲興業には、近在の人々が大勢集まり、関東三代辻相撲の一つと云われる程に賑わいました。この日、祝酒とともにぼたもちを相撲見物の人たちにふるまったことから大谷のぼたもち相撲とも呼ばれ、大変親しまれていましたが、明治20年頃を最後にその姿を消しました。昭和61年(1986)3月 東松山市教育委員会
相撲は元々はその力と技を競い合い、五穀豊穣や豊年を占う神事として行われたものなの。現在の大相撲が格闘技として職業化されたものなら、各地で行われていた奉納相撲は神さまに感謝と祈りを捧げる神事でもあったの。とりわけ、この大雷神社で行われていた祭礼相撲は半端じゃなかったみたいね。因みに、神社前方にあったと云う大相撲用の一の辻ですが、御神井と同じく、昭和37年(1962)のゴルフ場造成時に削られてしまったの。
ここで、大雷神社を後にする前に地元に伝えられる不思議なお話しを一つ紹介してみますね。
それが雷電山の山姫伝説なの。
この大岡の辺りでは雷電山に住む山姫さまが秋晴れの日に年に一度の踊りをすると云い伝えられておってのお、その日は耳を澄ますと楽の音が山からの風に乗り、麓の村々にも聞こえて来たそうじゃ。その妙なる調べに村の若いもんは山姫さまの踊りはさぞかし美しかろうて、是非ともこの目で一度は見てみたいものよと思うておったそうじゃ。その山姫さまじゃが、お気の毒なことに一本足じゃそうで、二本足がそろうた者を見ると呪いをかけるそうな。そんなんで、山姫さまの踊りを見るんには同じように一本足で歩いて雷電山に登らねばならず、おまけに途中で年に二度も実をつけるという栗の木を見つけて17個ずつ栗を拾って神前に供えなくてはならぬそうじゃ。こん17個と云うんは山姫さまの歳に因んだ数だそうじゃが、山姫さまはいっつも17歳のまんまで年を取らぬそうじゃ。それはさておき、一年に二度実をつける栗の木などあるわけがなかろうて。そんなんで山姫さまの踊りを見ようと山に登ろうとする者は誰一人おらんかったそうじゃ。
そんな、ある年のことじゃった。一人の若者が一本足で雷電山に登ると17個の栗を拾い集めて大雷神社にお供えしたそうじゃ。じゃがのお、若者は陽もすっかり暮れたと云うんにその日は家にも帰らず、心配した村人達があっちこっち探してみたんじゃが、次の日に、ようやく家の屋根の棟にしがみついたまま眠りこけておった若者の姿を見つけたそうじゃ。そうして皆して若者を屋根から降ろしたんじゃが、着物の裾には一匹の大きな蝦蟇蛙が食らいついておったそうな。若者はその後も三日三晩眠り続け、目が覚めても何も喋ることなく、とうとうそのまま年老いてしまったそうじゃ。すっかり老いてしまった若者が、一度だけ山姫さまの踊りの日に山姫さまの姿を描いたことがあるそうじゃが、見ると足は片足で、それも蝦蟇蛙の足のようじゃったそうな。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。
最近は見掛ける機会も少なくなりましたが、田圃の中に立つ一本足の案山子は元々は農耕神としての神霊の投影でもあるの。一方で、春になると雪解けと共に里に降りてきて田の神となり、秋には再び山に帰ると信じられていた山の神もまた農業神でもあるの。蝦蟇蛙のような一本足をした山姫さまの姿は山の神さまと雖も些か妖怪じみていますが、神霊達が神聖さを失い、妖怪化した例はこの大岡に限らず、日本各地に残されているの。裏を返せば一本足の姿は元々は山の神さまであったことの証でもあるの。ここでは山姫さまと、女性神として語られていますが、必ずしも山の神=女性神とは限らないようで、男神として語られることもあるの。尤も「我が家の山の神云々」と云うときは専ら女性神だけど。(^^; それはさておき、大岡を訪ねる際には、くれぐれも蝦蟇蛙にはお気をつけ下さいね。
蝦蟇蛙(がまがえる)とはヒキガエルのことよ。略して蝦蟇とする場合もあり、
アメリカ原産のウシガエルが伝えられる前までは、大きな蛙を表す代名詞でもあったの。
地図を眺めていると元来た道を戻らずとも、麓の大谷に出る近道がありそうな予感がしたの。狭いながらも一応は舗装路で、右手にはゴルフ場の芝生が広がり、プレーする方の姿も見受けられた安心感もあり、出たとこ勝負で何とかなるんじゃないの、地球は丸いことだし・・・と脳天気な判断で分け入ってみたのが御覧の小道なの。途中ではたわわに実を付けた柿の木が季節が秋であることを改めて知らしめてくれたの。実は、後で知ることになったのですが、この近道は大雷神社の参道でもあったの。麓に抜けたところに大雷神社の一の鳥居が建てられていたと云うわけ。
参道の入口には二基の石灯籠が建ちますが、その前にあるのが角川(すみかわ)に架かる小さな雷電橋。今でこそ参道の左手に舗装路も整備されていますが、嘗てはこの小橋を渡り、村人達はことある毎に大雷神社にお参りしていたのでしょうね、きっと。気付かなければそのまま通り過ぎてしまいそうな小橋ですが、村人達の祈りを陰ながら支え続けて来た橋でもあるの。因みに、この雷電橋の右手一帯の土地の小名が城ヶ谷(じょうがやつ)で、嘗て比企氏の館が建てられていた場所だとされているの。
また、次に訪ねる宗悟寺の南西に位置して梅ヶ谷があるのですが、昔から梅の木が多く、若狭局が隠棲したところと伝えられているの。こちらも地図上に見つけた梅ヶ谷沼を目印にして後日訪ねてはみたのですが、残念ながらゴルフ場の敷地内にあり、接近遭遇は諦めモードなの。と云う訳で、梅ヶ谷に関しては掲載出来る写真が無いの。ゴメンナサイ。意のある方はチャレンジしてみて下さいね。
8.宗悟寺 そうごじ 13:13着 13:29発
宗悟寺 曹洞宗 豐嶋郡赤塚村松月院の末 慶安元年寺領十五石餘の御朱印を賜はれり 寺傳に當寺は鎌倉將軍頼家 元久元年七月伊豆國修禪寺に於て害せられし後 其妾若狹局當所に來て剃髮染衣の身となり 前にしるせし比丘尼山に草庵を結び 頼家追福の爲として一寺を創草し 則頼家の法謚長福寺殿壽昌大居士の文字 及村名を取て大谷山壽昌寺と號すと云 按に若狹局か當所へ隱棲せしことは 他に所見なけれと 彼局は比企判官能員が女にて 頼家の長男一萬の母なるよし 將軍執權次第に載す 又【東鑑】養和二年十月の條に 比企四郎能員云々 武藏國比企郡を以て請所と爲などみゆれば 頼家沒落後 當所は父能員が舊領なる 因て以隱れ住せしならん【新編武蔵風土記稿】
本堂を前にして左手には森川氏俊二百回忌供養の法界塔が立ちますが、右隣には比企一族顕彰碑が建てられているの。
平安時代末期から鎌倉時代の初期に亘る約100年の間、郡司として比企地方一帯を支配し、一族をあげて源頼朝公を援け、鎌倉武家政権の創立の原動力として大きな役割を果たした比企氏の足跡は、その広さと歴史的意義に於いて、正に私達の郷土の歴史の原点であります。今や、この比企一族滅んで800年、その遠忌に当たる2002年を目前にして、この度東松山松葉町郵便局開局10周年フェスティバルとして行われた歴史劇、湯山浩二作・東松山市民劇場制作「滅びざるもの−乱世に燃ゆる比企一族の記」は多くの人々に深い感銘を与え、この偉大な先人の姿を甦らせました。
ここに郷土を愛し、比企一族を愛する私達有志が相計り、日本歴史の一大変革に果たした郷土の先人の偉業を讃え、永く後世に伝えるため、多くの方々の協賛を得て、若狭局が持ち帰ったと伝えられる二代将軍頼家公の位牌を安置する縁深い扇谷山宗悟寺に、その顕彰碑を建設することとしました。平成6年(1994)11月吉日 比企一族顕彰碑建設委員会 清水 清 撰文 吉田 鷹村 書
【吾妻鏡】の壽永元年(1182)10/17の条には
能員が姨母(比企の尼と號す)當初武衞の乳母たり
而るに永暦元年豆州に御遠行の時 忠節を存ずる餘り
武藏の國比企郡を以て請け所と爲し 夫掃部の允を相具す
掃部の允下向し 治承四年秋に至るまで 二十年の間 御世途を訪い奉る
とあるように、伊豆に配流となった源頼朝に随い、世話をしたのが乳母の比企尼と夫・掃部允(かもんのじょう)に安達盛長なの。殊に比企尼は後に頼朝からは第二の母と呼ばれる程献身的に努めているの。夫君の掃部允が病没すると剃髪出家しますが、三人の娘があるものの、男子には恵まれなかったことから、頼朝のことは吾が子同然に思えたのかも知れないわね。因みに、娘の内の一人は安達盛長に嫁ぎ、伊東祐親の子息・祐清は娘婿になっているの。その後頼朝の死を受けて頼家が鎌倉幕府第二代将軍となるのですが、比企尼の娘婿・比企能員(よしかず)の娘(若狭局)が妻であったことからやがて悲劇が起きてしまうの。事の次第が気になる方は鎌倉歴史散策−小町・大町編の 妙本寺 の項を御笑覧下さいね。
と云うことで、今回の散策で一番のお目当てが実はこの宗悟寺だったの。難を逃れた若狭局が鎌倉より持参したと云う頼家の位牌が今に伝えられるなど、比企氏ゆかりの寺と聞き、大いに期待して訪ねてはみたのですが、残念ながら紹介した比企氏一族顕彰碑があることを除けば、境内にはそれを知らしめてくれるものは何も無いの。ここでは、時を経た今も地元で語り継がれる物語にしばし耳を傾け、定かではないものの、頼家の菩提を弔いながら月日を重ねていた若狭局の胸中に思いを馳せ、散策のよすがとすることにしますね。
森川氏累代のお墓は昭和55年(1980)に東松山市の文化財に指定されているの。
現在は5基の宝篋印塔に石碑一基が横一列に並び立ちますが、左から三基目の墓塔が氏俊のものみたいね。
9.串引沼 くしひきぬま 13:46着 13:55発
爾来県当局の綿密なる設計に基き 科学的新技術の粋を集め 三年継続事業として着工す その間関係地区民の熱烈なる協同一致の努力により 土地改良区の設置と 殊に川越カントリークラブの絶大なる協力援助は この工事の遂行を促進す かくして総工費1,300餘万円にして 国庫二分の一 県四分の一 地元四分の一負担の理想的大工事は昭和42年(1967)3月完成す これにより貯水量は約55,000tとなり 受益水田は用水の安殆を得たり 更にこれを機として水路300mの改修をも実施し 耕作者の利便に供す 今や関係地区民多年の宿望は貫徹され 長く旱害の患を絶つ 茲にその慶びを共にし 之を誌して後世に伝う 大岡第一土地改良区
「庵主さま、きょうは二代将軍頼家さまの御命日。日頃から頼家さまの御心安らかたらんことを御仏にはお願いしてまいりましたが、きょうはとりわけ懇ろにお願いをさせていただきました」
「おお、左様であったな。公がお隠れあそばされて既にひと年が経つとは、いかにも月日の流れと云うものは早いものじゃのお」
「庵主さま、庵主さまのお導きでわたくしも今はこうして仏門に帰依する身ではございますが、一つだけ庵主さまにも隠し事をしておりました。それは生前に頼家さまが御愛用されておりましたこの櫛にございます。わたくしが鎌倉を離れる際に頼家さまの御形見として密かに持ち出し、今日まで肌身離さず保ち続けて来たものにございますが、御命日を迎えたのを機に思いを断ち切らんが為に捨て去ろうと存じます。その捨て場所ですが、庵主さまが普段から穏やかで心を映す鏡のようだと仰る大沼に沈めるのが頼家さまの御心にもかなう場所かと察せられるのですが」
「おお、よくぞ申された。実はのお、そなたが懐からその櫛を引き出しては涙する姿を幾度となく見てきておるのじゃ。心の迷いがその櫛のせいと分かっておっても、そなたの心の内を知れば無碍にも取り上げられんでのお。じゃが、いつかは別れねばならぬ。生あるもの、いずれは滅するのがこの世の理じゃ。そなたも、心の迷いをぬぐい去り、御仏の御心に沿うべく生きることこそが己を救う道と心得よ。ならば、そなたに迷いが起こらぬ内に直ぐにでも出掛けようぞ」
それから四半時もせずして大沼の畔に佇む二人の姿があったの。一人は庵主さまと呼ばれた女性で、源頼朝をして第二の母と称された比企禅尼。もう一人は鎌倉幕府二代将軍源頼家の愛妾・若狭局なの。やがて若狭局は懐紙に包まれた頼家公愛用の櫛を取り出すと手を添えて在りし日の頼家公の面影を偲び、涙にむせんだの。今は互いに仏門にある身とは云え、二人は祖母と孫娘の間柄で、孫娘・若狭局の、そのいじらしい姿に禅尼もまた涙するの。そうして禅尼のことばに促されるようにして若狭局は手にしていた櫛を沼に投げ入れたの。その手を離れた櫛は朝陽の中を緩やかな弧を描いて飛んだかと思うと、小さな水音を立てて水面に降り立ち、その姿を左右に揺らしながらやがて水底深く沈んでいったの。櫛が水面に消えた後には幾重にも折り重なった波紋と、若狭局が発する嗚咽だけが辺りにこだましていたの。それを傍らで見守っていた禅尼もまた然りで、その頬には幾筋かの涙が伝い落ちていたの。その後の二人を詳しく知る者は誰もいないのですが、それからと云うもの、二人が住した草庵のあった山を比丘尼山と呼び、若狭局が櫛を沈めた沼を誰云うとなく櫛引沼(串引沼)と呼ぶようになったの。とんと、むか〜し昔のお話しよ。
10.比丘尼山 びくにやま 13:56着 14:14発
竈は炊事の要であり、食は生活の根源をなすものであることから竈神は単に火の神としてしてでなく、食住を支える家の守り神にもなるの。日々の糧が得られるかどうかは人々の最大の関心事。そこから穀物の神、農耕の神にも転じていくの。大雷神社の神さまが農耕に不可欠の降雨をもたらす雷さまなら、この荒神社には田の神さまに姿を変えた竈神が祀られているのではないかしら? But ムセキニン・モードで記述していますので呉々も鵜呑みにしないで下さいね。(^^:
11.森林公園 しんりんこうえん 14:30着
余談ですが、ライトアップ・イルミネーション開催時にはこの中央口から発着する森林公園駅行のシャトル・バスがあるのですが、それでも夕暮れ時以降なの。それ以外の場合には園内を歩いて南口にお廻り下さいね。基本的に路線バスは通年を通して南口が発着の起点( but 土日祝日のみ )になっているの。尤も、南口から森林公園駅までは遊歩道が通じていますので、路線バスを頼らずに駅まで歩くと云う健脚をお持ちの方は無理にはお引き留めしませんが。(^^;
比企氏ゆかりの寺院・宗悟寺と串引沼の悲哀伝説に惹かれて訪ね歩いた今回の散策ですが、残念ながらそれを物語る明らかな物証が残されている訳でもないの。それでも、語り継がれてきた物語の舞台に立てば、遙かなる時を経ているにも関わらず、当時を生きた人々の息づかいまでもが聞こえてきそうな気がしてくるの。やはり、印象に残るのは若狭局の悲哀伝説で、串引沼の畔に立てば、若狭局が鎌倉からこの地に逃れ来たのが虚構だとしても、心のどこかでそうであって欲しいと願うもう一人のξ^_^ξがいたりするの。いかがですか、穏やかな秋の一日、あなたも比企禅尼と若狭局の二人の女性の心模様に思いを馳せながら里山を散策されてみては。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥
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〔 参考文献 〕
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
「比企丘陵−風土と文化」刊行会発行 比企丘陵−風土と文化
まつやま書房発行 岡田潔著 東松山の地名と歴史
東松山市発行 東松山市史・資料編
東松山市発行 東松山の歴史
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など
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